2003年1月31日に服毒自殺して亡くなった僕の彼女の
お墓参りに行った。
相模原の津久井湖畔にあるお寺。
![unnamed[1] (5)](https://livedoor.blogimg.jp/adg_movie/imgs/2/0/20af9140-s.jpg)
当初は毎月通っていたが、月日が経つに連れて
2ヶ月に一回、半年に一回と時が僕を中和していった。
最初の一年間は、喪失のあまり何も出来なかった。
ポッカリと心に空いた穴はそのままなのだが、
何とか人前では偽りの笑顔を自然と作れるようになった。
あれから本当に独りで居ることが好きになった。
![unnamed[1] (2)](https://livedoor.blogimg.jp/adg_movie/imgs/f/f/ff3afb1a-s.jpg)
最後に彼女に会いに行ったのは2011年3月1日。
その10日後に東日本大震災が起きた。
しばらくして『zone存在しなかった命』の撮影に
取り掛かり、気が付くと実に3年4ヶ月振りの
お墓参りになってしまった。
墓石には彼女の名前 吉田陽子と享年32歳、戒名が
刻まれていたが、今回から隣にお父さんの名前が
追加になっていた。命日は今年の1月5日となっていた。
77歳。そっか、お父さんも死んでしまったか。
![unnamed[1] (3)](https://livedoor.blogimg.jp/adg_movie/imgs/0/a/0ab541c0-s.jpg)
2006年に『デモーニッシュな街から遠く離れて』という映画を






製作するにあたって全ての人間と縁を切ったので
そのままだった。彼女が自殺した時も、僕を非難する事なく
優しく接してくれたお父さんだった。
こうやって皆な死んでしまう。
![unnamed[1] (6)](https://livedoor.blogimg.jp/adg_movie/imgs/f/4/f48e052f-s.jpg)
彼女が死んだ時、僕は34歳だった。
あれから早12年の月日が過ぎた。
ここに当時の古い遺書がある。
警察の事情調書にも、この遺書のお陰で僕は
犯人扱いされずに調書作成もすぐに終わった。
ずっと封印してきた彼女の遺書。
数年ぶりに読み返してみると、またあの頃の事が
蘇ってくる。誰にも言わないでという彼女のお願いも
もう12年という月日が過ぎ、ここに公開してみようと思う。
警戒区域の実情同様に、まだまだ世間では
うつ病という実情は理解されていない。
誰かの何かのお役に立てばと以下がその遺書です。
![unnamed[1] (7)](https://livedoor.blogimg.jp/adg_movie/imgs/4/8/482af725-s.jpg)
直俊へ
短い間でしたが、よくケンカもしたけれど
直俊に出会えた事だけが私の幸せでした。
私にとって直俊の存在だけがたよりでした。
あなたは私が愛した最後の恋人です。
初めてこんなに愛された事がなかった。
血のつながった家族より誰よりも
愛してくれた人はいなかった。
ただ、直俊は私と出会ってしまった事で
不幸な日々の連続でしたね。私は直俊にとって
良いパートナーではありませんでした。
しかし、私はもう限界です。
激うつは生き地獄でした。
自分の事をコントロール出来ないほど
強い自殺念慮は日々、私は
あの事件(数か月前にうつ病の知人が自殺)や
自殺方法の妄想してばかりで生きる気力が全く
なくなってしまい、もう自殺の道しか
残されていなかったけど、うつから解放されるから
私にとって幸せなのです。
私は幸せなのですから、私の死は
必ず時が解決するでしょう。
私の最後のお願いです。
1、決して後追い自殺などしないで下さい。
2、直俊には才能がある方ですから
必ず映画監督になって下さい。
3、もっと素晴らしい女性とめぐり会い
また、もっと未来のある恋愛をして下さい。
4、私が自殺した事は絶対に誰にも言わないで下さい。
直俊には、夢も希望も、そして何より
ユーモアな表現がどんどん生み出せる才能があり、
きっと世に出る方です。
ずっと映画を撮り続けて下さい。
今まで本当にありがとうございました。
直俊に出会えて幸せでした。
直俊の成功をいのっています。
そして苦しめる結果になってしまった事を
心からお詫び申し上げます。
幸せになって下さい。
吉田陽子
2003年1月31日
あの頃、この世でたった一人を心底味わった・・・。
けど、
僕は自殺が良くないとは思わない・・・。
むしろ、のうのうと生き続けるあの人たちより
よっぽど尊い選択だと思っている。
お墓参りに行った。
相模原の津久井湖畔にあるお寺。
![unnamed[1] (5)](https://livedoor.blogimg.jp/adg_movie/imgs/2/0/20af9140-s.jpg)
当初は毎月通っていたが、月日が経つに連れて
2ヶ月に一回、半年に一回と時が僕を中和していった。
最初の一年間は、喪失のあまり何も出来なかった。
ポッカリと心に空いた穴はそのままなのだが、
何とか人前では偽りの笑顔を自然と作れるようになった。
あれから本当に独りで居ることが好きになった。
![unnamed[1] (2)](https://livedoor.blogimg.jp/adg_movie/imgs/f/f/ff3afb1a-s.jpg)
最後に彼女に会いに行ったのは2011年3月1日。
その10日後に東日本大震災が起きた。
しばらくして『zone存在しなかった命』の撮影に
取り掛かり、気が付くと実に3年4ヶ月振りの
お墓参りになってしまった。
墓石には彼女の名前 吉田陽子と享年32歳、戒名が
刻まれていたが、今回から隣にお父さんの名前が
追加になっていた。命日は今年の1月5日となっていた。
77歳。そっか、お父さんも死んでしまったか。
![unnamed[1] (3)](https://livedoor.blogimg.jp/adg_movie/imgs/0/a/0ab541c0-s.jpg)
2006年に『デモーニッシュな街から遠く離れて』という映画を






製作するにあたって全ての人間と縁を切ったので
そのままだった。彼女が自殺した時も、僕を非難する事なく
優しく接してくれたお父さんだった。
こうやって皆な死んでしまう。
![unnamed[1] (6)](https://livedoor.blogimg.jp/adg_movie/imgs/f/4/f48e052f-s.jpg)
彼女が死んだ時、僕は34歳だった。
あれから早12年の月日が過ぎた。
ここに当時の古い遺書がある。
警察の事情調書にも、この遺書のお陰で僕は
犯人扱いされずに調書作成もすぐに終わった。
ずっと封印してきた彼女の遺書。
数年ぶりに読み返してみると、またあの頃の事が
蘇ってくる。誰にも言わないでという彼女のお願いも
もう12年という月日が過ぎ、ここに公開してみようと思う。
警戒区域の実情同様に、まだまだ世間では
うつ病という実情は理解されていない。
誰かの何かのお役に立てばと以下がその遺書です。
![unnamed[1] (7)](https://livedoor.blogimg.jp/adg_movie/imgs/4/8/482af725-s.jpg)
直俊へ
短い間でしたが、よくケンカもしたけれど
直俊に出会えた事だけが私の幸せでした。
私にとって直俊の存在だけがたよりでした。
あなたは私が愛した最後の恋人です。
初めてこんなに愛された事がなかった。
血のつながった家族より誰よりも
愛してくれた人はいなかった。
ただ、直俊は私と出会ってしまった事で
不幸な日々の連続でしたね。私は直俊にとって
良いパートナーではありませんでした。
しかし、私はもう限界です。
激うつは生き地獄でした。
自分の事をコントロール出来ないほど
強い自殺念慮は日々、私は
あの事件(数か月前にうつ病の知人が自殺)や
自殺方法の妄想してばかりで生きる気力が全く
なくなってしまい、もう自殺の道しか
残されていなかったけど、うつから解放されるから
私にとって幸せなのです。
私は幸せなのですから、私の死は
必ず時が解決するでしょう。
私の最後のお願いです。
1、決して後追い自殺などしないで下さい。
2、直俊には才能がある方ですから
必ず映画監督になって下さい。
3、もっと素晴らしい女性とめぐり会い
また、もっと未来のある恋愛をして下さい。
4、私が自殺した事は絶対に誰にも言わないで下さい。
直俊には、夢も希望も、そして何より
ユーモアな表現がどんどん生み出せる才能があり、
きっと世に出る方です。
ずっと映画を撮り続けて下さい。
今まで本当にありがとうございました。
直俊に出会えて幸せでした。
直俊の成功をいのっています。
そして苦しめる結果になってしまった事を
心からお詫び申し上げます。
幸せになって下さい。
吉田陽子
2003年1月31日
あの頃、この世でたった一人を心底味わった・・・。
けど、
僕は自殺が良くないとは思わない・・・。
むしろ、のうのうと生き続けるあの人たちより
よっぽど尊い選択だと思っている。
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