映画レビュー【は行】

2019年05月17日

『僕たちは希望という名の列車に乗った』

僕たちは希望という名の列車に乗った18歳にしてこの決断が出来るか。
未来ある18歳にして国家を敵に回すことが出来るか。分別ある18歳にしてエリート街道を自ら閉ざすことが出来るか。大人の一歩手前である18歳にして正直に生きることを諦めることが出来るか。
これは1956年の東ベルリンで18歳の学生たちが実際に下した決断。ベルリンの壁が出来る前にしか出来なかった決断だ。

1961年に建設されたベルリンの壁は東西冷戦の象徴だが、その壁が出来る前のベルリンは東西に分かれていたとはいえ、列車で往来が可能だったという。特に墓参りや年末年始の親戚訪問などは検閲さえも緩くなっていたという。

だがそんな時代であっても、東ベルリンにはソ連兵が常駐している。国家が、教育が、親が社会主義を褒め称え、未来ある子供たちに思想を押し付けるからこそ、西ベルリンからの情報にはより敏感になる。クルトやテオが映画館で見たハンガリーでの対ソ連への民衆蜂起のニュースも国家を揺るがす「反革命分子」でしかない。

だから学生たちが授業開始からのたった2分間、ハンガリー市民のために黙祷したことでさえも、国民教育大臣さえもが直々に学校を訪れては首謀者を割り出すことに躍起になる。大の大人が寄って集って18歳の学生たちに密告を勧め、卒業資格を剥奪すると脅し、あの手この手で学生たちの仲間割れを模索する。
それは自由世界で生きてきた我々からすると何とも器の小さい行動であり、大人としての模範とは言い難い言動であり、社会主義さえもが愚かに見えてくるものでもある。

しかし同時にもう一つ見えてくることがある。それは多数決により少数意見を封印してまでも黙祷を行った学生たちの行動だ。なぜあの場所で、あの時間帯に、あの人数で黙祷をする必要があったのか。

議長の息子でもあるクルトは自分の想いを遂行することが出来て満足かも知れない。臨機応変に動くことの出来るテオも何とかやり過ごす自信があったかも知れない。
けれど黙祷には否定的なうえに、後々に首謀者割り出しのために心の拠り所であった亡父が裏切者であったという事実を明かされた挙句、自暴自棄になって傷害罪で逮捕されたエリックを思うと、多数決という自由意志を尊重した資本主義の代名詞とも言える制度でさえも大きな危険を孕むものだとも思えてくる。

つまり、この映画には社会主義世界で学生たちが自由意志を貫いたという美談でもなければ、社会主義や資本主義に優劣をつける主張もない。
ただただ学生たちが18歳にしてこのような決断をした。それに対して国家はこのような卑劣な行動を取った。そして校長や親御さんたちは苦悩の果てに、子供たちの決断に対してこのような決断で返答したということしか描かれていない。

だからこそ、18歳という思春期を過ごした方は、誰もがこの映画を見ながら自身の人生を振り返っていただきたい。きっとそこには自由や反抗、独立心、解放、憧れといった言葉の隣に幼稚や未熟という言葉も並ぶだろう。
そして彼らが友を裏切る道を選ばず、卒業資格を得るために母国と家族を捨てて西ベルリンへ行く列車に乗るという決断の凄さを痛感して頂きたいと思うと同時に、授業中に反対意見を封印してまで黙祷を行うという意味までを深く考えずにやってしまったことに対して自己責任をここまで負うことが出来る凄さも実感して頂きたい。

もし彼らの故郷:スターリンシュタットのように、自分の故郷に抑圧者の名前が入っている街で、親が本心では自分と同じ生き方をして欲しくないと思っている環境下で育ったら、果たして我々にはこのような決断が出来るだろうか。

深夜らじお@の映画館が18歳の頃にはこんな決断は出来ませんでした。

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2019年04月13日

『ハンターキラー 潜航せよ』

ハンターキラーアメリカの原子力潜水艦よ、ロシア大統領を救出せよ!
潜水艦映画にハズレなしとはいえ、やはり原子力潜水艦を始めとする現代の潜水艦映画は面白いが、明らかに物足りない。第二次世界大戦以前の潜水艦映画ほどの面白さはない。
ただ荒唐無稽なストーリーを楽しませる要素とチープすぎる演出やカメラワークは満載だ。

ロシア疑惑の真実をバラされたくないためではなく、ロシア国防大臣のクーデターにより第三次世界大戦が引き起こされるのを阻止するためにも監禁されたロシア大統領をアメリカの原子力潜水艦アーカンソーと、別ルートのネイビーシールズが救出に向かうという、いかにも『エンド・オブ・ホワイトハウス』シリーズの流れを汲むこの作品。

ただ前半からジョー・グラス艦長が海兵学校を卒業していない理由も明かされなければ、強いロシアを取り戻すためにクーデターを起こすというドゥーロフ国防相の動機も弱いなど、相変わらず設定段階からいい加減さが目立つうえに、緊迫感を出すために政治の駆け引きを担うはずのチャールズ・ドネガン総合参謀本部長がうるさいだけで、別にいなくても話の展開上何の問題もないという、ゲイリー・オールドマンの無駄遣いも妙に気になること。

さらに、これは個人的な感じ方の問題だが、どうしても原子力潜水艦のような現代の潜水艦は艦内が広く見えてしまうために閉塞感があまり感じられない。だから思考回路を制限するという緊張感も『U-571』のような第二次世界大戦以前を舞台にした潜水艦映画と比べてしまうと物足りなく感じてしまうのも残念なところ。

ただでさえ、ロシア側が英語で会話していたと思ったらモブたちはロシア語で会話するなどといったいい加減な演出が目立つうえに、そこまで潜水艦がソナーにぶつかるかどうかのギリギリを潜航するの?や、何かとカメラをアップにして緊張感を高めようとするといったあざとい演出も目立つので、潜水艦映画を楽しむというよりはド派手なアクション映画を楽しむというスタンスで見る方がいいのだろう。

だからロシア大統領を救出するためにロシアのアンドロポフ艦長が協力してくれるなら、ネイビーシールズにも大統領の護衛官が協力してくれるといったご都合主義もアクションを楽しむなら、さほど気にならない。
むしろネイビーシールズの活躍と原子力潜水艦アーカンソーの活躍が両方楽しめるという意味では、ハンバーグにエビフライがついてお得感もあるほど。

でもネイビーシールズとアーカンソー両方を同時進行というよりは、一方の活躍どころか存在さえも忘れさせるほどに尺を取って長い時間描くというスタンスなので、ハンバーグとエビフライのどちらがメイン食材なのか分からなくなってしまうと、そのお得感もさほどになってしまうのは残念でならない。

てな訳でロシア大統領がアメリカ潜水艦に攻撃をしたら反逆とみなすと警告してもなお国防相の命令に従うロシア軍人もいれば、現艦長よりも前艦長に従うロシア駆逐艦員もいるというなかで迎えるあのラストも面白いんだけど、それをロシア人が見たらどう思うのかしら?

深夜らじお@の映画館はドラゴン・タトゥーの女と共闘したミカエルことミカエル・ニクヴィスト艦長の雄姿を胸に刻みます。

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2019年04月05日

『バイス』

バイス無口な男には気をつけろ。
これがアメリカを、世界を滅茶苦茶にした無口な男の実話とは驚きだ。史上最凶にて最悪の副大統領ディック・チェイニーに権力を握らせたことこそ、アメリカの黒歴史。しかも現在進行中なのだから、驚きを越えて恐ろしくなる。
でもアメリカ人が気にしているのは『ワイルド・スピード』の新作なのね。

酒と喧嘩で恋人リンに愛想をつかされそうになった電気工が一念発起して生まれ変わる。下院議員ドナルド・ラムズフェルドの下で政治を学びながら、徐々に共和党の中心部に自分の居場所を確保し始めるが、そんな彼は初めてもらった、窓もない自分の仕事部屋にも満足し、家族にその喜びを電話で伝えるような優しい無口な男。

だから政治の世界から離れれば、大企業でその実力を如何なく発揮してCEOにまで上り詰めるも、それでも妻と2人の娘を大事にするだけでなく、ブリーダーとしても十分な実績を残すような家庭的な愛に満ちた男。とても「影の大統領」とまで揶揄された男とは思えない。

だが中盤でわざとらしくEDロールを挿入して、ここからディック・チェイニーという男の人生が変わったことを暗示すると、それまでの一般的には知られていなかった無口で実直で家庭的な優しき男のイメージは徐々に薄れていくが、そのイメージが決して消えることはない。

それは彼がピンチをチャンスに変えることが出来る男だからだ。その説明が天の声によって映画が始まった段階で既になされているからだ。

つまりディック・チェイニーは無口で実直で家庭的な優しい男であると同時に、それまでは大統領の死を待つだけのお飾り状態だった副大統領への就任をジョージ・W・ブッシュから打診されたことで、副大統領の仕事内容を変えるという名目で、見事に自身の政治的目的でもあった一元的執政府を実現させるチャンスに変えただけの男なのだろう。

しかし権力はどんな人間であれ、悲しくも悪い方向に変えてしまう。さすがのディック・チェイニーもその例に漏れず、政治の師匠でもあったドナルド・ラムズフェルドたちと共に政権の中枢に居座ると、周囲を自分たちの邪魔にならない者だけで固めてしまい、反対する者はコリン・パウエルくらいにしてしまうのだから、もうこうなってしまうと誰も彼らを止めることは出来なくなる。

そうして暴走列車となったブッシュ政権、いやチェイニー政権はアメリカ同時多発テロという国家的危機でさえも一元的執政府実現へのチャンスに変えてしまい、まるで国王が命令を下すようにイラク戦争を始め、名指ししたことでテロリスト・ザルカウィに勢いを与えてしまい、結果としてアメリカと世界を混沌とした状態へと導いてしまう。

ただそれでも彼もまた悩める一人の人間。次女が同性愛者であること、長女が出馬した折に同性結婚を認めるとは断言しなかったことで姉妹が仲違いしたこと、そして自身が心臓に疾患を持っていることなども同時に描かれるが、この映画が面白いのはナレーションを務める天の声がまさかディック・チェイニーに心臓を提供した男性とは、なかなかブラックユーモアの効いた構成だ。

けれどそれよりもブラックユーモアが効いているのは、やはり本当のEDロール中に挟み込まれた市民討論会だろう。
一人の「影の大統領」のおかげでおかしくなったアメリカは、オレンジ色顔の大統領を支持する派とヒラリー・ファンとで殴り合いをするような時代になったのかと思いきや、中盤で説明されていた通り、金と時間に余裕がなくなれば誰も政治の話はしなくなる時代になっただけ。
国民は大統領の動向よりも『ワイルド・スピード』の新作が気になるなんて、政治の無関心がより国家をダメにするのは日本だけじゃないのね。世界の超大国アメリカでそんな状況になるのは本当に恐ろしい。

だからだろうか、個人的にはどこかディック・チェイニーが21世紀のアドルフ・ヒトラーにも思えてしまった。
やっぱり独裁政権だけでなく、それに似た形になる長期政権は怖いと思いつつも、安倍晋三総理はディック・チェイニーほど無口なタイプではないのでそれほどの恐ろしさはないのかなとも思っちゃいました。

深夜らじお@の映画館はドナルド・ラムズフェルド、ジョージ・W・ブッシュ、コリン・パウエルだけでなく、コンドリーザ・ライスまでそっくりに演じた役者陣を見るだけでも十分面白いと思います。

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2019年03月26日

『バンブルビー』

バンブルビーチャーリーと意気込みだけは男前な騎士団。
飛び抜けた面白さはない。けれど青春にSF、家族愛に’80sと様々な面白さが詰まった、これぞマイケル・ベイには出来なかった『トランスフォーマー』の原点回帰。
そして何よりも結果はどうあれ、一人の少女を守るために男前な意気込みを見せる男たちが格好いいではないか!

サイバトロン星から脱出するも、遠く離れた地球まで追いかけてきたディセプティコン・ブリッツウィングにより発声回路を奪われたうえに記憶回路までショートさせられ、黄色のビートルに変形して活動を停止していたバンブリビーことB-127。

そんなB-127と出逢ったチャーリーは亡き父を忘れられずに、父親の形見でもあるシボレーの修理に勤しむ一方で、家族とは溝を作り、でも友達は全くおらず、飛込選手だったのも過去の話で、生きている意味を見出せていない少女。

だからこそ、チャーリーが声と記憶を失った可愛げのあるバンブルビーと名付けた未知の生命体との交流は、どこかペットと接しているようでもあり、どこか弟を世話しているようでもある。実際にチャーリーには愛犬がおり、オースティンという弟もいるのに、これまで飼い主としても姉としても巧く接することが出来ていなかったのだろう。
バンブルビーとの生活で本来の姿を取り戻していく姿は凄く心地いい。

さらにそんなチャーリーに恋心を抱きながらも良き理解者として何かと巻き込まれてくれる奥手のメモとの交流も、彼にとっては悲しくも色恋沙汰には発展しないが、それでもチャーリーの私生活がよりティーンらしく輝いていく様も何とも気持ちいいこと。

けれどバンブルビーは地球に逃げて来ただけでなく、オプティマス・プライムを迎えるために地球に拠点を構える任務があるが故に、ディセプティコンに狙われる身。
またシャッターやドロップキックといった追手がアメリカ「セクター7」という軍部を利用したがために、アメリカ軍にも狙われている身。

そんなサイバトロンの希望だけでなく、チャーリーやメモの日常といった幸せも守らねばならない、ラジオの選曲を通じて会話が出来るようになったバンブルビーに対し、チャーリーだけでなく、4人の男たちがそれぞれの場で男前な心意気を見せるところが、同じ男としてはたまらなく興奮してしまうこと。

もちろん母親の気を引くといった任務を請け負った弟のオースティンや、軍の追手を止めると残ってくれたメモが何の結果も出せていないのは、それだけを見れば情けないかも知れない。
でも「頼られる」という報酬や「頬へのキス」という報酬で一人の少女のために動く彼らは間違いなく男前なのである。

だから、義理の娘のために蛇行運転で軍の追手を止めてくれたスマイル推奨のロンも、いくらサリーから怒られようとも、その結果を残した行動といい、その心意気といい、間違いなく男前だ。
バンブルビーを追う立場であるも、命の恩人でもある彼に「ソルジャー」と呼びかけ、さらには敬礼をするジャック・バーンズ少佐も、その行動といい、その心意気といい、間違いなく男前なのだ。

そしてバーンズ少佐にガッツポーズで応えたバンブルビーもまた、これから始まるディセプティコンとの戦いに、自分を助けるために飛び込みをしてくれたチャーリーを巻き込みたくないがために別れを選択するその心意気も男前ではないだろうか。

そんなバンブルビーが、家の中をひっちゃかめっちゃかするも反省してビートルに変形したビーが、最後にカマロに変形するのも、彼なりのチャーリーへの愛情表現。

守られるだけの弟分が、一人の女性を守るために大人の男へと変わっていく。
孤独だった少女が、守るべき存在が出来たことで、交流の大切さに気付いていく。
そしてそんな少女と弟分を4人の男前な騎士団が支えてくれる。

マイケル・ベイに敬意を表してか、ちょっと中弛みになりかけのシーンも挟みつつ、まさかこのシリーズで、スピンオフとはいえ、こんなにも心が温かくなるとは…。
NIKEの創業者の息子でもあるトラヴィス・ナイト監督の手腕、恐るべし!

深夜らじお@の映画館は’80sを舞台にした作品が増えていることに少し嬉しさを感じます。だって懐かしいんだもん!

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2019年03月22日

『ブラック・クランズマン』

ブラック・クランズマン憎しみに居場所なし。
如何にもスパイク・リーらしい映画だ。でも老齢のせいか、昔ほどの熱量はない映画だ。
アメリカ・ファーストにより合衆国の理想が失われようとしている昨今、レイシストをコケにしたこの風刺は、何を否定し、何を肯定しようとしているのか。
ブラックパワーとホワイトパワーが協力できる時代は来るのか。

コロラドスプリングス警察で初の黒人警官となったロン・ストールワース刑事が黒人集会の潜入捜査を経て、新たに新聞の広告欄から見つけ出したのは、白人至上主義集団クー・クラックス・クラン、通称KKKへの潜入捜査という、嘘みたいな話。

でもこれが実話なんだから凄いうえに、電話口での入会から交渉までを担当するのは白人英語も堪能な黒人刑事でも大丈夫だが、いざ顔を付き合わせての潜入捜査を担当するのは自身のアイデンティに対する意識が低いユダヤ人刑事のフリップ・ジマーマンとなれば、これもまたユダヤ人という部分は脚色とはいえ、大部分が嘘みたいな話のように思えて実話なんだから、驚かされてしまう。

ただ白装束を纏い、十字架を炎で焼くイメージの強い秘密結社KKKも、時代の流れにより、誰もが暴力的な訳ではないし、また有色人種を嫌う一面も見せつつも、その本来の目的は有色人種との隔離を望んでいることも分かってくる。
要は生理的に白人しか認めないので、ホワイト・パワーだけで暮らしたいというのがその根底にあるのだろう。

しかしどんな組織にもハト派がいればタカ派もいる。そんななかに他人のフリをして、しかも自身がユダヤ人であるということを極力意識せずに、かつ刑事ということがバレないように潜入捜査を続けなければならないフリップ刑事の苦労は並大抵のものではなかったはず。

さらに『風と共に去りぬ』や『國民の創生』、『シャフト』や『クレオパトラ・ジョーンズ』を巧みに使い、映画が如何にホワイト・パワーやブラック・パワーを煽ってきたかも描きつつ、その煽りを真に受けて爆破テロを実行に移そうとするアホまで現れるのだから、そりゃこの潜入捜査はある意味マフィアを調べるよりも素人相手だけにより怖いかも知れない。

ただ爆破テロを妻にさせるも、そのデブ妻が計画とは違った場所に爆弾を仕掛けたため、自分たちがその爆破の犠牲になるという皮肉たっぷりなクライマックスを見た後に見せられる、バージニア州シャーロッツビルでの抗議デモ同士の衝突に車が突っ込む映像は、アメリカが40年掛けて唱えてきた融和の心が全く浸透していない現実を目の当たりにさせられる。

だからこそ、トランプ大統領のKKK擁護発言とも取れるあの言葉の数々は、そのまま大統領の無知さを、無関心さを知らしめると同時に、憎しみの歴史がアメリカの歴史になっている現実をも痛感させられる。

なので、この中弛みもあり少々長尺にも思える映画がアカデミー作品賞を取れなかったのはある意味納得でもある。「憎しみに居場所なし」と訴えているスパイク・リー監督自身、人種差別撤廃運動の中で少なからず白人を憎んでいないかという深層心理も見え隠れしてくるので、その辺りも含めると『グリーンブック』の作品賞受賞は凄くニュートラルな作品にも思えてくるからだ。

あとタイトルの中にKKKをわざと含ませているのは、どこまで認知されているのかな…。

深夜らじお@の映画館は『マルコムX』から28年を経て、デンゼル・ワシントンの息子を主役にしたスパイク・リー監督にはまだまだ頑張ってもらいたいです。

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2019年03月16日

『運び屋』

運び屋人生最後の大仕事。それは無様な自分の失敗を若者に伝えること。
御年88歳のクリント・イーストウッドがその老いた細身の体で贈るメッセージ。それは次世代へではなく、自分と同じく人生を終えようとしている世代へ、生きた証を残せと。成功体験ではなく、失敗体験を伝えることで。
それが新たな才能ブラッドリー・クーパーへと伝えられていく。

スティーブン・スピルバーグと同じく、残りの人生で何本映画が撮れるか。その数本で何を後世に残すべきなのかをテーマに映画を作り続けるクリント・イーストウッドにとって、11年ぶりとなる監督と主演を兼ねるこの作品は、実際に起きた90歳の麻薬運び屋の記事から発想を得たものらしいが、予告編段階から異様に気になる彼の痩せた細い身体と腕に、改めて残された時間の短さというものを痛感させられる。

そんなクリント・イーストウッドが描く本作の主人公は、まさにどの国にも、どの地域にも存在する、いわば時代に取り残された古き世代の男たち。
家庭を顧みずに仕事に没頭する一方で、インターネットという新しい波を毛嫌いするも、その時代の変化についていけずに廃業した時に初めて家族を疎かにしていた罪深さに気付く。日本でいえば、団塊の世代ではないだろうか。

そんな彼が孫娘の結婚式前パーティで紹介された「運転するだけで金が貰える仕事」にのめり込んでいく様は、ある意味奇怪でもあり、現実的でもあり、また可愛らしくもある。

なぜなら明らかに怪しげな人物と接触し、明らかに怪しげな行動を求められることで大金を手にすることは、普通に考えるとすぐに犯罪関連だと気付くはず。
だが金が必要な彼にとっては、運ぶブツが何であるかなどはどうでもいい。これまでユリ栽培の仕事を頑張りに頑張ってきたのに報われない人生だったことに比べれば、これだけ楽な仕事で大金が手に入るのは楽しくて仕方なかったのだろう。

しかも手にした大金で孫娘の結婚パーティーの会場を借りることが出来たり、退役軍人店舗のリニューアルを手伝うことで喝采と名声を得ることで懐だけでなく心まで潤い始めると、あれだけ毛嫌いしていたインターネットの世界、ここではメールの打ち方にも興味津々。怪しげな兄ちゃんたちに教えてもらうほど仲良くなるうえに、運送先を間違えて組織の連中がモメても自分は素知らぬ顔でリップクリームを塗るほど周りに一切の興味を持たない始末。

またマフィアのボスから招待を受けたり、若い女性と夜な夜な楽しんだりと人生を謳歌する一方で、パンクで困っている黒人家族に平気でニグロと差別用語を使うが、それを指摘されても謝らない。でも逆ギレもしない。
そう、まさにこの老人は完全にマイペースで人生を歩んでいるのだ。

だが麻薬が身体を蝕むように犯罪に絡むことで心が蝕まれると、彼は自分の犯した罪に向き合うようになる。そして知らずとはいえ、麻薬捜査官であるベイツに告白してしまう。自分が家族を疎かにしたがために自分は惨めな人生を送っているということを。

けれど人生は死ぬまでは終わらない。罪滅ぼしをする機会は生きている限り永遠にあり続ける。それを孫娘からの電話で気付いた老人が、死を迎えようとしている元妻のところへと走る。相当な麻薬を運ぶという重要任務を保留し、組織にも一切連絡をせず単独行動をし、愛した女の最後に寄り添うために。

人生をやり直す機会を得た老人は、自らを勝手に除隊した兵士だと言い切る。戦争を経験した者が死を覚悟した者としての姿を見せる。
だから彼は何の抵抗もせずに麻薬捜査局の逮捕に応じる。裁判でも弁護士を押しのけ、自ら有罪だと言い切る。

ただ思い出してほしい。彼は組織のフリオに新しい仕事に就けとアドバイスをしていた。パンクで困っていた黒人男性に父親に教わらなかったのかと問いただした。警官から職務質問される組織の連中にも助け舟を出した。
彼は常に若い連中に対し、時代の流れの中で失われてしまった本質的に正しいことを伝え続けてきた。

家族や国のためにと思って働いてきた老齢の男たちは、無様な自分を認めず、逆に自分が正しいという観念の下で若い世代に伝えようとしてきたが、それで伝わることなどあるだろうか。
若い世代からの教わることはある。それを知れば、自ずと自分が伝えるべきことが何かは分かってくるはず。

己の失敗を若い世代に伝えよ。見栄を張らずに。そして人生を終えよ。それが人生最後の大仕事だろうと。

刑務所で再びユリを育て始めた老人の顔は生き生きとしている。またこの場所で自分の経験を若い奴らに伝えることが出来る。成功した体験も、失敗した体験も。

ブラッドリー・クーパーを代表に、若い世代である我々はそんなクリント・イーストウッドの想いを受けて生きていかねばならない。自分が人生を終えようとする時にも、彼の想いを次の世代に伝えるために。

深夜らじお@の映画館はクリント・イーストウッドにはそろそろ引退して静かに余生を過ごして欲しいです。彼の作品が見れないのは凄く淋しいですけど。

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2019年03月13日

『バーニング 劇場版』

バーニング燃えていく。身も心も、そして自分自身の存在も…。
村上春樹先生原作の短編小説「納屋を焼く」をイ・チャンドン監督が映画化したこの作品は、先にNHKにより90分の短編作品として放映したためにあえて「劇場版」と銘打った、謎が多く、これといった答えは用意していない異様な雰囲気を漂わせるミステリー。
故にラストの解釈も十人十色…。

小説家を目指しているジョンスは寡黙な青年だ。父は暴力沙汰で裁判中、母は幼き頃に家を出たまま。結婚した後に姉がいなくなった38度線近くの実家で牛の世話をしながらの生活がより彼に鬱屈とした日々を過ごさせる。

だからこそ、整形して美人になった幼馴染のヘミに出逢い、身体を重ねたことで、彼にとって彼女が人生の希望になるのも理解出来るし、そんな折にアフリカ旅行の旅先で出会ったという金持ち青年のベンを恋敵として疎ましく思うも、その人たらしな年上青年の魅力に抗えず、またその魅力に嫉妬する気持ちも理解出来る。

ただ小説家を目指しているはずのジョンスから発せられる言葉は、とても小説家とは思えないほど貧相であるうえに、他人の言葉の真意を汲み取るなどの考察もほとんどしていない。本来なら世間を知り、人を知り、視野を広くして、それらを作品に投影するのが小説家であるはずなのに、ジョンスにはその行動がほとんどない。

逆に実家が金持ちなのか、それとも何かしらのビジネスに成功したのか分からないが、高級マンションに住み、高級外車を乗り回し、友人と洒落た飲み会を開くベンの方が言葉の言い回しといい、所作といい、その落ち着きぶりといい、あたかも彼が小説家に向いているのではないかと思うほどだ。

だがヘミはそんなジョンスを信頼しているようだが、異性として距離を縮めていく相手に選んだのはベンの方だ。金持ちで自分の話も聞いてくれて、彼の前なら自分はありのままでいられる理想の異性として見る一方で、どこかジョンスをスペア代わりにキープしておきたいという面もちらりと伺えてしまう。

そんな彼女が突然姿を消す。ベンがジョンスに2ヶ月に一度ビニールハウスを燃やすのが楽しみだと告白した直後に。
一般的に考えるなら、恐らくヘミはベンに殺されたのだろう。ジョンスの近くにあるビニールハウスをあの後すぐに燃やしたという告白といい、ベンの家にあったヘミの腕時計といい、ベンの家にいた猫のボイラといい、ヘミの話に飽きたようにこっそりと欠伸をする様といい、そう思わせる要素はたくさんある。

けれど確証はない。
もしかしたら視野の狭いジョンスの勘違いや妄想かも知れない。ベンのように金と友をたくさん持つ人たらしな方は世の中にたくさんいるのだから、嫉妬がコンプレックスを良からぬ妄想に仕立て上げたとも考えることも出来る。

でもヘミという希望を失ったジョンスは確証を欲しがる。確証が得られなければ、状況証拠を集めたがる。燃えた形跡のない古びたビニールハウスを確認する日々も、ベンが新たな彼女に対してもこっそりと欠伸をする様も、ヘミがいなくなった部屋も、全てベンを疑う要素から犯人と確信する要素へと昇華していく。

しかしそれはヘミがパントマイムで習った「ないものをあるものと思い込む」と同じこと。

ないもの。真実を明らかにする確証、ヘミの存在、ベンのような生活と性格、小説家としての成功。全てジョンスが心から欲しがっているもの。

それらをあると思い込む。その結果、ジョンスはベンを殺害する。彼の遺体と車と自分が着ていた衣服を下着まで全部まとめて燃やす。そしてヘミの部屋で小説を執筆する。

もしかしたら枯れ井戸に落ちたことを告白したことで助けを求めていたヘミは自殺したのかも知れない。
ベンは興味のなくなった相手に対してはすぐに冷める人なのかも知れない。
腕時計もネコもヘミが勝手に置いていったのかも知れない。
全てジョンスの執筆している小説の中の話かも知れない。

ただ小説を執筆しているジョンスの背中は今までの彼ではない。
ヘミが消え、ベンも消え、これまでのジョンスも消える。まるで燃えて跡形もなくなったように…。

深夜らじお@の映画館はベンのようなタイプの人が嫌いではないけど苦手なので、極力近づかないようにしています。

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2019年02月23日

『ビール・ストリートの恋人たち』

ビール・ストリートの恋人たちビール・ストリートだけが知る真実の愛。
まるで現実のものとは思えないほどに夢見心地な若い2人が育む愛と、まるで現実のものとは思えないほどに人間味を失った若い2人を引き裂く現実。
愛が奇跡を起こすことはないが、幸せはどんな形であれ消えはしない。恋人同士の愛が家族の愛へと成長していくのだから。

公民権運動家としても名高いジェームズ・ボールドウィンの小説をバリー・ジェンキンス監督が静かに、けれど力強く描くのは、幼馴染が恋人同士へと変わっていくファニーとキキが育む愛と、そんな2人を温かく見守る家族の愛。

1970年代のNYのみならずアメリカには、公然とした人種差別が蔓延っていたが、この映画ではそんな人種差別に怒りを燃やす2人は描かれない。人種差別に悲しみの涙を流し続ける2人も描かれない。
どんなに過酷な現実が2人を引き裂こうとしても、決して離れることはない2人の夢見る未来と、そんな未来を夢見るために2人が歩んできた過去しか描かれない。

もちろん信仰熱心なファニーの母親が危惧していたように、22歳のファニーと19歳のキキの間に新しい命が誕生するということは、現実的に見れば困難極まる道でしかない。
世間をまだまだ知らない半分子供の大人が親になるというのだから、それは決して夢に見るような幸せだけが待っている未来ではない。

でもキキの両親は、姉は、ファニーの父親は、新しい命の誕生を歓迎する。いや、正確には新しい家族の誕生を歓迎しているのだろう。両親から祖父母へ、姉から伯母へと立場が増えていく幸せを感じながら。

それはファニーの友人であるメキシコ系ウェイターのペドロシートも同じ。2人の愛の巣を提供してくれたユダヤ系貸主のレヴィーも同じ。非白人という共通点ではなく、気の合う友人として愛し合う2人を見守り、笑顔で助けてくれる。

だからファニーとキキが育んだ愛は、絆は、決して枯れることはない。切れることもない。そんな2人を見守る家族の愛も決して諦めるという選択肢を選ばない。
いくらファニーが差別的な白人警官の怒りを買ったがために無実の強姦罪で収容されようが、日に日に大きくなっていくおなかを抱えながらもキキはファニーの帰りをひたすら待ち続ける。
いくら最後の希望とも言える被害者の新証言が得られなくなったとしても、遥々プエルトリコまで赴いたシャロンの肝っ玉母ちゃんとしての愛と眼差しは希望を探し続けている。

けれどこの映画ではファニーの無実が証明される日は描かれない。出所できる希望も描かれない。差別的で過酷な現実がずっとファニーとキキの正式な結婚を邪魔したままで映画は終わる。

それでもそんな差別的で過酷な現実に決して負けないキキがいる。キキの愛に生きる希望を持ち続けるファニーがいる。そんな2人を早く一つ屋根の下でと願う2人の家族がいる。

なので、この映画は幸せを描いたままに終わる。刑務所の面会室で息子のアロンゾと3人で家族の時間を過ごす幸せな若い家族の姿をしっかりと描いて終わる。

甘酸っぱい2人だけの幸せな世界は、傍から見ると少々恥ずかしくもなるほどに幸せの色で満たされた世界であるが、本当は誰もが求めている世界でもあることが分かる。

恋心をしっかりと愛情へと育て上げたファニーとキキ。そんな2人を見守ってきたビール・ストリートという場所がもし話すことが出来たなら、どんな言葉で2人を彩るのだろうか。

そう思うと「If Beale Street Could Talk」という原題は何てオシャレなんだろうか。

深夜らじお@の映画館もこんな恋がしたいです。だから婚活頑張ります…。

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2019年02月13日

『バジュランギおじさんと、小さな迷子』

バジュランギおじさんと、小さな迷子愛と優しさは国境を越える。
こんなにも温かい涙を、こんなにも長い時間流したのはいつ以来だろうか。
一人の実直な青年が異国で迷子になった話せない少女を送り届けるというだけのストーリーなのに、なぜかずっと見ていたいと思わせる魅力と、可愛すぎる子役のハルシャーリー・マルホートラちゃんがたまらない!

パキスタンの山奥から6歳になっても話せない娘を隣国インドの霊廟に連れて行くはずが、深夜の列車から少女が降りてしまったがために、探しに行こうにも娘を探しに行くことが出来ない両親の悲しみに覆われるOPから、この映画に突き刺さるのは村長が母親に放った「インドにも優しき神はいるはず」という言葉。

宗教対立から分離独立という歴史を辿ったイスラム教のパキスタンとヒンドゥー教のインドの関係性は、『ボンベイ』などでも描かれていたように、まさに憎しみのみ。
そんな両国関係の中で言葉を話せない以前に喋ることも出来ない少女が生きて帰ることが出来るのかは、まさに神頼みの世界でしかない。
だからこそ、我々はそんな状況下で少女が出逢った一人の青年バジュランギことパワンに期待してしまう。勉強もインド式相撲クシュティーの実戦も苦手だが、嘘はつけない実直なハヌマーン信者の彼に。

だがいくら彼が底抜けの善人とはいえ、喋れない少女から情報を得ることは至難の業。
食生活やクリケット観戦、モスクでの祈りからムンニーと名付けた少女がパキスタン人と判明しても、悪化する両国関係の前では正当な入国さえ出来ない。

でも密入国を依頼した代理人が少女を売り飛ばそうとした現実に直面した彼はハヌマーン神に誓う。教師の恋人ラスィカーの理解を得て、縁も縁もない異国の少女を親元まで送り届けようと誓うが、ただパワンは底抜けの嘘をつけない善人なので、せっかくパキスタンに密入国しても国境警備隊長からの許可をもらえないと堂々と入国出来ないと言い出す始末。

だから彼は行く所行く所で次々と困難に直面するが、その度に優しき人々に出逢い、助けてもらう。国境警備隊長、モスクの老教師、密入国業者、そして記者のチャンド・ナワープ。
そしてその困難と優しさのリレーが起こる度に、パワンの隣でムンニーがおでこに手を当てて「あっちゃ〜」という仕草をしたり、「ラーマ万歳」と合掌したりする。これがとてつもなく可愛いのだ。

真っ当な人間が真っ当なことをする。
政治や宗教など大人の事情はあれど、どこの国の者であれ、小さな子供が迷子になっていたら、大人として、いや人として何をすべきか。

ただただ迷子の少女を親元に送り届けたい。そんなパワンに触発された記者ナワープも同行しての3人での旅路は、やがてパワンがインドからのスパイと疑われて警察から追われる逃避行へと変わっていくが、この映画が面白いのは、そんな愛よりも憎しみにしか関心が集まらない現状を打破すべく、ナワープがネットに投稿したムンニーの親探し映像が本来の目的とは違う形でその効果を発揮するところだろう。

警察に追われる自分が囮となってナワープに託したムンニーを親元に帰す。そうしてハヌマーン神への誓いを守ったパワンが牢獄で自白を強要されているのをそのまま見捨ててもいいのか。

大人が子供に教えるべきことは何か。愛国者がその誇りを守るためにすべき選択は何か。今、自分に出来ることは何か。
それらを考えた時、そこに政治も宗教も国境も関係ない。一人の人間としてすべき選択は一つしかないのだ。

だからパキスタンとインドの両国から国境付近に多くの人々が国境検問所に駆けつける。一人の少女を異国の親元まで送り届けた英雄を母国へ帰すために。

国境警備隊が上官の命令には逆らえないが我らは小隊なのでと黙認する優しさと、群衆が英雄を讃える中で発せられる少女の叫びは、いくらベタな展開とはいえ、恐らくこの映画を楽しまれた方なら一番待ち焦がれていたシーンだろう。そんな少女が必死に走る姿に、その少女に向かって必死に走るパワンの姿にもう涙が止まらない。

パキスタン人少女とインド人おじさんが再び抱き合う後方にそびえ立つカシミール渓谷から川を伝って愛と優しさが流れ来るラストシーンは、シャヒーダーと同じ年頃の姪っ子ちゃんがいる私の記憶に永遠に残り続けるだろう。

深夜らじお@の映画館も姪っ子ちゃんにあんな風に抱きつかれたら、ムンニーのような可愛らしい仕草を教え込みたいと思います。

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2019年02月09日

『ファースト・マン』

ファースト・マンこれは一人の人間にとっては小さな一歩だが、人類にとっては偉大な飛躍である。そして一人の父親にも大きな一歩である。
人類で初めて月面着陸を果たしたニール・アームストロング。だが彼も一人の人間であり、幼き娘を亡くした悩める一人の父親でもある。偉大な英雄である前に。
だからこれは英雄を描いた作品ではない。そこが評価の分かれ目。

セリフがほとんどない。ナレーションもない。状況を遠巻きに見せる映像もない。ただ激しく揺れる狭いコクピットと、パイロットの意志通りに動いてくれない計器が示す数字に不安ばかりを覚えるOPから、この映画は本当にデイミアン・チャゼル監督作品かと疑いたくなる。

これまでオスカーレースに絡んできた作品はどれも怒りや愛情といった「動の感情」を音楽という「動の要素」と組み合わされたものばかり。
だがこの作品はその正反対。全編をほぼ覆い尽くす不安という「外見的には静の感情」と暗い部屋や狭いコクピットで物静かに語られる「静の要素」が組み合わさったものだからだ。

なので、これは間違いなくニール・アームストロング船長の偉業を追体験する作品ではない。未だかつて人類の誰もが訪れたことのない、地球の常識が通じない可能性が高い場所に赴くことに希望と名誉を感じつつも、それをも凌駕する不安に苛まれた一人の男、一つの家族、そして多くの仲間の物語なのだ。

何が起こるか分からないから考えられることは全て訓練で行う。しかしその訓練で命を落としていく仲間が後を絶たない。
ジェミニ計画からアポロ計画へと移行されても、大事な仲間がアポロ1号の悲劇で命を落とす。その度に葬儀に参列する。いつかは自分たちも夫や父親を失うかも知れないという不安に苛まれた妻や子供と共に参列する。

そんな状況下にマーキュリー計画時の1962年からアポロ計画で月面着陸を果たした1969年まで晒される精神状態を我々に想像出来るだろうか。本人だけでなく、家族の立場でも想像出来るだろうか。

幼き娘を亡くした男が不安に苛まれる。自分も死ぬのではないかと。家族の死に直面した妻や息子にまた同じ悲しみを味あわせてしまうのではないかと。
幼き娘を亡くした妻も不安に苛まれる。娘に続き、夫も失うのかと。その不安を誰にぶつければいいのかと。妻として、母親として、どうすべきなのかと。

だから妻ジャネットは出発前の夫ニールに迫る。まるで遺書の代わりにと言わんばかり、子供たちに面と向かってきちんと話せと。不安と戦っているのは自分だけではない。私も息子たちも同じなのだと。

そしてニールは月へ向かうが、そこに高揚感は全くない。あるのは不安とその不安を払拭するためのわずかばかりの決意のみ。
それが月面着陸を果たしたニールの涙に集約されている。幼き娘の名を刻んだ遺品を月に残してくる。それが自分が、家族が前に進むために必要なことだと言わんばかりに。

月から帰還したニールが妻ジャネットとガラス越しに再会するラストは、人類の英雄となった男とそんな夫を誇らしく思っている妻の再会ではない。
不安を払拭し、安堵に満ちた夫婦がガラス越しに見つめ合っている。もう家族の誰も死ぬことはないという安堵に満ちた再会。それが本当の幸せなのだろう。どんな偉業よりも素晴らしいことなのだろう。

深夜らじお@の映画館はデイミアン・チャゼル監督は改めて凄い映画監督だと思いました。

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2019年02月01日

『フロントランナー』

フロントランナー最有力候補:フロントランナーに必要だったものは政策か、資質か、それともその両者か。
1988年アメリカ大統領選挙前の民主党予備選挙で当選確実と目されながらも、スキャンダルによって撤退を余儀なくされたコロラド州選出ゲイリー・ハート上院議員。
ジョン・フランクリン・ケネディの再来とまで称された男に足りなかったものとは何か。

大統領まであと一歩のところまで迫ったはずだったゲイリー・ハート上院議員は実際の写真を見ても分かるように男前でエネルギッシュだ。
そんな彼が政策を語れば、それはアメリカの未来そのものと思えてくる。だから彼は最も大統領になるべき人物であり、最もその才能に溢れていた人物でもあったのだろう。それらが彼を支える選挙スタッフの表情から容易に伺えてくる。

ただ社会が変わろうとしていた1987年はもはや候補者の政策と資質を分けて考える時代ではなくなっていた。もう誰もケネディのように例え政策が素晴らしくても、ホワイトハウスの全室で情事に及んだという噂まであるようなスキャンダラスな候補に投票する時代ではなくなっていた。 

しかしそのことに女好きでもある当の本人が気付いていない。多くの重鎮とも呼べる年配者たちも過去の事例から重視していない。
一度スキャンダルで、特に女性スキャンダルでイメージが落ちてしまったら、その後どうなるかということに。会見で強く否定しないとどういう印象を持たれるかということに。

そしてそれは報道に携わるマスコミにも同じように言えること。真実の報道と事実の報道を混同させると、ニュースはゴシップになる。マスコミはマスゴミと揶揄されるようになる。

マイアミ・ヘラルドが十分な裏取りもしないままに報道した結果、一人の最有力候補が失脚する。一人の若き女性が孤独になる。一人の妻が夫不信に陥る。一人の少女が執拗な取材で怪我をする。一人の若く有能な記者が苦悩する。そして多くの選挙スタッフが職を失い、多くの国民が希望を失う。

そんなアメリカが一つの希望を失った歴史的事実をジェイソン・ライトマン監督はゲイリー・ハートに重き視点を置かずに、様々な人物に焦点を当てた群像劇として描きたかったのだろう。
だが選挙戦の舞台裏は生々しく伝わってくる反面、物語の中心にいるはずのゲイリー・ハートへの印象が薄くなってしまったのは残念でならない。そして連動するようにゴシップ化するマスコミに対する批判も薄くなってしまったように思えてしまう。

これなら群像劇にはせずに、ベタではあるが、ゲイリー・ハートの心情にまで迫った物語として見せてくれても良かったのに…。

ちなみにこの映画が公開された当日に、まさに政策と資質、実績と暴言の狭間で悩み抜かれた挙句に辞任を発表された兵庫県明石市の泉房穂市長は、個人的には高校の先輩になります。

深夜らじお@の映画館にとって芥川賞作家の上田岳弘先生も高校の偉大なる先輩です。

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2018年12月28日

『ブリグズビー・ベア』

ブリグズビー・ベアブリグズビー・ベアが教えてくれた。好きを諦めるな!
誰か、お願い!この劇中で上映された「ブリグズビー・ベア」を映画館で上映してくれ!私も是非見たい!是非感動したい!是非クマに魅了されたい!
これこそ、私たちの人生に必要な愛の詰まった物語と希望の象徴となるヒーローが映画賛歌と共に描かれた愛すべき作品だ!

クマが冒険をする教育番組「ブリグズビー・ベア」だけを見て育ったジェームズは、実は赤ん坊の頃に誘拐され、世間から隔離されながら偽両親にシェルターの中で育てられた25歳の青年。
本当の家族との再会も、社会復帰を目指す新たな生活もぎこちないが、だがジェームズにとって大事なことは心の拠り所であり、人生の教訓から生き方までを教えてくれた番組の続きを見ることだけ。

ところがこのVHSテープで25巻・全736話からなる「ブリグズビー・ベア」という教育番組は、実は偽父親のマーク・ハミルがジェームズのためだけに作り上げた偽番組。もちろんジェームズ以外に視聴者は誰もいない。存在も知らない。

けれど「ブリグズビー・ベア」最優先のジェームズにとって、偽番組であることよりも続きが見れないことが大問題だからこそ決意してしまう。その壮大なる「ブリグズビー・ベア」愛で決めてしまう。自分が続きを映画という形で作ろうと。

そこに映画製作を学ぶスペンサーが加わる。浮世離れしたジェームズを恥ずかしく思っていた妹のオーブリーが加わる。優しいヴォーゲル刑事が加わる。みんな「ブリグズビー・ベア」を見て、その面白さとジェームズの想いに共感して。

本来なら本当の両親が当初懸念していたように誘拐犯が作った番組など見たくもないし、また我が子にも見せたくない。
でも偽物ながらもジェームズへの愛が詰まったこの「ブリグズビー・ベア」は間違いなく子供に見せたい番組であり、大人になっても見ていたいと思える番組なのだろう。愛の意味をストレートに教えてくれる、ある意味本物の教育番組なのだろう。

だからこそ、誰もがジェームズの壮大なる夢に協力してくれる。「好きを諦めるなんて…」と言われたヴォーゲル刑事のように、もう一度自分の「好き」にとことん向き合ってくれる。我が子の活気溢れる表情を見た本物両親のように家族全員で助けてくれる。偽父親のマーク・ハミルも刑務所での面会でナレーションを担当してくれる。愛しのアリエルも悩んだ末に協力してくれる。

なぜなら誰だって「好きなこと」に向き合っている時間が一番楽しいということを知っているから。「好きなこと」に向き合っている時が一番いい顔をしていることを知っているから。「ブリグズビー・ベア」を見てそのことに気付かされたから。

そんな様々な愛が詰まった「劇場版ブリグズビー・ベア」は、映画ファンのみならず、この作品に感動した方なら誰もが見てみたくなる逸品だろう。

ジェームズが社会復帰することは大切だが、その方法に決まりなどない。セラピストの意に反したために精神病棟に入所させられる方法よりも、「好きなことに」打ち込むことがセラピーとして十二分に効果を発揮していることを映画という形で証明してくれた「ブリグズビー・ベア」。

劇場版がダメなら、736話全てとは言いませぬ。選ばれし数話だけでも、NHKあたりで放映してくれないかなぁ〜。

深夜らじお@の映画館が幼少の頃は「じゃじゃまる、ぴっころ、ぽろり」の「にこにこぷん」を見ていました。

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2018年12月07日

『パッドマン 5億人の女性を救った男』

パッドマン妻への愛を貫き通したパッドマン。彼こそ世界で最も格好いい男だ!
インドに未だ残る月経不浄の悪しき慣習に立ち向かい、数々の苦難と屈辱を乗り越え、安価な女性用生理ナプキンの大量生産に成功した英雄の愛する妻を救いたいという想いで闘い続けた姿に、同じ男として熱き涙を以て断言する。
男性こそこの映画を見よ!

アメリカにはスーパーマンがいる。スパイダーマンがいる。だが残念ながらどちらも架空の存在だ。
しかしインドには世界が認めたパッドマンという実在の英雄がいる。ヴィランと戦うのではなく、無知がもたらす悪しき慣習から妻や妹たちを始めとする世界中の女性を救った、とんでもなく心根が格好良い男がいる。

ただ彼は何も特別な存在ではない。モノ作りが得意で、妻のために自転車の後部座席に椅子を作ったり、太鼓叩きの猿の玩具を玉葱自動刻み機に改良するようなレベルの、一見どこにでもいる普通の男だが、妻への愛は誰にも負けないほどに深く、そして熱い。
だからこそ、彼には妻が生理用に清潔な布を使っていないうえに、市販のナプキンが高価な現状に加え、毎月5日間も家族とは離れて生活しなければならない悪しき慣習も受け入れられないのだ。

だが無知が蔓延る片田舎の村では、生理は女性だけの問題でありながら、女子医大生を含め誰もその現状を変えようとはしないだけでなく、パッドマンことラクシュミのように良かれと思って行動に移す存在を変態だと非難する現実がある。他人だけでなく、彼の妻ガヤトリでさえ、その夫の深い愛が為す行動を恥を理由に理解しようとしない現実がある。

もちろん試作品とはいえ、生理用品を屋外で製作したり、屋外で自ら装着したりするラクシュミの行動は、性教育を受けてきた日本人の我々から見れば、多少なりとも心配になるところはある。もっと冷静に行動すべきと思うところもある。

ただそれ以上に彼をそこまで突き動かす原動力が妻への愛だときちんと描かれていることもあってか、やはり彼の熱き行動には問答無用で応援したくなるのだ。
村中から変態扱いされ、家族からも距離を置かれ、妻からの信頼も失ってもなお、愛する妻のために生理用ナプキンの開発を諦めない。そんな行動を取れる男がこの世界には果たして何人いるだろうかと考えた時、このラクシュミがどれだけ男として格好いいかが男性には容易にお分かりだろう。

そんな熱き男だからこそ、神は決して彼を見放さない。ググるという機会を与え、新たな素材を裁断・圧縮・梱包・滅菌する機械を自作させ、見事に安価パッドの完成に成功する。

さらに偶然彼の試作品を使うこととなったパリーという女性との出会いにより、発明コンペで称賛されても無理解により非難される現実を、実際に使う女性が売り込むという現実的な手法で好転させるだけでなく、ナプキンの制作から販売までを女性たちに委託することによって、女性の自立を促すという新たな時代の幕開けまで呼び込む。

だからこそ、彼の国連での片言英語での演説が涙なくして見れなくなるのだ。
女性への敬意を払っているだけでは、あんな演説は出来ない。本当に愛する女性がいるからこそ、他の女性も同じ想いをしているのなら何とかしたいという想いがなければ絶対に出来ない演説だ。

ビジネスの側面から見れば、確かにラクシュミは大金持ちになる好機を逸している。
またロマンスの側面から見ても、彼はパリーというステキな女性からの愛も逸している。

だが彼の原動力は妻ガヤトリへの深く熱い愛。彼女からの信頼さえも失ってもなお、愛する妻のためにと遠く離れた場所で孤軍奮闘してきたそのとんでもない男前っぷりの前では、ビジネスの好機もロマンスの好機もどうでもいい。幸せになって欲しい女性が幸せになってくれれば、それでいい。

そんな考え方が出来るだけでなく、実際に行動に移し続けた男こそ、世界で最も格好いい男ではないだろうか。

深夜らじお@の映画館はパッドマンの男前っぷりに最大限の敬意を表します。

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2018年11月23日

『ファンタスティック・ビーストと黒い魔法使いの誕生』

ファンタスティックビースト2愛を取り戻せ!
色恋沙汰に費やされた時間が長すぎたせいだろうか、危機感らしい危機感などほとんどない、何とも平和な作品だ。
けれどこれはシリーズ全5作における第2作目。言うなれば序盤だからこそ、人間関係や心情を描くことに注力しても無問題。
だから次作こそジュード・ロウVS.ジョニー・デップが見れるよね!

黒い魔法使いこと、グリンデルバルトがアメリカ魔法省の拘束から逃げ出したことで、イギリスやフランスの魔法省にも危機感が広がっていくはずなのに、平和な空気が居座っているせいか、それとも主人公が子供たちではなく立派な大人たちであるせいか、楽しい世界観にワクワクはするがドキドキはしない。

加えて若きダンブルドアがグリンデルバルトの野望阻止のため、キーパーソンとなるクリーデンスの捕獲に教え子のニュートを指名する理由も不明確であるならば、登場人物がやたら多い割には説明は不足していることもあってか、「何か色んな人が出てきていつの間にか彼らの間で納得のいく結果になっているみたい」なシーンがとにかく多い。

だから謎解きなんてものはこの作品には一切ない。クリーデンスの過去がどうだとか、複雑な色恋沙汰の行方がどうだとか、本来なら観客にあれこれ想像させながら楽しませるという要素がほとんどない。

いつの間にかクリーデンスと東洋美女ナギニが逃亡カップルになっていたり、ニュートの兄テセウスの婚約者リタがニュートへの想いをちらつかせたり、セネガルの名門魔法使いユスフ・カーマとリタが異父兄弟でリタとクリーデンスが姉弟かと思わせておいて実は弟を他の赤子と取り換えていたり、ダンブルドアとグリンデルバルトが若き日に血の誓いをしていたり、誤解により関係が冷えたティナとニュートが簡単に関係を修復したりと、唐突に問題が起きて唐突に解決への道筋が見えていることばかりなのだ。

でも恋愛下手な頑固者ニュートに恋愛アドバイスをするジェイコブの友情が微笑ましく、可愛らしい。恋愛偏差値が高くない者にとっては勉強になる言葉も多い。
だからジェイコブとクイニーの色恋沙汰だけでなく、ニュートとティナの恋愛事情も不思議と応援したくなる。兄弟同然に育ち、お互い戦わない誓いを立てたダンブルドアとグリンデルバルトの関係修復も願いたくなる。

クイニーがマグルであるジェイコブとの結婚を願い、新時代の創造主グリンデルバルトの元へと去って行ったことも、テセウスの婚約者リタが青い炎に焼かれてしまったことも、血の誓いを立てたダンブルドアがグリンデルバルトとの闘いを決意しなければならないことも、どれもが本当にYOUはショック!なことばかりだ。

けれど鈴のついた玩具に心をときめかせる中国妖怪ズーウーの可愛らしさといい、ニュートのピンチを何気に救うニフラーやボウトラックルといい、魔法動物たちの協力を得れば必ずニュートもジェイコブもダンブルドアもその愛を取り戻すことが出来るはず。

それを大いに期待させてくれるだけの作品ではあるため、単品としては物足りないがシリーズ全体を通せば十分序盤の役割を果たしている作品と言えるだろう。

そして何よりもEDロールで顔を並べたジュード・ロウとジョニー・デップがいかに対決するかがこれからの最大の楽しみ。
だって共に若い頃はセクシーな男前だったのに、今はそこに渋さが加わっての男前になった2人がスクリーンを占領すると考えるだけで、映画ファンなら楽しみで仕方ないはず。

そう考えると、主役であるエディ・レッドメインは本当に存在感が薄い。まさに今のところはストーリーテラーなんだけど、この先本当の意味での主役になれるのか?
ジュード・ロウとジョニー・デップを差し置いて…とは考えにくいなぁ〜。

深夜らじお@の映画館は日本の魔法動物・河童は今後登場もなければ活躍もないような気がします。

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2018年11月09日

『ボヘミアン・ラプソディ』

ボヘミアン・ラプソディフレディ・マーキュリー、ここに復活。
これがQUEENの音楽なのか。これがQUEENのライヴなのか。そしてこれがフレディ・マーキュリーの魅力なのか。
世界中の誰もが知っている伝説のロックバンドQUEEN。世界中の誰もが聴いたことのある独特な彼らの楽曲。それらを体感出来るのがこの映画だ!

フレディ・マーキュリーがブライアン・メイやロジャー・テイラーに自分を売り込み、さらにジョン・ディーコンも加入して誕生したQUEENの物語というよりは、フレディ・マーキュリーの伝記映画としての要素が強いこの作品。

もちろん監督交代劇があったとはいえ、クレジット監督のブライアン・シンガーがゲイということもあって、同じ性的嗜好のフレディ・マーキュリーの苦しみを描きたいのはよく分かる。だがあの独特な音楽を作り上げてきたQUEEN及びフレディ・マーキュリーを描くにしては、少々典型的な伝記映画過ぎて退屈に思える部分も多々ある。

けれど自身のルーツや過剰歯といったコンプレックスを乗り越え、素晴らしき歌唱力と何事にも縛られない感性で作られた音楽と共にスターになるも、ゲイという性的嗜好で妻であるメアリーを失い、無用な取り巻きに自分自身を見失い、エイズ感染によって残された時間を知ってしまったフレディ・マーキュリーの苦悩を知ると、思わず誰もがこの映画の最大のクライマックスである1985年のライブ・エイドで心揺さぶられるだろう。気付かぬ間に彼らの楽曲を口ずさんでいる自分がいることに気付くだろう。

そう、この映画はフレディ・マーキュリーを批判するような描き方はしていないし、彼を美化するような描き方もしていない。
ただ家族の一員として、彼はただただ家族愛を求めていた。自分から手を伸ばせば届く距離にあったのに、それに気付かずにあちらこちらに手を伸ばしては自分の心を満たしてくれる誰かからの愛を求めては得られずに苦しんでいた。
そんな不器用な愛すべき家族の一員の姿を、ひたすら優しい目線で描いている。

だからライブ・エイドで死期を悟ったフレディ・マーキュリーが歌う「ボヘミアン・ラプソディ」の歌詞に心が締め付けられる。「AY-OH」で観客もまたQUEENファミリーの一員だと気付かされる。「We Are The Champions」を口ずさむ自分もまたファミリーの一員になれたことに気付く。

普通に考えれば、フレディ・マーキュリーのような奇才がいれば、誰もが彼の才能に集りたいと思うはず。
けれど家族だけは絶対にそんなことはしない。「善き思い、善き言葉、善き行動」を信条に、時に彼と対立し、時に彼を優しく迎え、時に彼を見守り、時に彼のために全力を尽くす。

そんな姿をグウィリム・リー、ベン・ハーディ、ジョー・マッゼロが見事にブライアン・メイ、ロジャー・テイラー、ジョン・ディーコンを演じ切っている。直接ご本人から指導を受けたという楽器演奏で見せてくれる。

そして誰もがその再現度の高さに驚くラミ・マレックが演じるフレディ・マーキュリーについては、まさにスクリーンに伝説のスターが復活したと言っても過言ではないだろう。その感動だけでもこの映画は一見の価値がある。

QUEENが日本で先行してヒットしていた事実はセリフでは描かれない。もちろんフレディ・マーキュリーが股間にナスを入れていたという噂も描かれていない。
けれど「ボヘミアン・ラプソディ」や「We Will Rock You」の誕生秘話はきちんと描かれているからこそ、見終わると思わずサントラが欲しくなる。

そして個人的には数十年後でもいい。次はボン・ジョヴィの伝記映画を見たい。エアロスミスでもザ・ローリングストーンズでもなく、ボン・ジョヴィが見たい。
そう思えた映画でもありました。

深夜らじお@の映画館は「I Was Born To Love You」も劇中で聴きたかったです。ロックギターで奏でる20世紀FOXのファンファーレは大好きですけど♪

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2018年10月30日

『バッド・ジーニアス 危険な天才たち』

バッド・ジーニアス学歴はカネで買えるのか?
実際に中国で起きたカンニング事件を題材に、若干37歳のナタウット・プーンピリヤ監督がハリウッド映画ばりに練りに練られた脚本と細かな散りばめられた演出で、社会風刺をさらりと加えながら極上のエンターテイメント作品として仕立て上げたこの作品。
こんな面白い映画を見ずして2018年は語れない!

地味だが天才的な頭脳と勝気な性格を有するリンは特別待遇の奨学生。教師である父親との2人暮らしは慎ましいが、グレースやパットを始めとする同級生の多くは勉強の出来ない金持ちの子息や令嬢だらけ。

そんな彼らから持ち掛けられたカンニングビジネス。当初は友人グレースを助けるためだけの消しゴム作戦だったが、1人1教科3,000バーツという儲け話に、リンが3問目まではハンドシグナルで解答伝達&4問目は各自解答でアリバイ成立作戦を提案、そして完遂してしまうと、これで天才少女は変に自信をつけてしまう。

ところが同じく苦学生であり奨学生でもあるバンクの告発により、リンのカンニングビジネスは廃業。しかも海外留学の夢どころか奨学金の話もなくなる始末。金持ち同級生の親は学校にワイロを渡しているのに、自分のカンニングビジネスと何がどう違うのかという彼女の「一理ある」主張も通らない。

だが事情が変わる。カンニングによる成績向上でアメリカ進学を親から期待され逃げ場を失ったパットとグレースがリンに新たな巨大ビジネスを提案する。悩み抜いたリンがオーストラリアとタイという2つの試験会場を利用した「時差作戦」を思いつく。格差社会という現実に苦しむバンクを、生まれながらの負け犬はどうすれば勝ち組になれるのかという誘い文句で新たな協力者として巻き込む。

そしてついに実行に移される国境を跨いだスリリングなカンニングビジネス。リンとバンクによる解答を暗記してトイレに隠したスマホで送信、グレースとパットがバーコードで暗号化して鉛筆に張り付ける作戦も完璧。
しかも冒頭から失敗を暗示するものだと思われたリンたちが受ける尋問シーンも、実は万が一のシミュレーションだったと分かったことで、成功の可能性も出てくる。

ただここで世間を知らない若さが彼らを窮地に追い込む。長時間のトイレタイムに疑惑の眼差しが向けられ、対処を誤れば…という心臓バクバクな展開でバンクがミスをする。

さらに試験会場を抜け出したリンが解答送信に手間取る。異国の地で追手から逃げ切れるか、リンの作戦が失望させた彼女の父親にバレないか、カンニングビジネスは成功するのかというスリリングな展開が観客をハラハラドキドキさせる。

結局、割に合わないビジネスに手を出したバンクは退学処分となる。恐怖と罪悪感に苛まれたリンもビジネスから手を引く。これにより記述式試験という難題を目の前にしてパットやグレースの目論見どころか将来もお先真っ暗になる。

学校の勉強よりも難しい人生の勉強。それを身をもって知ったリンは堅実に生きる道を選ぶが、バンクは新たなカンニングビジネスを彼女に提案する。これまでカンニング作戦が立案された時と同じくお天道様が見ていない暗い時間に、暗い場所で。

だが彼女が出した答えは自らが行ったカンニングの告発。明るい日差しが差し込む白い部屋で、格差社会に翻弄されず、本当の意味での負け犬と勝ち組を知ったリンが語り始める。
その横顔はパットやグレース、バンクが最後に見せたのとは明らかに対照的な晴れ晴れとした表情だ。

深夜らじお@の映画館が断言します。問題を解くよりも他人に教える方が何倍も難しい。本当の賢さはそこで示されるものだと。

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2018年09月26日

『プーと大人になった僕』

プーと大人になった僕何もしないが、最高の何かに繋がる。
映画は出逢った時のタイミングとよく言われるが、まさにこの作品は「くまのプーさん」に思い入れのある方か、もしくは普段の生活にお疲れ気味の方にこそ響くのかも知れない。
残念ながら「何もしないをする」の境地に既に達している方にとっては、普通の映画でしかない。

個人的には「くまのプーさん」に特段の思い入れはない。クリストファー・ロビンとかティガーとかも耳にしたことがある程度だ。
だからOPから寄宿学校に入るため、100エーカーの森を去るクリストファー・ロビン少年とプーの別れに特に涙することもなかったが、思い入れのある方にとってはこのOPから涙腺が崩壊されているようで、改めて私はこの映画に出逢うタイミングがよろしくなかったのだろうと思ってしまう。

しかも困ったことにクリストファー・ロビンが従軍していたにも関わらず、そのトラウマもなしに普段の生活を送っていることはまだ受け入れることが出来ても、肝心要のプーの表情の乏しさがどうも気になってしまう。

もちろんぬいぐるみが主体だから、そんなに大きく表情が変わることはないのだが、他のティガーたちと比べても、淋しさはあの小さな背中からは伝わってくるが、逆に喜びはどうも伝わってこない。
赤い風船をもらっても、ハチミツをご馳走になっても、大人になったクリストファー・ロビンに再会しても、眉毛がないこともあってか、どこまでプーは喜んでいるのかが、「くまのプーさん」に特に思い入れのない私にはあまり理解出来なかった。

加えて物語自体が本当にどこにでもよくあるものだから、ストーリーで楽しめる作品でもないのが辛いところ。
プーたちの冒険らしい冒険もない、マデリンも余裕で汽車移動出来ているし、イヴリンも汽車とほぼ同じスピードで車を走らせている。そしてクリストファー・ロビンに至っては金持ち用の旅行鞄作りから一般庶民用に転換しましょうでピンチを打開したというのもパンチに欠ける。

そして私自身がかつて味覚障害が起きるほどのストレスに悩まされるも、そこから逃れるために心の余裕を持つことを実践することで解放された経験をしていたこともあってか、「人生は目の前にある」とか「何もしないをする」とかいった数々のセリフに感動することもなかったのも、やはり私がこの映画に出逢ったタイミングがよろしくなかったからだろう。

もしあの頃の私がそのタイミングでこの映画を見たら、どうなっていただろうか。

そう思うと、やはり映画は出逢った時のタイミングで評価が大きく変わるものだと改めて思い知らされた。

深夜らじお@の映画館は今では普段の生活で少しでも違和感を感じるとすぐに解決策を模索する癖がつくようになりました。

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2018年08月31日

『判決、ふたつの希望』

判決、ふたつの希望ふたつの希望、ひとつの未来。
第90回アカデミー外国語映画賞にもノミネートされたレバノン映画が示す希望。それは難民問題に揺れる世界が、憎しみ合いの歴史から抜け出せない世界が、心の奥底では望んでいるのに、言動に起こすことを躊躇っている未来。
謝罪が礼儀の一部になる社会。それは本当に実現困難な世界だろうか。いや、そうではないはずだ。

キリスト教徒のレバノン人トニーが違法建築のバルコニーで撒いた水が排水溝を伝って、階下で工事をしているパレスチナ難民で工事現場監督のヤーセルにかかる。
謝罪をしないトニーにヤーセルが部屋を訪ねるも拒まれる。対してヤーセルは排水溝を壊し、そこにトニーには無許可で排水パイプを設置する。
しかしトニーはその排水パイプを無言で破壊する。その愚行にヤーセルが「クズ野郎」と罵る。

一連の行動を見るに、最初に謝罪すべきは水をかけたトニーだ。でも無許可で他人の家の一部を変えたヤーセルも謝罪すべきだし、その無許可とはいえ相手の好意を破壊したトニーも大人気なければ、相手を罵る言葉を発するヤーセルも大人気ない。

しかも上司と共に謝罪に来たヤーセルに対し、トニーが民族を侮辱するような暴言をしたばかりに肋骨を折るほど暴力を振るわれると、今度は謝罪を要求するため裁判を起こすが、そこから見えてくるのはレバノン人のパレスチナ人に対する差別感情、妻の忠告を一切聞かない幼稚な男、当事者をひたすら焚き付ける無責任な外野共だ。

さらにトニーが有名弁護士を、ヤーセルが有能な女性弁護士を雇い、上告裁判が進むと、この2人の弁護士が父娘でもあったことも関係してか、相手に謝罪を求めるだけの裁判が徐々に民族問題や難民問題などの現代レバノンが抱える様々な社会問題を含んだ言い争いへと変わっていく。

それらは難民問題や宗教問題で戦争が絶えない中東に疎い我々にとっては、なぜあの地域で憎しみが絶えないのかがよく分かるエンターテインメント性に富んだ演出だ。さすがクエンティン・タランティーノの下で学んできた監督の作品であると納得出来る構成だ。

要は相手を思い遣る心に欠け、自分にこそ正義があると妄信している連中が、平穏に暮らせないのは自分達の努力不足ではなく、特定の誰かのせいだと責任転嫁している。相手を憎みたいからではなく、現状の鬱憤を晴らしたいがために暴れている。それが中東社会の現実なのだろう。

だからメディアは視聴率が稼げると中継する。政治家は票が増えると一方に肩入れする。自分の問題ではない連中はこの時とばかりに愚行を働き、時に無関係な人も勝手な理由で傷つける。理性の「り」の字もない、幼稚な行動ばかりが繰り返される。

けれど大統領から直接和解を提案された帰り道、ごく自然な形で2人の関係が変わり始める。

車に乗り込む際にヤーセルはトニーに先を譲る。そのヤーセルの車が故障しているのに気付くと、今度は車の修理工でもあるトニーが舞い戻って無償で修理をする。
本来なら憎しみ合っているはずの2人なのに、パレスチナ難民を嫌うレバノン人とレバノン人に恐怖心を抱くパレスチナ難民なのに、この時だけは2人とも大人として当たり前の行動を取っている。相手を思い遣るという誰にでも出来る行動を自然に取っている。

そして落し処を模索し続ける裁判は、トニーの出生地が絡む闇に葬られたレバノンの歴史が明るみになったことで収束への道を進み始める。

幼き頃に幸せな生活を奪われ、国内で難民となったレバノン人のトニー。憎むべき相手も具体的に分からず、ただ悲しみを押し殺すように前に進むしかなかった彼の人生は、幸せな生活を奪われ続けレバノンにやってきたパレスチナ難民のヤーセルと同じ境遇だ。

だからこの2人は互いに相手の気持ちも理解出来るはずなのだ。そう確信したヤーセルがある夜に起こした不器用だが勇気ある行動は、ヤーセルに殴られたトニーの痛みを、トニーに罵られたヤーセルの痛みを知らしめる。

そんな相手の痛みと気持ちを知った2人に下されたヤーセルへの無罪判決に、トニーは不満の表情を一切見せない。ヤーセルも安堵の表情しか見せない。騒ぐ周囲の反応を他所に、彼らは自分の努力で前に進むというそれぞれの希望を得たのだろう。

『スリー・ビルボード』でも描かれていたように愛は与えられるものではなく、与えるものだ。
そして謝罪も求めるものではなく、まずは自ら行うものだ。

そんなことが礼儀のように、誰もが当たり前に出来るような社会になれば、きっと我々が望む未来は必ず来るはずだ。

深夜らじお@の映画館はこのレバノン映画を強くオススメします。

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2018年06月29日

『ハン・ソロ/スター・ウォーズ・ストーリー』

ハン・ソロもっと冒険しようぜ!
ハン・ソロとチューバッカはどのように出会い、銀河一の「無法者・ならず者」と称されるようになったのか。それを期待した者にとっては、あまりにも地味すぎる作品だ。
やはりロン・ハワード監督では畑違いだったのではないだろうか。それとも『ローグ・ワン』が素晴らしすぎたのか…。

ハリソン・フォードの代名詞でもあるハン・ソロは、誰もが認めるアウトローでありながら、その心根はまさしく愛する者を守り抜くヒーローである。だからこそ、彼は世代を超えて、国境を越えて多くのファンから未だに愛されるキャラであり続けるのだ。

そんな彼が無二の相棒チューバッカとどのように出会い、また彼の愛機ミレニアム・ファルコン号をどのようにして手に入れたのかも、誰もが気になる歴史ではあるものの、当然そこには誰もが「冒険」という要素を期待しているはずだ。

しかしこの作品にはその「冒険」という要素がとてつもなく弱い。厳しい表現を用いるなら「ただ描いている」だけだ。
だからドキドキもなければ、ワクワクもない。危ない橋を何度も渡り、ハッタリと機転と友情と愛情で修羅場を何度も潜り抜けてきたというものが地味な演出でしか描かれていないので、ハン・ソロの映画を見ているはずなのに、ハン・ソロの映画を見ているように思えなくなることも何度もあるのだ。

またコレリアでの恋人キーラとの脱走シーンも暗く青みがかった映像で決して見易いとは言えない。帝国軍の歩兵として恩師ベケットと出逢うくだりも映像が暗くて見易いとは言えない。そしてミレニアム・ファルコン号でコクアシウムを掻っ攫いに行くシーンもやはり映像が暗いなど、冒険を描いた作品であるにも関わらず、ロン・ハワード監督の演出はそれにあたらずなのも残念なところ。

さらに義賊エンフィス・ネストとの協力関係や犯罪組織の親玉ドライデン・ヴォスへの裏切りなどでハン・ソロの活躍を見せるのも、「銀河一のパイロットになる」と何度も言葉にしていた彼の格好良さを描くなら、やはり操縦シーンでその活躍を見せて欲しかった。

ただこの作品はシリーズ化されるようなので、謎の過去がさらに気になるキーラがなぜにダース・モールとコネクトを持っているかなどは、これから明かされていくのだろう。

その時には今作では不発だったアンドロイドによるコメディ担当シーンも修正していただきたい。R2-D2やBB-8のような可愛らしいドロイドも登場してほしい。
そして何よりも「May the Force be with You.」を是非聞かせていただきたい。

やはり「スター・ウォーズ・ストーリー」と銘打つ以上、そこには宇宙を狭しと駆け回る冒険と個性豊かなアンドロイドに加え、「フォースと共にあらんことを…」のセリフがないと締まらないので。

てな訳でソロに撃ち殺されたベケットが言っていたタトゥーイン改めタトゥイーンにはいったい何があるのか。そしてキーラとの関係をどのように清算するのか。
今度こそハン・ソロとチューバッカとミレニアム・ファルコン号には「冒険」をさせて欲しい。

そのためにもロン・ハワード監督ではなく、J.J.エイブラムス監督の再登場を願います!

深夜らじお@の映画館はハン・ソロの銃の撃ち方をそのまま再現したオールデン・エアエンライクのハン・ソロ役は申し分ないと思いますが、ダース・モール役はレイ・パークのままなのかな?

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2018年06月13日

『Vision』

Visionお帰り、河鹹照監督。
やはり河鹹照監督といえば、この手の映画だ。様々な映画サイトがその代表作を『あん』『光』ではなく、“あえて”『萌の朱雀』や『殯の森』を選んでいることに気付けば、もうお分かりだろう。
この映画は見る人を選ぶ作品だと。フランス映画のような芸術性に長けた映画だと。そして難解な映画だと。

奈良を舞台にした映画を数多く撮り、また奈良国際映画祭の主催者としても活躍されている河鹹照監督といえば、カンヌ国際映画祭の常連であり、自分の確固たる意志を持った力強さを感じる女性監督だ。

そんな河鹹照監督作品にポンヌフ橋といえばでお馴染みのフランス人女優であり、またオスカー女優でもあるジュリエット・ビノシュがなせ出演しているのかという理由は、物語を追うだけでは分からない。むしろ物語の展開上、特にフランス人である理由もないので、恐らくカンヌ国際映画祭で映画人として共鳴された結果、出演されたのではないかと思われる。

一方で、その物語は難解の一言に尽きる。幻の薬草Visionはどうなった?とか、謎の老女アキは何者?とか、時間軸が違うのか同じなのか分からない編集は何?とか、智とジャンヌと鈴はどういう関係?とか、『あん』『光』を楽しんだ感覚で見ると、もう何が何だか分からなくなるはず。

だからこの作品は『萌の朱雀』や『殯の森』の河鹹照監督作品が好きな方に向いているのだろう。理解するよりも感じると表現した方がいいのか、頭ではなく心の奥底に眠る魂で共鳴するタイプだ。

様々な方のレビューを拝読していると、物語としては輪廻転生を描いたものではないかというご意見も多い。岳とジャンヌが産み落とした子供である鈴との再会に必要だったのがジャンヌと智のベッドシーンだとか、素数は誰とも被らない「個」を表現するものだとか、1,000℃は火葬の際の温度だとか、メタファーが多い作品だけに、ご覧になられた方の数だけ解釈も多いようだ。

個人的にはアキや岳、ジャンヌの大木の前での舞を、同じ奈良でも神秘的で雨量も多く生命力に溢れる吉野を舞台に撮っていることからも、命が生まれし場所に戻ってくる物語のように思えたが、それ以上感じたこともなければ、何かしら共鳴したこともない。
最終的には難解だったの一言に尽きてしまう作品だった。

でもそれが河鹹照監督作品。これが河鹹照監督の世界。
けれど『あん』『光』ような作品も河鹹照監督の世界であって欲しいとも思えた映画でした。

深夜らじお@の映画館が撮る吉野の山奥は塵や埃さえも凄く神秘的でした。

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2018年06月11日

『羊と鋼の森』

羊と鋼の森柔らかい羊と硬い鋼が豊かな森を奏でる。
第13回本屋大賞を受賞した宮下奈都先生の原作を映画化したこの作品は、ピアノの調律師として成長していく青年を通して描かれる、その道で生きていくと覚悟を決めた者たちの静かな感動の物語。
ただ物語の展開や映画の印象が同じく本屋大賞受賞作品『舟を編む』と似ているのが残念無念。

6,000以上あるパーツを全て覚えては、ピアノ演奏者の要望に応えるべく、地道にコツコツとピアノを整えていくという、ピアノ調律師のお仕事。
とは言っても、具体的に数値で表される訳ではない音の世界の仕事なのだから、当然のことながらクライアントも感覚頼りの言葉で要望を出してくる。
だから寡黙な主人公である外村クンが悪戦苦闘するのは、仕事をしている人なら誰しもが容易に想像出来ること。

ただどんな仕事でも、そこに誰かと関わることがあれば、もちろん大事になってくるのはコミュニケーションであり、そのコミュニケーションで最も大事なのは、ニュアンスが相手に伝わるということ。
言葉では全てを言い表すことは出来ないけれど、これだけは相手には伝わって欲しいと願う、微妙な違いや感情。
それらを汲み取るにはもちろん経験が何よりも必要となってくるが、同時に必要なものは、やはり相手を理解したいと思えてくる前向きな姿勢。その姿勢を貫くことで生まれてくるのが、仕事の楽しさではないだろうか。

高校生の頃に偶然出会った板鳥さんに感銘を受けて調律師の道を歩み始めた外村クンも、親には「世界と繋がりたい」と言っていたが、実際のところは調律師になって何をしたいのかは自分でもよく分かっていなかったはず。

でも引き籠り青年の「家族の絆」だったピアノを調律し、静かな姉と活発な妹がそれぞれ違う演奏をする佐倉姉妹との出会いにより、外村クンが勘違いしてしまったのは、調律師の仕事が直接誰かを幸せにするということ。

調律師というのは、ある意味ピアノのお医者さんといったところだろう。
ならば、病気を治すのは医者ではなく患者本人であるように、最終的にピアノの音色を調整するのは調律師ではなく演奏者のはず。
つまり医者も調律師も患者や演奏者のために土台を作り上げるのが仕事。だから必要以上に出しゃばってはいけないのだ。

しかし、そうは言っても出しゃばってしまうのが、若さというもの。仕事の大変さも楽しさもまだ分かっていない若年社会人というもの。
だからこそ、若人は諸先輩方に色々と教えを乞うというよりも、色々と話を聞かなければならない。色々と話をしなければならない。

一人の人間が一生のうちに出来る失敗などは限られている。その限られた失敗だけを糧に成長していくのは限界がある。
だが人が違えば失敗の数も苦悩の数も増えるが、同時にそこから立ち直った経験も一人の時とは比べものにならないほど多くなる。
だから我々の生きる世界にはコミュニケーションが必要なのだ。ニュアンスを伝え、汲み取ることが大切なのだ。
そしてそれらを活発に行うための、前向きな姿勢も大切になってくるのだ。

恐らく特別な才能もないがマジメな外村クンは、佐倉姉ちゃんと同じく、毎日仕事に真摯に向き合っているからこそ、日々実力は上がっているが同時に目標も上がっていることに気付いていなかったのだろう。自分の視野を狭くしたことで遥か上にある自由な空に向かうことを諦め始めていたのだろう。

けれどマジメすぎるのは玉に瑕だ。時には視点を変えれば、時に真摯に向き合うことをちょっとだけやめてみれば、思いの外、視野は広くなる。そうすれば、自由な空がとても近く、しかも思った以上に大きいことにも気付くだろう。あれもこれもやってみたいという前向きな欲望で満たされる喜びを知るだろう。

辞書を編纂する人々に焦点を当てた、同じく本屋大賞受賞作品『舟を編む』と物語の構成も似ていれば、映画を見終わった感想も似ているところがあまりにも勿体無い作品だったが、抑揚のない物語と暗い映像も、大海原を撮るようにピアノ演奏者を見せるシーンと様々なピアノ楽曲で、抑揚と明るい映像を観客に想像させる演出は素晴らしいと思える映画でした。

深夜らじお@の映画館はやっぱり上白石姉妹では姉の萌音さん派です。

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2018年05月26日

『ファントム・スレッド』

ファントム・スレッドドレスが女を変える。女が男を変える。男は知らずに女に支配されていく。
いつの時代も男女の関係において、主導権を握るのはやはり女性の方だ。それをこの映画を以て俳優業を引退するダニエル・デイ=ルイスが見事な演技で見せる。心地いい音楽を最後まで絶やさない演出でPTA監督が見せる。
これぞ見えない糸が導く愛の形。

完璧主義者のオートクチュールデザイナーであるレイノルズ・ウッドコック。姉のシリルが仕切る工房で針子たちにも厳しい要求を突き付ける彼は、私生活でも他者からの干渉を拒む。自分が決めた方法で、ルーティンで日々を過ごす。

そんな彼が出逢ったウェイトレスのアルマは飛び切りの美人ではないが、その体形はレイノルズにとってはミューズそのもの。
だから彼はアルマを半分は恋愛対象の女性として、残りの半分は仕事対象の一員としてしか見ていない。時に官能的に接し、時に無碍に突き放す。

けれど、アルマは違う。レイノルズという男を自分のものにすべく、レイノルズを待つだけの女にはなりたくないと、彼の日常に「レイノルズにとっての不快感」を次々と投入しては、「気にし過ぎよ」と軽くあしらう。
その挑戦的にも見える姿は少々忌々しくも見えるかも知れないが、冷静に見ると、いや冷静に考えると、これはどこの男女関係でもこのようなことは起こってるはずだ。

ウェディングドレスの純白が語るように、一般的には女性は愛しの男性の色に染まりたいと思われがちだが、実際は男性が愛しの女性の色に染まっていることの方が多い。
考え方や行動が愛しの女性と似てくるというよりも、彼女の考え方を受け入れ、肯定し、そして知らず知らずのうちに従い始める。自分の考えに固執することを子供染みていると思い始めながら。

だから、それを理解しているアルマが次々とレイノルズに仕掛けるラブゲームで主導権を握っているのは間違いなくアルマの方だ。大晦日のダンスにしても、それまでに少しずつ少しずつ毎日のように毒を注入してきた効果が出てくることを予想して、レイノルズを振り回す。
狭い世界で自分のルーティンのみで動いていたレイノルズも振り回されては不快感を示しはするが、それが決して嫌ではないことを受け入れ始める。

そして「将を射んとする者はまず馬を射よ」の如く、シリルをも味方につけたアルマはついに禁断の行動に移る。毒キノコを紅茶に混ぜたものをレイノルズに飲ませ、体調を崩した彼を付きっ切りで看病するという、身も心も完全にレイノルズを支配するという恐ろしい行動を取る。そして彼の妻の座を手に入れる。

だがこの傍から見ると恐ろしい行動の数々も、当の本人、特に支配されている男性の方からすると無意識に心地いいのだ。母性という安心感を得た心地よさと同じだからだろう、女性に主導権を握られる心地よさには恐ろしいまでの中毒性がある。それに男性は身を委ねてしまうのだ。

だからレイノルズは毒キノコと分かっていても、アルマが作る料理を口にする。そして体調を崩して看病してもらう。
例えハーディ医師がアルマの告白を聞いて怪訝な表情を浮かべようとも、この夫婦にとっての愛の形がこれなのだから。

どこの夫婦でも女は男が輝きを失わないように、あらゆる手法で男を支配する。その愛の形がこの夫婦の場合は禁断の扉を開いてしまっただけ。

けれど、そんな愛の形でさえも美しく見せる。それがポール・トーマス・アンダーソン監督の手腕、ダニエル・デイ=ルイスの最後の演技なのだ。

深夜らじお@の映画館がかつて営業の仕事で見た数多の夫婦の共通点は、妻には選択権があり、夫には決定権しかない。つまり妻は選択という自由を手にし、決定という責任は夫に押し付けるでした。

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2018年05月12日

『フロリダ・プロジェクト 真夏の魔法』

フロリダ・プロジェクト子供たちの無邪気な笑い声こそ、全てを幸せにする魔法。
小さな子供が身近にいる方にとっては、これほど愛おしい映画はないだろう。これほど切なくなる映画もないだろう。
そしてパステルカラーの建物でさえも、フロリダの大きな空と同じように美しく見えてしまう。そんな真夏の魔法にかけられた映画もないだろう。

いつの時代も無邪気な笑顔が絶えない子供はどんな場所でさえも、どんな環境でさえも、全て遊び場に変えてしまう。
フロリダ・ディズニーワールドのすぐ隣、「マジック・キャッスル」という、紫のパステルカラーが印象的な安モーテルで暮らす6歳の少女ムーニーにとっても、その貧困層が日々の生活に四苦八苦する世界も、スクーティーやジャンシーといった友達とならば、あらゆる場所が遊び場。

ただムーニーが暮らす世界は大人目線で見ると、あまり教育上よろしくない環境だ。グリーンのパステルカラーヘアーで全身タトゥーだらけのシングルマザー・ヘイリーは失業中で労働意欲もなさそうなうえに、食事といえばスクーティーの母親の職場からもらってくる栄養に偏りがあるものばかり。
唯一、モーテルの管理人であるボビーが厳しくも優しく見守っていてくれる以外は、大人としては「子供のためにも」一日でも早く改善すべき環境だ。

しかしフロリダの大きな青い空にはムーニーたちの屈託のない笑い声が響く。子供たちにとっては、どんな環境であれ、楽しければそれで幸せなのだから。
モーテルの電源を切ってしまうこと、唾を吐いて汚した車の掃除でさえも遊びに変えてしまうこと、そこでジャンシーという新しい友達を作ったこと、プールで日光浴をする熟女のトップレス姿を遠くから眺めてはケタケタ笑うこと、牛のいる草原「サファリ」や空き家が並ぶ住宅街へ冒険すること。
その全てが楽しくて仕方ない様子が、若干7歳というブルックリン・キンバリー・プリンスの演技なのか、素の表情なのか区別のつかない姿から垣間見れる。

でも空き家を燃やしてしまった少女がブサイクな顔で写メに収まるくだりから、子供たちの笑い声が徐々に少なくなっていく。
その原因を作っているのは、まさしく無責任な大人、つまりはヘイリーの存在だ。

大人は子供に対して「優しい愛」だけを与えていればいい訳ではない。時に「厳しい愛」も与えてこそ、そこで初めて子供たちの無邪気な笑い声は守られる。
なのにヘイリーは子供の僅かな感情さえも見逃し、火事のことについては何もムーニーに問い質さない。子供の前でも平然とスクーティーの母親に悪態をつく。そして生活のためとはいえ、娘を風呂場に隔離したうえで売春を行う。

逆にあれだけヘイリーに追い出すぞと警告していながら、常にこの母娘を優しく見守っている管理人のボビーは、まさに大人が子供に対してすべき手本のような存在だ。
だからこそ、時にヘイリーにも厳しく接する。ムーニーのことをきちんと考えろと。でも何だかんだ言っても、この母娘のピンチの時にはすぐに駆けつけてきてくれる。

けれど児童福祉局が来てしまっては、ボビーにもムーニーを守ることは出来ない。警察が来てしまってはヘイリーを守ることも出来ない。
確かに大人の目線で見れば、ムーニーを保護してマトモな環境下で暮らさせることが賢明だが、大好きな母親と大好きな友達と一緒にいることが何よりも幸せな少女の目線で見れば、これほど不幸なことはない。ジャンシーの所へ助けを求めに行って泣くのも当然だ。

ただ、そのムーニーに対し、それまで控えめだったジャンシーが意を決して取った行動は予想外でありながら、不思議と自然に涙が溢れてくる。
2人の少女がディズニーワールドへと入り、そのまま振り返りもせずにシンデレラ城へと走っていくシーンで映画が終わることに少々呆気に取られながらも、不思議とEDロールでもいい余韻に浸っていられる。

その理由はいったい何なのだろうか。

笑顔の絶えない夢の国を目指して、文字通り現実逃避という選択を行った少女たち。
その姿を見て大人として考えることは何か、すべきことは何か。

子供たちの無邪気な笑い声という魔法から覚めた大人にはなるな。
心が幸せで満たされる魔法をかけてくれる小さな魔法使いを守ることこそ、大人の役目ではないだろうか。青い空だけではない、夕陽も曇り空も大きく感じるフロリダの空がそう教えてくれている。

深夜らじお@の映画館は表情の豊かさが凄いブルックリン・キンバリー・プリンスを見逃すのはあまりにも勿体無いと思いますので、是非みなさんこの映画をご覧あれ!

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2018年04月13日

『パシフィック・リム:アップライジング』

パシフィック・リム:アップライジングここにヲタク魂はあらず。
「にわか」が撮るとやはりこうなる。ヲタク魂を理解していない者が撮るとやはり拘りがなくなる。
前作に対する愛があるのは間違いない。けれどヲタク魂がなければ、愛だけでは何も作れないのがこの独特の世界観だ。
重量感も質感も失った作品に、誰もがギレルモ・デル・トロの帰還を望むのではないだろうか。

イェーガーはロボットか、それとも人型巨大兵器か。
共に同じようなイメージを抱く方もいらっしゃるかも知れないが、この両者には決定的な違いがある。それが動きの悪さと制約の多さだ。

個人的な意見だが、トランスフォーマーに代表されるロボットはとにかく動きがいい。それでいて大きなトラブルがない限り、まるで人間のようにも動くことも出来る。けれど映像で見ると、その巨大さがあまり伝わってこない。
対して人型巨大兵器は所詮兵器だ。だから鉄人28号のように人間のような細かな動きは出来ない。もしくはプラグに繋がれているエヴァンゲリオンのように、何かと制約も多い。けれど映像からは間違いなくその巨大さと重量感が伝わってくる。

つまりイェーガーのフォルムは断然格好良くはなったが、重量感、塗装が剥がれた使い込まれた感、2人のパイロットのシンクロの重要性、現実味のある映像との大きさの比較といったものが一切なくなってしまったことが意味するもの。
それはイェーガーは前作では間違いなく人型巨大兵器だったが、この続編では悲しくもロボットに成り下がってしまったということだ。

前作がアメリカでは微妙でも中国では大ヒットしたということもあって、この続編は中国資本万歳だそうだが、問題の発生源はむしろそこよりも、ヲタク魂に対する「分かったつもり」な連中がこの映画製作に携わってしまったことだろう。本当にヲタク魂を理解している者がきちんと関わっていないからだろう。

OPでイェーガーのパーツを盗むと高額で売れるとか、パーツを組み合わせれば小型イェーガーが作れるとかいったものも、そもそもイェーガーは国家プロジェクト並みのものだったはずなのに、何でそうなっちゃったの?というのも、ロボットと人型巨大兵器の違いを認識していない証ではないだろうか。

カイジュウが3体合体しているのに、二刀流のセイバー・アテナ、鞭のガーディアン・ブラーボ、トゲトゲ鉄球のタイタン・リディーマーが主役機ジプシー・アベンジャーと連携攻撃を仕掛けることもなければ、正体不明機オブシディアン・フューリーの不気味さも微妙で、しかも無人機がカイジュウに侵されていくのはどこかエヴァンゲリオンっぽいなど、「そうじゃないんだなぁ」「分かってないなぁ」と思わせるシーンがとにかく多い。

J.J.似のニュートン博士がカイジュウの脳とリンクして乗っ取られたり、ハーマン博士はしっかり者になったりと、続編製作への匂わせは忘れていないようだが、それよりも大事なことはヲタク魂を本当に理解しているギレルモ・デル・トロの帰還だ。

それが実現されない限り、次の3作目もきっと今回と同じことの繰り返しだろう。

深夜らじお@の映画館は東京が東京っぽく見えなかったところも、日本とこの世界観への敬意の無さが表れた証ではないかと思いました。

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2018年03月30日

『ペンタゴン・ペーパーズ/最高機密文書』

ペンタゴン・ペーパーズ報道の自由は、報道することで守られる。
マスコミの存在意義は、報道による政府の監視だ。どんなに圧力を受けようとも、決して短期的な視野で語ってはならない。未来永劫をも考えて動かねばならない。
それを誰よりも分かっている一人の女性が下した決断。それはどんな男性にも決して出来ない「母親の決断」だ。

ベトナム戦争の泥沼化を理解していながら、多くの若者を戦場に送り続けたニクソン政権の最高機密文書:マクナマラ文書。その存在を暴露したワシントン・ポスト紙のジャーナリスト魂をスリリングに描いたこの作品は、まずその製作過程を聞くと驚かずにはいられない。

ドナルド・トランプ氏が共和党候補に決定した2016年10月に脚本の映画化権を取得したスティーブン・スピルバーグ監督は、翌年2月に主役2人と契約、5月から実質3ヶ月で撮影、11月にファイナル・カット完成、12月にアメリカ公開と、わずか1年2ヶ月で完成させているのだ。
しかも翌々年1月にはアカデミー作品賞にもノミネートされたのだから、「今すぐ伝えなくてはならないと思った」と語った巨匠の凄さたるや、もはや唯一無二の領域だろう。

さらに内容がアメリカだけでなく、森友問題による財務省の決裁文書改竄事件に揺れる日本にもタイムリーなのだが、ただこの作品は政府の隠蔽文書をすっぱ抜いた功績を語った作品でない。報道の自由を守ることで民主主義を守った女性社主とジャーナリストたちの功績を語っているのだ。

だからこそ、マクナマラ文書の詳細も特に語られることもないこの作品のラストには、爽快感はないが、「なるほど」という合点はあるのだ。
ウォーターゲート・ホテルで何が行われていたか、その後ニクソンはどうなったか。それらを知っている誰もが、この掲載記事がアメリカの理想主義を、民主主義を守った発端であったと。

また政府が機密保護法を楯にNYタイムズに掛けた圧力に対して、報道の自由を主張する編集者たちと、会社の存続を主張する幹部との狭間で悩む、優しすぎるが故に男性社会の中で軽んじられてきたキャサリン・グラハムが驚くほどあっさりと決断を下すその女性ならではの強さも、この映画の素晴らしさを語るうえでは外せないところ。

逮捕、投獄という物騒な言葉が飛び交うなか、なぜどこにでもいそうな主婦だった一人の女性が「父の会社でもない、夫の会社でもない、私の会社よ」と押し切れたのか。
政府幹部や歴代大統領を友人に持つ身でありながら、その友人を大切にする優しき女性でありながら、なぜ政府を糾弾するということが出来たのか。

その答えは間違いなく「愛」だろう。
彼女は報道の自由を守るとか、会社を守るとか以前に、国家も会社も家族と考えた場合、「母親として」すべきことは何かを自信を持って行動に移しているだけにすぎないからだ。
目先の幸せが大事ではない。子供や孫たちのことも考えての幸せなら、迷う理由などあるのかしら?と言わんばかりに。

だから最高裁から出てくる彼女が通る道の両脇には、様々な人種や年代の女性たちが並んでいる。現役の母親から、未来の母親まで、様々な女性が「母親として格好いい」キャサリン・グラハムを静かに羨望の眼差しで見送っている。
あれだけオロオロしていた女性が今や颯爽と会社内を歩き回っている。まるで子供たちの、孫たちの仕事ぶりを見て回るかのように。

そんなキャサリン・グラハムを見事に演じ切ったメリル・ストリープ。出演契約を交わしてからたった3ヶ月でこんな素晴らしい演技が出来るのか。

アメリカの民主主義・理想主義を守るべく闘っているスティーブン・スピルバーグ監督やメリル・ストリープ姐さん、トム・ハンクス叔父さんに大いなる敬意を払いたくなる映画だ。

深夜らじお@の映画館はレモネードで稼ぎまくった娘の、売上金を親に預ける素直さにも感動しました。

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2018年03月06日

『ブラックパンサー』

ブラックパンサー陛下、夕陽が…きれいです。
もうアベンジャーズのリーダーはティ・チャラ国王でいいじゃなイカ!どこぞの社長より資金も技術もあり、どこぞのキャプテンよりも人格者である、このブラックパンサーこそがヒーロー軍団を率いるべきだ!
そしてこのチーム・ブラックパンサーこそがヒーロー軍団のあるべき姿だ!

アフリカにある架空の国家:ワカンダ王国の新国王にして、大いなるパワーを秘めた鉱石ヴィブラニウムを盗む輩は自ら戦闘スーツを着込んで退治するという異色のヒーロー:ブラックパンサー。
しかし、よくよく考えるとこのアクティブな国王を支える女性陣で構成されるチーム・ブラックパンサーがある意味ブラックパンサー以上に凄いこと。

例えば国王の妹でもあるシュリはまさに『007』のQそのもので、何から何まで作り上げては改良を重ねる天才科学者。
また国王の元彼女でスパイ活動をもする柔軟なナキアと親衛隊で硬派なオコエは、「水戸黄門」でいう助さん格さんといったところで、ブラックパンサーに劣らずどころか、韓国でのカーチェイスにおいては主役以上の活躍をも見せてくれる。
なので、正直これまでのマーベル作品と比べるとべっぴんさんばかりの脇役陣に目が行ってしまうけれど、これがまた妙に楽しくて、ずっと見ていたくなる。

だから社長は社内でモメ、神様は兄弟内でモメ、国王は2親等内でモメるのかという、マーベルお得意の内輪モメストーリーも新鮮味がないようにも思えても、この国王が人格者であるが故に、自分のミスではなく尊敬する父王の愚行に悩み、王座を奪い取った従兄弟エリック・キルモンガーの主張も真摯に受け止めては、祖先の保護主義政策にも悩むという姿が逆に凄く新鮮。

さらに秘薬を飲んでブラックパンサーの能力を消してまで王座を奪おうとする者とは正々堂々と戦う姿勢も素晴らしければ、これまでのヒーローとは違い、特殊な能力が始めから備わっているヒーローだからこそ、この特別な能力には頼らず己の力だけで戦うという姿勢も立派に見えてくる。

そんな国王だからこそ、当然彼を慕う者も立派な者ばかり。ワカンダのQ・助・格だけでなく、ギリギリまで耐えて輸送機を全て撃ち落とした勇敢なエヴェレット・ロス捜査官や、命を助けてくれた恩をきちんと返し、飛猿的な活躍も見せてくれるエムバク卿も素晴らしい。

そしてそんな彼らが国王のために立ち上がり、ウカビ率いる国境族を正義とサイにも慕われる優しさで制するストーリーも新鮮なら、ブラックパンサースーツを着込んだ者同士のティ・チャラとエリック・キルモンガーの戦いも、基本的にはスーツ能力がほぼ消え去っている状態での肉弾戦。つまりは必殺技を繰り出しての決着が待っている訳ではない、まさに最後は心の強さが勝負を決する。

そんな戦いの結末は、ティ・チャラが従兄弟に叔父上が話されていた「世界で一番美しい夕陽」を自ら寄り添って見せてあげるという器の広さと、エリックもまたティ・チャラから申し出を断ってまでワカンダの未来のために潔く死を選ぶ姿が美しく思えるもの。

ヒーロー映画でありながら、定番をきちんと織り交ぜつつも、実は何から何まで新鮮に感じることばかりが詰まっている。しかも黒人映画なのに、ブラックムービーではないのも、さすがライアン・クーグラー監督。マイケル・B・ジョーダンも監督の期待に大いに応えているのも素晴らしい。

だからこそ思うのは、こんなにも素晴らしいティ・チャラ国王にこそ、アベンジャーズはお任せするべきだ。傲慢な社長や堅物のキャプテン、笑いに走りがちな神様よりも、この周囲にいる人間がその素晴らしさを物語っている人格者にこそ、世界の平和を守るヒーローズの統率をお願いすべきだ。

きっとこの国王の下なら、ワカンダのQが担当してくれるなら、ウィンター・ソルジャーことバッキー・バーンズ軍曹も元の姿に戻れるのではないだろうか。
そう思えてならないほど、このお猿さん俳優ことアンディ・サーキスを仕留めることが出来なかったことを悔やまれていた陛下がステキに思えた作品だ。

深夜らじお@の映画館は原作者があの韓国カジノでの銃撃戦で無事に生き延びたのかが気になります。

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2018年02月20日

『パンとバスと2度目のハツコイ』

パンとバスと2度目のハツコイハツコイはいつだって、どうしたらいいんだぁ〜!
何て可愛らしい映画なんだ。何てステキな映画なんだ。
スキにならずに、スキでいる。そんな恋愛こじらせ女子の映画なんて言葉で括るには勿体無い、ごくありふれた日常風景の中に潜む、ステキな時間を丁寧に描いた、何度も見たくなるラブストーリー。
やっぱりハツコイはいいなぁ〜。

パン屋での仕事が終わると、パンを食べながら洗車するバスに乗ってみたいという願望を持ちながら眺めることを日常にしている、静岡出身の市井ふみ、25歳。
柏木という彼氏からプロポーズされるも、自分と別れないと言い切れる理由が分からない。スキでいてもらう自信もない。スキでいられる自信もない。それで結局おひとり様生活に戻っちゃう、ちょっと独特な恋愛観の持ち主。

けれど、そんな彼女は緑内障で目薬を毎日差さないと失明してしまうかも知れない身。美大に通っていたが、絵を描く理由を見失ってしまった身。そして夫の不倫相手をフランスパンで殴る主婦と、その不倫相手でもあるパン屋の同僚の恋愛観をちょっと羨ましい思っちゃうけど、自分は多分一人になって寂しくありたいと自己分析しちゃう身。

そんな彼女が再会したのは、中学生時代にスキだった湯浅たもつ。バスの運転手をしながら、別れた妻への想いが絶てない、ふみのハツコイの相手。
さらに中学生時代にふみに告白してきた同級生の星さとみ、改め結婚したので石田さとみ。今でも同じ女性でありながら、ふみに想いを告げたことを後悔していない現役ママ。
そしてふみの部屋に居候することになった妹のにこ。絵を描くことを辞めた姉に、パジャマシャツとパジャマは違うと言い切る姉に興味津々な、姉想いの妹。

そんな3人との時間を丁寧に描いているこの作品では、特に大きなことは何も起こらない。
でもそのどこにでもある、ごくありふれた日常風景は、実は知らず知らずのうちに自分を多角的に見てもらっている大切な時間でもあるのだろう。

特にそれを感じさせてくれたのは、ふみがたもつを部屋に泊めるくだりでの入れ替わりトイレタイム。
たもつ・ふみ・にこが順に席を外す度に、残りの2人が話をする。そこには各々の距離感と感性の違いが生み出す、多角的に物事の見方が存在していて、にこが描いた姉の絵をたもつが自画像と勘違いするのも、人が変われば見方も変わる良き例なのだろう。
だからふみもパジャマシャツをようやくパジャマだと認めることも出来たのだろう。

人は誰でも自分のことは分かっているようで、よく分かっていない。
コインランドリーでの少年との孤独に関する会話のように自分自身を見つめ直したり、山でのたもつとの「どうしたらいいんだぁ〜!」という叫び合いのように、他人との比較や刺激を経て、初めて自分のことを知ることも多々ある。

たもつは別れた妻を忘れられないのではない。ただの片想いを妻への愛と勘違いしているだけだ。
ふみも一人になって寂しくありたいのではない。スキになってもらうというプレッシャーを人一倍感じるからこそ、より一人の時間を欲するけれども、孤独にはなりたくないだけだ。

たもつが感動した夕焼けという赤い風景を見て、ふみが見せたいと言った夜明け前の青い風景。

それは絵を描き終えるタイミングをにこに教えてあげることと同じ。バスの内側から洗車する光景をふみに見せてあげることと同じ。たもつに付き合わないで好きな人を嫌いになれないと伝えることと同じ。

自分だけが知っているステキなことを誰かに伝えたい。それこそが無意識でも自分の価値を分かった時にだけ、自然と心に芽生える愛なのだろう。

夜明け前の道を、恋人関係になったたもつにふみが可愛らしくぶつかるラストシーン。それもごくありふれた日常風景だ。でもそこにふみとたもつが互いにいい距離感を保ちながら幸せになっていくような温かさを感じたのは私だけではないだろう。

深夜らじお@の映画館は女性に「お願いだから、スキにならないで」と言われたら、間違いなくスキになります。

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2018年02月15日

『ぼくの名前はズッキーニ』

ぼくの名前はズッキーニ大人が絶対に忘れてはいけない愛が詰まった66分。
これは大人が見るべきストップモーションアニメだ。大人が見なければならない秀逸なる映画だ。
実写では絶対に描けないこの温かさと繊細さ、そして淋しさと希望に満ちた笑顔。ぎこちない動きも、個性的な大きな瞳も、陽の光が優しく包んでくれる演出に涙が止まらない。

第42回セザール賞で最優秀脚色賞と最優秀長編アニメーション賞を受賞しただけではなく、第89回アカデミー賞第74回ゴールデングローブ賞にもノミネートされ、世界中から愛されたこの素晴らしき映画。

『ウォレスとグルミット』に代表されるような、被写体である人形を少しずつ動かしながら、24コマで1秒という気の遠い撮影作業の末に完成するストップモーションアニメ作品は往々にして子供向けの作品が多いが、この映画は明らかに大人向けだ。それはこの作品がズッキーニを始めとする子供たちにしか焦点を当てていないことでもよく分かる。

例えばOPでのズッキーニは狭い屋根裏部屋で凧と空き缶だけで遊んでいる。凧は若い女を追って出て行った父親、空き缶は飲んだくれの母親を示していることからも、この9歳の少年は人知れず孤独と必死に戦っている。そしてこの凧と空き缶が彼にとっての両親であり、心の拠り所でもある。それは大人だからこそ、心に刺さるシーンだ。

一方で事故とは言え、母親を死なせてしまったがゆえにズッキーニが引き取られた施設には、同じような境遇の、同じ世代の子供たちがいるが、原案も手掛ける女流監督クロード・パラスは、そんな子供たち同士の争いはほぼ描かない。
孤独や淋しさ、親に甘えたい気持ちと必死に戦う姿、つまりは自分自身と戦う姿しか描かないのだ。

だからこの施設にいる子供たちは共に遊び、共に助け合う。自分が一番不幸ではないと分かっているからこそ、家族でもある仲間をとても大切にする。カミーユを虐待する伯母から救う作戦もその一つだろう。

でも雪山で遊んでいた彼らがふと母親に甘える子供を羨ましそうに見るシーンが心に突き刺さる。人形だけを見れば無表情なはずのに、既に感情が、魂がこの人形たちに宿っているからこそ、そこに大人の心に突き刺さる感情が如実に見えてくるのだ。

だがその逆もある。カミーユとの小さな恋を育むズッキーニがどんどん可愛らしく見えてくる。入所時にお世話になった警察官のレイモンとの交流も温かな希望を感じさせてくれる。シモンを始めとする仲間との数々のエピソードも心温まる。
そう、この映画には誰からも愛されていない子供はいないのだ。本当の親からは愛されていなくても、この施設で出逢った新たな家族から愛されている子供たちしかいないのだ。

だから警官とヒーローが抱き合うシーンがより涙を誘う。カミーユと一緒にレイモンの養子になると決まったズッキーニにシモンが贈った言葉に涙が止まらなくなる。

「俺たちのために」

幸せになる仲間は去っていく家族。幸せになっていく家族が自分にとっての希望になる。それは自分自身と戦っている小さな戦士にとっては、これ以上とない心の拠り所。だから施設の玄関先でみんなで撮った写真は間違いなく「家族写真」だ。

シモンが競争だと皆を煽りながら最後に施設の門を閉める兄貴分的な優しさ。レイモンがカミーユのために部屋を与えてくれる親心。ズッキーニがシモンに手紙を送る家族愛。そして新しい命の誕生に子供たちが注ぐ愛。
それらは子供たちにこの世界でひとりぼっちじゃないよと教えてあげる、本来なら大人が率先してしなければならない「愛の伝達」作業であり、大人が絶対に忘れてはいけない愛なのだ。

深夜らじお@の映画館はこの映画を見ながら姪っ子ちゃんたちのことをもっと大事にしたいと思いました。

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2017年12月23日

『ビジランテ』

ビジランテ誰も守ってくれない。誰も守ってやれない。
地方都市に生きる道はあるのか。個性のない、閉鎖的な地方都市にそれでもしがみつくのは、そこで生きていくしかないからか。
入江悠監督の地方都市が持つ暗部を描くオリジナル脚本。それは多くの撮影が行われた埼玉県深谷市だけではない、日本のどこにでもある闇が描かれた力作だ。

関西に住む者にとって、埼玉県はあまり個性を感じない場所だ。これといった観光名所も食文化も思い浮かばない。東京のベッドタウンとして発展したという認識しかない。都会でも田舎でもない、中途半端な存在だ。

そんなサイタマ県のとある地方都市で市会議員を務める次男・神藤二郎、デリヘルの雇われ店長をしている三男・三郎の元に、幼き頃に行方をくらませて以降、暴力的な父親の死を機に30年ぶりに帰郷した長男・一郎が波風を立たせる。

一郎が遺産相続を主張する土地は、二郎がショッピングモールの建設予定地にと目論む場所。三郎にとってはどうでもいい場所だが、政治家のお偉いさんが闇の仕事を依頼した先の下請けヤクザが三郎の雇い主とあっては、もはや蚊帳の外とはいかない。否が応にも地方都市が持つ闇が別々の道を歩んでいた三兄弟を引き摺り込むのだ。

本来なら子供を守るはずの親が暴力を振るう。本来なら街を守るはずの議員がヤクザを動かす。そんな現代日本のどこにでもある地方都市。
強き者が弱き者を守らない。弱き者が強き者に虐げられ、選択を迫られる。自分より弱い者を虐げるか、それとも自分自身だけを守るかと。

中国人移民の勝手な振る舞いに怒り、自警団に入った若者・石原に街を守る意思はない。移民排斥という暴力で、勝手な振る舞いには勝手な振る舞いで応える。
デリヘル嬢をモノとして扱うヤクザ・大迫も、舎弟である三郎を守る気はない。小さな猿山のボス気取りが生む暴力は、大海を知らない井の中の蛙としての結末しか導かない。
そして二郎の妻である美希は動き続ける。若手議員の妻としてではなく、夫を人情ではなく損得で動く、自分たちのことだけを守る人間に仕立て上げるために。

誰もが自分を守るためだけに生きている。他人を守る自警団員ではなく、自分だけを守る自警団員:ビジランテとして生きている。

二郎が涙を押し殺した挨拶の最後に深々と頭を下げた表情には、妻の意を酌み、自分たちだけを守るビジランテになると決めた苦悩と覚悟が見え隠れする。それはある意味、地方都市で賢く生きる姿でもある。

一方で、コンテナに閉じ込められたデリヘル嬢たちを救うべく、二郎を頼るも断られ、一郎も説得出来ずに、横浜のヤクザと地元のヤクザの話し合いという流れに身を任すしかなかった三郎は、最後まで他人を守るビジランテという道を歩み続ける。
ヤクザの抗争に巻き込まれて命を落とした一郎の遺体までをも渡すまいと最後まで大きな敵に挑み続け、最後まで守るべき者のために地を這った姿は、愛を知る者の姿だ。

そして頑なに土地の相続放棄を拒んだ理由が一切明かされない一郎は、どちらのビジランテになろうとしたのかも明かされない。
特にあれだけ忌み嫌った父親の家を荒らしておきながら、靴を脱げと言い続けた大迫をあのナイフで刺し殺しす様が、まるで借金返済のためではなく、祖父の代から土地が家族の、3兄弟の唯一の絆の証とでも語っているかのようでもあるからだ。

誰も守ってくれないから、自分たちだけは守れるようになるべきなのか。
誰も守ってやれないけれど、それでも守りたいと挑み続けるべきなのか。

移民排斥と自国ファーストがワンセットになりつつある現代。アメリカやヨーロッパだけの問題ではない。この日本でもそんな風潮が本当に正しき道を迷わせている。

私たちは誰に守ってもらっているのか。誰を守ってやれているのか。
いや、正しくは誰に守られ、誰を守っているのかだ。
わずかな言葉の違いが互いの心の距離を表している。

深夜らじお@の映画館も兵庫県明石市という地方都市に住んでおります。

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2017年12月04日

『パーティで女の子に話しかけるには』

パーティで女の子に話しかけるにはパンクボーイ・ミーツ・エイリアンガール。
あの『ヘドウィグ・アンド・アングリーインチ』でお馴染みのジョン・キャメロン・ミッチェル監督のパンク愛は理解出来る。だがゲイである彼の描く青春の異性恋愛劇は、どうも説得力に欠ける。
ただパンクとはどういう音楽なのかを問われた時、これほど説明に適した映画もそうはないだろう。

エリザベル女王即位25周年を迎えた1977年のイギリス・ロンドンでは、パンクはまさに異世界の音楽。
反体制的な歌詞に、爆音に近いメロディ。それらを音楽として捉えるかどうかは、歴史あるイギリスからすれば、ある意味アメリカや宇宙人と同じ、理解し難い余所者なのかも知れない。

ただ悶々とした日々からの脱却を望むエンたちにとっては、パンクは光の見えない世界から抜け出す一筋の光明のようなもの。けれど、だからと言って彼らがパンクを演奏することはない。むしろほぼ聴く側なのが、この映画の評価の分かれ目なのかも知れない。

特にエンが奇妙なパーティで出逢ったのは抑圧的な環境下に不満を募らす謎の少女ザンと恋に落ちていく様を見ても思うのが、そこにパンクを絡める必要性が十二分にあるのかどうかが疑わしくなること。

もちろんエンもザンも思春期の少年少女として現状に不満を持ち、そこからの脱却を望んでいるものの、彼らの基本スタンスは「ただ待つだけ」で、何かしら具体的に動こうとすることもない。
それは我々の人生を振り返れば、無論よくあることだが、一つの映像作品として見た時に、そこにメッセージ性の弱さを感じてしまうのは私だけだろうか。『ヘドウィグ・アンド・アングリーインチ』を未だに人生で最高のアメリカ映画として絶賛している私だけだろうか。

ボディシーアがプロデュースし、自然発生的にザンとエンのツインボーカルとして名曲が生まれるというパンクシーンがあまりにも素晴らしく、またそれまで劇中で流れる音楽がどれも素晴らしいのに、このパンクシーンはさらにそれを上回るという凄さに驚いただけに、やっぱりそれまでの盛り上がりの平坦さが勿体なく思えてしまう。

加えてジョン・キャメロン・ミッチェルといえば、ゲイであることをカミングアウトしたうえでの名作を作り上げてきた才能だけに、そのマイナーであるが故の抑圧された想いを音楽や愛で表現する様をこの映画でも見たかった。他の監督ではない、ジョン・キャメロン・ミッチェル監督だからこその期待に応えて欲しかった。

ただ映画を見終わって思う。人生は様々な音楽と人々で彩られ、忘れられない恋が永遠に心に残るからこそ、どんなに歳を重ねても素晴らしいと思えるのだと。

親が子供を喰うという宇宙人のしきたりを変えるため、妊娠して親としての権利を得るも、この地球では産めないという事情と一度去ると二度と戻れないという事情から、愛するエンとの別れを選ばざるを得なかったザン。
そんな彼女を想い続け、「ウィルス・ボーイ」の作者として成功を収めた大人のエンが出逢った少年少女たち。

あの48時間で燃え上がった恋は、永遠に輝き続ける恋から愛へと昇華した。そんなラストシーンを見て、私もまた若き日の恋心を思い出してみた。

深夜らじお@の映画館はやはりジョン・キャメロン・ミッチェル監督にはゲイ映画を撮ってもらいたいです。

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