「それはまた、タイミングが悪かったのね」
ナースステーションで休憩していた秋沢は、しみじみとした感じでこたえていた。その場所で、山のように詰まれたカルテに、ひたすら記入をしていた奥笹も相槌を打つ。
柳は最終的には手術に同意したが、最後まで渋ったのにも理由があった。やり手の営業マンとして、長年関西で活躍していた柳であった。
そんな彼がこの地に来ていたのは、明日かなり大きな取引があり、それを一任されていたからである。人の命と会社の躍進を天秤にかけるのは、おこがましいことではあるが、少なくとも、彼にとっては掛け値なしに重要なもののようであった。
「あの人も、見かけに寄らず努力家なのね。早く潰瘍が見つかっていればよかったのに。でも、あそこまでになるってことは、ずっと我慢してたんでしょうね」
「ええ。意思の強い方だと思います」
「……でも、放っておいてもいいのかしら。ひょっとしたら、病院を抜け出したりするかも」
「……まさか、そんなことが―――」
しかし実際、この笠見町病院でも前例があるだけに、油断はならなかった。
当然のことかもしれないが、病院という空間はかなり特殊な公共の場である。四方八方から、見も知らぬ病気や怪我で苦しむ人々が集まるところ。厳重に管理していても、中には耐えられず脱走する人も、たしかに存在する。
「私は今日夜勤だから、一応注意しておきますけど。先生はどうします?」
「そうですね……」
「まぁ、その山がすぐになくなるとは思わないけれど」
秋沢は積まれたカルテに目をやりながら、ニヤッと意地の悪い顔をした。
ここでも電子カルテの導入が決まってはいたが、まだ紙が活躍しそうな情勢が続いている。さらにカルテが積まれ、奥笹は思わずため息をついて目を伏せる有様だった。
夜になり、廊下の明かりが消されても、非常灯はやけに明るく輝いている。
この病院の中庭には、循環式の小川が流れており、かすかにポンプの不協和音が響いているようだった。だが、そんな音も聞こえていないのだろう。結局遅くまで書類の整理に追われた奥笹は、医局で座ったまま眠っていた。
そして、その医局を横切る、ひとつの怪しい影。
「(あかん、やっぱり気になる。気になるもん、仕方あらへんよな。堪忍しよってな、先生)」
案の定、といってしまってよいのか、柳は古風な抜き足で歩いていた。
「今なら誰もおらへんやろ。今のうち―――」
「なら、なんとか出れそう?」
「(ゲゲッ!!!)」
「な、なんや、し、師長はんか〜〜」
「何幽霊を見たような顔してるの? ……で、こんな夜遅くにどこへお出かけでしょうか」
「イ、イヤ、よ、夜空を見ようかいなと思いましてな、ハハハ」
「荷物を持って、ですか?」
「……」
「とにかく、明日は手術なんですから安静にしておいてくださいね、柳さん!」
「……はい」
当然、治療を受ける受けないの権利は患者にある。情報化の流れも受け、以前のように医者の判断が全て、という時代でもなくなりつつあるだろうか。
しかし情報の流れの肥大化は、誤ったものも多く流れることも意味している。病院によっては、治療のためにかなり患者に強いる部分が多いところもあるが、適切な医療が行われるのであれば、またそれも必要なことであるのかもしれない。
選択する権利は、自らが結果に責任を持つ義務であるということ、を忘れてはならないのだろう。
翌日は問題も起こらず、起こさず、手術は行われた。
近年、胃潰瘍に対してはH2ブロッカーやプロトンポンプ阻害薬などの内服薬が出血などにも効果を発揮し、また潰瘍の多くの原因となっているピロリ菌の除菌薬も普及し、内科的治療が非常に功を奏している。
しかしながら、もろくなった潰瘍部の穿孔による出血は量が多いため、処置が遅れればあっという間に手遅れになることには変わらない。
「……予想よりも、狭窄の程度が強いですね。胃壁も、いつ穿孔してもおかしくないくらいですし」
今日も助手に入っていた救急科の研修医は、いつも以上な甲高い声を出していた。
「ええ、そうですね。これなら開腹してビルロート法の適応でもよかったかもしれません」
(ビルロート法:切除で残った胃と空腸を吻合する術式)
奥笹は腹腔鏡のレバーを動かしながら、淡々と切除を進めていく。
内科的治療のみならず、腹腔鏡などの非侵襲的な外科的治療の進歩も目覚しいものがある。
「腹腔鏡の扱いは―――まだまだ慣れません」
そういいつつも、奥笹は研修医にポイントを教えながら、丁寧にこなしていった。
「(これだけ見事にやりのけているのに……やっぱり凄い先生だ)」
仕上げの段階になり、ほかのスタッフ達の動きも、俊敏になりつつあった。
妥協を知らぬ奥笹の姿勢は、皆に少なからず影響を与えているに違いなかった。
「経過も順調ですね。この調子だと、退院も大分早くなりそうですよ。って、どうしたんです、元気があまり無いようですが?」
「先生、知ってるくせに意地悪いでんな」
胃を切除した後は後遺症が残ることが多いが、柳は順調に回復していた。
「ハハ、柳さんらしくありませんね。大丈夫ですよ、何もプレッシャーで潰瘍を作ったわけでは無さそうですし。他の部分は健康そのものでしたから」
「まぁ、今となっては健康が一番とは思いますけどな。……せやけど、四年越しのチャンスを逃したって言うのは、なかなか立ちなおれんもんです」
「それもそうですね……」
そのとき、病室に柳さんの後輩らしき人が入ってきた。
後輩というだけあって、特徴的な人であった。
「おっ、柳さん、具合はどうッスか?」
「おおっ、お前か。うん、体の方はな。……って、手ぶらか? 見舞いの品の一つでも持ってきたらどうや」
「うわっ、きついところつかれたッス、気づかなかったッス。でも、知らせならあるッスよ。これッス」
「(ッス、ッス、ッスって。我慢するのがく、苦しい。……ププッ)」
点滴を調節していた看護師は、不思議な声を出す柳の後輩をみて笑いこらえきれなくなっていた。
一方の奥笹は、というと
「(―――今こそ、試練のときか)」
涼しい顔をして、やはり笑いを我慢していた。
この後輩は、入社した時からずっと柳に世話になっていたということで、自身の営業の合間に駆けつけていた。しかも、急いできた理由はそれだけではなかった。
「お前これ……契約取れたんか!?」
「ええ、先輩がいなかったんで、皆ちょっと手間取ったッスが、ちゃんと理由もいったら、相手の部長さんがうまく調整してくれたッス。先輩が今まで交渉してくれたおかげッスよ!」
柳は狐につままれた、ようないぶかしげな表情を見せていたが、顔には自然と笑顔がほころんでいた。
「とにかく、よかったじゃないッスか、―――いや、じゃないですか、柳さん」
思わずそういってしまった奥笹を見て、看護師は笑いをこらえきれず病室を去っていった。
それをみて、皆完全に笑ってしまっていた。
しばらくたって後輩は帰る間際に、その部長からの言伝をなぜか奥笹に伝えていた。それを聞いていた秋沢は、
「その部長さんって……あ、そうそう。先生の受け持ちだったんじゃ?」
「ああ、はい、たしかに。でも、何か運命めいたものを感じますね」
「そうね。たしか、その部長さんの病名って―――」
「ええ、胃潰瘍、でした」
めぐり合わせは、人が生きる社会では数奇なことのようにも感じるが、必然でもあるのかもしれない。
斜陽が差し込む中庭の小川には、今日も絶え間なく水が流れ続けていた。
CASE4 「流るる小川」 - 完 -
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