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今日1月31日は昔、死んだ彼女の命日だ。
2003年、平成15年だったから早いもので9年が経ってしまった。
彼女は32歳のままで、僕は43のジジイにいつの間にかなってしまった。
彼女が生きていれば、今ごろ41のババアになっていただろう。
震災で大切な人を亡くした者は、いや、震災だけじゃなく、
様々な要因で意図せず亡くした者は、こういった今という時間が
凍りつく瞬間を永遠に繰り返し生きて行くのだろう。
前を向いて生きてゆくということは、実は過去も全て引き摺って、
歩くということなのだ。
頑張って! 未来はきっとあなたに味方するとか、雨上がりは晴れるもの
だとか綺麗事の偽善ではなく、どんよりと曇った呪縛のような忌々しい
重石そのまま受け入れて、引き摺るようなものなのだ。
綺麗事でもうひとつ。
彼女が死んで数日後に、彼女の両親から遺品整理を頼まれ、
一人で黙々と作業している時に無性に寂しく、彼女がいとおしくなり
僕は廃棄処分寸前の彼女の下着に向かって、彼女を想いながら射精した。
虚しかった。これ以上の空虚はなかったと思う。
その3年後に製作した『デモーニッシュな街から遠く離れて』において
主人公に亡くなった彼女の亡霊で自慰シーンを追加したのは
そういうことなのだ。
テレビ報道やニュースには流れないが、そういった陰で性衝動や性処理
の問題は男女を問わずかなり大きな比重を占めている。
いつまでも悲しんでいるだけではない。かと言って、理路整然と道が時間が
進むわけでもない。その中間があるのだ。
そして誰もがその中間に足を囚われるのだ。
あれから9年が経ち、『今でも君を愛している』と彼女に伝えたいところだが
あれからいろんな女性とセックスをした。恋もした。
その中には君の幼馴染で一番の親友もいたよ。
綺麗事だけでは済まされないのが現実だけど懺悔はしない。
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