2018年02月18日

『リバーズ・エッジ』

リバーズ・エッジリバーズ・エッジ。そこはこの小さな世界の果て。
岡崎京子先生の原作は読んだことはない。だから1994年に発刊された原作との比較は出来ない。
ただ1990年代に青春時代を過ごした者としては、「失われた20年」が始まった時期を生きた者としては、この群像劇に理解は出来ても共感はしない。出来ないのではない、あえて「しない」のだ。

夜釣りをする2人の少年の会話に「牧瀬里穂」というキーワードを耳にした途端、アラフォーの私は何の抵抗もなく、素直にあの時代を思い出した。
バブル崩壊による急速な景気後退は、大人たちから自信を奪った。その自信を奪われた大人を見て、子供たちは希望を失った。やがて希望を失った子供たちが大人ぶる。暴力、セックス、ドラッグで弱い自分を取り繕う。
だが心が子供のまま。だから弱さを偽物の強さで誤魔化そうとする。それがイジメ、望まぬ妊娠、嫌がらせ、そして殺人へと繋がっていく。そんな時代を思い出した。

1995年の阪神大震災で身近な命に関する認識がリセットされたかと思いきや、オウム真理教関連事件や酒鬼薔薇聖斗事件で他人の命が軽視される蛮行が明るみになったあの時代。誰もが閉塞感に苛まれ、誰もがその閉塞感からの脱却を望みながら、他人を蹴落とすことにその活路を見出そうとしていたのではないだろうか。間違った道だと分かっていても、その道を歩もうとしていたのではないだろうか。

同性愛者であることを隠す山田一郎は、イジメられても抵抗しない。ただ河原に放置された死体を崇め、生きる活力にしている。
過食と嘔吐の繰り返す吉川こずえは、モデルの仕事をやめない。ただ山田と同じく河原の死体を大事にし、心のバランスだけを保っている。
イジメとセックスに生きる観音崎は、偽りの人生しか生きていけない。ただ自分の弱さを認めたくないだけのために、暴力と女を求めている。
欲望のためだけに身体を売る小山ルミは、自由の意味を分かっていない。ただ優等生な自分を保つために、他人を見下す地位を得ようとしている。
山田を一方的に愛する田島カンナは、人を愛する意味を分かっていない。ただ恋する自分が可愛いだけで、そんな自分に酔いしれている。

だがストーリーテラーでもある若草ハルナは、観音崎の彼女でありながら、セックスでは無表情だ。ルミの友人でありながら、いつも一緒にいる訳でもない。山田やこずえと親しくなるも、彼らと同じ様に死体を崇めたりはしない。ハッキリとした自分を表現しないことが、カンナから恨まれることへと繋がってもいく。
そう、ある意味彼女はニュートラルでもあり、自分自身の閉塞感を何となく感じながらも掴み切れていない存在だ。

ただ時折挟まれる、一人ずつインタビューを受けるというシーンを見て分かってくる。子猫の死体を見て泣き叫ぶ彼女が「生きる意味」を問われた時の返答でも分かってくる。この原作が書かれた1994年生まれの二階堂ふみの表情をを見て分かってしまう。

あの頃と今の時代、何も変わっていない。

同性愛への偏見、イジメ、摂食障害、セックス、暴力、望まぬ妊娠、一方的な恋愛感情、そして閉塞感。
「青春」という2文字には、「生きる意味」「葛藤」「欲望」「焦燥」「閉塞感」そして「死」が付き物、いや憑き物だが、それらに真っ向から立ち向かわない者が大人を差し置いて、まるでこの国の文化のようにのさばり始めたのは、あの時代からだったのではないだろうか。

そう思ってしまった時、何ら時代を変えることが出来なかった世代として、この失われた20年の間に生まれた世代に対して少々の罪悪感を感じた。
と同時に、そんな時代を達観したかのように戦おうとしない若者には同情も共感もしたくないと思えた。

なぜなら、あの時代も今の時代も、青春は「平坦な戦場」であることに変わりはないのだから。

深夜らじお@の映画館は二階堂ふみや吉沢亮の文字通り身体を張った演技に敬意を示します。

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acideigakan at 10:00│Comments(0)clip!映画レビュー【ら行】 

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