映画レビュー【アニメ】

2019年03月09日

『スパイダーマン:スパイダーバース』

スパイダーマンスパイダーバースヒーローを救うヒーロー映画、ついに現る!
ヒーローはいつだって孤独だ。愛する人を失った悲しみを背負いながら、何度も立ち上がり悪と戦わねばならない。なのに、時には世間からの間違った批判にも耐えねばならない。たった一人で。
だがそんな時代はついに終焉を迎える。アメコミをそのまま映画化したようなこの作品によって。

ピーター・パーカーを失った世界で一人の黒人少年マイルスが苦悩する。警官の父親から受ける多大な期待と、優しい叔父に見守られながら開花させたい絵の才能と、放射能蜘蛛に噛まれたことで制御出来なくなった自分自身のパワーに。

だが自分への失望で死んでしまった妻と息子を生き返らせたいがために時空を歪めようとするヴィラン:キングピンや女性版ドック・オクによって存亡の危機に陥った世界は、そんな少年を待ってはくれない。ヒーローを失った世界はこのまま滅んでしまうのか。

しかし時空が歪められたことによって、様々な世界で活躍していたスパイダーマンたちが少年のいる世界に迷い込んでくる。いわゆるパラレルワールドだ。

MJと離婚した中年太りのピーター・B・パーカーに白いフードを被ったスパイダー・グウェン、モロクロ世界からやってきた渋めのスパイダーマン・ノワール、中国訛りなのに日本人機械系女子高生のペニー・パーカー、そしてなぜかアニメの世界から木槌を持ってやってきたブタのスパイダー・ハムは、自分達が元々いた世界に戻ると共にキングピンの野望も阻止しようとするが、違う世界からやってきた彼らはフルパワーを出せない。

だからキーパーソンにもなるマイルスのヒーローとしての才能開花が待たれるが、信頼していた叔父がヴィランのプラウラーだっただけでなく、キングピンによって命を奪われたことで、マイルスは自信をも失ってしまう。

けれど、そこでマイルスは知る。ピーターもグウェンもノワールもペニーもハムも大切な人を失っていたことを。なのに、孤独に耐えながら戦い続けていたことを。そしてそんな状況下でも何度も立ち上がってきたことを。

父親の想いを知った少年が、ヒーロー仲間の苦悩を知った少年が、スパイダーマンの遺言を誰よりも守りたいと思っていた少年が、ついに自分自身に決断を下す。自分が何をすべきかという決断を下す。

透明になることが出来るだけでなく、電流まで使いこなせる黒を基調とした新スパイダーマンは、木槌をくれた仲間を、愛用ロボットを失った仲間を、ルービックキューブを気に入った仲間を、自分の失態で変な髪型にしてしまった仲間を、そして愛する妻への想いに気付いた仲間を元の世界に帰すために、ついにヒーローとして立ち上がる。

ヒーローは遅れてやってくる。だがヒーローは自分を信じて任せてくれたその想いを決して裏切らない。仲間の、父親の想いをパワーに変えて、間違った愛に走るヴィランを倒し、世界を救うために。

そんな新スパイダーマンの活躍を、まるで仮面ライダー大集合のような楽しさを兼ね備えたスパイダーマン大集合の活躍を、この映画はアメコミ風な吹き出しやコマ割りと共に手描きとCGのタッチを巧く組合せ、映画を見ているようでコミックを読んでいるような、いや動くコミックを見ているような不思議な感覚で思う存分に楽しませてくれる。これがたまらなく新鮮で、楽しくて、興奮せずにはいられないのだ。

そしてサム・ライミ版だけでなく、アメイジングなスパイダーマンにも敬意を払ったこの映画は、スパイダーマングッズを売っていたスタン・リーの言葉で終わりを迎える。

困っている人がいれば迷わずに助けに行くのが真のスーパーヒーローだ。
ありがとう、1人じゃないと分かったから。

アベンジャーズもそうだが、ヒーローはヴィランだけでなく自身の孤独や世間からの無理解とも戦いながらしか存在出来ないものだと思われていたが、決してそうではない。
ヒーローだって救われてもいいじゃないか。いや救われるべきではないか。

困っているヒーローがいれば迷わずに助けに行くのが真のスーパーヒーローだ。

なのに、EDロール後の映像がまさかまさかのスパイダーマン同士の指差し応酬による情けない喧嘩で終わるなんて…。
これもソニーピクチャーズアニメーションなりのジョークですか?

深夜らじお@の映画館は多種多様なスパイダースーツを地下に隠し持つメイおばさんがアルフレッドに見えてしまいました。

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2018年10月24日

『若おかみは小学生!』

若おかみは小学生!花の湯温泉のお湯は、誰も拒まない。全てを受け入れて癒してくれる。
自然に流れる涙を拭いながら、つくづく思ってしまう。このタイトル、何とかならなかったのか!子供向け、特に女子児童向けのタイトルでは、多くの大人は足を運ばないよ!と。
これは大人の心を揺さぶる、愛すべき我らがマッドハウス作品だ。

対向車線にはみ出したトラックとの接触事故で両親を亡くした少女:おっこ。だが彼女は温泉旅館を営む祖母に引き取られるため、両親との思い出が詰まった我が家を出る時から全く涙を見せない。「いってきます」と我が家を去ったのに、悲しい顔も全く見せない。

本来なら昔から旅館に住み着く幽霊のウリ坊や美陽、邪鬼の鈴鬼との交流が始まるまでは気が滅入っているのが一般的な少女の精神状態のはずなのに、まるで何も気にしていないかのように平然としている。
それどころか、成り行きとはいえ、祖母の旅館「春の屋」の若女将としての奮闘も始まると、明るく前向きに仕事に打ち込む。

しかしその若女将としてお迎えする3組のお客様との交流が徐々に彼女の本当の精神状態を明かしていくのだが、一般的なこの手の作品と比べると、これが結構地味にヘビーな出逢いばかり。

例えば母親を亡くした神田あかねのくだり。両親を亡くしたおっこからすれば、あかねはまだマシな方、いや羨ましいとも思えるはずなのに、このお客様のために彼女はご要望のケーキに代わる露天風呂プリンの制作に奮闘する。
だがこの時に分かる。おっこは両親の死をまだ受け入れていないのだと。

次に出逢ったグローリー・水領は彼氏にフラれたばかりの占い師だが、おっこの気遣いと明るい性格を気に入り、歳の離れた友人としての付き合いを申し出てくれる。
ただそんな水領と買い物に行く道中でおっこがPTSDを発症する。現実を受け入れていない少女が現実を受け入れねばならない時が徐々に迫ってくる。
けれどおっこは若女将としての「おもてなし」の心を優先して、再び自分の心に蓋をしてしまう。

そして足を怪我した木瀬一家との残酷な出逢い。ライバル少女のピンフリこと真月とのいがみ合いや仲直りを経て、最高のおもてなしを施した相手が、こともあろうに自分の両親を死に追いやった相手だと知った時、おっこの目の前から消えていく両親の姿。

しかもこの現実を受け入れなければならない時に、おっこにはこれまで支えてくれたウリ坊や真陽、鈴鬼の姿が見えなくなり始めているという、さらに残酷な状況がとても子供向けの作品とは思えないほどに重いこと。

でもここで気付かされる。おっこは様々な出逢いを経験し、「春の屋」でおもてなしの精神を理解し、そして両親から受けた数多の愛を思い出しながら、この若女将としての修業に励んできたのだと。

だから彼女はこの残酷な出逢いを経ても、見事にトラウマを克服する。両親の死を受け入れてなお、若女将として木瀬一家を迎え入れる。木瀬文太の「お嬢ちゃんは良くても、俺がいたたまれない」という言葉に、「花の湯温泉のお湯は、誰も拒まない。全てを受け入れて癒してくれる」という両親から受け継いだ言葉で返す。
その年端もいかない少女の大きな成長に、思わず温かい涙が流れてしまう。

またこれまでおっこを支えていた見えない存在のウリ坊や美陽、鈴鬼から、グローリーや真月といった現実世界にいる者がこのタイミングでおっこの支えになっていく過程も、これまた涙腺を刺激してくれる。

誰の人生にも必ず大切な人との別れは来る。その別れを受け入れねばならない時も来る。
けれど誰の人生にも必ず新たな出逢いは来る。何事にも代え難い素敵な出逢いが来る。

それらはいったい誰が教えてくれるのか。自分の人生を振り返れば、特に大人なら誰でも分かるはず。
両親が教えてくれた。近所の大人が教えてくれた。学校や職場の仲間が教えてくれた。

自分を愛してくれる人が教えてくれた。
それがあゝ、素晴らしき哉、人生。

だからこそ、やはりつくづく思えてしまう。このタイトル、何とかならなかったのかと…。

深夜らじお@の映画館は上映が終わる前にこの作品をもっと多くの「大人」に見てもらいたいです。

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2018年08月04日

『インクレディブル・ファミリー』

インクレディブル・ファミリー家事!育児!算数!反抗期!世界の、ヒーローの、家族の危機!
これぞピクサー流ファミリー映画のあるべき姿だ!真骨頂だ!
社会の移り変わりを巧く物語に取り込んだ素晴らしさが、14年ぶりの続編なのに物語は前作から4ヶ月後からという違和感さえ全く気にさせないこの面白さ。
これこそがアニメ映画の最大の強みなのだ!

地下から現れた難敵アンダーマイナーの進行を食い止めるべく、家族総出で大活躍するインクレディブル家とこの家族のピンチにはいつも駆けつけてくれるフロゾンにとって、目下最大の問題は法律と世間がヒーロー活動に好意的ではないという現実。

だがヒーローなくして歴史が成り立たないアメリカにはもちろんヒーローの復活を望む人たちもいる。それが通信業界の大企業デブテックを運営するウィンストンとその妹で開発担当のイヴリンであり、彼らの支援によりヒーローが活躍する様を世間にアピールするという新たな作戦が始まるというのもいかにも現代的なら、この大事な任務を任されるのがヘレンであり、一方で夫のボブは家に残って家事と育児にあたるというのも、女性の社会進出と男性の家事参加が当たり前になった、いかにも現代的な風景。

またヘレンが大活躍して世間から持て囃されても、母親として気になるのは家族のこと。逆にボブが家事に育児に失敗を重ねることで、徐々に気付いていくことは男性としての自尊心よりも父親としてあるべき姿がいかに大事かということ。

だからヘレンは家のことをボブに任せて、でも仕事は男性に任せずイヴリンと共に謎めいた敵スクリーンスレイヴァーを追う。
一方でボブはダッシュが苦手な算数にも真正面から向き合う。同級生との恋路に悩むヴァイオレットを支えたいと父親なりに悩む。そして予測不可能なスーパーパワーの持ち主でもあるジャック・ジャックの世話に神経と体力を擦り減らす。

そう、女性の社会進出が当たり前になるということは、逆に男性の家事育児能力の向上も当たり前になるということ。これはヒーロー家族だけが特別ではない現代の宿命。

ただこの映画はそんな現代的な家族の在り方を描く一方で、現代的なヒーローに対する考え方に対しても一石を投じている。それが真犯人イヴリンのヒーローに任せて自分たちは何もせずに文句ばかり垂れる世間に対する怒りだ。他力本願がまかり通る社会への怒りだ。

そんな怒りに対してピクサーは、ヘレンだけでなくボブもフロゾンもマインドコントロールされた状況下で活躍するのは両親から「さすが我が子だ」と育てられてきた子供たちという展開ではなく、「家族の物語なんだから、当然活躍するのは家族全員」という答えを示す。

各々が各々の能力を最大限に発揮する活躍で連携することで危機にあたる。オムツを叩くと目からビームがビュン!ビュン!ビュン!のジャック・ジャックも含めた家族5人と、フロゾンを始めとするヒーロー仲間全員が活躍してこその映画だ!とばかりに、クライマックスには末っ子のお守と両親のサポートをするヴァイオレットとダッシュがいる。真犯人を追うヘレンとヴォイドという女性スーパーヒーローたちがいる。豪華客船を救うべく影の活躍に徹するボブとフロゾンがいる。

自分がヒーローとしてどう活躍したいのではない。自分がヒーローとしてどう活躍するのかが大事なように、自分が親としてどうありたいのではなく、自分が親としてどうあるべきなのかを模索し続けることが大事。

そんなメッセージが込められたこの作品は、まさにファミリーの映画。だからそんな家族の大活躍に見入ってしまう。心が踊ってしまう。面白くて興奮が止まらなくなってしまう。

そしてエドナ・モードも大のお気に入りになった未知数のスーパーパワーを持つジャック・ジャックをもっともっと見たくなる。アライグマと本気の喧嘩をする可愛さをもっと見たくなる。

その影響だろうか、映画を見終わってから街中で見掛ける乳母車に乗った幼児たちが全てジャック・ジャックに見えてしまう。
そう、この世界はジャック・ジャックで溢れているのだ!

深夜らじお@の映画館はやっぱりフロゾンとエドナ・モードが登場するとテンションが上がります。

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2018年06月17日

『ニンジャバットマン』

ニンジャバットマンこの素晴らしき暴走ぶり。さあ、どう評価する?
よくぞDCコミックがこんな企画を許可したものだ!よくぞワーナーブラザーズがこんな映画を製作したものだ!そしてよくぞ神風動画がこのような素晴らしき映画を撮ってくれたものだ!
荒唐無稽でクレイジーな展開が怒涛の勢いで咲き乱れる。たったそれだけの85分。でも傑作なのだ!

「ジョジョの奇妙な冒険」のOPを手掛けた水崎淳平氏が監督を務めた本作は、バットマンやジョーカーといったゴッサムシティでお馴染みの面々が戦国時代の日本にタイムスリップするというストーリーながらも、そこから予想されるストーリーには決して収まらない展開が次々と繰り広げられる。

例えば尾張を拠点にするジョーカーに対し、ペンギンは甲斐、ポイズンアイビーは越後、デスストロークは陸奥、トゥーフェイスは近江に拠点を置くとなれば、それぞれに当てはまる戦国大名を日本人なら誰もが思い浮かべるはず。
特になぜトゥーフェイスが近江なのかは、歴史とトゥーフェイスのキャラクターを思い浮かべると確かにピッタリなのだから、これはまさに日本人にこそ楽しめる作品でもあるのだ。

また21世紀の便利グッズが使えなくなったバットマンを支える飛騨の蝙蝠忍者衆と共に行動するレッドロビンやナイトウィングは誰が見ても赤影や青影である一方で、レッドフードは虚無僧で2丁拳銃、ロビンと子猿モン吉との友情が最後にちょっと泣けるなど、キャラクター造形にも手抜きが一切ない。

さらに極めつけは、やはりゴッサムの悪党どもが各地に築いた城が変形して大型ロボットになって戦いを繰り広げるうえに最後は合体するというクレイジーな展開に対し、バットマン陣営はゴリラグロッドの猿部隊が連携して巨大猿を構成するわ、そこに蝙蝠部隊が加勢して巨大バットマンを構成するといった、もはや常識無視で奇想天外、荒唐無稽の一言では表現出来ないほどの驚愕シーンがてんこ盛りなのだ。

つまりこの映画は、何の説明もなくゴリラグロッドのタイムスリップが発動されるOPから、観客にあれこれ考える暇も、また休む暇も与えることなく、最初から最後まで怒涛の勢いで、ともすれば暴走一歩手前の勢いで突っ走る作品なのだ。

だから荒唐無稽を受け入れることが出来ず、説明を求めてしまう方には向かない作品だが、アメリカの本家がシリーズ化に成功したマーベルに対し劣勢にあるなか、続編など作る気なしでの一本勝負だ!と言わんばかりの勢いで、ベインの扱いも「どすこい!」だけで十分やねん!の潔さを携え、マーベルどころか、アメリカでも絶対に作れない領域へと昇華させたこの素晴らしさは、映画好きやアニメ好きには必見の作品だと断言出来るだろう。

バットマンシリーズをかじっている者が作った作品ではない。バットマンシリーズを知っている者が作り上げた作品だ。

ハーレイ・クイーンとキャットウーマンの対決もいい、いつの時代でも変わらぬアルフレッドの執事ぶりがいい、皆に支えてもらっているだけで主役に収まっているバットマンの隠れた情けなさも本家と変わらずでいい、そしてジョーカーがバットマンを「バッツ」と呼ぶ壊れぶりもいい。

劇画風に見せるだけでなく、唐突に絵巻物風に見せる演出など、一切の無駄がない85分に驚き、見入り、笑ってしまう。

これがジャパニメーションだ。これが日本の才能だ。これが日本映画の魅力だ。

そんな言葉を並べても言い尽くせないこの面白さ。是非劇場にてご覧あれ!

深夜らじお@の映画館は八手観音に変形する双面城がバカバカしくて好きです。

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2018年05月06日

『リズと青い鳥』

リズと青い鳥リズと青い鳥。ずっとずっと一緒だと思ってた。
京都アニメーションを代表するアニメ作品「響け!ユーフォニアム」の第二楽章であり、スピンオフであり、美しく切ない青春映画であり、完成度の高い吹奏楽映画でもあるこの作品を見て思う。
この素晴らしき作品を見逃さなくて良かった。演奏で涙する感動を知ることが出来て良かったと。

北宇治高校吹奏楽部でオーボエを担当する鎧塚みぞれは他人との交流が得意ではない物静かな少女。その長く伸ばした黒髪は彼女の実直さを、白い靴下は自分を持たぬ、誰かに染められる性格を表している。

フルートを担当している傘木希美は明るく活発で誰からも慕われる少女。その歩く度に躍動するポニテは彼女のフットワークの軽さを、黒い靴下は自分の意見を持った、誰にも染まらぬ性格を表している。

対照的でありながら親友でもあるこの2人。だがTVアニメを見ていた方は憶えているだろう。希美は1年生の時に練習に不真面目な3年生に反発して退部し、滝先生の顧問就任で息を吹き返した吹奏楽部に復帰を望むも、みぞれの精神状態を考慮してコンクール終了までそれが叶わなかったことを。

みぞれは唯一の親友である希美を友情以上の感情で見ている。だがそれは愛情というよりも一方的な依存。だから希美が自分の全てである彼女には童話「リズと青い鳥」でのリズの気持ちが理解出来ない。大切な人と別れるという決断をする気持ちが理解出来ない。

一方で希美はみぞれを親友として大事に想うも、決して特別扱いはしない。みぞれの友情以上の感情にも応えない。ただひたすら親友が自分以外とも交流を持つことを待っている。だから本当は分かっているはずなのに認めたくない「とある事実」から無意識に目を逸らしている。

「リズと青い鳥」を演奏するためには、みぞれのオーボエと希美のフルートの掛け合いが重要なのに、2人の気持ちの僅かなズレが音に現れてしまう。
それをトランペット担当の高坂麗奈にみぞれは指摘されてしまう。その高坂麗奈とユーフォニアム担当の黄前久美子によるセッションに、希美は自分たちの心のズレを認識させられてしまう。
そしてみぞれは新山聡美先生から音大進学を勧められ、希美はそのことに静かに嫉妬してしまう。

ただこの映画は、そんな徐々にすれ違ってしまう希美とみぞれをとても優しく描く。
特に個人的に好きだったのは、みぞれを心配する吉川優子と見守るだけにしている中川夏紀の部長副部長コンビの描き方。TVアニメを見ていた方ならこの2人の性格を知っている分、希美とみぞれだけではない、この3年生4人の「本人の前では言葉にしない」優しさ溢れる友情をより楽しめるのではないだろうか。

だからこそ、リズの気持ちだけではなく、青い鳥の気持ちを知ったみぞれが演奏する「リズと青い鳥:第3章 愛ゆえの決断」に誰もが心を震わせ、涙するだろう。
大切だから、ずっと手を握っていたい。けれど本当に大切だから、その握った手を解かなければならない。そのみぞれの精一杯の決断が宿った演奏はまさに圧巻という言葉でしか表現出来ない。

だが「愛ゆえの決断」をしたのはみぞれだけではない。親友と自分との実力の差を思い知らされた希美も同じく精一杯の決断をしている。
ただ彼女は演奏では表現しない。いつも通りの明るい笑顔で表現する。だから図書館で借りる本が小説と過去問題集というシーンはとても切ない。

人は皆違う魅力を持っている。だから性格の差を実感させられる。才能の差を痛感させられる。でもその差を受け入れ、愛することが最も大切なこと。

みぞれの白い靴下は何でも描くことの出来るキャンバス、でも何を描いていいのか迷うキャンバス。
希美の黒い靴下は描ける色が限られているキャンバス、でも何を描くかを決めやすいキャンバス。

そんなメタファーを感じながら思う。
いつか希美が髪を下ろし、みぞれが髪を括ってポニテにした時、この2人はどんな笑顔で語り合うのかと。
きっと今までの2人が見たことのない笑顔がそこには咲き乱れるのだろう。

でもそれは希美とみぞれが高校を卒業して、別々の人生を歩み始めてからのお話。
この映画では描かれない、この映画を見た方の心の中で描かれるお話だろう。

深夜らじお@の映画館はあえて「リズと青い鳥」の童謡シーンはセリフなしで見せるという演出でも良かったと思います。本田望結嬢の素晴らしき一人二役には驚きましたけど。

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2018年03月16日

『リメンバー・ミー』

リメンバー・ミー音楽が繋ぐ、時を超えた家族愛。
第90回アカデミー歌曲賞に輝いた「Remenber me」をあのタイミングで聞かされると、もう誰もが涙腺を決壊せざるを得ないではないか。誰もがそれぞれの亡き家族を思い出し、共に暮らす家族を、離れて暮らす家族を想わずにはいられないではないか。
嗚呼、このポスターに描かれた家族愛を思い出すだけで涙が…。

音楽好きな少年ミゲルの曾々祖父が家族を捨てて音楽で生きる道を歩んで以来、家族の中では一切音楽は禁止とはいえ、祖母以降はその曾々祖父を知らぬのに、そこまで憎むかの如くの対応や反応は如何なものかと思える前半は、安易な設定のおかげか、少々期待外れかと思ってしまうほど。

ただ死者の国に出入国管理局を設けるという、ちょっとお茶目で、でも生者と死者の境界線を分かり易く描いているあたりから、この映画はストーリーでは「死」を描いておきながら、映像では確実に「生」を描いているところが素晴らしいこと。

特にそれが強調されているのがマリーゴールドや日の出を始めとするオレンジ色。温かみのある色調はもちろん「生きている」温かさを表現する一方で、この映画のテーマでもある家族の温かな「愛」もきちんと表現している。
使い魔や花火など、随所にカラフルさが目立つ映画に仕立て上げてはいるものの、このオレンジ色の使い方だけは終始一貫している。

だからこそ、白を基調とした衣装を身に纏うエルネスト・デラクルスがミゲルの曾々祖父ということに、若干色調的な違和感を感じる。
でも強気なイメルダ曾々祖母にはこんなマイペースな夫が似合うものかなと思わせておいての、まさかまさかのヘクターが…というくだりには驚かされるものの、イメルダが夫が奏でる音楽に合わせて歌うのが好きだったという言葉がそこで妙にしっくりくる。

つまり、どんなに強気な女性でも愛する男を想い、歌う時は乙女になる。そこに優しい男が愛を音楽で奏でる時、白い骸骨にも感情という色が観客の目には見えてくる。それこそが人間が本来持つ「愛」という温かさを表現したオレンジ色の効果だろう。

なので、クライマックスでの悪玉との対決は、まさに家族の絆を裂こうとする「一家の敵」との対決だ。家族総出での大一番だ。
その結末が導く、ミゲルが元の世界に戻ってからの課せられた使命も、まさに家族を守るための戦いだ。

死者の国でも誰にも思い出されなくなった時、2度目の死がやってくる。肉体の死ではなく、心の死だ。それだけは絶対に回避しなければならない。大好きな家族が大好きな家族は、例え自分が知らない祖先でも大事な家族。絶対に忘れないで。
ミゲルのそんな想いで奏でられる「Remenber me」は、オレンジ色の効果も大いにあってか、もう涙が止まらない。

確かに「This is Me」も素晴らしい楽曲だ。けれど映画本編との相乗効果は圧倒的に「Remenber me」の方が上なのだ。誰もがあの歌に、あの歌詞に、それぞれの家族との思い出に浸るのではないだろうか。

どこの家族にも死はやってくる。でも新たな命の誕生もやってくる。生物学的な別れはあっても、精神的な別れは生きている者が覚えている限り、永遠にこない。
それを私たちは「家族愛」と呼ぶのだろう。

深夜らじお@の映画館は『アナと雪の女王/家族の思い出』は少々オラフだけの時間が長すぎだと感じました。

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2018年02月15日

『ぼくの名前はズッキーニ』

ぼくの名前はズッキーニ大人が絶対に忘れてはいけない愛が詰まった66分。
これは大人が見るべきストップモーションアニメだ。大人が見なければならない秀逸なる映画だ。
実写では絶対に描けないこの温かさと繊細さ、そして淋しさと希望に満ちた笑顔。ぎこちない動きも、個性的な大きな瞳も、陽の光が優しく包んでくれる演出に涙が止まらない。

第42回セザール賞で最優秀脚色賞と最優秀長編アニメーション賞を受賞しただけではなく、第89回アカデミー賞第74回ゴールデングローブ賞にもノミネートされ、世界中から愛されたこの素晴らしき映画。

『ウォレスとグルミット』に代表されるような、被写体である人形を少しずつ動かしながら、24コマで1秒という気の遠い撮影作業の末に完成するストップモーションアニメ作品は往々にして子供向けの作品が多いが、この映画は明らかに大人向けだ。それはこの作品がズッキーニを始めとする子供たちにしか焦点を当てていないことでもよく分かる。

例えばOPでのズッキーニは狭い屋根裏部屋で凧と空き缶だけで遊んでいる。凧は若い女を追って出て行った父親、空き缶は飲んだくれの母親を示していることからも、この9歳の少年は人知れず孤独と必死に戦っている。そしてこの凧と空き缶が彼にとっての両親であり、心の拠り所でもある。それは大人だからこそ、心に刺さるシーンだ。

一方で事故とは言え、母親を死なせてしまったがゆえにズッキーニが引き取られた施設には、同じような境遇の、同じ世代の子供たちがいるが、原案も手掛ける女流監督クロード・パラスは、そんな子供たち同士の争いはほぼ描かない。
孤独や淋しさ、親に甘えたい気持ちと必死に戦う姿、つまりは自分自身と戦う姿しか描かないのだ。

だからこの施設にいる子供たちは共に遊び、共に助け合う。自分が一番不幸ではないと分かっているからこそ、家族でもある仲間をとても大切にする。カミーユを虐待する伯母から救う作戦もその一つだろう。

でも雪山で遊んでいた彼らがふと母親に甘える子供を羨ましそうに見るシーンが心に突き刺さる。人形だけを見れば無表情なはずのに、既に感情が、魂がこの人形たちに宿っているからこそ、そこに大人の心に突き刺さる感情が如実に見えてくるのだ。

だがその逆もある。カミーユとの小さな恋を育むズッキーニがどんどん可愛らしく見えてくる。入所時にお世話になった警察官のレイモンとの交流も温かな希望を感じさせてくれる。シモンを始めとする仲間との数々のエピソードも心温まる。
そう、この映画には誰からも愛されていない子供はいないのだ。本当の親からは愛されていなくても、この施設で出逢った新たな家族から愛されている子供たちしかいないのだ。

だから警官とヒーローが抱き合うシーンがより涙を誘う。カミーユと一緒にレイモンの養子になると決まったズッキーニにシモンが贈った言葉に涙が止まらなくなる。

「俺たちのために」

幸せになる仲間は去っていく家族。幸せになっていく家族が自分にとっての希望になる。それは自分自身と戦っている小さな戦士にとっては、これ以上とない心の拠り所。だから施設の玄関先でみんなで撮った写真は間違いなく「家族写真」だ。

シモンが競争だと皆を煽りながら最後に施設の門を閉める兄貴分的な優しさ。レイモンがカミーユのために部屋を与えてくれる親心。ズッキーニがシモンに手紙を送る家族愛。そして新しい命の誕生に子供たちが注ぐ愛。
それらは子供たちにこの世界でひとりぼっちじゃないよと教えてあげる、本来なら大人が率先してしなければならない「愛の伝達」作業であり、大人が絶対に忘れてはいけない愛なのだ。

深夜らじお@の映画館はこの映画を見ながら姪っ子ちゃんたちのことをもっと大事にしたいと思いました。

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2017年08月20日

『打ち上げ花火、下から見るか?横から見るか?』

打ち上げ花火青春の苦みが失われた打ち上げ花火。下から見る意味も横から見る意味もない。
あぁ、これは残念なリメイクだ。ただの数ある薄い青春映画の一本でしかない。珠玉の作品ではなくなってしまっている。
その理由はこの作品のタイムリープ色を強調しすぎたこと。強調すべきはそこではなく、青春の苦みだったはずなのに…。

オリジナルでは小学生だった典道やなずな。ところがこのアニメリメイク版では中学生に変更はされているものの、ストーリーやキーとなるセリフは変更されていない。
だから自然と違和感のあるシーンが続く。例えば、中学生にもなって花火が平べったいのか丸いのかと議論するのはどやねん?など。

これらは全て小学生だから許容できる会話であり、祐介がなずなの約束をすっぽかすのも素直になれない小学生ならまだしも、相手を思い遣る年齢に入り始めている中学生では正直「子供」ではなく「ガキ」にしか見えない。
そう、このリメイクは設定変更で既に大きな失敗をしてしまっているのだ。

なので、この映画で描かれるのはオリジナルと同じ「小学生が苦しむ青春の傷」なのに、それを中学生の物語で描いてしまったいるがために違和感が生まれ、逆に本来必須のはずの共感が生まれにくい状況になってしまっている。
そうなると当然ストーリーには入り込めない。映画にも入り込めない。なぜならこの映画は「誰かの青春の1ページ」であって、「自分の青春の1ページ」と何ら関わり合いを持たないからだ。「あぁ、この気持ち分かる…」といった共感が少なすぎるからだ。

だからオリジナルを見た30〜40代のオッサンたちがピュアな気持ちに戻って作品の良さを語るような、「ひと夏の思い出」「叶わぬ恋の記憶」といった岩井俊二作品独特の良さもない。

そうなると打ち上げ花火を「下から見るか?」「横から見るか?」という意味合いも、ただの事象にしかすぎなくなってしまっている。そこに込められた青春の苦みや喜び、悔しさ、無力感、怒り、美しさ、悲しさが希薄になっているのだ。

せっかくこのリメイク版でも「Forever Friends」を流し、時代錯誤と分かっていても「観月ありさ、好きだ〜!」だけは変更しなかった素晴らしさが、ガラス玉のなかに「if」を、町の名前を「もしも:茂下」にしての「if〜もしも〜」への遊び心も、これでは逆に勿体ないとも感じてしまう。
しかもそのくだりが夜の学校プールではなく夜の海というのも残念無念。海では忍び込んだという背徳感や罪悪感もなければ、それらを異性と共有する青春ならではの思い出にもならない。プールで人生の分岐点を迎えた典道となずなだからこその夜のプールだったはずなのに…。

てな訳で「物語シリーズ」の声優さん多数出演という状況がそう感じさせるのか、何となく身内だけで満足するような作品にしてしまったような、勿体ないアニメリメイクでした。

深夜らじお@の映画館は川村元気P印のアニメ作品とは相性があまり良くないようです。

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2017年07月10日

『メアリと魔法の花』

メアリと魔法の花ジブリの看板が重ければ、新たにポノックの看板を背負えばいいじゃない。
スタジオジブリの製作部門が一旦解散になったとはいえ、まさにまんまスタジオジブリの作品どころか、既視感だらけの前半に萎えて欠伸まで出るも、EDロールではスタジオジブリの作品らしい「あの感情」が蘇ってくるとは…。
これは評価が分かれますな。

まるで『風の谷のナウシカ』を見ているような躍動感あるOPから感じる、純度100%とも言うべきスタジオジブリの世界観。登場人物の動きといい、燃え盛る火の手といい、勢いよく成長する木々といい、そのどれもがまさにジブリ作品。いや正確に言うと「ジブリ作品で見てきた」、まさに既視感だらけのシーンばかり。

しかもメイちゃんに似た髪型のメアリに、彼女が引っ越ししてきた家には老婦人とバーサさんと思えるようなシャーロット伯母様とバンクスさんコンビ。さらに目つきの悪いジジのような黒猫ティムに、ハクのような顔をしたトンボではなくピーター。加えて塩沢ときさんのような風貌ながら存在感は湯婆婆のようなマダム・マンブルチュークに、釜爺のようなドクター・デイ。
そう、キャラクターまでも既視感だらけなので、とにかく前半は新鮮味以上に監督の個性すら感じることが出来ない時間が続くこと。

また「いつモップにまたがるんやろ?」と思わせるメアリの魔女っぷりに加え、ラピュタのようなエンドア魔法大学、巨神兵を連想させるような木偶の坊たち、ヤックルのようなカモシカ、タタリ神のような変身魔法失敗で生まれたアメーバと、様々なシーンでも既視感は続く続く。

だからこそ、あまり印象が強くないストーリーもこんな既視感だらけの世界観ではさほど入って来ない。どこで盛り上げるかというシーンもこれまでのジブリ作品を見ている者にとっては簡単に読めるので、逆に盛り上がりにも欠けてしまう始末。

結局、ひょんなことから一時的にとはいえ魔女になれた少女が大切な人を守るために、最後は自分の力で生きていく素晴らしさを知る、ジブリ作品によくあるストーリー。

けれどEDロールでふと気付く。「物語を堪能して心が温かくなったと同時に、物語が終わる淋しさが主題歌をより印象的に感じさせる」というジブリ作品独特のこの感覚。あぁ、久しぶりだなぁ〜と。

そして、また気付く。
そうか、米林昌弘監督や西村義明Pには「ジブリ」という大きく重すぎる看板ではその素晴らしき才能は活かせないのだと。だから実質ジブリの看板をポノックに架け替えただけにしか過ぎないとはいえ、その重圧から彼らを解き放つことでこの作品は生まれたのだと。

そう思うとEDロールで一際目立った「感謝:高畑勲 宮崎駿 鈴木敏夫」という部分に様々なものを感じずにはいられない。
ジブリで培った世界観を新たなレーベルで残す決断をしてくれたこと、独立したばかりのスタジオに日テレや電通といった大手企業と組ませてくれたこと、自分たち若手アニメーターに様々な夢を与え続けてくれたこと。まさに色んな意味での「感謝」があったのだろう。

そう思うと感慨深い作品ではあるものの、やはりそれでもまだまだ米林昌弘監督や西村義明Pの個性が弱いこの作品を見て思う。メアリの泣くシーンをあまり重要視しないこの作品を見て思う。
メアリはツインテールよりもポニテが似合ってるのに、なぜそれが帰路につくシーンだけなのかと!もっと高畑勲先生、宮崎駿先生、鈴木敏夫先生のように自分たちの女性の好みを作品の投影させなはれ!

深夜らじお@の映画館はツインテールよりもポニーテール派です。

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2017年04月28日

『SING/シング』

SINGシング家族のために歌え!
ミュージカルの面白味が詰まっているアニメーション作品だ。次々と披露される歌声に心まで踊る作品だ。でも物語の中心にいるコアラがどうしても邪魔に思えて仕方ない作品だ。
既に続編の製作も進んでいるのも納得の面白さが全て主役でない動物たちによってもたらされているのがちょっぴり勿体無い作品だ。

ポイントカードの有効期限云々の問題解消のために急遽拝見させていただくことになったこの映画は、まさに評判通りの『ズートピア』の世界観にミュージカルを当てはめたような、これぞ多人種国家アメリカならではの作品。

しかも窃盗団ボスをパパに持つ内気な青年ゴリラ、25匹の子育てと構ってくれない旦那との生活を変えたいママブタ、才能のない彼氏にフラれたハリネズミ女子高生、自分の実力を見せつけたいだけの傲慢ネズミ、自分でも嫌になるほど消極的な乙女ゾウのそれぞれの悩みを描きつつ、彼らが決して現実逃避から歌を好むのではなく、現実を変えたいがために歌に賭けるという設定も面白いこと。

だからこそ、きちんと青年ゴリラにはパパと向き合ってほしいと思う。主婦業に専念するママブタなんて見たくないと思う。ハリネズミ女子高生の才能が開花してほしいと思う。傲慢ネズミのご自慢の実力を見せてみろと思う。乙女ゾウが殻を破る瞬間を見たいと思う。
そう、この映画には歌に人生を賭ける動物たちがどれも魅力的で応援したくなるのだ。

なのに、ストーリーテラーでもある劇場主コアラと来たら、これがとにかく魅力に欠けること。
もちろん劇場復活のためにあれこれ企画するバイタリティも、あちらこちらに出向く行動力も、隣家から電気を盗む度胸も凄いとは思うものの、やはり彼の行動には劇場に対する本物の愛が見えてこないのが淋しいところ。

幼き頃に経験した感動を!と言っている割にはトト少年のような愛がないので、父親への感謝の気持ちも言葉だけに聞こえて残念なこと。
だから劇場が崩壊しても空き地を野外ステージにしてという展開になってしまったのも、物語としては盛り上がるものの、やはりトト少年のような劇場愛がないのは残念でならない。

加えて家事をダンスに見立ててダンサーブタと共に見事なステージを披露したママブタだけが洋楽で、後は全員邦楽かい!というのも残念。吹替版なんだから、せめて全員邦楽でいいやんと思うんですけどね〜。

そしてブタのコンビネーションダンス、立ち上がれゴリラと脱獄パパの親子愛再構築、オリジナル曲で恋のリベンジ完了のハリネズミの針針フラッシュと来て、実力派歌手ネズミもとい山寺宏一先生の熱唱でボルテージが最高潮に達してしまったがために、自分を開放した乙女ゾウの熱唱であまり盛り上がれなかったのも残念。歌が上手すぎるっていうのも罪なのね、山寺宏一先生…。

てな訳で賞金額でダマした動物たちに助けられ、パトロンにと口説き続けたマダムに劇場用地の再取得で助けられと、カメレオンおばあちゃん助手の世話以外はただ助けられてばかりのコアラ支配人。
中でも彼が一番感謝しなくてはならないのは、やっぱり羊の親友でしょう。洗車の乾燥作業を手伝ってくれただけでなく、劇場崩壊後は再開の世話までしてくれた挙句、劇場再開のためにAD作業まで全てこなす親友。彼無くしてこの野外ステージの成功はありえませんで!

深夜らじお@の映画館は傲慢ネズミの山寺宏一先生の熱唱だけは何度も聞きたいと思いました。

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2017年01月13日

『傷物語 冷血篇』

傷物語冷血篇これは傷物になった者たちの物語。けれどその傷物が化物に繋がる物語。
なるほど、あの伝説の吸血鬼キスショット・アセロラオリオン・ハートアンダーブレードはこのようにして幼児体型にならざるを得なかったのか。阿良々木暦の血を吸わねばならない理由もこれか。
不思議と「化物語」が違った印象で読みたくなる物語だ。

なぜフルパワーのキスショット・アセロラオリオン・ハートアンダーブレードがドラマツルギー、エピソード、ギロチンカッターに負けたのか。その理由は忍野メメが彼女の心臓をこっそり盗み取っていたから。
その問題が解けると新たな問題が発生する。阿良々木暦が吸血鬼眷属から人間に戻る以前に、キスショット・アセロラオリオン・ハートアンダーブレードは人間を食べないという確約がどこにも存在しないということ。

伝説の吸血鬼と先日まで高校生だった眷属の間に芽生えた友情は所詮阿良々木暦の人間視点から見た友情であるならば、そこに人間を食すという吸血鬼本来の行動は無視される。
一方でキスショット・アセロラオリオン・ハートアンダーブレードという吸血鬼視点から見れば、そこに人間を食すという行為は人間が牛や豚を食べる行為と同じでしかない。

だから阿良々木暦は悩む。自分が安易なお人好し精神で瀕死の吸血鬼を助けたがために、自分の知る近しい人たちの命が危険に晒されることに。
自分が戦ってきた3人の男たちの方が冷静に世の中を憂いていたことに。
自分の命を以て償うしかないほどのことを自分が知らず知らずにしでかしていたことに。

ただ恋心が友情止まりから一歩も前に進めない羽川翼が阿良々木暦の背中を押す。命を以て償うのではなく、命を賭けて償う。それが逃げない選択だと。自分が阿良々木暦に求めている選択だと。

その愛情にほぼ同義化している友情に阿良々木暦の変態精神が本性を現す。キスショット・アセロラオリオン・ハートアンダーブレードの巨乳対策として羽川翼の胸を揉ませて欲しいという小学生並みの要求を突きつける高校生の阿良々木暦に対して、相当な覚悟を決める羽川翼。

だが阿良々木暦は所詮阿良々木暦。チキンが服を着て歩いている男だ。卑猥なセリフを羽川翼にイヤほど言わせただけで指一本も処女喪失を覚悟した乙女に触れないというのだから、本当にこの男は凄いのか凄くないのかよく分からない。

そして羽川翼との間に愛情は生まれず、友情だけが実を結んだ阿良々木暦がキスショット・アセロラオリオン・ハートアンダーブレードと国立競技場で対峙する。1964年の栄光が残る深夜のオリンピック会場で吸血鬼の特性を活かした殺し合いのような殴り合いが続くが、そこで明かされた事実がキスショット・アセロラオリオン・ハートアンダーブレードの「古傷物語」と繋がる。

かつて人間だったキスショット・アセロラオリオン・ハートアンダーブレード。彼女が人間に戻すことさえもしてやれなかった一人目の眷属への想い。それを二人目の眷属である阿良々木暦で叶えようとするということはどういうことか。
それはお人好しが服を着て歩いているような阿良々木暦が最も嫌うこと。自分が一度でも近しいと思えた存在がこの世から消えるということ。自分の命を以て阿良々木暦を助けようとすること。

だから阿良々木暦は忍野メメに仕事を依頼する。この不幸な状況を何とかしてくれと。
でも誰もが幸せになる結果は存在しない。誰かが不幸になるか、もしくは誰もが不幸になるか。

阿良々木暦が選んだのは誰もが不幸になる結果。しかしそれは誰も死なない結果でもある。
キスショット・アセロラオリオン・ハートアンダーブレードは伝説の吸血鬼としてのパワーを失った。羽川翼を始めとする人間たちは常に吸血鬼の餌となる危機が存在する世の中で生きるしかない。そして阿良々木暦は完全に人間に戻るという術を放棄した。

誰も死なない結果だが、誰もが不幸になる結果。それはこの一件に関わった誰もが傷物になってしまった結果。
しかし傷物はあくまでも一方から見た視点でしかない。別視点、つまり別の誰かから見ればそれは時に傷物でないと見てくれることもある。もしくはもっと傷物になっている者からすれば、それは傷物でさえもないかも知れない。

だから物語は続く。蟹、蝸牛、猿、蛇、猫に出逢うべく続く。

阿良々木暦が経験した春休みの出来事。それは短時間で見れば不幸の塊だ。しかしこれから始まる新学期も含めた長い目で見れば案外不幸でないかも知れないことを、「化物語」を楽しんだファンは誰もが知っている。

深夜らじお@の映画館はここまでしてもらって羽川翼を選ばない阿良々木暦の鈍感さに恐れ入りました。

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2016年11月13日

『この世界の片隅に』

この世界の片隅にありがとう。この世界の片隅にうちを見つけてくれて。
これは万の言葉を用いても表現することの出来ない、今年の、いや日本映画界における屈指の稀有な傑作。見終わると他の映画と同じ扱いをしたくないと思える秀作。
昭和20年を生きておられた全ての先人に感謝します。私たちが今生きているのはあなた方のおかげだと。

1944年の広島・江波から軍港の街・呉の高台にある北條家へお嫁に来たのは絵を描くことが好きな、ぼっ〜としているという言葉が似合うほどのんびりした性格である18歳の少女すずさん。そんな彼女と共に過ごすこの126分は、戦時下の日常生活をありのままに描いた、一見戦争とは無縁にも思える作品。

「みんなが笑顔で過ごせるのが一番」という日常では、戦時下であることすら忘れるほどすずさんの一挙手一投足に絶えず笑いが起こる。憲兵にスケッチブックを没収されたり、楠公飯の不味さを知ったり、後頭部のハゲが見つかったりと、北條家での一日一日も温かく微笑ましい。
だから一家を支える若き主婦であるすずさんもご近所さんに色々教わりながら、食卓から裁縫まで創意工夫を凝らしながら、毎日を楽しく頑張っている。

けれど日常に戦争という「異常」が徐々に割り込み始める時代。初恋の相手で水兵になった水原哲や色街で道を教えてくれた白木リンとの時間の終わりは、すずさんの心に淋しさを呼んでくるが、同時に周作との夫婦喧嘩や義姉・径子の娘である晴美との楽しい時間の大切さを教えてくれる。

だからこそ、これまで時間を掛けてゆっくりと築いてきた大切な日常が戦争という「暴力」によって突然凄い勢いで壊されていくことに言葉に出来ない異様な恐怖を感じる。
当たり前のように土筆が育っている高台から防空頭巾を被ったすずさんが見た呉の空を覆う爆撃の煙。身体を張って嫁と孫を庇ってくれた義父が睡眠不足で倒れたとはいえ、肝を潰すほど心配して涙を流したこと。そんな異常が日常を食い尽くそうとする。

「ずっとこの世界で普通で、まともでおってくれ」と水原哲から言われたすずさんには強く生きることよりも普通に生きることが大切だったのに、空襲が呉の街を壊す。不発弾が晴美の命を奪う。すずさんの右手を奪う。すずさんが大切にしていたものを次々と奪う。

すずさんにとって未来の希望でもあった姪の晴美。大好きな絵を描いてきた右手。共に心の拠り所でもあった大切なものが奪われていく異常な日常。それは小さな子供がいる家庭では想像するだけでも耐えられない恐怖。自分の居場所を失うことと同じ意味を為す恐怖。

だがすずさんはそれでも北條家に居たいと願う。大好きな夫の帰りを待つこの家に居たいと願う。
そんな呉の街に西側から経験したことのない閃光が差す。強風が吹き荒れる。山の向こうから見えるきのこ雲が言い知れぬ恐怖を呉の街に降り注ぐ。

そして迎えた8月15日。玉音放送を聞き終えたすずさんが叫ぶ。「最後の一人まで戦うんじゃなかったのか」と。
信じてきたものが全て崩れ落ちる瞬間は、これまでの頑張りを全て無にされる瞬間。何のために晴美ちゃんは命を落としたのか。何のために私は右手を失ったのか。何のために肝を潰すほどの日々に耐えてきたのか。悔しさも怒りもぶつけることの出来ないすずさんの涙は私たちが流したことのない涙だ。

でも日常から異常が去っても、すずさんと北條家はこれまでと変わらず、いやこれまで以上に強く生きようとする。
ゆっくりと築いてきた大切な時間が凄い勢いで壊され続けた日々が終わったのなら、またゆっくりと時間を掛けて大切なものを築いていけばいい。

闇市での米兵残飯汁に義姉と「うっま〜」と感動した時間も、明るい照明の下で白米を楽しんだ時間も、戦争孤児を養子として引き取って育てていく時間も、全て日常における大切なもの。水玉模様の生地が女性たちにオシャレを楽しませる時代が来たのだから、また昔みたいに「みんなが笑顔で過ごせるのが一番」という日常も戻ってくる。

私たちは今「みんなが笑顔で過ごせるのが一番」という日常が当たり前の時代に生きている。それは昭和20年を生きておられた先人たちが異常な日常という恐怖に耐えて耐えて耐えて、それでも生きることを諦めてこなかったおかげである。この世界の片隅にある希望を見つけてくれたおかげである。

だからこの映画を見終ると、他の作品と同じように普通に映画館を出ようとは思えなくなる。何かこの映画のために、いやすずさんを始めとするあの時代を生きておられた方々のために、何かをしてから映画館を出たいと思えてくる。

そんなことを思わせてくれる稀有な映画に出逢えた。映画人生でもう2度とないかも知れない素晴らしい体験だ。

深夜らじお@の映画館にとってはパンフレットが1,000円なんて高いと思えない!むしろそれ以上の価値がある!

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2016年09月17日

『映画 聲の形』

聲の形この“こえ”を伝えたくて。その“こえ”を聞きたくて。生きるのを手伝ってくれる大切な人だから。
簡単な想いなのに伝えられない。簡単な言葉なのに聞き取ってあげられない。コミュニケーションはそんな後悔の繰り返し。なのに、どうしてそんなコミュニケーションを続けるのだろうか。
これはそんな疑問に温かい涙で素直に応えてくれる秀作です。

我々は知らないものに対して興味を抱く。でもその興味が薄れると無理解が無邪気の仮面を被る。そして聴覚障害でさえ個性だと言う言葉を生み出す。
ただそれは能天気な言葉だ。もしくは本当の苦しみを経験していながら、それに見合う言葉選びが出来ない人の言葉だ。

始めは誰もが聴覚障害の西宮硝子に興味を抱いていた。でもその興味が薄れると少女は仲間外れにされてしまう。補聴器が何度も壊される。やっと出来た友達も奪われる。
けれど健常者である我々はその少女がそんな時どんな想いで「ごめんなさい」を繰り返し、笑顔を絞り出しているのか想像すらしようともしない。

しかしガキ大将からイジメの対象へと格下げされ、母親の右耳から流れる血と170万円の痛みを知り、なおかつ自殺まで考えた石田将也にはその西宮硝子の想いが分かるはず。
だから5年前のことを謝りたいと手話まで覚えた。彼女のために佐原探しから母親のケーキ作り、みんなで遊園地デートまで積極的に動いた。彼女への贖罪や好意以外にそんな優しさがあったからなのだろう。
そんな彼の周囲にビッグフレンド永束を始め、ツンデレ結弦、天邪鬼な植野、偽善優等生の川井、逃げ腰の佐原、マジメな真柴も集まってきたのはある意味当然の話。

一方でそんな石田将也との再会で彼の手話に驚く西宮硝子の表情は、まるで知らない異国の地で日本語が話せる現地人と出逢ったかのようで、それがどれだけ嬉しいことなのか、年頃の少女にとって出来れば隠したいであろう補聴器を見せてしまうポニテへと髪型を変える勇気を絞り出した経緯と同様に、それもまた我々が想像すらしてこなかったこと。

だからこそ、やっと「話の出来る」友達が出来た西宮硝子が石田将也と距離を縮めたいと動けば動くほど、無邪気な仮面を捨てた無理解が邪魔をする現実にも心が痛くなる。
彼女はただ耳が聞こえないだけで他は普通の女の子。永束クンが背の低い男の子であるように、石田将也が他人の顔をまともに見れない男の子であるように、何かしら欠点を持っている我々と同じ存在なのにと。

でもここで一つのことに気付く。彼女もまた我々と同じなのだから、彼女も変わらなければならない現実があるということ。
ただ自分を変えるには時間が掛かる。その長時間に耐え得る勇気もいる。支えてくれる存在もいる。
なのに、その支えてくれる存在が大切になればなるほど、また苦しみが増える。自分が大切な人を苦しめているのではないかと。自分に生きている意味はあるのかと。

それが自殺という選択肢を石田将也や西宮硝子にもたらす。でも自殺の無意味さを知った少年が少女に生きる意味を自らの命の危険を顧みずに伝える。決して浴衣姿で見た花火を人生最後の思い出にはさせないという彼の想いが彼女に自殺を選択したことへの後悔を、大切な人に生きていてほしいという想いは自分だけが持っているものではないことを彼女に伝える。

だから西宮硝子も必死に変わろうとする。そんな2人の想いに神様がいつもの橋で再会を用意してくれる。「きみに生きるのを手伝ってほしい」という言葉を伝える再会を。

自分の価値は誰が決めるのか。それは自分にとって大切な人が決めてくれる。
自分と一緒にいるとみんな不幸になるという理由で死を選ぶ人がいるが、同時に自分と一緒にいるだけで幸せになる人もたくさんいる。その人たちが自分の価値を決めてくれる。

石田将也には、西宮硝子には、学校に行き始めた結弦がいる。願掛けの髭が似合わない永束がいる。手話を覚え始めた植野がいる。千羽鶴を折ってくれた川井がいる。優しい笑顔で待っていてくれた真柴がいる。もう逃げたくないという佐原がいる。

そして顔を上げれば、周囲の声が聞こえる。様々な顔が見える。それらがいつか自分にとって大切な存在となる日がやってくる。それを知れば、自然と涙が頬を伝う。生きていることがこんなにも素晴らしいことなのだと。

コミュニケーションは自分の想いを伝えるもの。相手の想いを知るもの。相手のことを想う優しさを表現するもの。そして生きていることを実感するもの。
ただその手段が時に日本語になり、時に外国語になり、時に手話になるだけ。つまり、手話も日本語や英語、フランス語と同じ言語なのだ。

そう思うと石田将也と西宮硝子の今後を描かない優しさが心地いい余韻になる。パンフレットに描かれた2人の笑顔が凄く幸せそうに見えてくる。
けれど想像してしまう。きっと石田将也は悩むだろう。あの時「月」と聞き間違えた西宮硝子の想いを考えると、次は自分から想いを伝えねばならないと。そんな想像もまた心地いい余韻となるこの作品は今年の10本に入る素晴らしき映画です。

深夜らじお@の映画館はビンタと土下座を経て親友となったママコンビの今後にも興味津々です。

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2016年08月28日

『君の名は。』

君の名は。オリジナルストーリーを期待したのにアナザーストーリーを見せられるとは…。
我々新海ファンが待ち望んでいるのは余韻を残してくれる大人のオリジナルストーリーであって、一般ウケするような既視感のある作品ではない。ましてや、絶対不可侵である過去作品の余韻にまで足を踏み入れてしまうとは…。
残念でなりませぬ!

まずこの作品が面白いかどうかと聞かれれば、間違いなく面白いと答えることが出来ます。ただしそれは新海誠監督作品に対する思い入れがない方に向けての答えのみ。

というのも、この作品には『秒速5センチメートル』でも描かれた駅の風景、『言の葉の庭』でも描かれた都会にそびえ立つエンパイアステートビルのような建物に加え、ユキノ先生の登場など、新海誠監督の過去の作品を見た者にとってはすぐに分かる描写が数多く存在し、それらがプロデューサーを始めとするスタッフたちの新海作品に対する愛だと感じることが出来る一方で、その描写の多さが逆に作品に対する愛の浅さを感じさせると同時に、本作のオリジナリティを薄めることになってしまっているんですよね。

ですから自然と物語も新海作品に似通ってしまっているも勿体無いこと。ただでさえボクたちのドラマシリーズ「放課後」のように男女の入れ替えと、『イルマーレ』のような時間軸のズレた交流で既視感だらけの物語に、まるで『秒速5センチメートル』『言の葉の庭』の後日談を描くような瀧と三葉の互いを想い、互いを探すストーリー。

これは個人的な想いなのですが、新海監督作品の良さは『秒速5センチメートル』『言の葉の庭』に代表されるように、見た人の数だけ後日談があるというような鑑賞後の心地いい大人の余韻が素晴らしいのであり、そこに何らかのアナザーストーリーを当てはめてしまうと、その大事な世界観が汚されてしまうのです。つまり新海作品ファンにとっては御法度の領域なのに、それをやっちゃっているのがこの作品。なので当然そこにスタッフの新海作品への愛の浅さが感じられてしまうのも残念無念。

ただ相変わらず風景描写は美しいうえに、奥寺先輩だけでなく、髪を切った三葉も大人になった三葉も凄くべっぴんさんに描かれていたのは素晴らしかったですね。
ただその三葉と瀧が現実世界で初めてなのに再会するシーンで2人の間に電車が通るって…。それは『秒速5センチメートル』の世界だけにしてくれよ。

てな訳で新海監督作品なのに踏切がメタファーになることのない世界観のお話なんですから、せめて三葉の下校シーンで踏切を描くようなこともしないでくれ!こういうところにも新海ファンとしての愛の浅さを感じずにはいられない、新海ファンとしては残念な作品でした。

深夜らじお@の映画館は宮水三葉のような女の子は大好きです。しかも瀧にとって年上っていうのがいいですよね〜。

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2016年08月24日

『傷物語暁血篇』

傷物語パンツは返さないが、恩は返す!
これでこそ変態紳士・阿良々木暦だ!お人好しなのに孤独が好きだと格好つけては、数々の女性陣にムチャで卑猥な要求をしながらも、基本は紳士でお助けマンなところがいいじゃなイカ。
シャフトの魅力、西尾維新先生の魅力、そして『物語』シリーズの魅力も存分に味わえる。まさにこの面白さを待っていたのです!

フランス語やモールス信号のお遊びを相変わらず続けつつ、いよいよ鉄血にして冷血にして熱血の吸血鬼:キスショット・アセロラオリオン・ハートアンダーブレードの2人目の眷属:阿良々木暦が3人の吸血鬼ハンターから奪われた主人の身体の一部を取り戻す戦いを見せるこの『熱血篇』。

まず吸血鬼にして仕事で吸血鬼を狩るドラマツルギーとの戦いからして、まさに9割方弱者の戦い方をするのに、ここ一番では圧倒的パワーを見せつける阿良々木暦流バトルが面白いこと。
左腕を蹴り千切られても、両腕を切り離されても、驚異的な回復力で逃げに逃げる。
けれどここで勝負と腹を括ると野球ボールも砲丸も投げ続けた挙句にコンダラを高々と持ち上げる圧倒的パワーでドラマツルギーを降参させるんですもん。

しかも吸血鬼と人間のハーフにて私情で狩りを行うエピソードとの戦いも、羽川翼に被害が及ぶと我を忘れた阿良々木暦のパワーと速さが驚異的に上がっての忍野メメストップで終了。
そして人間にして信仰で非情な狩りを行うギロチンカッターとの戦いは完全に人間に戻ることを諦めた阿良々木暦の両腕巨木変化により呆気なく終わる始末。

本来なら戦うエピソードやギロチンカッターとの戦いもドラマツルギー並みに見せてほしいところですが、敵が徐々に人間へと近づいているのに対し、阿良々木暦が逆に人間から離れて行かざるを得ない最大の要因が人間が持つ心の醜さだと分かっていく、この西尾維新先生ならではの対比を存分に見せてくれるので満足しちゃうこと。

ですから逆に気になるのは、なぜ阿良々木暦はここまで孤独を好んでいた自分に対して大いなる世話を焼いてくれる羽川翼ではなく戦場ヶ原ひたぎを選んだのかということ。
普通に考えれば、孤独な自分に声を掛けてくれて、酷いことを言ってもまだ構ってくれて、事情を知っても離れもせず、自らの命が危険に晒されてもまだ世話を焼いてくれて、そのうえ生脱ぎパンツをくれた挙句に新学期にまた会おうと言ってくれた同級生女子に恋しない男なんてこの世にはいないですよ!

さらに自分が人間に戻ることを諦めないと救えないと忍野メメに言われても迷ったりもせず助けに行くなんて、これは完全に恩を返すレベルではなく、恋する女性を救いに行く男の取る行動。
自分の身体を喰い戻す度に幼女から少女へ、そして美しき乙女へと成長していくキスショット・アセロラオリオン・ハートアンダーブレードには邪な眼差しだけに留め、ひたすら同級生女子に「友達になってください!」以上の行動を取っているその姿のどこに羽川翼以外の女子を好きになる余地があるというのか。そう思えるほどの羨ましい青春劇でしたからね。

ただこの『物語』シリーズは西尾維新先生作品なんですから、そんな素直に完結しないのが面白いところ。
阿良々木暦がいかにして羽川翼を恋愛対象ではなく恩人対象として見ていくのかという明確な理由付けは2017年1月公開の『冷血篇』で明かされるのでしょう。
それまでに原作は読むべきか、それとも待つべきか。う〜ん、迷うなぁ〜。

深夜らじお@の映画館は生脱ぎパンツをもらったら、恐らく色丞狂介のように被ります。

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2016年04月26日

『ズートピア』

ズートピアアメリカのあるべき姿がここにある。
かつて世界の理想郷として多くの夢が集まり、時には花開き、時には腐っていく場所でもあるアメリカ。そして人種の坩堝改めサラダボールとして多くの夢と才能が集まる場所でもあるアメリカ。
黒人初の大統領の任期が終わろうとしている今、改めて問われるアメリカの本来あるべき姿。それがズートピアだ!

ウサギのジュディが耳を後ろに垂らしながら警察帽を被る姿が、どことなく髪を括って束ねた女性が帽子を被る姿と似ていることに反応してしまう私のような者には、あまりにも可愛すぎてたまらない、このズートピアに集う様々な個性的な動物たち。

肉食動物は白人、草食動物は非白人のメタファーなのでしょう。動物の種類だけ人類にも様々な民族が混在する様を描いたズートピアはまさにアメリカそのもの。
夢を描いては追い掛けるも、現実に厳しさに味わう淋しさと悔しさと無力感。けれど夢を諦めない者には助けてくれる仲間がいる、実力を示せば認めてくれる社会がある。それもまた我々が連想するアメリカ。

しかし現代アメリカは本当にそうでしょうか?
社会主義者と名乗るバーニー・サンダース候補や差別発言を繰り返すドナルド・トランプ候補など、現代アメリカには様々な問題を重要視するあまり、本来のアメリカのあるべき姿を見失いかけている傾向があるとするならば、この映画のメッセージは極めてシンプルなもの。

肌の色や宗教で隔離されるようなアメリカが理想郷と呼べるのか。肉食動物のチーターが警察署の受付でもいいじゃなイカ。小さな草食動物であるウサギが熱き新米警官として活躍するのもいいじゃなイカ。口籠を嵌められたトラウマに苦しむ詐欺師イメージのキツネが警官になる夢を描いてもいいじゃなイカ。

ウサギにはスピードがある、キツネには知恵があるように、種族だけでなく人格も違えば、そこには様々な能力がある。
同様にネズミにはゴッドファーザーのようなファミリーの絆がある、バッファローには心優しき迫力がある、ライオンには見た目とは違う気弱さがある、ヒツジには見た目と違う腹黒さもあるという、イメージだけでは計り知れない魅力もある。

「夜の遠吠え」という連続失踪事件を追うことになったウサギのジュディとキツネのニックがエディ・マーフィとニック・ノルティの如く「48時間」で経験すること。
夢は諦めない限り、必ずチャンスは廻ってくる。その時に必要なのは大切なバディ、「詐欺師と呼んでくれてもいいのよ?」という柔軟な思考能力、種族を越えて助けてくれる人脈、そして常に成功を夢見る心。

その全てが現代アメリカにはあるだろうか。もし現代にそれらの要素が欠けているのであれば、この映画を見た子供たちよ、大人になった時に「ズートピア」のような理想郷を再びこの国に再現してくれ。
そんなメッセージさえ伝わってくるこのディズニーアニメーション。

箸休めに用いたナマケモノをスピード違反常習者というオチに持ってくるのも面白いではないか!

深夜らじお@の映画館はガゼルのバックダンサーを務めたタイガーたちにゲイの匂いを感じたのは私だけでしょうか。

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2016年01月09日

『傷物語掬慣貶咫

傷物語こよみヴァンプ。それは阿良々木暦とキスショット・アセロラオリオン・ハートアンダーブレードとの馴れ初めの物語。
さすが西尾維新先生です。さすがシャフトです。ほとんど動きのない物語でもきちんと面白く見せる技術は本当に素晴らしい。
ただ3部作構想のためか、1作目にしては少々出し惜しみ。腹六分目くらいで今夏まで待てと言われてもね〜。

終わりそうでなかなか終わらない西尾維新先生の代表作でもある「物語シリーズ」では時系列的に最初の物語であり、あの「化物語」の前日譚でもある「傷物語」。
不死身の吸血鬼体質となった高校生・阿良々木暦の春休みの出来事を描いた物語を3作に分けて映画化しようというんですから、そりゃ1作あたりの話の進み具合といったらのんびりしたもの。

そもそも「化物語」でも蟹・蝸牛・猿・蛇・猫を数話に分けてのんびり丁寧に描いていたように、そういう時間を掛けた演出こそが西尾維新作品を映像化するシャフトの魅力。
ですから阿良々木暦が春風のおかげで羽川翼の○○○を見て、地下鉄で瀕死状態の吸血鬼と出会ったがために卷族となって、忍野メメに助けられてというだけの説明に1分も要しない物語をどう見せているのかがこの作品の魅力であり、楽しみ方でもあると思うのです。

フランス語やらモールス信号やら相変わらず数秒にお遊び感覚も含めたメッセージを入れ込む演出といい、日本のクラシックホラーのような雰囲気を醸し出したかと思えばクラシックサスペンスにいつの間にか様変わりする演出といい、軽いラブコメ要素を前面に押し出した演出といい、背景はリアルなCGなのに登場人物だけは手書きアニメといい、そのどれもがシャフトらしい魅力。

また鉄血にして冷血にして熱血の吸血鬼:キスショット・アセロラオリオン・ハートアンダーブレードやアロハシャツの怪異専門家:忍野メメの魅力どころか、吸血鬼ハンターのドラマツルギー、エピソード、ギロチンカッターさえもまだその魅力を描かない出し惜しみも、ある意味「西尾維新×シャフト」作品らしくもあるのも事実。

ただそれなら鑑賞料金は1,000円が妥当なところかと。通常料金を取るなら、もう少し見せてもらわないと割が合わない。3部作全て見れば鑑賞料金以上の満足感は得ることが出来るでしょうけど、これを1本の映画として見た場合は割高感が否めないのも事実。

結局、「阿良々木クン、何かいいことでもあったのかい?」だけを期待して見に行ったら、本当に「阿良々木クン、何かいいことでもあったのかい?」だけでもそこそこ満足しちゃっただけの作品。
でもその満足の影には「冷血篇」「熱血篇」に対する期待が隠れているのも事実。それを「西尾維新×シャフト」作品と理解している自分がいるのも事実。

なので詰まるところ、腹六分目でも満足。出し惜しみでも満足。
他の作品なら満足出来なくても、この一般とは一線を画す魅力を備えた「西尾維新×シャフト」作品なんですもん。

てな訳で太陽に当たれば火達磨になってしまう「夜の世界」へと足を踏み入れた阿良々木暦は忍野メメの仲介を得て、どうやってキスショット・アセロラオリオン・ハートアンダーブレードの奪われた身体を取り返すのか。どうやって忍野メメへの仲介料200万円を用意するのか。
そしてキスショット・アセロラオリオン・ハートアンダーブレードが忍野忍になる経緯も楽しみに、夏を待ちたいと思います。

深夜らじお@の映画館は原作を随分前に購入したまま、まだ途中までしか読んでません。早く読まなあきませんな。

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2015年09月20日

『心が叫びたがってるんだ。』

心が叫びたがってるんだ。言いたいけど言えない想い。伝えたいことを伝える勇気。
言葉は人を傷つける。言葉は人に一生のトラウマを与える。でも言葉は人を助ける。言葉は人に一生の宝を与える。
そんな言葉に傷つき、言葉に助けられた経験をした誰もが自然に涙を流してしまうミュージカル「青春の向う脛」。本当にミュージカルには奇跡が付き物ですな。

言葉を選ぶ。それは家族であれ、友人であれ、誰かを傷つけないために絶対必要なこと。
言葉を放つ。それは家族であれ、恋人であれ、誰かを守るために時として必要なこと。
でも多くの人がその必要性を普段は実感しない。心が傷つくまでは実感しない。

自分の言葉で両親が離婚した成瀬順。自分のピアノを続けたいというわがままで両親が離婚した坂上拓実。恋人が大変な時に何も出来なかった仁藤菜月。ケガで野球部の厄介者になった田崎大樹。

誰もが思春期に経験したはず。必要以上の言葉数が人を傷つけた。必要不可欠な言葉がないばかりに人を傷つけた。伝えたい想いがあるのに言葉が出てこなかった。伝えるべき想いがあるのに言葉を間違えた。

でも伝えたい想いは、言いたい想いは前に一歩踏み出す勇気と真剣に取り組む勇気があれば、どんな形であれ、伝えることは出来る。
成瀬順は物語に自分の想いを綴り、坂上拓実は選曲に自分の想いを重ね、仁藤菜月は代役に想いを託し、田崎大樹は後輩や仲間への謝罪に想いを込める。そのどれもが相当な勇気を必要とするものばかり。生半可な想いでは出来ないことばかり。

だからその強い想いが仲間を動かす。出来る範囲でいいから「ふれあい交流会」の出し物のミュージカル劇にクラス全員が協力する。「出来ないものは出来ない」が戯言であることを思春期の少年少女たちが証明していく。

何も話せず、本番当日には逃げ出した少女が、クライマックスで客席後方から「心の声」として歌に想いを乗せて体育館に現れる。
何も伝えられず、後悔ばかりしていた少女が、クライマックスまで代役として踏ん張り、最後は自らの想いを歌に乗せて舞台の上で輝く。

「あの日見た花の名前を僕達はまだ知らない。」のスタッフは「言いたい想い」と「伝えたい想い」の微妙な違いを2人の少女と2人の少年で描きつつ、青春群像劇としてこの4人が勇気を持って前に一歩踏み出す姿を爽やかに見せてくれる。

その青春ならでは爽やかさは自然と涙腺を緩めてくれる。成瀬順が体育館に戻ってきたシーンは気が付いたら泣いていたという奇跡もミュージカルには付き物なのか。まるで学園祭の出し物を終えた後の学生時代に味わったやりきった感と、若者たちが無事にやり終えたと保護者としての安堵感が、あたかもダブルミュージカルのように同時に襲ってくるのは何と心地いいことか。

田崎大樹は恐らく成瀬順にはフラれるだろう。仁藤菜月はこれからもちょいちょい成瀬順に嫉妬してしまうのだろう。坂上拓実はそんな彼女の気持ちをどこまで理解するのだろうか。
そして成瀬順はこのミュージカルを終えて母親と、クラスメイトと、坂上拓実とどんな人間関係を築くのだろうか。

そんな余韻を残してくれるこのほろ苦さと爽やかさの後に妙な甘酸っぱさを感じる作品。
個人的にはもう30分ほど長ければ、もっと感動は大きかったかも…。

深夜らじお@の映画館にとって仁藤菜月のポニテ姿はドストライク級の大好物です。

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■TBアドレス:http://blog.goo.ne.jp/tbinterface/245932aedcd5cdc3fa5d2ea0ae31f5a7/3f こねたみっくすgoo版

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2015年07月15日

『バケモノの子』

バケモノの子胸の中の足りないモノを埋める。それが親の務め。ただ熊徹のあの選択はこの務めにはあらず。
やはり細田守監督は一夏に拘るべきでした。新海誠監督や米林昌弘監督のように宮崎駿監督を意識すべきではありませんでした。
エンタメとしては満足出来る作品であっても、細田守作品としては不満足。これでは細田守印の入道雲も心に残りませんよ!

行く宛てのない子供がバケモノが住むパラレルワールドに迷い込み、そこで多くの仲間に支えられながら心も身体も成長していく。
まるで『千と千尋の神隠し』のような物語はやはりその宮崎駿監督を意識した世界観からは抜け出せず、『星を追う子ども』『思い出のマーニー』と同じく、監督のオリジナリティを失った作品に成り下がるだけ。

意地っ張りで負けず嫌いで素直にはなれない。けれど家族や仲間を大事にする。そんな共通点を持った蓮改め九太と熊徹の疑似親子関係は凄く楽しく面白く見れるうえに、熊徹と九太を優しく見守る百秋坊と多々良の存在感がより心を温かくさせるキャラクター関係は凄く心地良いこと。

しかも役所広司さんの意地っ張りな怒鳴り演技に対して、大泉洋さんのネズミ男演技とリリー・フランキーさんの悟りを開きかけ演技がまぁ素晴らしいので、正直なところこの3人のやり取りを見ている時間が一番楽しかったです。

ところが九太が成長して多感な17歳になると、脚本をも担当する細田守監督も多感になられたのか、熊徹と九太の生物を超えた疑似親子関係だけの話が、九太が楓と出会ったことで自分の存在意義、大学進学という将来、本当の父親との関係、自分と同じ境遇の一郎彦への想いなど、急にテーマも増える増える。

もちろんどれも思春期の悩みなので九太の成長を描く上で盛り込みたいのは理解出来ますが、でもなぜそれらを全て人間世界での話にしてしまうのか。バケモノの世界である渋天街である程度悩み、それから人間世界の渋谷へ戻っても良かったものを、世界観の説明不足も相俟ってか、渋天街と渋谷を簡単に何度も行き来する九太の姿を見ていると、九太の熊徹たちへの想いというものが薄いようにも見えてしまうんですよね。

加えて猪王山と熊徹の宗師後継者決め対決もそこそこ見せた後での一郎彦の心の闇が巨大化していく様も説明不足で盛り上がりに欠けること。
なぜ一郎彦が渋谷に行ったのか、なぜ「白鯨」から鯨の幻影というプロセスに至ったのかも説明せずに映像だけの力技で押し切ろうとする雑さ。

そして宗師になった熊徹が九太の力になりたいという想いがなぜ刀になって九太の身体の中に吸収されるという運びになったのかも説明不足で雑すぎること。
熊徹は渋天街での育ての親、渋谷では実の親がいるという終わり方でも良かったものをどうしてそこまでして熊徹の存在を消そうとするのか。

個人的には熊徹の性格からして宗師の座は猪王山に託すものだと思っていましたが、まさか百秋坊も多々良も置いてあんな選択をしてしまうなんて。
百秋坊が叱り、涙を抑えきれない多々良が九太を抱きしめながら見送るシーンでこの2人が「誇らしいな」と嬉しそうな顔をしていただけに、元気になった熊徹も含めて3人で九太の成長を願うものが親の務めだと思ったのですが…。

てな訳でリリー・フランキー&大泉洋のコンビが凄く面白い。次は実写でもこの2人のやり取りを見たいと思った一方で、細田守監督作品なのにここまで入道雲の存在感が薄いのも珍しいと思えたこの作品。
やはり宮崎駿という巨大な存在を意識せず、オリジナリティに走れないようではいい作品は作れない。これが今の日本アニメ映画界における大きな問題であると感じてしまいました。

深夜らじお@の映画館は細田守監督の次回作に期待します。次こそは細田守オリジナリティで勝負してくれい!

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2015年05月24日

『天才バカヴォン〜蘇るフランダースの犬〜』

天才バカヴォン西から昇ったお日様が東へ沈〜む。(あっ、大変!)
これでいいのだ♪これでいいのだ♪
ボン、ボン、バカボン、バカ、ボン、ボン♪天才一家だ。バ〜カ、ボンボン♪
と思わず口ずさんでしまうくらいに、本当に楽しい映画でした。
赤塚不二夫の世界観とFROGMANの世界観の程よい塩梅がまさしく「これでいいのだ!」でした。

日本のアニメ史上最高のギャグアニメとして称賛すべき「天才バカボン」。世紀の天才であるバカボンがパパから多大なる影響を受けたという少年期を描いたこのナンセンスギャグマンガは、基本的にはギャグの垂れ流し。それを島根県が誇るCGクリエーター小野亮監督、もとい蛙男がツッコミを入れるという形で現代風にアレンジしたのがこの作品。

なので「天才バカボン」で育った世代、特に太陽が昇る方角をOPテーマを参考に覚えた世代にとってはちょっと物足りなさも感じつつ、それでも「命運、それは…(青雲やっ!2回も言わすな!)」など赤塚不二夫にはないがFROGMANにはある面白さで補填してくれているので、赤塚不二夫の「天才バカボン」ではなくFROGMANの「天才バカヴォン」として見るには十分でした。

特にそれを強く感じるのは、悪の組織インペリペリの総帥ダンテからバカボンのパパの本名を守るために内閣情報局から派遣されたナメタさんこと神田さんのツッコミ役としての大活躍ぶり。
オールドファンとしては寄り目にしていたらいつの間にか目玉が繋がったお巡りさんや怒るとメチャ怖いレレレのおじさんがほぼスルーされていたのは残念でしたが、ただギャグの垂れ流しにツッコミを入れることで漫才として成立させたナメタさんじゃなくて神田さんの存在はFROGMAN流「天才バカヴォン」にとっては非常に大きな存在。

ですからお日様を西から昇らせるためにリヤカーを引かされた次はネロも巻き込んでトラックにゴム紐のついた巨大な木杭を引っ張らせたら、逆にその木杭に追い回されるくだりでは神田さんのツッコミが神田さんの不幸ぶりをさらにパワーアップさせているみたいで、本当に面白いこと。

加えてこまごめピペット総理の登場によるダンテとの直接対決になると、バカボンのパパならではのナンセンスギャグもオンパレード。
中でも個人的には鼻クソ詰めるぞ展開が爆笑モノで、これも「命運、それは…」と同じく天丼で来るか〜!に笑いが止まらないこと。

しかもハジメちゃんの天才頭脳による作戦立案やママの理解ある優しさを描きつつ、ネロが童話の世界から来たことを当初から気付いていたというバカボンの天才ぶりもしっかりと描くことでオールドファンをニンマリさせつつもウルッとさせ、最後は「これでいいのだ」の連発で物事を丸く収めるのかと思わせておいて、まさか本当に「あっ、大変!」なことを実現させてしまうなんて…。やっぱりバカボンのパパは凄い!

念仏を唱えれば死人が蘇り、オーケストラを聞かせ続けた朝顔を蓄音機のように音楽を奏でさせる植物に変えるなど、数々の奇跡を起こしてきたバカ田大学首席卒業のバカボンのパパ。
「タリラリラ〜ン」「コニャニャチワ」「はんたいのさんせい」「さんせいのはんたい」など往年の名台詞がほぼなかったのも残念であるうえに、神田さんの上司の子供が6人もいるならなぜ赤塚不二夫作品だけに六つ子にしなかった!など多少の不満点はあれど、久しぶりに「元祖天才バカボン」や「平成天才バカボン」を見たくなりましたよ。

深夜らじお@の映画館はダンテと総統の対決よりも、レスターと吉田くんの対決をいつか見てみたいです。

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2015年05月10日

『百日紅〜Miss HOKUSAI〜』

百日紅百日紅よりも短い人生。それは儚いのか、それとも愛おしいのか。
葛飾北斎の三女にて後に葛飾応為として多くの美人画を描いたお栄。彼女の人生が江戸後期の生活模様・人間模様・風俗模様を全て愛おしく思わせる。だからこそ逆に彼女の没年どころか人生の終盤さえも歴史的に何も資料が残っていないのは儚くも感じる。
いつの時代も愛おしく楽しい時間はあっという間に過ぎてしまうのです。

「冨嶽三十六景」などで知られる葛飾北斎。改号すること30回、転居すること93回というアグレッシブで破天荒な人生を送った浮世絵師の才能から性格まで全て遺伝したかのような、北斎の助手であり娘でもあるお栄。

男勝りな物言いと自信たっぷりな仕事ぶりを見せる一方で、盲目の妹・お猶を凄く気に掛けながらも同門の魚屋北渓に恋心を抱く23歳は、師匠の北斎から言わせれば知識も技術もあれど才能を開花させる術にはまだ辿り着いていない未熟者。

酒と女を好むお調子者でも色気のある美人画を描かせると才能を発揮する同門で北斎の長屋に住み着くヘタ善こと渓斎英泉、長屋にちょいちょい顔を出してはお栄に惚れながらも浮世絵の勉学に日々励む歌川国直など、様々な才能と触れ合いながら、魑魅魍魎がまだ身近だった江戸の街でのお栄が体験する出来事はどれも楽しいことばかり。

花魁の小夜衣の首が伸びると聞けば本人了承で泊り込み調査を行い、地獄絵が奥方様の心を迷わせると聞けば菩薩様の描き足しに行き、タバコの火で没になった龍の絵を描き直すとなれば龍が降りてくるまで待つなど、退屈とは無縁の日々が羨ましくも感じるほど。

ただそんな楽しい日々は盲目のお猶には見えないものばかり。それがお栄の心に引っかかるのか、時間があればお猶を連れて両国橋や渡し船で様々な音を聞き、風や水に触れ、妹に生きているということを感じさせる姿はどこか優しく、でもどこか淋しそうなもの。

特に雪の日のお茶屋でのくだり。お茶屋の男の子がお猶に興味を持ち、雪の音や冷たさを一緒に楽しみながら遊んでくれる姿はお栄にとってはどう見えたのでしょう。
自分には出来ない同年代だからの無邪気さ、妹が盲目ということを意識しすぎているのではないかという自問自答、父・北斎と過ごした時間をお猶にも味合わせてあげたいがそれが叶わぬ現実への苛立ち。

浮世絵師は芸術家。
ゆえに想いは言葉でも行動でもなく作品にするもの。

北斎はお猶に自立する勇気を持って欲しかったのでしょうか。あの「一人で来れたじゃねぇか」も姉という立場のお栄には決して発することの出来ない、娘の成長を誰よりも心配する父親の気持ちが見え隠れしているようで、それを思うと人の一生なんて花が咲いている時間と同じく短く儚いもの。
ならば、それに抗い続けるのが時間を浮世絵という形で永遠に留めておくことの出来る浮世絵師の本当の仕事。

お栄がお猶亡き後に完成させた妹が金魚を楽しそうに眺めている一枚の絵。右上には百日間花を咲かせる百日紅がお猶を見守っているこの優しき浮世絵に込められたお栄の想い。
それは90歳にして天寿を全うした北斎の没後にお栄が姿を消した10数年後に明治維新を迎え時代が大きく変わっても、決して消えることのない愛しきもの。

儚いものを愛しいものに変える。
これが真の浮世絵師の仕事なのでしょう。何と美しいことか。

深夜らじお@の映画館はお栄のような性格の女性は大好きです。

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2014年12月21日

『ベイマックス』

ベイマックス私はベイマックス。あなたの心とカラダを守ります。
兄タダシから受け継いだ弟ヒロに注がれるベイマックスの愛に涙が止まりませんでした。
短足でおデブで表情がなくて決まったことしか言わないのに、可愛くてプヨプヨしていて優しい表情で温かい言葉をたくさん掛けてくれる弟のようで兄のようなベイマックス。もう箱の中に戻らず、ずっと一緒にいて!

マーベルを傘下にしたディズニーが初のコラボ作品として選んだのはマイナーでファンも少ないであろう「BIG HERO 6」という原作。しかも基本設定以外は全て映画用にアレンジした内容なので、正直マーベル作品でありながらマーベル作品ではない、でもマーベル要素を見事にディズニー要素に変換させた作品という雰囲気が映画全体に漂っているんですよね。

特にそれを強く感じるのはタダシに連れられて大学のラボでヒロが出逢った電磁サスペンション自転車専門のゴー・ゴー、レーザー誘起プラズマ専門のワサビ、物質融合専門のハニー・レモン、着ぐるみ専門のフレッドが、タダシがキャラハン教授を救助に行ったものの還らぬ人となった後にヒロと共に歌舞伎マンを追い詰めるため、どこぞのグリーンコンドームのように天才発明少年ヒロによりそれぞれの専門分野を活かしたなりきりヒーローになるくだり。

これが『Mr.インクレディブル』のようで楽しいうえに、ベイマックスも飛行パーツを装着してヒロと共にまるで『ヒックとドラゴン』のように「にこいち」で活躍してくれるため、もうこの2作品で味わったあの心の温かさが見事に蘇ってくるんですよね。

本来ならサンフランシスコと東京を見事に融合した架空都市サンフランソウキョウを舞台に、ヒロが自ら発明したマイクロボットを盗んだ歌舞伎マンことキャラハン教授をヒロとベイマックスの2人で追い詰めてもいいところを、いくら原作が5人のヲタク+ケアロボットとはいえ、6人のヒーロー戦隊として戦うところに、亡きタダシがベイマックスに込めた家族を想う愛を詰め込んでいる。
これが敵討に取り憑かれたヒロにより暴走モードとなったベイマックスを4人の仲間が身体を張って止めようとするシーンでもしっかりと描かれているんですよね。

つまりみんなタダシが好きだったからこそ、タダシの分身でもあるベイマックスも大事な仲間。そのベイマックスに人殺しなんて絶対にさせちゃダメ!という想いがヒロを冷静にさせると、さぁここから始まるのは同じく娘の敵討という執念に取り憑かれたキャラハン教授のアリステア・クレイ社長暗殺を「6人で」阻止すること。

圧倒的なマイクロボットのパワーに押されながらも、劣勢を逆転の発想で優勢へと変えていく6人。クールなのに人情味に満ちたゴー・ゴー、巨漢でも優しいワサビ、いつも前向きなハニー・レモン、金持ちの息子だったフレッドがヒロとベイマックスを援護し、金門橋を超えては2人で一緒に夕陽を眺めたヒロとベイマックスの絆がキャラハン教授の暴走を止める。それを見て止まらないのは感動で震える観客の涙だけ。

さらに空間転移装置の内部から生命反応を感じ取ったベイマックスがヒロと共にキャラハン教授の娘を助けに行くくだりもまだまだ涙は止まらないこと。
あともう少しのところでのヒロのミスでベイマックスの飛行パーツが故障し、ロケットパンチ機能を使えばヒロとキャラハン教授の娘は助けることが出来るも、それではベイマックスは異次元空間に残ることになる。そんな状況でも繰り返されるベイマックスの「私のケアに満足しましたか?」の質問と、その質問に「満足した」とは言えないヒロのやり取り。もうここでも涙が止まらない止まらない。

そしてケアロボットの気持ちを想い、「満足した」と答えるヒロから離れていくマシュマロのような巨体を見て走馬灯のように蘇ってくるのはベイマックスとの様々な思い出。
ベッドと本棚の隙間を通り抜けるにも一苦労したベイマックス。周囲の交通事情などお構いなしにマイクロボットの進む方向にその短い足で歩いていったベイマックス。秘密工場の窓から侵入する際に音を出しながら空気の出し入れをしたベイマックス。警察署にてセロテープで空気漏れを修理したベイマックス。バッテリー切れになると酔っ払いみたいになるベイマックス。みんなで海に落ちたあとに温めてくれたベイマックス。よしよしと頭を撫でてくれたベイマックス。一緒にグーパンチを突き合わせて歓びを分かち合ったベイマックス。
そんなベイマックスともう会えなくなるなんて嫌だ!カムバ〜ック、ベイマ〜ックス!

でもそんなベイマックスはヒロの「心」と「カラダ」を守るケアロボット。ヒロの前から絶対にいなくなるなんて彼のシステムが許さないんですよね。それがベイマックスのロケットパンチの握り拳に隠されていた緑色のチップ。
そう、ベイマックスの心はまだ生きている。あとはその肉体だけを蘇らせてあげれば、それで再びベイマックスと会える。もう何て素晴らしいオチなんだ!

優しさで世界を救えるか?

その答えはこの映画を見れば分かります。もし世界が本当に平和を望むなら是非ベイマックスを量産してください。私も1体購入しますから!

ちなみに同時上映の『Feast』は犬を飼っていた者としてはたまりませんでした。犬の目線がよく描かれていましたし、思わず『彼女と彼女の猫』を思い出してしまいましたよ。

深夜らじお@の映画館はフレッドのパンツ4回履きが金持ちパパと判明したスタン・リー直伝というオチも映画ファンとしては素晴らしいと思いました。

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2014年07月21日

『思い出のマーニー』

思い出のマーニー宮崎駿を意識していないがゆえに、中途半端で個性に欠ける。
宮崎駿・鈴木敏夫というスタジオジブリを支えた2本柱が引退して初めての作品となるこの映画。米林昌宏監督と西村義明プロデューサーがどのような方向に進もうとしているのかを探るためにも見てきましたが、全く方向性が定まっておらず、ゆえに全てにおいて中途半端な印象だけが残る映画でした。

良くも悪くも宮崎駿という巨大な存在に左右されてきたスタジオジブリ。マイペースな高畑勲監督はさておき、実力派の近藤善文監督や細田守監督、奥の手・宮崎吾朗監督まで様々な才能を引っ張り出しては御大一人に頼らぬ映画会社を作り上げてきた鈴木敏夫プロデューサー。
その歴史はいわば「宮崎駿を意識してきたがゆえの歴史」でもあると思うのです。

そんな鈴木Pの作りあげてきた歴史に対し、次世代を託された米林監督と西村Pはどんなアプローチを見せてくれるのかと楽しみにしていたのですが、残念ながらこの映画には「ジブリから宮崎先生のイメージを打ち消すぞ!」や「宮崎先生に対して俺らはこういう作風で挑む!」といった宮崎駿を意識した強い想いや個性がほとんど感じらず、逆に「宮崎先生に憧れてます」という中途半端な想いしかなかったように感じられました。

つまり米林監督と西村Pには宮崎監督や高畑監督のような職人魂もなければ、吾朗監督のような親父越えという使命感もない。なのに「宮崎先生は宮崎先生、俺らは俺らです」といった個性もない。
だからこそ、原作ありきとはいえ、どのように見せるかという演出や脚本の作り込みも浅はか。マーニーの正体が杏奈のお婆さんというオチも早々にしてバレるどころか、その感動を最後まで持続させることも出来ていない。

恐らく米林監督も西村Pも凄く純粋な方なのだと思います。それはこの作品に漂う、まるで北海道の澄んだ水の如く、冷たく透明感のある雰囲気からも理解出来ます。

ただこの2人は杏奈と同じく金髪お嬢様のマーニーに憧れているだけ。杏奈と同じく自分は何をしたいのかをハッキリとさせていないだけ。憧れの対象の外側だけを見て中身をまだきちんと考察出来ていないだけ。
その結果、この作品には「対宮崎駿」というジブリならではの色が全くないのです。

良くも悪くも宮崎大先生を意識することで数々の名作を作り上げてきたスタジオジブリ。
別に米林監督や西村Pに宮崎監督や鈴木Pの真似をしてほしいとは全く思いませんが、ただスタジオジブリという看板を背負う以上、いかにして「宮崎駿・鈴木敏夫」という色を自分たちの色に変えていくかは示して欲しいと思うのがファンの心理。

『コクリコ坂から』と同様にファンタジー路線から等身大路線への変更は大変心地良いものの、杏奈もマーニーもどちらも宮崎親子が好きなタイプの女の子ではないどころか、米林監督もどちらもさほどタイプではないだろうという、ヒロインへの強い下心もあまり感じられなかったこの作品。
せめて「宮崎先生とは女の子の趣味が違いますねん」という米林昌宏流のヒロイン道が描かれていれば、映画の雰囲気ももっと違っていたでしょう。

深夜らじお@の映画館が以前聞いた格言:ストーリーは上半身の筆で、ヒロインは下半身の筆で書く(描く)もんや!

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2014年04月30日

『たまこラブストーリー』

たまこラブストーリー苦いコーヒーは青春の味。
餅の食べ過ぎで太った喋る鳥がいないだけで、こんなにも可愛らしい純愛ラブストーリーが出来上がるなんて…。さすが京都アニメーション!
深夜TVアニメ「たまこまーけっと」の映画化というよりも、タイトル通り「ラブストーリー」一本勝負で一本の映画を作り上げたと言っても過言でないこの作品。京都駅での糸電話を思い出すだけで心が温かくなりますよ〜。

進学、就職、留学。人生で初めて大きな岐路に立つ高校3年生。進学希望の常盤みどり、建築学科希望の牧野かんな、留学志望の朝霧史織、東京の大学で映像を勉強したい大路もち蔵に対して、何となく実家の餅屋を継ぐことしか考えていない北白川たまこ。

誰もが高校3年生の時に経験する、周りの友人が自分よりも真剣に将来のことを考えていることに対する焦りや置いてけぼり感。
高校を卒業すれば、みんな離れ離れになる。それは淋しいけれど、目標に向かう仲間を止めることは出来ないと自分に言い聞かせつつ感じる、この淋しさの要因は自分の将来が見えていないからだという事実。

そんな時に訪れる幼馴染からの突然の告白。もち蔵の想いをどう受け止めればいいのかと悩めば悩むほど募る焦り、そしてバトンを始め何事も巧く行かず自分だけ取り残されているように感じてしまう。
まさに将来への不安と人間関係の変化を「成長」という2文字で巧くリンクさせているところが、さすが京都アニメーション。

もち蔵の気持ちをちゃんと受け止めなきゃと頭では分かっているけれど焦りだけが募るたまちゃんと、そんな幼馴染を見て告白を後悔するもっちー。
お向さんの開かない2階のカーテンに2人のもどかしさを映し出し、ミルクや砂糖を入れない苦いコーヒーに成長することのほろ苦さを味あわせる。
もう丁寧に心の機微を描いた演出がたまらなく素晴らしいこと。この混じりっ気なしの純愛ラブストーリーが可愛らしくて仕方ないこと。

しかも思い切って夏休みの短期留学に挑む史織、高所恐怖症克服のため木登りを頑張るかんな、百合の想いを捨てるため親友にもっちー転校の嘘をつくみどり、吾平の想いを「でも必ず帰って来いよ」で代弁する豆大と、たまちゃんやもっちーの成長を優しく見守ってくれる周囲の存在も忘れずにしっかりと描かれているのも嬉しいこと。

マイペースなたまちゃんも時に妹あんこちゃんに着せたセーラー服のスカーフを直す母性をのぞかせ、片思いで青春を終わらせそうな不憫なもっちーも不安で涙目になるたまちゃんをしっかりと支える。
だからこそ、ちゃんと伝えなきゃならない自分の気持ち。

東京の大学に行く前に東京の高校に転校するはずないでしょ!という普通に考えればわかる嘘も信じてしまうたまちゃんが糸電話を握りしめ向かう京都駅。
新幹線や在来線などが混在せずシンプルな構造の駅でも、焦るたまちゃんにとっては凄く広い場所に感じてしまう、物語的には最高のロケーションで迎える最高のクライマックス。

携帯電話でもない、メールでもない、直接伝えるでもない、たまちゃんともっちーだからこその糸電話で伝える「私ももち蔵、大好き」の一言。
思わずもっちー、おめでう〜!と涙ながらに拍手しちゃいそうなこのラストシーン。その後、2人はどうなったかなんて野暮なことは一切描かず、観客の想像に任せる〆方もまさに「ラブストーリー」一本勝負で挑んだ京都アニメーションの覚悟と作品に対する優しさが滲み出ていましたよ。

てな訳で次はチョイちゃんとメチャ王子の恋路かなと期待しつつ、その恋路をどう料理するかは全てデラちゃん次第なんでしょうけど、ピーチ餅やデラちゃん餅をおしり餅やおっぱい餅に見せるデブ鳥だけに、さてどうなることやら…と想像することが楽しくなるこの作品。
TVアニメ第2期の放送も楽しみになってきましたよ。

深夜らじお@の映画館はインフルエンザで学級閉鎖中の他のクラスに無断でロッカーを増やそうと企むかんなちゃんのキャラクターが一番のお気に入りです。

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2014年03月15日

『アナと雪の女王』

アナと雪の女王これぞコンパクト・トゥルーラブストーリー。
ディズニーらしい王道作品なのに、ムダのない展開と素晴らしき楽曲、そしてロマンスに拘らない「真実の愛」に、どこか新しささえも感じるこの作品。
第86回アカデミー賞アニメ作品賞及び主題歌賞受賞も納得の出来栄えに、久しぶりにアニメでしか描けないディズニー映画を見させてもらいましたよ。

ミュージカル作品である前半と、スペクタル作品である後半をトゥルーラブストーリーで優しく包み込んだような温かさ。映像はほぼ雪や氷ばかりの世界観なのに不思議と映画そのものには人の温もりのようなものを感じる。これがアカデミー賞で2冠に輝いたこの作品の魅力なのでしょう。
とにかく氷商人の歌声で始まるOPから「真実の愛」が花開くラストまで、一切ムダなシーンがないこともあってか、上映時間102分があっという間に過ぎてしまうのに、映画を見終わった後の満足度は凄く高いんですよね。

しかもオスカーを受賞した「Let It Go」以外の楽曲も素晴らしいうえに、どの楽曲もアナやエルサたちの複雑な想いを一曲に込めていることもあってか、深みがあるのです。
例えばエルサが女王として戴冠式を迎える日のアナとエルサがドア越しに城門が開くことについて歌い上げるシーンも、アナの開門により外の世界に飛び出したい喜びとエルサの開門により自身の秘密が外の世界に流れ出ることへの不安が見事に一曲の中に納まってます。

また氷の魔力を制御出来ないことで雪山へ逃げ出したエルサが歌い上げる「Let It Go」にしても、これで誰も傷つけなくて済むという安心感と、もうこれで誰にも会えなくなるという淋しさを押し殺す孤独感を全て「Let It Go(これでいい)」で表現してしまうんですもん。
もうこれは完全に子供よりも大人が楽しむディズニー映画。ですから子供向けにとメインストーリーから逸れるようなムダなシーンが一切ないんですよね。

なので逃げ出したエルサを探すため、アナと共に旅をする氷商人のクリストフやトナカイのスーヴェン、雪だるまのオラフもいい味しか出してくれないんですよね。
クリストフは氷の魔法が心臓に突き刺さったアナを「真実の愛」で助けるためにアナの恋人ハンス王子の元に必死になって運び、スーヴェンはそんなクリストフを恋の面でも手助けし、自分が雪だるまであることを分かっているのかどうか不明なオラフはアナに「真実の愛」が何たるかを優しく教える。

そしてナイスガイと思われたハンス王子がそのドス黒い正体を現し始めると、当然王位を狙うハンスよりも「真実の愛」に一直線なクリストフとのキスでアナの呪いも解けるだろうと思っていたら、ありゃりゃハンスに命を狙われた姉を守ってアナが凍ってしまったではあ〜りませんか!
ならばクリストフよ、いつ真実のキスをするの?今でしょ!のはずが、ありゃりゃ妹を思う姉の愛でアナを覆っていた氷が解け始めているだと!?

これにはちょっと驚きでしたが、でもよく考えてみればこの作品はアナとエルサの姉妹の物語。ですからクリストフのキスはいつするの?は、また今度でしょ!になってしまうのも納得。
この辺りも安易に従来のディズニー映画のレールの上を走らずに、きちんと一本の作品として向き合っているところが大人が楽しむための映画と感じましたよ。

てな訳で同時上映「ミッキーのミニー救出作戦」も初期作品と最新CGを見事に融合させたアニメでしか描けない新しさを感じたこの作品。
これぞディズニーの底力。大人が楽しめる作品を作らせれば、他のスタジオとは比べ物にならない素晴らしさはさすがでしたよ。

深夜らじお@の映画館はアカデミー主題歌賞を受賞した作品を吹替版で見るなど言語道断だと思います。

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2013年11月23日

『かぐや姫の物語』

かぐや姫の物語生きているという手応えさえあれば、幸せだった。
日本最古の物語「竹取物語」を大胆に新解釈することもなく、ただかぐや姫の心情を中心に描くことで見事に大人の、そして家族の物語へと昇華させたこの作品。
姫の犯した罪と罰を要点に見ていくと、改めてこの「竹取物語」というお話が娘を嫁に出す両親とその娘自身の物語であると痛感しました。

「タイトルに『ほ』が入ってませんけど、どうしましょ?」「えぇ〜い、『ホーホケキョ』でもつけとけ!」という会議の末に公開された前作『ホーホケキョとなりの山田くん』から14年。
構想8年、でも本当は14年、製作費50億円を掛けて「一緒に仕事をすると宮さんより疲れるんです。だってマイペースだから24時間つきっきり状態になってしまうんですもん」と鈴木敏夫Pに言わしめた高畑勲監督が放つこの新作。

日本人なら誰もが知っている物語を、観点を姫の主観へと少しズラしただけでその他は一切のアレンジをせず、水彩画のようなタッチとキメ細やかな動きで、まるで絵巻物を読んでもらっているかのように見せる演出の巧さ。そして不思議と自分の両親のことを考えずにはいられなくなる心の片隅に淋しさを感じさせる構成の巧さ。
その大御所ならではの巧さを味わうと、タイトルに『ほ』が入っていない理由は何かと探ることなど、どうでもよくなりました。

それよりも重視すべきなのは姫が犯した罪と罰とは一体何だったのかということ。個人的には以下の3点ではないかと思うんですよね。
一、キジ鍋の約束を果たせず都に行ってしまったがために、捨丸兄ちゃんにその後10年も逢えなくなってしまったこと
二、都で再会した捨丸兄ちゃんに何も言えずただ身なりの差を見せつけただけになってしまったことで、ただならぬ後悔に苛まれたこと
三、大臣たちの求婚に無理難題を出したことで、求婚者の一人・石上中納言を死なせてしまったこと

ただこの3点「約束破りの後悔」「不意の再会での戸惑い」「見通しの甘さによる罪悪感」って事の大小は違えど、思春期を過ごした方なら誰しもが経験することばかりなんですよね。
そしてこれらの罪と罰を経験する中でいつも自分を支えてくれたのは、両親であり、友人であり、恋しき人である。それを実感することが生きているという手応えだと思うのです。

でもかぐや姫にはその手応えを感じる機会がほとんどなかったのが淋しいところ。
竹取の翁は姫の幸せを見誤り、その姫も花見に行けば昔を思い出せると期待するも痛感するのは自分が籠の中の鳥であることだけ。そして逢えぬ愛しき捨丸兄ちゃんへの想いが募ってもそれが恋煩いにはなってくれない切なさにまた苛まれてしまう。

ほんの少しでもいい。捨丸兄ちゃんと過ごせたらという姫の想いが叶うと同時に、その幸せが捨丸兄ちゃんの見た夢幻になってしまう、あの月へと帰らなければならない姫が全身で感じる淋しさ。

もしこの幸せが夢幻ではなく現実になっていたなら、姫が翁と媼に今日まで育ててもらった感謝と思い出も忘れずに、嫁になる娘として両親の元から旅立てたはず。
でも地上に生きながら月に願った姫の罪は、月の羽衣を着ることで地上での様々な思い出も感情も忘れてしまうという罰になり、両親に「ありがとうございました」の一言も言えずに月に帰らされてしまう。

今の全てが過去の全てだからこそ、嫁に行く娘は両親に大事に育ててもらった愛を秘めて旅立つことが出来る。
今の全てが未来への希望だからこそ、両親は大事に育てた娘を嫁に出すことが出来る。

かぐや姫はそんな「両親に大事に育ててもらった娘」としての幸せを全う出来なかった悲しきヒロイン。
そして「竹取物語」はそんなヒロインを通して、子供の幸せと両親への感謝を今一度考えさせるための家族の物語だったのではないでしょうか。

深夜らじお@の映画館は女童が子供たちと共に歌う最後の抵抗が功を奏して欲しかったです。

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2013年10月30日

『劇場版魔法少女まどか☆マギカ[新編]叛逆の物語』

魔法少女まどか☆マギカ叛逆の物語一人ぼっちになったらダメだよ。
これは5人の魔法少女の物語ではなく、一人の魔法少女が魔女になっていく物語。美樹さやかも佐倉杏子も巴マミも、そして鹿目まどかさえもその存在感が薄くなってしまっている暁美ほむらだけの物語。
魔法少女は夢と希望を叶える存在。魔女は悪夢と絶望を見せる存在。ゆえに続編がなければ、ほむほむが不憫でなりませぬ!

まどかの大いなる愛により救われたはずの世界と、ほむらの孤独な戦い。しかしその代償はまどかの存在どころか、まどかに関わった全ての人から彼女の記憶が消えてしまったという事実。これは本当にほむらが望んだ結末なのか?

ほむらが本当に望んでいた世界。それはさやかと杏子がじゃれ合い、まどかとほむらが手を繋ぎ、マミがその光景を笑顔で眺める世界。
でもそんな世界には違和感がある。いないはずのまどかがいる。マミを食べたはずのベベがマミの親友になっている。そしてキュウべぇが大人しいペットになっている。

どこか違和感のある世界、でもこのまま続いてほしい世界。これで大団円を迎えれば満足と思える一方で、それでは「まどマギ」としては不満が残るとも感じてしまう世界。

そんな微妙な世界観で作られたこの作品は、正直な感想としては難解だったとしか言えませんでした。
確かにあの違和感のある世界はある意味観客が望んでいた世界だと思います。杏子とほむらのエンドレスバスによる見滝原の調査、ベベを巡るマミとほむらの銃撃戦、まどかに関する記憶を有していたさやかとほむらの会話など、どこかしらTVシリーズからの続編として見ると違和感はあれど、それはそれで5人の魔法少女が誰一人として欠けることなく存在している世界なのですから。

でもその世界が眠るほむらの夢だと分かってから、孤独な戦いを何度も繰り返してきたほむらを助けるために4人の魔法少女が協力して戦おうとすればするほど、観客の期待とは裏腹にダークサイドに堕ちて行くほむらを見ていると、これまた妙な違和感を感じるんですよね。

ほむらの想いは「まどかを守ること」ですから、まどかが消えてしまったという事実を受け入れることが出来ないのは理解出来ます。そして自分が魔法少女の成れの果てである魔女になっても「まどかを守りたい」という気持ちも理解は出来ます。
ただそこに「ほむらを守りたい」というまどかの気持ちが反映されていないために、変なズレというか、妙な違和感というか、製作側の「ほむらが報われる」という結末を無視したような残念な気持ちになってしまうのです。

聞けば製作側には続編製作意欲はあるそうなので、「ほむらが報われる」という結末は先送りされたものと信じたいのですが、この完全新作だけを見る限りでは6人目の魔法少女ベベちゃんの活躍も少なかったこともあり、いい表現をすれば難解、悪い表現をすれば消化不良という感じでしたね。

あと脚本が虚淵玄先生だけに、挿入歌やED曲がKalafinaになると世界観が「魔法少女まどか☆マギカ」というよりもTYPE-MOON作品になってしまっていたのも残念なところ。
そのKalafinaに関しても楽曲は素晴らしいのですが、この作品はまどかとほむらの2人の友情を描いているのですから、やはり3人組ユニットのKalafinaよりも2人組ユニットであるClarisで楽曲を統一してほしかったですね。

てな訳で魔法少女になる前のベベちゃんが「カマンベール♪カマンベール♪」と繰り返すので、チーズが食べたくなってしまう映画でした。

深夜らじお@の映画館はこのままでは消化不良なので是非続編を見てみたいです。

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2013年09月04日

『劇場版あの日見た花の名前を僕達はまだ知らない。』

あの日見た花の名前を僕達はまだ知らない超平和バスターズはずっとなかよし。
ノイタミナ枠の傑作「あの日見た花の名前を僕達はまだ知らない。」はやっぱり泣ける!何度見ても泣ける!上映時間99分のうち80分は泣いていたかも知れないくらいに泣ける!
でもこの涙はTV版を見た時に流した涙と同じ涙。「劇場版」でありながら映画にではなく作品に対して流した涙。それが物足りなさに感じてしまった映画でした。

TV版の最終話でめんまを見つけてから1年後。じんたん、あなる、ゆきあつ、つるこ、ぽっぽがそれぞれの「めんまへの想い」を手紙にし、思い出の秘密基地でその手紙をお焚き上げにする。その過程で5人が5人、めんまが亡くなった「あの日」に苦しんできた自分自身を見つめ直す回想をTV版の総集編として丁寧な構成で見せていくこの作品。

そりゃTV版であれだけ号泣した者としては、じんたんがめんまを背負って秘密基地まで走るOPから涙腺が決壊しっ放しですよ。
じんたんにさえ見えなくなってしまっためんまが「かくれんぼだよ」と強がれば涙が流れ、大好きな5人に必死に手紙を書くめんまを見ては涙が流れ…。

さらにぽっぽが自分にはめんまが見えないことに焦りを感じる姿にも涙が流れ、ゆきあつが女装したまま女の子のように手で顔を押さえて泣く姿にも涙が流れ、あなるの「じんたんのバカ〜、私のバカ〜」にも涙が流れ、つるこの「ゆきあつの傍にいるだけでいい」という片思いにも涙が流れ、工事現場で必死に働くじんたんのかっけー姿にも涙が流れ、めんまとじんたんママの「じんたんを泣かす」という約束にも涙が流れ、そして気がつけばあの最終話のクライマックス。

「secret base〜君がくれたもの〜(10years after Ver.)」をBGMに「めんま、見ぃ〜つけた!」とじんたん・あなる・ゆきあつ・つるこ・ぽっぽの5人が叫べば、もう滝のように涙が流れる流れる。うぅ〜、やっぱりあのクライマックスは何度見ても泣ける〜!

ただこれらの涙は全て「TV版を再見して」流した涙であって、「劇場版」を見て流した涙ではないんですよね。
「あの夏」から1年を経て心の整理が出来たあなる・つるこの女性陣は大人っぽくなり、じんたん・ゆきあつ・ぽっぽの男性陣も落ち着きが出てきたことで、この5人の再会が同窓会のような温かな雰囲気になっているのは凄くいいことです。

でもこの「劇場版」には「あの夏」から1年後の超平和バスターズを見て流す涙がないんですよね。これが凄く残念であり、どこか心の奥底で満足出来ない物足りなさの原因でもあるのです。
せめて5人がめんまに対してどのような手紙を書いたのか、手紙をお焚き上げしながらそれぞれが心の中で読むシーンがあれば「劇場版を見て」流す涙で心を満たして映画館を去ることが出来たのに…。

結局「総集編+α」であり、それを「劇場版」として見せるのは映画としてはいいとは思えない。そういう映画になってしまっているんですよね。

てな訳でめんま視点で描かれた、じんたんが手を引いてみんなの仲間に入れてくれた、じんたんが秘密基地が帰る場所だと言ってくれた、じんたんがお寺でのかくれんぼで手を握ってくれたという乙女エピソードでもっと涙を流したかっただけでなく、つるこの「抜け駆けするかも」の続きも、あなるのじんたんへの想いがどうなるかも、ゆきあつの学校での王子ぶりも、ぽっぽのガールズトーク不法侵入ぶりも、じんたんの社会復帰ぶりも、出来ることならば「総集編込みの完全新作」としてみたかった映画でした。

深夜らじお@の映画館は5人の「めんまへの手紙」の全容が知りたかったです。

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2013年07月27日

『SHORT PEACE』

SHORT PEACEこれが原点、これが至宝。日本のアニメーションの魅力がこの映画には詰まっている。
大友克洋監督と聞いて何も反応しない方には一切オススメしないが故に客層が限られてしまうものの、ジブリアニメこそ正統派という風潮に真っ向から意義を唱える方にとってはこれぞ芸術の域に達したアニメと言えるこのオムニバス映画。これこそが「アニメ」なのです。

森本晃司監督によるリズミカルに少女の衣装が変化するオープニングアニメーションから、まるで『不思議の国のアリス』のように映像の美しさと独特の世界観を4つの短編で思う存分堪能させてくれるこの作品。

SP:九十九まずは森田修平監督による『九十九』。とにかくこの作品は色彩豊か。しかもモノを大切にするというテーマだけに旅人の男が傘や着物を修復していく度にその色彩がさらに豊かになるんですよね。モノを大切にするとは単に「もったいない」精神から来るものではなく、美しさを取り戻すことでもある。平和に必要な美徳を感じる作品でした。


SP:火要鎮次に大友克洋監督による『火要鎮』はまるで絵巻物が動画になったかのようなシンプルな美しさに彩られながら、力強い炎の描写と、その炎に負けじと燃え上がるお若と松吉の淡い恋心が凄く印象的。にも関わらず、まるで絵巻物を見終わるかのような余分な後味を一切残さずその世界観から抜け出してくれる心地良さもある。動画であり静止画でもある。そんな感じのする作品でした。


SP:GANBOさらに安藤裕章監督による『GAMBO』では石井克人氏脚本というだけあって、優しさと激しさの融合が見事。ですから少女の願いを聞き入れた白熊と凶暴な赤鬼の対決は手に汗握る迫力がある一方で、野武士を絶滅寸前まで追い込んだ恐ろしい存在であるはずの白熊がか弱き少女のために命を投げ出して闘う姿には無意識のうちに応援してしまうこと。そして少女が語るこの白熊の正体…。それは誰の人生に必ずいる恩人なのかも知れませんね。


SP:武器よさらばそして最後はカトキハジメ監督による『武器よさらば』。大友克洋監督から直々に任せられた大友ファンのカトキ監督だけあって、大友克洋ワールドが全開。プロテクションスーツに武装した5人と戦車型無人兵器との戦闘は多彩なカメラワークと編集で見せてくれる一方で、4人もの犠牲者を出しておきながら最後はスッポンポンになればいくら戦闘意欲があろうとも戦いにすらならぬと戦争を皮肉るかのように締め括る始末。このビターテイストが大人の映画って感じがしましたね。

てな訳で『九十九』『火要鎮』『GAMBO』の3作で「平和に必要なモノは美徳、恋心、親愛」と描いておきながら、最後の『武器よさらば』は「何もなければ戦争は起きぬ」というこの構成に思わず苦笑しながら「参りましたわ」と思ってしったこのオムニバス作品。
改めて大友克洋監督を始め、日本のアニメーション界には素晴らしい才能が溢れていることを実感出来た作品でした。

深夜らじお@の映画館はどの短編も長編でも是非見てみたいです。

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2013年07月20日

『風立ちぬ』

風立ちぬ人が見る夢は儚い。でもだからこそ美しい。
これは『コクリコ坂から』以上に大人の映画。しかも宮崎吾郎監督のような若造が描く懐かしさではなく、宮崎駿監督のように実体験を反映出来る世代にしか描けない本物のレトロなラブストーリー。だからこそ際立つ日本人独特の言葉に現さない美しき感情と愛情。これぞ「日本の映画」だと思います。

スタジオジブリでは初となる実在した人物をモデルにしたこの作品。その主人公はゼロ戦の設計者・堀越二郎と作家・堀辰雄を組み合わせたキャラクターだそうですが、眼鏡を掛けた風貌といい、喫煙姿といい、職人ならではのマイペースぶりといい、どこから見ても宮崎駿監督そのものに見えてくるんですよね。

でもこれがこの映画に隠された魅力でもあると思うのです。
というのも宮崎駿監督作品として初となるタイトルに「の」が入っていないこの事実を、「の」の呪縛から解かれたと勝手に解釈すると、自然に見えてくるのはファンタジーというジャンルにさえ縛られず宮崎駿監督が自由に様々な思いをこの作品に込めているということ。
さらに突き詰めて言えば、宮崎駿監督もクリント・イーストウッド監督やスティーブン・スピルバーグ監督と同様に、いよいよ作家としてのカウントダウンが始まっている。ならばこの作品に込められた宮崎駿監督の本当に伝えたいモノ、残したいモノは何か。

それが「夢を見続けることこそが最高の幸せ」だと思うのです。
堀越二郎や宮崎駿などジャンルを問わず作家の誰しもが思う「美しいモノを作りたい」という夢。
それは菜穂子のように「美しいモノだけを見せたい」という優しさに包まれた環境でしか生まれないもの。
そして「美しいモノ」を追い続けることこそ、誰もが「生きている」と実感できる幸せ。

でも現代社会にはそんな夢もない。夢を見るための環境も悪い。幸せも実感できない。だからこそ自殺や他殺が一向に減らない。

ただ時に関東大震災という恐怖を轟音で代弁し、時に前に進もうとする人の背中を押し、時に疲れた心を撫でるように癒し、時にいたずら心でステキな出会いを演出してくれる風が吹く限り、人は夢を見続けることが出来る。

祝言の席で見せた菜穂子の花嫁姿、そんな新妻に早く会いたいという想いも込めて作られたであろうゼロ戦、朝帰りで疲れた夫に自分の布団を掛ける妻の優しさ。これらを丁寧に描くという夢を実現し続ける限り、いくら『天空の城ラピュタ』に似た音楽を起用する久石譲先生のセンスに美しさを感じられなくても、鈴木敏夫プロデューサーの策略のおかげか、職人としての「生きねば。」という想いで脱ファンタジー路線を歩んだ宮崎駿監督に「引退」という2文字はまだまだ縁遠いと感じましたよ。

深夜らじお@の映画館はこの美しいラブストーリーに涙を流さずにはいられませんでした。

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