「わてかってアホやけど、あんたかってアホやがな。人にどう見られようと、何と思われようと、どうでもええがな。なんでもええがな。アホに徹したら、なんでもできまんがな。ダメもとやがな。」 ―ダイヤモンド オンライン特別レポート・インタビュー記事 新規顧客が殺到する究極のゲリラマーケティング「集団感染マーケティング」の正体とは?  ―仙人のマントラ呪文 忍辱(にんにく)修行より―

呼吸による感情のコントロール|脳科学 情動と感情|至道無難唯嫌揀択

三祖信心銘

至道無難、唯だ揀択(けんじゃく)を嫌う、但だ憎愛莫ければ、洞然として明白なり。
至道無難唯嫌揀択

(大森曹玄訳 適宜抜粋引用参照)

至極の大道はすぐそこにあって、かれこれと七面倒くさいものではない。ただ選り好み(揀択、けんじゃく)さえしなければ、それでよいのである。選り好みをすると好きなものは愛し、嫌なものは憎む念が起こって心の鏡がくもる。それさえなければ至道はきわめてはっきり現われてくる。・・・自分の好みに違うものは嫌い、自分の考えに合うものを愛するのは避けがたい人情だが、それは至道からいえば、心の病というものである。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
・・・であるならばいったいどうすれば揀択(憎愛、選り好み)がすくなくなるのだろうか?
*逆説的に言えば揀択(憎愛、選り好み)を「嫌う」というのも、また揀択ではないか。(それはさておき・・・)

三祖信心銘の「揀択(=けんじゃく)」(憎愛、選り好み」は、情動(大脳辺縁系の海馬、扁桃体等や視床下部が制御する身体反応=自律神経反応、ホルモン分泌)から感情へのプロセスであろう。

情動の過度の興奮を制御し、また情動から感情へのプロセス、感情をコントロールするにはいったい具体的に日常的にはどうしたらいいのだろうか。
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(参考)
神経学者・心理学者のアントニオ・R・ ダマシオ著「無意識の脳、自己意識の脳ー身体と情動と感情の神秘」「デカルトの誤りー情動、理性、人間の脳」また心理学者・脳神経科学者のエレーヌ・フォックス著「脳科学は人格を変えられるか」理化学研究所 脳科学総合研究センター著「脳科学の教科書 こころ編、神経編」坂井克之著「心の脳科学 わたしは脳から生まれる」リタ・カーター著「新・脳と心の地形図」ラマチャンドラン著「脳の中の幽霊」等等を参考に特に情動から感情への脳神経科学的プロセスを只今究明続行中。難解である。(別途詳細)
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時系列でまとめると・・・(私の無知と理系能力不足で大きな間違いもあろうかと思うが、間違いをおそれず現状下記要点するが、随時適宜、修正していく予定。)

・感覚器官→情動 (損・逃避)→感情(嫌・怒・哀)
・感覚器官→情動(得・接近)→感情(好・喜・楽)
・情動反応とは感覚から脳の情動器官(大脳辺縁系の扁桃体、海馬等や視床下部)を経た身体反応(自律神経反応、ホルモン分泌)。
・自律神経反応、ホルモン分泌反応に伴う身体的反応とは、心拍数の増加、血管の拡張収縮、瞳孔の拡大、のどがかわく等。
・感情とは一般的には意識化、自己認知(モニター)された無意識の情動の意識化プロセス。
・情動(脳)→身体(自律神経、ホルモン)→感情(脳)
・身体反応(=情動)を脳が受け取り感情を生みだす。(この過程は詳細究明中)

・狭義の知性が感情より上位にあるとはいえない。情動と狭義の知性(概念化・意味・分別・言語化)の平衡、バランス、媒介しているのが「感情」であろう。
・逆説的だが「感情」なしでは狭義の知性、理性的判断は物理的にはそもそも不可能ともいえそう。
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感情のコントロールを下記の´↓い裡瓦弔(方向)からその方法を考えてみたい。

実は方法等は禅家語録はじめ下記する書物等に明快に書いてある。そのまま全面的に無心に素直に実践できればいいのだろうけれども、私も気づかぬうちに、いわゆる論理、概念、分別、理論的思考等に、中途半端に害されており、ついつい理屈をこね実践を躊躇しがち。

しかし、私のような全くの素人でも、脳神経科学等の背景とかに、ほんのすこしでもふれると、禅禅家語録や下記する書物等も、ある程度理屈の上でも納得でき実践しやすいと感じている。

米国発祥のマインドフルネスなども認知行動療法や脳科学、心身医療等を「瞑想」等の理論的背景「媒介役」としており非常にわかりやすく、実践しやすい。


仝撞柬,脳霪闇召梁臟省娜鏃呂隣桃体、海馬等、視床下部を制御コントロール(自律神経反応やホルモン分泌の調整)し感情をコントロールする方法。
⊂霪阿ら感情への自己認知モニターシステムを統御し感情をコントロールする方法。
6控舛涼寮(大脳前頭前野)から扁桃体等を鎮め(マインドフルネスによるラベリング)認知バイアスを修正し感情をコントロールする方法。
こで賄のエピソード記憶を塗り替え感情をコントロールする方法。

今回は仝撞柬,脳霪闇召隣桃体、視床下部を制御コントロール(自律神経反応やホルモン分泌の調整)し感情をコントロールする方法に関連して。
ーーーーーーーーーーーーーーーーー
「大安般守意経」に釈尊の呼吸法がある。安般の「安」とは入息、「般」とは出息という意味。「守意」とは意識する、自覚する、集中するという意味。
「仏は座して安般守意を行ずること90日なりき」(大安般守意経)
「弟子たちよ、私はこの3か月間、出息を念じて多く得るところがあった」(阿含経)
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『荘子』刻意篇に神仙の吐故納新、吹咆呼吸という故き気息を吐き新しき気息を納れる導引術(養生)の記載がある。また『荘子』大宗師篇にも、世俗の人間はせわしない息遣いを喉であえいでいるが真人はしっかと大地を踏んで立つ踵の底から生命全体を呼吸する等に近い趣旨の記載がある。
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白隠禅師の「夜船閑話」「遠羅手釡」に放下着・内観秘法、臍下丹田呼吸法、軟酥の法による養生秘法がある。下記 古文の訳は帯津三敬病院長 帯津良一医学博士と直木公彦訳を適当に変更引用。

臍下丹田呼吸法(吐く息を長く意識する、吐ききる)と同時に、息を吸う時にまず色も香りも清浄な仙人の秘薬を種々練り混ぜた光り輝く軟酥状の卵大のものを頭のてっぺんに置いたと想像する。

息を吐くときにその絶妙な香り風味が頭蓋からしだいに体温で溶けはじめ、たらりたらりと浸み込みだんだん浸みわたって下ってきて両肩から左右の腕、両乳、胸、肺、肝臓、腸、胃、そして肛門へとあらゆる内臓諸器官をひたしてうるおし流れ背骨、肋骨、尾てい骨をも潤すと観想するのである。

秘薬がとけてしみわたるようにゆるりゆるりと下へ下へ流れくだる。息を吐ききるとき胸の中につかえた五臓六腑の気の滞りや、苦悩、煩悩、しこり、不安や心配も一緒に溶けて足の裏から体外へ流れ出るのである。

そうしてこの流れ出た霊妙な秘薬は足元より出て桶(風呂)に秘薬が満々と満ちて腰までおよび下半身、臍の下まであたため蒸すのである。三界は唯心の所現であり身体は妙香をかぎ身体は妙風につつまれ、調和がよみがえり精気が充満してくるのである・・・このとき積年の苦悩、煩悶、神経症は融解消失し胃腸内臓器官を調和させ内分泌機能も旺盛になるのである。
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「なにも思わぬは、仏の稽古なり」 至道無難禅師
「主(ぬし)なくて、見聞覚知する人を、いき(生き)仏とはこれをいふなり」至道無難禅師
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<ダイヤモンドオンライン特別インタビュー記事、ゲリラマーケティング、ここ一番の忍辱(にんにく)瞑想より。
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「覚(さと)り」の構造|禅と瞑想と脳科学|マインドフルネス|悟了同未悟|超仕事術|事上磨練

「覚(さと)り」の構造|禅と瞑想と脳科学|マインドフルネス|悟了同未悟|超仕事術|事上磨練

大脳の前頭連合野(分別、狭義の知性、意識)と大脳辺縁系と脳幹(本能や情動、無意識)の対立矛盾、相互抑制、制御、相互フイードバック、動的平衡、統合過程等がどうも禅家語録にある覚(さと)りや、荘子的超越者「真人」の構造 A→B→A'の弁証法的構造に近いのではと気づきはじめた。

その前提として、まず下記の拙過去記事2件を紹介させていただき、「*事上磨練」とも関連させ、三界唯心「超仕事術」を別途、詳細したい。

・2015-12-31
「情動(無意識)⇔感情(無意識から意識化へ 自己認知モニター)⇔言語化(意識化・概念化・意味・言語・分別)」 と、
・2015-12-10
『荘子』大宗師篇の荘子的超越者「真人」仙人の構造 A→B→A'にみる『修行』の弁証法的構造

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・2015-12-31
「情動(無意識)⇔感情(無意識から意識化へ 自己認知モニター)⇔言語化(意識化・概念化・意味・言語・分別)」
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西田幾多郎を読みながら感情、情動と言語、その制御コントロール方法(修行)を考えている。

情動(無意識)⇔感情(無意識から意識化へ 自己認知モニター)⇔言語化(意識化・概念化・意味・分別) 

脳科学を切り口にようやく糸口が幾つかすこし見え始めている。下記は、まだまだ私の理解の至らぬ点や思い違いも多々ありお恥ずかしい限りなのだが、かなりはしょらせて断片的に書かせていただく。詳細略。


脳認知バイアスの観点より、無数の情報から自分にとって重要なものをとりだし自己の生存、恐怖、危機に関係することが低いものには注目や注意を払わない脳の「選択的注意」「注意バイアス」という機能がある。一度外界の音を録音して聞きなおしてみるといろんな音がほんとうは聞こえていたのだと驚く。修行によって、このバイアスを変えることが可能。

脳認知バイアス 最近の拙投稿の禅家語録からの、三界唯心、妄念 妄想 見聞覚知等に関する記事ご参照。


参考 恐怖の記憶を再統合する脳科学的プロセス。
感情にまつわる記憶はそれを思い出す時、脳の回路は再活性化し過去の記憶を変化、上書きすることができる。意識的に過去の不安や苦痛の記憶を拒否せずあえて、あらたに半強制的に同様な状況に身をさらし暴露(エクスポージャー)させる。このとき脳内の「窓」回路が一瞬開くようだ。これは記憶ぬりなおしの機会にもなりうる。この記憶の再活性化と記憶塗り直しの仮説はほんとうだと実感している。但しこの記憶の再活性化の修行はかなりしんどい。脳科学的な記憶プロセスは詳細略。

心に浮かんだいやな映像や感情に対して前頭前野(言語)を活性化させることで扁桃体(情念、感情 恐怖)の活動過多反応を鎮めることが可能。言語による嫌な感情に対するラベル付けにより、感情を制御コントロールする。お経や呪文、マントラを声を出し念じてみればよくその効果がわかる。ただはたして、その効果は単に水面上の言葉だけによるものではなく水面下の感情、情動(身体的反応をも含む)イメージ等の結合した氷山の水面上に表出された言語であろう。意識的に日々の言葉、日常のつぶやきを変えることが大きな修行になりうる。

ー笑う門には福来たるー
ジェームズや西田幾多郎の「泣くから悲しい」というのは脳科学の観点からたとえ、学問的には正しいとしても、そのようなさびしげな言語表現をなにげなく使用する限りますます迷い逆効果で修行にはならない。「笑うから楽しい」と言い換えればいいのである。さらに笑い顔を鏡でみればよけい楽しいのである。このことを情動(脳)→身体(自律神経)→感情(脳)、情動の自己認知、モニターシステム、ソマティックマーカー仮説、感情のラベリング等の脳科学を背景に、まだまだ私の勉強不足のため理解の至らぬ点も多いが、日常の修行の観点から私なりに概説してみたい。

(注)感覚器官→情動反応には逃避と接近がある。
(注)情動は感情に先駆けて自然に生じる身体的反応。
(A)緊急な情動反応とは感覚から脳の情動器官を経た(記憶器官を経由しない)身体反応(自律神経反応、ホルモン分泌)である。
(B)緩慢な情動反応とは感覚から脳の情動器官を経てエピソード記憶等の器官にて分析(無意識の狭義の知性)を経た身体反応(自律神経反応、ホルモン分泌)である。

(注)自律神経反応、ホルモン分泌反応に伴う身体的反応とは、心拍数の増加、血管の拡張収縮、瞳孔の拡大、のどがかわく等。

(注感情とは一般的には意識化、自己認知(モニター)された情動である。

・情動 (損・逃避)→感情(嫌・怒・哀)・(不快)
・情動(得・接近)→感情(好・喜・楽)・(快)

(注)ジェームズ・西田幾多郎の「泣くから悲しい」とは原因結果、因果関係の意味ではなく、時系列、つまり上記の情動→感情で考えると明快。まず無意識の情動身体反応(泣く)がありそれを部分的に意識化・自己認知モニターしている感情(悲しい)がある。→「脳活動する、ゆえに我あり」「脳活動する、3秒たって、我はじめて意識する」
(注)感情化されない情動が山ほどある。
(注)感情には意識化され概念化(意味・区別・分別・言語化)されたものと、意識化されてはいるが概念化(意味・区別・分別・言語化)できない(なんともいえない)感情がある。さらに意識化されぬ、つきあげてくるような感情もある。
(注)概念化、意味付けされた感情は狭義の知性の制御がすでにかかっている。

かならずしも狭義の知性が感情より上位にあるとはいえない。いいかえれば情動と狭義の知性(概念化・意味・分別・言語化)のバランスをとってるものが実は「感情」かもしれない。「感情」こそが情動、狭義の知性の制御?ではどのような日常の修行が効果があるのか・・・

*参考 西田幾多郎の感情について

藤田正勝著 岩波新書『西田幾多郎』から抜粋要約引用

「・・・・西田幾多郎は「人心の奥深く潜める或るもの」という言葉で「感情」を言い表している。感情は単なる意識現象の領野ではない。むしろあらゆる意識現象の根底にあってそれらを支えている。・・・西田は感情を意識成立の根本的条件とみなしている。それはさまざまな意識作用の結合点であり、それに依拠して様々な意識作用が機能する。知もまた例外ではない。・・・・・

・・・・・新たな知の成立の根底に西田は新たなる感情の内容の発生を見ている。感情がもっとも根本的な意識の相であることが言われている。・・・西田が芸術創造活動を重視するのは、感情が知的範疇を超えたもの、つまり知によって捉えられないものである。感情は分析することのできない己自身の深い内容をもつ。感情の深い内容は分析することによってではなくただこれとともに動くことによってのみ把握されうる。・・・」

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・2015-12-10
『荘子』大宗師篇の荘子的超越者「真人」仙人の構造
     A→B→A'にみる『修行』の弁証法的構造
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『荘子』大宗師篇
「方内=A」の人→「方外=B」の人→「無方=A’」の人
と同じ弁証法的循環構造。・・詳細別途

「A=方内」
『荘子』でいう「方」とは規範、限定、分節、分別、共同体社会の秩序、礼教規範を意味する。

「B=方外」
荘子では世俗 俗世間をこえたいわゆる超越者の世界。深山の洞窟にひとり住む隠棲者。しかしながら「B=方外」に固執すれば「A=方内」の立場に束縛される不自由と同じであろう。

「A'=無方」
荘子のいう絶対者、真人とは「A'=無方」の人であって「A=方内」「B=方外」の区別をともに包み超え「A'=無方」の世界に遊ぶことをいう。深山の洞窟より街の雑踏、共同体へおりてくる。禅の十牛図の第10番目であろう。共同体社会にありながら心はがんじがらめに非ず。共同体は以前の共同体とは全く違って見えてくる。

真の隠者は市井にあり。仙人は深山に在らず、街中の雑踏で笑う。共同体社会の束縛を束縛とも感ぜず。
「A'=無方」の共同体は、「A=方内」と同じ共同体であってもその意味は全く異なる。
荘子ではこれを無何有の郷に逍遥遊するという。

悟了同未悟

「廬山(ろざん)は煙雨(えんう)、浙江(せっこう)は潮
未だ到らざれば千般恨み消せず
到り得て帰り来たれば別事無し
廬山は煙雨、浙江は潮
」(蘇東坡)ということか・・・

参考 『荘子』天運篇 中国古代音楽 『咸池(かんち)の楽』宗教音楽と修業の構造。 

中国禅における往相(向上)と還相(向下)の円環を描きながらのさとり(煩悩即解脱)への循環だろう。この分節網(分別)のかぎは言語であろう。正確に言えば言語阿頼耶識ともおもわれる。

以上拙過去記事などを踏まえて・・・
大脳の前頭連合野(分別、狭義の知性、意識)と大脳辺縁系と脳幹(本能や情動、無意識)の対立矛盾、相互抑制、制御、相互フイードバック、動的平衡、統合過程等がどうも禅家語録にある覚(さと)りや、荘子的超越者「真人」の構造 A→B→A'の弁証法的構造に近いようだ。「*事上磨練」とも関連させ、三界唯心「超仕事術」を別途詳細してみたい。

「主(ぬし)なくて、見聞覚知する人を、いき(生き)仏とはこれをいふなり」至道無難禅師




*事上磨練
王陽明に「事上磨練」という考えがある。机上の観念論や言語による概念論ではなく、実際に直面する日常の生活や仕事などの行動を通して修養し精神を練磨、修養すること。こそが真の生きた学問であると説いている。

「事上」とは実際の日常のことに当たりながらの意。「磨錬」は練り磨く意。日々の日常生活から離れて観察者、傍観者として、静かな思索や過去の哲学者の訓詁学や注釈解釈等にふけっている限り、ほんとうの宗教や哲学ではなかろうということか。「照顧脚下」ということだろう。

現実の修羅場、日常の今、ここの生活、煩悩の真っ只中で生きることこそがそのまま菩提。般若の知恵、不二の法門なのだろう。 「維摩経」(ゆいまきょう)の中で・・・出家者のシャーリプトラが街から遠く離れて深山の静寂の中でひとり瞑想、禅にふけっていたところ、在家の大商人でもある維摩居士に「娑婆世界こそが浄土である、汚泥の中に咲く蓮こそ本当の蓮華」と怒られまくられるのがとても興味深い。煩悩を断ぜずして涅槃に入る、すべての行住坐臥いっさいが道場であるということだろう。



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黄檗伝心法要|つかず離れず、居座らず縦横自在に|見聞覚知|六根清浄|マインドフルネス

黄檗伝心法要 入矢義高訳より要約抜粋引用

人間というものは、姿かたちにとらわれて、おのれの外に、仏を求めようとする。求めれば求めるほどそれは見失われる。こんなふうに、自分の設定したイメージでもって仏を求めて、おのが妄執の心でもって心をとらえようとしては、結局それをつかむことはできぬ。

・・・・・一切の思慮をやめ、思念をなくしてしまえば、仏はちゃんと目の前に現れてくるものなのだ。この心がそのまま仏なのであり、仏がそのまま人間なのである。

・・・・無心とは一切の分別のない心のことである。心はもともと無心なのであり、心のほかに無心というものがあるのではない。。誰もがみな一様に知識、解釈を手掛かりにしようとするが道を悟るものはめったにおらぬ。・・・もし心を無心ならしめようと図れば、かえって有心になる。・・

ただ、おのが知見認識(*見聞覚知)のみを軸として営為し行動する者たちは、そのよりどころとする知見認識(*見聞覚知)を取り払われてしまうと、おのが思念の道を絶たれて、悟入へのてがかりを失うことになろう。ほかならぬその知見認識(*見聞覚知)のそのものに、おのが本心(本源の心)を覚知せよ

しかしながら、本心そのものは知見認識(*見聞覚知)に属するのでもなく、かといってそれと離れてあるのでもない。要は、おのが知見認識(*見聞覚知)に立って解釈を試みようとせぬこと、またその知見認識(*見聞覚知)について思念をめぐらさぬこと、と同時にまた知見認識(*見聞覚知)を離れて心を求めたり、それを捨てて法にとびついたりせぬことだつかず離れず、居座らず執着せず縦横自在にふるまえば、いずこも道の顕現の場ならざるはない。・・・心でもってさらに心を求めてはならぬ。いま即時に無心になることだ。・・・

以上ーーー

*知見認識の原典、中文は見聞覚知・・・達摩「無神論」では「ほかでもない、知見認識(見・聞・覚・知)することが、つまり無心そのものなのだ・・・知見認識(見・聞・覚・知)を離れて別に無心のありようはない。無心とは真の心にほかならず、真の心は無心に他ならない。」

*見聞覚知とは六識の働き。見ること(眼識)・聞くこと(耳識)・覚(さと)ること(鼻識・舌識・身識)・知ること(意識。

*六識とは六根をよりどころとし、六境を対象とする、六つの認識の働き。眼識・耳識・鼻識・舌識・身識・意識の総称。

*「主(ぬし)なくて、見聞覚知する人を、いき(生き)仏とはこれをいふなり」至道無難禅師


妄念が勝手に画いて作るとはどういうことですか「達摩二入四行論」

柳田聖山訳 「達摩二入四行論」より要約抜粋引用。



「すべて妄念が勝手に作るなら、いったい妄念が勝手に作るとはどういうことですか。」


「例えば君の屋敷の中に大きな岩石が庭先にあるとせよ。はじめはたとえ君がその石の上に寝転ろがろうと、座ろうと、驚くことも怖れることもない。ところが、君があるとき、にわかに発心して、仏像を作ろうと思って、人をたのんで仏の形像を描き出してもらうと、君の心はそれを仏だと考え、すぐに罪を怖れて、あえてその上に座ろうとはせぬ。それは昔の岩石にほかならぬのに、君の心がそれを仏だと思うためである。すべて君の意識という筆先が、それを画いて作りだし、みずから、あわて、みずから怖れているのであって、実は岩石の中に罪だとか福だとかがあるわけではない。君自身の心が、自分でそれを作るだけだすべて、君自身の意識という筆が勝手に妄念、分別してそれを作るにすぎぬ。」

脳科学|三界唯心|外界が主観の世界に分別変換されていく脳内プロセス|超仕事術

三界唯脳|脳科学と三界唯心|超仕事術
外界が主観の世界に分別変換されていく脳内プロセス。

脳の視覚情報処理は外界が主観の世界に変換されていくプロセス。「見える」ということは外界から得られた情報に対して無意識的(しかる後に意識的、意識は後追い)にさまざまな操作や選択、改変、バイアス、分別処理が行われる。幾つかの脳内での分別処理を通して「見た」世界を現実の世界として認識している。



5つの感覚(視覚、聴覚、臭覚、味覚、体性感覚)の脳内への伝達プロセス、

(例)感覚の一つとしての視覚を例にとると・・・・・
時系列で以下´↓。

 奮阿らの刺激段階) 目→網膜(視細胞)で受容検出された視覚情報→視神経→視床→後頭葉の大脳皮質一時視覚野へ伝達。


目から網膜を経て機械的に大脳皮質の一時視覚野に送られる。いまだ視覚としては意識には上らない。ほとんどが脳内で無意識下で情報の処理が行われている。この時点では何も意識上は認識、認知、知覚できない。完全な無意識レベル。視覚刺激から30ミリ秒。(*意識上は見えていないのだが実は、無意識には見ていて行動に明らかに変化が現れる。盲視等)次の知覚プロセスへ。

◆淵椒肇爛▲奪彙奮)一時視覚野→(V1〜V8という視覚野を経て)→前頭葉(高次の脳領域、知性、言語、情報処理の操作統括、意思決定、思考)へ伝達。各感覚の統合。

一時視覚野にとどいた情報は順々にV1〜V8という視覚野を経て8つの種類の要素(存在の有無、線の傾き、色、動き等)へ次々と情報処理されていく。脳は単に外界の世界を映しだす装置ではなく、得られた映像を脳の中に映し出した上で(感覚、無意識レベル)これをさまざまな形に加工処理(知覚)していく、その過程で、はじめて意識にあがってくる。 視覚情報という原材料は無意識の組み立てラインを経て認識できるものに構築されていく。

(トップダウン段階)前頭葉(知性、情報処理の操作統括、意思決定、思考)→ 一時視覚野へフイードバック

前頭葉指揮による脳内ネットワークにより、言語、概念、記憶、感情、情動、思考、経験また遺伝等のバイアス、分別がかけられ統合処理、その後、前頭葉からトップダウンされ一時視覚野にフイードバックされる。個々人によって異なった分別バイアスがかけられ、何をどう見ているかはすっかり変わる

以上のように脳の視覚情報処理は外界が主観の世界に変換されていくプロセス。「見える」ということは外界から得られた情報に対して無意識的(しかる後に意識的、意識は後追い)にさまざまな操作や選択、改変、バイアス、分別処理が行われる。上記の幾つかの脳内での分別処理を通して「見た」世界を現実の世界として認識している。

三界唯心、三界唯脳・・・つまりは「すべては自分の見たいように見ている」・・・これに気づくことが瞑想・・・

経営コンサル業を通じて様々な経営者層とマーケティング、仕事を通じてその背景にある心の生体実験をも繰り返してきたが、三界唯心・超仕事術で猛然と仕事に復活よみがえった人たちの実証例や心の体験談を記していく予定である。

超仕事術|三界唯心|妄想|分別|達摩|

〔田聖山訳「達摩二入四行論」より要約抜粋引用・・・・


ある人が自分の手で竜や虎の絵を画いて、自分でそれを眺めて、かえって自分で恐れおののくようなものだ。迷える人もこれと同じであって、自分の意識という筆で分別して刀の山や剣の林の姿を描き、かえって自分の心で恐怖しているにすぎぬ。もし心中に恐怖することがなければ妄想はすべて取り除かれる・・・自分の心に分別を起こして描き出し、逆に自分の意識によって分別しそれらに支配されるから様々な業や苦悩を受けることになるのだ・・・

以上−−−−−

以下はーーーーー
「達摩二入四行論」とは全く関係ないが面白いので紹介する。

華厳僧侶 元暁の説話・・
諸説あるが、だいたいの大意を概略要約、下記。

元暁は入唐求法の旅の途中、ある夜、雨に降られ、洞窟で野宿した。その晩は何も知らず気持ちよくぐっすり寝たのだが、朝起きてみるとそこは風葬の墓場であり無数の骸骨や髑髏が転がっていた。
昨夜は、喉が渇いたので、真っ暗なため、それとは知らず手を延ばしておいしく水を飲んだが、翌朝起きて見ると髑髏に入っていた水であったことがわかり、急に吐き気を催したという。
そこが墓場だと知った夜は、気味が悪く、夢の中で鬼や魑魅魍魎が現れうなされて安眠をさまたげた。
その時、いっさいのものはおのれの心より生ずる、「心の外に師をもとむべからず」三界唯心と豁然大悟した。

以上ーーー

まもなく・・・三界唯心仕事術

<ダイヤモンドオンライン特別インタビュー記事、ゲリラマーケティング、ここ一番の忍辱(にんにく)瞑想より。
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「わてかってアホやけど、あんたかってアホやがな。人にどう見られようと、何と思われようと、どうでもええがな。なんでもええがな。アホに徹したら、なんでもできまんがな。ダメもとやがな。」







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妄念と覚り|黄檗|無心|マインドフルネス|瞑想メモ走り書き

黄檗伝心法要 入矢義高訳より要約抜粋引用


「この法門がわがものとなれば、まさに<無為の法門>というものだ。会得したかったら、なによりも無心を知ることが第一だ。いったんそれが自覚できたら、それで完成だ。もし心を働かせて学び知ろうとしたなら、そうすればするほど遠ざかることになる・・・」


「しかし、私の心には現に様々な妄念があります。どうして無心などと申せましょう。」


「その妄念はもともと実体なきもの、ほかならぬ君の心自体が作ったものだ。もし君が心が仏であること(*即心即仏)、心には元来、妄はないことを自覚したならば、わざわざ心を働かせて妄を確認しようなどとはできないはずだ。もし君が心を生ぜしめ思念を働かせなければ、おのずから妄はなくなる。さればこそ、<心が生ずると種々のものが生じ、心が滅すると種々のものは滅する。>というのである。」


「いまちょうど妄念が起こったとしますと、仏はどこにいるのでしょうか。」


「いま君が妄念の起こったことを覚(さと)った、その覚(さと)りこそが仏なのだ。もしも妄念がなければ仏もありはしない。どうしてそうか。君が一念を起こして仏という観念を作ると、なるべき仏があるのだと思いこみ、衆生という観念を作ると、済度さるべき衆生があるのだと思いこむ。こういうふうに心を生じ思念を働かせると、すべて君の観念になってしまう・・・・」

以上−−−−−

ーーー以下は私の瞑想メモ走り書きよりーーーーー

・瞑想していると感情や思考、過去の記憶等等のいわゆる雑念、妄想等がうじゃうじゃと湧き上がる。ついつい飲み込まれ一体化しがち。けれどもそれにハッと気づき、捉えて手放し瞑想にもどる自分がいる。気付く自分、観察??している主体は?

・瞑想していると、夢に過去の記憶が鮮明によみがえる。脳の記憶層が底からひっかきまわされているのか。

・瑜伽行唯識学派は経典など言語による道しるべと同時に、並行して瞑想を深めていく。この相互フィードバックだろう・・

・言語の積極面と否定面(バーチャルな現実の仮設捏造?)マインドフルネスでは言語により雑念等に対し「ラベリング」して雑念から離脱するという手法があるようだが、それは言語による概念化機能ではなく、言語による感情の制御?コントロールか。思考停止のための「音」か。でないとますます妄想だらけではないか・・・・

・言語による積極面でのバーチャルな現実の仮設、捏造ノウハウも大いにありうる・・・

・感受とはなにか。唯識から究明中。これはすごく深い。

・心は鏡のような、または単に「場所」的なもの?その上をさまざまなものがただ流れていく・・・「鏡」や無色透明な「マニ宝珠」はあらゆるものをただ無心に映す。


分別と妄想|達摩二入四行論|菩提達摩無心論|と熊野宏昭マインドフルネス

今回は・・・・・

〔田聖山訳「達摩二入四行論」「菩提達摩無心論」
熊野宏昭著のマインドフルネス著述関連に、わかりやすい記述が多々あったので下記に部分的に要約抜粋引用する。


〔田聖山訳「達摩二入四行論」「菩提達摩無心論」より部分的に要約抜粋引用する。


・ 自分の心が分別を起こすだけのことで、自分の心が、もともと何もないところを分別しているだけであり、それを妄想と呼ぶのだ。

・一切の経論は心が起こした不始末の後始末にすぎぬ。知識や分別、言葉等によって名称を求め、道を求めるという心を起こすと巧偽(つくろい)が生まれる。心を起こさなければ何で座禅が必要であろう。

・ある人が夜叉や亡鬼の姿を絵具で描き出し、自らが描いて自らながめ、すぐに自ら恐れおののくのである。絵具の中には何も恐るべきものはないのだが、君自身の意識という筆が分別しているにすぎない。すべて君が勝手に妄念してそれをこしらえるのだ。

・現象的な差別はすべて自分の胸中の妄想の別名で、自分の心が勝手にこれは何々だと規定したものや感情に引きずられ、妄想したものである。

・とらわれぬ人も、とらわれぬことにとらわれ、ものを求めぬことをせぬ人も、ものを求めぬことを求めている。

・人々はまちがって、無心の中で勝手に心を起こして、様々な業をこしらえて、勝手にあると思い込んでいる。暗がりで木の根を幽霊とみちがえ、縄を蛇と見違え勝手に思い込みこわがっているのと同じだ。

・見ていて無心なのだ、聞いていて無心なのだ、記憶していて無心なのだ、・・・・

以上−−−−−

以下−−−−−

熊野宏昭著 星和書店 「マインドフルネスそしてACTへ」日本評論社「新世代の認知行動療法」ちくま新書「ストレスに負けない生活」サンガ「実践!マインドフルネス」等より部分的に要約抜粋引用。

マインドフルネスとは・・・

・今の瞬間の現実に常に気づきを向け、その現実をあるがままに知覚し、それに対する思考や感情には囚われないでいる心の持ち方、存在の有様。

・対象と「観察する自分」との間に、さらに解釈や評価をする思考、イメージ、感情などが入り込んできて、それらを現実や自分と取り違えることで、あるがままに知覚できなくなり、「妄想」の世界が広がってしまう。

・思考は「無知(心の基本的状態)」に由来する。何を考えても、それはバイアスを伴う。

・ 思考が無くなったとき智慧が働き始める。 つまり、思考は自分ではない。
・対象のあるがままの体験。

・感受で止めて、外(外的事物にまつわる勝手な思い込みの生成)にも、内(勝手な自己イメージの生成)にも広げない。

・バーチャルな世界を作り上げる言葉の力は、将に諸刃の剣で、それが自分自身に向かった場合には、ありもしないネガティブな評価を現実として感じることになる。


・「見るものは見ただけで、聞くものは聞いただけで、感じたものは感じただけ、考えたことは考えただけで
とどまりなさい。そのときあなたは、外にはいない。内にもいない。外にも、内にもいないあなたはどちらにもいない。」

以上−−−−−

なお、宗密(禅と華厳を綜合)「無心」のたとえに「無色透明なマニ宝珠は、それ自ら何の色も、もたないことによって、あらゆる色を映し出しさまざまに変化する・・・」があるが、確かに、言葉、思考、感情、習慣となった心のひな形、過去の記憶などにより、「バイアス、こじつけ」て、あるがままの世界が見えなくなっているようだ。それらに気付くひとつの方法として、マインドフルネスは非常に効果があると思う。

非常に逆説的にだが、気づかぬうちに、らせん状にどつぼにはまり、落ち込んでいく具体的な「こじつけ」方法もはっきり見えてきた。

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黄檗|心中に作り上げた観念を掃き捨てる|禅|脱フュージョン

黄檗伝心法要 宛陵録 入矢義高訳より適宜抜粋引用
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
大事なことは、あらゆるとき、あらゆる機会に、日常の行住坐臥のひとつひとつのうちに、ひたすら無心を学び、ものを分別することなく、ものに寄りかかることもなく、ものに執着することなく、日ねもす、のほほんとして成行きにまかせ、まるで阿呆のように生きてゆくことだ。
世間の人は誰も君を知らぬ、君のほうも人に知ってもらおうとか知られたくないなどと気を使うこともない。心はごろりとした石みたいに、ひびも割れ目もないから、一切のものは君のこころに入りこみようがなく、ごろりとしたままで何にも関わりをもたぬーこうあってこそはじめて少しは脈があるというものだ。

・・・さて以上の意味がわかったら、こせこせ立ち回る必要はない。ただその時その時の在り方のままに宿業を消していくこと、そして新たな禍いの種を作らぬことだ。かくて心中は朗朗となろう。・・・・それは他でもない、心中に作り上げた観念を掃き捨てるということだ。また無意味な議論という糞を取り除くともいう・・・
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
以上ー黄檗伝心法要 宛陵録 入矢義高訳より適宜抜粋引用ー


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マインドフルネス|瞑想|飢え来たらば飯を喫し、困じ来たらば即ち眠る|禅|頓悟要門

禅・頓悟要門に大珠慧海禅師とある修行僧(律師、戒律を守っている人)との問答があった。特に下記の大珠慧海禅師の最後の部分は痒いところに手が届くように「飢え来たらば飯を喫し、困じ来たらば即ち眠る。」の意味するところがよりはっきりとわかる。



適宜、訳して下記する。
「飢来喫飯困来即眠=飢え来たらば飯を喫し、困じ来たらば即ち眠る。」
ーーーーーーーーーーーーーーー
修行僧「和尚様は道を修行するに際し、なにか工夫をされているのですか?」
慧海禅師「工夫している」
修行僧「それは、どういう手だて、工夫なのでしょうか?」
慧海禅師「腹が減ったら飯を食い、疲れたら眠るのだ。」
修行僧「それなら誰でもそうではないのでしょうか。他の人と何も変わらず同じではないのでしょうか?」
慧海禅師「同じではない。違うのだ。」
修行僧「どこがどう違うのですか?」
慧海禅師「他の人は飯を食う時、心から食わず、いろいろ他の事を思って片手間に飯を食う。他の人は眠る時にも、心から眠らずあれこれ考えて眠る。ここが違うのだ。」

ーーーーーーーーーーーーーーー
これはヴィクトール・フランクルが「自己形成の秘密」といったことに近い。つまり頓悟要門の大珠慧海禅師と、ある修行僧との問答では、例えば飯を食う時、眠る時、普通、同時にあぶくのようにわきあがってくる種々の雑念、心配や不安、取越し苦労、過剰な自己反芻、ネガティブな感情等に心はすっかりとらわれて占領されてしまい、心は今、この場この瞬間に直面している現実(飯を食う、眠る)にあらず、主と作りきっていないことが多い。

日常の今ここにおいて、その場その場で自らが主と作り、事に無我夢中で没頭、専心することによって深層の自己が立ち現われてくる。これこそがまさに慧海禅師の修行の工夫ということだろう。
名前は何であれ、ここに精神的深層人格、精神的無意識の働きがあるのだろう。

まさに臨済の「随所に主と作れば立つ処、皆真なり」(今、ここで、その場その場で主人公となれば、振り回されることはなく、おのれのあり場所はみな真実の場となる)。

また脳科学的視点に基づくマインドフルネス、ストレス低減瞑想法とマインドワンダリングとも深く関連して非常に興味深い禅問答である。詳細は別途予定。

なお、わきあがってくるあぶくに対しては、とらわれず、また、とらわれないことにも、とらわれず、そのままに、あるがままに日常の今、この瞬間に直面している現実に自らが主と作りきることであろう。


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荘子 斉物論篇 「胡蝶の夢」と臨済「随所に主と作(な)れば、立つ処皆な真なり」

荘子 斉物論篇 「胡蝶の夢」と臨済「随所に主と作(な)れば、立つ処皆な真なり」

前田利鎌著 岩波文庫「臨済・荘子」より抜粋要約引用

・・荘子にとっては、いわゆる夢も現実も道の一持続にすぎない。従って胡蝶が荘子になったのか、荘子が胡蝶になったのか、そんなことは彼にとってはどうでもいい問題である。

荘子にとっては、随所に主となって、その場その場の変化を楽しんで行けばよいのである。とにかく、胡蝶と荘周とは同一物ではないけれども、それかといって一を夢とし、一を現実とする必要はどこにもない。

胡蝶は胡蝶たるを楽しんで行くだろうし、荘周はまた荘周たるを楽しんで行くだろう。生死もまた然り。化に順うのみである。「物に乗じて以って心を遊ばしめ、已むを得ざるに託して以って中を養えば至れり。」(*人間世篇)

・・・一言をもってこれを覆えば、荘子は運命と戯れ随時、随所にその変化「物化」を楽しむ・・・・



福永光司著 中国古典選「荘子」より抜粋要約引用

・・一切の存在が常識的な分別のしがらみを突き抜けて自由自在に変化し合う世界・・「物化」・・・万物の極まりない流転・・・あらゆる境遇を自己に与えられた境遇として逞しく肯定してゆくところに真に自由な生活がある・・・

一切肯定を自己の生活とする人間に他ならない。・・・しかめつらしい(哲学的)分別や詮索考証に躍起となる中で指間を洩れる水のようにこぼれおちてしまうことに気づかないのだ・・・・・・

夢と現実の混沌の中で、生きたる混沌の中で、生きたる混沌として楽しもうというのである。・・・与えられた自己の現在を自己の現在として逍遥する・・・

美もまたよく、醜もまたよく、生もまたよく、死もまたよく、夢もまたよく、現実もまたよく、人間であることもまたよく、胡蝶であることもまたよい。一切の境地をよしとして肯定するのである・・・・



臨済録
随所に主(主人公)と作(な)れば、立つ処皆な真なり(その場その場が真実だ)」を髣髴させる・・・・

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臨済 無位の真人・無依の道人とはいったい誰なのか?何なのか?入矢義高著「求道と悦楽」より


臨済録の無位の真人、無依の道人とはいったい誰なのか?何なのか?・・・

それは・・・・

入矢義高著 岩波現代文庫 「求道と悦楽 中国の禅と詩」に臨済録に関して非常に興味深い記述があったので以下に私なりに、適宜抜粋要約する。

・・・・・私の目の前で、私の説法を聴いている、まさにお前、他ならぬ、おまえこそが祖仏なのだとなります。別に内在の主体者として措定するのではなく、また無位の真人とか、そういう超越的、絶対的なものを措定する必要はないのです。

祖仏はお前だというのです。私の目の前で法を聴いている修行者たちを、その現在の生き身そのままに、本来人として祖仏として肯定し、目の前の君たちこそが生ける祖仏だということです。

そこには内在的にしろ、外在的にしろ、ひとつの超越者や絶対者のごときもの、真仏を介在させる、あるいは前提させること必要は全くないのです・・・そういうものが内に在って働きを為すのではないのです。

我々が生き身のままで本来の無依の道人なのだと臨済は説いているのです・・・・しばしば誤解されるように、内在的に超越化された無依の道人なるものが聴法しているのではないのです。

・・・鈴木大拙先生の英訳もこの点ではあっていません。The One who・・・ The Man whoとか訳されていますが、これらは明らかに超越的に内在しているもの、無位の真人が尾を引いているのです。しかしここではそういう媒介があってはいけないのです・・・・

以上 適宜抜粋要約。

上記と関連して鈴木大拙著 佐々木閑訳 岩波文庫「大乗仏教概論」の訳者による後記で、・・・・この鈴木大拙博士による大乗仏教概論は・・あたかも内在する実在を説くかのような、宇宙的如来蔵、法身の意思等、特異な汎神論に近く、またヘーゲル哲学に近いのでは・・・と論評する訳者自身による指摘(詳細略)も大変興味深い。


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無意識の言語化|無意識の意識化

無意識の言語化|無意識の意識化

自分を忘れて無我夢中で事に仕え没頭し専心することで、はじめて深層の自己、深層人格、精神的無意識が働きはじめる。

臨済もかって「無事是れ貴人」といったように「無位の真人」「無依の道人」とは常に、今ここで自由に活発に働いている働き、対象化されえない無意識的な働き、反省や概念化できない精神的無意識、精神的深層人格であり、西田幾多郎の純粋経験、統一作用に近い。


けれどもこころは真空を嫌う。

多忙な時間のふとした空虚な時間に、「小人閑居して不善をなす」というように深層意識、水面下の奥底から表層意識上に名付けようのない情動や深い退屈感、実存的空虚感、不安感、煩悩等があぶくのようにわきあがってくる。

あたかも、大空にひとつの黒いちぎれ雲がどこからともなく飛んでくるように。気がつけば大空は一面、黒雲におおいつくされている。

暇とは、ある意味で、こわいものである。

フランクルのムカデの比喩でムカデがあるとき暇に任せて自分の百本もある足の動かし方の順序が気になって自己「観察」と過剰な自己「反省」(主客二分化)をはじめたところ、ついに悶絶し、神経症になってしまい、うずくまって歩けなくなったという。

狭義の知性による、混沌とした深層意識領域の完全な言語化、意識化は、もともと不可能であり、どうしても思考の反復ピストン往復運動になり、いつまでも明証感情の未処理の残像が残る。

これらの黒いちぎれ雲に対して言語による行き過ぎた哲学的な過度の自己反省、反芻の働きをやめ、ぼうっと焦点をずらしてこの働きを、見るようで見ず、見ないようで見る。気付いて放っておく。とらわれず、また、とらわれないことにも、とらわれず。ということだ。ここに核心部のコツがあるようだ。

森田正馬は深層意識からあぶくのようにわきあがってくる情動や深い退屈感、実存的空虚感、不安感、煩悩等の黒いちぎれ雲は、そのままに、あるがままに今、この瞬間に直面している現実に「なりきる」ことをいう。「行動を変えれば、思考と感情も変化する。」「外相整いて内相自ずから熟する」という言葉にも通じるだろう。「気分」本意ではなく、心は、観察者として、いじくりまわさず、あるがままに受け入れて、目的本位、行動本位にいまやるべきこと、行動と実践をやっていくということだろう。


マインドフルネス瞑想でいうラベリングに近いものかもしれない。非常に微妙だが「写生」に通じるものがあろうか。(脳科学でいう認知バイアス修正のためのラベリングについては別途詳細。)

暇つぶしに自分自身の事を(主客二分)対象化して過度な自己反省、言語化や概念化、自己観察、解釈、評価等に専心しないで、そのことに気づいてもほうっておく。

それらと共存しながら生の日常生活の今為すべきこと、日々の課題に忙しく専心し、事に仕え没頭しているあいだに自然と、いつのまにか直観、無意識への信頼を回復し、黒いちぎれ雲は霧散していくようだ。「照顧脚下」に通じる。ー煩悩即菩提ー。

とらわれず、また、とらわれないことにも、とらわれず。
山の庵にて
仙人

臨済 無事是れ貴人 無聊と閑居

以下 岩波文庫 前田利鎌著『臨済・荘子』後書から・・抜粋引用 一部変更

・・・・・・・・・・・・独りでいては「無聊」に苦しむというのは自己に沈潜しきれないものの浮動性からくる焦燥である。静かに自己の問題を考えつめ、ひとり自己を養い育てるためには、この浮動性を克服して「無聊」に堪えて行くだけの忍辱が必要である。

・・・・・長く貴族的生活に耽溺していたトルストイは中年におよんで人生の意義を懐疑し始めて虚無思想の結果幾度か自殺しようとしたそうである。

ところがあるときかれは突如として一つの真理に達した・・・いったい「人生の意義」などということを考えて懐疑に陥るのは怠惰な生活を送っているからである。額に汗かいて働いているものを見よ。彼らは人生の意義なぞというものについては何の疑惑も持っていない。いったい人生問題なぞというものは生活に「暇」があるから起こってくるのだ。そんな懐疑は有閑階級の戯論である。怠惰こそ一切罪悪の根本である。・・・トルストイはこう考えて自ら労働の生活に入った。・・・・・・

孔子はまた「小人閑居して不善をなす」と言っているが・・・偉大なるトルストイでさえなおかつ然りとすれば、われわれ凡庸人にとってはなおさら閑があるということは恐るべき敵でなければならぬ。

・・・日々の生活に虐使されているものにとっては「閑居」ということは休養であり慰労であって羨望すべきものに思われるかもしれないが深刻に考えてみれば「閑居」ほど「退屈」なものはなかろう。真に孤独の「閑居」に堪えうるものは選ばれたもののみの能くするところである。

「小人閑居して不善をなす」という断定の背後には君子は「閑居」に堪えうるものという逆理が潜んでいる。臨済もかって「無事是れ貴人」といった。「閑居」の「無事」を楽しみ得るのは「貴人」の特権である。孤独に堪えうるや否やはその人間の沈潜力と生命力との試金石である。一切の同胞と一切の書籍を放擲してなおかつ孤独の閑居に堪えうるということは至難のことである。・・・・・・・・・・・・・

以上 岩波文庫 前田利鎌著『臨済・荘子』後書から・・抜粋引用 一部変更

定年退職前後のビジネスマン、会社員等中高年者が溌剌と生きるための、こころの「道しるべ」

定年退職前後のビジネスマン、会社員等、中高年者が溌剌と生きるための、こころの「道しるべ」を探す。

これまでの海外駐在を含むビジネスの経験や、また経営コンサルタントとしての経験から、華僑やユダヤ系商人などをはじめ傑出した創業者や実業家など、ビジネス分野で活動し成功している人々には、強固な精神的、宗教的、哲学的な背景があると肌で感じていた。

彼らの活動は単なるビジネスという以上の人間学的なバックボーンのある活動である。人間を動かしているものは、精神的なこころの次元が大きいと常々感じ、第一線のビジネスマン向けに、こうした観点に基づき拙いながら数冊のビジネス書も書いてきた。

ところが定年や退職が近づいてくるとビジネスの第一線で活躍してきた者ほど、あたかも燃え尽きたように急激に目的意識や達成意欲、責任や役割などのモチベーションを失いはじめる。また家庭内においても子育てや父親としての役割が一段落しはじめ、社会や家族からの疎外感や役割の喪失感や無所属の不安を感じ始める場合も多い。

この時期、彼らは年老いた親の介護や死に接する場合も多く、将来の経済的不安をもかかえ、忍び寄る老いの予感や病、さらに漠然とした実存的な退屈感や空虚感、死への不安を感じ始める。多忙であった人ほど自分の役割、生きがいや生きる目的を見失い始め、今までの会社生活や仕事の意味までも問い始める。

このままただ老いて死にゆく存在だけなのかといった生きる意味、人生の価値までも初めて問い始める傾向にある。

確かに人生の一大転換点といってもいいかもしれない。

彼らの深層意識、水面下の奥底から表層意識上に名付けようのない深い退屈感や空虚感や不安感があぶくのようにわきあがってくる。経済的不安をもかかえながら、これらから解放され気を晴らすため、今までの意味での仕事(*詳細別途するが下記のこころの「道しるべ」により仕事の意味が変わりはじめる。)や様々な社会活動、地域、コミュニティ、ボランティア、特に勉強会や趣味の活動等に居場所を求め、打ち込み没頭しはじめることも多い。

意識の表層で、生きる意味、役割や生きがいを自己満足的に探し求める傾向にもあるようだ。だが、これらは意識の表層だけの一時しのぎの気晴らしにすぎないこともあることがだんだんわかってきた。

だが、不思議なことに一見、表面的には同じような環境にもかかわらず、ますます生き生きとして溌剌と生きがいをもって生きている人と、そうではない人がいること、この大きな相違はいったいどこに起因するのであろうか。またそれぞれに明らかな共通点にも気づきはじめた。

私は、ここ数年、経営コンサルティングやセミナー等の機会を通じ、仕事中心で活躍してきた、ビジネスマン、会社員などの定年退職前後の中高年者、また実業家等に親しくこころの奥底に実際に触れさせていただき、ようやく彼らが、より溌剌と生きるための、こころの「道しるべ」となりうるものを探しあてたかもしれない。


「祈り」は遺伝子の発現のオン・オフに関わっている。仏教の深層心理 唯識、阿頼耶識より・・・

「祈り」は遺伝子の発現のオン・オフ、エピジェネティックス(DNAの塩基配列の変化を伴わずに,遺伝子の発現を調節する仕組みに基づいた遺伝学)に強く関わっているひとつであろう。

それはちょうど仏教の最深層心理ともいえる阿頼耶識と種子(しゅうじ)の構造をほうふつさせる。(詳細は別途)

仏教唯識での阿頼耶識は蔵(くら)であってそこに経験したことが印象刻印、形成され蓄えられ(薫習=くんじゅう)種子(しゅうじ)として形成され一切が貯蔵され、また逆にこの種子がいずれ発芽し発現、顕現していく。

阿頼耶識に既に蓄えられた種子が現行を生み(種子生現行)また逆に現行が阿頼耶識に新たに種子を薫じ蓄えていく(現行薫種子)。

「祈り」は最深層心理ともいえる阿頼耶識という蔵(くら、一切種子識)を「活性化」させるひとつの方法であろう。(ここでいう「祈り」は特定の宗教とは特には関係はない。)

効果的な「祈り」は遺伝子をオンにする。「祈り」はある意味で「修行」ともいえるだろう。

では日常、日々の生活で、具体的にどのように「祈」ればいいのか?

自分を忘れて没頭し専心することによってはじめて深層の自己が立ち現われてくる。

無我夢中、忘我で「事に仕える」ことによりはじめて精神的深層人格、精神的無意識が働きはじめる。ここにこそ「祈り」のヒントがあろう。

精神が現実に働いている只中においては精神自身は「忘我の状態」になっていて必然的に無意識的であらざるをえない。では、いったい祈っている主体は誰、何なのだろうか。


「祈り」によって深く眠れる遺伝子はオンになり発現していく。

「祈り」とは、主客合一、梵我一如、物我一如、究極の純粋経験である知的直観、行為的直観の「知」に通じるものであろう。

「祈り」は表層意識と深層意識を、ある意味で双方向で「媒介」するものと考えられる。表層意識と深層意識を効果的に「媒介」する言葉、感情、情動、身体、行為、象徴、イメージ等について別途詳細してみたい。


至道無難禅師 『生きながら死人となりてなり果てて思いのままに するわざぞよき』

『生きながら死人となりてなり果てて思いのままに するわざぞよき』 至道無難禅師

ようやく見えたきたようだ。これは死にもの狂いでやるとか、死んだつもりでやるという(表層)意識的にふりしぼったような意志を意味しない。

それは、ほんとうに深層意識から「死」を観じたときに観えてくる新たな「生」の世界をいうのである。「白骨観」瞑想修行にひじょうに近いものと解釈する。

深層意識から「死」を観じたときに観えてくる新たな「生」は主客二分された分別「知」としての「死」に対する「生」ではない。

この境地に達したとき、些細な日常の不安や心配、取越し苦労などはなくなっていくのが実感としてわかるだろう。すべてをあけ放ち、明け渡してしまい、すっかり自分をも忘れた忘我の状態で自由に、無何有の郷(所有に対していかなる執着もなく、ないという意識さえもない)思いのままに逍遥遊することにちかい。


これもやはり『荘子』大宗師篇、荘子的超越者「真人」仙人の構造、A→B→A'にみる『修行』の弁証法的構造をもつものだろう。生(A)→死(B)→新たな生(A’)という構造だ。

なお参考までに・・・

『荘子』において一切存在は方生方死であり、この生滅変化してゆくはてしない変化の流れそのものが道、実在の真相であって、個体はこの変化の流れに生じては滅し、滅しては生ずる波のごときものに他ならない。不滅なのはこの変化の流れそのものであって、生滅する個体ではない。人間はこの道の不断の流動にそのまま従う時、真に生と死を超えることができると説く・・・・

個々の事象にとらわれ「区別」し「私心」「分別」をもつことにこそ人間の惑いと悲しみがある。生成変化していく、はてしない大きな流れそのものが「道」であるとしている。この不断の流動にそのままやすんずるとき真に生と死を超えると。これが究極の養生の秘訣だとある。

臨済録「無位の真人」 フランクル精神的深層人格と脱反省 

「画家が意識の上において種々の企画をなす間は未だ真に画家の人格を見ることはできない」「自己を忘れたるところに真の人格が現れるのである」という趣旨を西田幾多郎がのべている。

これはヴィクトール・フランクルが「自己形成の秘密」といったことに近い。つまり何らかの事に自分を忘れて没頭し専心することによって深層の自己が立ち現われてくる。フランクルはこのことを「事に仕える」という。事に仕えることによりはじめて精神的深層人格、精神的無意識が働くという。

フランクルは面白い例を挙げている。ムカデがあるとき自分の百本もある足の動かし方の順序が気になって自己「観察」と過剰な「反省」(対象化、分析、概念化、区別、主客二分)をはじめたところ、ついに悶絶し歩けなくなったという。またあるヴァイオリニストや画家があらゆることを意識的に行おうとして遂になにもできなくなってしまった例を挙げている。(*無意識への信頼欠如、未処理の明証感情の残像処理に関しては別途。)

過剰な自己反省から解放され(脱反省)自己を忘れ事に専心し、事に仕えた時、無意識への信頼の回復した時にはじめて反省(対象化)しても反省しきれない精神的深層人格、精神的無意識の働きがあるとする。

これらは森田正馬の自分の不安や心配等を思いめぐらしたり、ムカデの比喩に見る、過剰な自己反省、自己観察に没頭し遂には今、ここでの為すべきことを為せず、うずくまってしまうことに近いものと思われる。(*あるがままに、日常茶飯の為すべきことを為す、日々の生活における事上磨練等に関しては別途。)

ここで臨済録、上堂にある「赤肉団上(生身の身体)に一無位の真人有り。常に汝等諸人の面門(感覚器官)より出入りす。未だ証拠せざる(気付いていない)者は看よ看よ」。という言葉だ。

無位の真人(もともと「荘子」にあり)とは常に、今ここで自由に活発に働いている働き、対象化されえない無意識的な働き、反省や概念化できない精神的無意識、精神的深層人格、西田幾多郎の純粋経験、統一作用に近いものではないだろうか。

無位の真人と関連して、無依の道人、無事の人、平常無事、さらには如来蔵、真如、阿頼耶識についても考察してみたい。

道元「自己をわするるといふは、万法に証せられるなり。」(正法眼蔵 現成公按)

*参考文献 世界思想社 山田邦男著「自分のありか」

フランクルの精神的無意識・深層人格とウパニシャッド梵我一如

山田邦夫著 春秋社『フランクルとの対話』より、フランクルの「精神的無意識・深層人格」と関連して。

ウパニシャッド「見ることの背後にある見る主体を、あなたは見ることはできない」に関する部分より下記関連個所より抜粋要約。

ーーーーーーーーーーー

・・・フランクルは、人間存在の中心、人格の深層にある無意識的な人格を深層人格と呼んでいます・・・それを眼の比喩を用いて説明しています。

網膜の根源的個所、すなわち視神経が網膜に入り込むその個所に「盲斑」があるのと同じように、精神もそれが自分の根源を有しているまさにその場所において、すべての自己観察、すべての自己反省に関して盲目になる。精神が完全に根源的であり、完全に自分自身である場所において、精神は自分自身に関して無意識なのである。

・・・真の深層人格の深みにおける精神的・実存的なものは、何時いかなる場合にも無意識なのである。・・・精神が現実に働いているその只中においては精神自身は「忘我の状態」になっていて必然的に無意識的であらざるをえないわけです。・・・そういった「反省」が全くできない状態においてこそ精神が最も活発に働いているわけです。・・・・

そしてこのような精神に関してこそ古代インドの聖典ヴェーダに述べられている次のような言葉がそっくりそのままあてはまるのである。「見るものは見られえず、聞くものは聞かれえず、考えるものは考えられえない」「識られざる神」・・・・フランクルが、このように自分の思想の最も核心部分をなす個所で東洋の聖典を引用してるのは注目すべきことのように思われます。・・・

・・・「見ることの背後にある見る主体を、あなたは見ることはできない。聞くことの背後にある聞く主体を、あなたは聞くことはできない。思考の背後にある思考者を、あなたは思考することはできない。認識の背後にある認識者を、あなたは認識することができない。この(見、聞、思考、認識の主体としての)あなたのアートマンが万物に内在しているのである。」(ウパニシャッド バラモン教典)

(注)大宇宙の最高原理であるブラフマン(梵)と小宇宙である個体の本質をなすアートマン(我)とが本質的に一体である「梵我一如」とウパニシャッドはいう。・・・

われわれが何かに専心するとき、そこに自分を超えた何かが自ら働きます。・・その働きは個々人に即して働くわけですね。自分の内には、自分を超えたものが自分に即して働いているということになります。・・・こういう無意識的な「おのずから」なる働きがどうして起こるのかということですね。・・・・

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

以上 山田邦夫著 春秋社『フランクルとの対話』より、フランクルの「精神的無意識・深層人格」に関連する個所より抜粋要約。 

*上記に関連して著者の山田邦男がフランクルの「精神的無意識・深層人格」と西田幾多郎「善の研究」の意識統一力、無意識の統一作用、「我々の自己は直ちに宇宙実在の統一力其者(そのもの)である。」ということに関して非常に興味深い考察をされている。別途、考えてみたい。

ー以下 フランクルの著書より抜粋ー

「ひとはいかにして分自身を知ることができるのか。それは決して考えることによってではない。行為することによってである。汝の義務を果たそうと努めよ。その時汝はただちに汝が何であるかを知るであろう。では汝の義務とは何か。日々の要求がそれである。」

「もし私がそれをしなければ、誰がそれをするだろうか。しかし、もし私が自分のためにだけそれをするなら、私は何であろうか。そして、もし私が今それをしなければいつするだろうか。」 (ラビ・ヒレル)

「一般にあらゆる当為はつねにただ具体的にのみ人間に与えられ、彼が「いま・ここ」で為す「べき」ことという具体的な形であたえられているのだろう。価値は日々の要求と個人的な課題のうちに現れてくる。そしてこの課題の背後にある価値はただ課題を通してのみ思考されうるように思われる。」

脳のミラーニューロン「物まね細胞、鏡細胞」眠りながら修行する秘策!?

脳のミラーニューロン「物まね細胞、鏡細胞」眠りながら修行する秘策!?

他人の動作を見ているだけでも、実際に自分が同じ動作をして、やってみたときと同じように自分の脳の一部が活動する。

脳のミラーニューロン「物まね細胞、鏡細胞」は、他の個体の行動を見て、まるで自分自身が同じ行動をとっているかのように鏡のような反応をする。他人がしていることを見て、我がことのように感じる共感、共鳴能力を司っていると考えられている。

サルAが手を動かしていなくともサルBのある動作を実際に行っているのを見ていると、サルBの脳の神経細胞と同じサルAの脳細胞が活動する。

例えば自分自身でサッカーボールを蹴ったときも、他人がサッカーボールを蹴るのを見たときも、蹴られる音を聞いた時も、また蹴るという言語を発したり聞いたりした時も、同様に脳内の同じ神経細胞が発火する。自分と他者の状態をあたかも鏡に映すように対応させるかのような反応をする。


他者からコピーされるのは動作だけでなく感情や情動もコピーされる。行為だけでなく情動、感情についても他者と自己を対応付ける。

すると、自己と他者の区別はあいまいもことなる?!。他者の心の痛みを我がこととして感じる。?!

(注*これに関して、自分だけが悟ればよい(自利)とは考えず(考えらえず)全ての衆生が悟りを得るまで(利他)自分も悟りを得ない(得れない)という菩薩行、また華厳における一即多、多即一に関しても別途考えてみたい。)

このミラーニューロンのあるのは言語処理に関係する脳内領域。上述したのは「いま、ここ」における共鳴、共感現象だが、自他の行為や、感情を言語化することにより時間空間をこえて共感することが可能。共同体、道徳感情につながる?精神・・・?これこそが言語阿頼耶識につながるのだろう。

すると、嫌なもの、うっとおしいものばかり見たり聞いたり読んでばかりしていると、嫌なものに多い尽くされ、そんな脳内回路が活性化してしまう。テレビの不安や心配を掻き立てるコマーシャル(保険や犯罪等の報道等、また病気の番組等)に汚染されまくっているのでは。また逆に言えば「ミラーニューロンマーケティング」なるあたらしいマーケティングの可能性も開けてくる。

日常何気なく使うつぶやきや言葉を変えると同時に、自分で短くまとめた一種の呪文マントラ(お経)を文字にしてそれを目で見ながら読誦し耳で聞いたり、またそれらを録音し睡眠中に聞くという秘策は脳のミラーニューロンの観点からも恐るべき効果がある。6c78c9ac.jpg


王陽明 「事上磨練」 実際の七転八倒のビジネス現場、臥薪嘗胆より六波羅蜜 忍辱(にんにく)修行編 あほに徹してやりまくる衝撃の集団感染マーケティング

王陽明に「事上磨練」という考えがある。観察者としての机上の観念論や言語による概念論ではなく、実際に直面する日常の生活や仕事などの行動を通して修養し精神を練磨、修養することこそが真の生きた学問であると説いている。

日常の生活や仕事における具体的な事上磨練、実際の七転八倒のビジネス現場、臥薪嘗胆より六波羅蜜、忍辱(にんにく)修行編から紹介していきたい。

「事上」とは実際の日常のことに当たりながらの意。「磨錬」は練り磨く意。日々の日常生活から離れて観察者、傍観者として、静かな思索や過去の哲学者の訓詁学や注釈解釈等にふけっている限り、ほんとうの宗教や哲学ではなかろうということか。「照顧脚下」ということだろう。

現実の修羅場、日常の今、ここの生活、煩悩の真っ只中で生きることこそがそのまま菩提。般若の知恵、不二の法門なのだろう。 「維摩経」(ゆいまきょう)の中で・・・出家者のシャーリプトラが街から遠く離れて深山の静寂の中でひとり瞑想、禅にふけっていたところ、在家の大商人でもある維摩居士に「娑婆世界こそが浄土である、汚泥の中に咲く蓮こそ本当の蓮華」と怒られまくられるのがとても興味深い。


現実世界で日々もみくちゃにされ七転八倒する中で、執着せず嬉々と日々の「なすべきこと」をやり抜くことこそ、それは現成してくるのだろう。修行とは、在俗の真っ只中にありながら世俗の一切に執着しない日々の生活、いまここで、今日も生きる歩き方そのものだと思う。

(参考:なお忍辱(にんにく)修行と、森田正馬の恐怖突入や曝露との関連については、別途詳細)

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私の実際の七転八倒のビジネス現場、臥薪嘗胆、六波羅蜜 忍辱(にんにく)修行編から以下に詳細ーーーー



・・・華やかな世界のひのき舞台から,突然のどつぼ、みじめさのどん底へ・・自尊心だけが粉々に打ち砕かれ・・・私は修験道、大峰山系の深山幽谷の原生林を世をはかなみ、傷だらけになり何日もひとり彷徨していた。

・・・ある岩小屋の一夜のことだった。山の冷気に震えながら、漆黒の闇、焚き火の真っ赤な炎に、私は狂ったように、ほえさけび苦しいこころをはきだしていた。私はもんどりうってもがいていた。騙され、裏切られ、憎しみ、嫉妬、恨み、悲しみ、怒り、屈辱感・・・

そのとき、ふっと気づいたのだ。ぱちぱちと火の粉を上げる真っ赤な炎の向こうに満天の星が輝いている・・「こころ」というものは傷つけられるようなちっぽけなものなのだろうか、そもそも「こころ」というものは、それ自体、本当にあるのだろうか・・・

・・・その瞬間だった・・私はみじめさのどん底で高らかに笑い始めていた。

・・・こえだめのなかでさえ、みじめさのどん底でさえ高らかに笑うことはできるのだ。他人からどう見られるか、他人からどう思われるか、そんなことはどうでもええがな なんでもええがな・・他人のもつ自分自身を写す「鏡」をぶっこわすのだ。

・・世間的価値観、既存の権威,世俗の常識のあほらしい正体・・・わてかってあほやけど、あんたかってあほやがな、同じあほやったら、めちゃくちゃやりまくらな おもろないがなあほに徹しあほを忘れれば何でもできまんがな・・・現実から逃げない勇気、現実を底につきぬける勇気、とらわれず、また、とらわれないことにもとらわれず、こころまかせに悠々と現実とたわむれる・・・・・・
 
・・・・・気がついてみると、私はこえだめの中で高笑いするゴキブリのように完全に現実世界を底に突き抜け,あほに徹して、しかもあほに徹している事さえも忘れ、常識破りの膨大なマーケティング試行錯誤生体実験を繰り返していた。

・・・その結果・・

前代未聞、実在の21万ヶ所にもおよぶ多種多様のコミュニティ、職場、共同体、群れ等に対し、膨大なマーケティング生体臨床実験を通じ5年間でほぼ売上ゼロから917億までたったひとりで販売達成。どぎもを抜くケタ違いのスゴイ効果を実証。

・・・今般、この驚愕の究極の弱者の戦術,スゴイ効果 むれをねらってとあみを投げる、衝撃のマーケティングコンセプト革命、集団感染マーケティング、集団感染法則を業界初公開するに至った。この業界の先進国米国でさえもこの分野の実践的研究は、私の知る限り、いまだ、ほとんどない。

(参考:ダイヤモンド オンライン特別レポート・インタビュー記事 仙人のマントラ呪文 六波羅蜜 忍辱(にんにく)修行より。)6c78c9ac.jpg
内容(「BOOK」データベースより)
カネもコネも人脈もない超ど級の窓際に追いやられた元国際派エリートが、みじめさのどん底で「あほに徹すれば何でもできまんがな」と臥薪嘗胆。開き直り、奮闘し、わずか数年で前代未聞・記録破りの売上900億円を達成させてしまった。いかにしてケタ違いの大成功を手に入れられたのか―。

それは、「群れたがる、繁殖しやすい」コミュニティを狙い撃ちする方法論を手に入れたからだ。これこそ、ビジネスが劇的に変わる究極の「弱者の戦術」。21万件を超えるコミュニティの反応実験・結果検証・試行錯誤の末に到達した、業界話題騒然、効果絶大と大反響の「集団感染菌の培養・自己増殖システム」の全貌を明らかにする。

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「行動を変えれば、思考と感情も変化する」森田正馬 仏教「外相整いて内相自ずから熟する」

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吉田秀和「ブルックナー&マーラー」に、こんなふうな一節があった。

「ブルックナーはどんなに情緒的に不安定であったにせよ、意識の奥深いところに不退転の羅針盤のようなものが強烈に働いていた・・・」「ブルックナーの音楽は宇宙的な広がりと深さをもった・・・一種の自己放棄と帰依から生まれた恍惚の瞬間に幾度か出会う。ここでは自分を制限するのとは逆にどこまでも果てしなく広がってゆくことの歓びに酔っている精神の動きが感得されるといってもよい。・・ブルックナーの音楽を聴くことが一種の神秘主義的体験につながる・・・」


また誰かが「ブルックナーは通常の音楽とはまるで違う。音楽を超えたものというか別世界の音楽というか、とにかくそのよさがわかりにくい。なぜならブルックナーの交響曲には人間的ドラマとか心の葛藤などがまるでなく大自然そのもの、大宇宙そのものだ。・・・」
たしかに聞くというよりその音楽に身をひたすといった感じだろうか。

ブルックナーが面白い。


また森田正馬(精神科神経科医)にこんなふうな一節があった。「・・・禅の方では繋驢杭(けろけつ)という言葉がある。杭に繋(つなが)れた驢馬(ロバ)がそこから逃れようとして杭の周囲を回るうち、ついに自ら杭に固着して動くことができなくなる・・・自ら苦悩の繋縛から逃れようとして種々の工夫を凝らし手段を尽くすにつれて、ますます抜き差しならない苦悩、煩悶にとらわれてしまうようなもの・・・」

ではどうするか。

米国の、心理学、精神分析、認知行動療法に「思考、感情は常にコントロールできるとは限らない。しかし行動は常にコントロール可能である。行動を変えれば、思考と感情も変化する。」
ではどうするか。「外相整いて内相自ずから熟する」という森田正馬・仏教の言葉に通じるだろう。「気分」本意ではなく、心は、いじくりまわさず、あるがままに受け入れて、目的本位、行動本位にいまやるべきこと、行動と実践をやっていくということだろう。

「行動を変えれば、思考と感情も変化する。」「外相整いて内相自ずから熟する」に関連して、ジェームズ・西田幾多郎の「泣くから悲しい」とはまず無意識の情動身体反応(泣く)があり、それを部分的に意識化・自己認知モニターしている感情(悲しい)がある。(参考:「脳活動する、ゆえに我あり」「脳活動する、3秒たって、我はじめて意識する」)

ただし、ジェームズや西田幾多郎の「泣くから悲しい」というのは脳科学の観点からは正しいとしても、そのようなさびしげな言語表現をなにげなく使用する限り、唯識の言語阿頼耶識と種子(しゅうじ)の観点からは、ますます迷いどつぼのスパイラルにはまりこみ、逆効果。「笑うから楽しい」と言い換え実践すればばいいのである。さらに笑い顔を鏡でみて笑えばよけい楽しく「笑う門には福が来る」のである。

臨済録を読みながら・・・・・・


あらゆる対象に引きずられるな。外をさがすな。内をさがすな。さまさまな環境にかき回されるな。ぶつかったものはなんでもかんでも口にしまいこむな。
つかんですぐに働かせよ。決して名前(言葉)を付けるな。言葉を経由するな。つまらぬ名称を固定化して実在だと思い込むな。

外でも内でも出会ったらすぐに切り捨てよ。言葉、物に頼らないでやってこい。
外に真理はない、また内にもつかむことはできない。すでに起こった事は言葉で追っかけてはいけない。まだ起こってない事を言葉で起こさせる必要もない。

柳は緑 花は紅 

心は様々な環境を追って動いてゆく。動いているままが美しい。わざわざ捕まえる必要はない。はねかえす必要もない。心さえ起きなければ諸々の存在に罪はない。

心そのものを直下に把んで働かせよ。いっさいの名前を付けぬことだ。
ひとつの価値に執するところすべてが魔となる。なにかがやってきても言葉に引き込んではならない。そのままうつしだすのだ。通り抜けるのだ。

とらわれずまたとらわれないことにもとらわれず。あるがままに。
日々是好日


鈴木大拙 禅 知性の戯言(ざれごと)や感情のがらくたからの解放

禅に関して非常にわかりやすい記述が、鈴木大拙著「禅」にあったので、一部私なりに以下要約する。

ーーーーーーーーーーーーーーーー

・・・・・心は普通さまざまの知性の戯言(ざれごと)や感情のがらくたでいっぱいである。これらはもちろん日常生活においてそれぞれに役に立つ。それを否定するものではない。しかし、われわれが悲惨な思いをしたり束縛の感に呻いたりせねばならぬのは、主としてそれらの累積のためである。

動こうとするたびに、それらがわれわれを拘束し、抑えつけ、そしてわれわれの精神的視界にあついヴェールをかける。われわれはたえず拘束のもとに生きているように感じる。
・・・・禅は、われわれに、この愚かしい重荷を全部捨てさせようとする・・・こんなものをかつぎまわる必要はどこにもない。・・・・知的累積の抑圧と横暴からの解放・・・

ーーーーーーーーーーー
以上 鈴木大拙著「禅」より一部私なりに要約。

いずれ井筒俊彦著「意識と本質ー精神的東洋を求めて」等にもふれながら言語阿頼耶識と種子(しゅうじ)等を深く考察し、日常の日々の生活において誰でもできる、どのような知的累積の抑圧と横暴からの解放の方法が可能なのか具体的に詳解したい。

油絵と墨絵 鈴木大拙 禅と生命 

禅に関して非常にわかりやすい記述が、鈴木大拙著「禅」にあったので一部私なりに以下要約する。

ーーーーーーーーーーーーーーーーー
・・・生命は「墨絵」である。ためらうことなく、知性を働かせることなく、ただ一度かぎりで描かねばならぬ。。訂正することは許されないし、また不可能である。

生命は油絵とは違う。

油絵は、芸術家の得心のいくまで、幾たびでも消してやり直すことができる。

「墨絵」に筆を二度加えると、その結果はみな汚点となり、生命は消え失せてしまう。墨がかわけば、訂正個所がみな現れる。

生命も同じでことである。われわれはひとたび行為に移したことを取り消すことはできない。ひとたび意識を通ったことを拭い去ることはできない。禅は、そのものが動いている間に捉えねばならぬ。前でも後でもいけない。それは一瞬の行為である。


・・・矢のように生命が走りゆく時、記憶を呼び起こしたり思想を築いたりする暇はない。推理はここでは一切役に立たない。言葉は使ってもよいのだが、これはあまりにも長いこと観念構成と提携している間に直截性を失い、それ自体であることを喪失してしまった。言葉は使うや否やそれは、たちまち意味を表し推理をなす・・・それは生命とは何も直接の関係をもたず・・・なにものかの、かすかな「こだま」か、影であるに過ぎない・・・・。





ーーーーーーーーーーー
以上 鈴木大拙著「禅」より一部私なりに要約。

道元「典座教訓」と王陽明「事上磨練」 照顧脚下

道元が『典座教訓』に記した体験は、以下のようなものである。典座 – Wikipediaより抜粋引用

「宋の天童寺に留学中だった私(道元)はある夏の日、中庭で寺の老典座が海草を干しているのを見た。老人は眉は白く腰は曲がっていたが、炎天下に竹の杖をつき、汗だくになり苦しそうに働いていた。私は気の毒に思って近づき、年齢を聞くと老人は『68歳だ』と答えた。

『なぜ、下働きの者にやらせないのですか』 老人は答えた。『他の者とやらは、私自身ではない』

『なぜ、今のような炎天の日中にされるのです』 老人は答えた。『一体、いつを待てと言うのか』

私はその場を離れた。そして廊下を歩きながら、典座職の重要さを考えたのであった」


「また私が上陸許可を待って港の船の中にいた時、ある老僧が食材の買入れに港にやってきた。船室に招いて茶を勧め、話を聞くと『私は、阿育王寺の典座である。故郷を出て四十年、歳も六十を越えたが、これからまた20キロほど歩いて、食事の用意に寺まで帰らねばならぬ』

『飯の用意など誰かがやるでしょう。何か差し上げますので、ゆっくりしていかれては』

『それは駄目だ。外泊許可を貰っていないし、典座は老人にもできる修行、他人には譲れぬ』 

私は聞いた。『あなたほどのお年なのに、なぜ忙しく働いてばかりいて、坐禅したり先人の教えを学ばないのですか。それでいったい何のいいことがありましょう』

老僧は笑って言った。『外国からきた貴僧は、どうやら何もわかっていないようだ』私はこれを聞き、大いに驚き、また恥じた。 そして老人は「もう日も暮れた。行かねばならぬ」と立ち上がり、寺へと帰っていった。 私が多少とも修行のことを知るようになったのは、実にこの老典座の恩によるのである


以上典座 - Wikipediaより抜粋引用

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

王陽明に「事上磨練」という考えがある。観察者としての机上の観念論や言語による概念論ではなく、実際に直面する日常の生活や仕事などの行動を通して修養し精神を練磨、修養することこそが真の生きた学問であると説いている。

いずれ陽明学、大塩中斎(平八郎)の日常の生活や仕事における具体的な事上磨練を紹介していきたい。

「事上」は実際の日常のことに当たりながらの意。「磨錬」は練り磨く意。日々の日常生活から離れて観察者、傍観者として、静かな思索や過去の哲学者の訓詁学や注釈解釈等にふけっている限り、ほんとうの宗教や哲学ではなかろうということか。「照顧脚下」ということだろう。

泥中の蓮華ということだ。それ以外にはない。

王陽明、伝習録に知行合一『未だ知りて而も行わざる者は有らず。知りて而も行わざるは、只だ是れ未だ知らざるのみ』とあるが、知行合一の「知」とは反省的思惟、主客二分された分別「知」ではなく,まさに西田幾多郎のいう主客合一、梵我一如、物我一如、究極の純粋経験である知的直観、行為的直観の「知」であろう。

現実の修羅場、日常の今、ここの生活、煩悩の真っ只中で生きることこそがそのまま菩提。般若の知恵、不二の法門なのだろう。

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略歴

●●●●大阪府立天王寺高校卒、伝説の近畿予備校を経て、京都大学法学部(法哲学)卒。幼少期から立志伝中のど根性商人の祖父に商人魂を鍛えられる。総合商社、丸紅にて国内営業,三国貿易,国際プロジェクト金融等(数年のアーサーヤング米国シカゴ本部派遣留学含む)ダントツの営業実績を残す。
●●●その後、大手金融機関に転職。国際証券金融、投資銀行、マーチャントバンク、投信企画開発等、米国、香港、台湾等海外で長年勤務。米国流の国際的でスマートなビジネスに、ど根性大阪商法と華僑流商売を融合。
●●香港ではユダヤ商人、華僑をも震撼させる国際証券ビジネスで売上実績1500億超。さらに中国や台湾大企業向、業界初の「仕組み」ビジネスで数百億の記録破りの実績。業界の話題を呼ぶ。
●●その後、ダイレクトマーケティング、コミュニティ口コミビジネスをゲリラマーケティングで融合した「集団感染マーケティング」で個人向金融商品900億円超の前代未聞の販売実績を達成。マスコミ等の注目をあびる。カント会所属。
●●●●大企業、外資から中小企業、自営、個人商店の個別の営業支援、コンサル、研修セミナー、短期海外駐在等実施中

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著書

『集団感染マーケティング』(ダイヤモンド社)『やる気になったあなたが成功するために本当に必要なこと・仙人の教えとは?』(明日香出版社)『お役所系集団に口コミで売り込む方法―なぜ消防署で住宅ローンがバカ売れするのか?』(ダイヤモンド社)『客が客を呼ぶ「集団感染」のスゴイ仕掛け』(ぱる出版)等がある。
高等戦術研究室
● 集団感染マーケティングコンサルティング・大企業、外資、中小企業など個別企業営業支援・セミナー研修、短期海外駐在等

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拙著にメールアドレス連絡先記載あり。または、メッセージ送信フォーム、コメント欄に連絡お願いいたします。
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杉村晶孝 著書紹介
●プロフェッサー杉村&高等戦術研究室著 ぱる出版『客が客を呼ぶ集団感染のスゴイ仕掛け』〜ゼロから900億つくった私の方法論。

●大阪ど根性商人出身でユダヤ商人、華僑との国際ビジネス経験を基に「群れに投網を投げ一網打尽」にする集団感染マーケティングの全貌。



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「わてかってアホやけど、あんたかってアホやがな。人にどう見られようと、何と思われようと、どうでもええがな。なんでもええがな。アホに徹したら、なんでもできまんがな。ダメもとやがな」

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