「じゃあ、よろしく頼むよ」



 軒先にいた奥笹はそういって、携帯を切った。銃弾が入ったままの患者はできるだけ早い処置が必要であったが、ここでの設備で十分、とお世辞でもいえない程度であった。そのため美嶋に連絡し、必要な器具を近場から手配してもらえるように頼んだのである。



 新緑の季節とはいえ、田舎らしい豊富な緑は辺りを埋め尽くす勢いだった。奥笹は各地を過酷なペースで周ってはいたが、このようなすがすがしい環境に浸る機会に幸福感を覚えていた。軒先の自然石に座り、束の間の休息をしながら周りを見渡す。
 すると、少し先の民家の塀から、若い女性と思しき人影がちらりと見えた。どうやらここに用がある様子でもあったが、近づく気配もない。そして女性は奥笹の目線に気がついたのか、消えるように姿を隠した。


「(……何だろう)」

 奥笹は疑念を持ったが、追うこともせず中へと戻っていく。
 中では村田が、この病院ともいえるようでいえない、他の患者たちの診察をしていた。比較的症状の重い患者たちばかりのようだが、それにそぐうような設備や薬があるわけでもない。
 ……いずれもワケありの者が最後にすがる場所のようにも見える。そう意味では、ここは病院というよりも、「駆け込み寺」の様相を呈しているかのようにも思えた。

「準備はできそうですかな」

 村田は処置を終えて、元は書斎だったと思われる診察室に戻ってきた。最初に訪れた診療所に比べ、遥かに昔の病院を髣髴とさせるような設備は、むしろノスタルジーをかきたてるような落ち着いた雰囲気すらかもし出している。

「ええ、夜には始められそうです」

「そうですか、それまで持ってくれればええんじゃがの」

 村田は皺の目立つ肌に滲んだ汗をぬぐいながら、呟きにも似た声で答えた。そして昔ながらの手書きでカルテに記入をし始める。しかし意外にもびっしりと書き込まれており、些細なことまで含まれているようだった。


「ところで、先ほどここの様子を伺っていた女性がいたのですが」


「ほほぅ、それは、背の高い、若い女性じゃなかったかの?」


「はい、そうです」


「わしも詳しくは知らんのだが、どうやらあの患者のコレらしい」


 そういって村田は、指を立ててみせる。やや下品にも見えたが、的を射た表現でもあった。

「こんな世界は総じて、しがらみばかりが目立つもんじゃろ。なんでも簡単にことが進まん。まぁ、それはどの世界でも同じかもしれんがな」


「……そうですね」


 会いたくても会えない理由。それはどんなものであれ、事実として存在していることである。それは誰にも変えられないものかもしれない。
 ただ、奥笹にはやはり、不憫に感じずにはいられないものでもあった。

 

 夜になり、空には霞んだ月が朧に浮かび上がっていた。こんな夜はどこか不気味な感じだが、幻想的な空間をも醸し出している。そんな夜に必要な機材が手早く、そして密かに運び込まれると、間髪をいれず手術が執り行われた。
 とはいっても、やはり十分には揃わず、最低限のものしかない状況でもあった。奥笹は慎重に切開しながら、状態を確認していく。助手として入っていた村田も険しい表情になっていく。


「やはり、C4とC5へのダメージはかなり大きいな」
(C4、C5:脊椎の部位を表す名称)

「ええ。しかし高貫通型の弾丸ですから、壁越しで撃たれたような感じですね。本来なら即死は免れなかったでしょう」

「……むしろその方が良かったのかもしれんな」

 村田はまた呟くように、そう口走っていた。
 一見非情にも見えるが、その方がずっと楽だったかもしれないという考えも、確かに存在する。それはあたかも、ひとつの救いにさえ感じる、そんな世界でもあるかのようである。だが奥笹はそれに動じることなく、さらに精査を進めていた。

「骨の破片が、頚動脈付近にも飛び散っていますね。こちらの方も深刻です」

「せめて、もう少し高精度のマイクロサージャリーがあればのう」
(マイクロサージャリー:手術用顕微鏡)


「そうですね。ですが、今は手持ちの分でどうにかするしかないでしょう」

「とにかく、やれるだけはやってくれ。今の状況を考えたら、いかなる結果も仕方なかろう」


 今度ははっきりと、奥笹に全てを任せるように村田は言った。この世界では、あらゆる思惑が交差し、成り立っていく。損得勘定だけではない、複雑な論理がそこにはあるのかもしれない。
 彼を治そうとした、その事実が必要であるかのように。


「分かりました。やれるだけ、やりましょう」


 奥笹はそういうと、わずかに目を見開き集中し始めた。



 翌朝は昨夜の月が表していたように、曇天が空を支配し、雨が降り出していた。路面の泥が浮かび、脇へと流れていく。そんな様子を村田は窓から眺めながら、「表」の診療所へ向かうための準備を進める。奥笹はすでに、早朝に次の依頼場所へと向かっていた。
 その奥笹が手術を終えた患者の管理を、村田は専属の助手に任せ、雨の強くなりだした外へ駆け出していく。
すると、昨日と同じように奥笹が見た女性が、やはり陰で様子を伺っている。村田は少し思案したが、口を開いた。

「そんなところで傘も差さずにいては、風邪を引きますぞ」


「……」


「理由があるのかもしれんが、中に入って、会ってもいいんじゃないのかの」


 村田がそう言うと、女性は少しぱっとした表情になったが、また下を向いた。


「……私は、待っているしかできませんから」


 女性はやっとの思いで囁くような声を出す。
 そんな彼女に村田は傘をかぶせた。


「そうか。だが、待っていることも大事なことかもしれんな。いつかは救いが現れるものかもしれん」


 村田は自分に言い聞かせるかのように呟いた。
 女性もようやく意を決したかのように、歩き出す。村田はそんな彼女を中へと導いていった。

「(待てば、か。まさか、この世界であれほどの医師、男に……今更に会えるとは、思いもせんかったしな)」

裏の世界で殺伐と生きてきた老練な医師にとっても、昨夜目前にした「驚異」に、魂を揺さぶられたかのようであった。



 月が呼び出したかのような雨は、新緑の葉をうがつかのような強さに増していた。
 それは全てを洗い流し、再生していく前兆の予感のようにも思えた。

 

CASE13 「霧の月」 - 完 -

 

>>CASE14に続く

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