2018年04月05日

『馬を放つ』

馬を放つ昔々、馬は人間の翼だった。
シルクロードの拠点として栄え、優秀な騎馬隊を祖先に持ち、旧ソビエト連邦から独立した、アジア系民族のイスラム教の美しき国、キルギス。
グローバリゼーションの時代、世界各地で民族の誇りが失われ始めている。キルギスの誇りとは何か、伝統とは何か。
それは日本人にも通ずる問いだ。

とある夜に「ケンタウロス」と呼ばれている寡黙な男が、村でも有数の金持ちの家から馬を放つ。馬小屋から馬を盗んで、どこかへ売るのではない。ただ文字通り、馬を放つ、つまりは逃がしてやるだけ。
だから数日後にはその放たれた馬は自然と見つかる。

なぜ彼はそんなことをするのか。盗まれた馬主が協力を仰いだ泥棒の罠にかかり、馬泥棒の犯人として捕まった時に彼は語る。キルギスでは昔から馬は人間の翼とも言える、共に生きてきた大事な相棒であるのに、今やその敬意の欠片もなくなっているからだと。

資本主義社会では馬は人間の所有物にもなりうる。だから盗む行為は悪である。
しかしキルギスの伝統を鑑みると、馬と人間は同等に等しい生き物だ。だから馬を放つ行為は解放行為でもあるのだ。

どの国でも世界との繋がりを持つと自然に資本主義と伝統主義が入り乱れる。そして共存はするが、そのバランスが乱れ始めると、人々は民族の誇りを失い始めていることに気付く。

ケンタウロスのいる村も資本主義の影響を少なからず受けている社会ではあるが、同時に伝統も立派に守られている社会でもある。
例えばケンタウロスが村の評議会で裁判に掛けられるくだりでは、彼への罰はイスラム教の聖地メッカへの巡礼になる。また言葉をあまり発しない息子には隣村の占い師から助言をもらうなど、現代社会の常識からすると法治的でもなければ科学的でもないことが未だに生きている。

けれどそれがキルギスの伝統文化の一端なのだ。同時に貧富の差が生まれ、ゲーム機で遊ぶ子供がいるのもキルギスの現代の姿なのだ。

ケンタウロスの親戚でもある権力者は言う。我々には遊牧民の血が流れていると。
だがケンタウロスが語る馬の守護神カムバルアタの伝説は信じていないだろう。

そう、言葉は生きている。伝統も受け継がれている。でも誇りは失われ始めている。
だから馬と人間の関係がおかしくなってしまったのだ。人間が馬を制するようになってしまったのだ。

そんな現状にケンタウロスが犯罪行為だと分かっていても馬を放つ。その行為は現代キルギス人への警鐘だ。そして世界中のあらゆる国への警鐘でもある。

奥ゆかしい、礼儀正しい。そんな日本人の誇りを傷つけるかのように、昨今「忖度」「改竄」「隠蔽」という言葉が飛び交っている。
もし誰かが犯罪行為を犯してまで日本人の誇りを取り戻そうと動いてしまったら、それはもはや民族としての大問題だ。

そう考えると現代日本だけでなく、世界各国でケンタウロスが現れることのないようにするにはどうすればいいか。これは誰もが考えなければならない重要な問いだ。

深夜らじお@の映画館にとって初めてのキルギス映画でした。

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acideigakan at 00:15│Comments(0)clip!映画レビュー【あ行】 

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