映画レビュー【ら行】

2019年02月20日

『ROMA/ローマ』

ROMA楽しかったことも、悲しかったことも、全て思い出の中に。
これは映画史に残る素晴らしき映画だ。Netflix配信作品なので、世界中の人々がいつでも見ることの出来る作品だが、これこそ映画を見る環境が最も整った映画館という場で見るべき作品だ。
流れゆく時は環境を変える。重ねていく歳月は思い出をより深きものにする。そうして人は新しい時代を迎えていくのだろう。

アルフォンソ・キュアロン監督が自らの幼少期の体験も重ねたからだろうか、監督自身が脚本だけでなく撮影も手掛けているからだろうか、それとも『青いパパイヤの香り』と似た空気が漂っているからだろうか、この作品にはとても幸せな気持ちにさせてくれる長回しのカメラワークが凄く印象に残るが、その幸せな気持ちが徐々に変化していくところがこの作品の最大の魅力なのだろう。

例えば子供たちの各部屋を移動していくクレオを吹き抜け部分から眺めるように追うシーンには、家政婦とはいえ、『ALWAYS三丁目の夕日』における六ちゃんのように、キュアロン少年にとっては面倒見のいいお姉さんを眺めているような温かな視線が凄く心地いい。クレオに対する愛情が無言のカメラワークからひしひしと伝わってくる。

一方で街に、デートに出掛けるクレオを追うシーンには、キュアロン青年が一人の女性の恋路を陰ながら応援するかのような愛情も感じられるが、決してクレオの恋を値踏みする意図は感じられない。
だから彼女が武道家もどきのフェルミンに妊娠を打ち明けた途端、映画館でのデート中にも関わらず、無言で逃げられるという酷い仕打ちを受けても、感情的な描き方は一切しない。

また日に日に大きくなるお腹を気にしながら、やっと探し出したフェルミンに酷いことを言われたりするシーンや、大奥様と共にベビーベッドを買いに行ったら建物の外で暴動が起きるわ、店内で射殺事件が起こるわ、そこに銃を突き付けて戸惑うフェルミンがいるわ、終いにはクレオが破水するわといった不幸が続くシーンには、キュアロン少年が知らなかったクレオの時間を大人になったキュアロンがクレオの個を尊重しながら描いているような優しさが常に漂っている。

だからこそ、クレオが死産した我が子を抱くシーンが逆に忘れられなくなる。やっと彼女も自分の家族という幸せを手に出来るはずと思われたものが、するりと手から逃げていく現実。それをキュアロンはただただ黙って見つめているようにも思える。彼女に対する一切の感情を見せず、彼女の人生そのものを彼女を知る一人の大人の視線で黙って見つめているようにも思える。

そして満ちてくる大波に巻き込まれた住み込み先の子供たちを泳げないクレオが助けにいくシーンにも、そんな大人の視線が溢れている。眩しい太陽と力強い大波が生命力の強さを暗示するシーンにも溢れていると同時に我々は気付く。
クレオは雇い主ソフィアから子供たちの世話を任された家政婦として助けにいくのではない。子供たちに慕われているお姉さんとして助けにいくのではない。一人の母親として子供たちを助けに行ったのだと。

だから家族みんなが抱き合うように身を寄せるなかで彼女が吐露した「生まれて欲しくなかった」という死産した我が子への想いには、不思議とクレオの悲しみではなく、クレオの母親としての愛を感じてしまった。

本来ならどんな命であれ、生まれてきて欲しいもの。
でも楽しいことも悲しいことも、いづれ時と共に人生を豊かにする想い出へと変わっていく。そんな想い出を重ねてこその人生なのに、それらを何一つとして経験出来ずに人生を終えても母親の記憶の中には永遠に生き続ける我が娘。それは子供として最大の不幸ではないか。

けれど人生を終えても誰かの記憶に残り続けている限り、その人はまだ生き続けている。
血の繋がった我が子はいないが、クレオの目の前には彼女を慕う4人の子供がいる。雇い主先の子供とはいえ、血の繋がった娘が目覚めさせてくれた母性がこの子供たちの「もう一人の母親」として生きるクレオを支えている。

そんな母親になったクレオがまた日常に戻る。掃除をし、洗濯をし、子供たちや犬の世話をし、狭い駐車場に適した小型車を買ったソフィアのように、身の丈に合った幸せを大事にする生活に戻る。

それをアルフォンソ・キュアロン監督が「大人になった今だから分かる」という気持ちで、優しい視線で描く。見つめるように眺めるように見守るように描く。クレオの幸せを心の底から願いながら。

深夜らじお@の映画館は親戚一同で消火活動中に一人歌う大人がいるシーンから、この映画におけるキュアロン監督の視線は徐々に大人へと変わっていったように思えました。

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2018年10月24日

『若おかみは小学生!』

若おかみは小学生!花の湯温泉のお湯は、誰も拒まない。全てを受け入れて癒してくれる。
自然に流れる涙を拭いながら、つくづく思ってしまう。このタイトル、何とかならなかったのか!子供向け、特に女子児童向けのタイトルでは、多くの大人は足を運ばないよ!と。
これは大人の心を揺さぶる、愛すべき我らがマッドハウス作品だ。

対向車線にはみ出したトラックとの接触事故で両親を亡くした少女:おっこ。だが彼女は温泉旅館を営む祖母に引き取られるため、両親との思い出が詰まった我が家を出る時から全く涙を見せない。「いってきます」と我が家を去ったのに、悲しい顔も全く見せない。

本来なら昔から旅館に住み着く幽霊のウリ坊や美陽、邪鬼の鈴鬼との交流が始まるまでは気が滅入っているのが一般的な少女の精神状態のはずなのに、まるで何も気にしていないかのように平然としている。
それどころか、成り行きとはいえ、祖母の旅館「春の屋」の若女将としての奮闘も始まると、明るく前向きに仕事に打ち込む。

しかしその若女将としてお迎えする3組のお客様との交流が徐々に彼女の本当の精神状態を明かしていくのだが、一般的なこの手の作品と比べると、これが結構地味にヘビーな出逢いばかり。

例えば母親を亡くした神田あかねのくだり。両親を亡くしたおっこからすれば、あかねはまだマシな方、いや羨ましいとも思えるはずなのに、このお客様のために彼女はご要望のケーキに代わる露天風呂プリンの制作に奮闘する。
だがこの時に分かる。おっこは両親の死をまだ受け入れていないのだと。

次に出逢ったグローリー・水領は彼氏にフラれたばかりの占い師だが、おっこの気遣いと明るい性格を気に入り、歳の離れた友人としての付き合いを申し出てくれる。
ただそんな水領と買い物に行く道中でおっこがPTSDを発症する。現実を受け入れていない少女が現実を受け入れねばならない時が徐々に迫ってくる。
けれどおっこは若女将としての「おもてなし」の心を優先して、再び自分の心に蓋をしてしまう。

そして足を怪我した木瀬一家との残酷な出逢い。ライバル少女のピンフリこと真月とのいがみ合いや仲直りを経て、最高のおもてなしを施した相手が、こともあろうに自分の両親を死に追いやった相手だと知った時、おっこの目の前から消えていく両親の姿。

しかもこの現実を受け入れなければならない時に、おっこにはこれまで支えてくれたウリ坊や真陽、鈴鬼の姿が見えなくなり始めているという、さらに残酷な状況がとても子供向けの作品とは思えないほどに重いこと。

でもここで気付かされる。おっこは様々な出逢いを経験し、「春の屋」でおもてなしの精神を理解し、そして両親から受けた数多の愛を思い出しながら、この若女将としての修業に励んできたのだと。

だから彼女はこの残酷な出逢いを経ても、見事にトラウマを克服する。両親の死を受け入れてなお、若女将として木瀬一家を迎え入れる。木瀬文太の「お嬢ちゃんは良くても、俺がいたたまれない」という言葉に、「花の湯温泉のお湯は、誰も拒まない。全てを受け入れて癒してくれる」という両親から受け継いだ言葉で返す。
その年端もいかない少女の大きな成長に、思わず温かい涙が流れてしまう。

またこれまでおっこを支えていた見えない存在のウリ坊や美陽、鈴鬼から、グローリーや真月といった現実世界にいる者がこのタイミングでおっこの支えになっていく過程も、これまた涙腺を刺激してくれる。

誰の人生にも必ず大切な人との別れは来る。その別れを受け入れねばならない時も来る。
けれど誰の人生にも必ず新たな出逢いは来る。何事にも代え難い素敵な出逢いが来る。

それらはいったい誰が教えてくれるのか。自分の人生を振り返れば、特に大人なら誰でも分かるはず。
両親が教えてくれた。近所の大人が教えてくれた。学校や職場の仲間が教えてくれた。

自分を愛してくれる人が教えてくれた。
それがあゝ、素晴らしき哉、人生。

だからこそ、やはりつくづく思えてしまう。このタイトル、何とかならなかったのかと…。

深夜らじお@の映画館は上映が終わる前にこの作品をもっと多くの「大人」に見てもらいたいです。

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2018年06月20日

『ワンダー 君は太陽』

ワンダー一歩踏み出す。その勇気が宇宙を変える。
他人と違う。それだけで悩む少年がいる。手の掛からない子。そんな親の期待で悩む姉がいる。過ちを犯した。そのことに悩む友人がいる。自分にはない魅力。それに気付いて悩む親友がいる。
これは難病モノでもなければ、一人の少年の成長物語でもない。正しさよりも優しさを選ぶ物語だ。

『スター・ウォーズ』をこよなく愛する10歳のオギーは学校に通ったことがない。その理由は遺伝子の先天性疾患による顔の変形で27回に及ぶ手術を経験してきたからだ。
本人曰く「マシになった」とはいえ、宇宙飛行士のヘルメットを脱げば好奇の目に晒される環境は、その小さな身体にはあまりにも過酷な現実だ。

だが彼は時に悲観しながらもユーモアは決して忘れない。周囲の悪意ある言葉よりも大好きな理科の授業を聞くことを優先する。
意志の強い母親と、ユーモアを忘れない父親、いつも隣にいてくれる姉と愛犬と暮してきた10年がそうさせるのか、彼は周囲の好奇や悪意の目と闘うというよりも、状況が好転するまで静かにいつも通りの生活をしているかのようだ。

一方でこの映画はオギーを物語の主軸に置きながら、弟優先の家庭で手の掛からない姉を演じてきたヴィア、オギーにとって初めての友達になったジャック・ウィル、ヴィアとの間に溝を作ってしまったミランダの視点でも語られる。

そこには言葉に出せない想い、行動に移すことに勇気が必要とされる想いが様々な形で描かれている。

例えば演劇部で出逢ったジャスティンに一人っ子だと嘘をついてしまったヴィアは決して弟を恥ずかしいとは思ったことなど一度もないはず。でも祖母がいない今、親の愛を求めてもいいのか。その答えに辿り着いた時、彼女はどれだけの勇気を振り絞って一歩を踏み出したのだろう。

また周囲の目など気にせず、オギーに手を差し伸べたジャック・ウィルも、どれだけの勇気を振り絞って一歩踏み出したのだろう。
ヴィアになり切ることで不遇な家庭環境から脱したことで親友に引け目を感じたミランダも、どれだけの勇気を振り絞って主役を譲るという一歩を踏み出したのだろう。

けれど実際にその立場にいると誰もが分かるはず。勇気を振り絞って一歩踏み出すことなど何も難しくはない。ただ「当たり前のことをしただけ」なのだからと。

見た目が他人と違う。それの何が悪い。
子供として親の愛を求める。それの何が悪い。
独りぼっちのクラスメイトに話し掛ける。それの何が悪い。
親友の家庭で本当の家族愛を知る。それの何が悪い。

人は誰でも過ちを犯す。卑屈になること、親に甘えないこと、悪口を言ってしまったこと、疎遠になったこと。
でもその過ちを認め、前に進む勇気を振り絞るタイミングさえ間違えなければ、人は誰だって楽しい人生を送ることが出来るはず。

そのタイミングを間違えると、ジュリアンのように人生で大きな後悔を経験してしまうのだ。
ただ彼の場合はあの両親に育てられたことが人生の一番の不幸でもあるが。

そういう意味では、付き合いの長いミランダだけでなく、ジャスティンもジャック・ウィルも足繁く通う温かな家庭を築き上げたこのイザベルとネートという夫婦は、これぞ親の鑑。
厳しさと優しさの意味を履き違えず、子供の成長を静かに見守り受け入れていく。

まさに「この親にしてこの子あり」の作品でした。

深夜らじお@の映画館は現実的厳しさの少ない世界観でもこの映画が好きです。

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2018年06月18日

『私はあなたのニグロではない』

私はあなたのニグロではない人種差別はなくならないのか。
アメリカが建国以来抱えている人種問題。特に白人による黒人差別問題はどうして解決への道を歩めないのか。
ジェームズ・ボールドウィンの30頁に及ぶ未完の原稿を基に作られたこのドキュメンタリー映画を見て思う。我々日本人が思っている以上に、アメリカの人種問題は解決など期待出来ないと。

「Remenber this House」というジェームズ・ボールドウィンの未完の作品は、彼の友人でもある3人の公民権運動家をテーマにしている。
メドガー・エヴァーズ、マーティン・ルーサー・キングJr.、そしてマルコムX。

奴隷としてアフリカから強制連行され、その奴隷制度が終わると白人とは区分けされる生活を強制され、法律の上では自由と平等が保証されていても、実生活においては、例えバラク・オバマ氏が黒人初の大統領に就任したといえども、その差別は根絶されることのないアメリカという先進国。

そのアメリカで黒人の地位向上を目指して闘っていた彼らを通して、ジェームズ・ボールドウィンが様々な疑問を投げ掛ける。様々な無知と無関心が生んだ無意識の差別を露にしていく。怒りを静かに知的な手法で表現していく。
だからこの映画には我々が気付いていなかった様々な事実が描かれている。

例えば過去の映画を例に出したものでいえば、『夜の大走査線』でのシドニー・ポワチエは白人から見た理想の黒人を演じている。『駅馬車』では先住民族が野蛮な悪党として殺されている。夢のような恋愛映画の主役は白人である。
これらは全て我々が接してきたアメリカ映画の当たり前に隠されていた差別。

また「多くの白人はニグロを敵視していない」「黒人である前に人間だ」「アメリカはもはや奴隷として使えない黒人をどうしたらいいのか分からないのだ」「黒人が必要な理由は?」といった、ジェームズ・ボールドウィンの数々の言葉が様々なニュース映像と共に映し出されると、自然と疑問に思えてくるアメリカ社会における黒人の存在意義。
白人と同じアメリカ国民であるはずなのに、白人はなぜ黒人を同胞として扱わないのか。

差別する方が悪い。これだけでは問題は何も解決しない。差別する白人側の意見がピックアップされたうえで、問題の本質がいつの間にかすり替えられてしまうからだ。

ではどうすれば差別はなくなるのか。ジェームズ・ボールドウィンは無知と無関心が問題の本質だと主張する。無知と無関心が白人に「恐怖」を生むと分析する。

確かに黒人の少女が白人ばかりの高校に登校するだけのことに、白人たちが彼女に唾を吐き掛ける意味を考えると、最終的には無知と無関心が生む恐怖に辿り着くだろう。
白人だらけの自分たちの生活に黒人という余所者が入ってくる。その余所者を理解しようとしない連中が「恐怖」を「暴力・暴言」にすり替える。それも無意識のうちに。

メドガー・エヴァーズも、マーティン・ルーサー・キングJr.も、マルコムXも、白人を駆逐して黒人だけのアメリカを目指してはいない。黒人が白人を差別する社会も目指していない。
ただ「我々は黒人である前に人間だ」と訴えているだけであり、それを白人が理解出来ていないだけ。そして互いを憎しみ合う時間の長さが、やがて黒人側にも無知と無関心が生む恐怖をもたらしている。

無知と無関心が生む恐怖は人類の歴史において、常に悲劇しか生み出してこなかった。
ナチスによるユダヤ民族の大量虐殺も、日本社会における部落問題も、現代世界における自国ファースト主義も。

そんな時代だからこそ、改めてジェームズ・ボールドウィンの投げ掛けた言葉が意味を持つ。

向き合っても変わらないこともある。
だが向き合わずに変えることはできない。

この言葉をアメリカの全国民が、地球上に住まう全人類が理解出来る日など、果たして来るのだろうか。

深夜らじお@の映画館には目から鱗の映画でした。

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2018年06月02日

『レディ・バード』

レディ・バード親の心、子知らず。子の心、親知らず。
特にこれといったものもない平凡な10代なのに、退屈な故郷を捨てて新天地で輝きたい。その時、親はどう思っているのかなんて、親元を離れてみなきゃ分からない。
同様に親も子と離れてみなきゃ分からない。自分の子がどれだけ物事をしっかりと考え、行動しているかなんて。

女流監督グレタ・ガーウィグの自伝的要素が満載なこの作品で描かれる女子高生クリスティンは、赤く染めた髪を振り乱し、周囲には自分のことを「レディ・バード」と呼ばせながらも、決してモテ組には属している訳でもなければ、特別成績がいい訳でもない、所謂イタい女の子だ。

でも彼女は単に背伸びしたいだけ。10代を経験した方なら誰でもが懐かしくもあり、恥ずかしくもある、特に親にこそ自分を大きく見せたいと張る見栄もないのに見栄を張り続ける、あの痛々しさを伴って青春を謳歌しているだけなのだから。

だからこそ、小気味いいテンポで進んでいく映画を見ながら思うのは、このレディ・バードという女の子は本当に中身のない高校生だと、後先考えずに行動する人間だということ。
特にOP早々から母親と喧嘩した挙句に走行中の車の助手席から飛び降りて右手にギプスを嵌めるも、それをピンク色に染めるなど、お世辞にもセンスがあるとは言い難い。

ただ故郷のサクラメントを退屈な街と決めつけ、金銭問題優先で進学先を選ぶ母親と衝突し、男選びもヘタクソなら、大事なプロムでさえも結局は親友ジュリーと過ごすことを選ぶレディ・バードは、理想通りの充実した青春時代を過ごしたと断言出来ない大人なら、大人になった今だからこそ分かることが沢山あるはず。

故郷の素晴らしさ、親の子を想う心、周囲の目を気にして選んでいた人間関係、本来の目的を見失って後悔が残ったイベント事のどれもが、自分が未熟だったがために起こるべくして起きたことだということを。

そして同時に思うのは、大人として冷静に、かつ不器用に振る舞わずに気持ちを伝えることがいかに大切かということ。片意地さえ張らなければ、新天地に向かう娘の見送りをしなかったことを後悔して空港に舞い戻る母親マリオンの姿を見てそう思ってしまう。

けれど、そんなクリスティンとマリオンという不器用な母娘だからこそ、離れてみて分かる親への感謝が、車を走らせるクリスティンとマリオンを重ね合わせるラストシーンがちょっと寂しく切なくも、でも温かく美しく見えてくる。

後先考えずに処女喪失をしちゃったレディ・バードを生き生きと、かつ痛々しくも演じ切ったシアーシャ・ローナンは間違いなく、この手の役柄では右に出る者がいないほど素晴らしい女優だろう。
そんなシアーシャ・ローナンを見るだけでも十二分に価値のある映画だ。

深夜らじお@の映画館も故郷を離れてと思い描いていた時代がありました。でも不便な片田舎も捨て難いのは、不便が逆に楽しくもあるからなんですよね〜。

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2018年05月30日

『ランペイジ 巨獣大乱闘』

ランペイジ世界よ、これが新しいバカ映画だ!
怪獣ほど大きくなく、猛獣ほど小さくもない。けれど、この映画には怪獣映画の魂が息づいている。猛獣映画の魂も息づいている。
そして映像は超一級品なのにストーリーは完全ご都合主義のバカ映画だと開き直ったがゆえの清々しさが、この映画を2018年必見の作品に押し上げている!

1933年公開の『キング・コング』から85年、1954年公開の『ゴジラ』から64年。
これまで多くの怪獣映画が製作されてきたが、誰も踏み入れなかった領域がまだ残っていた。それが「巨獣」という、いわば怪獣のようにビルを一撃で倒せるほど大きくはないが、人類よりは遥かに大きいので戦車や軍用ヘリは一撃で吹っ飛ばすよという、単体では中途半端に見える場合もあるが、複数集まると程良い大きさになる領域だ。

ここに1980年代のアーケードゲームを原案に、霊長類学者であり元特殊部隊出身という超ご都合主義設定の主人公ザ・ロック様ことドウェイン・ジョンソンを配し、巨大化していくホワイトゴリラとの友情を混ぜ合わせることで、映画のあちらこちらにバカ映画としてのツッコミどころを散りばめておきながら、絶対に最後まで観客を飽きさせないという娯楽精神は見事に健在しているこの素晴らしさ。

だからこそ、ワーナーブラザーズのロゴ遊びから始まり、我らがニューラインシネマ製作という期待値を存分に満たしてくれるこの作品は、最初から最後までハラハラドキドキはさほどないが、妙な楽しさというか、常に頬が緩みっぱなしなのだ。

特にラッセル捜査官が命を助けてくれた返礼にと「クズは協力し合え」という大義名分の下で全面協力してくれたり、キーパーソンと思いきや特にこれといった活躍のないコールドウェル博士がこの手の作品には欠かせないヒロインの座に収まっているだけとかは、一見するとただのご都合主義かも知れないが、それが逆にこの単純なストーリーに集中できる要素に偶然にも化学変化を起こしているのが素晴らしいこと。

さらに巨大化したホワイトゴリラ、オオカミ、ワニがシカゴの街に集結し、大都会を廃墟の街へと変えていく様も、巨大化の要因となったランペイジという遺伝子操作ワクチンが何でもありだから、投げ飛ばされたオオカミがムササビの如く滑空して戻ってきてはホワイトゴリラやワニと人間の存在を無視して縦横無尽に三つ巴で取っ組み合う姿は、まさに怪獣映画においての醍醐味そのもの。

そしてこの巨獣大乱闘の結末をホワイトゴリラのジョージのみを解毒剤で凶暴性だけを取り払って味方にし、オオカミとワニに対してザ・ロック様もジョージと共に戦いに行くという、まるで『モスラ』を見ているかのような懐かしさに加え、そこにザ・ロック様だけに『ザ・ロック』のようなクライマックスに仕立て上げるこの立派過ぎるパロディ精神。

そうなると、ジョージはエド・ハリス演じるハメル准将になってしまうのか…という悲しき結末予想も、そういえばこの遺伝子操作ワクチンは何でもありでしたね♪というご都合主義なオチでジョージも復活。ザ・ロック様への友情を込めた下品な手話付きで。

てな訳で巨獣大乱闘の要因を作ったワイデン姉弟の結末も、解毒剤と一緒にゴリラに食される姉と、ラッセル捜査官に騙されペチャンコになる弟という小者扱いも凄く心地いいこの作品。

これからのバカ映画製作の指針となって欲しいと思うと共に、ドウェイン・ジョンソン製作・主演が面白いバカ映画の目印にもなって欲しいと思えた娯楽作品でした。

深夜らじお@の映画館はドウェイン・ジョンソン製作・主演作品をこれからは要チェックするようにします。ただし映画館で見るかどうかは作品次第です。

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2018年05月06日

『リズと青い鳥』

リズと青い鳥リズと青い鳥。ずっとずっと一緒だと思ってた。
京都アニメーションを代表するアニメ作品「響け!ユーフォニアム」の第二楽章であり、スピンオフであり、美しく切ない青春映画であり、完成度の高い吹奏楽映画でもあるこの作品を見て思う。
この素晴らしき作品を見逃さなくて良かった。演奏で涙する感動を知ることが出来て良かったと。

北宇治高校吹奏楽部でオーボエを担当する鎧塚みぞれは他人との交流が得意ではない物静かな少女。その長く伸ばした黒髪は彼女の実直さを、白い靴下は自分を持たぬ、誰かに染められる性格を表している。

フルートを担当している傘木希美は明るく活発で誰からも慕われる少女。その歩く度に躍動するポニテは彼女のフットワークの軽さを、黒い靴下は自分の意見を持った、誰にも染まらぬ性格を表している。

対照的でありながら親友でもあるこの2人。だがTVアニメを見ていた方は憶えているだろう。希美は1年生の時に練習に不真面目な3年生に反発して退部し、滝先生の顧問就任で息を吹き返した吹奏楽部に復帰を望むも、みぞれの精神状態を考慮してコンクール終了までそれが叶わなかったことを。

みぞれは唯一の親友である希美を友情以上の感情で見ている。だがそれは愛情というよりも一方的な依存。だから希美が自分の全てである彼女には童話「リズと青い鳥」でのリズの気持ちが理解出来ない。大切な人と別れるという決断をする気持ちが理解出来ない。

一方で希美はみぞれを親友として大事に想うも、決して特別扱いはしない。みぞれの友情以上の感情にも応えない。ただひたすら親友が自分以外とも交流を持つことを待っている。だから本当は分かっているはずなのに認めたくない「とある事実」から無意識に目を逸らしている。

「リズと青い鳥」を演奏するためには、みぞれのオーボエと希美のフルートの掛け合いが重要なのに、2人の気持ちの僅かなズレが音に現れてしまう。
それをトランペット担当の高坂麗奈にみぞれは指摘されてしまう。その高坂麗奈とユーフォニアム担当の黄前久美子によるセッションに、希美は自分たちの心のズレを認識させられてしまう。
そしてみぞれは新山聡美先生から音大進学を勧められ、希美はそのことに静かに嫉妬してしまう。

ただこの映画は、そんな徐々にすれ違ってしまう希美とみぞれをとても優しく描く。
特に個人的に好きだったのは、みぞれを心配する吉川優子と見守るだけにしている中川夏紀の部長副部長コンビの描き方。TVアニメを見ていた方ならこの2人の性格を知っている分、希美とみぞれだけではない、この3年生4人の「本人の前では言葉にしない」優しさ溢れる友情をより楽しめるのではないだろうか。

だからこそ、リズの気持ちだけではなく、青い鳥の気持ちを知ったみぞれが演奏する「リズと青い鳥:第3章 愛ゆえの決断」に誰もが心を震わせ、涙するだろう。
大切だから、ずっと手を握っていたい。けれど本当に大切だから、その握った手を解かなければならない。そのみぞれの精一杯の決断が宿った演奏はまさに圧巻という言葉でしか表現出来ない。

だが「愛ゆえの決断」をしたのはみぞれだけではない。親友と自分との実力の差を思い知らされた希美も同じく精一杯の決断をしている。
ただ彼女は演奏では表現しない。いつも通りの明るい笑顔で表現する。だから図書館で借りる本が小説と過去問題集というシーンはとても切ない。

人は皆違う魅力を持っている。だから性格の差を実感させられる。才能の差を痛感させられる。でもその差を受け入れ、愛することが最も大切なこと。

みぞれの白い靴下は何でも描くことの出来るキャンバス、でも何を描いていいのか迷うキャンバス。
希美の黒い靴下は描ける色が限られているキャンバス、でも何を描くかを決めやすいキャンバス。

そんなメタファーを感じながら思う。
いつか希美が髪を下ろし、みぞれが髪を括ってポニテにした時、この2人はどんな笑顔で語り合うのかと。
きっと今までの2人が見たことのない笑顔がそこには咲き乱れるのだろう。

でもそれは希美とみぞれが高校を卒業して、別々の人生を歩み始めてからのお話。
この映画では描かれない、この映画を見た方の心の中で描かれるお話だろう。

深夜らじお@の映画館はあえて「リズと青い鳥」の童謡シーンはセリフなしで見せるという演出でも良かったと思います。本田望結嬢の素晴らしき一人二役には驚きましたけど。

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2018年04月20日

『レディ・プレイヤー1』

レディ・プレイヤー1オレはガンダムでいく!
’80を知る世代にはニヤニヤが止まらない。あれもこれも何もかも一つの映画に収まっているなんて、権利という高い壁を越えて収まっているなんて、もはやスティーブン・スピルバーグ印以外では見れないという感動と共に。
そしてあえて言おう。スタンリー・キューブリックの『シャイニング』は是非見ておくべし!

近未来の2045年。現実世界の荒廃とは逆に進化を続ける仮想世界:ヴァーチャルリアリティ・ワールド「オアシス」は、まさに現実から逃れたい人々の駆け込み寺であり、心の拠り所であり、引きこもり部屋だ。

だから冷静に見ると、仮想世界に飛び込んでいる本人は楽しいだろうが、傍から見るとゴーグルをつけて何かやっている人の姿はあまりにも滑稽だ。
しかもそういう人々が作り上げたアバターのその人のコンプレックスの裏返しでもあるのだから、冷静に見れば見るほど、仮想世界にどっぷりと浸かるのは危険だとも思えてくる。

だが、そんな仮想世界はなぜ作られたのか。開発者の想いは何だったのか。恐らくそこまで考えて仮想世界に飛び込んでいる者はヲタクと呼ばれている人たちだけだろう。
そんなヲタクたちが仮想世界にも支配欲を向けてくる巨大企業の魔の手に、開発者の人生云々にまで至るヲタク的知識と考察を駆使して、仲間と共に開発者の遺産争奪3つの鍵を探せの戦いに挑んでいく一方で、現実世界でも交流を持ち始める展開が妙に面白く感じるのはなぜか。

その答えは恐らく権利の壁を越えて、スティーブン・スピルバーグ監督作品だからという理由でこの映画での使用を許可された無数のキャラやアイテムが登場すればするほど、若き日を過ごした1980年代という「未来を夢見た時代」を思い出すからではないだろうか。

アメリカでは映画のサントラがビルボードを席巻し、日本ではバブル真っ只中だった時代に見聞きしたデロリアン、金田バイク、チャッキー&フレディ、アイアン・ジャイアント、ガンダム、メカゴジラは、まさに「未来には実現されるだろう」という夢の代物ばかり。つまりは夢の塊なのだ。

それらがキングコングやバットマン、ハローキティと共に彩られた仮想世界に散りばめられ、「希望を託し、夢見る未来」を守るべく戦う若者たちと共に描かれる。時に分身として、時にアイテムとして、大いなるヲタク愛と共に。

だからこの映画は、ストーリーはツッコミどころが多々あれど、見ているだけで懐かしく、どこか羨ましく、そして心が温かくなるのだろう。
特にミフネではないトシロウが「オレはガンダムでいく!」と日本語で言い放つシーンのゴーグルに映った文字にはちょっと感動だ。

ちなみにこの映画で最も心が温かくなったのは、パッとしない青年、顔に痣のある少女、巨漢黒人女性、日本の若造、中国人少年が大企業社長に勝ったラストが、まさにトランプに勝ったマイノリティのように見えるシーンではなく、スティーブン・キングがスタンリー・キューブリックの描き方に激怒したことで有名な『シャイニング』のパロディシーン。

2人の少女の次はエレベーターから…。ドアを突き破る斧が…。で、三輪車は?

深夜らじお@の映画館の1980年代は小学生でした。

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2018年04月17日

『ラブレス』

ラブレス愛がない世界にいる、大人になれない大人たち。
寒々しい風景と救いの物語で正義と愛を失った現代ロシアを映し出す、鬼才アンドレイ・ズビャギンツェフ監督。
ただ寒々しい心と救いのない仕業は世界のどこにでもある風景。大人になれない大人たちが増殖する昨今、誰が犠牲者になっているのか。考えてみたことがあるか。

大企業に勤めるボリスは熱心なキリスト教徒の上司の目を気にする。離婚が出世に響くのではないか。だから新しいパートナーと早く前に進みたいと。
美容院を営むイニヤは日々熱心にスマホに向き合う。離婚さえ成立すれば、この現実から逃れることが出来る。私を愛してくれる新しいパートナーと前に進めると願いながら。

だがそんな2人には12歳になる息子アレクセイがいるが、ボリスは「子供には母親が必要だ」と、イニヤは「年頃だから父親が必要だ」と、互いに息子を押し付け合う。その息子が扉の陰で静かに泣いていることも知らずに。

そんな両親から必要とされていない、つまりは愛されていないと知った少年が、その愛されていないという事実を今まで知らなかったことにも気付かされた少年が失踪する。行方不明になる。
当然、父親と母親は息子を心配するはずだが、この父親と母親はその責任を互いに押しつけ、ただただ批判し合う。反省などは一切ない。

それでも警察は捜査に動く。ボランティアも捜索に協力する。この両親もイニヤの実家を訪れるなどして行方の知れない息子を探す。

だが息子は見つからない。逆にボリスとイニヤがデキ婚、つまりはアレクセイは望まれて生まれた子供ではなかった事実が分かる。そのイニヤも暴言ばかりの母親から愛されていなかった事実も分かる。

愛を知らない男女が、愛のないまま夫婦になり、愛がない親になり、そして愛を与えず子供と暮してきた。
でもその事実を受けれないボリスは新しいパートナーを妊娠させ、イニヤは新しいパートナーから愛されることだけを望んでいる。愛されたいという想いだけを優先し、血を分けた愛息子でさえ「愛する」ということもせずに。

やがてアレクセイが見つからぬまま、時は過ぎていく。アレクセイ発見を願う張り紙の色も褪せてしまった。
それでもボリスは新しいパートナーとの家庭で子育てをしようとはしない。息子を失った父親であるはずなのに。
イニヤも新しいパートナーが熱心に見るTVに映し出されたウクライナの悲劇よりもスマホの世界にしか関心を寄せない。息子を失った母親であるはずなのに。

イニヤがダイエットのために着込んだジャージにプリントされた「RUSSIA」という赤い文字が寒々しい白い風景に似合う。血の通った言葉を並べながら、現実では薄情なことばかりする現代ロシアとプーチン体制は大人としての慈しみの心を持たぬ、大きな子供そのものだ。

雪が積もる孤島に川越しに倒れた大木は、孤独な子供に寄り添う大人を意味するものではなかった。
アレクセイが高々と放り投げて枝に引っ掛かったリボンが悲しく風に靡く。まるでこの無機質なリボンだけが行方不明になった少年のことを気に掛けているかのように。

深夜らじお@の映画館はこんな大人にだけはならないように生きていきます。

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2018年03月31日

『レッド・スパロー』

レッド・スパロー女である。それが最大の武器。
重々しく不穏な予告編とは違い、淡々と進むストーリーにどんでん返しはある程度予測がついてしまう。もっとテンポ良くと望んでしまう。
ただ強くて美しく、賢くて可愛らしく、か弱くてセクシーな女性を見事に演じ切った27歳のオスカー女優を見て思う。
私も誘惑してくれ…と。

意図的な事故によりプリマドンナとしての道を絶たれたドミニカ・エゴロワがロシア情報庁に勤める叔父ワーニャから選択を迫られる。生きるか、死ぬか。
だが前者にはハニートラップ専門スパイという選択肢しか用意されていない。つまり国家のためにその美しい身体を差し出す。心も希望も捨てて。

シャーロット・ランプリング先生によるハニートラップ・スパイ:スパロー養成の授業には羞恥心や自尊心といった言葉は一切必要ない。国家のためにその身体が必要なのだから、すべきことは決まっている。服を脱げ。相手を満足させよ。
まるで表情に乏しいロシアン・ビューティーが作り上げられていく過程を見せつけられるかのように、ジェニファー・ローレンスの表情が変わっていく。彼女の持つ内面の強さが洗練されていく。

相手の欲望を読み解き、その一歩先を常に歩む。そんな彼女がシャワールームで襲ってきた男と改めて対峙する。オールヌードで股を開いて挑発する。強さを求める男が萎えた姿のまま去っていく。色目を使う上司には暴行を働かせ、それを脅しのネタに使う。

だが優秀なスパイは権力者によって骨の髄まで利用される。しかも過酷な任務を課せれながら、常に裏切りを警戒される。
CIA捜査官ネイト・ナッシュへの接近は、監獄と化した母国から亡命出来る千載一遇の機会だが、同時に上層部もそれは分かっている。

果たして彼女は誰を騙し、誰を裏切り、誰を利用するのか。それがクライマックスへのどんでん返しに繋がるのだが、分かり易く違和感のあるシーンを並べれば自ずと彼女が誰をターゲットにしているかは分かる。

逆にモグラと呼ばれる内通者の唐突すぎる登場、いや告白は萎えてしまう。そんなネタフリがあっのかと疑問に思ってしまうが、それにより彼女に新たな選択肢が生まれる。
叔父を裏切り者に仕立て上げた功績による出世と、コルチノイという裏切者の権力者とのパイプを使えば、母国を変えることが出来る。

個人的には数々の拷問に耐え、お人好しすぎる捜査官との心内を見せない恋模様を経ても、彼女には自由社会での愛を選んで欲しかった。
だがドミニカ・エゴロワは諦めない女性。母のいる母国を、愛のある国家に変える茨の道を選ぶ。西側から掛かってくる、自分が初めてバレエで踊った時の音楽が流れる愛の無言電話を心の支えにして。

無表情なのに感情豊かな演技をしながら、ヌードから拷問まで数々の体当たり演技をこなし、なおかつ女性としての強さ、美しさだけでなく、守ってあげたくなる弱さと可愛さまで表現したジェニファー・ローレンス、27歳。
彼女が魅せる胸の谷間に、開かれる股の間に、引き締まった腰付きに、一人の男として願ってしまう。

何も重要機密は持っていないが、私も誘惑してくれと…。

深夜らじお@の映画館はジェニファー・ロペスからの誘惑なら自信を持って断ることが出来ます。だってベン・アフレックみたいにはなりたくないですもん。

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2018年03月16日

『リメンバー・ミー』

リメンバー・ミー音楽が繋ぐ、時を超えた家族愛。
第90回アカデミー歌曲賞に輝いた「Remenber me」をあのタイミングで聞かされると、もう誰もが涙腺を決壊せざるを得ないではないか。誰もがそれぞれの亡き家族を思い出し、共に暮らす家族を、離れて暮らす家族を想わずにはいられないではないか。
嗚呼、このポスターに描かれた家族愛を思い出すだけで涙が…。

音楽好きな少年ミゲルの曾々祖父が家族を捨てて音楽で生きる道を歩んで以来、家族の中では一切音楽は禁止とはいえ、祖母以降はその曾々祖父を知らぬのに、そこまで憎むかの如くの対応や反応は如何なものかと思える前半は、安易な設定のおかげか、少々期待外れかと思ってしまうほど。

ただ死者の国に出入国管理局を設けるという、ちょっとお茶目で、でも生者と死者の境界線を分かり易く描いているあたりから、この映画はストーリーでは「死」を描いておきながら、映像では確実に「生」を描いているところが素晴らしいこと。

特にそれが強調されているのがマリーゴールドや日の出を始めとするオレンジ色。温かみのある色調はもちろん「生きている」温かさを表現する一方で、この映画のテーマでもある家族の温かな「愛」もきちんと表現している。
使い魔や花火など、随所にカラフルさが目立つ映画に仕立て上げてはいるものの、このオレンジ色の使い方だけは終始一貫している。

だからこそ、白を基調とした衣装を身に纏うエルネスト・デラクルスがミゲルの曾々祖父ということに、若干色調的な違和感を感じる。
でも強気なイメルダ曾々祖母にはこんなマイペースな夫が似合うものかなと思わせておいての、まさかまさかのヘクターが…というくだりには驚かされるものの、イメルダが夫が奏でる音楽に合わせて歌うのが好きだったという言葉がそこで妙にしっくりくる。

つまり、どんなに強気な女性でも愛する男を想い、歌う時は乙女になる。そこに優しい男が愛を音楽で奏でる時、白い骸骨にも感情という色が観客の目には見えてくる。それこそが人間が本来持つ「愛」という温かさを表現したオレンジ色の効果だろう。

なので、クライマックスでの悪玉との対決は、まさに家族の絆を裂こうとする「一家の敵」との対決だ。家族総出での大一番だ。
その結末が導く、ミゲルが元の世界に戻ってからの課せられた使命も、まさに家族を守るための戦いだ。

死者の国でも誰にも思い出されなくなった時、2度目の死がやってくる。肉体の死ではなく、心の死だ。それだけは絶対に回避しなければならない。大好きな家族が大好きな家族は、例え自分が知らない祖先でも大事な家族。絶対に忘れないで。
ミゲルのそんな想いで奏でられる「Remenber me」は、オレンジ色の効果も大いにあってか、もう涙が止まらない。

確かに「This is Me」も素晴らしい楽曲だ。けれど映画本編との相乗効果は圧倒的に「Remenber me」の方が上なのだ。誰もがあの歌に、あの歌詞に、それぞれの家族との思い出に浸るのではないだろうか。

どこの家族にも死はやってくる。でも新たな命の誕生もやってくる。生物学的な別れはあっても、精神的な別れは生きている者が覚えている限り、永遠にこない。
それを私たちは「家族愛」と呼ぶのだろう。

深夜らじお@の映画館は『アナと雪の女王/家族の思い出』は少々オラフだけの時間が長すぎだと感じました。

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2018年02月18日

『リバーズ・エッジ』

リバーズ・エッジリバーズ・エッジ。そこはこの小さな世界の果て。
岡崎京子先生の原作は読んだことはない。だから1994年に発刊された原作との比較は出来ない。
ただ1990年代に青春時代を過ごした者としては、「失われた20年」が始まった時期を生きた者としては、この群像劇に理解は出来ても共感はしない。出来ないのではない、あえて「しない」のだ。

夜釣りをする2人の少年の会話に「牧瀬里穂」というキーワードを耳にした途端、アラフォーの私は何の抵抗もなく、素直にあの時代を思い出した。
バブル崩壊による急速な景気後退は、大人たちから自信を奪った。その自信を奪われた大人を見て、子供たちは希望を失った。やがて希望を失った子供たちが大人ぶる。暴力、セックス、ドラッグで弱い自分を取り繕う。
だが心が子供のまま。だから弱さを偽物の強さで誤魔化そうとする。それがイジメ、望まぬ妊娠、嫌がらせ、そして殺人へと繋がっていく。そんな時代を思い出した。

1995年の阪神大震災で身近な命に関する認識がリセットされたかと思いきや、オウム真理教関連事件や酒鬼薔薇聖斗事件で他人の命が軽視される蛮行が明るみになったあの時代。誰もが閉塞感に苛まれ、誰もがその閉塞感からの脱却を望みながら、他人を蹴落とすことにその活路を見出そうとしていたのではないだろうか。間違った道だと分かっていても、その道を歩もうとしていたのではないだろうか。

同性愛者であることを隠す山田一郎は、イジメられても抵抗しない。ただ河原に放置された死体を崇め、生きる活力にしている。
過食と嘔吐の繰り返す吉川こずえは、モデルの仕事をやめない。ただ山田と同じく河原の死体を大事にし、心のバランスだけを保っている。
イジメとセックスに生きる観音崎は、偽りの人生しか生きていけない。ただ自分の弱さを認めたくないだけのために、暴力と女を求めている。
欲望のためだけに身体を売る小山ルミは、自由の意味を分かっていない。ただ優等生な自分を保つために、他人を見下す地位を得ようとしている。
山田を一方的に愛する田島カンナは、人を愛する意味を分かっていない。ただ恋する自分が可愛いだけで、そんな自分に酔いしれている。

だがストーリーテラーでもある若草ハルナは、観音崎の彼女でありながら、セックスでは無表情だ。ルミの友人でありながら、いつも一緒にいる訳でもない。山田やこずえと親しくなるも、彼らと同じ様に死体を崇めたりはしない。ハッキリとした自分を表現しないことが、カンナから恨まれることへと繋がってもいく。
そう、ある意味彼女はニュートラルでもあり、自分自身の閉塞感を何となく感じながらも掴み切れていない存在だ。

ただ時折挟まれる、一人ずつインタビューを受けるというシーンを見て分かってくる。子猫の死体を見て泣き叫ぶ彼女が「生きる意味」を問われた時の返答でも分かってくる。この原作が書かれた1994年生まれの二階堂ふみの表情をを見て分かってしまう。

あの頃と今の時代、何も変わっていない。

同性愛への偏見、イジメ、摂食障害、セックス、暴力、望まぬ妊娠、一方的な恋愛感情、そして閉塞感。
「青春」という2文字には、「生きる意味」「葛藤」「欲望」「焦燥」「閉塞感」そして「死」が付き物、いや憑き物だが、それらに真っ向から立ち向かわない者が大人を差し置いて、まるでこの国の文化のようにのさばり始めたのは、あの時代からだったのではないだろうか。

そう思ってしまった時、何ら時代を変えることが出来なかった世代として、この失われた20年の間に生まれた世代に対して少々の罪悪感を感じた。
と同時に、そんな時代を達観したかのように戦おうとしない若者には同情も共感もしたくないと思えた。

なぜなら、あの時代も今の時代も、青春は「平坦な戦場」であることに変わりはないのだから。

深夜らじお@の映画館は二階堂ふみや吉沢亮の文字通り身体を張った演技に敬意を示します。

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2018年02月11日

『ローズの秘密の頁』

ローズの秘密の頁本当の被害者は誰か。
ついにジム・シェリダン監督もカウントダウンに入られたのか。「北アイルランド紛争」を描き続けてきた境地がここに結実し始めているのか。
アイルランドを舞台にしたこの5年ぶりとなる新作は、これまでとは少し違うテイストを含んでいる。それは彼の優しい愛なのか、それとも静かな怒りなのか。

御年69歳のジム・シェリダン監督が描き続けてきた作品には、イギリスの抑圧に苦しみ、抵抗し続けてきた「被害者アイルランド人」の魂や愛、傷などが込められている。

だがこの作品は少し違う。とある老女の記憶を精神科医が紐解くというセバスチャン・バリーの小説を基としているとはいえ、ここで描かれるアイルランド人はヒロインであるローズ・クリアを抑圧する存在。イギリスとの関係で見れば被害者だが、ローズというか弱き女性との関係を見れば完全に加害者だ。

イギリスとアイルランド、カトリックとプロテスタント。この時代のローズが暮らしていた場所は派閥が全て。つまり弱き者がお山の大将になりたがる。人々から自由な言動どころか、思想までもを奪う。

しかし強き心を持つローズは決してその抑圧には負けない。ゴーント神父が権力を楯に言い寄って来ても跳ね除ける。アイルランド派閥に属することを強制する過激派の脅しにも抵抗し続ける。そして酒を出さないカフェの従業員であるローズが、酒を売る仕事をしているマイケル・マクナルティと恋に落ちる。

弱き者は自分より弱い立場にいる人間を従わせることで満足感を覚え、やがてそれが暴政へと繋がっていく。
対して強き者は己が進む道を知り、同じく強き者と惹かれ合い、共に新たな道を歩む。

大切な存在を守るために戦場へと向かうマイケルも、その彼を、いや夫を待ち続けるローズも正真正銘の強き者だ。この夫婦は誰の人生にも干渉しない。誰の記憶にも苦い思い出を作らせない。ただカメラはなくとも、自分たちの心に幸せな時間を焼き付けているだけなのだ。

なのに、嫉妬に狂ったゴーント神父がローズを色情魔として精神病院送りにする。彼女を自分の赤ん坊を殺した殺人者として精神病院に幽閉する。過激派がローズがいなくなった家でマイケルの命を奪う。ただ自分たちの小さな幸せを夢見た2人から全てを奪う。

だが人間にはどんな状況下でも決して奪われないものが2つある。それが知識と記憶だ。それらを精神病院に幽閉されたローズが聖書に綴り始める。夫の死を受け入れても、あの日海岸で産み落とした息子の死だけは絶対に受け入れない想いを胸に、40年掛けて綴り続ける。

その聖書を、いやローズ記を読み解くスティーヴン・グリーン精神科医が辿り着く先は、ある意味予想通りの結果ではあるものの、そこには40年掛けて再会した実の母子の愛だけが描かれている訳ではない。
静かではあるものの、こういった悲しき事例を生み続けた「被害者ぶるアイルランド人」への怒りも見えてくる。

スティーブン・スピルバーグやクリント・イーストウッドと同じく、あと何作撮れるか分からない年齢になったジム・シェリダン監督が今一度「北アイルランド紛争」を見つめ直す。
被害者は時に加害者にもなることが出来る。その事実を忘れて未来へと歩むことが出来るのか。

本当の被害者は誰なのか。その被害者にはまだ救いの手が差し伸べられていないのではないか。
戦争の世紀と言われた20世紀で「被害者」となった世界の国々よ、その事実から目を逸らさないでくれ。

深夜らじお@の映画館はジム・シェリダン監督にはまだまだ元気で頑張っていただきたいです。

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2018年02月10日

『RAW〜少女のめざめ〜』

RAWお食事前には見ないでね♪
カニバリズム:人肉食。これが描かれたホラーと聞けば、多くの方が鑑賞を敬遠されるだろう。
だがこの作品はカニバリズム・ホラーでありながら、強烈でグロテスクで野蛮なイメージを前面に出さずに、逆に見易くて面白いと思える作品だ。
ただこれを見てから食事に行くというのはオススメ致しませぬ。

真っ直ぐに伸びた道を走る車に向かって、物陰から飛び出してくる一人の人物。自殺なのかと思いきや、この人物はかすり傷もなく生きている。しかしこの人物を避けて道路脇の樹木に衝突した運転手は恐らく助からないだろう。
そんな映像が遠巻きで流れるOPから、この作品には従来のホラー作品とは違う空気、まるで全てを第三者の目線で見るような冷静な空気が流れている。

だからこそ、厳しいベジタリアンの家に育ち、神童と呼ばれるほど優秀なジュスティーヌが姉も通う獣医学校に入学してからの、新入生を真夜中に叩き起こし、記念写真前に血糊を頭からぶっかっけ、クラブに行くような衣装で勉学に励めという、ティーンの終わりを迎える若き世代の悪ノリな歓迎儀礼も、普通に見ることが出来る。

ただ真面目で処女でベジタリアンのジュスティーヌにはこの歓迎儀礼がストレスに感じていたようで、全身を掻きむしるほどの蓄積ぶりは少々異様だ。
ちなみに人間にとって「睡眠」「食事」「セックス」が最も効率のいいストレス発散方法らしいのだが、環境が変わったことによる睡眠不足、ベジタリアンであるがゆえの肉食拒否、ルームメイトがゲイであるがゆえの処女生活継続が、彼女を別のストレス発散方法へと誘ってしまうのがこの作品の面白いところ。

特に新入生の通過儀礼であるウサギの生の肝臓を食べることを強要されてからの彼女は、何かと「食べる」ことに固執する。自分の髪の毛を食べたり、それに拒否反応を示せば暴食に走り、そして姉に陰毛処理をしてもらう折の事故でついに禁断の世界へと足を踏み入れてしまう。

偶然にもハサミで切り落とされた姉の中指。ジュスティーヌはそれを眺めたあと、徐に味見してしまう。そして貪るように食べ始める。その光景を見た姉は涙を流すが、それは妹をマトモな世界に戻すための涙ではないことが、姉の部屋にもあった塗り薬の存在で知らされる。

そう、姉のアレックスもジュスティーヌと同じく、この環境下でカニバリズムに目覚めてしまったのだろう。妹と同じ道を歩んでいた姉が、自分と同じ道を歩み始めている妹にカニバリズムの喜びを教え始めようとする。

だがジュスティーヌはそれに抗おうとするが、一度目覚めてしまった欲望を抑えることは容易なことではなく、もはや彼女にとってルームメイトでゲイのアドリアンも食材にしか見えなくなり始めたのだろう。あの鼻血もカニバリズムのヴァージンを失ったメタファーなのだろう。

やがて『ブラック・スワン』のニナの如く、真面目だった頃の自分を見失ったジュスティーヌがアドリアンと男女の関係を持って処女を失うも、それでも彼女が禁断の世界から抜け出すことは出来ない。むしろキスをしてくる男の唇を噛み千切り、姉と文字通りの噛み合う喧嘩をし、さらに酒に酔って記憶を失った彼女が取った屍の腕に食いつこうとする行動が同級生から距離を置かれる要因へとなる。

そして新入生歓迎儀礼が終わりを迎えた日。アドリアンと共にベッドに入っていたジュスティーヌが噛み千切られた足のまま絶命したルームメイトの姿に発狂する。口元が血だらけになりながら呆然とする姉の姿を見て事実を知る。

カニバリズムという禁断の世界に入ってしまった姉アレックスはついに一線を越えてしまった。その事実と自分の秘めたる欲望の狭間で葛藤するジュスティーヌに父親が語り掛ける。

よく見たら唇に大きな傷跡を持つ父親。娘の愚行に悲観しない父親。そんな父親が娘に自分で解決する道を模索するように諭しながら、シャツのボタンを外すとそこには無数の傷跡。
そう、ジュスティーヌのカニバリズムも、アレックスのカニバリズムも、母親からの遺伝だったのだ。

麻薬中毒などと同じく、禁断の世界からの脱却は本人にしか解決できない問題。それを父親が娘に諭す。妻のカニバリズムにずっと耐えてきた父親が。

深夜らじお@の映画館はこういう終わり方をするフランス映画のセンスが好きです。

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2018年01月19日

『わたしは、フェリシテ』

わたしは、フェリシテ現実を愛せよ。さすれば、「わたしは、幸福」と言えるだろう。
セネガル系フランス人のアラン・ゴミス監督がコンゴの首都キンシャサを舞台に描く、現代アフリカの現実と愛と音楽。
ほとんど変化のない表情を貫くヒロインに笑顔と安らぎという「感情」が見え始めた時、改めて「フェリシテ:幸福」の意味と温かさを知る。

一人息子のサモを育てるため、夜な夜なバーで歌うことで生計を立てているシングルマザーのフェリシテは、幼い頃に一度死ぬも棺桶で生き返ったことでカピンガから「幸福」という名前に変わるも、そのほぼ変化のない表情からは彼女に幸せを感じることはない。

むしろ壊れた冷蔵庫を修理してもらうも2週間でまた故障するといった修理詐欺に合うなど、彼女は発展を続けるコンゴ社会が生み出す「現実」に苦しんでいる。

そんなシングルマザーに訪れた悲劇は一人息子の交通事故だけではない。
費用の一部前払いがなければ、手術さえしてもらえないドライな現実。代わりに薬を買ってきてあげると言って老女に金を騙し取られる汚い現実。金を貸した相手に督促をすると罵られる理不尽な現実。そして見ず知らずの金持ちの家でゴネてまで医療費を集めるしかない淋しい現実。

そう、様々な現実が彼女から感情という名の表情を奪っていく。

だが、このシングルマザーは決して絶望しない。子を持つ母親の強さだけではない。彼女のためにカンパをしてくれた優しき音楽仲間がいるからだけではない。タブーという陽気な大男が好意を寄せてくれるからだけではない。

彼女が歌う時に見せるパワー、つまりはこの地に生きる人々に根付く、音楽が生み出すソウルパワーが、例え息子が片足を切断するということになっても、彼女から絶望という2文字を奪い続けているのだ。

だからこの映画では前半の一部以外、彼女がカサイ・オールスターズと共に歌う歌詞が表記されることはない。ただアフリカの音楽が持つソウルパワーを感じさせてくれると同時に、その音楽がアマチュア交響楽団が演奏する音楽:エストニアの作曲家アルヴォ・ペルトの「フラトレス」と同じパワーを持つものだと気付かされる。

そして髪を切ったフェリシテが、片足を失ったサモが、タブーの陽気さに笑顔を取り戻していく終盤。
本来なら悲観するしかない現実にいるフェリシテとサモの表情には希望が満ち溢れている。タブーの陽気さに背中を押されただけではない明るさが満ち溢れている。

なぜ彼女たちにはこんなにも希望が、明るさが満ち溢れているのか。これだけ辛く厳しい現実に打ちのめされても、なぜ笑顔が絶えないのか。

それを具体的に説明することは出来ないが、ただそこにかつての戦後日本も持っていたであろう、現代社会の人間にとっては羨ましいくらいの「パワフルな愛」があるからではないだろうか。
フェリシテもサモのその「パワフルな愛」の存在を知り、受け入れようとしたからこそ、あんなにも明るく希望に満ち溢れ、そして安らぎの表情も見せ始めたのではないだろうか。

現実に不満を抱かぬ人などこの世には一人としていないだろう。
でもそんな現実でも愛する。それが出来る人こそが、「幸福:フェリシテ」を実感出来る人なのだろう。

幸せは歩いてこない。だから歩いて行くんだね。
一日一歩、三日で三歩。三歩進んで二歩下がる。

そんな現実を愛せていますか?

深夜らじお@の映画館にとっては初めてのセネガル映画です。

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2017年12月14日

『リュミエール!』

リュミエール!映画のはじまり、はじまり。
映画の起源でもあるシネマトグラフ。それを発明し、映画の父と称されたオーギュスト&ルイ・リュミエール兄弟が1895年から1905年までに製作した1,422本の作品から厳選された108本で構成された珠玉の90分。
少々玄人向けな内容ではあるものの、50秒ワンカットの映像には今も変わらぬ人々の愛がある。

映画ファンなら誰しもがその名を知るリュミエール兄弟。「動く写真」ことシネマトグラフを興行、つまりは映画に仕立て上げたジョルジュ・メリエスもその魅力に取り憑かれた、わずか50秒しか撮影出来ない作品の数々は、少なからず誰しもが一度は見たことがあるはず。

例えば人類初の映画でもある『工場の出口』は、大きな門が開いたら工場で働いていた人々がただ出てくるだけだが、シネマトグラフが何たるかが理解されていない時代。工場から出てくる誰もがカメラを意識していないところが、まさに時代をそのまま切り取っていると言ってもいい日常風景。

しかもリュミエール兄弟はこの『工場の出口』をリメイクしていたことにも驚き。具体的には工場から出てくる人々の後ろから馬車が最後に出てくるのがリメイク作品なのだが、この馬車が出てくるか出てこないかで、その工場の賑わいも大きく印象が変わってくる。

さらにパリでの有料上映会でも大きな話題となったと伝えられている『ラ・シオタ駅への列車の到着』。観客が本当に列車が自分に向かってくると思って上映会場がパニックになったという逸話よりも、この列車を映す構図についての解説もなかなか面白いこと。

その他にも消防馬車が勇ましく走る風景を始めとするフランスの街並みだけでなく、日本を始めとする世界各国での撮影に加え、リュミエール家全面協力での出演で作られた数々の作品も、どれもが映画ファンならその知的好奇心を刺激してくれるものばかり。

ただ関係者へのインタビューといったシーンもなければ、リヨンの「最初の映画通り」の現風景が映し出される訳でもないこの作品は、全体的には少々単調でもあるのが玉に瑕。
また構図がどうのこうのと玄人向けの解説がメインなので、NHKの傑作「映像の20世紀」を見る感覚で挑んでしまうと、ちょっと睡魔との戦いを余儀なくされるかも知れない。

それでもこの映画を見て思うのは、やはり今も昔も人々はカメラを向かられると笑顔になり、サービス精神が旺盛になるだけでなく、人々が撮りたいとカメラを向ける先にはほぼ家族への愛がそこに存在しているということ。

猫にエサを与える少女にしても、両隣の女の子に葡萄をあげ続ける少年にしても、わずか50秒の世界に様々な愛が見て取れる。
そしてオーギュスト・リュミエールが赤ん坊に食事を与える優しさに満ち溢れた『赤ん坊の食事』、フィルムの巻き戻しを光を当てたままで見せてしまったがために逆再生が魔術のようにも見えた『壁の取り壊し』など、今でいうところのホームビデオを見ているような心が温かくなる映像の数々は、どんなに時代が変わっても変わらぬ市井の人々の日常風景があることを改めて知らされる。

そう、市井の人々の日常風景が愛に満ちている限り、映画は絶対になくならないのだ。

深夜らじお@の映画館はこの作品を、日本での映画発祥の地:神戸で拝見させていただきました。

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2017年08月25日

『ワンダーウーマン』

ワンダーウーマンやっぱり彼女の前ではどんな男も霞んでしまう。ただしスティーヴだけは…違った!
マーベルに押されまくりのDCコミックに救世主現る!もはや男性ヒーローなんて、特にマザコンヒーローなんて大金持ちであろうが、異星人であろうが、彼女のサポート役へお廻りなさい!
全ての敵は彼女が美しくぶっ飛ばしますから!

全能の神ゼウスが息子でもある軍神アレスから隠すように作ったセミッシラ島で生まれ育ったダイアナは生まれた時から男性を見たことがない、女性社会、いや女性戦士社会しか知らない世間知らずのお嬢さん。

しかし男性ヒーローと違って「戦いを無くす」ことを最終目的にしている彼女は実に爽やかで、か弱い訳ではなく男性顔負けの力強さを有してもそれを全面に押し出さず、またテクニックで敵を倒す戦法を重んじる訳でもないのに動き全てが美しく見えるものだから、自然とこれまでのヒーロー映画には存在しなかった「性別を超えた」格好良さに見惚れてしまう。

さらに簡単にセミッシラ世界と現実人間世界を行き来出来るのね…というツッコミを完全無視してダイアナと行動する英国軍大尉でスパイのスティーヴの美しき女性の前では男らしく、また格好良く活躍出来るシーンを尽く省き、代わりにバイリンガル役者、飲んだくれ狙撃手、何でも屋酋長と共にダイアナのサポート役に徹してくれているので、まさに4人の男が担ぐ神輿の上で元イスラエル女性兵でもあるヒロインが大活躍するというアクションシーンがとても心地いいこと。

最前線で機関銃相手に盾防備だけで切り込み、戦車を体当たりで壊しては投げ飛ばし、挙句に敵狙撃手が潜む鐘楼も体当たりで崩壊させる。そのどれもを世間知らずで正義心の強い、「戦いを無くす」ことを目的としたヒロインがやってのけている。これは男性ヒーロー映画では決して味わえない、独特だけどヒロインの純真無垢さが女性の美しさと見事に融合した面白さ。

だからこそ、少々残念に思えるのは男性たちが終わりなき戦争に従事し、リアルな残酷さの中で苦悩・疲弊する隣で、ヒロインが非現実的な理想を追いながら非現実的な敵と空想的な戦いを繰り広げていることに違和感を感じずにはいられなかったこと。

もちろんヒロインが戦争が生み出す残酷さを知って、同時に愛こそが戦争を無くす重要ファクターであると気付くストーリーから必要なミックスだったのでしょうけど、もう少しリアル側に偏るか非現実的な描写に固執するかといった演出があっても良かったのでは?と思ったのも事実。

でも自分は世界を救う能力もないけれど今日を救うことは出来ると、男性器の代わりに説明を施した時計を愛しの女性に渡し、真夜中の大空で毒ガスと共に散ったスティーヴとの思い出を大事にしているダイアナがジョン・ウェインから送られた一枚の写真を見て語るこの昔話はまさに彼女にとっての「愛の物語」。

ゼウスがセミッシラ島に匿った愛人の娘と、理論的には正しいことを言っている腹違いの老けた兄との戦いが正直どうも盛り上がりに欠けようとも、スティーヴ、サミー、チャーリー、チーフと共に映ったあの写真がダイアナにとっては生涯忘れることの出来ない「思い出の一枚」であるという物語。

だからこそ思う。マザコンヒーローたちよりも彼女を中心にしたジャスティス・リーグであってくれと。
そしてロンドンで出逢い、ベルギーで戦った彼女がなぜ今ルーヴル美術館にいるのかを是非続編で描いてくれと。

深夜らじお@の映画館はスパッドの狙撃手としての活躍を見たかったです。

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2017年06月04日

『LOGAN/ローガン』

ローガン谷から銃は消えた。ローガンよ、カムバック!
これがシリーズの最終作なのか。これでウルヴァリンの物語は終わってしまうのか。そう思うと何と淋しいことか。
オーストラリアから出てきた無名俳優時代の『X-MEN』から18年。ついにヒュー・ジャックマンはローガンでもウルヴァリンでもなくなってしまったのか…。

ミュータントが激減し、異常な治癒能力も衰えつつあるウルヴァリンがアルツハイマーを患っている90歳のプロフェッサーXの老老介護をするという前半から漂う、もはやヒーロー映画の欠片もないような、哀しき2029年という現実。

思えばウルヴァリンことローガンは常に孤独を選択し続けた男。常に自分が大切に思う人が不幸になる現実に打ちひしがれ、その現実を避けるように孤独を選んでいた男。そんな彼をチャールズが誘い、ジーンやストームが出迎え、マグニートーが戦いという形で交流を育んできた。

だが今の彼には帰る学園もなければ、彼を出迎える温かな仲間もいない。つまりこの映画で描かれる彼は孤独を選択せねばならない状況下に置かれた存在なのだ。だからより彼の苦悩が濃く描かれる。

そんな彼が否応なしに依頼されたのがローラという新ミュータントの保護と、プロフェッサーXを伴い、少女を「エデン」と呼ばれる場所に連れて行くという、いわば西部劇の逃避行のような旅路。
人間兵器でもある新ミュータントを生み出した悪の組織トランシジェンの追手から命辛々逃げ惑う姿は、もはやヒーローでもなければ、ウルヴァリンでもない。
まさにタイトル通りの「ローガン」という一人の老い行く男の逃避行なのだ。

なので、この映画におけるアクションには華麗さもなければ、力強さもない。獣のような目と威嚇で敵を薙ぎ倒してきたウルヴァリンもいない。
ただただ辛うじて使えるアダマンチウムの爪を駆使して「勝つ戦い」ではなく、「負けない戦い」で生き延びようとする、老眼鏡の似合うローガンの姿しかない。

でもそこに哀愁がある。人間味がある。ミュータントも同じ人間なのだという、シリーズのテーマもある。だから自分の遺伝子を引き継いだローラを守りたいと願いながらも、まともに走れもしない男を応援したくなる。

本来なら様々なミュータントが各々の能力を連携させて戦うこのシリーズにおいて、ローガンはその連携に一切頼らなかった。常に孤独だった男が、孤独を選択せねばならない状況下に置かれ続けていた男が、あえて孤独を選択して挑んだ最後の戦い。
それは恩師チャールズの想いを、自分の爪で殺めたジーンの想いを、孤独な自分を迎え入れてくれた仲間たちの想いを次世代へ繋ぐための、ローガンにしか出来ない戦い。

その戦いに命と引き換えに勝利したローガンの墓に建てられた十字架をローラが斜めに、つまり「X」の形にして去るラスト。
それは一つの時代の終わりに敬意を示すラスト。劇中に『シェーン』を引用しつつも、最も有名な「シェーン、カムバック!」というシーンを引用せずにローガンの結末を示唆した、長年シリーズを見続けてきたファンも受け入れるべきラスト。

そんな切ないラストを見ながらふと思う。

マグニートーはどうした?彼ならこんな状況下でも逞しく生きているだろうと。
せめてその辺りは何かしら描いて欲しかったなぁ…。

深夜らじお@の映画館はやっぱりこのシリーズではマグニートーが一番好きです。

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2017年04月07日

『LION/ライオン〜25年目のただいま〜』

LION/ライオン大好きな兄ちゃんへ、25年目のただいま。
オーストラリアへ養子に出された青年が、インドで生き別れた家族をグーグルアースを使って25年ぶりに再会するという実話。その影にある家族に纏わる様々な覚悟。
事実は小説より奇なりなストーリーに涙するのではない。覚悟を決めた2つで1つの家族の姿に涙するのだ。

面倒見のいい兄と過ごす時間が何よりも大好きな、インドのとあるスラム街で育った5歳のサルー。丸い顔とつぶらな瞳で必死に走る姿がとにかく可愛いくて仕方ないサニー・パワール少年が好演すればするほど気になるのが、ふとしたことから停車中の電車で眠ってしまい、1,600km離れたカルカッタの街で迷子になったはずなのに、なぜか彼は一切泣かないということ。

普通の5歳ならその場で泣き叫び、悲観するもの。けれどスラム街で育ったという点を差し引いても、時に人身売買の魔の手から逃げ延び、時にストリートチルドレン収容の大人たちから逃げ延びても、彼は誰かに助けを求めるでもなく、ただただ大都会で生き続ける。

そんな「強い子」という言葉だけでは説明のつかないサルーが孤児院で5歳にして大きな選択を迫られる。オーストラリアへの養子話を受けるかどうかは、裏を返せばインドの家族とはもう会えないという現実を受け入れること。僅かな希望を自らの手で摘み取るということ。そんな選択を迫られた5歳児の背中がどんなに可哀想なことか。

しかも新しい家族の元でも彼は必死にその現実を受け入れようとする。義弟のマントッシュが精神的に病んでしまうのとは対照的に、彼はインドの家族に会いたいという想いを必死に抑えて、新しいオーストラリアの家族を大切にしようとするその覚悟。何て凄いんだ。

さらに大学に通うようになったメルボルンの友人宅で、兄ちゃんとの思い出の焼き菓子を見て遠い過去の記憶が蘇ると再び迫られる人生の選択。
電車の速度などが分かれば、あとはグーグルアースを使って該当する給水塔のある駅を探せばいいと友人やルーシーは言うけれど、果たしてインドの家族に自分が生きている姿を見せるだけで物事が済むだろうか。

恐らくインドの家族に会えば心が揺れる。インドに住むか、それともオーストラリアに住むか。それはどちらの母親を選ぶかという選択と同じ。せっかく覚悟を決めて養父母と円満な家族になれたのに、大切な家族の気持ちを想うとその覚悟が揺らぐ。5歳にして決めた覚悟が大人になった今、大いに揺らぐ。

でも養母スーの話を聞いてサルーは決心する。偶然が重なりようやく見つけた生まれ故郷に行って母ちゃんに逢いたい、兄ちゃんに逢いたい。インドの家族もオーストラリアの家族も大切にすると覚悟を決めた男が生まれ故郷へ向かう。

しかし生家は今や羊小屋。もう母も兄も妹もこの村を去ったのかと悲観するサルーに救いの手が差し伸べられる。英語が通じるおじさんが案内してくれた先で彼は25年間待ち続けた母との再会を果たす。

ヒンドゥー語と英語で言葉の通じない母子の再会。でも想いは確実に通じている。25年間逢いたいと願い、方々を探し回り、もう会えないと覚悟を決めたはずの母子の再会に言葉はいらない。それを観客の止まらない涙が雄弁に語る。

ただ大好きな兄は既に他界していた。サルーが迷子になった直後に他の列車に轢かれて神のところへ召されていた。
サルーが最も「ただいま」と言いたかった相手がいないという現実。でも覚悟を決めた彼は知っている。兄はいつも自分の目の前で微笑んでいてくれると。だから彼は笑顔で静かに心の中で兄に「ただいま」と言っているはず。

そんな2つの家族を大切にする覚悟を決めた実物のサルーがEDロール前で紹介されると、この小説より奇なりな実話に再び止まらぬ涙を流しながらも、ラストで衝撃の、でも納得の事実を知らされる。
何とサルーは生まれ故郷だけでなく自分の名前すら間違って覚えていたとか。彼の本当の名前はシェルゥ。その意味は「LION/ライオン」。

そうか、だからこそ彼は泣かなかったのだ。親の愛をふんだん受けた名前が彼を獅子のように強い男にして守り続けてくれていたからこそ、彼は泣かなかったのだ。

深夜らじお@の映画館はサニー・パワール少年の愛くるしさを生涯忘れません!

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2017年03月20日

『わたしは、ダニエル・ブレイク』

わたしはダニエル・ブレイク私はダニエル・ブレイク。ニューカッスルの一市民。それ以上でもそれ以下でもない。
引退を撤回してまで80歳の巨匠ケン・ローチが伝えたかったこと。第69回カンヌ国際映画祭ではパルムドールを、第70回英国アカデミー賞では英国作品賞を受賞したこの作品で伝えたかったこと。
それを世界は今忘れているという現状に気付いているだろうか。

恥ずかしながら映画ファンを20年もしていながら、ケン・ローチ監督作品を拝見するのは今回が初めて。

そんなケン・ローチ監督は長編映画デビューから50年もの間、一貫して社会派のテーマを描き続けてきたが、その作品は一見すると本当に地味。しかしそれはシンプルが故に本当に伝えたいことがストレートに伝わってくる構造でもあるのだろう。

この映画の主役でもあるダニエル・ブレイクは心臓の病が原因で大工の仕事にドクターストップが掛かったとはいえ、その存在はどこの国にもいる「コツコツとマジメに働いてきた古き良き隣人」そのもの。
そんな彼が困難な状況に陥った時、妻を亡くし一人で生きていかなくてなならないのに、失職した彼を救うことは誰の責務だろうか。私はそれこそ国家の責務ではないかと思う。

失業手当を不当に得る輩がどこの国でもいるこの時代において、彼は基本的には自分の力で生きていきたいという想いを貫こうとしている。
でも命に代用は効かないからこそ「仕方なく」国の援助を頼ろうとしているのに、そこに立ちはだかるのは福祉制度のややこしい手続き。いや正確にはややこしい手続きをさらにややこしくしている職員たちの給料泥棒的な職務態度。

民間企業に勤めていれば利益追求のために顧客サービスにまで磨きをかけるのは当然のことだが、利益追求を最重要課題に挙げないがために公共サービスの「サービス」という部分の意味合いをすっかり忘れてしまった者たちがいる職場では「顧客」の意味合いさえ忘れ去られてしまっている。

しかもそんな輩が手当支給の決定権まで握っているとなれば、もはやそれは市民を不幸にする悪職でしかない。
特にインターネット環境に疎い世代に対し、用語の説明もせずに使用方法を専門用語を連発して説明するくだりなどは、まさに「顧客」の存在も「サービス」の意味合いも理解していない愚者の行為でしかない。

対してダニエル・ブレイクは2人の子供を持つシングルマザーのケイティを自分が出来る範囲で精いっぱい助ける。生ゴミをいつも玄関前に置く隣人の黒人青年がシューズの輸入販売で成功したいという夢にも出来る範囲で協力してくれる。
それは仕事で言えば「顧客」を満足させる素晴らしき「サービス」であるが、日常生活においては実はそれはごく当たり前の「助け合い」そのもの。何も珍しいものでもなければ、専門用語もいらない誰にでも出来ることでもある。

だからこそ、ダニエル・ブレイクは地味でも格好いい。彼が困っているなら誰でも助けてあげたいと願うし、彼が壁にスプレーで主張を書くのも応援したくなる。そして彼の主張に激しく同調してしまう現状はイギリスも日本も変わらないと痛感してしまう。

私たちが出来ることは隣人に手を差し伸べること。国家が出来ることは弱者に手を差し伸べること。
けれど現実はどうだろう。私たちは隣人に手を差し伸べているだろうか。国家は弱者に手を差し伸べているだろうか。

前者は一人一人の想いを行動に移すだけで実現可能だが、後者はそこで働く一人一人が動かねば実現可能にはならない。
だが共に同じなのは、一人一人が「助け合い」の想いを実行に移すだけの話である。大きくは何も変わらない。

なのに、それが実現されていない現代社会。イギリスも日本も先進国なのに、このままで本当にいいのだろうか。80歳の巨匠が引退宣言を撤回してまで伝えたかったことが、どうか世界に広まりますように。

深夜らじお@の映画館も助け合いの精神を大事にしたいと思います。

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2017年03月08日

『ラビング〜愛という名前のふたり〜』

ラビングただ夫婦として生きていきたい。そう願った「愛」という名前のふたり。
何とも地味な映画だ。でも大人の味わい深い映画だ。既婚者の方がより深くこの映画を堪能出来るのではないかとも思える映画だ。
予告編で見たような劇的展開などは一切ない。けれどアメリカで6月12日が「Loving Day」と語り継がれている理由がここにはある。

わずが60年前。バージニア州では異人種間の結婚が違法とされていた時代に夫婦として生きていくことを貫いた白人男性のリチャードと黒人女性のミルドレッド。

ワシントンD.C.では許される結婚も、故郷であるバージニアでは保安官に逮捕された挙句に留置所に入れられただけでなく、裁判で離婚か25年間に及ぶ州外退去を迫られる。
そんな夫婦はどういう人生を選んだのか。

声高に訴えを起こすこともなければ、予告編で描かれているようなケネディ司法長官に手紙を書いたことで短い時間で劇的に展開が動いた訳でもない。
ただどこにでもいる夫婦のように愛を育み、笑顔で互いを想い、子供を作り、増えていく家族との時間を大切にする。夫は妻を守ると誓い、妻は夫を優しく抱きしめる。

だからこの映画には盛り上がるくだりはほとんどない。
ただ淡々と現状を粛々と受け止めては家族に迫り来る危機に時折肝を冷やしながらも、その現状に泣き叫ぶ姿などは描かない。
ただ普通の夫婦のようにテレビを見ながら笑い、自然と夫が妻の膝に頭を置く。その夫の頭を妻が優しく撫でる。そこにこの夫婦が特別である理由などは一切ない。

マーティン・ルーサー・キングJr.は非暴力不服従の行進をした。マルコムXはその方針に従わない手段を選んだ。それが公民権運動に沸いた1960年代。
だがラビング夫妻にとっては、ケネディ司法長官からの依頼でACLUの資金援助で弁護士と共に連邦裁に訴えを起こすも、連邦最高裁で案件が取り上げられてもその出席を遠慮した時代。

ラビング夫妻は異人種間の結婚を認めてくれとは声高には言わない。ただリチャードは妻を愛している、それを理解してくれと言うだけ。ミルドレッドは夫を愛している、それを理解してほしいと言うだけ。ただそれだけ。

不器用な夫を演じるジョエル・エドガートンの堅物顔がいい。優しい妻を演じるルース・ネッガの澄んだ瞳がいい。
ラストで明かされるライフ誌のカメラマンが撮った写真に収められた本物のラビング夫妻。その笑顔を見事に演じ切ったこの2人だからこそ成り立った映画だ。

そして最後に語られるミルドレッドの「夫は最後まで私を守ってくれた」という言葉に思わず目頭が熱くなる。これが本物の夫婦愛なんだと。
まさに独身者にとっては目標にしたいほどに美しき夫婦愛だ。

深夜らじお@の映画館もいつかは結婚生活を送ってみたいです。

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2017年02月24日

『ラ・ラ・ランド』

ラ・ラ・ランド嗚呼、これが映画だ。これこそが「映画」だ。
ロマンティック、テクニカラー、ミュージカル、アメリカンドリーム、ジャズが口々に語る。これが「映画」だと。こんな恋が羨ましい、こんな愛が美しいと思える余韻が残ってこその「映画」だと。
夢を追い、恋をし、夢を叶え、無言で愛を語る。ラスト15分にその全てが詰まっている。

渋滞で苛立ちが募るハイウェイが人種や性別を問わず大きなミュージカルステージへと変わるOPから、このテクニカラーの映像が様々なミュージカルの名作へのリスペクトを語りながらも綴るガール・ミーツ・ボーイ。

恋の種が蒔かれた冬。偶然の出会いが女優志望のミアの心に忘れられない感動を生む。売れないジャズピアニストのセブへのアーティストとしての尊敬だけではない感動を生む。2人の出会いはまさに本物の感動を知った瞬間だ。

恋の種が芽吹いた春。偶然の再会が互いの想いをタップダンスで語る。自分の店を持ちたいセブは彼女にジャズの魅力を語り、オーディションに落ちてばかりのミアは彼から夢を追い続ける強さを知る。2人の距離が縮まる全ての時間が重なる瞬間を尽く逃すキスではなく、夢のようなミュージカルで描かれる。

恋の芽が育った夏。大人になるという言葉がセブからジャズへの愛を見失わせる一方で、ミアには新たな挑戦という目標を与える。金になる成功を手にした男と金にならない自己満足に気付いた女は、夢を諦めた男と夢を叶え始めた女。プラネタリウムでのロマンティックな恋がその現実を忘れさせようとする。

恋が別の実をつけた秋。一人芝居の失敗に落ち込むミアに夢を叶える好機がセブを介して訪れる。ミアの夢が叶う未来はセブが一人取り残される未来でもあるのに、彼は車を何度も走らせて彼女を立つべき場所に立たせる。彼女を行くべき場所に行かせる。オーディションで歌った彼女の夢の原点を大切にするためだけに。

そして5年後の冬。恋の芽は枯れていた。女優として成功したミアは別の男性と結婚し、幸せな家庭を築いている。そんな彼女が偶然立ち寄ったジャズの店。自分がデザインした「SEB'S」の看板が掲げられた店で彼女は知る。自分が知らないところで、かつて愛した男が夢を叶えていたことに。

そんなミアを舞台の上から偶然見つけたセブが静かにピアノを弾き始める。言葉の通じない者同士の会話がジャズの始まりだと語った彼が彼女に向けてピアノで語り出す、もしかしたら叶っていたかも知れない恋という名の「もう一つの世界」。

その世界では夢も恋も叶えたセブとミアが幸せそうに暮らしている。女優の夢を叶えた彼女の隣には一番のファンである夫がやまない拍手を送り続けている。ジャズピアニストとしての夢を叶えた彼の隣には共にジャズを楽しむ妻が微笑み続けている。

けれど、それはセブが奏でるジャズピアノの音色という魔法が見せる世界。弾き語りの終わりは現実を知らしめる瞬間でもある。恋が温かくした心を現実が冷たくする瞬間でもある。だからミアは去り際にセブを見つめる。かつて愛した男の成功を静かに喜びたいと思いながら。

しかしミアの視線に気づいたセブが彼女を見つめながら静かに微笑む。彼女の成功を誰よりも喜んでくれた彼が微笑む。
その笑みにミアが微笑み返す。彼の成功を誰よりも喜んでいる彼女が微笑み返す。それは枯れたはずの恋が愛へと生まれ変わった瞬間でもある。

チャーリー・パーカーをこよなく愛する32歳のデイミアン・チャゼル監督が愛する映画。それは見終わるとその魔法の余韻がなかなか解けずに幸せな時間がずっと続く夢のような芸術。思い返すだけで幸せになる、ただ歩いているだけなのに「Someone In The Crowd」のリズムに合わせて歩いてしまうような幸せな気持ちになる。そんな観る者全てを恋する者へと変える魔法の芸術。

それが「映画」だ。それこそが「映画」なのだ。そう思える作品に出逢えたのはいつ以来だろうと思えたこともまた幸せな余韻だった。

深夜らじお@の映画館は鑑賞後にどうしてもフォークとスプーンで食事がしたくなりました。嗚呼、これがアメリカ映画に毒された時の快感だ!

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2016年12月16日

『ローグ・ワン/スター・ウォーズ・ストーリー』

ローグ・ワンローグ・ワンよ、無名の戦士たちよ、フォースと共にあらんことを…。
初めてだ。『スター・ウォーズ』サーガで感涙するなんて。まさに『七人の侍』。黒澤明監督を崇拝するジョージ・ルーカスではないギャレス・エドワーズがこんな映画を撮ってくれるなんて…。
未見の方には申し訳ないが、ここからは完全ネタバレで参ります!

『Ep検Э靴燭覆覺望』の前日談であり、シリーズ初のスピンオフでありながら、ジェダイの騎士が全く出てこないこの作品はOPからまさに異例のオンパレード。
「遠い昔、遥か彼方の銀河系で…」の次に始まるはずの宇宙空間をあらすじが行進するお馴染みのシーンもなければ、ページをめくるような場面転換もない。

ただ普通の映画のように物語が紡がれる。だから前半はほぼマッツ・ミケルセン、フォレスト・ウィテカーの渋さを味わい、C3PO&R2-D2に代わるドニー・イェン&チアン・ウェンのコンビを堪能し、C3PO&R2-D2の魅力を独り占めしたK-2SOを楽しむだけだった。

ところがデス・スターの試射によりソウ・ゲレラがゲイリン・アーソの伝言を受け取ったジン・アーソたちを逃してからは、クレニック長官の髪型だけでなく、全ての映像が徐々に『Ep検戮悗閥瓩鼎始めると、不思議と観客のテンションも上がり始めること。

そしてゲイリンがデス・スターに仕込んだ弱点を掴むべく、設計図を手に入れる計画さえも及び腰の反乱軍を横目に集まったならず者たちが決戦の地へと向かい始めると、もはやこのローグ・ワンという宇宙船に乗り込んだ者たちはまさに「侍」そのもの。アンドロイドのK-2SOでさえも「侍」に見えるのだから、もう上がったテンションが下がることは一切ない!

それどころか、ジン、キャシアン、K-2SOが設計図を盗み出し、帝国軍からの脱走パイロット・ボーディーがいつでも発進できるようにローグ・ワンに待機し、チアルートとベイズたちが陽動作戦部隊として動き始めると、もう興奮も止まらない!

ジンとキャシアンの設計図探しの時間を作るべくK-2SOが弁慶の如く討ち死にし、設計図データ送信のための電波準備を完了したボーディーが爆死し、電波スイッチを入れるために命を投げ出したチアルートを想いベイズが弔い合戦に挑む一方で、やっとの想いでジンが設計図データを送信する。キャシアンがクレニック長官からジンを守る。

しかし帝国軍がクレニック長官を見殺しにしてまでもデス・スターの第二試射を敢行すると、もうローグ・ワンも失ったジンとキャシアンに逃げ場はない。その時、改めて気付く。そうだ、彼らは『Ep検戮砲賄仂譴靴覆ぁその理由がこのシーンなのだと。
だから思わず心の中で叫んでしまう。気が付けば感涙していた想いと共に叫んでしまう。ルークよ、後は頼んだぞ!

だが物語はここでは終わらない。ベイダー卿が設計図データを奪還すべく反乱軍の船に乗り込んでくる。ダークサイドに堕ちたとはいえ、最強のジェダイに為す術もない無名の戦士たち。
だが彼らもまた最後まで諦めない。自分が生きて帰れないと悟るとデータを持った者を逃すべく命を賭けて時間を作る。そのデータを持った者さえも生きて帰れないと悟ると僅かな隙間から仲間にデータを託す。託された者は仲間の想いを無駄にしないために、敢えて仲間を見捨てる。そんな彼らの大義のために命を賭ける侍魂を誰が涙なくして見ることが出来るだろうか。

そしてそのデータを受け取ったのはレイア姫。でも若いぞ?EDロールでもキャリー・フィッシャーがクレジットされていたから、多分本物…やね。
いやいや、そんなことなど今はどうでもいい!重要なのは命を賭けて設計図を盗み出した無名の侍たちの希望が次へと繋がれたことなのだ!彼らの死があの『Ep検戮任離妊后Ε好拭芝破へと繋がるのだから、改めて心の中で叫んでしまう。ルーク・スカイウォーカーよ、後は頼んだぞ!と。

フォースは我と共に、我はフォースと共に。

ライトセーバーを使いこなす英雄が出てくる物語でもない。フォースを使って戦うジェダイが出てくる物語でもない。ただ無名の戦士たちが命を賭けて設計図データを盗み出すだけの物語だ。誰も生きては帰ってこない物語だ。
でもその物語に涙した。ジェダイの物語では流したことのない涙が頬を伝った。

ローグ・ワンの侍たちよ、無名の戦士たちよ。フォースと共にあらんことを…。

深夜らじお@の映画館は劇中のセリフで登場した“彼”がヨーダかオビ・ワンかと考えた結果、オビ・ワンだと思うことにしました。

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2016年06月11日

『64-ロクヨン-後編』

64後編そこに意地はあるのか。
これが親の意地なのか。これが刑事の意地なのか。これが地元の意地なのか。
全ては既に始まっていた。全ては既に三上広報官の知らぬところで終わりに向けて進んでいた。
昭和64年のわずか7日間に居座り続けた者たちの意地が語る原作とは異なるラスト。それは覚悟を持った者だけの結末でもある。

「64事件」を模倣した誘拐事件の発生が、あらゆる者を昭和64年へと引き戻すと思われていた前編のラスト。
だが冒頭から不可思議なシーンが次々と挿入される。なぜ雨宮が三上宅へ無言電話を掛けたのか。

東京からやって来た記者たちが落合捜査二課長の会見に怒号を浴びせるなか、それを秋川たち地元記者は黙って見過ごすのは、三上広報官との絆が生まれたが故の地方記者としての意地。
報道とは真実を伝えること。決して社の売り上げに貢献するネタだけを伝えることではないと改心した者たちの忍耐という意地。

一方で東京からの人事で揺れる群馬県警にも意地がある。幸田メモの申し送りに固執する荒木田刑事部長の汚い意地とは違い、松岡捜査一課長の意地はクライマックスになるまでは明かされない。だから捜査の蚊帳の外にいる三上と同じく、観客もまた事件の全体像を見ることが出来ない。

しかし新たな被害者家族である目崎正人が松岡に発した「娘を取り戻してください」ではなく「犯人を捕まえてください」という違和感のある言葉をきっかけに、徐々に様々な者が静かに持つ意地がスクリーンに現れては、「64事件」の真相へと導いてくれる。

精神的にもキツイ会見を続ける落合と共に会見の場を仕切る諏訪へと情報を送る三上が松岡に頼み込んで乗り合わせた捜査車両。そこは目崎家誘拐事件ではなく「64事件」を追う場であったという真実。
ヘリウムガス切れで判明した誘拐犯の声が幸田だと分かった時、彼が真犯人を目崎だと突き止めた雨宮と共に狂言誘拐を企てていたという真実。

そこには公衆電話からの無言電話を電話帳に沿って一軒一軒掛けてきた、唯一犯人の声を聴いた雨宮の親としての意地がある。雨宮と同じく親になり、警察の隠蔽体質にメモを握り潰された幸田の意地がある。
同時に上層部の事なかれ主義に表立った反発はせずに静かに14年間も事件を追い続けてきた松岡の刑事としての意地もある。

だからこそ被害者を装い続けるも証拠不十分で家に帰された「64事件」の真犯人:目崎を誰がどう追い詰めるかというラストは、覚悟もなく張る価値もない意地を張り続けてきた三上が「親の意地」と「刑事の意地」を問われる場でもある。

目崎の次女に接触していながら復讐誘拐を企てることもなかった雨宮。職を転々としながらも決して雨宮への協力を忘れることのなかった幸田。そんな2人に対して自分はどうなのか。松岡から言われた「刑事の目」と娘から嫌われた「刑事の目」はどう違うのか。
それらを静かに自問自答した三上が雨宮や幸田と同じく「親としての意地」で、松岡と同じく「64事件」を忘れられなかった「刑事としての意地」で目崎を追い詰める。

だが三上が辿り着いた結末は目崎の娘の前で親の失態を見せるという残酷なもの。それは「親の意地」から考えれば避けるべき、もしくは場を変えるべきだったこと。

そんな自身の甘さを許せなかった三上の気持ちを秋川が「現職警官の暴行」という記事にする。人情で考えれば後ろめたいことでも、生温い関係を断った警察と記者の間には各々の仕事を全うするという意地を押し通すことこそが互いへの敬意。
だから記者クラブの誰もが三上の挨拶を必要としない。諏訪も覚悟を決めて後任を引き受ける。

そして事件解決後初めての小正月に再会した雨宮は幸田と同じく自首を約束する。雨宮に松飾を返した三上が静かに妻と共に「親の意地」を意味を考える。果たして自分たちには雨宮や幸田のような「親としての覚悟」があったのだろうかと。

不在の三上家に掛かってきた公衆電話の着信。その相手が行方不明の娘でありますようにと願いながら、劇場を出た後に街を歩くとふと気付く。数多いる子供の傍には常に数多の親がいる。数多の親の意地もそこにある。世の中はそんな目に見えぬ意地で保たれていることを忘れた者だけが、いつの時代も罪を犯すのだろうと。

深夜らじお@の映画館もいつか親という意地を持って生きてみたいです。

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2016年05月09日

『64-ロクヨン-前編』

64前編そこに心はあるのか。
何とも日本的な重さが心にずしりと残る映画だ。しかし何とも日本的な感動がじわじわと心に響く映画だ。
まだ事件の核心に迫っている訳ではないのに、それでも一本の映画として十分に成立しているこのクオリティーの高さ。これなら前後編に分けず、一本の映画として最後まで見せて欲しかった!

昭和元年と同じく7日間で幕を閉じた昭和64年。その7日間に起きた少女誘拐及び殺害事件はなぜ時効まであと1年と迫った平成14年になっても解決しないのか。
警察が無能だからか。マスコミが陛下崩御のニュースばかりで事件を報道してこなかったからか。犯人が狡猾だからか。それとも忘却が日常茶飯事となっている日本人らしく、もはや誰も関心を寄せなくなったからか。

日本には「事なかれ主義」という考え方がある。臨機応変に対応するために玉虫色をあえて作るのも、組織を守るために隠蔽工作するのも、どちらも「事なかれ主義」の為す業。
だが「事なかれ主義」には大前提がある。それは守るべき誰かを想い、守るべきものを考える「心」があってこその「事なかれ主義」だ。

雨宮漬物の一人娘が誘拐されたあの日。刑事部の三上が雨宮家に到着するまでに自宅班が犯人の声を録音出来なかったという失態を隠蔽したこと。
記者クラブが実名報道されぬ現状に抗議文を作成したあの日。怒りに身を任せ、三上広報官の話をよく聞きもせず、「警察は信用できない」と記者たちが連呼したこと。
そこに果たして「心」はあったのだろうか。

もし「心」があったというならば、なぜ失態の隠蔽を決めた漆原だけが警察署長の椅子に座り、幸田は仕事に困り、日吉は引き籠り、柿沼は無精髭を生やしているのか。
もし「心」があったというならば、なぜ記者たちは被害者が色弱だったということさえ取材出来ず、警察の情報隠蔽だけに怒りを表したのか。

責任者とは何か。上司とは何か。それは部下を有能に導く存在。ゆえに無能とレッテルを張られた部下の上には無能な上司しかいない。
マスコミとは何か。報道とは何か。それは真実の追求と選択肢の増加を担う存在。ゆえに決して正義の代行者ではないことを忘れてはならない。

昭和64年のあの7日間に取り残されている者はいったい何人いる。被害者遺族、事件を追う広報官、事件を忘れられない元警察関係者。果たして彼らだけだろうか。
逆にあの7日間に取り残されている今の警察幹部はいったい何人いる。恐らく誰もいないだろう。犯人もまたあの7日間に取り残されているという事実を知るまでは。

人が人を信じる時。それは言葉ではなく心で語る時。
一人で何もかも背負い込もうとする三上広報官を諏訪、蔵前、三雲の3人が心で語る。
一方的に敵と決めつけていた相手を信じた三上が記者たちの前で心で本音を語る。
行方不明の娘の気持ちさえ気付かなかったダメ親父の三上が心で引き籠った日吉に「君のせいじゃない」という手紙を渡す。

三上が被害者の霊前で涙したあの日から、遺族の雨宮芳男が心を開く。三上の心が動く。記者たちの心が変わる。この映画にようやく人の心が映し出される。
頭を下げる理由が謝罪だけでなく、感謝や敬意に変わった時、広報室と記者クラブの間に取材ボイコット取り下げという結果と共に心と言葉の交流が生まれる。

しかしまだ肝心の事件にはほんとど足を踏み入れていない。そんな状況下での新たなる誘拐事件の発生。その手口が「64事件」と酷似している現実。
「64事件」を知る全ての人間が再び昭和64年へと引き戻されるその先に何が待っているのか。それを後編公開まで待たねばならぬとは何とも酷な事か。

深夜らじお@の映画館も「心」で語ります。6月11日まで待てぬ!!

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2016年04月22日

『レヴェナント:蘇えりし者』

レヴェナント復讐は神の手に委ねる。ゆえにそれまでは己の力で生き延びよ。
こんな映画を作られたら、世界中の才能が嫉妬を超えて失望するではないか。
バジェット、アイデア、センス。その全てが潤沢であるがゆえに、隙のない演出が自然光に拘ったカメラワ−クと共に「壁を超えた先にある新しい世界」を見せる。
これが「新しい映画」なのか!

かつて坂本龍一と共に映画を作り上げたベルナルド・ベルトルッチや大島渚といった多国籍映画の代表者でさえも辿り着くことが出来なかった境地。
それはバジェットの少なさがアイデアやセンスに天井を設けてしまうB級映画の欠点と、バジェットの潤沢さが作り手からB級映画魂を枯渇させてしまうメジャー作品の欠点を克服した時に見えてくる「新しい映画」。

一息つく時間さえ与えない演出を2時間37分も続けるアレハンドロ・ゴンザレス・イニャリトゥと、登場人物の息遣いでカメラが曇るほどにまで近づいたり、無感情な大自然を俯瞰で大いに見せたりするカメラワークを駆使するエマニュエル・ルベツキは、まさにこの境地に辿り着くことが出来たのではないだろうか。

PVのようなセンスが輝く映像で語られるグラスの心象風景、戦争映画のような緊迫感を長回しで見せる原住民族との戦い、地に這うような高さでひたすらその場を離れずに見せ続けるグリズリーに襲われるグラスの生々しさ、そしてグラスが生き延びる白銀の荒野が見せる様々な無感情な表情。

映像は白銀の世界を映しているだけに真っ白ではあるが、映画は様々な演出と人工では表現出来ない自然光のおかげで実にカラフルな印象を観客に与える。
ゆえにこの映画は息子を殺されたグラスがフィッツジェラルドに復讐するラストまではサバイバル一色なのに、不思議とこのまま復讐シーンがなくても納得出来る感情さえ生まれてくる。

それはこの映画のテーマが復讐でもサバイバルでもなく、大自然の力の前では人間の行いなど所詮非力なものであることを描いているからかも知れない。
大自然の中で生きる者は人間であろうと動物であろうと、どんな行いをしようと数日、数ヶ月、数年後には大自然の力によって何もなかったかのように消し去られてしまう。
グラスが匍匐前進するたびに映る倒木であっても、グラスが幾度となく焚いた火の跡であっても、グラスを助けてくれるもフランス人によって吊るされた原住民の遺体であっても、グラスが暖を取るために内臓を取り除いてはその体内に潜り込んだ馬の亡骸であっても、そしてグラスとフィッツジェラルドが争った時に残った両者の血痕であっても、それらは大自然によっていつかは消し去られるものばかり。

しかしそんな大自然の中で我々は生きている。命が終えるその日まで生きている。それをこの映画はセリフでは一切説明しない。
ただグラスの息遣いでカメラが曇るという映像で表現する。言葉にならない嗚咽や息遣いといった音で表現する。それらはどれも血の通った人間と接すれば、誰もが無意識に感じる「生きているという証」。

瀕死の状態から蘇えるも亡き妻と交信するかのような夢を見ながら生き続けているグラス。いわば生と死の世界に片足ずつ置いた存在である男が復讐の結末を神の手に委ねたラストは、亡き妻の姿を見たグラスの表情では終わらない。真っ暗なスクリーンにグラスの息遣いだけを残して終わる。彼は生きているという証を残して終わる。それがこの映画がどれだけ生命力に溢れた作品であったかを示して終わる。

バジェットが少ないならアイデアやセンスで勝負する。しかしそれには限界がある。
バジェットが潤沢ならアイデアやセンス以外でも勝負出来る。しかしそれでは映画本来の面白味に欠ける。
もしバジェットが潤沢で、かつアイデアやセンスで勝負出来るなら、そこに限界はあるだろうか。そこに映画本来の面白味はどれだけ詰まっているだろうか。映画人なら誰もが望むその壁を超えた先には何が待っているだろうか。

それを知っているアレハンドロ・ゴンザレス・イニャリトゥとエマニュエル・ルベツキの2人が作り上げたこの映画を見て、我々は何を思い、何を感じるだろうか。
レオナルド・ディカプリオの熱演だけを感じる程度ではない、まさに事実上の今年のオスカー作品である。

深夜らじお@の映画館はセリフなしでの過酷な一人芝居に挑んだレオナルド・ディカプリオのオスカー受賞に文句なし!です。恐らくAGI監督からは過酷な演出を言い続けられていたんだろうなぁ〜。

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2016年04月08日

『ルーム』

ルーム初めて空の大きさを知った時、世界はジャックのルームになる。
2006年生まれの9歳児、ジェイコブ・トレンブレイ。何て凄い子役、いや俳優なんだ!まさにこの映画のために生まれてきたような少年にこそ、オスカー女優になったブリー・ラーソンも霞むほど輝いていたこの俳優にこそ、今年のアカデミー主演男優賞は輝くべきだった!

7年前に誘拐されて以来、今年で5歳になる息子ジャックと共に納屋に住まわされているジョイ。腕時計のアラームを活用していることからも彼女はこの監禁場所から抜け出すことを諦めておらず、またジャックが起床すると鉢植えや椅子など全ての家具に「おはよう」と挨拶させることからも、息子の教育にも諦めは微塵も見えない。

ただ生まれた時から納屋という「ルーム」しか知らないジャックにとって、ルームにあるものが世界の全て。TVで見るものは全て造り物と教えられているからこそ、逆に外の世界は宇宙空間と同じで怖いという認識しかない。

しかし発熱作戦の失敗を経て死んだふり作戦の成功で外の世界、特に天窓でしか見たことのない空の大きさを初めて知って以来、ジャックの「ルーム」が崩壊、いやリセットされてしまう。

初めて感じる高層ビルの病室から見た高いという恐さ。初めて出会う母親やオールド・ニック以外の人たち。初めて見る新鮮なフルーツ。
マスコミ対策のため母親の実家に移り住んでも、そこはジャックにとっては親しみのある家具という友達もいない「ルーム」。全てが新鮮でなく、全ては初めてで怖いものでしかない。それらが5歳児を心の殻という「ルーム」に閉じ込めようとする。

一方、ジョイも奪われた7年という貴重な時間で変わってしまった両親の関係、友人との距離に悩み、そしてマスコミの心無い質問で心の殻という「ルーム」に閉じ籠ってしまう。外の空気を吸えば少しは解決したかも知れないが、世間の好奇の目が彼女を心身ともに「ルーム」に閉じ込めては、彼女に自殺未遂という道を与えてしまう。

ところがこの不幸な一件によりブリー・ラーソンがスクリーンからしばらく退場してしまうと、それまで「ルーム」に閉じ籠っていたジャックが母親から教えられた「髪にはパワーがある」という言葉を信じながら、「ルーム」から出ようとする。

そんな勇気ある5歳児を支えてくれたのがワンクッション置いた関係でもあるレオ。ジョイの母親ナンシーの新しい夫である彼がユーモアと愛犬シェイマスでジャックを自らの意志で「ルーム」から出させようとする。
それは様々な経験による子供の成長と片付けるにはあまりにも勿体無い、ジャックが母親の知らないところで必死に闘う姿。その雄姿に観客も髪を切ってくれたばぁばと共に思わず涙してしまう。

あの納屋が世界の全てだったジャックには今、アランという友達がいる。一緒に料理をするばぁばがいる。シェイマスと一緒に遊んでくれるレオがいる。そしてパワーを宿す髪を送って元気になったママがいる。
そんなジャックがママにお願いする。あの「ルーム」に行ってみたいと。

かつて祖母に隅っこが見えないほど広いと自慢していた納屋は、心の「ルーム」からも抜け出したジャックには信じられないほど狭い空間。しかもドアがなければそこはルームでもない空間。

けれど鉢植えや椅子1号2号、洋服ダンスなどに「さようなら」と挨拶するジャックを見て気付かされる。彼は「ルーム」から抜け出したのではない。彼の「ルーム」が納屋から母親の実家を経て、「世界」へと広がっただけなのだと。
ドアも壁もない、本当に隅っこが見えないほど広い「ルーム」。その「ルーム」で彼はこれからも走る回るのだろう。様々な友達を増やしていくのだろう。数えきれないほどのリアルを知っていくのだろう。

初めまして、世界。

これからジャックが何度も経験する「初めまして」に彼の成長を嬉しく思うラストシーン。

ナレーションもこなすしっかりしているけど可愛らしい声、我慢強さの陰に淋しさを隠す表情、そしてオスカー女優の霞ませる等身大の演技力。
アメリカにはこんなにも凄い子役がいるのかと驚きつつ、もし彼の今後の人生に悪影響が及ばない未来が存在するのであれば、是非この少年にこそ今年のオスカー像は渡って欲しかった。そう思えてならないほど、ジェイコブ・トレンブレイくんに泣かされた映画でした。

深夜らじお@の映画館は子供の成長がこんなにも素晴らしいものだと改めて気付かされました。

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2016年03月23日

『リリーのすべて』

リリーのすべてどんなに頑張っても男は女にはなれない。そして敵わない。
世界で初めて性別適合手術を受けたデンマークの画家アイナー・ヴェイナーことリリー・エルベと、彼から彼女へと変わりつつある夫への愛を貫き通した妻ゲルダ・ヴェイナーを描いたこの作品を見て思うこと。
それは女性が持つ美しさと強さを男性は永遠に得ることが出来ないからこそ、そこに永遠に切ない物語が存在し続けるということ。

風景画家で草食系男子のアイナーと、人物画を得意とする社交性に富んだゲルダ。互いにその才能を尊敬し、浮気心など微塵も存在しない本当に仲のいい夫婦。

ところがゲルダがアイナーにモデルの代役を頼んだことをきっかけに、ドレスやストッキングを身に纏ったアイナーの中で眠らせていたものが徐々に目を覚ましていくと、さらに女装してパーティに参加してみるというお遊びが奇しくもアイナーの理性というタガを外してしまったが如く、一気にアイナーは女性になりたいという想いが膨れ上がってしまう。

一方でゲルダにとっては、トランジェンダーに理解のない時代であっても、人物画を専門にしてきたからこそ相手の真意を見抜く力もあったのでしょうけど、それ以上に愛する夫には自分らしく生きてほしいという想いからも彼の女性化を認めるという強さは尊敬に値するもの。

ただアイナーがリリーという女性になればなるほど、アイナーが消えていく。それはアイナーとゲルダという夫婦の関係がリリーとゲルダという親友の関係になってしまうということ。つまり夫の肉体はこの世に存在しても、夫の魂も愛もこの世には存在しなくなってしまうということ。
いくら夫が妻への愛は変わらないといっても、リリーがゲルダに向ける愛は夫が妻に向ける愛ではない。それでもゲルダが夫に向ける愛は変わらないなんて、本当に女性は何と強いことか。

ですから個人的にはエディ・レッドメインが繊細で切なささえも感じる見事な演技を見せてくれればくれるほど、この映画がリリーの苦しみよりもゲルダの愛と強さを描いた作品に見えてしまうのです。

もちろん私自身がトランジェンダーでないうえに、ウォシャウスキー姉妹の妻たちがどういう経緯で夫の性転換を受け入れたのかということにも興味があったのですが、それでも変わりゆく夫に複雑な想いを抱きつつも最後まで浮気一つもせず、それどころか願いが叶うもわずか数日で女性としての生涯をも終えてしまった夫を風に飛ばされるストールを眺めながら想うなんて…。あんなにも一人の異性への愛を貫く強さは男性にはどんなに頑張っても得ることの出来ないもの。男性が貫く愛の強さとは全然違うんですもん。

思えば男性なら誰しも一度は経験したであろう、女性体になってみたいという願望も突き詰めて考えてみると、それは女性が持つ美しさへの羨望。
ただでさえ形容しがたい美しさを持つフォルムを、さらに美しい様々な服装で飾り、メイクで染めていく。逆にいえば着飾った女性の美しさは脱がすとまた別の美しさへと変化する。そんな永遠に失われない女性ならではの美しさもまた男性にはどんなに頑張っても得ることの出来ないもの。

それでもその強さと美しさを得ようと奮闘している人たちが今もこの世界にいる。
そしてその先駆けがリリー・エルベであり、そのリリーが憧れた女性像こそがゲルダ・ヴェイナーだったのではないでしょうか。

アイナー・ヴェイナーにとっての全ては愛する妻ゲルダ・ヴェイナー。
リリー・エルベにとっての全ては憧れの女性ゲルダ・ヴェイナー。

そんなゲルダ・ヴェイナーを演じたアリシア・ヴィンキャンデルがオスカーを手にしたのもある意味納得でした。

深夜らじお@の映画館も女性の強さと美しさには感服してしまいます。だからおっぱい星人になってしまったのかも…。

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2015年11月25日

『ラスト・ナイツ』

ラスト・ナイツ騎士道で武士道を描く。これが世界を知る日本の魂。
日本映画界のしくじり先生こと紀里谷和明監督の実力がいよいよ発揮される時が近づいてきたのではないでしょうか。
もはやマスターベーションな映画を撮っていたのは遥か昔。モーガン・フリーマン殿下の優しき言葉に導かれた紀里谷和明監督の次回作が楽しみになってきましたよ。

ご自分の趣味嗜好ばかりを優先したがために日本映画界から嫌われ者となった紀里谷和明監督を救ったモーガン・フリーマン殿下の「LISTEN:他人の話を聞きなさい」という言葉がここまで作風を変えるのかと思うほど、紀里谷監督のいい部分が凄く目立っていたこの作品。

「忠臣蔵」をただのサムライ・リベンジ・ストーリーとして描いただけの『47RONIN』とは違い、騎士道と武士道の通ずる部分を核にしながら、随所に討ち入り時期と同じく静かに舞う雪、矢頭右衛門七教兼と同じく若さゆえにメンバー入りを躊躇われたガブリエル、犬公方により抱き犬として飼育された狆の登場、ソードアクションではなく殺陣として描くなど、「忠臣蔵」や元禄時代を学んだ日本人なら気付く細やかな演出も見事なこと。

そして出演者やスタッフにも「忠臣蔵」の真意を理解させたのか、討ち入りを復讐劇ではなく美徳を貫く男たちの美しき行為として描いているので、やはり自然とクライマックスの討ち入りシーンは興奮度も上がるもの。

ただ世界に「忠臣蔵」の魂を理解させるために噛み砕いて描いたことが逆に薄っぺらく感じられたりしたのは残念なところ。まぁ脚本家がカナダ人なので仕方ないのかも知れませんし、撮影や衣装なども含め全体的にスタッフも俳優陣ほどの実力者を揃えることが出来なかった弱さがあちらこちらで見えたのも、紀里谷監督の頑張りが見えるだけにちょっと残念でもありましたね。

それでもアン・ソンギ先生の静かな存在感もさることながら、クリフ・カーティスの印象深い副官ぶりといい、アクセル・ヘニーという新たなる悪役俳優の魅力といい、そしてクライヴ・オーウェンとの渋さ対決でも堂々と渡り歩いた伊原剛志さんの魅力といい、これまでの紀里谷和明監督作品にはなかった俳優陣の魅力をスクリーンに映し出すという紀里谷和明という映画監督の魅力もこの作品には詰まっていることが楽しいこと。

恐らくアメリカでアートを学んだものの、それが日本映画界批判に繋がってしまい、しくじり先生として辛い時期をも経験した紀里谷監督は、「忠臣蔵」のような世界にも通ずる魂を持った日本の作品を、元ネタを知らない世界の人々にも理解してもらえるようにアレンジする作品を撮った方が成功するのではないかと思うのです。

日本の魂を知る者にしか描けない日本の物語。
それを世界に発信し理解させることは世界を知っている者にしか出来ない。

ハリウッドでの評価が低かろうとも紀里谷監督はこれから大いに化ける可能性のある監督だと信じたい。
モーガン・フリーマン殿下もそう感じたからこそ、紀里谷監督に優しき言葉を投げ掛けたのではないでしょうか。

深夜らじお@の映画館は紀里谷和明監督の未来に幸あれと願います。

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2015年07月22日

『リアル鬼ごっこ』

リアル鬼ごっこ「リアル鬼ごっこ」ではない。「シュール・ランニング」だ!
鬼ごっこなんてこれっぽちもしていない。原作も完全無視しているらしい。でもこれが園子温監督作品。エロとグロを混ぜ合わせた先に大いなる皮肉と実験的成果をもたらす、エキセントリックな園子温監督らしい作品。
ただ園子温ファン以外には一切オススメ致しません。

女子高の修学旅行バスが鎌鼬のような謎の旋風によって上下真っ二つにされるグロ満載の導入から、懐かしい園子温ワールドと共に必死こいて走るトリンドル玲奈の頑張りが妙にリアルで面白いこの作品。

いったい何に追いかけられているのか分からない恐怖と辻褄の合わない世界観の急な変更がよりミツコの不安を掻き立てる一方で、ワカメちゃんパンツのような分かり易いパンチラ満載で女子高生たちのふてぶてしさを描く園子温監督はやはり女性を憎みながらも愛する恐妻家。可愛い女の子は好きだけどふてぶてしい娘にはお仕置きを!とばかりに、女子高生たちの笑顔と惨殺される姿をとにかく描く描く。

しかも三池崇史監督への遊び心も復活したのか、『神さまの言うとおり』を彷彿とさせるような女性教師によるマシンガン惨殺劇があれば、まるで戦争映画のように戦場と化した校庭で女子高生たちを走らせる面白さ。

さらにミツコが交番へ駈け込めば、ミツコは結婚式間近のケイコへと変更。トリンドル玲奈も篠田麻里子に変更。でも惨殺されたはずのアキが再登場で世界観の急な変更理由も納得。そうか、これは仮想現実なのね。

そうなればJKランナー・トリンドル玲奈・ミツコがウェディングファイター・篠田麻里子・ケイコになったのも、その後にまた世界観の変更でマラソンランナー・真野恵里菜・いづみになったのも、要はゲームキャラを変更したのと同じこと。

となると、どの世界でも表れてはミツコもケイコもいづみも助け、最後には赤と青の線を引っ張って自分を引き裂けと言ったアキはまさにトリニティーでありモーフィアスでもある存在。

そしてこの「リアル鬼ごっこ」が立体ゲームであると判明したラストで登場するのがNTR俳優として昨今騒がれているS藤工。しかもこの俳優さんにまさかの白ブーメランパンツ一丁で布団からお誘いを掛ける演技をさせるとは…。あまりにもシュールすぎるぜ!

ブタのお婿さんがいづみの世界でも無意味なバク転をしてから女子高生ランナーたちに横蹴りをかますとか、ケイコの結婚式でなぜか女性ばかりの参列者が全員下着姿になるなど、『愛のむきだし』のようなB級テイストで彩られたこの園子温監督らしい世界観。

まるで「オラオラ、気合入れて走らんかい!後ろを走るADに追い付かれたらスタッフ全員の前で恥ずかしいことさせるぞ!そのためにK本雅樹先生にも声掛けてんねんぞ!「高校教師」第3弾に出演決定か?どの役かは分かっとるやろな!」と言わんばかりにトリンドル玲奈さんに追い付かれたら私の人生終わる!という表情をさせながら、ひたすら走らせたその手腕。
さすが我らが園子温監督です!

深夜らじお@の映画館は実験的なこういう作品を撮る監督には敬意を表します。

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