映画レビュー【か行】

2019年06月04日

『ゴジラ キング・オブ・モンスターズ』

ゴジラキング・オブ・モンスターズ怪獣映画にしては軽すぎる。
「怪獣」と「モンスター」は微妙に違う。怪獣は時に神としても崇められる存在に対し、モンスターは基本的には人類の敵というイメージを個人的に持っているからだろうか、映像は怪獣主役の怪獣映画なのに、物語は人類主役のモンスター映画というちぐはぐさがどうも軽すぎるという印象しか残してくれなかった。

この映画のタイトルを初めて聞いた時、ゴジラはモンスターではないだろうという違和感を覚えた。もちろん怪獣を英訳すればモンスターになるので、何ら間違いではないのだが、昨今海外でも「KAIJU」で通じるこのご時世になぜ「キング・オブ・カイジュウ」ではないのかが、凄く気になった。

その答えを探すべく映画を楽しみにしていたが、実際本編が始まると怪獣映画にはあるまじき「軽い雰囲気」が作品全体に漂っていること。人類存亡の危機とか、家族の犠牲や離散とか重苦しい雰囲気を醸し出す要素は揃っているのに、不思議と低予算で作ったB級映画ですやん!という雰囲気が邪魔で邪魔で仕方ないこと。

だからモスラが雲南から蘇っても盛り上がらない。ラドンがメキシコの火山から出てきても興奮しない。キング・ギドラが南極で氷漬けにされていてもワクワクしない。
映像としてはどれも興味深く、子供の頃に見た怪獣映画よりも迫力があるはずなのに、映画としては全く盛り上がらないので、子供の頃に感じた迫力には到底及ばない。

その理由はやはり人類ドラマがあまりにも安っぽく、薄っぺらく、全体的に危機感が全く伝わってこず、のほほんとした雰囲気の中で次から次へと入ってくる情報をただただ流しているだけで、これまでの流れから今後をどう考察するかといったシーンが皆無だからだろう。

もちろん怪獣映画のドラマ部分は「人類は無力」がテーマであるが、それはあくまでもこれだけ考えに考えても怪獣たちの前では人類は何も太刀打ち出来ないということであって、新兵器で怪獣2体を抹殺だ!と豪語しておきながら失敗しても次の手を考えよう!という雰囲気では違う意味での「人類は無力」になってしまう。

その他にもエマ・ラッセル博士の自分勝手さは異常過ぎて、とても子供を亡くした母親の苦悩には見えない。芹沢博士の「さらば、友よ」という気合いの入れ方もなぜ彼が命を犠牲にしたのかという動機も不明など、「人類は無力」ではなく「人類は無能」にしか見えなくなってしまう。

モンスター・ヴァースシリーズの第1弾『GODZILLA ゴジラ』のギャレス・エドワーズ監督も、第2弾『キング・コング髑髏島の巨神』のジョーダン・ヴォート=ロバーツ監督も映像でも物語でも怪獣を主役に人類を添え物として撮ったからこそ面白い作品が出来上がったのに対し、同じゴジラ好きでもマイケル・ドハティ監督は映像は怪獣を主役に、物語は人類を主役に撮ってしまったからこそ、こんな結果になってしまったのだろう。

その辺り、同じゴジラ好きでも「怪獣映画好き」と「怪獣好き」の微妙な差が出てしまったのかも知れないが、「怪獣が出てくる映画」ではなく「怪獣映画」を期待した私にとっては残念な作品でした。

ちなみに次回作ではメカゴジラは登場するの?

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2019年03月15日

『キャプテン・マーベル』

キャプテン・マーベル母性を有した大人の女性が世界、いや銀河を救う!
もう白人男性がヒーローの時代なんて終わった。これからは有色人種がヒーローの、いや人種を問わず女性がヒーローの時代だ!
ニック・フューリーがなぜ片目になったのかを含めた謎解きの先に待つ、最大の危機を迎えているアベンジャーズにとっての大きな希望の誕生。それが猫のグースだ!

これまでのスタン・リーを懐かしむお馴染みのマーベル版OPと「THANK YOU STAN」に言葉にならない感動を覚えつつも、銀河にあるクリー人の星から始まる物語に、どこか物足りなさを感じるこの作品。

アベンジャーズ誕生秘話なのに地球の話ではないからか、それともヴァースと名乗るヒロインがただの小娘程度にしか見えないからか、もしくはアクションよりも彼女が何者であるのかをフラッシュバックを中心に見せられるからか、あまり心が踊らない。

しかし擬態能力を有するスクラル人の捕縛から脱出し、1995年のロサンゼルスに不時着したうえに、若き日のニコラス・ジョセフ・フューリーに加え、存命していた頃のフィル・コールソンに出逢うと、どこか安心するというか、懐かしさに心が温かくなるというか、不思議とゆっくりとではあるが心が踊り出す。

しかもスクラル人追跡のためにニック・フューリーとバディを組むヴァースが断片的な記憶を辿ると、彼女がかつてキャロル・ダンヴァースというアメリカ空軍女性パイロットであったこと、ウェンディ・ローソン博士と行動を共にしていたこと、コアの能力を事故により全身に浴びてしまったこと、記憶を失ったことでクリー人のスターフォース司令官に利用されていたことなど、様々なことが分かってくる。

さらにかつての親友マリア・ランボーやスクラル人のタロスとの接触により、自分が信じていた世界が実は真逆だった、つまりは敵はクリー人であって、スクラル人は助けるべき存在であったことが分かると、ここから物語は一気に女性陣の独壇場へと昇華していく。

特にアネット・ベニングからブリー・ラーソンへと世代を越えて受け継がれる「女優が男優の添え物ではない時代がきっと来る」という想いをスクリーンからも感じてしまうからだろうか、小娘から大人の女性へと雰囲気が完全に変わったキャロルが縛られていた心と能力を解き放ち、無敵ヒーローへと変貌して大暴れしてくれる姿には興奮が収まらない。

また久しぶりに操縦桿を握ったマリアの活躍にも心躍れば、「女優の添え物になっている男優」たちの、タロスとニックの地味な連係プレイも可愛らしく見えてくるし、いつの間にか付いてきた猫のグース改めフラーケンのここ一番での大活躍にもビックリ!

特殊能力ではなく実力勝負を挑む喧しい男をパンチ一発で吹き飛ばしてから家へ帰れと追い出す様も、敵の殲滅がお約束の男性ヒーローとは違い、私に逆らうとどうなるか分かってるよね?という女性ならではの怖さを存分に見せてくれるところも、これまでのヒーロー映画にはない女性ならではの魅力。

だからこそ、まさかニック・フューリーが片目になった理由が猫のグースに引っ掻かれたからとか、アベンジャーズの名前の由来がキャロルが乗っていた戦闘機からだとか、ローソン博士のクリー名がマー・ベルでそこからキャプテン・マーベルとニックが名付けたとかにもビックリ。

そしてキャロルがグレードアップした銀河系2つ分通信可能なポケベルにも心躍れば、EDロール途中にポケベルが鳴らなくて待ち惚けしてるハルク、ブラック・ウィドウ、キャップ、ウォーマシーンの後ろに突如現れるキャプテン・マーベルの姿にも大興奮!もうこのシーンを見たら、誰もが思うはず。早く4月26日になってくれ!と。

ちなみにEDロール後にグースが飲み込んでいたコアを吐き出すシーンがあったが、あれはコアが重要なアイテムになるというメタファーか、それともグースが大活躍するというメタファーか。
それも含めて、改めて叫ぼう。早く4月26日になってくれ!『アベンジャーズ/エンドゲーム』を見せてくれ!

深夜らじお@の映画館はブラック・ウィドウよりもキャプテン・マーベルベンの方が好きです。やっぱり母性を有した大人の女性は素晴らしい!

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2019年03月01日

『グリーンブック』

グリーンブックトニー、君が決めてくれ。
第91回アカデミー賞にて作品賞を含む3部門を受賞したこのロードムービーは、この作品に出逢えたこと自体が幸せだと感じる無二の名作。
自分の弱さを認め、相手の素晴らしさを認める。肌の色も才能の違いも関係ない。そうして始まる友情を喜ぶドロレスの最後のセリフがステキすぎる!

上客の帽子を盗んで、あたかも自分が取り返したように装うことで報酬を得ることが出来るなら、勤務先の店がどうなろうとも気にしないトニーは、ハッタリを駆使しながらタバコと家族と食事をこよなく愛する、粗暴だが根は優しいイタリア系の白人だ。

対してそんな彼を雇うことにした、カーネギーホールに住む天才ピアニストのドクター・シャーリーは、どんなに理不尽な差別を受けようが暴力に頼ることを嫌う教養ある黒人だが、あえて差別の激しい南部でのコンサートツアーを実行するといった勇気ある人でもある。

ただ当初黒人への偏見に満ちていたトニーと、過酷な労働を強いられる他の黒人とは異世界にいることに密かに悩んでいるドクとの間には、相手をよく知らないがゆえの偏見と視野の狭さがあるも、それをケンタッキーフライドチキンがいい感じで解決してくれるところから、この映画には心地いい笑いが満ち溢れている。
骨を捨てるのはOKでも、紙コップは拾いに戻りなさいというやりとりもその一つ。

だから子供染みた手紙に見兼ねたドクがトニーにロマンチックな手紙の書き方を教え、その手紙にドロレスがうっとりするやりとりも心が温かくなるし、トニーがその教えを真摯に学ぶ姿も心地いい。
ドクのためにピアノが契約通りに準備されていなかったら、手段を選ばないトニーの真面目さもいい。

けれどホテルだけでなく、トイレから楽屋まで黒人差別が土地のルールとなってしまっている南部で彼らに待ち受ける現実は、決して生易しいものではない。
ドクがバーに入れば白人に絡まれ、トニーは銃を持っているかのようなハッタリで切り抜けるしかない。
ドクがゲイだということが判明して警察に捕まりそうになれば、トニーは警官を買収して切り抜けるしかない。

でもそれらは用心棒も兼ねるトニーにとっては、よくあることでしかないからこそ、ドクが謝罪してきても特に何も気にしない。
逆にまだそんなことを気にしてたのか?と言わんばかりのトニーの表情は、不安いっぱいの表情を浮かべるドクにとっては、自分の視野の狭さを認識させると同時に、トニーの心の広さを認識する機会でもあったのだろう。

だからこそ、ツアー最終日でのトラブルで取った2人の対応がとてもステキに思える。
警察に暴力を振るったばかりに逮捕された時に助けを求めたロバート・ケネディ司法長官と同じく、世の中を変えるために南部でのツアーを行ったドクは、皆と同じ場所で食事が出来ないのなら食事も演奏会も中止すると言い出す。

そんなピアニストの説得を頼まれたトニーに「君が決めてくれ」と言うドクと、演奏会の中止を後押しするトニー。
友が言うなら演奏するつもりだった黒人ピアニストと、友にこんな場所で演奏させられないと立ち去る白人用心棒の互いを想い合う友情が本当にステキで心が温かくなる。
その後に黒人バーでの演奏会も、銃はハッタリじゃなかったという事実も心が温かくなる。

そしてクリスマスが終わるまでにトニーを家に帰したいと運転まで代わってくれたドクだったが、トニーの家に寄る誘いは断ったのは遠慮か、それとも一歩踏み込めない弱さか。

それが気になり、クリスマスも心から楽しめないトニーの元に、ドアをノックする音と共に先客の後ろから手土産と不安な表情を携えて来てくれたドクに、勇気を振り絞ってくれた友を心から歓迎する夫に紹介された夫の友人に、ドロレスが挨拶の後にそっと囁く。「手紙をありがとう」と。

そんな愛に満ち溢れたラストがステキすぎる!

深夜らじお@の映画館はドロレスと電話で話すドクの声が描かれなかったのは、このラストのためのフリではないかと思うと、また幸せな気持ちになります。

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2019年02月22日

『THE GUILTY/ギルティ』

ギルティ犯人は音の中に潜んでいる。
これは新たなる電話を用いた傑作だ。緊急通報オペレータールームから一切外に出ないカメラと、電話の中にしか潜んでいない事件解決の鍵。
そしてなぜこの内容でタイトルが「ギルティ」なのか。その意味が分かった時、誰もがこの結末に驚き、納得し、安堵し、その余韻に浸るだろう。

訳あって現場から離れ、ボランティアで緊急通報オペレーターとして働くアスガー・ホルム。この夜の勤務を終えれば、明日は法廷での証言が待っているらしく、それはマスコミが興味を示す内容であり、警察としてはあまり好ましくない内容のようだ。

そんな彼の元に一本の通報が入る。怯えた声の主は女性で、車で誘拐されたと言う彼女に、アスガーは子供相手に話すようにと促しながら、様々な情報を入手する。
電話番号からイーベンと判明した声の主、携帯電話基地局から推測できる現在位置、彼女が乗せられた白いワゴン、そして思考回路が制限されやすい暗い夜に降る雨。

カメラは声の主を一切映さない。アスガーのいるオペレーションルームから一切出ない。
だが電話のやりとりは容易に現場の映像が目に浮かぶほど雄弁に事件内容を語る。だからこそ、そこに潜んでいるはずのヒントも語っているに違いない。

しかしそんな電話だけのやりとりで入手した情報を担当地域の司令室に伝える彼が、現場をよく知る元警官として助言という名の指示を出そうとする勇み足が気になる。

また相談した元上司のボスにも職務を弁えろと叱責されるも、そこからイーベンの家に連絡を取り、彼女の娘マチルデから誘拐犯が元夫ミケルだということ以外にも、彼がナイフを持っていたこと、娘に赤ん坊の弟オリバーの部屋には入るなと命じていたことなど、様々な情報を独自に入手する様からも、彼が正義感の強い有能な警官であることが気になる。

だからマチルデ保護のために現場に派遣された警官から「見れば分かる」という凄惨な現状に言葉を失う。切り刻まれたオリバーに、血塗れのマチルデ。
さらに容疑者ミケルの家にガサ入れを頼んでいた相棒のラシードからの「見れば分かる」という散らかった大量の郵便物にも言葉を失う。
現場をよく知る有能な警官が「見ることが出来ない」現場は、いったいどうなっているのか。

そしてイーベンから衝撃の告白を受ける。オリバーのおなかの中にいたヘビを追い出したと。

ミケルは誘拐犯ではなかった。我が子を救ったと思い込んでいる元妻を精神病院へと連れて行くための行動が、イーベンにとっては誘拐だった。それをアスガーがイーベンの言葉の通りに受け取ってしまった。

もしイーベンの表情を見ることが出来たなら、直接ミケルと話す場があれば、きっと間違うことなどなかったはず。
アスガーの勇み足が、正義感の強さが、有能さだけが招いた結果ではないが、だがアスガーにはまだやるべきことが残っている。

オリバーを自ら殺したことに気付いたイーベンの自殺を止めなければならない。自分がイーベンの脱出を手助けしてしまった以上、悲しみに打ちひしがれたミケルを、母親を帰すと約束したマチルデを裏切る訳にはいかない。

だからアスガーは自分の「罪」を告白する。19歳の青年を殺してしまったことを。そのことを隠蔽しようとしたことを。
それでイーベンの飛び降り自殺を止めたいと願うも、彼女からの電話は途切れてしまう。

だが担当司令室へ掛けた電話で彼女が無事に保護されたことが分かる。司令室から「お手柄ね」という言葉にアスガーは救われる。いや、そうではない。彼は自分の罪を認めたからこそ救われたのだ。

相棒のラシードに明日の法廷での証言は嘘をつかなくていいと伝えたアスガーは最後にオペレーションルームを出ると誰かに連絡を取る。
その相手が誰かは分からないが、きっと出て行った妻のパトリシアだろう。

自分の罪を認めた男が救われる。
その余韻に浸ったまま終わる。神の存在を心のどこかで感じながら。

深夜らじお@の映画館はこの作品を楽しまれた方には是非『オン・ザ・ハイウェイ その夜、86分』もオススメします。

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2019年01月23日

『蜘蛛の巣を払う女』

蜘蛛の巣を払う女リスベットもミステリーも消えていく…。
もうこれは凄腕ハッカー:リスベット・サランデルの物語ではない。ただの女スパイの物語でしかない。そしてミステリーでもない。だから『ミレニアム』シリーズでもない。
ハリウッドアプローチ版の続編とはいえ、こんな重みのない映画になるとは…。

原作者亡き後、友人でもあった別の作家が後を引き継ぐことで再びリスベットの物語が動き始めたはずのこのシリーズ第4作にして、ハリウッドアプローチ版の映画では第2作は、リスベットの過去を描く物語。
ただ『火と戯れる女』『眠れる女と狂卓の騎士』で描かれた父親ザラチェンコとの過去ではなく、双子の妹カミラ・サランデルとの過去を清算する物語。

けれどその過去を清算する物語がどうも重みに欠ける。父親の時とは違い、別段心の足枷になっている訳でもない妹との過去を清算するという演出のせいでもあるからだろうか、リスベットに異様なまでの執念が見られないうえに前半は彼女のミスが連発されることも相俟ってか、どこか凄腕ハッカーであるリスベットの物語というイメージさえ薄くなってしまう。

加えて男には絶対に頼らない雰囲気を全面に押し出したノオミ・ラパス、失恋乙女になってしまったルーニー・マーラとは違い、髪型や目元からして優しさが漂うことでさらに女性的優しさが強調されてしまっているクレア・フォイでは、どうしてもリスベットには見えないのが残念でならない。
もちろんクレア・フォイの演技力は素晴らしいが、モヒカンもパンク衣装もないうえに、どこか「流れ星のちゅうえいさん」にも見えてくる風貌のヒロインでは、やはり『ミレニアム』シリーズから見てきた者からするとインパクトが弱く感じてしまう。

またインパクトが弱いのはミカエルやエリカも同じで、特にミカエル役のスベリル・グドナソンは監督の演出のせいか、それとも物語の展開のせいか、ちょっと存在感が薄すぎる。

だから闇組織スパイダース壊滅のくだりもアクション作品としては面白いが、リスベットやミカエルが紡いできたミステリー作品としては、ちょっと残念に感じてしまう。
そしてカミラとの決着の付け方も在り来たりと言えばそれまで。異母兄ニーダーマンのことも少しは思い出してやれよ、ハリウッドアプローチ版では存在自体が消されているのか?と思いながらの結末は、やはりアクション作品の結末であって、ミステリー作品を味わった時の結末ではなかったのも残念。

結局、原作はどうあれ、スウェーデン版はミステリーとして製作し、ハリウッドはエンターテイメントとして製作したことにより、どのタイミングでこのシリーズに出逢うかによって、この作品の感想も変わるのだろう。
それは「映画は出逢った時のタイミング」なので仕方ないことなのだが、個人的にはやはりリスベット・サランデルといえば、冷静沈着で優れた記憶能力と凄腕ハッキングにより、サディストな男共に壮絶な復讐を繰り広げるヒロインでいてほしかった…。

深夜らじお@の映画館はリスベット・サランデルは生涯闘う女でいてほしいです。

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2019年01月11日

『クリード 炎の宿敵』

クリード炎の宿敵33年前の悪夢を振り払う時、42年に及ぶ伝説が終わりを告げる。
あぁ、ロッキー・バルボアの時代が終わる。アポロ・クリードと対戦し、友情を深め、イワン・ドラゴと対決した歴史がここに終わりを迎えようとしている。
けれどそれは新しい時代の幕開け。アドニス・クリードやヴィクター・ドラゴが担う新しい伝説の始まりでもあるのだ。

『ロッキー4/炎の友情』でアポロ・クリードを死に追いやるも、ソビエトの地でロッキー・バルボアに敗れたイワン・ドラゴはその後どうなったのか。それは誰も知る由もない、世間から忘れ去られた者が歩まざるを得ない道。
ドルフ・ラングレンが一言も話さずに描かれるだけでも十二分に伝わってくるドラゴ親子の現状はまさに哀愁の一言。

一方でアドニス・クリードはコンラン戦後に破竹の7連勝を飾り、見事にアポロ・クリードやロッキー・バルボアが手にしたヘビー級チャンプになるも、そこに至るまでの感動は全くない。
そう、この映画で重要なことは前作で我々が期待したアドニス・クリードがチャンプになることではない。さらにその先にあるドラゴ親子との因縁の対決でしかないのだ。

だからこそ、アドニスがチャンプになる姿で感動を覚えたかった身には少々不満も残る前半なうえに、当の新チャンプは自らの力量に溺れ、安易な選択をした結果、挑戦者ヴィクターに打ちのめされてしまう。
まるで『ロッキー3』のクラバー・ラングとの対戦で自信を喪失したロッキーのように、挑戦者が失格にならなければ王座を奪還されていたアドニスは、もうすぐ父親になる身にも関わらず、弱気なチャンプになってしまう。

だがかつて弱気になったロッキーを鼓舞したのがアポロだったように、今度はロッキーがアドニスを鼓舞する。新たな家族を築こうとする若者に、自らの家族関係を見つめ直した元チャンプが現チャンプに再戦の後押しをする。かつて親友が自分を鍛えてくれたカリフォルニアの地で。

ただ宿敵のヴィクターは、父親イワンを見捨てたロシア政府と、政府高官の妻に成り下がった母親ルドミラを憎む重量級のボクサー。これまで数々の敵を4ラウンド以内で倒してきた無敵の挑戦者。

そんな強敵に対し、アドニスは家族のために戦う。妻ビアンカや娘アマーラのために、母メアリー・アンのために、亡き父アポロのために、そして家族同然のロッキーのために。
だから彼は何度ダウンしても立ち上がる。再び肋骨を骨折しようとも立ち上がる。チャンプとして戦うのではなく、一人の男として、一人のボクサーとして、アポロ・クリードとロッキー・バルボアの魂を受け継ぐ者として。

対して予想を覆す接戦に戸惑うヴィクターに失望した母親ルドミラが会場から去って行く。その姿に元夫のイワンも心苦しさを隠せない。再び母親に見捨てられたヴィクターも動揺を隠せない。いったい俺たちは何のために戦ってきたのかと自問自答せざるを得ないが如くに。
そんなイワンがタオルを投げ込むシーンがとてつもなく切ない。母国と妻に裏切られた自分と同じ道を息子が歩もうとしている現実に、父親として精一杯の決断がとてつもなく切ない。

けれどそれはロッキーやイワンの時代が終わりを告げた証拠。ロッキーがアドニスに「お前の時代だ」と言ったように、老兵が去る時が来ただけのこと。

確かに帽子を被り直すロッキーの後ろ姿は凄く淋しい。イワンがヴィクターをなだめる姿も淋しい。

でも脚本をも担当したシルベスター・スタローンは分かっている。老兵は去って終わるのではない。若者の背中を押すために後ろに下がるだけだということを。

それが3つの家族の歩む道を描くことで示されている。
ヴィクターの隣でトレーニングのために走るイワン。難聴の娘を育てていくと決意したアドニスから報告を受けるアポロ。そして疎遠になった息子ロバートに会いに行ったロッキー。

もう『ロッキー』シリーズは見れない。けれど『クリード』シリーズはもう既に始まっている。
3人の老兵ボクサーが無言でそう語っているラストがずっと心に残る。

深夜らじお@の映画館は「アイ・オブ・ザ・タイガー」も劇中で聴きたかったです。

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2018年12月25日

『弧狼の血』

弧狼の血正義とは何じゃい!
これぞ東映ヤクザ映画だ。これぞ広島ヤクザの映画だ。ヤクザの抗争と警察組織の腐敗、剛腕な叩き上げ刑事と法の正義を守ろうとする新米刑事、そして形だけの正義と本当の意味での正義。
正義とは何じゃい?という質問に当たり障りの答えなどいらない。己の信念が汗と血を流して出した答えが必要なのだ。

広島・呉原東署の刑事二課の大上は、「警察なら何やってもいいんじゃ」という言葉を楯に、まるでヤクザのような傍若無人な刑事だ。相談に来た若い女性とヨロシクやっちゃうわ、パチンコに興じるわ、チンピラを罠に嵌めて脅しては情報を引き出すわ、証拠確保のためボヤ騒ぎを起こすわ、ヤクザの手下から丁重に扱われたり、捜査費と銘打って金を懐に入れたりと、やりたい放題。

そんな大上と組まされた広島大出身のエリート新人刑事でもある日岡からすれば、この叩き上げ刑事の手法は違法でしかあらず、でも地元ヤクザ・尾谷組と新興勢力・五十子会系加古村組の抗争を寸止めしている手腕は認めざるを得ない、まさに何とも言えぬ存在。

広島県警の内偵でもある日岡にとって大上という違法刑事は処分すべき存在だが、証拠が集まらないから動くに動けない。
反対に大上は証拠がなければ作ればいいと、あらゆる方法で証拠を搔き集めるため、動くに動く。時に梨子ママでさえも美人局に使い、違法行為であってもチンピラの体内から真珠を取り出すことで証言を得るのだから、その行動力は凄まじいの一言。

けれど、なぜかそんな大上の人望は厚い。梨子ママだけでなく、五十子会系に属する銀次からも親友と認められるほどであり、尾谷組の若頭・一之瀬も五十子会系の親玉・五十子も大上に丸暴の刑事以上の理由で一目を置いている。

ただこの映画にはその「丸暴の刑事以上の理由」を観客に考えさせるだけの時間を与えてはくれていないのが勿体ないところだが、でも後半になってから判明する大上の真の姿を知ると、これが『トレーニング・デイ』のようでそうではない、我が身を犠牲にしてもヤクザの抗争から堅気を守ろうと手段を選ばぬ叩き上げ刑事の男気を描いた、まさに懐かしき東映ヤクザ映画らしさが息づいていることに気付く。

だからこそ、日岡が大上が遺したノートを見て変わっていく姿に不思議と「成長」を感じてしまう。法の正義を唱えていた若き刑事が、己が体験して辿り着いた正義に則って動く姿に、不思議と応援したくなる気持ちが湧いてくる。

銀次の協力を得て新年会の席で尾谷組・一之瀬を裏から招き入れて五十子を始末させるだけでなく、身代わりを用意した一之瀬自身を現行犯逮捕することでヤクザの抗争を最小限に抑える。ヤクザを撲滅させることは出来ないと分かったからこそ、飼い殺しにする。

もちろん殺された大上の弔いの意味もあっただろうが、それ以上に大上の正義を理解し、自分の正義へ変えた日岡が内偵上司の嵯峨をも脅しに掛かるその昭和な男前っぷりに、不思議と「久しぶりに東映映画を見た〜!」という気持ちにもさせてくれるのだから、この映画は素晴らしいとしか言い様がない。

そして昭和63年という暴対法施行直前の時代だからこそ存在出来たこの叩き上げになっていく新米刑事をもっと見たい、いや見続けたいとも思えた。もちろん白石和彌監督の手腕と、役所広司の面影付きで。

深夜らじお@の映画館は30代最後のクリスマスでこんな東映ヤクザ映画を見ました。

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2018年10月23日

『教誨師』

教誨師なぜ生きるのか。なぜ死なないのか。
死を目の前にした者が様々な形で語る。自分はなぜ生きているのかと。死を目の前にしていない者が対話を通して自問自答する。自分はなぜ死なないのかと。
稀代の名脇役:大杉漣、最初のプロデュース作にして最後の主演作が、現在という場所から過去を見つめ、未来を見つめている。

受刑者の心の救済につとめ、彼らを改心に導く教誨師。そのなかでも死刑囚専門である牧師の佐伯保が小さな教誨室で6人の死刑囚と対話する。
無口な中年男の鈴木、お喋りな関西女の野口、お人好しなホームレスの進藤、気のいいヤクザの組長・吉田、子供想いだが気の弱い小川、自己中心的な若き高宮。

彼らがどんな罪を犯して死刑囚になったかの説明はない。ただ教誨師・佐伯との会話の中で分かってくる。
ストーカーだった鈴木、尼崎事件を彷彿させる野口、子供への侮辱に耐えかねた小川、相模原事件を連想させる高宮。

また彼らが何を目的に自らの希望でこの教誨室での時間を過ごしているのか、その説明もない。
無口な鈴木は何も語らない。お喋りな野口は自分の話しかしない。文盲の進藤は字の練習するだけ。気のいい吉田は佐伯の世話ばかりを気にする。気弱な小川は常に俯いてばかり。そして高宮は知識と屁理屈をひたすら並べるだけ。

だが佐伯が自殺した兄の話をすると、少しずつ見えてくるものがある。気が荒い若き自分に代わり、殺人を犯すもその罪に耐え切れず出所前に命を絶った優しい兄を思い出す度に、卓上カレンダーが倒れる度に、6人の死刑囚に対しては「なぜ生きるのか」に対する答えが、教誨師・佐伯に対しては「なぜ死なないのか」に対する答えが見えてくる。

あの世で彼女にプロポーズするという鈴木と妄想話をやめない野口は、現実逃避することで生きている。学ぶ楽しさを知った進藤は、字が書けるようになるために生きている。裁判の延長を望む吉田は、死刑執行を恐れ、必死に足掻いて生きている。子供の成長よりも死刑を選んだ小川は、生きる意味を見失い生きている。
そして罪を犯しても虚しかったことを直視できない高宮は、誰かにこの虚しさを分かってほしくて生きている。

対して佐伯は幽霊の兄からの「なぜ死なないのか」という質問に即答する。まだ生きているから死なないと。

キリスト教の解釈では、この世に罪を犯していない人などいないという。そしてその犯した罪に向き合うと、神様は赦しを与えてくださるという。

「あなたがたのうち、だれがわたしにつみがあると、せめうるのか」というイエスの言葉は、死刑制度の是非を問う。だが被害者や遺族の感情は法律と同じく無視できない。

死刑執行を前にした高宮が佐伯に耳元で囁いた言葉は何だったのだろうか。その答えは十人十色だろう。そしてその答えがその人の「なぜ生きるのか」「なぜ死なないのか」という問いに対する答えでもあるのだろう。

ただ我々はその答えをどうやって導き出したのか。
過去を見つめ、未来を見て導き出したのか。それとも未来を見ずに過去に囚われ導き出したのか。
教誨師・佐伯がこちらを見つめ、歩き去っていくラストシーンをどう解釈するかで、その人の答えが垣間見えるような気がする。

深夜らじお@の映画館はこの作品こそ大杉漣の代表作だと思います。

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2018年08月25日

『カメラを止めるな!』

カメラを止めるな!カメラは止めないで!ぽん!
こんなにも面白い日本映画なのに低予算カルト映画だと!?こんなにも映画愛に溢れたゾンビ映画なのにコメディ映画だと!?だからこそ、こんなにも全国に順次拡大公開されているのだ!
これは前情報なしで見るべき映画だ。前情報ほぼなしの方がより楽しめる映画だ。だから未見の方はここから先は読まないで!ぽん!

監督・俳優養成専門学校「ENBUゼミナール」のシネマプロジェクト第7弾として製作されたというこの上田慎一郎監督作品は、OPから「ONE CUT OF THE DEAD」というワンカットで撮られた素人演出のゾンビ映画が37分間も流される。
ライティングは暗いし、違和感のあるシーンも多い。脚本も支離滅裂しかけるようで何とか保たれている程度で、劇中に登場する監督も狂気に満ちている。

だから正直に言うと、本当に大したことのない作品だ。EDロールが流れ始めた時に、ポスターに「この映画は二度はじまる」とあったので、あぁこれでようやく本編が見れるのかと思ってしまったほどだ。

しかし!この37分間を適当に見ていたら絶対に後悔する。

なぜならこの映画の本質はここから始まる「ONE CUT OF THE DEAD」の撮影裏話を描いたコメディであり、あの違和感のあるシーンも、支離滅裂しかけの脚本も、監督の狂気も全て伏線、つまりはネタフリなのだから。

しかも我を忘れるほど役にのめり込みすぎて女優業を引退した妻の晴美、監督志望で拘りの強い娘の真央、生意気な若手俳優の神谷やアイドル女優の松本、酒飲み役者の細田、硬水で下痢になる山越、不幸塗れの山ノ内、腰痛持ちのカメラマン、好奇心旺盛なカメラ助手と個性豊かな面々で、ゾンビチャンネル用のワンカット作品を撮ってくれと頼まれれば、そりゃ映画愛はあるもお人好しの日暮監督もトイレで幼き娘との日々を回想しますわな…というのも全て伏線。

そう、この映画の最大の面白さは、映画の撮影現場を皮肉ったコメディの面白さに加え、この随所に散りばめられた伏線の回収という気持ち良さも相俟っての面白さ。
言うなれば、園子温監督の『地獄でなぜ悪い』と、内田けんじ監督の『運命じゃない人』の面白さが相乗効果で楽しめるような笑いと爽快感に溢れた作品。

なので、日暮監督が若手女優松本逢花に演技指導するシーンから笑いが止まらない。カメラが回っていないところで細田が泥酔しているシーンにも笑いが止まらない。晴美がゾンビと縦横無尽に戦うシーンにも、「ぽん!」連発にも笑いが止まらない。
山越の「ちょっと…」での途中退場の意味が分かると笑いが止まらない。カメラが地面に落ちて動かなくなったシーンの意味が分かると妙に次の展開に期待してしまい、ニヤつきも止まらない。

さらにディレクターたちの苦悩を他所に、先の読めない展開を楽しんでいるプロデューサーたちの能天気さも面白ければ、ここで監督志望の真央が活躍し始める展開も面白いからこそ、クレーンカメラが機能しなくなった状況下であのラストシーンをどう撮るのかというラストも面白いし、またその伏線回収もお見事。

動ける人間を総動員して3段ピラミッドの上で日暮監督親子による肩車での撮影。それがあのトイレで見ていた写真がヒントだったなんて…。くぅ〜、何て気持ちのいいオチなんだ!

映画の撮影現場の苦労も、俳優たちの自分勝手さも、不幸が幸福に転じる現場の魅力も全てをこの映画の題材にし、笑いに昇華し、散りばめた伏線を全て見事に回収することで、最高の作品に仕立て上げた、これぞ無名俳優とアイデアと脚本の魅力を最大限に活かした低予算映画の傑作。

これは2018年を語るうえでは絶対に外せない作品であり、特に映画ファンは色んな意味で必見の作品です!

深夜らじお@の映画館はこの作品を今年のベスト3に入れます。

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2018年05月31日

『恋は雨上がりのように』

恋は雨上がりのように17歳の女子高生、45歳のファミレス店長に恋をする。
何と絶妙なキャスティングなことか!小松菜奈と大泉洋を起用した時点でこの映画は成功していると言って間違いない。それくらい魅力的なキャスティングだ!
ただ中盤以降の中弛みが激しく、また雨の描き方が残念でならないため、映画全体の印象はただただ「勿体無い」の一言だ。

仏頂面で目つきもあまりよろしくない橘あきらはアキレス腱のケガで陸上競技の夢を諦めた17歳の女子高生。そんな彼女が恋心を抱いているのは、バイト先のファミレス店長でもある近藤正己という、元作家志望で冴えない45歳のバツイチ。

目力のある小松菜奈が演じる、体育会系女子はひたすら猪突猛進する。28歳の年の差も、周囲の声も気にせず、恋心を抱いた相手にストレートに想いを告げるし、微塵も諦めようともしない。

一方で動揺する演技が巧い大泉洋演じる、文化系オジサンは世間体と彼女の想いの狭間で動揺するも、人生経験と文学知識の豊富さが一本筋の通った「大人の対応」で17歳女子の恋心に紳士的に応える。

17歳のまっすぐな恋心と、45歳の巧みな大人の対応。
それは17歳から見れば、ブラックコーヒーに手品で出したシロップを添えてくれる優しさも洒落た大人の世界への憧れ。けれどその憧れと恋心を混同していることに気付いていない。
対して45歳から見れば、もしもの話も現実的に捉えてデートの約束を取り付ける押しの強さは自分が失った若さ。けれどその若さが年齢的なものだけではないことに徐々に気付いていく。

だからこそ、17歳の恋心には応えられないが、17歳の悩みには時に寄り添い、時に向き合い、時に優しく背中を押す45歳が格好良くも見えるし、幸せになってほしいとも思えてくる。図書館で偶然出会う本が今の自分にとって最も必要なことだと諭す優しさも見習いたいと思う。

ただバイト先のイケメンといい、幼馴染の陸上部員といい、周りの声が17歳に自分の姿を客観的に見ろという中盤がどうも弱い。もっとスマートに描いてもいいところを、当たり障りのない展開になっているというか、小松菜奈と大泉洋の世界に割って入るほどの魅力を持ち得ていないことが残念でならない。

そのためか、橘あきらが陸上競技に戻るきっかけも腑に落ちない。自分の記録を塗り替えようとしている後輩に立ち向かうために戻るのではなく、風を切って走る心地よさを再認識するために戻る方が、「陸上競技が好きな橘あきら」らしくていいからだ。

また旧友との再会により、未練と執着の違いを知った近藤正己が再び夢を追いかけ始めるくだりも、17歳に刺激された45歳の心情をきちんと描き切れていないためか、どうしてもインパクトに欠けてしまう。

そして何かと雨が絡む作品でありながら、雨が及ぼす心理的作用がほとんど描き切れていないのも残念。『言の葉の庭』のように、閉塞感を自分たちだけの世界に変換し、雨を時に涙雨に、時に悔し涙にするといった暗喩や比喩も描いて欲しかった。

だから出世するかも知れないと報告してくれた45歳への想いに涙を浮かべつつ、実はしたたかに友情を愛情へと昇華させる気ではないかという含みを持たしたラストでも、やはりこの17歳が心理的に大きく成長したという感じが受けなかったのも残念だった。

そういうこともあってか、鑑賞後に雨上がりのような心地いい爽やかさがこの映画には物足りなかった。これから夏が来るぞというような楽しみも少なかった。
それが「勿体無い」という一言に集約できることが無念でならない映画でもあった。

深夜らじお@の映画館がもし17歳から想いを告げられたら、3年待ってね♪と合法になるまで待ってもらいます。それで実らぬ恋ならその程度のものですわ!

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2018年05月27日

『ゲティ家の身代金』

ゲティ家の身代金その命、プライスレス…のはず。
1973年に実際に起きた大富豪ジャン・ポール・ゲティの孫ポールが誘拐されるも、大富豪が身代金1,700万ドルの支払いを拒否したという実話を映画化したこの作品。
映画の内容もさることながら、ケビン・スペイシーの降板に急遽9日間で代役を勤め上げたクリストファー・プラマー閣下の恐ろしさが最も印象に残る。

歴史上でも一番の大金持ちとして名を馳せた石油王ジャン・ポール・ゲティ。その息子の元嫁であるゲイルの所に掛かってきた1本の電話。
息子を誘拐したから身代金1,700万ドルを払え。元ゲティ家の人間だろう、義父に用立ててもらえ。

そんな要求に対し、テロリストとは一切交渉はしないというアメリカ政府の如く、誘拐犯には1セントも払わぬとマスコミの前で宣言した大富豪が言う。私には他にも孫がいる。誘拐される度に身代金を払っていたら破産すると。

しかしこの大富豪はこんな一理ある言い分を堂々と披露しつつも、誘拐された孫の心配はほとんどしない。彼なりに心配はしているのかも知れないが、孫の安否よりも今日の儲けを心配するこの守銭奴はあまりにも異常だ。

だがこの大富豪が「本当の大金持ち」を語るくだりで分かったことがある。この大富豪が本当に欲しいものは金ではない。息子と向き合うという時間を疎かにした後悔が屈折した、自分を裏切らないであろう孫たちとの時間、つまりは家族愛だ。

ただし、その「孫たち」には具体的な「顔」は存在しない。孫も骨董品と同じ「モノ」として見ているからこそ、一人の孫を失っても他の孫が無事ならいいという人間味のない計算もなされてしまうのだろう。
そうこの大富豪はただの愛の意味を知らぬ悲しく孤独な老人なのだ。だから訳ありとはいえ、あの聖母子画を最後まで大事にしたかったのだろう。

そんな一筋縄ではいかない元義父に対し、一般常識で挑んでも協力など得られぬゲイルと、大富豪により派遣された元CIAで交渉術に長けたチェイスは苦悩する。
ただでさえ誘拐犯との交渉も大変なのに、そこに大富豪との交渉も入り込んでくる苦闘に苦悩する。

例え孫の切り落とされた耳が送り付けられても態度を変えない大富豪と、日々心臓が潰される想いで誘拐犯や大富豪との交渉にあたりながらも、息子を助ける手立てを探し続ける母親。

誘拐犯は進まぬ交渉に疲れ切って息子を売り飛ばすわ、その息子が売り飛ばされた地では警察でさえもマフィアの手先で誰も信用できない。
そうなると誘拐犯一味の交渉役であるチンクアンタでさえ、ポールに同情する。誘拐犯と被害者という歪な関係とはいえ、その温かな人情に少し心が温かくなる。

一方で身代金を減額してもらっても、その身代金を孫に貸し付けるという形を取れば節税が出来ると堂々と言い出す大富豪には、ますます心が冷たくなる。
だから、大富豪の突然の死は天罰のようにも思えてくる。逆にチンクアンタに逃がしてもらったポールには神のご加護があったようにも思えてくる。

そんな本来なら最後までハラハラドキドキするはずのクライムサスペンスだが、残念ながら個人的にはクリストファー・プラマー閣下の存在感があまりにも凄すぎて、クライムサスペンスよりも名優の素晴らしさの方を堪能してしまった。

無言を巧みに操りながら、細かく表情を変えることで、単に守銭奴な大富豪だった訳ではないということを、たった9日間で演じ上げた御年88歳の閣下。

ケビン・スペイシーがセクハラ疑惑で降板しなかったら、こんな凄い閣下の演技も見れなかったと思う一方で、ケビン・スペイシーの大富豪像でこの映画を見たら感想も大きく変わっていただろうと容易に想像できるくらい、とにかくクリストファー・プラマー閣下に尽きる映画でした。

深夜らじお@の映画館はケビン・スペイシー版ならクライムサスペンスをもっと楽しめていたかも知れないと思っちゃいました。

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2018年04月28日

『君の名前で僕を呼んで』

君の名前で僕を呼んで君の名前で僕を呼んで。僕の名前で君を呼ぶ。
ひと夏の恋は切ない。それが本当の愛を知る恋なら尚更だ。
17歳の少年が大人になるために経験した24歳の青年との甘く激しく切ない関係は、一見男女の恋愛でも良さそうだが、このタイトルの意味を考えた時、それは同性愛でしか描くことの出来ない愛なのだろう。

1983年、北イタリアのどこか。考古学の教授である父親の助手としてやってきた大学院生のオリヴァーと出逢ったエリオは、決してゲイの少年ではない。マルシアという彼女がいる、普通に異性との恋を楽しんでいる少年だ。

ただルカ・グァダニーノ監督はエリオとオリヴァーをどこかゲイっぽく描く。短パンから見える太腿、シャツの隙間から見える胸元、下着姿でうろつく時の下半身へと続く腹部。
そのどれもをゲイっぽく、いや正確には瑞々しさが性的な魅力に直結するような描き方をする。

だからこの映画には性的な匂いが充満しているが、それがひと夏の避暑地という風景と純粋でバイセクシャルな2人の恋心により、いやらしさのない甘美な恋の匂いへと変化していく。

エリオとオリヴァーが奏でるひと夏の恋は、年上の異性との恋に置き換えると、恐らく誰もが一度は経験したことのあるものだろう。
年上ゆえの余裕のあるところが羨ましくもあり、それが逆に自分を幼稚に見せることに腹立たしくもある。エリオがオリヴァーからバッハをアレンジせずにピアノで弾いてくれと頼まれても素直になれず、でも彼が去ると素直に弾く辺りなど、まさに誰もが自分の若き日の想いを重ね合わせるのではないだろうか。

人は恋をすると相手のあらゆるものを知りたくなる。相手に自分のあらゆることを知ってほしくなる。
エリオがオリヴァーのパンツを頭から被る行為や、オリヴァーがエリオの背中や足裏をマッサージする行為もその一端だろう。それらがいやらしさのない艶めかしさを放ち、でも性的な匂いを完全には消さずに瑞々しさと共にスクリーンに散りばめられている。

そしてひと夏の終わりと共にやってくる、エリオとオリヴァーの別れ。
オリヴァーがまだ避暑地にいた時、エリオの母親は息子に人を好きになる素晴らしさを優しく教えてくれた。
オリヴァーが避暑地から去った時、エリオの父親は息子に人を愛する素晴らしさを静かに教えてくれた。

それは共に息子に恋をして、愛を知って、そして大人になって欲しいという優しい親の想いであり、それがまたこの映画の素晴らしきシーンでもある。

だからこそ、オリヴァーの婚約を彼からの電話で知り、エリオとオリヴァーが「君の名前で僕を呼んで。僕の名前で君を呼ぶ。」くだりが切ない。
暖炉の火を眺めながら心を整理するエリオの表情をEDロールと共に長回しで撮りながら見せる演出と、ここで見せるティモシー・シャラメの演技力に心を奪われる。

そしてスクリーンに現れる「call me by your name」の文字を見て気付かされる。
あぁ、これは異性間の恋では描けないものだと。心も身体も繋がることの出来る異性間ではなく、心でしか繋がれない同性間の恋だからこそ、名前という自分の分身を相手に重ね合わせる。

そんな切ない恋が深い愛へと変化していく。ひと夏の避暑地で育まれた恋が、淋しさが残る冬の暖炉の前で愛へと変化していく。

あぁ、これが本当に人を愛するということの意味なのだろう。

深夜らじお@の映画館がこんな切ない恋をしたのはもう何年前のことやら…。

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2018年02月16日

『グレイテスト・ショーマン』

グレイテスト・ショーマン愛だけはいつの時代も本物。
価値観は時代によって変わる。偽物と揶揄されたものも、時代が変われば本物になる。マイノリティも光の当て方を変えれば、誰もが「This is Me」を心から歌うことが出来る。
そんな素晴らしきテーマを扱った作品なのに、ミュージカル映画特有の満足感が得られないのは勿体無い。あぁ、勿体無い。

ミュージカル映画には2つのタイプがある。『ムーラン・ルージュ』や『オペラ座の怪人』のような終始歌い続けるタイプと、『ダンサー・イン・ザ・ダーク』『ヘドウィグ・アンド・アングリーインチ』のような、歌い手の気持ちが昂った時にのみ歌うタイプだ。

後者に属するこの作品は、『ラ・ラ・ランド』のスタッフが作り上げたこともあって、楽曲はどれも素晴らしい。
だが「上映時間105分」という短さが大事な要素を描き切れていない。それが「歌い手の気持ちが昂る」というドラマ部分であり、観客が感情移入しやすい、いわば観客が深層心理で最も求めているものだ。

だから「The Greatest Show」からエンジン全開で始まる勢いで上がった期待値が、「A Million Dreams」の尺の長さに少々バランスの悪さを感じ取ると、そこからダイジェスト感もあるとはいえ、繋ぎのドラマが盛り上がる前に「This is Me」などの素晴らしき楽曲が流れてしまうと、どうしても観客が乗り切れない。

さらに華やかな衣装、華麗なるダンス、素晴らしき楽曲、そして個性的なマイノリティな人々と、ミュージカル映画としての要素は揃いに揃っているだけに、「ここぞ!」というタイミングでその素晴らしき楽曲が流れてくれないと、「もっと聴きたい」「もっとこのシーンを見たい」というミュージカル映画特有の渇望感や満足感も得られない。

本来ならこの手の作品はEDロールを除いても上映時間は最低でも120分は必要だ。本物の芸術でもある「Never Enough」を歌い上げるジェニー・リンドとのワールドツアーのくだりやバーナムが上流社会に固執するくだりも、もっと短くていい。
観客が求めているのは髭女レティや小人男といった身体的マイノリティたちが歌う「This is Me」が心に突き刺さることだ。フィリップ・カーライルとアン・ウィーラーが歌う「Rewrite the Stars」に心から切なくなることだ。

偽物は本物にはなれない。しかし時代が変われば、価値観も変わる。いや価値観が変わるからこそ、時代が変わる。その時、古い時代では偽物と揶揄されたものも、新しい価値観と時代の下では本物になる。それがサーカスの起源だ。

親からも隠されるように生きてきたマイノリティな人々の表情が明るくなる。素直に追い求めることが出来なかった異人種間の恋が前に進む。胡散臭い博物館が夢が詰まったテントへと生まれ変わる。

それらをもっと上映時間が長い映画で見たかった。この素晴らしき楽曲を存分に活かす演出で見たかった。
観客にそう思わせてしまったことが、恐らく第90回アカデミー賞の作品賞ノミネートからも漏れてしまった理由だろう。

深夜らじお@の映画館はこの映画のサントラを買おうと思います。

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2018年01月05日

『キングスマン:ゴールデン・サークル』

キングスマン2イギリスの服飾業でも、アメリカの酒造業でも、マナーが人を造る!
う〜ん、詰め込み過ぎの薄っぺらい作品に成り下がってしまった。テンポも微妙に良くなく、魅力的なキャラの掘り下げもほとんど出来ておらず、ただただアクションのハデさに特化してしまった。
マーリンにもあんなラストを用意しなくても良かったのに…。

一人前のスパイとして成長したエグジーの師匠でもあるハリーが登場することが既に予告編やらポスターなどで明かされていることが残念でならない一方で、アメリカの従兄弟組織「ステイツマン」の登場が何よりも楽しみだったこの続編。

まずロンドンのタクシーは横にも走れるのか!クソ塗れになってでもデートしたかった相手って「スウェーデンのお尻の穴姫」ではないか!という驚きから、懐かしきアメリカの原色を使った小さな街並みをアジトにする麻薬組織ゴールデン・サークルのボス:ポピーを演じるジュリアン・ムーアの天然オトボケ声の心地よさといい、テキーラのチャニング・テイタムはただの無駄遣いキャスティングやん!といい、ジェフ・ブリッジスにシャンパンというコードネームは似合わんなぁ〜といい、この作品ならではの世界観が相変わらず楽しいこと。

加えてウィスキーの見事な投げ縄テクニックがあまりにも格好いいこともあって、アクションも見所が満載と言いたいところが、どうもそのアクションとアクションを繋ぐドラマパートが弱すぎるうえに、テンポも前作と比べても微妙によろしくない。

さらにポピーは麻薬組織のボスとして本当はもっと怖いはずなのに、それを描いているシーンが全くなければ、人間ミンチもスティーブ・ブシェミで見ているから新鮮味もないなど、マシュー・ヴォーン作品として期待していたレベルには微妙に達していないところもちらほら。

極めつけはウィスキーの裏切者である理由と、マーリンの最後。麻薬中毒者への恨み辛みなどをこのタイミングで出されるのも微妙であれば、あの鬼教官で優しきサポーターでもある、酒が入ると泣き上戸になるマーリンになぜ地雷の身代わりという道しか用意出来なかったのか。マーク・ストロングの歌う「カントリー・ロード」があまりにもいい声だっただけに、あんな終わり方ではハリーのような復活も期待できない。

結局、この映画の面白いところは全て予告編で見せてしまっているではないか!というものだっただけに、本物のエルトン・ジョンをしっかりと同性愛者として描きながらも、彼の楽曲でアクションを見せるというセンスは結構良かったという印象だけが残ったこの作品。

面白いんだけれど、我々が期待している面白さには達していない。ロキシーもマーリンもJBもいなくなったけど、エグジーはスウェーデン王室に婿入りしちゃっては今後の世界はどうなるの?続編に乞うご期待かな?という映画でした。

深夜らじお@の映画館はもう少しテンポのいい作品かと思っていました。

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2017年12月07日

『gifted/ギフテッド』

ギフテッドメアリーがメアリーであるために。
7歳にして天才的な数学の才能を持った少女に与えるべきは、どこにでもある笑顔の絶えない普通の生活か、それとも世界に一つしかない特別な英才教育か。
優しさに溢れた演出が戻ったマーク・ウェブ監督の復帰作は、いろんな意味で「おかえり」という言葉が似合う作品だ。

歴史に名を残す直前で命を絶った姉が遺した姪のメアリーを、片目の猫フレッドと共に育てる元・哲学准教授で現在はボートの修理工をしている叔父のフランク。
生意気で気が強いけれど、無邪気で優しさに満ち溢れた姪っ子は、学校の担任教師ボニーだけではなく、近所の世話焼きロバータも、元数学者でもある実母イブリンも認めるほど、天才的な数学の才能を持っていることは分かっている。

けれど彼は決して姪っ子を特別扱いすることはない。だからどんなに周囲が勧めてもメアリーに英才教育を施すために飛び級をさせることもない。ただただ普通の子供と同じように育てたいと、今日もまたメアリーと喧嘩したり、笑顔でじゃれたり、手を繋いだりして一緒に過ごすだけ。

だがイブリンが裁判でメアリーの処遇を決めようと動き出してしまってから、彼は悩み始める。果たして特別な才能を持った姪っ子に必要なのは「普通の生活」なのか、それとも「特別な教育」なのかと。
答えが一つしかない数学を専攻してきたイブリンはその一つの答えに邁進するが、答えがあるとは限らない哲学を専攻してきたフランクはその正しき答えを探し苦悩する。

もちろんイブリンの言い分も正しい。けれどフランクの言い分も決して間違ってはいない。
ただ「超難問を解ける世界でたった一人」が「誰でも出来るインスタント麺さえ作れない存在」になった時、果たしてそれは幸せと言えるのだろうか。恋も愛も知らずに年老いて、歴史に名を残したから幸せだったと人生を振り返ることが出来るだろうか。

幸せの価値観は人それぞれではあるけれど、間違いなく「愛すること」と「愛されること」は誰にでも共通する最大の幸せだ。
特に実父に愛されていなかったと泣くメアリーに病院の待合室で見せた、子供が生まれた時の一般的な家族の喜ぶ様子は、まさに人生最高の幸せにして、愛を教えるにはこの上とない最高の教育でもある。

だから数学の才能を活かすために娘の恋愛さえダメにしたイブリンの行動は、母としては決して間違えとは言い切れないが、人としては決して正しいとは言えない。
対してフランクがメアリーに施す教育は、叔父としても人としても最低限正しいというものを模索し続けている。つまりフランクは基本的なことだけを教えているだけで、最終的な判断はメアリーに任せるという教育だ。

その教育が結実していたのが、イブリンが連れ出した大学での教授からの問題にメアリーが答えを出さなかった理由。年上の間違いを正すな、嫌われるから。

人は誰でも自分が優秀だと思い始めると、知らないうちに周りから嫌われ出す。
逆に他人が持っている自分よりも優秀なものを見つけ続けると、知らないうちに気配りが出来るようになり、自然と周りから好かれていく。

恐らくメアリーは成長すれば成長するほど、自ずと自分の能力を活かす道を選ぶだろう。周りもそんな環境を彼女に与えるだろう。
ただその時、周りが「優秀な少女のために」与えるのか、それとも「愛するメアリーのために」与えるのか。そのどちらが「幸せ」なのかは考えるまでもないだろう。

私も2人の姪っ子を持つ叔父として、フランクの苦悩から想いまで全てが共感出来ると共に、この映画を見て確信したことがある。
小さな子供に「愛」を教えることは、近くにいる大人にしか出来ないこと。才能を活かすかどうかは大人が考えることではない。本人が決めることだ。大人は大人しく情報提供するだけで十分なのだと。

深夜らじお@の映画館も姪っ子たちにこれからも愛とお小遣いを与えて、いつまでも好かれる叔父でいたいと思います。

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2017年07月29日

『君の膵臓をたべたい』

君の膵臓をたべたい桜良の、そして春樹の膵臓をたべたい。
あぁ、何とも可愛らしいストーリーではないか。ベタベタな展開も、唐突なラストもさほど気にはならない物語ではないか。
でも演出と脚本に練りが足りなかったのだろうか、これほど人生観を変える出来事に出逢った少年少女の悩む姿がほぼ描かれていないのは残念でならない。

笑顔の絶えないクラスメイト女子、山内桜良。そんな彼女に隠され、「共病文庫」に綴られ、偶然知ることとなった、膵臓の病で余命1年という秘密。

「僕」こと志賀春樹にとってその秘密を守ることは特別なことではない。彼女にこれまでと「変わらぬ日常」を過ごさせるのも特別ではない。他人との関わりをあまり好まぬ彼にとっては、彼女の秘密を知ろうが知るまいが「いつも通り」でしかないのだから。

でもクラスで3番目に可愛い彼女と過ごすうちに抱き始める友情以上の感情。けれどそれを愛情に昇華させることは彼女から「変わらぬ日常」を、自分から「いつも通り」を奪ってしまう禁断の感情。

だから彼は、感情は「変わらぬ日常」だが、行動は「特別な日常」を彼女と過ごす日々を無意識に選ぶようになる。彼女が図書委員に立候補しても、彼女と福岡へ食三昧お泊り旅行に行っても、彼女の家へお邪魔しても、出来る限り頑なに「友情」を優先する。男として生殺しの状況下で彼が取り続ける行動は地味だがとても男前だ。

ただ彼女が検査入院をすると聞いて、彼女の入院期間が延びると聞いて、彼女が季節外れでも桜が見るために旅行をしたいという願いを聞いて、彼は自分の気持ちに正直に向き合う。彼女のために季節外れの桜を探し、肉まん改め板ガムくんとの友情を育み、親友を奪い取る男として睨んでくる恭子とも話をするようになる。

だが一時退院が実現した彼女と約束した桜を見に行く北海道旅行の日、「君の膵臓をたべたい」というメールの返事は来ず、失意の帰り道にニュースで彼は知る。余命少ない彼女が通り魔によってその命を絶たれてしまったということを。

残された時間なんて、余命なんて、誰にも分からない。病や老衰で命の灯を消すと決まっている訳でもない。それを理解していた彼女と彼にとってのこの唐突な結末はある意味唐突でない結末でもある。偶然が必然であるのと同じ。誰の人生にでも起こりうることなのだから。

けれど心の整理をしたはずの彼が彼女が遺した「共病文庫」を読んで溢れる涙が止まらないシーンを見て思う。「闘病」ではなく「共病」と題された彼女の想いを理解しているはずの彼の現在の姿を見て思う。なぜ教師になり、母校に赴任した彼が「辞職願」を持っているのか。そんな苦悩が彼のどこにあったのかと。

教師はなりたくてなれる職業ではない。試験に合格した努力家にしかなれない職業だ。ならば、桜良から勧められたとはいえ、彼女への想いがベースとなって「志賀先生」となったであろう春樹にとって教師を辞めるほどの悩みとはいったい何なのか。それはこの映画では一切描かれていない。彼が教師になる努力も決断も描かれていない。だから彼の中の「彼女」の存在感が曖昧でしかない。

それは結婚を控えた恭子も同じで、中学時代の孤独から救ってくれた親友を亡くした後、男選びと友達選びに難を抱える彼女がどんな苦悩と努力を経て花嫁になる日を迎えたのかというのも描かれていないので、ここでも彼女の中の「親友」の存在感が曖昧でしかない。

山内桜良と出逢い、掛けがえのない日々を過ごし、彼女を失いまでは描かれている。その後に重要な、春樹と恭子がどう悩み、どう努力してきたかが大事なのに、それが全く描かれていない。だから泣ける作品にまで昇華しきれていないのだ。

病気を治すために患部と同じ臓器を食べていた先人を真似るのではなく、大切な人をずっと自分の中に取り込み続けたいという意味での「君の膵臓をたべたい」はとても面白く巧いタイトルだ。そしてその後にEDロールで流れるMr.Childrenの「himawari」も素晴らしい選曲だ。

でも青春映画を撮るうえで大事な「悩む」というシーンを削ってしまったこの映画は、恐らく原作の面白さを未読者にも映画で伝えるという作業が抜けてしまった、既読者目線で作ってしまった映画なのだろう。だからもったいないという感想が強く残ってしまう。

山内桜良を演じた浜辺美波という若手女優が女の子の持つ笑顔の魅力を思う存分発揮し、それを北村匠海という若手俳優が地味ではあるがしっかりとした演技で応えていただけに、演出と脚本の練りが足りなかったのは本当に残念でならない。

深夜らじお@の映画館もクラスで3番目以降に可愛い女子の方が好きでした。

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2017年07月19日

『彼女の人生は間違いじゃない』

彼女の人生は間違いじゃない遠回りしてしまった人生、それも決して間違いじゃない。
廣木隆一監督自身の小説を自ら映画化したこの作品が描くもの。それは東日本大震災で人生を狂わされた人々の不安と葛藤、そして甘えと覚悟。
どんなに苦しい人生も誰かが助けてくれる訳ではない。自分で勝手に助かるだけ。それが人生なのだから。

東日本大震災での福島の災難はまさに理不尽だ。福島ではなく東京で消費される電気を作っていたがために原発事故に見舞われ、その負債は東京都民ではなく福島県民が背負わされているのだから。

でも同時に福島を始めとする東日本は東京の恩恵を授からずには生きていけない環境下にもいるのも事実。共に切磋琢磨する京阪神を要する関西とは違い、デカ過ぎる東京という巨大都市を無視できないその環境は、精神的にも東京依存という歪な甘えも生む。そしてその「東京依存症」から逃れるには自分で頑張るしかないのだが、そこでもデカ過ぎる東京という存在が邪魔をする。

だから多くの人が上京しようとする。上京すれば何かが変わると信じている。上京すれば新しく出会う人が自分を変えてくれると期待してしまう。

平日は市役所で働き、週末は英会話教室に通うと嘘をついては東京でデリヘルとして働くみゆきも元々はそういう人間だ。性産業に足を踏み入れたのも半分が母親が震災で亡くなった際に彼氏とデートすることで現実から逃げていた弱い自分への戒めで、後の半分は自分を助けてくれる誰かに出逢いたいという願望からだろう。

それは後半で明かされるデリヘル嬢としての面接シーンで泣きながら全裸になる姿に対して、彼女をスカウトした三浦が放つ言葉からも分かる。彼女はずっと誰かが助けてくれると期待していた。

またその弱さは父親の修も同じで、「農家しか出来ない」と言ってはパチンコで保証金を使い果たそうとするも、壺を買わそうとする男に怒ったり、近所の子供とキャッチボールをする優しさを自分の強さと認識出来ずに、終いには亡き妻と出逢わなければ今頃彼女は秋田で幸せに暮らしていただろうにと弱音を吐く姿もまた誰かの助けをひたすら待ってるだけだ。

本来なら市役所で孤軍奮闘する新田勇人のように、いくら祖母や母親が新興宗教に嵌ろうとも、幼き弟の世話も嫌がらずに、また東京の女子大生からの配慮のない質問や墓地探しに苦悩する老夫婦の期待に応えられない現状にも耐え、それでも福島の現実を伝えたい女性カメラマン:山崎沙緒里に写真を多くの人に見てもらう機会を作るといった行動が必要なのに、そんな強き行動が取れる人間はそうそういないものなのか。

いやそうではない。誰もが外部からの不安や葛藤で苦しみ、自分の強さを見失っているだけなのだ。そして自分を助けてくれる誰かを待っているという甘えた自分に喝を入れ、覚悟を以て戦うという機会を得ていないだけなのだ。

現実は誰も助けてくれない。自分で勝手に助かるだけだ。でもいつも誰かが必ず「きっかけ」は与えてくれる。後はその「きっかけ」を自分が「好機」と捉えることが出来るかどうかだ。

みゆきは舞台と場で前へと歩み出すデリヘルドライバーだった三浦の姿を見て、彼の父親になる覚悟を知る。
修は沙緒里が撮った写真に記録された桜並木を楽しむ家族の姿を見て、妻の衣服を妻が眠る海に投げることによって、娘が「買ってきた」ではなく「拾ってきた」子犬の世話をすることで農家としての再起を決める。

「もう元の生活には戻れない」「私は何か悪いことをしたのでしょうか」
そんな言葉が福島の現状を、不安を、葛藤を静かに語る。

けれどその言葉に対する答えは福島の人にしか出せない。しかもその答えを出すのは容易ではない。きっと多くの人が悩み、苦しみ、人生の遠回りをするだろう。

でもその遠回りした人生も決して間違いではない。むしろその遠回りがあってこそ、いまの自分が形成されるのだから。

ストレートに幸せな道を歩んで歳を重ねる人生なんて、ほぼほぼあり得ない。誰もが悩み苦しみ、そして人生の遠回りをして今の自分を作り上げている。

福島の、東北の本当の強さは何か。
今を生きる全ての人が持つ本当の強さは何か。

静かに苦しみ、そして強く立ち上がる演技を見せてくれた瀧内公美という素晴らしい女優を見て思う。

遠回りする人生もいいじゃないかと。

深夜らじお@の映画館も人生の遠回りをして今の自分を形成しました。

※お知らせとお願い
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2017年06月11日

『怪物はささやく』

怪物はささやく12時7分に現れる怪物。13歳の少年が抱く葛藤。それが人生。
これは優しさに溢れた映画だ。だが13歳の少年に酷な現実を突き付ける映画だ。でもそれは誰もがいつかは通らなければならない人生の辛さと美しさを描いたダークファンタジーだ。
コナー少年が語る4つ目の物語。それは私も経験したことのある物語。だがそれはネタバレになる物語ゆえ、未見の方は是非ここでご退席を。

最愛の母親は進行する病に日々衰弱し、学校では日々イジメにひたすら耐え、外国で新しい家庭を築いている父親には期待できず、反りの合わない祖母との新生活には不安しか感じない13歳の少年コナー。

誰も助けてくれない状況に置かれた少年にとって希望となるものは、ただただ母親の回復を信じることだけ。しかし彼は分かっている。心の奥底では理解している。母親の病状が如何なるものであるかを。

だから彼の元に怪物が現れる。部屋の窓から見えるイチイの木が12時7分になると動き出し、コナーの元へとやってくる。そして彼に3つの物語を聞かせるから、4つ目の物語はお前が語れと迫ってくる。

だがそれは現実では起きていない現象。13歳の苦悩する少年の妄想でしかない。
けれどそれは苦悩する13歳の、いわば大人と子供の狭間にいる少年にとっては必要不可欠な妄想。この過酷な現実から逃げて後悔しないためには必要不可欠な妄想なのだ。

怪物が聞かせる物語。それはどれも大人になればその意味を知っているものばかり。
人望厚き王子が自ら恋人を殺すという策略により祖父の王妃である魔女を失脚させた1つ目の物語は、その時々により変わる善悪の判断が嫌いな祖母との関係を少年に問う。
信念を貫く調合師が信念なき司祭の娘を助けたいという願いを断る2つ目の物語は、他者から罰を与えられない苦しみが家具を破壊させた少年に後悔の意味を知らしめる。
誰からも見えない男の孤独が見えるようになるとより深まる3つ目の物語は、いじめっ子への報復が少年にとって何の意味もないことを痛感させる。

そして最後の治療法でさえ、母親を救えないと知らされたコナーが怪物に語れと迫られた4つ目の物語。それは夜な夜な悪夢として少年が見続けた、地割れに落ちそうになる母親の手を離してしまったコナーの本音。私も母親の余命を聞かされてから願ってしまったことのある本音。

避けることの出来ない家族の死。だがいつ来るか分からないその日。
それまで苦しみ続けねばならない身内と、その苦しみを見続けなければならない家族。
その苦しみが終わってほしいと願ってしまうこと。それは願ってしまった者からすれば悪であり、後悔でもある。
けれどそれは紛れもない人間としての本質。誰からも責められることのない願い。

しかしその「願ってしまった」という事実に向き合うことは、残された時間の大切さを知る機会でもある。
コナーが母親を看取った最後の時間。母親に正直に語った気持ち。それは母親リジーが怪物に託したコナーへの人生教育でもあったのだろう。

恐らく怪物の声を担当したリーアム・ニーソンが家族写真にも写っていたことから、彼がコナーの亡き祖父であり、怪物が聞かせた物語もかつてはリジーが父親から聞かされた物語だったのだろう。
だからこそリジーの部屋を改装し、コナーの部屋となった机の上に置かれたスケッチブックに描かれた物語たちに思わず涙が頬を伝う。リジーもまた怪物に出逢っていたのだと。

ダークファンタジーな映像に加え、水彩アニメーションも駆使して語られる物語。その映像美が13歳の少年に酷な現実に向き合わせながら教えてくれる正論では語れない人生。
これは静かに心に残る秀作だ。

深夜らじお@の映画館もあの日願ってしまったことを今も家族には秘密にしています。

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2017年05月20日

『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー:リミックス』

ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー:リミックス〇〇ガーディアンズ・オブ・ギャラクシーへようこそ♪
笑って泣ける新たなるスペースオペラの誕生だ!前作のような映画ファン向けではない、いかにも一般ウケする内容満載でも、やっぱりウォークマン愛用者と姉妹ファイターと破壊王とアライグマと「I AM GROOT」が存在する限り、宇宙に平和はやってこない!
でもそれがいい!

偉大なるケビン・ベーコンへのダンス愛が全く語られなくなった時点で、本来ならこの映画は完全なる失敗作になっていたはず。
しかし「フットルース」どころかヴァンゲリスの楽曲さえ使わなくても、'70sや'80sをふんだんに、かつ絶妙なタイミングで流し続けるセンスが素晴らしいおかげで、この映画は間違いなく「面白い」と断言出来る映画に仕上がっているところが何とも素晴らしいこと。

しかもOPからベビー・グルートが一人ダンスに勤しむ後ろでガーディアンズが全員で協力して頑張っている温度差の違いも面白ければ、破壊王ドラックスの前ではお約束通りに動きが止まる前作ネタも見せる見事さ。

加えてファミリーとしての絆が深まったからこそ、全員で協力しての仕事ぶりも素晴らしければ、互いを思いやる姿も素晴らしいこと。
特にピーターとガモーラの恋模様には婚歴者としてのアドバイスを送り、ベビー・グルートの子守に奮闘するロケットには子持ち経験者としての意見を述べるも、毎度空気を読まぬ発言で〆るドラックスの優しき存在感はとても心地いいこと。

だからこそ、本物のファミリーを築くならネビュラとの姉妹ファイトも容赦しないガモーラの姉御ぶりといい、面倒臭がりなのにベビー・グルートへの教育には粘り腰を見せるロケットの優しさといい、血縁上の父親エゴと育ての父親ヨンドゥのどちらを選ぶかというピーターの決断といい、どれもが心温まるものばかり。

頭に触角の生えたマンティスや姉への対抗心で暴走するネビュラがそんなファミリーに入りたいと憧れるのも納得ならば、そんなガーディアンズ・オブ・ギャラクシーにようこそという言葉を餞に送られるヨンドゥの格好良さも何とも言えない温かさを感じること。

エンタープライズ号プロテクター号と比べるとその見た目のまとまりのなさは突出しているのに、競い合えるピーターとロケットを叱るガモーラの後ろでドラックスが笑い、ベビー・グルートが不思議そうな顔をしているその光景は、どこのクルーよりも絆が深く、そして仲間意識も強いと断言出来る。

そんなファミリーを守るべく、いや正式にはエゴよりも息子想いのヨンドゥの父親ぶりに涙腺を刺激され、旧友シルベスター・スタローンが亡き友を花火で送り、エゴによって握り潰されたウォークマンがiPodへ変わり、ゲーセンのような感覚で戦闘ドローンを動かしていたソヴリン星のアイーシャが新たなる計画を立て、EDロールで「I AM GROOT」が8ヶ所で登場し、スタン・リーが話も聞いてもらえず置いてけぼりにされたその続編はどうなるのか。

出来れば今度こそ偉大なるケビン・ベーコンへのダンス愛を大いに語り、是非そのケビン・ベーコンの出演を実現させていただきたい!その際には是非「Awesome Mix Vol. 3」にヴァンゲリスの楽曲もよろしくお願いします!

深夜らじお@の映画館は反抗期を迎えたグルートにファミリーがどう対処するのか楽しみにしています。案外ネビュラ辺りがいい教育係になっているかも?

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2017年04月05日

『キングコング 髑髏島の巨神』

キングコングYOUは何しに髑髏島へ?
ゾクゾクするB級映画だ。ごちゃごちゃ言わず、ただひたすら怪獣映画の面白味を追求したそのヲタク魂に、歓迎の意を大いに示したいと思える映画だ。
QTやRR、ギレルモ・デル・トロと比べるとヲタク魂はまだまだ一年生。けれど、これから成長する出あろうジョーダン・ヴォート=ロバーツの今後に期待大だ!

怪獣映画の魅力は怪獣同士の戦いではない。人間より遥かに大きな物体が大いに暴れ、自然や人類が作り上げた景色を何の遠慮も躊躇もなくぶっ壊してくれることだ。

しかしこれまで映画では映像技術の未発達もあり、どうしても人間と巨大生物との大きさをリアルに比較することが出来ず、仕方なく観客の頭の中で比較対象の大きさがいかほどのものかを補完してもらうしかなかった。

ところがこの映画ではそんな補完作業は一切不要。事ある毎にリアルな視点で巨大生物の大きさがいかなるものかを映像で示してくれるので、これまでの怪獣映画にはなかった「巨大であるがゆえの言い知れぬ恐怖」というものが、この映画にはわんさか。
だから米兵と日本兵が取っ組み合うその後ろでコングがその姿を現した時の恐怖たるや、もうたまらんばい!

そんな巨大なコングが島の安寧を維持する髑髏島へやってきたのは、命知らずというよりは髑髏島の世間を知らない輩たち。
人間の勝手が許される世界とは違い、巨神どころか自然への敬意も払わない行動は全てコングのお仕置きが待っているというくだりから、とにかく人間の小ささが強調されているというよりは、人間を等身大で描いているためによりリアルにコングの計り知れない大きさに恐れ戦く様が心地よくもあること。

だからこそ全く反省しないパッカード隊長による執念というよりは狂気に近い復讐もより人間の愚かさを強調させ、一方でランダやニーブスなど巨大生物の餌食になってしまうくだりも『ジュラシック・パーク』のようなアトラクションムービーを見ている感覚とは全く違うこと。

まるで人間たちの生き残りを賭けたサバイバルというよりは、今後の展開に備えて余分な登場人物を削ぎ落す作業のようで、それはすなわちこの映画の主役が人間ではなくコングだという証。人間はあくまでも映画を見易くするためのストーリーテラーであって、だからこそコングとヒロインの恋物語もその程度止まり。

つまりJVR監督が描きたいのはキングコングとボストカゲのトンデモサバイバル。だから巨大蜘蛛も巨大水牛も巨大昆虫も巨大トカゲも前座にしかすぎない。人類よりデカいものを描きながら、最後にはそれらよりも遥かにデカいものが大暴れする爽快感こそが怪獣映画の醍醐味だと言わんばかりの心地よさ。

そんなJVR監督には「YOUは何しに日本へ?」でも大いに語っていただきたかった。せっかく成田空港でテレビ東京の敏腕ディレクターに声を掛けられたのに、もったいない。
是非次に来日された時は「モスラ〜や、モスラ〜♪」と熱唱していただくか、庵野秀明版やローランド・エメリッヒ版とは違うゴジラの魅力について熱く語っていただきたい!

てな訳で、またの来日をお待ちしております!

深夜らじお@の映画館はジョン・C・ライリーの胡散臭い日本刀捌きも大好きです。

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2017年03月19日

『哭声/コクソン』

哭声お前は何者だ?
何とも奇怪な映画だ。いったいこの映画をどのジャンルに分類すればいいのだろうか。『エクソシスト』のようなホラーか、それとも『チェイサー』のような猟奇的サスペンスか。
明確な答えもオチもない。いったい誰が正しくて誰が怪しいのか、それも定かではない。ただただ惑わされ続ける映画だ。

ごく普通の田舎の村で起こる連続殺人事件。どの事件も犯人は正気を失った家族による惨殺事件ばかり。
しかし誰かが噂する。あの村の外れに住んでいる余所者の日本人が怪しいと。あの日本人には悪霊が取り憑いていると。どの犯人もその悪霊の仕業だと。

悪霊の仕業と聞いて誰がそれを信じるだろうか。不安を心に留めない状況下にいる者は誰しもそう思う。
けれど明日は我が身かという不安に苛まれると、自分の娘にその悪霊の恐ろしき手が忍び寄ると思い始めると、誰もがその疑念を確信へと変貌させていく。そうだ、みんなの言う通り、あの日本人が怪しいと。あの日本人は悪霊だと。

以前、取引先の社長からこんな言葉を聞いたことがある。人は誰か1人が噂していてもその内容を信じようとはしない。2人が噂しだすと聞く耳は持つが、それでも信じようとしない。ところが3人が噂しだすとそれを信じようとする。たった3人なのに、それを「みんなが」と解釈するようになる。それが「1人、2人、みんな」だと。

だからクライマックスはもう疑念が交錯しすぎて誰が真犯人なのかも分からなくなる。
あの祈祷師は高名だと言うが本当だろうか。それよりも祈祷で惨劇が解決するだろうか。
あの日本人も実は祈祷師ではないだろうか。ただなぜ瀕死状態から復活出来たのか。
あの若い女が実は悪霊ではないだろうか。しかし彼女の言葉も安易には無視できない。
娘が心配なジョングに情報を提供する者誰もが1人だけ。けれどその情報の真偽を判断できるものが何もない。

だから不安に苛まれると限られた周囲から得られる情報の真偽を確かめる前に、その情報が真実としてインプットされてしまう。「言っても信じないだろう」という日本人の言葉も忘れてしまう。韓国人が日本人に対して無意識に敵意を抱く民族的コンプレックスも無視されてしまう。自分が信じたらそれが真実になるということの恐ろしさも理解せずに。

そんな「これをどう解釈したらいいのか…」と迷う映画ですが、とある方の解説文を拝読すると、この映画の答えは全てOPで示されたルカの福音書第24章に載っているとか。
つまり國村隼さん演じるあの日本人がキリストで、あの手の傷はまさに聖痕。その神の子に異教の司祭でもある祈祷師が「殺」を打っちゃったからこんなことになってしまったのだとか。

キリスト教徒ならではのナ・ホンジン監督作品という訳ですねぇ。そういう予備知識も得ていなにゃあきませんな。

深夜らじお@の映画館はキリスト教に関しては勉強不足で疎いです。

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2017年01月13日

『傷物語 冷血篇』

傷物語冷血篇これは傷物になった者たちの物語。けれどその傷物が化物に繋がる物語。
なるほど、あの伝説の吸血鬼キスショット・アセロラオリオン・ハートアンダーブレードはこのようにして幼児体型にならざるを得なかったのか。阿良々木暦の血を吸わねばならない理由もこれか。
不思議と「化物語」が違った印象で読みたくなる物語だ。

なぜフルパワーのキスショット・アセロラオリオン・ハートアンダーブレードがドラマツルギー、エピソード、ギロチンカッターに負けたのか。その理由は忍野メメが彼女の心臓をこっそり盗み取っていたから。
その問題が解けると新たな問題が発生する。阿良々木暦が吸血鬼眷属から人間に戻る以前に、キスショット・アセロラオリオン・ハートアンダーブレードは人間を食べないという確約がどこにも存在しないということ。

伝説の吸血鬼と先日まで高校生だった眷属の間に芽生えた友情は所詮阿良々木暦の人間視点から見た友情であるならば、そこに人間を食すという吸血鬼本来の行動は無視される。
一方でキスショット・アセロラオリオン・ハートアンダーブレードという吸血鬼視点から見れば、そこに人間を食すという行為は人間が牛や豚を食べる行為と同じでしかない。

だから阿良々木暦は悩む。自分が安易なお人好し精神で瀕死の吸血鬼を助けたがために、自分の知る近しい人たちの命が危険に晒されることに。
自分が戦ってきた3人の男たちの方が冷静に世の中を憂いていたことに。
自分の命を以て償うしかないほどのことを自分が知らず知らずにしでかしていたことに。

ただ恋心が友情止まりから一歩も前に進めない羽川翼が阿良々木暦の背中を押す。命を以て償うのではなく、命を賭けて償う。それが逃げない選択だと。自分が阿良々木暦に求めている選択だと。

その愛情にほぼ同義化している友情に阿良々木暦の変態精神が本性を現す。キスショット・アセロラオリオン・ハートアンダーブレードの巨乳対策として羽川翼の胸を揉ませて欲しいという小学生並みの要求を突きつける高校生の阿良々木暦に対して、相当な覚悟を決める羽川翼。

だが阿良々木暦は所詮阿良々木暦。チキンが服を着て歩いている男だ。卑猥なセリフを羽川翼にイヤほど言わせただけで指一本も処女喪失を覚悟した乙女に触れないというのだから、本当にこの男は凄いのか凄くないのかよく分からない。

そして羽川翼との間に愛情は生まれず、友情だけが実を結んだ阿良々木暦がキスショット・アセロラオリオン・ハートアンダーブレードと国立競技場で対峙する。1964年の栄光が残る深夜のオリンピック会場で吸血鬼の特性を活かした殺し合いのような殴り合いが続くが、そこで明かされた事実がキスショット・アセロラオリオン・ハートアンダーブレードの「古傷物語」と繋がる。

かつて人間だったキスショット・アセロラオリオン・ハートアンダーブレード。彼女が人間に戻すことさえもしてやれなかった一人目の眷属への想い。それを二人目の眷属である阿良々木暦で叶えようとするということはどういうことか。
それはお人好しが服を着て歩いているような阿良々木暦が最も嫌うこと。自分が一度でも近しいと思えた存在がこの世から消えるということ。自分の命を以て阿良々木暦を助けようとすること。

だから阿良々木暦は忍野メメに仕事を依頼する。この不幸な状況を何とかしてくれと。
でも誰もが幸せになる結果は存在しない。誰かが不幸になるか、もしくは誰もが不幸になるか。

阿良々木暦が選んだのは誰もが不幸になる結果。しかしそれは誰も死なない結果でもある。
キスショット・アセロラオリオン・ハートアンダーブレードは伝説の吸血鬼としてのパワーを失った。羽川翼を始めとする人間たちは常に吸血鬼の餌となる危機が存在する世の中で生きるしかない。そして阿良々木暦は完全に人間に戻るという術を放棄した。

誰も死なない結果だが、誰もが不幸になる結果。それはこの一件に関わった誰もが傷物になってしまった結果。
しかし傷物はあくまでも一方から見た視点でしかない。別視点、つまり別の誰かから見ればそれは時に傷物でないと見てくれることもある。もしくはもっと傷物になっている者からすれば、それは傷物でさえもないかも知れない。

だから物語は続く。蟹、蝸牛、猿、蛇、猫に出逢うべく続く。

阿良々木暦が経験した春休みの出来事。それは短時間で見れば不幸の塊だ。しかしこれから始まる新学期も含めた長い目で見れば案外不幸でないかも知れないことを、「化物語」を楽しんだファンは誰もが知っている。

深夜らじお@の映画館はここまでしてもらって羽川翼を選ばない阿良々木暦の鈍感さに恐れ入りました。

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2016年12月27日

『こころに剣士を』

こころに剣士をこころに勇気を。こころに希望を。そしてこころに剣士を。
これが実話の持つ静かな感動なのか。もう少し感情を高ぶらせてくれてもいいのにと追加注文をしてしまうくだりもあるが、それでもあの時代にこんなにも高貴な魂が存在していたことに、この見事な邦題と共に感動せざるを得ない。
いつの時代も剣士は勇気で希望を切り開くのだ。

1952年のエストニアではスターリンの圧政と共に、ナチスドイツに従軍していた者を容赦なく強制収容所に送り込む秘密警察が国民の生活に暗い影を落としていた時代。
だからハープサルという田舎町でさえ、父親のいない子供が溢れている。勇気を圧政に奪われ、希望さえも見出せない子供や大人で溢れている。

そんなハープサルに身分を偽り教師としてやってきたエンデルもまた秘密警察に追われる身。元フェンシング選手という経歴も必要のないはずの田舎町で静かに暮らすはずが、偶然にも剣を振るっていたところを少女マルタに目撃されたことから、希望のない町で週末だけのフェンシング部を立ち上げることになるのだから、運命とは騎士の魂を持つ者には自らの手で安息の地を勝ち得ない限りは休むことさえ許してくれないのだろう。

ただエンデルは子供が苦手。しかし同僚で恋人のカドリから子供たちの現状を聞かされると、父親のいない子供たちの父親代わりとして真っ直ぐに子供たちと向き合い、子供たちとの交流も深まり始める。個人的にはこのくだりのエピソード数が少なすぎたのが少々残念だったものの、それでも静かに心は温かくなる。

そして運命が動き出す時が来る。子供たちが見つけたレニングラードでのフェンシングの全国大会の記事。
父親代わりとしても教師としても子供たちを連れていきたい。けれど秘密警察に追われる身としては、また子供たちの父親代わりとしても教師としても、ここで子供たちの前から消える訳にはいかない。

そんなエンデルの葛藤にマルタが「挑戦してみたい」と背中を押す。騎士に必要な勇気。騎士が皆に与える希望。その2つを思い出したエンデルが決断する。レニングラードへ向かうと。小さな騎士4名と共にハープサルの夢と希望を背負って。

だが全国大会の会場ではハープサルは電気剣も持っていない田舎者。出場さえ危ぶまれるも、エンデルたちと同じく騎士の魂を持つ者の好意により電気剣を借りた小さな騎士たちが躍動する。次から次へと相手を撃破し、決勝の舞台へと勝ち残る。

ただこのくだりで描かれるのは子供たちの活躍よりもエンデルの葛藤。信念を貫いたという理由でエンデルを秘密警察に密告した校長の嫉妬も見苦しいだけに、もっと小さな騎士たちの活躍を見たかった。その小さな騎士たちを様々な言葉で鼓舞するエンデルの姿も見たかった。

だからこそ、祖父までも秘密警察に連行されたヤーンが足を挫き、補欠のマルタが急遽最終戦の舞台に立つことになると、自然とこの小さな小さな少女騎士を応援したくなる。
わずか15秒を守り抜けば優勝だったはずが、緊張により同点延長戦へとなだれ込むと、身体も大きな相手に押し込まれるマルタ。
そんなマルタがもう後には引けないところまで下がった時、彼女に宿った騎士の魂が目を覚ます。そして小さなエストニアが大きなソ連に向かって突進する。行け!行け!

しかし小国が大国に一矢を報いた瞬間、小さな騎士たちを育て上げた父親代わりのエンデルは秘密警察に連行されていく。だが彼の表情には後悔の様子はない。騎士が小さな騎士たちを一人前に認めた瞬間でもあるのだから。

そしてスターリンの死去により強制収容所から人々が解放され始めた頃、ハープサルの駅にカドリが待っている人が帰ってくる。マルタやヤーンが待ちわびていた先生が帰ってくる。勇気と希望を捨てなかった騎士の凱旋である。

そんな気高き騎士の魂は今もエンデルの開いたフェンシング部の活動継続という形で生き続けている。何十年というソ連の圧政にも負けず、ソ連崩壊によりエストニアが独立を勝ち得た時、ハープサルで誕生した騎士たちは万感の思いだったはず。

こころに剣士を。
侍の国、日本でも通ずるこの素晴らしき邦題にも敬意を示したい。そんないい映画でした。

深夜らじお@の映画館にとってこの作品が2016年最後の劇場鑑賞作品です。

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2016年12月12日

『海賊とよばれた男』

海賊とよばれた男海賊とよばれた男、國岡鐡造。士魂商才で日本の未来を信じ、礎を築いた男。
改めて日本人としての誇りを感じさせる、何とも日本的で和の心に満ち溢れた作品なのか。
出光興産株式会社創業者の一代記をモデルにしているのに、成功談ではなく「人を想う心の大切さ」だけを見事に描いているこの温かさが素晴らしい!

B29を真正面から見せるOPの東京大空襲から、白組のCG技術の高さを思う存分味わえるこの作品。極寒の満州にしても、焼け野原となった東京の街並みにしても、緊張感漂うペルシャ湾にしても、まるで現地に赴いて撮影してきたかのような、もはやどこがCGでどこが本物の映像なのかも分からなくなるほどの素晴らしい映像の数々。

一方で映画の雰囲気は、どこか『ALWAYS三丁目の夕日』を見ているような、日本人による日本映画でしか描けない「人を想いやる心」が生み出す温かさに満ち溢れたものなので、上映時間145分が短く感じるほど、本当に心が温かくなること。

特に思えば誰もが理想とする上司像でもあるこの國岡鐡造。部下を家族のように想い、メジャーを敵に回しても理想を追い続け、どんなにピンチが訪れても決して諦めずに果敢に攻め続ける。ライバル企業からすれば悪のイメージで「海賊」と呼んでいても、身内からすればその悪名でさえ誇りに思えるほど。

そんな國岡鐡造の人としての素晴らしさが描かれているシーンも数多く、例えば出資者・木田章太郎と共に映った若き日の写真や南方戦線で散った部下の長谷部の写真を常に社長室に飾っていたり、海軍のタンク底に眠る石油回収を部下と共に行ったり、イランへの石油買付という部下を再び戦場に送ることになる際に心のこもった手紙をしたためたりと、会社がどんなに大きくなっても「社長」ではなく「店主」と呼ばれるような上司がいると部下は自然とついていくよな〜と思える「格好いい」エピソードも働く人間からすれば羨ましくもあり、ある意味目標としたいものでもあること。

だからこそ思うのは、やはり木田章太郎から忠告されていたのに気付いてあげることが出来なかった妻ユキとの関係。夫の仕事に理解を示す妻は孝行者であるように、妻の苦労に理解を示す夫も孝行者なのに、鐡造はユキの心情をどこまで理解しようとしていたのかと考えると、國岡鐡造という人物が素晴らしく格好いいだけに、余計に「悔しく」思えてしまうんですよね。
鐡造晩年期にユキが身を引いたという真相も明かされましたが、妻のそういった苦労をお世話になった方から忠告を受けていながら実行に移せなかったのに、新たな結婚で家族を築いていたのは、何だか淋しくも感じてしまいましたね。

てな訳で山崎貴監督作品に出演された俳優陣が数多く出演されては、その俳優さんたち各々に見せ場を作っているこの構成の素晴らしさにも感服させられましたよ。
ピエール瀧さんの銀行説得、吉岡秀隆さんのタンク底石油の回収、堤真一艦長のイギリス軍艦とのタイマン。そのどれもが凄く見応えのあるものばかりでしたよ。

「いっちょ、やったろうやないか!」「舟を出せ〜!」「油持ってきたけ〜!」という数々の喝のあるセリフもたまらんばい!

深夜らじお@の映画館は白組のVFX技術の高さに驚いております!

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2016年11月30日

『劇場版 艦隊これくしょん』

艦隊これくしょんこの戦いに意味はある!
私は提督ではないので、この作品に特別な思い入れはない。けれど不思議と艦娘が集合すると楽しいと思ってしまう。艦隊戦を見ると面白いと思ってしまう。
TVアニメ版の続きという流れでコミカルなシーンはほぼなく、シリアスな展開に終盤は主人公の精神世界での自問自答にはなっていても、楽しめた映画でした。

TVアニメ版ではほぼ登場することのなかった鳥海、加古、古鷹、衣笠、青葉、天龍による夜戦から始まるこの映画は、戦闘シーンがCGそのまんまで残念な結果に終わったTVアニメ版とは違い、艦娘たちの滑らかで格好良く戦う姿がとにかく見応えがあって、凄く楽しくも嬉しいもの。

しかも天津風や時津風、龍驤、明石、龍田、鈴谷、熊野といった上記の艦娘同様にTVアニメ版では登場機会のなかったキャラクターも多数登場して楽しい反面、高雄や愛宕、暁以外の第六駆逐隊、那珂、島風も出番なし状態ということもあってか、TVアニメ版を楽しんだ者としては嬉しさ半分悲しさ半分といったところ。

つまり「ぱんぱかぱ〜ん」や「バ〜ニング・ラ〜ブ!」といったコミカルな部分が全く描かれていないどころか、そんなコミカル担当の艦娘にさえも登場機会がほぼないというのは、やはり淋しくも感じるところ。

ただ単なるTVアニメ版の総集編ではなく、完全オリジナルでTVアニメ版の続きとして描くことで、一度は沈没した如月の帰還、その如月の深海棲艦化、そして加賀や吹雪といった深海棲艦から艦娘へと舞い戻ったことが希望へと繋がる話など、提督でない者でも十分世界観を理解出来る程度の展開で見せてくれるので、これはこれで結構楽しかったです。

でもやはりこういうアニメの最近の傾向なのか、クライマックスで主人公の吹雪が深海棲艦になった頃の片割れと対峙するくだりは、どうも退屈にも感じて勿体無いこと。
別にこういうシーンが不必要だとは思いませんが、もう少し短く描くことで、その空いた時間を別の艦娘を描く時間に充ててもらっても良かったのではないかとも思えてくるんですよね。

北上さんと大井さんの百合時間もほぼなければ、比叡・榛名・霧島の金剛お姉様ラブタイムもなければ、那珂ちゃんのソロコンサートもない。島風の自由奔放時間もなければ、陸奥の長門イジリタイムも第六駆逐隊のレディーへの修行風景もない。
天龍の怖い話は苦手というシーンはあるも、夕立の「ぽいぽいぽい」もない。睦月のヒロインタイムは十分あるも、赤城さんのお食事タイムもない。

結局、改二となった特型駆逐艦でもある吹雪が艦娘たちの希望として、主人公としてこの作品を背負う立場として、この劇場版で確固たる輝きを放っただけ。それで十分な作品ではあるものの、艦娘たちのキャラクターの多さを思えば、欲を出して他のものも見たいと思えてしまうも、それが描かれていないのが残念にも思える作品。

要はもっともっとこの作品をいろんなエピソードで見たいということ。だって高雄・愛宕・鳥海は登場したのに摩耶が登場しないのはダメでしょう。利根教官も登場しなければ、お嫁さんにしたい艦娘No.1の羽黒とお嫁に行かせてあげたい艦娘No.1の足柄も登場しないのは淋しいではないですか。

てな訳で是非ともTVアニメ版第2期を所望すると同時に、また劇場版でもこの艦娘たちを見たいと思える、そんな普通に楽しい作品でした。次の劇場版の時は是非コミカルな作品でお願いしたいものです。

深夜らじお@の映画館はデレる加賀さんをもっと見たいです。

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2016年11月29日

『ガール・オン・ザ・トレイン』

ガール・オン・ザ・トレインアルコール中毒・オン・ザ・トレイン。
古典的ミステリーと言われれば、まさに古典的ミステリー。定番のオチに落ち着くミステリーと言われれば、古臭さも感じるミステリー。要はアルコール中毒で虚言癖のある主人公をストーリーテラーとして受け入れることが出来るかどうかで、この映画の評価も決まってしまうのでは?

「初めて体験する衝撃のラストに激震!」という宣伝文句に興味を惹かれて見てきたこの映画ですが、まずOPから主人公のレイチェルが離婚歴のあるアルコール中毒という状況に「ガールちゃうやん!」とツッコミを入れてしまう始末。

さらにいつも列車の中から眺めているのはかつて結婚していた時に夫と住んでいた家ということもあって「何て未練たらしい女なんや」と思う一方で、虚言癖もあって全然信用の出来ない言動も相俟ってか、どうしてもこのレイチェルをストーリーテラーとしても受け入れることが個人的には難しかったのも事実。

またレイチェルが結婚時代に住んでいた家に現在住まう元夫のトムと彼を略奪したアナという設定も、そもそも略奪愛に成功した愛人が元妻の選んだ家具が並ぶ家に住みたいと思うか?仮に思ったとしてもこんなにも性格のいい女でいられるか?と疑念を抱かざるを得ないこと。

加えてこのアナの子供であるイーヴィのベビーシッターを務める隣人で、レイチェルにとっては理想の夫婦像であり友人でもあるメイガンも、若き日に出産するも自分の過ちで子供を風呂場で溺死させた悲しい過去があるとはいえ、そう簡単にスコットを捨ててトムと浮気するか?と思えて仕方ないんですよね。

結局アルフレッド・ヒッチコックの名作『裏窓』や『めまい』などを彷彿させる演出が散りばめられていると言われても、トムという女癖の悪いダメ男にコロッとダマされたバカな女3人のフェミニズムストーリーにも見えてしまったというのが残念なところ。
上記にもあるように、導入部分で引っ掛かってしまった者としては、どうしても古典的ミステリーと見ることが出来なかったのが残念なところ。

ですからアルコール中毒から立ち直り始めながらも、断片的な記憶を繋ぎ合わせてトムとメイガンの浮気に辿り着き、さらにそこからメイガン殺害事件の犯人が彼女の妊娠告白に動揺したトムだと判明するくだりも、どうも説得力に欠けるので衝撃とは程遠い感想しか残りませんでした。

まぁいつの時代も女癖の悪い男が一番悪いのは当然のことですが、ただそんな男にダマされる女の悪さもさほど追求せずに終わっちゃうラストもやっぱり衝撃とは程遠いものしか残らないこと。

これならレイチェル、アナ、メイガンによる3人の女性それぞれの視点による群像劇として描いた方がまだミステリーとしては面白く見れたかも?
少なくともアルコール中毒で虚言癖もあって明らかにガールちゃうやん!なレイチェルがストーリーテラーにならないだけ、ミステリーとしては見易いものになっていたのではないかと思えてしまいました。

深夜らじお@の映画館は主人公の年齢を考えると「レディ・オン・ザ・トレイン」の方が良かったと思いました。

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2016年11月13日

『この世界の片隅に』

この世界の片隅にありがとう。この世界の片隅にうちを見つけてくれて。
これは万の言葉を用いても表現することの出来ない、今年の、いや日本映画界における屈指の稀有な傑作。見終わると他の映画と同じ扱いをしたくないと思える秀作。
昭和20年を生きておられた全ての先人に感謝します。私たちが今生きているのはあなた方のおかげだと。

1944年の広島・江波から軍港の街・呉の高台にある北條家へお嫁に来たのは絵を描くことが好きな、ぼっ〜としているという言葉が似合うほどのんびりした性格である18歳の少女すずさん。そんな彼女と共に過ごすこの126分は、戦時下の日常生活をありのままに描いた、一見戦争とは無縁にも思える作品。

「みんなが笑顔で過ごせるのが一番」という日常では、戦時下であることすら忘れるほどすずさんの一挙手一投足に絶えず笑いが起こる。憲兵にスケッチブックを没収されたり、楠公飯の不味さを知ったり、後頭部のハゲが見つかったりと、北條家での一日一日も温かく微笑ましい。
だから一家を支える若き主婦であるすずさんもご近所さんに色々教わりながら、食卓から裁縫まで創意工夫を凝らしながら、毎日を楽しく頑張っている。

けれど日常に戦争という「異常」が徐々に割り込み始める時代。初恋の相手で水兵になった水原哲や色街で道を教えてくれた白木リンとの時間の終わりは、すずさんの心に淋しさを呼んでくるが、同時に周作との夫婦喧嘩や義姉・径子の娘である晴美との楽しい時間の大切さを教えてくれる。

だからこそ、これまで時間を掛けてゆっくりと築いてきた大切な日常が戦争という「暴力」によって突然凄い勢いで壊されていくことに言葉に出来ない異様な恐怖を感じる。
当たり前のように土筆が育っている高台から防空頭巾を被ったすずさんが見た呉の空を覆う爆撃の煙。身体を張って嫁と孫を庇ってくれた義父が睡眠不足で倒れたとはいえ、肝を潰すほど心配して涙を流したこと。そんな異常が日常を食い尽くそうとする。

「ずっとこの世界で普通で、まともでおってくれ」と水原哲から言われたすずさんには強く生きることよりも普通に生きることが大切だったのに、空襲が呉の街を壊す。不発弾が晴美の命を奪う。すずさんの右手を奪う。すずさんが大切にしていたものを次々と奪う。

すずさんにとって未来の希望でもあった姪の晴美。大好きな絵を描いてきた右手。共に心の拠り所でもあった大切なものが奪われていく異常な日常。それは小さな子供がいる家庭では想像するだけでも耐えられない恐怖。自分の居場所を失うことと同じ意味を為す恐怖。

だがすずさんはそれでも北條家に居たいと願う。大好きな夫の帰りを待つこの家に居たいと願う。
そんな呉の街に西側から経験したことのない閃光が差す。強風が吹き荒れる。山の向こうから見えるきのこ雲が言い知れぬ恐怖を呉の街に降り注ぐ。

そして迎えた8月15日。玉音放送を聞き終えたすずさんが叫ぶ。「最後の一人まで戦うんじゃなかったのか」と。
信じてきたものが全て崩れ落ちる瞬間は、これまでの頑張りを全て無にされる瞬間。何のために晴美ちゃんは命を落としたのか。何のために私は右手を失ったのか。何のために肝を潰すほどの日々に耐えてきたのか。悔しさも怒りもぶつけることの出来ないすずさんの涙は私たちが流したことのない涙だ。

でも日常から異常が去っても、すずさんと北條家はこれまでと変わらず、いやこれまで以上に強く生きようとする。
ゆっくりと築いてきた大切な時間が凄い勢いで壊され続けた日々が終わったのなら、またゆっくりと時間を掛けて大切なものを築いていけばいい。

闇市での米兵残飯汁に義姉と「うっま〜」と感動した時間も、明るい照明の下で白米を楽しんだ時間も、戦争孤児を養子として引き取って育てていく時間も、全て日常における大切なもの。水玉模様の生地が女性たちにオシャレを楽しませる時代が来たのだから、また昔みたいに「みんなが笑顔で過ごせるのが一番」という日常も戻ってくる。

私たちは今「みんなが笑顔で過ごせるのが一番」という日常が当たり前の時代に生きている。それは昭和20年を生きておられた先人たちが異常な日常という恐怖に耐えて耐えて耐えて、それでも生きることを諦めてこなかったおかげである。この世界の片隅にある希望を見つけてくれたおかげである。

だからこの映画を見終ると、他の作品と同じように普通に映画館を出ようとは思えなくなる。何かこの映画のために、いやすずさんを始めとするあの時代を生きておられた方々のために、何かをしてから映画館を出たいと思えてくる。

そんなことを思わせてくれる稀有な映画に出逢えた。映画人生でもう2度とないかも知れない素晴らしい体験だ。

深夜らじお@の映画館にとってはパンフレットが1,000円なんて高いと思えない!むしろそれ以上の価値がある!

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2016年09月17日

『映画 聲の形』

聲の形この“こえ”を伝えたくて。その“こえ”を聞きたくて。生きるのを手伝ってくれる大切な人だから。
簡単な想いなのに伝えられない。簡単な言葉なのに聞き取ってあげられない。コミュニケーションはそんな後悔の繰り返し。なのに、どうしてそんなコミュニケーションを続けるのだろうか。
これはそんな疑問に温かい涙で素直に応えてくれる秀作です。

我々は知らないものに対して興味を抱く。でもその興味が薄れると無理解が無邪気の仮面を被る。そして聴覚障害でさえ個性だと言う言葉を生み出す。
ただそれは能天気な言葉だ。もしくは本当の苦しみを経験していながら、それに見合う言葉選びが出来ない人の言葉だ。

始めは誰もが聴覚障害の西宮硝子に興味を抱いていた。でもその興味が薄れると少女は仲間外れにされてしまう。補聴器が何度も壊される。やっと出来た友達も奪われる。
けれど健常者である我々はその少女がそんな時どんな想いで「ごめんなさい」を繰り返し、笑顔を絞り出しているのか想像すらしようともしない。

しかしガキ大将からイジメの対象へと格下げされ、母親の右耳から流れる血と170万円の痛みを知り、なおかつ自殺まで考えた石田将也にはその西宮硝子の想いが分かるはず。
だから5年前のことを謝りたいと手話まで覚えた。彼女のために佐原探しから母親のケーキ作り、みんなで遊園地デートまで積極的に動いた。彼女への贖罪や好意以外にそんな優しさがあったからなのだろう。
そんな彼の周囲にビッグフレンド永束を始め、ツンデレ結弦、天邪鬼な植野、偽善優等生の川井、逃げ腰の佐原、マジメな真柴も集まってきたのはある意味当然の話。

一方でそんな石田将也との再会で彼の手話に驚く西宮硝子の表情は、まるで知らない異国の地で日本語が話せる現地人と出逢ったかのようで、それがどれだけ嬉しいことなのか、年頃の少女にとって出来れば隠したいであろう補聴器を見せてしまうポニテへと髪型を変える勇気を絞り出した経緯と同様に、それもまた我々が想像すらしてこなかったこと。

だからこそ、やっと「話の出来る」友達が出来た西宮硝子が石田将也と距離を縮めたいと動けば動くほど、無邪気な仮面を捨てた無理解が邪魔をする現実にも心が痛くなる。
彼女はただ耳が聞こえないだけで他は普通の女の子。永束クンが背の低い男の子であるように、石田将也が他人の顔をまともに見れない男の子であるように、何かしら欠点を持っている我々と同じ存在なのにと。

でもここで一つのことに気付く。彼女もまた我々と同じなのだから、彼女も変わらなければならない現実があるということ。
ただ自分を変えるには時間が掛かる。その長時間に耐え得る勇気もいる。支えてくれる存在もいる。
なのに、その支えてくれる存在が大切になればなるほど、また苦しみが増える。自分が大切な人を苦しめているのではないかと。自分に生きている意味はあるのかと。

それが自殺という選択肢を石田将也や西宮硝子にもたらす。でも自殺の無意味さを知った少年が少女に生きる意味を自らの命の危険を顧みずに伝える。決して浴衣姿で見た花火を人生最後の思い出にはさせないという彼の想いが彼女に自殺を選択したことへの後悔を、大切な人に生きていてほしいという想いは自分だけが持っているものではないことを彼女に伝える。

だから西宮硝子も必死に変わろうとする。そんな2人の想いに神様がいつもの橋で再会を用意してくれる。「きみに生きるのを手伝ってほしい」という言葉を伝える再会を。

自分の価値は誰が決めるのか。それは自分にとって大切な人が決めてくれる。
自分と一緒にいるとみんな不幸になるという理由で死を選ぶ人がいるが、同時に自分と一緒にいるだけで幸せになる人もたくさんいる。その人たちが自分の価値を決めてくれる。

石田将也には、西宮硝子には、学校に行き始めた結弦がいる。願掛けの髭が似合わない永束がいる。手話を覚え始めた植野がいる。千羽鶴を折ってくれた川井がいる。優しい笑顔で待っていてくれた真柴がいる。もう逃げたくないという佐原がいる。

そして顔を上げれば、周囲の声が聞こえる。様々な顔が見える。それらがいつか自分にとって大切な存在となる日がやってくる。それを知れば、自然と涙が頬を伝う。生きていることがこんなにも素晴らしいことなのだと。

コミュニケーションは自分の想いを伝えるもの。相手の想いを知るもの。相手のことを想う優しさを表現するもの。そして生きていることを実感するもの。
ただその手段が時に日本語になり、時に外国語になり、時に手話になるだけ。つまり、手話も日本語や英語、フランス語と同じ言語なのだ。

そう思うと石田将也と西宮硝子の今後を描かない優しさが心地いい余韻になる。パンフレットに描かれた2人の笑顔が凄く幸せそうに見えてくる。
けれど想像してしまう。きっと石田将也は悩むだろう。あの時「月」と聞き間違えた西宮硝子の想いを考えると、次は自分から想いを伝えねばならないと。そんな想像もまた心地いい余韻となるこの作品は今年の10本に入る素晴らしき映画です。

深夜らじお@の映画館はビンタと土下座を経て親友となったママコンビの今後にも興味津々です。

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2016年08月28日

『君の名は。』

君の名は。オリジナルストーリーを期待したのにアナザーストーリーを見せられるとは…。
我々新海ファンが待ち望んでいるのは余韻を残してくれる大人のオリジナルストーリーであって、一般ウケするような既視感のある作品ではない。ましてや、絶対不可侵である過去作品の余韻にまで足を踏み入れてしまうとは…。
残念でなりませぬ!

まずこの作品が面白いかどうかと聞かれれば、間違いなく面白いと答えることが出来ます。ただしそれは新海誠監督作品に対する思い入れがない方に向けての答えのみ。

というのも、この作品には『秒速5センチメートル』でも描かれた駅の風景、『言の葉の庭』でも描かれた都会にそびえ立つエンパイアステートビルのような建物に加え、ユキノ先生の登場など、新海誠監督の過去の作品を見た者にとってはすぐに分かる描写が数多く存在し、それらがプロデューサーを始めとするスタッフたちの新海作品に対する愛だと感じることが出来る一方で、その描写の多さが逆に作品に対する愛の浅さを感じさせると同時に、本作のオリジナリティを薄めることになってしまっているんですよね。

ですから自然と物語も新海作品に似通ってしまっているも勿体無いこと。ただでさえボクたちのドラマシリーズ「放課後」のように男女の入れ替えと、『イルマーレ』のような時間軸のズレた交流で既視感だらけの物語に、まるで『秒速5センチメートル』『言の葉の庭』の後日談を描くような瀧と三葉の互いを想い、互いを探すストーリー。

これは個人的な想いなのですが、新海監督作品の良さは『秒速5センチメートル』『言の葉の庭』に代表されるように、見た人の数だけ後日談があるというような鑑賞後の心地いい大人の余韻が素晴らしいのであり、そこに何らかのアナザーストーリーを当てはめてしまうと、その大事な世界観が汚されてしまうのです。つまり新海作品ファンにとっては御法度の領域なのに、それをやっちゃっているのがこの作品。なので当然そこにスタッフの新海作品への愛の浅さが感じられてしまうのも残念無念。

ただ相変わらず風景描写は美しいうえに、奥寺先輩だけでなく、髪を切った三葉も大人になった三葉も凄くべっぴんさんに描かれていたのは素晴らしかったですね。
ただその三葉と瀧が現実世界で初めてなのに再会するシーンで2人の間に電車が通るって…。それは『秒速5センチメートル』の世界だけにしてくれよ。

てな訳で新海監督作品なのに踏切がメタファーになることのない世界観のお話なんですから、せめて三葉の下校シーンで踏切を描くようなこともしないでくれ!こういうところにも新海ファンとしての愛の浅さを感じずにはいられない、新海ファンとしては残念な作品でした。

深夜らじお@の映画館は宮水三葉のような女の子は大好きです。しかも瀧にとって年上っていうのがいいですよね〜。

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2016年08月26日

『ゴーストバスターズ』

ゴーストバスターズこちらの方が断然面白いよ!
32年ぶりに主人公たちを全員女性に変えてリブートされた新生ゴーストバスターズは、王道の物語なのに、これがコメディ映画の本道とも言える面白さが詰まったフェミニストコメディ。
オリジナルメンバーを探す面白さも相俟って、懐かしさを残しつつ生まれ変わった楽しさも存分に味あわせてもらいましたよ。

ハロルド・ライミスの訃報によりオリジナルメンバーでの続編製作が途絶えてしまったはずなのに、アイヴァン・ライトマン監督に代わりメガホンを取ることになったポール・フェイグ監督が提案したのは主人公たちを全員女性に変えてしまうこと。

しかしただ男性を女性に変えるのではなく、女性らしさを出しつつ、ガールズムービーにはならないように、むしろ分かり易いべっぴんさんお断りな世界観で新生ゴーストバスターズを見せてくれるんですから、面白くないはずがない!

逆に美人でもちょっとおバカな方がいいという女性蔑視があったオリジナルを意識して、今度は逆に男前でもちょっとおバカな方がいいという男性蔑視で素晴らしいキャラクターをクリム・ヘムズワースに演じさせちゃうんですから、これまた面白くないはずがない!

ですからゴースト関連から離れたかったエリンが旧友アビーとの絆を取り戻す展開が王道でもいいんです。ジリアン・ホルツマンの発明が実は凄すぎるじゃなイカ!という点が強烈なキャラに負けているのもいいんです。やっぱり黒人枠は博士じゃないのね♪というのもいいんです。

要はおいしいところ獲りを狙う男性市長を見返したい!あの傲慢な秘書の鼻をへし折りたい!能力があるのかどうかも分からない捜査官たちより自分たちの方が適役だと認めさせたい!という精神的エネルギーでゴースト退治に向かうのがいいんですよね。
オリジナルのように金目当てではないのが、女性が主役ということも相俟って、爽やかに感じるのがいいんですよね。

だから自然と彼女たちを応援したくなる。電話もロクに取れないケヴィンもだんだん可愛らしく見えてくる。食事風景が汚らしいスライマーを久しぶりに見ても嫌悪感よりも、懐かしさと共にこれからやっぱり退治されるのね♪という愛おしさも感じる。それがこの映画の魅力なんだと思います。

そしてオリジナルメンバー探しも一筋縄でいかないところもまた面白いこと。
まさかビル・マーレイがゴースト退治に懐疑的な教授役で出演しているのも面白ければ、ダン・エイクロイドはタクシー運転手で登場。当然パティが繰り返すおじさんの存在がアーニー・ハドソンだと分かって待つラストも楽しみでしたけれど、まさかEDロール終わりでシガニー・ウィーバーまで出演するとは!
そしてあのホテルのおばちゃんフロント係がアーニー・ポッツだと!ゴーストバスターズ社の受付嬢がホテルのフロント係に転職してるじゃなイカ!

てな訳で古い元消防署を改装したゴーストバスターズ社でポールを伝って出動するシーンが見れなかったのが残念だったものの、それを是非続編では見せていただきたい!そう思えるほど楽しませてもらった作品でした。

深夜らじお@の映画館はまだまだこの新生ゴーストバスターズの活躍を見たいです。

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