2018年10月23日

『教誨師』

教誨師なぜ生きるのか。なぜ死なないのか。
死を目の前にした者が様々な形で語る。自分はなぜ生きているのかと。死を目の前にしていない者が対話を通して自問自答する。自分はなぜ死なないのかと。
稀代の名脇役:大杉漣、最初のプロデュース作にして最後の主演作が、現在という場所から過去を見つめ、未来を見つめている。

受刑者の心の救済につとめ、彼らを改心に導く教誨師。そのなかでも死刑囚専門である牧師の佐伯保が小さな教誨室で6人の死刑囚と対話する。
無口な中年男の鈴木、お喋りな関西女の野口、お人好しなホームレスの進藤、気のいいヤクザの組長・吉田、子供想いだが気の弱い小川、自己中心的な若き高宮。

彼らがどんな罪を犯して死刑囚になったかの説明はない。ただ教誨師・佐伯との会話の中で分かってくる。
ストーカーだった鈴木、尼崎事件を彷彿させる野口、子供への侮辱に耐えかねた小川、相模原事件を連想させる高宮。

また彼らが何を目的に自らの希望でこの教誨室での時間を過ごしているのか、その説明もない。
無口な鈴木は何も語らない。お喋りな野口は自分の話しかしない。文盲の進藤は字の練習するだけ。気のいい吉田は佐伯の世話ばかりを気にする。気弱な小川は常に俯いてばかり。そして高宮は知識と屁理屈をひたすら並べるだけ。

だが佐伯が自殺した兄の話をすると、少しずつ見えてくるものがある。気が荒い若き自分に代わり、殺人を犯すもその罪に耐え切れず出所前に命を絶った優しい兄を思い出す度に、卓上カレンダーが倒れる度に、6人の死刑囚に対しては「なぜ生きるのか」に対する答えが、教誨師・佐伯に対しては「なぜ死なないのか」に対する答えが見えてくる。

あの世で彼女にプロポーズするという鈴木と妄想話をやめない野口は、現実逃避することで生きている。学ぶ楽しさを知った進藤は、字が書けるようになるために生きている。裁判の延長を望む吉田は、死刑執行を恐れ、必死に足掻いて生きている。子供の成長よりも死刑を選んだ小川は、生きる意味を見失い生きている。
そして罪を犯しても虚しかったことを直視できない高宮は、誰かにこの虚しさを分かってほしくて生きている。

対して佐伯は幽霊の兄からの「なぜ死なないのか」という質問に即答する。まだ生きているから死なないと。

キリスト教の解釈では、この世に罪を犯していない人などいないという。そしてその犯した罪に向き合うと、神様は赦しを与えてくださるという。

「あなたがたのうち、だれがわたしにつみがあると、せめうるのか」というイエスの言葉は、死刑制度の是非を問う。だが被害者や遺族の感情は法律と同じく無視できない。

死刑執行を前にした高宮が佐伯に耳元で囁いた言葉は何だったのだろうか。その答えは十人十色だろう。そしてその答えがその人の「なぜ生きるのか」「なぜ死なないのか」という問いに対する答えでもあるのだろう。

ただ我々はその答えをどうやって導き出したのか。
過去を見つめ、未来を見て導き出したのか。それとも未来を見ずに過去に囚われ導き出したのか。
教誨師・佐伯がこちらを見つめ、歩き去っていくラストシーンをどう解釈するかで、その人の答えが垣間見えるような気がする。

深夜らじお@の映画館はこの作品こそ大杉漣の代表作だと思います。

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acideigakan at 23:59│Comments(2)clip!映画レビュー【か行】 

この記事へのコメント

1. Posted by ノラネコ   2018年11月04日 22:18
これは続編が観たかったです。
「遺作にする」発言がまさか本当になってしまうとは。
稀代の名脇役が最後に主演で逝ったのまで、「役者だなあ!」としか言いようがないです。
2. Posted by にゃむばなな   2018年11月09日 22:54
ノラネコさんへ

ほんと、これが大杉漣さんの遺作になるのが惜しいですよね。
こんな名脇役に代わる役者はいないが故に、本当に残念でなりませんよ。

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