映画レビュー【さ行】

2019年04月21日

『シャザム!』

シャザム!能天気ヒーローが世界を救う!
運命に導かれてヒーローになることもなければ、ヒーローになったが故の苦悩もない。ただ単に身体が大人になったぜい!あれもこれも出来るぜい!スーパーパワーも使って目立っちゃうぜい!そんな能天気要素が満載。
でもそんな能天気さこそ、真面目だけど雰囲気の暗いジャスティス・リーグには必要な存在だ!

七つの大罪という悪魔を抑えてきた魔術師が後継者をスカウトしても失敗続きという、これまでのヒーロー映画ではあり得ない「ええ加減」な導入部分から、この映画には悲壮感とか乗り越えるべき壁とかが全く存在していない。

しかも主人公のビリーが幼き頃に離れ離れになった母親を探す孤児なうえに、里親の家で出会った同じ孤児仲間は年齢も人種も体形も性格もバラバラ。ルームメイトのフレディに至っては右足が不自由で杖が離せない。まさに悲壮感とか乗り越えるべき障壁とかが存在しないはずはない状況下なのに、それが逆に個性に見えてくるのだから、この映画はこれまでのヒーロー映画とは一味も二味も違うのだ。

さらに「シャザム!」と叫ぶだけで魔術師から能力が移れば、時代錯誤のダサい衣装と地味な大人の顔になるという、スタイリッシュさとは無縁なところも個性的なら、ヒーローになったことで得たスーパーパワーよりも大人になったことを喜ぶところもヒーロー映画としては個性的。

でも思春期を過ごした方なら誰もが共感してしまうのは、やはり大人になったらやってみたいことを子供の時に経験出来る楽しさだろう。
強盗を撃退することよりもビールを飲んで「まずっ!」と吹き出すところといい、雷パワーで自販機から無銭頂戴したコーラを飲みまくって下痢になるところといい、ストリップ劇場にちょっとお邪魔してくるところといい、特にお年頃男子なら誰もが考えることを実行に移しているところが何とも可愛らしいこと。

また強盗に銃をもっと撃ってとせがんだり、あれこれスーパーパワーを試しては動画をアップしたりと、正義のために使うのではなく、今を楽しく過ごすために使うという子供染みた考えを試しに試しまくっているところも可愛らしい。

だからこそ、生き別れた母との再会や決別にもそんなに感動要素はいらないと、そそくさとスーパーヴィラン:シヴァナとの対決に移っていくお気楽さも、ここ一番で魔術師の言葉を思い出して孤児仲間を全員ヒーローに変えてしまう意外性も、王道ヒーロー映画にはあり得ない要素ばかりだけれど、それが全部不思議と「子供が主役だから」という感じで許せてしまう。

そして最年長のメアリーはヒーローになっても何の活躍もしてないやん!とか、バットマンの財力以外のパワーは全てこの6人のヒーロー軍団で賄えるよね?といったジャスティス・リーグ内に一大派閥完成予想図とか、絶対にバットマンはこのヒーロー軍団のノリについていけないだろうけど、スーパーマンは大きな心で受け入れてくれるよね。ということは、またバットマンの存在価値が財力だけになってしまうなぁ〜など、DCヒーローの行く末を考えれば考えるほどワクワクする要素も満載。

そして最後はスーパーヒーローマニアのフレディの名誉回復のために、シャザムや家族仲間だけでなく、まさか全身青タイツのあのスーパーヒーローまで学食を抱えて現れてくれるとは!
EDロールでもワンダーウーマンやスプラッシュ、アクアマンも彼らを歓迎してくれるだろうけど、やっぱりバットマンはこの思春期の能天気なノリにはついていけないだろうなと思わせる演出にもニンマリ。

声を出して笑える要素があまりにも少なすぎて、地味な雰囲気がより地味に感じた作品ではあったものの、こういう亜流なヒーロー映画もいいじゃないですか!

深夜らじお@の映画館は大人になった子供たちが揃いも揃ってアメリカのドラマに出てくる派手さのない面々であることが妙に面白く感じました。

※お知らせとお願い
【元町映画館】へ行こう!

acideigakan at 23:23|PermalinkComments(10)clip!

2019年03月09日

『スパイダーマン:スパイダーバース』

スパイダーマンスパイダーバースヒーローを救うヒーロー映画、ついに現る!
ヒーローはいつだって孤独だ。愛する人を失った悲しみを背負いながら、何度も立ち上がり悪と戦わねばならない。なのに、時には世間からの間違った批判にも耐えねばならない。たった一人で。
だがそんな時代はついに終焉を迎える。アメコミをそのまま映画化したようなこの作品によって。

ピーター・パーカーを失った世界で一人の黒人少年マイルスが苦悩する。警官の父親から受ける多大な期待と、優しい叔父に見守られながら開花させたい絵の才能と、放射能蜘蛛に噛まれたことで制御出来なくなった自分自身のパワーに。

だが自分への失望で死んでしまった妻と息子を生き返らせたいがために時空を歪めようとするヴィラン:キングピンや女性版ドック・オクによって存亡の危機に陥った世界は、そんな少年を待ってはくれない。ヒーローを失った世界はこのまま滅んでしまうのか。

しかし時空が歪められたことによって、様々な世界で活躍していたスパイダーマンたちが少年のいる世界に迷い込んでくる。いわゆるパラレルワールドだ。

MJと離婚した中年太りのピーター・B・パーカーに白いフードを被ったスパイダー・グウェン、モロクロ世界からやってきた渋めのスパイダーマン・ノワール、中国訛りなのに日本人機械系女子高生のペニー・パーカー、そしてなぜかアニメの世界から木槌を持ってやってきたブタのスパイダー・ハムは、自分達が元々いた世界に戻ると共にキングピンの野望も阻止しようとするが、違う世界からやってきた彼らはフルパワーを出せない。

だからキーパーソンにもなるマイルスのヒーローとしての才能開花が待たれるが、信頼していた叔父がヴィランのプラウラーだっただけでなく、キングピンによって命を奪われたことで、マイルスは自信をも失ってしまう。

けれど、そこでマイルスは知る。ピーターもグウェンもノワールもペニーもハムも大切な人を失っていたことを。なのに、孤独に耐えながら戦い続けていたことを。そしてそんな状況下でも何度も立ち上がってきたことを。

父親の想いを知った少年が、ヒーロー仲間の苦悩を知った少年が、スパイダーマンの遺言を誰よりも守りたいと思っていた少年が、ついに自分自身に決断を下す。自分が何をすべきかという決断を下す。

透明になることが出来るだけでなく、電流まで使いこなせる黒を基調とした新スパイダーマンは、木槌をくれた仲間を、愛用ロボットを失った仲間を、ルービックキューブを気に入った仲間を、自分の失態で変な髪型にしてしまった仲間を、そして愛する妻への想いに気付いた仲間を元の世界に帰すために、ついにヒーローとして立ち上がる。

ヒーローは遅れてやってくる。だがヒーローは自分を信じて任せてくれたその想いを決して裏切らない。仲間の、父親の想いをパワーに変えて、間違った愛に走るヴィランを倒し、世界を救うために。

そんな新スパイダーマンの活躍を、まるで仮面ライダー大集合のような楽しさを兼ね備えたスパイダーマン大集合の活躍を、この映画はアメコミ風な吹き出しやコマ割りと共に手描きとCGのタッチを巧く組合せ、映画を見ているようでコミックを読んでいるような、いや動くコミックを見ているような不思議な感覚で思う存分に楽しませてくれる。これがたまらなく新鮮で、楽しくて、興奮せずにはいられないのだ。

そしてサム・ライミ版だけでなく、アメイジングなスパイダーマンにも敬意を払ったこの映画は、スパイダーマングッズを売っていたスタン・リーの言葉で終わりを迎える。

困っている人がいれば迷わずに助けに行くのが真のスーパーヒーローだ。
ありがとう、1人じゃないと分かったから。

アベンジャーズもそうだが、ヒーローはヴィランだけでなく自身の孤独や世間からの無理解とも戦いながらしか存在出来ないものだと思われていたが、決してそうではない。
ヒーローだって救われてもいいじゃないか。いや救われるべきではないか。

困っているヒーローがいれば迷わずに助けに行くのが真のスーパーヒーローだ。

なのに、EDロール後の映像がまさかまさかのスパイダーマン同士の指差し応酬による情けない喧嘩で終わるなんて…。
これもソニーピクチャーズアニメーションなりのジョークですか?

深夜らじお@の映画館は多種多様なスパイダースーツを地下に隠し持つメイおばさんがアルフレッドに見えてしまいました。

※お知らせとお願い
【元町映画館】へ行こう!

acideigakan at 23:59|PermalinkComments(12)clip!

2019年02月17日

『女王陛下のお気に入り』

女王陛下のお気に入り女と女と女と宮殿の中。
格調高い宮殿と華やかな衣装とは対照的に、どこまでもどこまでも下世話で滑稽な女王と侍女と召使の権力と寵愛を巡る実話の泥沼劇を見て改めて思う。いつの時代も女性って本当に怖い…。
オリヴィア・コールマン、レイチェル・ワイズ、エマ・ストーンによる三つ巴の演技バトルの前では、男の存在など無いに等しい。

フランスとの戦争に国費を費やす18世紀初頭のイングランドにおいて、アン女王は17人の子供を死産などで亡くした悲しき女性というよりは、体型だけでなく性格までも醜い、まさに大きな甘えたな子供でしかない。
常に自分を必要としてくれる存在からの愛を求めるものの、自主的には動かない。だがそれでも絶対権力者ゆえに、扱いを一つでも間違えると厄介な存在にもなる。

そんな大きな子供をあやし、女王の幼馴染という立場を最大限利用して実質国家の運営に携わっていた冷静で冷酷にも思えるレディ・サラは、一見自分のために権力を利用しているようでもあり、国家のためにわざと悪役を買って出ているようにも見える。だが本当は最前線にいる夫のことが心配なだけの女性なのかも知れない。

だから泥塗れでやって来た新入り召使にて、あの手この手を駆使しながら常に相手の隙を狙い続けるアビゲイルの存在は、レディ・サラにとっては女王からの寵愛を奪う存在である以上に、自分が動かしてきた国家の安泰を揺るがす「千里の堤も蟻の穴から」のような存在なのだろう。

ただ男同士の争いなら直接対決の場を設けての事案解決への流れへと持って行くものだが、女同士の争いは様々な悪趣味な嫌味を笑顔で放ち、様々な顔を状況に応じて使い分け、相手が自分の視界から消えるまで攻撃の手を緩めない情け容赦のないもの。

さらにレディ・サラは権力の行使を、アビゲイルは身分の安泰を、アン女王は不滅の愛情をと、三者三様に求めているものが違うはずなのに、ここにそれぞれの邪な感情が入り込んでいることもあってか、不思議と誰かが誰かの求めるものを邪魔する存在だとそれぞれが思い込んでいる、本当に変に絡まった関係に陥っている滑稽さが、この止め時を一切考慮しない女同士の醜い争いを皮肉な結末へと誘っていく。

レディ・サラに毒を盛って宮殿から追い出したはずのアビゲイルは女王公認の結婚により身分の安泰を得たはずなのに、未だに醜い女王の世話をしなかればならない。
幼馴染を追い出してまで自分の思うがままの状況を作り出したはずのアン女王も、叱ってくれる相手がいない生活には楽しみを見出せなくなってしまっている。
そして顔に消えない傷を負わされ、宮殿からも追い出されたレディ・サラは帰還した夫との静かな生活が待っているはずだったのに…。

淡々と進む物語なのに、3人の女優による醜い女の争いは全く飽きることなく、逆に凄く楽しい。
だがこの淡々さで物語を8章に分けられると、少々退屈さも顔を見せるほどの長さを感じてしまうのは残念なところ。
個人的には5章くらいに分けてもらえたら、もっと楽しめたのだが…。

深夜らじお@の映画館はこの映画における男性の存在感の薄さもヨルゴス・ランティモス監督の見事な演出のおかげだと思います。

※お知らせとお願い
【元町映画館】へ行こう!

acideigakan at 23:57|PermalinkComments(4)clip!

2018年12月15日

『斬、』

斬お前の本気を見せてみろ。
なぜ人は人を斬るのか。それは日本における幕末での話。
なぜ国は国と争うのか。それは保護主義政策が蔓延する現代の話。
なぜ人は人を殺すのか。それは世界における人類普遍の話。
なぜ人は人を描くのか。それは命の意味を知る者の話。
塚本晋也と非暴力。美しき理想と汚らわしき現実。それが命と死。

一人の若き浪人、つまりは侍が農作業を手伝っている。人を殺める人間が、人を生かす米を作る手伝いをしている。
彼は農民の息子に木刀で実践的な剣術を教えている。人を殺すことの出来ない道具で、より現実的な殺し方というものを教えている。

杢之進という若き浪人は、凄腕剣士・澤村だけでなく、農村にやってきた無頼者集団の頭である源田も認めるほどの剣の腕前だが、人を斬ったことはまだない。だから本当の実力は未知数だ。

けれど澤村は杢之進を動乱の京都へと誘う。源田は杢之進に一目置く。剣術を教わっている農民の息子・市助は杢之進をライバル視する。市助の姉・ゆうは杢之進に好意を抱く。
きっとこの男は侍として立派に役目を果たす。きっとこの男と戦えば無傷では済まない。きっとこの男より自分の方が可能性を秘めている。きっとこの男といれば安心だ。そんな様々な想いを抱きながら。

だが京都への出立の日、杢之進が病で倒れる。順調に進むはずだった計画が徐々に狂い出すことで、それまで見えていなかったものが見えてくる。
早く出立したいが故の苛立ちを源田にぶつけてしまう市助。役に立たない杢之進に三行半を突き付けるゆう。静かに杢之進の回復を待つ澤村。

でも実は自分の無力さを知らされた市助であり、他者への依存で態度をすぐ変えては生きているゆうであり、早く出立したい苛立ちを源田一味の掃討という形で憂さ晴らしをした澤村でもある。
そして人を斬ったことのない杢之進は知る。無頼者集団と対峙したことで自分の内面を知る。自分には人を斬る覚悟がない。だから刀を携える無頼者たちに対し、木刀で戦おうとしてしまう。

けれど「ヤツ」的存在でもある澤村は、それでも杢之進の可能性を信じているのか、それともそんな杢之進が許せないのか、無理にでも若き侍の実力を引き出そうとする。
自分勝手な者たちが杢之進に秘められた未知数の実力を引き出すために御膳立てをし、「ヤツ」が最後に迫ってくる。

それはまるで中国や北朝鮮といった自分勝手な主張を繰り広げる国々によって作られた不安に対し、剛腕なアメリカが日本に迫っているようなもの。日本に戦争をしろと迫っているようなもの。

木刀が真剣に変わった時、杢之進は澤村を殺めた。自衛隊が軍隊に代わった時、日本はどうなるのか。また『野火』の悲しみは繰り返されるのか。我が国は『鉄男TETSUO』のような末路を辿るのか。

私たちが気付かぬ間に、すぐ近くまで「ヤツ」が来ている。

深夜らじお@の映画館はこの作品こそ、さすが塚本晋也監督作品だと思います。

※お知らせとお願い
【元町映画館】へ行こう!

acideigakan at 10:00|PermalinkComments(0)clip!

2018年11月11日

『ジョニー・イングリッシュ アナログの逆襲』

ジョニー・イングリッシュ3世界最高のスパイにデジタル攻撃など通じぬ!
さすが悪運だけで全てを乗り切る映画界最強のスパイ:ジョニー・イングリッシュだ。周りが活躍するだけで本人は何もしていないのに、なぜか彼が活躍していることになってしまうというのだから、やはり彼に勝るスパイはいない!
でもいつもより大人しくて、全然くどくなかったのが残念。

世界中のスパイの情報が何者かのハッキングにより漏洩。もはやこの危機的状況で頼ることが出来るのはあの男しかいない!…なんて、1作目と似た入り方やないか!と驚いてしまうこのシリーズ3作目。

だが伝説のスパイは今や現場から退いた身。地方の学校で幼き生徒たちにスパイ活動から美女の口説き方まで教える社会科の先生になっているとはいえ、現場復帰は大変なはずなのだが、幸運なことにこの男には頼もしき部下がいる。
それが懐かしきボブであり、彼が何から何までやってくれるので、正直ジョニー・イングリッシュに活躍の場などないはずなのに、最後は全て自分の活躍にしてしまうのは、さすが世界最強のスパイ。

ただこれまでのシリーズ2作と比べると、ローワン・アトキンソンならではの「自分は優秀だという勘違い」要素が薄いうえに、彼の十八番であるセリフなしの一人芝居シーンも凄く少ないので、全体的なユルい雰囲気と相俟ってか、笑いという部分では物足りなさは強く感じてしまうのが残念なところ。

ヴァーチャル・リアリティで屋外で大迷惑のくだりも面白いが、ローワン・アトキンソンならもっとムチャなことをしてくれないと楽しくない。デジタル武器開発の若き担当者Pが顔面蒼白になるくらいにまでやってほしい。
若くて有能なデジタルに老いた偏屈のアナログで対抗するという基本骨格も、黒幕がジョニー・イングリッシュにイラつきながら劣勢状況に悔しがるという面白さがないと、どうしても満足度に欠けてしまう。

しかしロザムンド・パイクに続き、『気休めの報酬』もとい『慰めの報酬』のボンドガールであるオルガ・キュレリンコをヒロインとして出演させる暴挙、もとい快挙連発は凄い!

さらにアストンマーティンを乗りこなす似合わぬ格好良さといい、忠告されていたのに潜水艦の近くで携帯電話を使ってしまったがためにミサイルを発射させて目標を見事に破壊するという好結果に繋がるという悪運の強さも凄い!

またG12の場でオイル塗れの甲冑で見事なスライディングを決める情けなさも凄ければ、同じく男前な黒幕に騙されてばかりの情けない首相から最後に賛辞を贈られると醜態を晒す不運さも凄い!

もちろんそんな世界最強のスパイ以上に二重スパイとして暗躍する元ボンドガールのオフィーリアといい、潜水艦の艦長を妻に持つ優秀な部下ボブといい、彼らの活躍も凄いが、最終的には御年60歳にしてあのキレキレなディスコダンスが出来るローワン・アトキンソンが一番凄いとしか言い様がないのだ。

とにかくこの世界最強のスパイはやっぱり凄い、凄いのだ。
だからこそ、ここまで来たら残るはジェームズ・ボンドを演じた俳優に出演してもらうことを実現するのみだ。何なら敵役を演じた俳優たちにも一緒に出演してもらうべきだ。
ピアース・ブロスナンやダニエル・クレイグなら快諾してくれるはずだろう。
悪役ならショーン・ビーンあたりが快諾してくれそうだ。

深夜らじお@の映画館はまだまだこのシリーズの続編を見たいです♪

※お知らせとお願い
【元町映画館】へ行こう!

acideigakan at 23:59|PermalinkComments(0)clip!

2018年09月15日

『ザ・プレデター』

ザ・プレデタープレデターvs.七人のエクスペンダブルズvs.プレデター。
さすが『プレデター』で通信兵ホーキンス役として出演していたシェーン・ブラック監督だけあって、何てプレデター愛に満ちた作品なのか。
面白いよりも懐かしいという感情が先行するかと思いきや、はみ出し者たちの奮闘ぶりに感動するとは予想外の面白さではないか!

ジャングルで人間を狩れば、ロサンゼルスという大都会でも人間を狩る。でもエイリアンという獲物を仕留めるためなら、時に人間とも共闘作戦を取る。
それが狩猟民族であり、知能の高いが、フルフェイスマスクの下はとんでもないブサイク顔のプレデター。

ただ「プレデター」の意味は「捕食者」なので、その行動原理を見る限り「ハンター」ではないかというツッコミもお遊びで放り込めるほど、このシリーズを、いやこのプレデターを心から愛しているであろうシェーン・ブラック監督は、とにかく単なるアクション主体の、ヒーローが一人で活躍するようなSF作品にはしない。

あの全盛期のアーノルド・シュワルツェネッガーでも、中年刑事ダニー・グローバーでも敵わなかった強敵には、個性豊かな七人の元軍人たち、しかもPTSDで苦しんでいる護送中のはみ出し者ばかりで勝負!もちろん全員に見せ場あり!なのに、服を脱いで熱感知を逃れるという手はここ一番では全く使いません!という、この作品だけを見ればツッコミところ満載でも、シリーズ全体から見るとそのツッコミが全てプレデター愛に見えるという映画に昇華しているところが素晴らしいこと。

だからこそ、随所に散りばめられた笑いも、別に劇場内で全く笑い声が聞こえなくても楽しい。1号プレデターが実は人間の味方で、追跡者プレデターが人類の骨髄液を使っての異種配合を目的にしていたという、やっぱり人類とプレデターは共闘出来るのだという変わらぬ史実も面白い。

さらにプレデターの母船にエイリアンの頭蓋骨標本がなくても、つい探したくなってしまう。PTSDの軍人たちがいつ全裸になって熱感知から逃れるのかというシーンがなくても、なぜかブラケット博士が1号プレデターから一度それで逃れたからいいかと満足してしまう。「このブサイク野郎」というセリフがなくても、「ビューティフルなクソ野郎」という真逆のセリフで楽しめてしまう。

そして何よりもマトモとは縁遠いはみ出し者の七人が、ハーレイ・ジョエル・オスメントくんのように君も成長すると顔が長くなるのか!と言いたくなるような成長を遂げているジェイコブ・トレインブレイくんを守るために活躍し、一人また一人と散っていく様がまさに黒澤明映画のようで美しい。

まさに映画愛とプレデター愛に満ちた作品がこの映画であり、ではそんな作品のオチはどうするのか?という疑問にも、シェーン・ブラック監督は最高の答えを持ってくるところが素晴らしい。

人類が装着することで新種の格好いいプレデターのような戦闘スーツへと変身する、プレデター・キラー。この戦闘スーツさえあれば、宇宙犬という相棒もいるのだから、どんなプレデターでもバッチ来い!
まるでターミネーターにはターミネーターで対決するような展開を期待させる一方で、宇宙犬がリーサル・ウェポンの如く大活躍してくれることも期待してしまう、シリーズを見てきた者にはその大いなるプレデター愛が楽しくて仕方ない映画でした。

でも世間的にはヒットしないだろうなぁ…。

深夜らじお@の映画館は逆さ吊りで内臓露わなバイオレンス映像も懐かしく思えました。

※お知らせとお願い
【元町映画館】へ行こう!

acideigakan at 16:55|PermalinkComments(2)clip!

2018年07月13日

『ジュラシック・ワールド 炎の王国』

ジュラシック・ワールド原点回帰、単純明快、勧善懲悪。
ある意味、スティーブン・スピルバーグよりスティーブン・スピルバーグらしい映画だ。作品としての物足りなさは往々にしてあるが、それでもこのシリーズのこの感覚が懐かしいと思いながら映画を楽しむことが出来るとは予想外だった。
ただこの終わり方で次のシリーズ完結作はどうするの?

1993年から続くこのシリーズの面白さは、やはり恐竜という非日常的で巨大な生物の前では人類は所詮無力な生き物にしか過ぎないのに、科学技術の発達で高くなった鼻を結局はへし折られるという物語を、生きるか死ぬかの脱出劇の中にスティーブン・スピルバーグらしい笑いを含めつつ、最後の最後までエンターテインメントとして見せ切ることだろう。

ただ新たなシリーズとして始まった前作は良くも悪くも1993年の焼き直し。それではエンターテインメントとしてダメだという結論に達したのか、今作はいわばこれまでのシリーズのいいとこ取り。あとはそれをどう調理するのかは監督の手腕次第というなか、さすが我らがJ・A・バヨナ監督はやってくれました。

予告編でほぼ見せ切ったであろう前半のイスラ・ヌブラル島、つまりは旧ジュラシック・ワールド跡地での恐竜保護及び救出作戦は、まさに原点回帰。噴火活動という巨大な自然の前では人類がいかに小さな存在かを尽く見せてくれて、これはこれで楽しい。欲を言えば、予告編で見せ切って欲しくなかった。

そして恐竜を闇オークションにかけるロックウッド邸での恐竜救出及び悪人退治作戦は、まさに勧善懲悪。悪人が全て恐竜の餌食になる爽快さに加え、J・A・バヨナ監督らしく子供を物語のキーパーソンにするところがなかなか面白い。しかも今作でもやっぱりチャールズ・チャップリンの娘でもあるジェラルディン・チャップリンが出演しているのも嬉しい。

なので、エンターテインメントとしては楽しい。クライマックスを迎えるまでは常に火山島と御屋敷、オーウェン&クレアとクローン少女メイシーという風に、2つの話を同時進行で見せる演出もいい。
加えて恐竜の命運を自然に任すという選択肢を政府がイアン・マルコム博士の提案の下で行ったのに対し、クローン少女がクローン恐竜を生かすという選択をする最後に下すところもテーマがまた進化したと思えて面白い。

しかしブルーとオーウェンの絆がどうも弱いので、遺伝子組換新種恐竜インドラプトルとの戦いも思ったほどの緊張感も怖さもない。
悪玉イーライ・ミルズも小者すぎてティラノサウルスに喰われるという最期もオチとしてはインパクトに弱さを感じずにはいられない。

そして何よりも「いらんことしいネエチャン」であるブライス・ダラス・ハワードが何も「いらんこと」をしていないのが残念でならない。インドラプトルとの決着の場でも「いらんことしい」としての本領を発揮するのかと思いきや、マトモなことしかしないのが淋しくてならない。

それなのにオーウェンとは男女の関係に戻るかのようなシーンは一切ない。1993年のグラント博士とサトラー博士のように男女の見つめ合いくらいしなさいよ!と思えてしまったのは、恐らく私だけではないだろう。

てな訳でラスカルの如く、オーウェンとの別れを惜しみながら去って行ったブルーはどうなったのか?次の完結編ではどんな活躍をするのかと思いながらも、空飛ぶモノが大好きなジョー・ジョンストン監督の『ジュラシック・パーク掘戮里茲Δ僕穃気大空を駆け巡るだけではなく、他の恐竜も街中に散らばったり、ティラノサウルスがライオンと雄叫び合ったりするその先にどんな物語が存在出来るのかが興味と不安が半々なエンターテインメント映画でした。

深夜らじお@の映画館はブライス・ダラス・ハワードには「いらんことしいネエチャン」でいてほしいです。

※お知らせとお願い
【元町映画館】へ行こう!

acideigakan at 23:59|PermalinkComments(8)clip!

2018年06月21日

『空飛ぶタイヤ』

空飛ぶタイヤ120分では物足りない!
さすが池井戸潤先生原作の面白さだ。少しずつしか進まない物語の展開といい、魅力的なキャラクターたちの掛け合いといい、どれも面白いうえに、赤松社長を演じる長瀬智也がとにかく男気溢れるほどに格好いい!
ただ熱のない演出と120分の尺では、物足りないという感想が強く残ってしまうのが残念無念。

とある主婦の命を奪ったトラックの脱輪事故は整備不良だったのか。経営の基本は社員を大事にすることを是とする赤松社長は悩む。
しかしどこまでも社員を信じる熱い男である彼は、この若き社長を慕う赤松運送の社員たちからの情報を基に一つの結論に辿り着く。これはトラックの構造上の欠陥による事故、いや事件ではないのかと。

製造元のホープ自動車はリコール隠しをしている。これに赤松運送からのクレーム担当にあたっていた販売部の沢田課長も気付き始める。小牧や杉本といった社内で信用の出来る仲間からの情報を集めるも、人命よりも利益を優先する大企業の内部には厚い壁が何枚も立ちはだかり、リコール隠しという事実を隠蔽しようとしている。

大企業に対し、外側から戦いを挑む熱き男・赤松社長と、内部から戦いを挑む冷静な男・沢田課長。先の展開も読めない、様々な登場人物も入り乱れる。そんな池井戸潤先生の世界観は、やはり「半沢直樹」などと同様にじっくりと見たくなるものだ。

だがこの映画の尺は120分。あまりにも短すぎる。
せめて180分。本音をいえば、連続ドラマで見せてほしい。

そう、池井戸潤作品は映像化すれば見応えのある作品に昇華するからこそ、逆に本木克英監督の冷静に見せる演出は120分で見せ切る映画には似合わない。この手の演出で見せるなら、やはり3時間越え、もしくは連続ドラマだ。

特にそれを強く感じるのは、整備不良を疑われ、仕事が激減していく赤松運送に倒産寸前という空気が全く感じられないうえに、赤松社長が調査のため社用車で全国を飛び回る資金もどこから捻出したのかも不明のままなことや、沢田課長が人事異動による村八分を受けても閉塞感が感じられないうえに、証拠集めのために犯罪スレスレのことをしてもスリリングな空気が流れないことといった、彼らが追い込まれていくという怖さがなかったことだろう。

また被害者遺族の柚木が、警察や国交省といった公的機関が赤松運送の整備不良を認めていない状況下で民事訴訟を起こすというのも、全てを描き切れていないこの映画においては逆に話の腰折りにも見えてしまう。

さらにその陰の活躍がほとんど描かれていなかったホープ銀行の融資審査担当・井崎に関しては、元彼女でもある記者の榎本から情報を得ているとはいえ、最終的には上司である濱中の方が見事な根回しという陰の大活躍をしていたとしか見えなかったのも残念。

つまりこの映画は尺と演出のバランスがよろしくないのだ。確かに面白い作品ではあるが、それは原作が面白いのであって、映画はその面白さをどこまで引き出せているかという面において、やはりこの映画の場合は物足りないという答えにしか辿り着かないのだ。

短い尺には短い尺用の演出がある。あざとさ、熱のある演出、細かい編集、必要最小限の人物への焦点。それらが面白い作品を面白い映画にするのだ。

だがこの映画における演出は長い尺用のもの。じっくりと見せるという演出は、3時間越えの映画や連続ドラマでこそ、その威力が存分に発揮される。

赤松運送に対する銀行融資で2行が火花を散らすシーンも、もっと見たい。
群馬の野村や富山の相沢が赤松にその想いを託すというシーンも、もっと見たい。

外から戦う赤松、内から戦う沢田、陰から戦う井崎。その3者の想いが結実する一点を満を持して迎えるというよりも、唐突にホープ自動車への捜査で大逆転劇を迎えるというのも、何だか勿体無いというか、物足りない。

やはり池井戸潤作品は短い尺である単発映画には不向きなのだろう。

けれど、そんな映画の中で一際目立っていた熱き男を熱演した俳優・長瀬智也を見て思う。
見た目以上に中身が格好いい、まさに男が惚れる男。そんな社長と一緒に働ける人生を歩みたい!

深夜らじお@の映画館は先日の加計学園広報担当者の地元記者以外お断りの態度や昨今の日本大学の悪質タックル問題に対する態度を見ていると、どうしても彼らがホープ自動車社員のように見えてしまいます。

※お知らせとお願い
【元町映画館】へ行こう!

acideigakan at 19:00|PermalinkComments(4)clip!

2018年04月29日

『ザ・スクエア 思いやりの聖域』

ザ・スクエア思いやり。それはエリート層が好む綺麗事。
第70回カンヌ国際映画祭パルムドールを受賞したスウェーデン映画は、風刺劇としての面白さはあるものの、残念ながら見る人を選ぶタイプの映画だ。しかもテーマに沿っているとはいえ、話が多すぎるうえに、話があちらこちらに飛ぶ飛ぶ。
故に、そこが評価の分かれ目か。

美術館のチーフ学芸員でもあり、良き父親でもあり、慈善活動にも理解のあるクリスティアンは絵に描いたような「綺麗事が好きな」エリート層の人間だ。
インタビューを受ける席でも美術館に重要なことは資金だと、冗談も交えずに言ってしまうあたり、彼は根は真面目なのだろうが、ユーモアの意味を理解していなかったりといった、他人を思い遣る部分が欠けている人間だ。

そんな彼が人助けの合間に財布とスマホを盗まれたことで、徐々に偽善的な面がゆっくりと剥がされていく。
部下の黒人青年が探してくれたGPSにより、窃盗犯が潜むマンションの場所が見つかれば、彼は全戸に脅迫文を投函する。犯人が誰か分からないが、このマンションに住んでいるのは間違いないのだからという勝手な理由で。

ただ全戸に脅迫文を投函するなんて発想は、他人への迷惑云々を考えると、常人には出来ないものだ。普通は自分のスマホに発信しながら全戸を回ればと、あまり多くの人に迷惑を掛けない方法を探すからだ。

だが彼は無意識のうちに他人を見下しているタイプのエリート層。だから基本的には自分本位。
本来ならチーフ学芸員として、他人への思いやりを促すモニュメント「ザ・スクエア」の宣伝方法についても会議に出席すべきなのに、脅迫文のせいで親から犯人扱いされたと文句を言いに来た移民少年の対応で、その会議にも全く顔を出さない。

その結果、物乞いの少女を爆破するというSNSでの過激な宣伝に批判を浴びたことで、ようやく事態の大きさを知るのだから、本当に上辺だけの綺麗事が大好きな人間に見えてしまう。

しかし彼は根は優しい人間であり、2人の娘の良き父親でもある。学芸員という仕事を失い、ようやく自分の過ちに気付いた彼が脅迫状全戸投函のマンションへ、あの移民少年に謝罪するために訪れる。その時に幼い娘2人が父親を想って謝罪に付いていく姿は、逆に大人の情けなさも感じて切ない。しかもその移民少年は引越しして会えず、謝罪も出来ずの結果で終わるのだから。

とまぁ、本筋の話は絞ればそれなりに「風刺の効いた話」だとは理解出来るも、この映画の評価の分かれ目は、やはりその本筋とは少し離れた様々なエピソードの存在だろう。

チンパンジーを飼っている女性とのセックス後に使用済みコンドーム争奪戦とか、サル真似人間がセレブのパーティ会場で暴れまわるも基本的に誰も事態が深刻化するまでは助けに行かないとか、コンビニで玉葱抜きのサンドをマトモに発音出来ないスウェーデン語で要求してくる物乞いとか、様々な社会風刺の効いたエピソードはそれなりの面白さがあるが、それが本筋とさほどいい化学変化を起こしていないようにも感じてしまったのは、この手の作品を私があまり見ていないからかも知れない。

ともあれ、これは見る人を選ぶ作品であるうえに、予告編で「爆笑」という文字が躍っていても、実際の劇場は至って静かだった作品だ。
それを踏まえて、ご興味のある方はご覧になられてみてください。

深夜らじお@の映画館もまだまだ映画の修業が足りておりません。

※お知らせとお願い
【元町映画館】へ行こう!

acideigakan at 23:59|PermalinkComments(2)clip!

2018年04月25日

『さよなら、僕のマンハッタン』

さよなら僕のマンハッタンThe Only Living Boy in New York.
マーク・ウェブ監督らしい作品だ。ウブな青年が様々な経験を重ねて「少しだけ」成長する物語に不思議な温かさを感じさせる、この監督ならではの作品だ。
この結末は現実にはあり得ないかも知れない。でもあり得ないとは言い切れない。
大都会ニューヨークだもの、逆にあってもおかしくもないだろう。

親元を離れてマンハッタンで暮らすトーマスには、彼氏持ちだが気になる女性・ミミがいる。だけど友達という域を抜けることが出来ない。それどころか、彼女は勉学のためにクロアチアに行くと言い出す。
加えて今度は父親の浮気現場を偶然にも見てしまう。あの若くて綺麗な女性は誰だ?精神的に不安定な母親にバレたら、我が家はどうなることか。

さて色々と大変だ、どうしようか…と悩んでいる時に、アパートに引っ越してきたばかりの奇妙な隣人W.F.が声を掛けてくる。

この初老の隣人は悩みを聞いてくれる。そして間接的な助言をしてくれる。気になる女性には嫉妬させろ。窓を見つけて飛び出せ。

ということで、まず謎の女性ジョハンナと接触を図る。父親と別れてくれというために。
ところが彼女はトーマスのことを知っている。けれどなぜか彼女が話す内容に所々よく分からない点がある。トーマスが知らない父親のこと、母親のこと。それをジョハンナは知っているというのか?

そんなことを考えているうちに、徐々にジョハンナに惹かれていくトーマスは父親の浮気相手と浮気してしまう。ミミという気になる女性がいるのにも関わらず。

でも深入りはさせてくれない大人の女性であるジョハンナ。彼女のことが好きになっていくにつれて、今度はミミがトーマスのことを気にし始める。

父親の気持ち、母親の気持ち、ジョハンナの気持ち、ミミの気持ち。
それらを全く知らないトーマスが現状打破のために、全てを打ち明ける。
ミミにはジョハンナとの関係を、父親にもジョハンナとの関係を。

けれどそこで気付かされる。自分は何も知らなかったということを。
父とジョハンナは本当に愛し合っていること。その父は作家になる夢を諦めたこと。母は毎日ベンチで同じ作家の本を読んでいること。そしてW.F.が書き上げた新作に込めた想い。

作家になる夢を諦めた青年と親友の作家は同じ女性を愛した。そしてその女性と恋に落ち、結婚することになった青年は子供を作れないが故に親友に父親になる作業を託した。
だがこの3人は芸術家。試験管には頼らぬ作業は、作家と女性の愛し合うたった一度の行為。
それが青年に息子には苦労をさせたくないという想いを生んだ。女性に息子への罪悪感を生んだ。作家に成長する息子を見守っていたいという想いを生んだ。

大人の世界に足を踏み入れたばかりの若人は、自分の周りにいる大人たちの気持ちなど知らないまま大人になろうとするが、実際は自分の周りにいる大人の気持ちを理解しないと大人にはなれない。

トーマスは育ての父親と共に歩きながら、これからのことを話し合う。
母親に赦しの想いを伝えて、メガネを外して、自分の本心を伝える。
そして生物学上の父親に息子として再会する。

大都会ニューヨークは昔とは違う街になった。この街に住む人々も昔とは違う大人になった。
けれど街も人も昔と変わらぬ顔も未だに持ち合わせている。

そう、人も街も変わっていく。変わらないでいる。
それを受け入れることが成長というもの。そこに秘められた想いを知ることが成長というもの。

私たちもまたそうやって大人になってきたのだと、マーク・ウェブ監督の映画を見て思う。

深夜らじお@の映画館『(500)日のサマー』から8年も経っていることに感慨深くなってしまいました。

※お知らせとお願い
【元町映画館】へ行こう!

acideigakan at 20:00|PermalinkComments(0)clip!

2018年03月02日

『15時17分、パリ行き』

15時17分、パリ行き15時17分、パリ行きに偶然乗り合わせたサクラメントの三銃士。
2015年8月21日、アムステルダムからパリへと向かう高速鉄道タリスの車内で起きた、イスラム過激派青年による銃乱射事件。その時、偶然その場に居合わせ、事件を解決に導いた3人の青年が本人役で出演するこの映画。
ただこれは単なる再現ドラマではない。間違いなく新しい映画だ。

御歳87歳のクリント・イーストウッド監督が新たな挑戦として作り上げたこの作品は、単なる史実の映画化ではない。大胆にも主役の3人だけでなく、あの事件現場に居合わせた乗客までもを本人役として出演させたうえに、実際に事件が起きた現場で撮影するという、まさに常識破りで前代未聞の映画だ。

しかし近年「ごく普通の人々に捧げた物語」を撮り続けるクリント・イーストウッド監督の演出は、演技の素人である彼らに「演技」ではなく「再現」を求めている。運命に導かれて、偶然にもこの事件に遭遇した彼らの「勇敢な行動」を際立たせるため、あえて一見退屈にも思えるイタリア旅行のシーンも長々と作っているのだ。

もしこれがプロの俳優による映画なら、恐らく誰もが「運命に導かれて」という部分を少々過剰な演出だと思ってしまうのではないだろうか。もしくはこの3人を特別な人間として見てしまうのではないだろうか。

だが小学生時代からはみ出し者同士の友情を育んできた小太りなスペンサー・ストーン、窓の外を眺めがちなアレク・スカラトス、機転の利くアンソニー・サドラーはどこにでもいる普通の人間だ。パラレスキュー部隊に所属出来なかったという「挫折」も、アフガンでGPSの入ったバッグを一時紛失するという「失敗」も、友の誘いに乗ってヨーロッパ旅行に出かける「友情」も、いわば誰の日常にでも起こりうることばかりだ。

だからこの映画を見ていると、不思議と彼らに親近感を覚える。と同時に改めて、無差別テロに遭遇した時に彼らのような行動が取れるかという自問自答も生まれる。

スペンサー・ストーンは落第したとはいえ、SEREを学び、柔術にも巡り会えた。奥行知覚の欠如も結果的には功を奏したかも知れない。だが彼のように自動小銃を構えたテロリストに向かって行くことが我々に出来るだろうか。犯人制圧後に即座に怪我人の手当てを行えるだろうか。

アレク・スカラトスはオレゴンの州兵で、しかも戦場を経験している。だがたったそれだけであの狭い車内で的確な判断を下せるだろうか。犯人制圧後に、友の心配ではなく銃弾の確保と残党の有無を確認するという冷静な行動が取れるだろうか。

アンソニー・サドラーは軍事訓練も受けていない、ただの大学生だ。だが戦う友のために素手でテロリストを殴りに行くという行動を咄嗟に取れるだろうか。犯人制圧後に止血用タオルの確保や怯える女性に寄り添うといった細かな気配りが出来るだろうか。

「その時」というものは、いつも突然やってくる。しかも一瞬の出来事だ。
だからこそ、その「突然」で「一瞬」の出来事にこれだけの勇気ある行動が出来る彼らは間違いなく「格好いい」のだ。男としてだけではない、人間として「格好いい」のだ。

そしてフランスのオランド大統領から勲章を授与される感動的なラストシーン。さすがにオランド大統領が本人役で出演はないだろうと思っていたところで、当時の映像に切り替わった時のあの違和感の無さに驚きつつ、ここであることに気付かされてしまう。

事件解決に協力してくれたイギリス人ビジネスマンであるクリス・ノーマンを含めた四銃士をこのまま母国へは帰したくないと演説したオランド大統領を囲むように立つ彼らを誇らしく思えたこと。つまり彼らを身近に感じたということだ。

それこそ、クリント・イーストウッド監督がこの映画で伝えたかったことだろう。これは誰の日常でも起こりうる現実だと。何も特別な出来事でもない実話だと。
そして努力した者にだけを運命は導いてくれるのだと。

深夜らじお@の映画館は予告編でも流れていた軍事訓練での教官の言葉が好きです。詳しくは追記で。

※お知らせとお願い
【元町映画館】へ行こう!
続きを読む

acideigakan at 08:00|PermalinkComments(14)clip!

2018年03月01日

『シェイプ・オブ・ウォーター』

シェイプ・オブ・ウォーター甘美で切ない愛の形。
心の奥底に静かに残り続けるロマンティックでビターなダークファンタジーだ。忘れたくても忘れることが出来ない、そんな美しき愛の物語だ。
愛に理由などいらない。愛に言葉などいらない。愛に形などない。そしてこの映画史に残る大人のラブストーリーの素晴らしさを表現出来る言葉も見つからない。

幼き頃のトラウマで話すことが出来ない、とある政府の極秘研究機関の清掃員として働くイライザは地味な女性だ。毎朝決まった時間に起床し、身支度をし、隣人の老いた画家ジャイルズの世話をする。
だが彼女は毎朝バスタブで自慰行為にふける。その行動が彼女の内面を静かに物語っている。そう、彼女もまたごく一般的な女性の一人。誰かと燃えるような恋をしたいのだ。

だが彼女が生きている時代は冷戦下。ソビエトとの関係と同様に、国内でも冷たい関係があちらこちらに存在していた時代。
ストリックランドという傲慢な白人上司が女性を見下す。同僚の黒人女性ゼルダも見下す。少々怪しさもあるホフステトラー博士にも敬意を払わない。そしてアマゾンで神と崇められてきた不思議な生き物であり、半魚人である「彼」にも拷問を繰り返す。

そんな時代にイライザはなぜ「彼」に愛情を抱くようになったのか。
未知の生物への興味か、傷ついた生物への母性か、それとも会話をしてくれる異性か。
イライザが「彼」に対して好意を持ち始めた理由は明確には描かれていない。

けれど愛がどのように生まれるのかを誰も語ることが出来ないように、愛はいつも気付かぬうちに生まれ、気が付いた頃には育っている。
だからこの異種間の愛もごく自然なものとして見ることが出来る。『シザーハンズ』で描かれた愛と大して変わらないものとして見ることが出来る。

だからこそ、イライザが「彼」を研究施設から逃したいと思うのも自然な流れだ。愛する者が解剖という形で殺されるかも知れないのなら、どうにかして逃してあげたい。
それはイライザの友人でもあるゼルダやジャイルズも同じ。ソビエトのスパイとしても暗躍させられているホフステトラー博士も同じ。
大切な友人の愛を守ってあげたい。虐げられている者を無視できない。それらは人間誰もが持つ「優しさ」という名の愛なのだから。

ただイライザと「彼」は全く別の生き物だ。だから恋愛も本来ならプラトニックで終わるはずだが、ギレルモ・デル・トロ監督はこの愛をプラトニックなままでは終わらせない。

なぜなら彼女は毎朝バスタブで自慰行為にふけるほど、恋を、愛を待ち望んでいる女性だ。そんな彼女が思い出をずっと心に留めるような女性で終わっていいのか。彼女には恋する女性として、愛する男性がいる女性として、どこまでも輝いていてほしい。
そんなギレルモ・デル・トロ監督の優しさがバスタブでの愛の行為へと昇華する。映画のヒロインになったかのようなモロクロのダンスシーンで表現される。そしてバスルームを水浸しにした愛の形として描かれる。

そんなイライザと「彼」の愛の形はどのような結末を迎えるのか。自暴自棄になったストリックランドの凶弾に倒れる「彼」とイライザという悲劇で終わるのかと思いきや、アマゾンの奥地で神と崇められ、ジャイルズの育毛を促した再生能力を持つ「彼」がイライザを海中でキスで蘇生させ、首にあった3つの傷跡をエラへと進化させ、彼女を自分と同じ種族に進化させたのだ。

だからこのラブストーリーはジャイルズが語るように「彼女は幸せになったと信じたい」物語なのだ。人間を捨て、故郷を捨て、愛する相手と共に生きる道を選んだ「彼女」は幸せになったと心から願いたい、大人のラブストーリーなのだ。

全てを捨ててまで愛を選ぶ女性の強さを見事に演じ続けたサリー・ホーキンスが唯一セリフを言うミュージカルシーンに込められた、彼女の愛の大きさ、強さ、切なさ、そして美しさ。
それらがダークな色調をより美しく見せる演出で描かれる。

『パシフィック・リム アップライジング』の監督を蹴り、ジェームズ・キャメロンやアルフォンソ・キョアロン、アレハンドロ・ゴンザレス・イニャリトゥがEDロールに名を連ねるほど協力を惜しまなかった希代の才能:ギレルモ・デル・トロ。

そんな彼がオスカー監督になるまであと4日だ!

深夜らじお@の映画館は個人的にはこの作品にアカデミー作品賞を取っていただきたいです。

※お知らせとお願い
【元町映画館】へ行こう!

acideigakan at 17:50|PermalinkComments(18)clip!

2018年02月01日

『スリー・ビルボード』

スリー・ビルボード愛は与えられるものではない。与えるものだ。
怒りは怒りを来す。片田舎に掲げられた3枚の看板が暴力と憎しみが織りなす負のループを生み出す。
しかしコーエン兄弟作品を彷彿とさせるこのマーティン・マクドナー監督作品は、そこから愛を見い出す。
他人を思い遣る心が欠ける現代アメリカに、愛を与える本当の強さが求められている。

ティーンの娘が強姦されて焼死体で発見されてから7ヶ月。一向に犯人逮捕に繋がる希望も持てない母親ミルドレッド・ヘイズが行動を起こす。
交通量がさほど多くない郊外にある大きな看板3枚に、町のみんなから慕われるウィロビー警察署長を批判するような広告、「娘が強姦されて殺された」「まだ犯人は逮捕されていない」「ウィロビー署長、どうして?」を出す。

被害者遺族の心情を思うと、犯人逮捕が実現されていない苦悩を警察に向けるのは理解出来るが、同時に警察の心情を考えると署長の苦悩も十分理解出来る。
要は両者とも「(私の気持ちや立場を)分かってくださいよ」なのだ。苦しむ遺族も、懸命に捜査する警察も、自分自身と闘いながら、同時に周囲の重圧にも耐えているのだ。

しかし騒動の中心から少しでも外れたところにいる人間にとっては、そんなことなど知ったことではない。自分が慕う署長が批判されれば怒りを露にするディクソン巡査もいれば、広告掲載契約を順守するビジネスマンもいる。巡査である息子を焚きつける母親もいれば、娘ほどの若い女に入れ込む元亭主も、冷静に見守る小男ジェームズもいる。

そう、当事者は日々自分自身と闘っているのに、部外者は狭い自分の視野だけで物事を判断したり、現実から目を逸らしては逃げてばかりいるだけなのだ。

だから当然の如く、ウィロビー署長が自殺してしまうと、タガが外れたかのように憎しみの連鎖が起こり、それが暴力の連鎖へと成長していく。冷静さを失った者同士が事実がどうあれ、真犯人がどうあれ、自分の正義だけをかざすようになる。

もはやディクソンにとって、署長が家族の看病生活を避けるべく死を選んだこともミルドレッドのせいだ。仕事を全うしているだけの広告マンも敵一味だから2階の窓の外へと放り投げる。
対してミルドレッドも看板に火を放ったのはディクソンだと決めつけ、報復として警察署に火炎瓶を大量投入する。助けてくれたジェームズにも酷い態度を取ってしまう。

ただウィロビー署長がミルドレッドやディクソンに宛てた手紙に書かれていたように、相手を思い遣る心、すなわち愛がなければ物事は前には進まない。自分も成長しない。希望を持つことも出来ない。

愛は与えられるものではない。自ら与えるものだ。

それを知ったディクソンが燃え盛る警察署からヘイズ事件のファイルだけを守り抜く。自分を2階から放り投げた憎き相手にもオレンジジュースを注いでくれる広告マンの背中を見て涙を流す。そして真犯人かも知れないアイオワ男のDNAを殴られながらも採取する。ミルドレッドにその経緯を報告する。

一方で、ミルドレッドも暴力的だった元亭主への怒りを抑える。経緯を報告してくれたディクソンに初めて「ありがとう」という言葉を贈る。

ひっくり返った虫を助けたミルドレッドも、母親想いのディクソンも根はいい人だ。ただ弱い自分を抑え込むために憎しみや暴力に固執してしまったのだ。それをフランシス・マクドーマンドとサム・ロックウェルが見事に演じている。

DNAを採取した男が真犯人ではないと知らされたミルドレッドとディクソンがアイオワへ向かうラストシーン。初めて談笑する2人の先には、アイオワ男を赦す愛が待っているのか、それともアイオワ男に鉄槌を喰らわす憎しみが待っているのか。

恐らく現代アメリカは後者を選ぶだろう。しかしアメリカの理想は前者を選ぶのではないだろうか。そんなメッセージがミズーリ州の片田舎から聞こえてくる。

深夜らじお@の映画館は同じ言葉を繰り返すことで冷静さを欠いた登場人物を描くこの脚本の凄さにも驚きました。日本語字幕には反映されていませんでしたけど。

※お知らせとお願い
【元町映画館】へ行こう!

acideigakan at 13:42|PermalinkComments(14)clip!

2018年01月28日

『ジュピターズ・ムーン』

ジュピターズ・ムーン天使を見たことがあるか?
ヨーロッパの語源ともなった木星の第2衛星:エウロパ。難民やテロにより希望が見えなくなっている現代ヨーロッパ。
「信頼」をテーマに映画を撮り続けるハンガリーの俊英コルネル・ムンドルッツォ監督が改めて問う「天使を見たことがあるか?」の真意。
その前に最近いつ空を見上げた?

シリアからハンガリーへと逃げ延びてきた難民たちの逃げ惑う姿が長回しの映像でじっくりと見せられる。まるで難民というよりも密入国者のような彼らを国境警備隊が追い詰める。そして突然アリアンという一人の青年が銃撃される。

しかしその直後、青年の血が重力に逆らい始める。青年の身体が宙に浮かび始める。映像が上下の感覚を失わせるかのように回り始める。まさに絶叫マシーンに揺さぶられているかのような感覚だ。

青年が突然不思議な能力を得た理由は明かされない。いや明かす必要がないのだろう。それはこの物語を見ていくと分かってくる。医療ミスにより病院を追われては、難民を違法に逃すことで賠償金に充てる金を稼ぐ医師シュルテンとの関係性を見れば分かってくる。

どんな国でも他所から違法に来た者は基本的に邪魔者だ。それでも慈悲や権利といった言葉が邪魔者をゲストに変えようと奮闘するも、それは弱者の邪魔者を手を差し伸べるべきゲストに変えようとするときのみ。
それ以外のルールやマナーを守ってくれない迷惑なゲストは、やはり邪魔者でしかない。

だが手を差し伸べるべきゲストと迷惑な邪魔者との線引きが難しいこのご時世、誰が凶悪なテロリストで、誰が優しきホストなのか、誰にも分からない。
だからシュルテンはアリアンを利用する。アリアンはシュルテンを頼る。そしてアリアンを撃った国境警備隊のラズロは隠蔽工作のため、シュルテンとアリアンを始末しようとする。

ただシリア語を話せないシュルテンも、ハンガー語を話せないアリアンも、英語で会話が行う姿が示すように、同じ人間なのだ。理解出来ない相手ではない。
相手を理解しようと思い始めたら、その時からゲストは友へと進化する。逆に相手を理解しようとしなければ、永遠に平穏は来ない。来るのは差別主義者とテロリストだけだ。
それらは全てシュルテンが受け取りを拒否した聖書に記されているものではないだろうか。

これまでの行動を悔い改め、罪滅ぼしも兼ねてアリアンの逃避行と国外脱出を手助けするシュルテンは、まさに罪深き人間を象徴した存在だ。
では水中を泳ぐように宙に舞うアリアンはどういう存在なのか。人間の姿形をし、会話が通じるも、人知を超えた浮遊能力を得た余所者の青年は天使なのか、それとも悪魔なのか。

シュルテンも語っていたが、人類の作り上げた最高の概念は神だ。その神に対して悔い改めるという概念も作り上げたことも人類の偉大な功績だ。

しかしその偉大な功績が軽んじ始められているこの自国ファーストの時代。多くの人が空を見上げるという行為を忘れている。下ばかり見て、上を見る行為を忘れている。

アリアンはハンガリーの復活を妨げる悪魔ではない。多くの人に空を見上げるという行為を思い出させた天使なのだ。それがホテルの窓を割って空中浮揚するシーンが意味することだろう。

果たして我々はシュルテンのようにアリアンと接することが出来るのか。それともラズロのようにアリアンと接するのか。

周りが空を見上げるなか、一人かくれんぼの鬼として少年がカウントを続けるラストシーン。
現代ヨーロッパが天使という名の希望を得るために空を見上げる日まで、いくつカウントを続ければいいのだろうか。

深夜らじお@の映画館も明日から空を見上げてみます。

※お知らせとお願い
【元町映画館】へ行こう!

acideigakan at 23:59|PermalinkComments(0)clip!

2017年12月15日

『スター・ウォーズ/最後のジェダイ』

スター・ウォーズ/最後のジェダイ最後のジェダイは、やはりあなたでしたか〜!
伝説のジェダイ・マスター:ルーク・スカイウォーカーよ、我らがプリンセス:レイア姫ことキャリー・フィッシャーよ、フォースと共にあらんことを…。
老人は悲観するのではない。夢を見て、次世代を担う若者に託すのだ。そして若者たちがあるべき選択をするだろう。光か、闇か…。

前作『フォースの覚醒』の時のような、日本全国同時刻公開というお祭り騒ぎも特にないこのエピソード爾蓮△△覦嫐4嫋涸阿ら盛り上がっているようで、何かしら盛り上がりに欠けているような複雑な気持ちだったが、いざお馴染みのOPが始まれば、もはや映画ではなく歴史へと昇華したこのサーガにそんな不安などは無問題。

しかもこれまでのジョージ・ルーカス監督作品とは違い、物語と同様に若い世代へと受け継がれたこのサーガは、よくよく考えたら大して進んでいない物語でも「対比」を効果的に用いることで、152分という長尺を存分に楽しませてくれる時間に昇華させているのだから、これは大したものだ。

特にその「対比」が効果的なのは、ベン・ソロことカイロ・レンと新たなるジェダイであるレンを比較するのではなく、ポーやフィンたちが活躍する帝国軍に追いやられていくレジスタンスの「動の」物語と、ルーク・スカイウォーカーに弟子入りを志願するレイの「静の」物語を、同時進行で見せているところだろう。

例えばレイア将軍が昏睡状態に陥ったり、「敵を欺くにはまず味方から」を実践していたローラ・ダーン代理司令官が特攻を選んだり、ベネチオ・デル・トロが裏切ったりするレジスタンスの物語は、まさに犠牲と悲しみが時間を追うごとに増す一方で、明るい兆しなど何も見えない。

対してダークサイドに陥り始めた愛弟子レンを殺そうと一瞬でも思ってしまったことを後悔し続けるルークに教えを乞うレイは、伝説のジェダイに明るい兆しを期待して、じっと待ち続けては、心を読み合い始めたカイロ・レンとのやりとりに光と闇を見る。

つまり闇へと突き進む「動の」物語と、光を探す「静の」物語がどこかで交錯するときこそが、この映画の最大のクライマックスと分かっているからこそ、観客はその時を待つことが出来るのだ。
しかもパペットの動きで再登場したマスター・ヨーダの導きと、「最後のジェダイ」が誰なのかという謎解き付きで。

さらにスノーク最高司令官を抹殺したベン・ソロこそが「最後のジェダイ」なのか、新たなる希望なのかと思わせておいて、そこから帝国の逆襲で追い詰められたレイア率いるレジスタンスの元に現れたルーク・スカイウォーカーがやっぱり「最後のジェダイ」か、ジェダイの帰還かと思わせる展開に加え、そこからこのサーガでは恒例の師匠vs.愛弟子の戦いも興奮の度合いが増すばかり。

そしてカイロ・レンの凶刃にルーク師匠が…と思わせておいての、やはりレンこそが「最後のジェダイ」だったのか〜!ルークは遠き島から念で弟子と戦い、仲間を助けていたのか〜!という最後の偉業にも涙が溢れるばかり。

そう、ルーク・スカイウォーカーはマスター・ヨーダの言葉で悟ったのだ。ジェダイの時代は終わってしまうのではない、自然と終わりの時を迎えるだけなのだと。
ただ今はその時ではない。自分が最後のジェダイではない。ならば、自分が出来ることは、すべきことは何なのかを悟り、この世から消えたのだ。

時代を作るのは老人ではない。ルーク・スカイウォーカーもジョージ・ルーカスと同様に若き世代に未来を託したのだ。

その「愛」がEDロールで記される。

In Memory of Our Princess:CARRIE FISHER

ルーク・スカイウォーカーよ、レイア姫よ、永遠にフォースと共にあらんことを…。

深夜らじお@の映画館はもちろん限定版パンフレットを買いました。購入前にはちょっと迷っては、カイロ・レンの葛藤が分かったような気持にもなりましたけど。

※お知らせとお願い
【元町映画館】へ行こう!

acideigakan at 15:38|PermalinkComments(14)clip!

2017年11月26日

『シンクロナイズドモンスター』

シンクロナイズドモンスターソウルを救うのは巨大怪獣か、それとも巨大ロボットか。
職ナシ、家ナシ、彼氏ナシのダメウーマンと地球の裏側に突如出現した巨大怪獣が100%シンクロするという、この世界のファンタスティック映画祭を席巻したアルバトロスフィルム配給作品。
異色作、奇想天外という評価の先には、大人になりきれない大人への皮肉もたっぷりだ。

職もないのにアルコール浸りで彼氏のティムに家を追い出されたグロリアがニューヨークから移り住んだのは、故郷の田舎町。
偶然再会した幼馴染でバーテンダーのオスカーにより、バーでの仕事を見つけるも、仕事終わりのアルコールが入ると、そこからの記憶は見事に消えてしまう。

ところが彼女はある日知ってしまう。TVニュースに映っている韓国・ソウルに突如現れた巨大怪獣が自分と同じ動きをしていると。
しかも早朝の8時5分という決まった時間に、この田舎町の公園の砂場にグロリアが入り込むと、ソウルに巨大怪獣が現れては、彼女と同じ動きをするのだから、そりゃ彼女もアルコール仲間にちょっとした自慢もしたくなるもの。

ただ自分が砂場でコケてしまったことで、地球の裏側で数人の命を奪ってしまったという罪悪感が彼女の行動を変え始めるが、これがまた普通でないのが面白いところ。
例えば巨大怪獣が大都市の広場で人払いをしてからハングルで「ごめんなさい、もう二度としません」なんて謝罪文を書くなんて、今までそんな怪獣映画なんて見たこともない。

さらにオスカーが同じく公園の砂場に入ると、今度はソウルに巨大ロボットが出現するうえに、グロリアとオスカーの痴話喧嘩が地球の裏側では巨大怪獣が巨大ロボットにビンタするというシュールな映像になるのだから、そりゃ韓国ではあの怪獣とロボットは仲間ではないようだという憶測が飛び交うのも当たり前。

しかしこの映画はそんなシュールな笑いばかりで話を進めていくのかと思いきや、そこから「本当の意味で大人になる」ということについて、そこそこリアルな話を放り込んでくるのが、これまた面白いところ。

特に優しくいい人だったはずのオスカーが実はストレスの蓄積で「巨大ロボット、ソウルで大暴れ」という歪んだストレス発散に走ったり、新しい恋人候補になるはずのジョエルはオスカーにビビって男らしいところを何一つとして見せてくれなかったり、元恋人のティムも未だに自分優位な恋愛を続けたいと復縁を迫るところなどは、まさに「見た目は大人、でも中身は子供」という現代の大人になりきれていない大人を色濃く描いている。

一方、アルコールを絶ってマトモな生活を始めようとするも、嫉妬に狂うオスカーには暴力と暴言を浴びせられ、ジョエルには失望し、ティムとの復縁にも希望が持てないグロリアは、過去を辿って怪獣のおもちゃを持っていた自分とロボットのおもちゃを持っていたオスカーが共に雷に打たれた日を思い出し、何とか暴走幼馴染を止める策を探す。

そんな彼女が気付いたのはこの田舎町の公園の砂場に自分が入るとソウルに巨大怪獣が現れるなら、その逆は?という一発逆転の発想で、右目に殴られたアザをつけたまま、いざソウルへ!

そして巨大ロボットの出現で大パニックのソウルでグロリアが向かうはロボットの出現場所。するとオスカーが悪さをする田舎町の公園にもあの巨大怪獣が出現!
田舎町ではオスカーが巨大怪獣に捕まり、ソウルでは巨大ロボットが中空で縛られたように固まるという異様な光景。そりゃソウル市民も何が何だか…状態のなか、オスカーの懲りない暴言を心で聞いたグロリアが取った行動は、巨大ロボット@オスカーをバイバイキ〜ンと放り投げて見事にソウルの街と自分の心を救うという、何とも爽やかな結末。

大人は責任感があってこそ、大人としての振る舞いが出来る。
ではその責任感は歳を取れば身につくのかと問われれば、そうは答えることが出来ない現代社会。
主役はまわってくるものではなく、自分の行動と努力で掴み取るもの。
酒に溺れたり、良い人を演じてストレスを貯めていても、主役はまわってきませんぞ!

深夜らじお@の映画館はアン・ハサウェイのダメウーマンぶりが結構好きです♪

※お知らせとお願い
【元町映画館】へ行こう!

■TBアドレス:http://blog.goo.ne.jp/tbinterface/a51290de6bffd7678a6d50f35cda687f/3f こねたみっくすgoo版

acideigakan at 23:59|PermalinkComments(4)clip!

2017年11月24日

『36.8℃ サンジュウロクドハチブ』

36.8℃モヤッとするのはハッキリしないから。
全国の自治体と組んでオリジナル映画を製作する「ぼくらのレシピ図鑑シリーズ」の第1弾として、兵庫県加古川市を舞台に、悩める少女を爽やかな風景や料理と共に描いたこの青春映画。
料理が格別おいしそうに見えないのは残念だが、じんわりと心を温めてくれる優しさが心に沁みる。

子午線の街:明石市と世界遺産・姫路城を擁する姫路市との間にあり、一級河川である加古川が流れていながら、特にこれといった観光名所も少なく、市民自ら街の魅力は「何もないところ」と言い切る兵庫県加古川市。

ただ生活圏に加古川市が入っている身としては、この「何もないところ」が自然と肩の力を抜いて生活出来るような心地よさでもあるので、そんな加古川市で暮らす少女たちの日常と青春の悩みを描いたこの作品は、ある意味「特に何も起こらない」青春映画でもあり、それがまた等身大の青春でもあると共に、自身の青春時代をふと思い出させる優しさも兼ね備えている。

特に主人公でもある若菜は他人を思い遣る優しさが考えすぎになったり、遠慮になったりしてしまう、どこにでもいる女子高生だけに、この悩みというのも共感出来る方も多いのではないだろうか。

思えば、思春期に自分の将来を決めることなど、巡り合わせの幸運に気付かなければ容易なことではにない。
親友の実果は果樹園の娘として生まれた幸運から自分の将来は果樹園を継ぐと決めることが出来ているし、その余裕から好きという理由だけで漫画家になるという無謀な夢も抱くことが出来る。
またもう一人の親友である歩結もプロ棋士の父親と、その父親より遥かに将棋が強い専業主婦の母親を見てきた環境が現実を冷静に見る強さを育み、友達の誘いも時に断ってまで塾通いもする意志の強さを持ち合わせている。

けれど両親が共に工場で働き、家では幼い弟の世話と家事に勤しむ若菜は、自身を母親の代行者としてしか見ていないので、当然自分がやってきたことの凄さにも気付いていないし、またそれが自分の魅力であることにも気付いていない。

だから無意識に他者に自分の魅力を認めてほしいと求めてしまう。母親に「そんなにゴメンって言わんでもいいのに」と思ってしまうことも、元恋人の透に加古川名物「かつめし」を始めとする食のサポートをしていたのも、そんな一端だろう。

そんな若菜がSNSで知り合ったOLのみずほに進路相談などを持ち掛ける流れはいかにも現代ぽくていいのだが、そのみずほの正体が中年男だと分かるくだりは、SNSの情報を鵜呑みにするなという警告も兼ねているのだと思われるが、やはりこの映画の流れからいくと勿体無い。

恐らくこうでもしないと加古川市で劇団活動を頑張っている元グレートチキンパワーズの北原雅樹さんを出演させるシーンがなかったからかも知れないが、青春映画の法則から言うと、若菜には「逃げる」ではなく「向かう」という志で走って欲しかった。そうすることで自らの力で心のモヤモヤを取り払い、心をハッキリと決めて欲しかった。

また実在しない加古川大学を登場させたり、料理の映し方がライティングの弱さが要因なのか、それとも小気味いい編集がなかったからか、『ウェイトレス〜おいしい人生のつくりかた』のように、おいしそうに見えなかったのも残念。進路の大学は兵庫大学がムリなら、普通に関西学院大学とかで良かったのになぁ〜。

ただ思春期は誰でも「特にこれといった魅力のない」存在だが、じっくりとその中身を見ていくと、これが地味にいい魅力があちらこちらに詰まっている存在というところが、まさに舞台である加古川市の魅力にピッタリとハマったこの青春映画は、間違いなく一見の価値が十二分にある作品だろう。

そして個人的にそんな映画で注目していただきたいのは、桂木に写真で想いを伝えられて乙女になり始めた歩結の両親を演じた2人。プロ棋士としての外見だけは整っている父親役は元衆議院議員で現加古川市長の岡田康裕先生、肝っ玉な母親役は赤江珠緒さんや高野直子さんと共に「朝日放送三人娘」としてデビューして早20年の橋詰優子アナウンサー。
出演時間は短いものの、この2人の掛け合いのテンポといい、絵的にもたまらなくいい!

深夜らじお@の映画館はこういう地味な映画が好きです♪

※お知らせとお願い
【元町映画館】へ行こう!

■TBアドレス:http://blog.goo.ne.jp/tbinterface/589fccbd658ef8bbb8540ff0f309b060/3f こねたみっくすgoo版

acideigakan at 23:59|PermalinkComments(2)clip!

2017年11月23日

『ジャスティス・リーグ』

ジャスティス・リーグプリンセス with ビッグ・マザコン・チルドレン。
ついにDCヒーローズの反撃開始!ワンダーウーマンさえいれば、地味で暗めで母親との関係に何かアリの男連中も大活躍出来るのだ!
そしてこれまで見たこともないほどに情けない姿連発のバットマンにも注目!今更ながら、やはりこのバットマンはベン・アフレックで正解だった!

スーパーマンが死んだ世界は希望の光を失った世界。母親の名前が同じで意気投合したバットマンも紅一点ワンダーウーマンも彼の遺志を継ぎ、昼夜問わず世界を守るため奮闘するも、宇宙からやってくる新たな脅威には物理的にも人手不足。

そこで優秀なる執事アルフレッドが世界中からヘッドハンティングしてきたのは、塀の中の父親を救おうとする孤独な超速駆け抜け雷青年のフラッシュ、桃白白も真っ青な顔の一部以外は全身機械化したサイボーグ、そしてアトランティスの子息で海と酒を愛する荒くれ者のアクアマン。

ただこの3人がバットマンやワンダーウーマンとの話し合いでジャスティス・リーグの加入を承諾したのではないのが面白いところ。友達が欲しいフラッシュ、父親が誘拐されたサイボーグ、一族が守ってきた「箱」を取り戻したいアクアマンと加入理由は様々。
つまりサイボーグの気持ちを少し揺るがせたワンダーウーマンの功績を除くと、バットマンは棚牡丹で2人を加入させただけの、本当に仕事の出来ないヤツなのだ。

さらに5人で頑張ってもステッペンウルフには勝てないと悟ると、バットマンが提案したのは未知のパワーが眠る「箱」を使ってスーパーマンを蘇らせるという奇策、いや泣きの一手。しかも舞台裏ではワンダーウーマンにリーダー役を押し付ける始末。

また蘇ったスーパーマンが自分をコントロール出来なくなると、身体を張ってスーパーマンを止めようとする他の4人とは違い、屈辱的に口元を抑え込まれた彼が出来たのは、ロイス・レインを切り札として呼び寄せたことだけ。

そう、もうお分かりだろう。このジャスティス・リーグにおけるバットマンは本当に情けない姿ばかり晒すヒーローなのだ。

だから打倒ステッペンウルフで敵地へ乗り込んでも「シールドを破壊する」と単独行動を取っては、「私に従って」とリーダーシップを取ってくれるワンダーウーマンのおかげでみんなに助けてもらうだけ。

また3つの「箱」の電子的作業で忙しいサイボーグと、戦闘経験がなく救助と雑魚の始末で精一杯のフラッシュを除くと、肝心要のステッペンウルフと戦うのはワンダーウーマンとアクアマンと復活したスーパーマンだけ。そう、ここでも彼は活躍しているようで、実は肝心な戦闘には参加していないのだ。

しかも思い出してほしい。スーパーマンはステッペンウルフとの戦闘途中に避難住民がいると知って、集合住宅を丸ごと運んではまた戦闘現場に戻っているのに対し、バットマンは雑魚退治だけで他に何も出来ていないのだ。
なのに、年下のフラッシュには「散歩に行ってこい」と避難住民の世話を任せるのだから、本当に情けない姿に見えてしまう。

結局スーパーマンの凍らせる息とワンダーウーマンの一太刀でステッペンウルフに恐怖を植え付けたことで勝利したジャスティス・リーグは、男共を「大きな子供たち」と母性で優しく見守ってくれるワンダーウーマンが統率し、実力でも存在感でも周囲から認められているスーパーマンの人望でまとまっているヒーロー軍団。

つまり本当にバットマンは「金持ち」でなければ、必要とされないかも知れない存在感でしかないのだ。恐らくこのヒーローズが緊急集合しても、いざ移動しようとした時に「ウェイン家の飛行機がない!」と分かった時に始めてバットマンの不在に気付かれるほどだろう。

そう考えると、銀行を丸ごと買い取って生家を戻してくれたバットマンに笑顔で「ありがとうでは足りないな」と言ったスーパーマンは何ていいヤツなんだ。そりゃ、フラッシュも冗談交じりで超速競争に付き合ってくれる兄貴分を慕うのも同然だと思えてくる。

そして人望も統率力も責任感もない金持ちが「椅子は6つ」と言ってワンダーウーマンにダメ出しされる情けない姿は、マイケル・キートンやヴァル・キルマー、ジョージ・クルーニー、クリスチャン・ベールでは演じ切れない、まさに離婚したら財産の半分を渡すというムチャな誓約書を書いてまでもジェニファー・ロペスと結婚しようとしたベン・アフレックにしか演じ切れないものだ。

だからこそ、最後にこれだけは言わせてほしい。
ザック・スナイダー監督、あなたの先見の明がある人選にケチつけて、ごめんなさい。
この見事な人選が機能した作品はめちゃ面白かったです。色んな意味で♪

深夜らじお@の映画館はルーシャス軍団にも注目してます。早く続編が見たいですね♪

※お知らせとお願い
【元町映画館】へ行こう!

■TBアドレス:http://blog.goo.ne.jp/tbinterface/3eb5f50b331b7e0a12c5ffd0be8b7386/3f こねたみっくすgoo版

acideigakan at 16:38|PermalinkComments(8)clip!

2017年10月13日

『猿の惑星:聖戦記』

猿の惑星聖戦記ところでチャールトン・ヘストンと自由の女神は?
う〜ん、何なんだろか、この消化不良な気持ちは…。
映画はとにかく面白い。あの偉大なる1作目へ通ずる様々な布石も満載な上に、シーザーの苦悩や彼を演じ続けたアンディ・サーキスの素晴らしい演技も堪能出来る。
でもこの映画を見て、次に1作目を見たいとは思えなかった…。

「いかにして地球は猿の惑星へと変わったのか」ではなく、「なぜ人類は言葉を失い、猿類が言葉と知能を得るようになったのか」を描いているこの前日譚最終章は、『スター・ウォーズエピソード3/シスの復讐』のように、徐々にシリーズの原点である1作目へと近づく高揚感を煽るようなシーンを期待した者にとっては残念にも思える作品だ。

もちろんこの映画は面白い。『新世紀』でのコバとの一件を経て、人類とは離れた山奥での平穏な暮らしを奪われたシーザーが復讐の鬼へと変わっていく苦悩といい、冷静さを失ったがために仲間に虐待とも言える強制労働をさせてしまう辛さといい、まさに1作目へと繋がるための前日譚というよりは、シーザーの生き様を描いた作品に昇華しているからだ。

またカーツ大佐のようなウディ・ハレルソン大佐が我が子の命を奪ってまでも人類の退化を止めようとした背景には、人類の無謀な進化の代償が、逆に人類の退化だけでなく、猿類の異様な進化になってしまったのも、ある意味人類の愚かさの象徴とも言えよう。

だからこそ、様々な戦争映画へのオマージュで彩られたこの作品は、まさにシーザーをモーゼのように、猿類の収容所脱出を「出エジプト記」のようにも描いてる。争い合う人類を巻き込んだ雪崩も海割れといったところだろう。

ただこの前日譚最終章には、チャールトン・ヘストンを意識させるような俳優も出てこなければ、自由の女神もNYも出てこない。『創世記』で描かれた行方不明になった宇宙船も、「行き先NY」の飛行機も完全に忘れ去られている。

前日譚シリーズがシーザーの生き様を描くシリーズへと変化した、つまりは地球が乗っ取られる前にストーリーが猿類に乗っ取られたのだから、ある意味仕方のないことなのかも知れないが、それでもあの偉大なる1作目までに空いたタイムスパンを考えると、もう1作品くらい撮れるのではないかとも思えてしまう。シーザーが命の灯を静かに消し去って終わりでは物足りないとも思えてしまう。

恐らくそれは私がまだこのシリーズを「人類目線」で見たいという想いが強いからだろう。地球もストーリーも猿類に乗っ取られても、私のこのシリーズへの期待値だけは乗っ取られたくないという深層心理もあるからだろう。

でも前日譚シリーズである以上、やはり求めてしまうのは今作を見た後に改めて1作目を見てみようと観客に思わせる。個人的にはこれではないかと思うのである。『スター・ウォーズエピソード3/シスの復讐』で味わったあの高揚感なのである。

そんな高揚感がなかったのは残念ではあったものの、バッド・エイプのコミカルさといい、ルカに代わるロケットの勇ましさといい、モーリスの参謀ぶりといい、もはや猿というよりは猿の風貌をした人間の役者のようにしか見えなかったこの作品の映像技術は素晴らしいとしか言い様がない。

けれども1作目を見た時の、あの猿の仮面を被った様がより宇宙人ぽく見えた怖さと比べると、どうしても残念というか、消化不良の気持ちが強くなってしまうのは私だけだろうか…。

深夜らじお@の映画館はウディ・ハレルソン大佐が後頭部をカミソリで剃る姿が衝撃でした。スキンヘッドさんたちはあんなにも器用なのか!

※お知らせとお願い
【元町映画館】へ行こう!

■TBアドレス:http://blog.goo.ne.jp/tbinterface/d51d07eadeb32fa6d732a038ced3a0a4/3f こねたみっくすgoo版

acideigakan at 23:59|PermalinkComments(22)clip!

2017年09月23日

『スイス・アーミー・マン』

スイス・アーミー・マン「美しい」と「気持ち悪い」は紙一重。
やはり映画はマイノリティが作る文化だ。そう思わざるを得ない、この映画の本当のテーマが何とも切ない。
けれどシュールでブラックな笑いがインパクトとして強く残らないのは勿体無い。それでもこの監督コンビ「ダニエルズ」の今後が楽しみでならない。

無人島で人生に絶望し、これから自殺を図ろうとしたハンクの前に流れ着いた、とある男の死体。そのメニーと名付けられた死体はただの死体ではない。まるでスイス・アーミー・ナイフこと十徳ナイフの如く、様々な機能を宿したスペシャルな死体。

まず体内にガスを宿しているので浮くだけでなく、そのガスを下半身の穴から放出すればジェット噴射として海を渡ることが出来る。引火すればバーナーにもなる。また上半身の穴から逆噴射すれば銃にもなる。
さらに雨水を体内に貯水しているため水筒代わりにもなれば、置き場所を変えるだけでシャワーとしても使える。

それだけではない。研ぎ澄まされた歯はカッターにも髭剃りにもなる。死後硬直した指は火打石に、腕は斧にもなる。
そして独自のご意見をお持ちなので、勃起も会話も可能なのである。

ただメニーは所詮死体である以上、ハンクとの会話は彼の妄想であろう。『キャスト・アウェイ』のバレーボール・ウィルソンと同じく、ハンクの自我を保つための存在であろうが、この映画ではその辺りは明確には描かれていない。終盤でのクマとの対決ではあたかもメニーが生きているかのような描写もあるからだ。

しかしメニーの生死はこの映画ではさほど重要ではない。もっと重要なものはハンクがスマホの待ち受け画面にしている女性への恋心と、その恋心に向き合う彼の想いであるからだ。

ここからはネタバレになってしまうが、自身に自信が持てないハンクにとって、メニーを用いた無人島からの脱出後における山奥でのサバイバル生活のなかで見せた彼の行動は全て、メニーという話し相手を通しての自分自身を見つめ直すものだったのだろう。

バスで見かけるだけの人妻を好きになってしまったが、自分には彼女に想いを伝える勇気さえない。ただ遠くから眺めるだけの片思いだ。

けれどその片思いも語り手の視点が違えば、時に「美しく切ない片思い」になり、時に「気持ち悪いストーカーもどき」にもなる。それを誰よりも心の奥底で理解しているのはハンク自身でありながら、ただそれを冷静に見つめ直す機会がなかった。

だから彼はメニーに相談し、実際にバスの状況を作り上げ、自分がその女性になり、メニーという別人格の自分に問い掛けてみた。どうすれば自分はこの「気持ち悪く」「美しく切ない」恋煩いから抜け出し、心が自由になるという意味での「生きている」を実感出来るのかと。

だが現実は所詮マイノリティには厳しい世界だ。遭難から脱出することが出来たハンクに待ち受けていたのは、愛しの女性からの蔑みの眼差しと愛すべき実父からの蔑みの言葉に加え、マスコミという好奇の目。この片思いを「気持ち悪いストーカーもどき」として見る目だけ。

ただメニーに引き取り手が見つからない場合は行政によって埋葬されるという話を聞いてハンクが動き出す。共に苦難を乗り越えてきた親友を「現実」から守るために、彼を連れて再び浜辺へと逃亡する。

そんな美しき友情もハンクを知らない者から見れば、「気持ち悪い」と「変態」という蔑みと好奇以外の眼差しが必要とされない光景だ。
でもハンクを理解している者からすれば、その美しき友情で放たれた人前でのオナラは「強く生きる」という決意の号砲でもある。

そんな親友の決意を目の当たりにしたメニーが呼応するかのように、再び下半身の穴からガスを放出し、笑顔で大海原へと出航していく。

自分自身であれ。

そんな言葉を残すかのように旅立っていくメニーの笑顔は、恐らくハンクを理解している者にしか見ることの出来ない、とても爽やかなものだ。

深夜らじお@の映画館は死体役を見事に演じたダニエル・ラドクリフに素晴らしき俳優魂を見させていただきました。

※お知らせとお願い
【元町映画館】へ行こう!

■TBアドレス:http://blog.goo.ne.jp/tbinterface/1a44ca00c02d42b93d9f00a4851a1e6b/3f こねたみっくすgoo版

acideigakan at 23:59|PermalinkComments(4)clip!

2017年09月11日

『三度目の殺人』

三度目の殺人他人の命を奪う。自分に嘘をつく。そして見て見ぬふりをする。どれも「人」を殺めること。
家族ドラマでお馴染みの是枝裕和監督がオリジナル脚本で挑んだ法廷サスペンス。しかしこれは法廷サスペンスとして最後まで走り切れず、無意識のうちに十八番の人間ドラマを重視してしまった構成ミスの作品。
だからあまりにも勿体無い。

勝利を重視する弁護士・重盛が渋々引き受けることになった前科者・三隅は、解雇された工場の社長への殺害と死体への放火は認めているものの、動機の話になると妙な間が生まれる。果たしてこの容疑者は何を隠し、何を守ろうとしているのか。その謎を探るべく、この映画は静かに淡々と歩を進めていく。

強盗殺人なら死刑は免れない。ただ盗み出された財布に油が付着したりなど、妙な疑問点が残る。
殺人と窃盗なら死刑は免れる。そしてそれは重盛にとっては弁護士としての勝利と同じ意味を為す。だから無期懲役に持って行く方向で事件を洗い直す。

ところが三隅の供述は二転三転する。被害者の妻・美津江からの殺害依頼とも思えるメールも出てくる。左足を引き摺る娘・咲江の存在感も増してくる。ますますこの容疑者の動機を聞かれた時に見せた妙な間が気になる。

しかし重盛が留萌を訪れ、被害者の娘・咲江と三隅と共に雪合戦をするイメージ映像が入るあたりから、この映画はサスペンスとしての歩を進めることをやめ、人間ドラマとして歩を進めてしまう。しかも時間が足りずに深くは掘り下げることの出来なかった人間ドラマとして。

もちろん咲江の実父からのDV告白や美津江の食品偽装疑惑で、三隅の動機は安易に分かってしまううえに、それらはこれまでに何度も描かれた新鮮味のない物語ではあるからこそ、法廷サスペンスよりは人間ドラマ重視で歩を進めることも致し方ない。

けれど重盛の万引き娘が結局のところ重盛が咲江を理解するための要素にもなり切れていないなど、重盛と三隅だけに焦点を当てた人間ドラマはどうしても中途半端に見えてしまう。咲江の存在感もこの辺りから中途半端に感じてしまう。

そうなると行き着く先が分かっているこの映画に観客が求めるものは、大切な咲江を守るために社長を殺め、咲江に捜査が行かぬよう自分が不利になるように供述を二転三転させ、最後は心配する咲江の視線さえも見て見ぬふりをする三隅の「自己犠牲愛」に、その三隅の「自己犠牲愛」に何もしてやれない重盛の苦悩なのに、三隅の見て見ぬふりを受け入れるしかない咲江の苦しさなのに、そこまで掘り下げることの出来なかったのはあまりにも勿体無い。

これなら始めから法廷サスペンスとしての要素を排して、供述を一転否認した殺人犯とその心に触れる弁護士との交流ドラマとして描いて欲しかった。是枝裕和監督が十八番とする家族のように心を通わせる人間ドラマとして描いて欲しかった。

恐らく死刑制度の賛否を用いた「弱い立場の人々への不条理」がこの作品のテーマだったのだろうが、法廷サスペンス要素を入れすぎ、人間ドラマ要素に充てる時間を十分に確保出来なかったこの映画を見ると、そのテーマに見合った構成ではなかったと残念でならない。

やはり是枝裕和監督が原案及び脚本も担当したのが原因かも。共同脚本という形で第三者の目線が入っていればと思ってしまったのは私だけだろうか。

深夜らじお@の映画館は是枝裕和監督には人間ドラマに集中してほしいです。

※お知らせとお願い
【元町映画館】へ行こう!

■TBアドレス:http://blog.goo.ne.jp/tbinterface/342a05a22279713c630debd801d7e198/3f こねたみっくすgoo版

acideigakan at 23:59|PermalinkComments(16)clip!

2017年09月07日

『新感染 ファイナル・エクスプレス』

新感染ゾンビだらけのエクスプレス。大切な命は何があっても、絶対に守り抜け!
何て気持ちのいいゾンビ映画なんだ!一切の中弛みもなく、ノンストップで最初から最後まで突っ切ってくれるこの清々しさに加え、命を賭けた男たちの泣きのドラマ。ギレルモ・デル・トロが「傑作!」と称賛するのも納得の素晴らしきパニック映画だ!

娘との約束も仕事の多忙でロクに守れないファンドマネージャーのソグが娘を別居中の妻に逢わせるべく乗り込んだエクスプレスKTX101号。その発車直前に謎のウィルスに感染した女性客が乗り込む。列車の窓の外では駅員がゾンビに襲われる。

OPから最低限の説明だけしたら、あとはもう特急列車が発車してしまったので止まれませんの如く、ストーリーもパンデミックも一気にスピードに乗って最後まで突っ切る。
もちろんストーリーの流れに多少の緩急はあるものの、途中下車してしばらく中弛みしますというようなことは一切なく、逆に途中下車を主人公たちをより窮地に追いやる要素としてしか描かないこの面白さ。これまでこんなにも一気に見れるゾンビ映画なんてあっただろうか。

しかも特急列車という閉鎖空間を巧みに利用し、途中下車後の3組に分かれた生存者グループの合流を「救出劇」として描く面白さ。つまりこれは「脱出劇」だけのゾンビ映画ではない、「救出劇」を存分に楽しませた後に「脱出劇」を楽しませるゾンビ映画なのだ。

だから先陣を切って拳で応戦する親分肌のサンファ、音に反応するゾンビの特性を見抜いて携帯電話を囮に使うほど人間として親として成長していくソグ、野球部の仲間であってもゾンビ相手に覚悟を決めてバットを振りかざすヨングクたちの戦いは「逃げて生き延びる」ための戦いではない。妊婦である妻を、大切な娘を、自分に好意を寄せてくれる女の子を「助けて生き延びる」ための戦いなのだ。

さらにエゴを剥き出しにして感染疑惑のあるソグたちを拒絶するバス会社常務たちを通して人間の汚さを描いたと思えば、姉老婆への想いからゾンビ軍団を招き入れる妹老婆の苦心以外にも、韓国映画ならではの泣きのドラマも見逃せないところ。

もちろん「スヨンだ!」という遺言を残し、弁慶の如く討ち死にしたサンファの姿を始め、ソンギョンとスアンの逃げる時間を稼ぐため押し寄せるゾンビ軍団を堰き止めようとしたホームレス、大切な女の子を守り切れなかったヨングクが彼女に噛まれてその生涯を終えたりする姿にも涙した一方で、邦画なら妊婦ソンギョンと娘スアンと主人公ソグが生き残るだろうというところを、最後の最後でソグまでバス会社常務との格闘で感染してしまうのはさすが韓国映画。

特に意識のあるうちに娘に最後の別れを告げるシーンは、ソグの親としての成長を見てきただけに、より涙が止まらないこと。
親として初めて娘に必要とされる最高の喜びを知った瞬間は、親として娘の傍にいてやれない最大の悔しさを味わう瞬間でもある。
でもこの大事な娘だけは感染させまいと決断したソグが最後に思い返す、スアンが生まれた日のあの喜び。そして影だけで語るソグの最後の姿。
大切な女の命を守り抜いた男たちの散り姿はあまりにもあっぱれだ!

そんな男たちが守り抜いた妊婦と少女に待ち受ける運命はどうなるのか。最後の最後で学芸会で歌えなかった歌が彼女たちを救うという伏線の回収もあまりにも見事だ!

そう、この映画は勢いだけで突っ切っているだけではない。無駄がなく、かつ散りばめた伏線を見事に回収しているという巧さも兼ね備えたパニックホラーなのだ。
だからギレルモ・デル・トロを始めとする世界が「傑作!」と絶賛するのも納得の素晴らしきゾンビ映画なのだ!

深夜らじお@の映画館にはサンファが角田信朗さんに見えて仕方ありませんでした。

※お知らせとお願い
【元町映画館】へ行こう!

■TBアドレス:http://blog.goo.ne.jp/tbinterface/ebf34bf7b553f32e752865eb42fb78af/3f こねたみっくすgoo版

acideigakan at 00:40|PermalinkComments(8)clip!

2017年08月11日

『スパイダーマン:ホームカミング』

スパイダーマンHCご近所ヒーロー。それが15歳のスパイダーマンだ!
何度リブートすれば気が済むんだ?とばかりに、また新たなシリーズが始まったスパイダーマン。しかも今度は活躍場所は基本的にご近所ヒーローだけど、アベンジャーズ準会員で、シリーズ最年少の15歳設定。
そしてこの「15歳」が良くも悪くもという青春映画でした。

なぜピーター・パーカーはスパイダーマンになったのかは既にトビー・マグワイア版で説明したので端折ります♪その代わりにアイアンマンでもあるトニー・スタークとの絡みはたくさん見せますよ♪という、もはやスパイダーマン単独作品ではなく、完全なるアベンジャーズシリーズの1作品に組み込まれてしまったこの新作。

しかも運良くキャプテンアメリカのシールドを奪ったことに舞い上がり、さらにトニー・スタークからの推薦にも舞い上がり、世間知らずで自分の実力を認めてもらうことを最優先にしてしまう15歳ならではの恥ずかしさ全開で日常を送る3代目ピーター・パーカーは、大人から見ると可愛らしくもあり、だけど恥ずかしくもあり、優しい気持ちで見守ってあげないとと思わせる、お子ちゃまな存在。

だから今回の宿敵バルチャーの、政府と大企業の勝手な意向で仕事を奪われる俺らの気持ちが分かるか?という大人の世界の話もピーターには一切無関心なら、その話に15歳の少年ヒーローが悩むこともなし。

ただ彼はアベンジャーズとの戦いで残された宇宙人技術を用いた武器を密売するのはダメだ!という正義心のみで動いているので、宿敵が意中の少女の父親であっても無問題。
なのに、宿敵が死に直面する危機に晒されると助けに行くのも、やっぱり目の前のことにだけ全力で挑む15歳ならでは良さであり、それが勧善懲悪になり切れていない現実でもあるのも事実。

つまりこの3代目スパイダーマンは「青春映画」としては面白いが、「ヒーロー映画」としては物足りない、いわば異色のヒーロー映画。

トニー・スタークのお世辞を真に受けては毎日連絡を待っては、放課後にバイト感覚でヒーロー活動を行えば、覚悟もロクにないのに自分の手には余る事案にも首を突っ込んではアイアンマンの世話になり、内蔵カレンとお話が出来るハイテク・スパイダース−ツを没収されてしまう。
ワシントンD.C.で同級生を落下するエレベーターから救出するのも、自分のミスで真っ二つになったフェリーを完全に留めておくことが出来なかったのも、ヒーロー映画としてのドキドキはほぼない。

けれどキュートな笑顔で意中の少女リズを射止め、巨漢ヲタクのネッドから心身ともに強力な援護を受け、でも恋よりも正義執行を優先させる「こいつ、婚期を逃すぞ」と思わせる行動を連発する、少女にも伯母にも隠し事バレバレな15歳の少年トム・ホランド版ピーター・パーカーがトビー・マグワイアやアンドリュー・ガーフィールドよりも好感が持ててしまうのは、やはり15歳を経験した者全てが共感してしまう存在だからでしょう。

そんな「イスの男」という強力なバックアップを得て、2008年から婚約指輪を待ち続けているペッパー公認の記者会見付きアベンジャーズ新会員という立場を約束され、トニー・スタークからもハッピー・ホーガンからも大人になったと認めてもらった3代目ピーター・パーカー。

羽を広げた蝙蝠のように舞い降り、鳥のように舞うマイケル・キートン演じるバルチャーの登場が次回作でもありそうで、まずますピーター・パーカーが次はどんなヒーローに人生を、大人の世界を教わるのかも楽しみです♪

深夜らじお@の映画館の予想ではロキが大人のダークな世界を、ファルコンが大人の社交の世界を、ウルトロンが退屈な話を15歳の少年に浴びせそうな気がします。

※お知らせとお願い
【元町映画館】に行こう!

■TBアドレス:http://blog.goo.ne.jp/tbinterface/b26449ed6200531d51047a436fe66bc6/3f こねたみっくすgoo版

acideigakan at 23:53|PermalinkComments(8)clip!

2017年07月30日

『ザ・マミー/呪われた砂漠の王女』

ザ・マミーモンスター作品のごった煮。ただし味付けはしておりません。
よくもまぁこんなご都合主義でスカスカな脚本が会議を通ったものです。アベンジャーズやジャスティス・リーグに対抗すべく、ユニバーサルも複数企画大集合を考えているみたいですが、これではお先真っ暗としか言い様がありません。まさに「ダーク・ユニバース」ですな。

1932年製作の『ミイラ再生』を『ハムナプトラ/失われた砂漠の都』でリメイクしたのとは別に、「ダーク・ユニバース」という新たな古典作品リメイク企画第1弾で映画化した、何が「トム・クルーズ主演映画史上No.1」なのかも分からないこの作品。

古代エジプトで王位継承の欲望から死の神セトに魂を売り渡した王女アマネットをご都合主義トレジャーハンター・ニックが蘇らせてしまったがために、しかもなぜか彼がアマネットの「選ばれし者」になっちゃたがために、仕方なく責任取って、秘密組織の協力も得たうえでどないして取り押さえましょうか?というだけの単純な話に、ミイラだのゾンビだのジキル&ハイドなども取り込んでしまったがために、何をどうしたいのかが全く分からなくなっているんですよね。

料理でいえば、まさに鍋に食材だけ放り込んで味付けは放棄したような状態。食材が各々味を出してくれるだろうと思ったら大間違い。料理も映画も方向性を示すという味付けがなければ、中途半端な味のマズイ作品にしかならないのに、よくもまぁこんな脚本にユニバーサルも資金を出したものですよ。

ですからこの映画の見所なんて王女アマネットの美しさ以外何もないこと。トム・クルーズはいつもよりも眩しすぎるアメリカンスマイルを連発しているものの、その行動原理も不明ならば、行動結果もどれも「何か分からんけど上手いこといったわ」程度のものばかり。

さらにヒロインのジェニーは魅力でもアマネットに完敗してますし、相棒のヴェイルに至ってはゾンビになってからしか活躍しない有様。ロンドンで巻き起こる砂嵐に顔が浮かび上がる映像なんてブレンダン・フレイザー主演作品でILMの3軍4軍が作った映像で既に見たわと言いたくなりますし、それならばせっかくのキャスティングでもあるラッセル・クロウがジキル博士ということでハイド氏になるとどう変わるのかと期待しても顔色が変わっただけで他は何も変わらず仕舞い。というか、それ以前にラッセル・クロウも少しは痩せろよ!

結局モンスターに対抗するにはこちらもモンスターになるしかないという結論の下、不死という中途半端なモンスター状態のニックが完全にモンスターになりましたけど、後の展開はまた次の作品で♪という映画なんて撮る意味あったのか?としか思えなかったこの作品。

この先、透明人間とか狼男とかいったモンスターたちがジキル&ハイドとタッグを組むそうですが、『ハムナプトラ』のリブートでも『ヴァン・ヘルシング』のリブートでもないような中途半端な作品なら、もうそんな「ダーク・ユニバース」という企画なんて止めちまいな!ですよ。

深夜らじお@の映画館は最近のトム・クルーズの作品選びに不安を覚えております。

※お知らせとお願い
【元町映画館】へ行こう!

■TBアドレス:http://blog.goo.ne.jp/tbinterface/ea6e92c8bdcc610cd380405df8b920a3/3f こねたみっくすgoo版

acideigakan at 23:59|PermalinkComments(6)clip!

2017年07月14日

『ジョン・ウィック:チャプター2』

ジョン・ウィック:チャプター2プロとしての礼儀、相変わらずこの映画にはあらず。
ご都合主義も極めれば荒唐無稽を越えたゲーム感覚のアクションに昇華するのか。そう思えるほど、本当に「ご都合主義」「荒唐無稽」「ゲーム感覚」に彩られたアクションしかない映画。
そして相変わらずキアヌ・リーヴスは止まるとお洒落なのに、動くとキレがなく格好良くない…。

前作から5日後という設定で始まるOPからロシアンマフィアにうばわれた愛車を取り返しに来た割りには、相変わらず「伝説の殺し屋」と謳われているはずなのに敵に殴られるわ、車に撥ねられるわ、さらには大事な愛車でさえも武器としてボロボロにしてしまうジョン・ウィック。

そういえば、この殺し屋さんもこの映画も詰めが甘かったな…と思い出しつつ、さてシリーズ化されて何がパワーアップしたかと楽しみにしたのに、パワーアップしたのは敵の数だけ。いや、ご都合主義なシーンの数も増えて、荒唐無稽なシーンへとパワーアップしてました。
でもそれが逆にジョン・ウィックの魅力を下げるシーンになっていたのも残念無念。

特にそれを感じるのはバズーカ砲で思い出の家を木っ端みじんにしてくれた依頼人サンティーノとの血の契約を、結局は履行せねばならなくなってからのくだり。
武器を選ぶのも、防弾スーツを手に入れるのも、ターゲットの場所を知るのも全て他人任せ。裏稼業専用金貨さえあれば何でも手に入るんだ♪と楽されちゃったら、もはやそれはゲームの世界と変わりませんやん。

しかもターゲットであるサンティーノの姉を殺害したというよりはほとんど介錯に近いことしかしていないのに、カシアンには目の敵にされずにライバル視だけされちゃうっていうのも何だかなぁ〜。

一応ジョン・ウィックは「伝説の殺し屋」であり、引退したいのにさせてもらえないということは現役バリバリのはず。
なのに助けてもらってばかりなうえに、鬼気迫る殺し合いもなければ、「プロとしての礼儀」云々と言っている割には何度も人混みの中で銃撃戦を繰り返す素人ぶりのオンパレード。しかも敵もその程度のヤツばかり。カシアンも詰めが甘ければ、地下鉄構内でもあちらこちらに殺し屋はいるのに警察は一人もいないのだから、そりゃジョン・ウィックに「追われている」「逃げ切れるか?」という緊張感もなくなるのも当たり前。

挙句の果てにはロビーでのサンティーノ殺害によりウィンストンからコンチネンタル追放処分になって、お情けとはいえ1時間の猶予を与えてもらったにも関わらず、しかも「近づいてくる敵は全員殺す」と強気な態度を取っている割には、あちらこちらで鳴る着信音にビビりながらNYの街中を逃げるように走るラストシーンも、何だかキアヌ・リーヴスのガンフーアクションでのへっぴり腰同様に無様でしかない。

でもまぁそれがこのシリーズの「ご都合主義」「荒唐無稽」「ゲーム感覚」が織り成す魅力なんでしょう。何のために登場したのか、別にローレンス・フィッシュバーンでもなくても良かったやん…としか言いようのないキングの存在感同様に、本当にどうでもいい映画でした。

しかしまぁガンアクションがゲームアクションに成り下がった映画が昨今増えてきましたなぁ…。

深夜らじお@の映画館はガンアクションが見たいです。

※お知らせとお願い
【元町映画館】へ行こう!

■TBアドレス:http://blog.goo.ne.jp/tbinterface/080488600d7d2c98148e695654de102b/3f こねたみっくすgoo版

acideigakan at 23:59|PermalinkComments(6)clip!

2017年06月18日

『セールスマン』

セールスマン女は現実に向き合わない生き物。男は現実を許せない生き物。
イスラムの価値観がまだ色濃く残りながらも急速に近代化が進むイラン社会で一組の夫婦に課せられる問い。それは日本にも通ずる封建的な世界での男と女の価値観の違いが生み出す、誰の言動が最も正しいのかという問い。
ただこの映画にはその明確な答えはない。

強硬な工事により住居である集合住宅が崩壊するかも知れないという異様なOPから始まるこの映画には、アスガー・ファルハディ監督作品ならではの要素が点在する。
欧米諸国と変わらない社会環境や生活価値観が浸透している近代イランの姿、男女による物の考え方の違いにイスラムの慣習が横槍を入れる人間関係、そして姿を一切表さないキーパーソン。

小さな劇団で「セールスマンの死」を演じるエマッドとラナの夫婦関係も普段はどこの国にも存在する互いを尊重し合う良き夫婦だ。
ところがラナが新居の浴室で暴漢により重傷を負わされると、そこにイスラムの価値観が徐々にエマッドとラナの夫婦関係に歪みを放り込む。

エマッドは夫として妻を襲った犯人に復讐をしたいと願うが、同時に傷ついた妻に対する思い遣りのある言葉は発しない。むしろ妻を守れなかった自分の代わりに不用心な妻を責めるような、男尊女卑の価値観が抜け切れていない封建社会に生きる男の考え方だ。

対してラナは心身ともに傷を負っても世間体を考えて警察への通報はしない。なのに、精神状態も不安定なままでも舞台に立とうとする。不用心な自分を少しは責めつつも、犯人や娼婦であった前の住人に恨み節を口に出さないその姿は、まさに泣き寝入りも仕方ないと諦めつつある封建社会に生きる女の考え方だ。

だが国語の教師もしているエマッドが生徒の悪ふざけに大人げない態度を取ってしまったり、ラナが知らず知らずに犯人の残したお金で食事を作ってしまったりするなかで不意に現れた真犯人に対する言動を見れば、それが封建的な団塊の世代がまだまだ多く健在な我が国でも、いや男が大人になりきれず、女が男に頼り甲斐を必要以上に求める全ての国において、国境や宗教など関係なく、どこにでも起こり得ることだと思い知らされる。

ラナを襲った真犯人は現場に残されたトラックの持ち主の義父。老齢でありながら、娼婦に振り回された弱き男。でも家庭では妻や娘夫婦からも愛されている優しい男。

そんな男をエマッドは旧住居の一室に監禁する。相手が閉所恐怖症なのを利用して、家族に自白することを条件に復讐を果たそうとする。
一方、ラナはそんなエマッドの行動を正しいとは思わないも、それを止めることも出来ない。真犯人を許せる気持ちも許せない気持ちもあるが、夫の気持ちも考え、最悪の事態だけは避けようとする。

ただ男は妻を襲った犯人も妻を守れなかった自分も許せない、いや許すタイミングを見出せない生き物。だから真犯人が持病で苦しんでも、自分の考えを変えるという勇気が持てない。

対して女は自分を襲った犯人の苦しみや夫の苦悩を目の当たりにしても、それの現実に対して行動するタイミングを見出せない生き物。だからこれ以上やれば最悪の事態になるということだけは避けようとするも、男を差し置いてでも責任ある立場には立とうとしない。

だからエマッドは真犯人を別室で殴るしかなかった。ラナはそれを容認するしかなかった。そうしなければ彼らにはそれぞれの心の整理が出来なかったからだが、それもタイミングを逸してしまえば、もはや最悪の結末に辿り着くだけ。

真相を言えないエマッドとラナの前で持病に息絶える真犯人。事情も知らず狼狽する真犯人の家族。
夫は妻を守るべき。妻は夫に守られるべき。そんな封建的な価値観が抜けきれなかった夫婦に、あの時妻の言うことを聞いていれば、あの時夫に強く忠告して制していればという後悔だけが残る。

男と女の価値観は違う。ただ互いにその違いを認めて尊重し合えば、最悪の事態は免れる。
しかし封建的な世界では、いや封建的な慣習が少しでも残るこの世界中では、その互いに違いを認めて尊重し合うという部分が未だに弱い。
男女平等が精神面でも完全に達成されるにはまだまだ時間と最悪の事態が必要なのだろうか。

深夜らじお@の映画館は団塊の世代やその子供世代がが大半を占める日本でも他人事ではない話だと思いました。

※お知らせとお願い
【元町映画館】へ行こう!

■TBアドレス:http://blog.goo.ne.jp/tbinterface/f06e6002488edbbc2a330d00ebd42805/3f はこねたみっくすgoo版

acideigakan at 23:51|PermalinkComments(4)clip!

2017年05月15日

『スプリット』

スプリットM・ナイト・シャマランが帰ってきた!
かつてアルフレッド・ヒッチコックの後継者とまで称されるも、稀代の一発屋として長年多くのファンのマトモな期待を裏切り続けてきた、あのM・ナイト・シャマラン監督。
しかしそんな不遇の時代はこの映画を以て、少なくとも一時的には終わりを告げるのだ!

6週連続2000万ドル越えというトンデモない記録を打ち立てた『シックス・センス』により「私はヒットする映画の作り方を知っている」と豪語したものの、その後は膨らみ過ぎた期待に応えられず、さらにファンタジー好きとしての長年の夢でもあった『ハリー・ポッター』シリーズの監督にとワーナーブラザーズに直訴するも断られ、あまりにも長い不遇の時代を過ごしてきた、かつては地元フィラデルフィアでの撮影しか許されていなかった恐妻家のM・ナイト・シャマラン。

しかしそんな監督が全米3週連続1位を獲得して復活したと聞けば、やはり人格分裂や監禁モノ、そしてあのアルフレッド・ヒッチコック作品を意識したようなOPから高まる期待は多重人格スリラーの名作『サイコ』。
そう、この作品は監禁モノの面白さを追求するのではなく、『サイコ』のような面白さを追求する作品なのではないだろうか。

だからこそ、23人格を有する割には潔癖症のデニス、穏やかなパトリシア、ガキンチョのヘドウィグ、元リーダー格のハリー、大元のケヴィンとオマケの2人格以外は全然描かれてないやん!というツッコミもどうでもいい。
動物園という環境とデニス、パトリシア、ヘドウィグがケヴィン内部での人格集会で爪はじきにされていたことがビーストという24人目の人格を生み出したという無理矢理感のあるクライマックスの辻褄合わせもどうでもいい。

要は多重人格の犯罪者という先読みの出来ない恐怖要素に、監禁という情報制限が為された閉鎖環境で物語がどう進んでいくのかが、アルフレッド・ヒッチコック作品を再び意識し始めたM・ナイト・シャマラン監督作品としては大事なのだ。

どの人格を味方にするのか、どの人格を出し抜くのか、どの人格が真犯人なのか。
それは3人の女子高生が全員助かるのか、それとも犠牲を払いつつも真犯人を倒すのかという期待を膨らませる。

そして案の定、M・ナイト・シャマラン監督はその期待を裏切る。ただこれまでの悪い方向ではなく、まさかのダン役のブルース・ウィリス登場に車椅子云々という驚愕のラストシーンと本編終了後の急告で、長年の映画ファンだけを喜ばせる。これが『アンブレイカブル』の興行及び評価の両面で大失敗を喫した史実をリアルタイムで知っている者にとってはたまらなく楽しくて仕方ないのだ。

だって過去の失敗を現在の成功と繋ぎ合わせるなんて、そんなこと誰が考えますねん!って話なんだもん!

てな訳で目力が凄かったケイシー役のアニャ・テイラー=ジョイ、ハゲ頭で女装も似合っていたジェームズ・マカヴォイに加え、ブルース・ウィリスとサミュエル・L・ジャクソンの出演も決まった続編『Glass』。

果たしてこの映画ではあえて描かなかったケイシーを虐待した叔父との関係はどうなるのか、殺されてしまったフレッチャー先生の持論は活かされるのか、そして先生の助手役として登場したM・ナイト・シャマラン監督はいったいどんな役で登場するのか。もう今から楽しみだ!

深夜らじお@の映画館はこういう作品が妙に好きです。

※お知らせとお願い
【元町映画館】へ行こう!

acideigakan at 23:57|PermalinkComments(6)TrackBack(7)clip!

2017年04月28日

『SING/シング』

SINGシング家族のために歌え!
ミュージカルの面白味が詰まっているアニメーション作品だ。次々と披露される歌声に心まで踊る作品だ。でも物語の中心にいるコアラがどうしても邪魔に思えて仕方ない作品だ。
既に続編の製作も進んでいるのも納得の面白さが全て主役でない動物たちによってもたらされているのがちょっぴり勿体無い作品だ。

ポイントカードの有効期限云々の問題解消のために急遽拝見させていただくことになったこの映画は、まさに評判通りの『ズートピア』の世界観にミュージカルを当てはめたような、これぞ多人種国家アメリカならではの作品。

しかも窃盗団ボスをパパに持つ内気な青年ゴリラ、25匹の子育てと構ってくれない旦那との生活を変えたいママブタ、才能のない彼氏にフラれたハリネズミ女子高生、自分の実力を見せつけたいだけの傲慢ネズミ、自分でも嫌になるほど消極的な乙女ゾウのそれぞれの悩みを描きつつ、彼らが決して現実逃避から歌を好むのではなく、現実を変えたいがために歌に賭けるという設定も面白いこと。

だからこそ、きちんと青年ゴリラにはパパと向き合ってほしいと思う。主婦業に専念するママブタなんて見たくないと思う。ハリネズミ女子高生の才能が開花してほしいと思う。傲慢ネズミのご自慢の実力を見せてみろと思う。乙女ゾウが殻を破る瞬間を見たいと思う。
そう、この映画には歌に人生を賭ける動物たちがどれも魅力的で応援したくなるのだ。

なのに、ストーリーテラーでもある劇場主コアラと来たら、これがとにかく魅力に欠けること。
もちろん劇場復活のためにあれこれ企画するバイタリティも、あちらこちらに出向く行動力も、隣家から電気を盗む度胸も凄いとは思うものの、やはり彼の行動には劇場に対する本物の愛が見えてこないのが淋しいところ。

幼き頃に経験した感動を!と言っている割にはトト少年のような愛がないので、父親への感謝の気持ちも言葉だけに聞こえて残念なこと。
だから劇場が崩壊しても空き地を野外ステージにしてという展開になってしまったのも、物語としては盛り上がるものの、やはりトト少年のような劇場愛がないのは残念でならない。

加えて家事をダンスに見立ててダンサーブタと共に見事なステージを披露したママブタだけが洋楽で、後は全員邦楽かい!というのも残念。吹替版なんだから、せめて全員邦楽でいいやんと思うんですけどね〜。

そしてブタのコンビネーションダンス、立ち上がれゴリラと脱獄パパの親子愛再構築、オリジナル曲で恋のリベンジ完了のハリネズミの針針フラッシュと来て、実力派歌手ネズミもとい山寺宏一先生の熱唱でボルテージが最高潮に達してしまったがために、自分を開放した乙女ゾウの熱唱であまり盛り上がれなかったのも残念。歌が上手すぎるっていうのも罪なのね、山寺宏一先生…。

てな訳で賞金額でダマした動物たちに助けられ、パトロンにと口説き続けたマダムに劇場用地の再取得で助けられと、カメレオンおばあちゃん助手の世話以外はただ助けられてばかりのコアラ支配人。
中でも彼が一番感謝しなくてはならないのは、やっぱり羊の親友でしょう。洗車の乾燥作業を手伝ってくれただけでなく、劇場崩壊後は再開の世話までしてくれた挙句、劇場再開のためにAD作業まで全てこなす親友。彼無くしてこの野外ステージの成功はありえませんで!

深夜らじお@の映画館は傲慢ネズミの山寺宏一先生の熱唱だけは何度も聞きたいと思いました。

※お知らせとお願い
【元町映画館】へ行こう!

acideigakan at 23:59|PermalinkComments(2)clip!

2017年04月15日

『ジャッキー/ファーストレディ 最後の使命』

ジャッキージャクリーン・ケネディ、ファーストレディとしての最後の意地。
ジョン・フランクリン・ケネディを伝説の大統領にまで仕立て上げたのは誰か。それは彼を支え、彼を最大限に活用した若き妻。JFKの功績は彼の功績以上に彼女の功績が大きかったのだろう。
そしてその影には彼女のファーストレディにまで上り詰めた意地があったのだろう。

1963年11月22日。世界の注目が、ジャクリーン・ケネディが着こなすピンクのシャネルスーツにピルボックス帽から、彼女の衣装を真っ赤に染めた夫であり大統領であるジョン・フランクリン・ケネディが暗殺されたその瞬間に集まった日。

その日からの出来事をインタビュー形式で振り返るというこの映画は、とにかく淡々と話が進むうえに、ナタリー・ポートマンの演技とオスカーにもノミネートされた衣装デザイン以外に興味を掻き立ててくれる要素があまり明るみにはならない作品。

ただジャクリーン・ケネディという一人の女性の気持ちを考えると、彼女が自分の夫の葬儀をリンカーン大統領の葬儀に似せようとする想い、でも直前になってその意思を変えようとする想いなどが、何となくではあるが理解出来ないこともない。

例えば想像していただきたい。最愛の夫がオープンカーの隣席で脳みそを飛び散らせ、その命を無残にも奪われただけでなく、その数時間後には国家のシステムとはいえ、エアホースワンの中でジョンソンがもう次の大統領に就任している現実。

さっきまで夫が勤めていた国家で唯一無二の職に別の人間が就くもどかしさと悔しさ。きちんと選挙で勝つという流れのうえでなら気持ちの整理もつくが、それもないまま周囲に流され、その現実を受け入れるしかない現実。しかも自分のファーストレディという地位も、ホワイトハウスでの生活も、大統領夫人としての衣装を身に纏う生活も全てその流れの中で理不尽に奪われるという現実。
そんな現実を仕方ないという言い聞かせる理性の奥には誰しもが絶対に「悔しい」という想いも抱くはずだ。

だから彼女が夫の葬儀に固執する気持ちは、まさに彼女にとっては理不尽なこの現実に対する彼女なりの抵抗劇であり、また夫を伝説化させることで多少なりともの復讐劇も含んでいるのだろう。

考えてみれば、アメリカ史に残る4人の暗殺された大統領を並べても、正直リンカーンとケネディ以外はすぐに名前は出てこない。それどころか、その暗殺された大統領の功績と聞かれれば、奴隷制度廃止のリンカーンに対し、ケネディの場合はこちらもまたすぐには出てこないのが一般的ではないだろうか。

キューバ危機の回避やアポロ計画など功績は多数あるが、リンカーンの奴隷制度廃止ほどのインパクトはないケネディ。そんな最年少で当選したイケメン大統領がなぜ今もなおこれだけ有名なままでいるのか。

それこそが妻ジャクリーン・ケネディの最後の功績だったのではないだろうか。彼女が妻としての意地ではなく、ファーストレディにまで上り詰めたのにその座を奪われた女としての意地で成し遂げた功績だったのではないだろうか。

夫の後を継いだジョンソン、あなたは私の夫ほど歴史に名前の残ることが出来ますか?
世界中の首脳が私の夫の国葬のために街中を歩くという敬意を示してくれますか?

唯一無二の席を射止めた女の意地は怖い。ましてやファーストレディという座にまで上り詰めた女の意地はまさにプライドが為せる業。
居酒屋をオープンさせる前に学ぶべきファーストレディがいるこの国では考えられないほどの女性だ。

深夜らじお@の映画館はナタリー・ポートマンの演技にも驚かされました。もう彼女にマチルダのイメージを思い返すことさえも難しくなったのでは?

※お知らせとお願い
【元町映画館】へ行こう!

acideigakan at 01:08|PermalinkComments(2)TrackBack(4)clip!

2017年02月11日

『サバイバルファミリー』

サバイバルファミリー電気がつかなければ、つけた知恵を使えばいい。
あれ?矢口史靖監督作品なのになぜか笑いが少ないぞ。声を出して笑えるようなコメディではなく、結構マジメに映画を撮っているじゃなイカ!
だからこそ、より一層心と頭に刻み込まれる「電気で成り立つ生活」が当たり前ではイカンという現実。電気なしでも生き延びよ!

スマホのある生活が当たり前どころか、ありとあらゆるものが電気なしでは成り立たない生活体系になってしまった現代社会。あれもこれも電気なしでは使えないだけならまだしも、電気なしではあれもこれも出来ないでは生きていくことさえも出来ない社会になっていることを多くの方は実感出来ていない現代社会。

阪神大震災や東日本大震災を経験された方なら誰しもが電気のない生活がどのようなものかを知ってはいるものの、この広い日本では逆にそういった方は少数派。大多数の方はちょっと待てば電気が復旧するだろうという安易な考えを捨てられずに生活していることにさえも気づいていないのが現実。

だからこそ、口先だけで実は何にも出来ない団塊世代の代表格でもある鈴木家の父親・義之は電気消滅による東京脱出後も何をやっても成功しないどころか、偉そうに言うだけで何の役にも立たない。
また片思い中の大学生でもある息子の賢司も、スマホでの会話が出来ないと現実世界での人間関係もロクに結べない女子高生でもある娘の結衣も、電気がない生活を知らないためになかなか現実を受け入れられないが、そこは若さが勝るのか、徐々に現実に対応していく様は父親よりはマシなもの。

ただどこの家庭でも同じように、やはり一家の「本当の」大黒柱は母親。ペットボトルの水を安く買い叩いたり、家族の喧嘩を「お父さんが頼りないのは始めから分かっていることでしょ!」と仲裁したりと、その活躍ぶりはさすがの一言。

そんな家族4人が自転車で向かうのは母親・光恵の実家・鹿児島。猫缶を食べ、精製水を飲み水にし、顔が整い過ぎの時任一家から新たな知恵を授かり、通天閣の下で家族分裂の危機を乗り越え、神戸・須磨水族園で桂雀々さんから配給品切れを宣告されながらも、岡山で親切な田中さんの世話になりながら家族の絆と逃げ出した豚を取り戻し、山口で一家離散の危機と野犬の襲撃を乗り越え、やっとのことで辿り着いた鹿児島の地。

それまで父親らしいことを何も出来なかった義之が父親らしく我が身を捨ててでも家族を守り、子供たちが一切口にしなかった「お父さん」という言葉も飛び交い、それでも発煙筒が離れ離れになった家族の再会を演出し、形見の品にされかかった父親の部分カツラはお役御免になるも、子供たちが親の馴れ初めを初めて聞き、電気のない生活がこの鈴木家に会話と笑顔を取り戻したことは、震災当日の夜、家族が全員同じ部屋で各自の貯金箱や財布を枕元に置いて並んで眠りに就いた我が身の経験を思い出させるもの。

だからこそ思うことは、やはり情報が安易に入手できる時代だからこそ、「いざ」という時のための知恵はつけておかねばならないという事実。電気がないと使えないものなんて電気がなければ所詮は無用の長物。電気がなくても使えるものでどう生き延びるか。それを知らない者はこの地震の多い日本列島では生きてはいけませぬからね。

てな訳で竹中直人を探せ!が今回もなかったのが残念ではあったものの、高速道路を封鎖しての撮影だけでなく、SLを走らせたり、日本各地で大規模なロケを敢行したりと、かなりの製作資金を掛けているのがよく分かる映画に三つモノ申す!

一つ、
須磨水族園で魚を全部食べちゃうということはラッコもイルカもペンギンも食されてしまったの?それは悲しすぎるじゃあ〜りませんか!
二つ、
野犬たちのあの緊張感のなさは何とかなりませんでしたの?こういうところにもっとお金を掛けるべきだったのでは?
三つ、
3ヶ月以上掛けて東京から鹿児島まで自転車で移動してゲッソリ痩せない鈴木家の中でも特に男性陣の髭が全く伸びていないのはなぜ?私なんて10日間髭を伸ばしただけで愛犬に不審者と思われて吠えられた経験があるのに!

深夜らじお@の映画館は電気がなくても多少は暮らせる自信があります。

※お知らせとお願い
【元町映画館】へ行こう!

acideigakan at 23:59|PermalinkComments(8)clip!
昨日の訪問者数
  • 今日:
  • 昨日:
  • 累計:

※オススメです♪※
『KANO~1931海の向こうの甲子園〜』主題歌
ぷろふぃ〜る

にゃむばなな

Twitter始めますた
nyamu_bananaをフォローしましょう
livedoor 天気
ちょいとした広告掲載