80周年に向けて
 青葉若葉の季節を迎えました、学校も活き活き元気に胎動しています。5月20日は80周年記念日、周年行事は今年度を通して実施しますが、この研究紀要も30号の特集号、本校の専大附属百人一首も特集号の編集中です。間もなく完成です。

小花日記のこと
幕末群像 本稿の研究紀要30号特集号に、小笠原島と小花作助について書きました。
 この論文は、二つの新しい史料を土台にしています。特に、新発見の「小花日記」(慶應2年から明治5年)全6冊の紹介がメインになります。
 小花は文久3年(1863)5月に小笠原から戻ると外国奉行の下で対外業務の仕事に当たりました。そして、慶應元年から2年にかけてフランスと英国に、製鉄所や造船所の建設の件で派遣されました。正使は柴田剛仲、一行のメンバーもおおよそ分かりました。
 これより以前、小笠原から戻ったばかりの田辺太一、松浪権之助、益田鷹之助といったメンバーは、正使池田長発に随行してヨーロッパに派遣されていますが、これが有名な「横浜鎖港談判使節団」でした。
 彼らは「海を渡った侍達」としてその後今に至るまで話題になっていますが、エジプトのギゼのスフィンクス前で写真(写真上)
に収まった一行で有名です。絶対に無理を承知の交渉団でした。
 最初私は、小花がこのグループに随行したものと思っていましたが、そうではなく1865年の仏英派遣グループでした。そんなことを調べるうちに、松浪権之助の子孫の方が権之助についてブログ「カームラサンの奥之院興廃記」を立ち上げ色々調査していることを知りました。「親類小花作之助」のことと「権之助惣領秋作」についての付記…です。小花作之助と秋作でネットでヒットしたわけです。


松浪権之助(写真、パリにて)に養子
松浪権之丞 小花は、男子ばかり8人の子だくさんですが、その次男秋作を小笠原以来懇意の松浪に養子にあげる約束をし、内地に戻るとすぐに実行します。松浪には実は他に男子がいたのですが、正妻の子ではないということで秋作を迎えたのです(このため後に秋作は小花家に戻ります)。
 戊辰戦争の最中、松浪は勝海舟から依頼されて幕府脱走兵の説得のために下総に向かいますが、その兵らによって殺害されてしまいます。ブログによれば、その場所や日にちなどがこれまで明らかになっていないようでした。もちろん諸説あって、それが紹介されています。その頃の松浪と小花の関係自体もはっきりとはしませんでした。小花自身もこの頃は状況不明でしたから。

松浪遭難は閏4月6日
 さて、必要な点についていえば、権之助が殺されたのは、1868年閏4月6日です。家族に知らされたのは、9日後の15日でした。「閏四月十五日戌雨、…はきといたし候訳ハ相分り不申候得共…六日頃ニ下総木更津ニ而撒兵ニ殺害ニ逢候趣」(はっきりとはしないが木更津で撒兵に殺された、と小花の日記に)とあります。これは第一報で、次第に概要が分かっていきました。
 松波権之助は、四月、脱走軍への降伏説得を使命に下総に派遣されましたが、閏四月六日に、脱走兵によって木更津で斬首されたのです。遺体の請け取りや葬儀などについても詳しく書かれています。葬儀の費用は小花が用意しましたが、すべて役所(かろうじて幕府)から支出されることになりました。
 松浪の一家はこの後、秋作他、慌ただしく徳川家8万の家臣団の一員として静岡に移っていきます。

小笠原回収団が活躍
 文久3年に一斉に引き揚げた幕吏の多くが、小花始め幕末の外交の裏方となって活躍しています。小花も、新政府に採用され諸外国との窓口の業務を担当します。親友松浪の遭難は作助にとって非常に大きな驚きでした。これらのことも、「小花日記」の発見で明らかになります。小花、松浪、福地源一郎みんな幕末に抜擢された下級御家人出身の人材です。

 今日は、研究紀要原稿を書き上げたおまけで、ちょっと松浪の死の日付を紹介しました。私は、「小花作助と小笠原」研究に取りかかりました。もちろん公務の合間、時間を見てですけれどね。