Institute for the Advanced | 高等戦術研究室

高等戦術研究室代表 杉村晶孝|とらわれず、また、とらわれないことにも、とらわれず|随処に主と作れば、立処皆な真なり(臨済録)

今起て!|谷口雅春|生命の實相|第7巻生活篇

谷口雅春著「生命の實相 第7巻 生活篇」より
趣旨を変えない範囲で抜粋引用等はじめ適宜変更し私なりに要約してみた。
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(*なお、私は特定の「宗教」を信仰するものではありませんし、また信者、関係者ではありませんので、もし私の根本的な理解不足や誤読等があればご容赦いただきたいと思います。非常に深遠な宗教哲学思想、深層心理学等に基づく素晴らしい著書であります)


以下ーーーーー
真理は、知識から信念に、信念から生活へと移行しなければ、まだ本当の信念ではない。
真理を知識的に知ることは貯水池に豊かな水が湛えられていることを知ることである。知っただけではまだその水は自分のものにはならないのである。貯水池の水が地下を通る輸送管(潜在意識)に流れ入らねばならぬ。しかし、それだけではまだその水は自分の用にはならないのである。最後に私たちは水栓を開かねばならぬ。すなわち行動化または生活化が必要なのである。


全力を出しきるときにこそ、無限力の貯蔵庫から新しい補給が開始されるときである。出しきったときにのみ無限力が開かれる。自己を小さな者とみるな。自己を弱きものと見るな。・・いよいよのときにこそ無限力が発現するのだ。

信念は行動化しなければならない。真理の知が信となり、さらに行となって生活化してはじめて具体的な力を得るのだ。

自己を信ぜよ、自己に宿る無限力を信ぜよ。全身全霊で一つの行為を満たすとき、そこに誠が発現する。全力が満ちて欠けぬ心だ。誠なきものには無限力が感応しないのである。・・・自分に宿る無限の力が相手のものに映し出されてくるのだ。


まず心の世界に強い自信力がなければ、何事も「形の世界」にあらわれない。結果は原因の内にある。自信が種子であって、外なる実現は結ぶ果実である。

・・まず白熱火のごとき自信、確信をもて。確信は自分の内に宿る無限の力を爆発させる導火線となるのである。すなわち行動化または生活化が必要なのである。

今があなたの時なのだ。今もてる全生命を躊躇なく、今に集中して活動せよ。精神が未来の不安定の憂慮や恐怖から離れて、今に集中したとき驚くべき精神力が発揮される。

今起て!
私たちは水栓を開かねばならぬ。

以上ーーーーーー
谷口雅春著「生命の實相 第7巻 生活篇」より
趣旨を変えない範囲で抜粋引用等はじめ適宜変更し私なりに要約してみた。

(*なお、私は特定の「宗教」を信仰するものではありませんし、また信者、関係者ではありませんので、もし私の根本的な理解不足や誤読等があればご容赦いただきたいと思います。非常に深遠な宗教哲学思想、深層心理学等に基づく素晴らしい著書であります)

取り越し苦労するなかれ 生命の實相 谷口雅春

40ebe938.jpg谷口雅春著「生命の實相 第7巻 生活篇」より
ー取り越し苦労するなかれーわが心の王国を支配せよー
趣旨を変えない範囲で抜粋引用等はじめ適宜変更し私なりに要約してみた。

哲学的、宗教的、心理学的、精神科学、自己啓発的にも、非常に興味深い。(*なお、私は特定の「宗教」を信仰するものではありませんし、また信者、関係者ではありませんので、もし私の根本的な理解不足や誤読等があればご容赦いただきたいと思います。素晴らしい著書であります)

以下ーーーーーーー
ー取り越し苦労するなかれーわが心の王国を支配せよー

多くの人間の苦悩は取り越し苦労というこの見えざる未来を恐怖するために引き起こされるのであって・・・思い煩うことで一つとして益することはない。・・・取り越し苦労の魔物を追い出すためにはこの魔物の正体を知らねばならぬ。「心配したらなんとかなる」と知らず知らず習慣的に思ってきたこの誤った考えの習慣を捨てねばならぬ。

漠然とした不幸が起こることを予測して、落ち着いていられないのである。常に何かの不吉な予感に駆り立てられている。

取り越し苦労は実際に仕事をすれば1回でよいところの精神労働を10回も20回も繰り返すのである。しかも不吉なことを予測しての精神的労働であるから、生命力の消耗することは普通の労働の比ではないのである。取り越し苦労は活力と精力を吸い取る吸血鬼であるばかりでなく、仕事の質と量を著しく低下させる。

心に思い煩いがあるときはいかなる人間も能力を発揮できないのである。判断力を鈍らし、早く疲れてしまい、疲労困憊し、クヨクヨ思うところへ心は分散して、注意が散漫になってしまう。・・そのうえ心配がつくった生理的疲労物質で麻痺させられてしまう。


不安、恐怖、憂慮、煩悶、取り越し苦労などによって血液中に生理的産物たる毒素が生じるのである・・・取り越し苦労をするものは、その予知して恐れていた事柄をかえって呼び寄せるのである。・・・(注・恐れていたものは皆来たる)・・・取り越し苦労はいざという時に、最も必要な判断力を鈍らせ、「決断の勇気」をすりへらしてしまう・・・取り越し苦労は愚かしきこと百害あって一益なきことだと知りながらも、この悪徳の奴隷にならずにいられない人もある。

これらの悪感情が起こるところの根本原因は、ただひとつ「恐怖」の感情に還元することができるだろう。自分の存在がおびやかされるであろう、自分が害されるであろう、負けるかもしれない、ちっぽけな弱々しい存在だという恐怖・・・ところが、この恐怖の感情を取り去ってしまえば、いっさいの悪感情は木端微塵に散ってしまうのである。・・・*「生命の實相」を心の奥底に植えつけられさえすればこの恐怖の感情は、自然に生滅してしまうのだ。(*注 まさに非常に重要な宗教的核心部ゆえに、私の理解不足や誤読等を危惧しましたので詳細は、あえて略させていただきました。)

取り越し苦労の中心となっている不安に対して、それを中和する観念を暗示として与えるのがよい。心配が心に暗い影を投げかけるとき、これと全然反対な明るい考えを自己暗示で心に満たせよ。・・・・静かなる場所に退き静坐瞑目して・・・精神を統一して・・・・・一体感が深まったとき・・・かくのごとき力強き言葉を断断固として臍下丹田より出る底力のある低音で自分自身に対って繰り返し囁け。・・・(*注・・・部分、まさに非常に重要な宗教的核心部ゆえに、私の理解不足や誤読等を危惧しましたので詳細は、あえて略させていただきました。)

朝夕2回、起床時と就眠前とにこの方法を繰り返すならば、暗影が現れた時、巧みに乗り切る勇気と知恵が恵まれる。・・・・生命はコトバ(波動的存在)であるということを知れ。生命を生長させるのも萎縮させるのもコトバにあるのだ。聞こえるコトバと黙念するコトバを巧みに実生活に応用せよ。(*注・別の個所で、言葉に感情をこめれば一層効果あり、また断定と時制が重要である旨の趣旨を書かれています。)かくのごとくして、人類最大の敵たる取り越し苦労の魔物を放逐しようではないか。・・・

未来の不安定の憂慮や恐怖、取り越し苦労から離れて、全生命を今に集中したとき、驚くべき精神力が発揮される。なんのためらいをもなしに今、実行せよ。出しきったときにのみ無限力が開かれる・・・思い切りよく、押し強く、勇敢に今、断行せよ。・・すべての人には無限の力が宿っているのだ。

決して倒れることを恐れず、自己の不決断、優柔不断のみを恐れよ。


以上ーーーーー
谷口雅春著「生命の實相 第7巻 生活篇」よりー取り越し苦労するなかれ
ーわが心の王国を支配せよー
趣旨を変えない範囲で抜粋引用等はじめ適宜変更し私なりに要約してみた。
(*なお、私は特定の「宗教」を信仰するものではありませんし、また信者、関係者ではありませんので、もし私の根本的な理解不足や誤読等があればご容赦いただきたいと思います。素晴らしい著書であります)

白隠禅師 軟酥の法 養生秘法

白隠禅師の「夜船閑話」「遠羅手釡」に軟酥(なんそ=バターのようなもの)の法による養生秘法がある。

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下記 古文の訳は帯津三敬病院長 帯津良一医学博士と直木公彦訳等から趣旨を変えない範囲で抜粋引用等はじめ適宜変更し私なりに要約してみた。

臍下丹田呼吸法(吐く息を長く意識する、吐ききる)と同時に、息を吸う時にまず色も香りも清浄な仙人の秘薬を種々練り混ぜた光り輝く軟酥状の卵大のものを頭のてっぺんに置いたと想像する。

息を吐くときにその絶妙な香り風味が頭蓋からしだいに体温で溶けはじめ、たらりたらりと浸み込みだんだん浸みわたって下ってきて両肩から左右の腕、両乳、胸、肺、肝臓、腸、胃、そして肛門へとあらゆる内臓諸器官をひたしてうるおし流れ背骨、肋骨、尾てい骨をも潤すと観想するのである。

秘薬がとけてしみわたるようにゆるりゆるりと下へ下へ流れくだる。息を吐ききるとき胸の中につかえた五臓六腑の気の滞りや、苦悩、煩悩、しこり、不安や心配も一緒に溶けて足の裏から体外へ流れ出るのである。

そうしてこの流れ出た霊妙な秘薬は足元より出て桶(風呂)に秘薬が満々と満ちて腰までおよび下半身、臍の下まであたため蒸すのである。三界は唯心の所現であり身体は妙香をかぎ身体は妙風につつまれ、調和がよみがえり精気が充満してくるのである・・・このとき積年の苦悩、煩悶、神経症は融解消失し胃腸内臓器官を調和させ内分泌機能も旺盛になるのである・・・・

あなたの秘密「もうひとりの自分」を知る。仙人の秘術秘法

シリーズ 仙人の秘術秘法
あなたの秘密「もうひとりの自分」を知る。
夢を見るたび、ただちにとびおきてその内容をメモする。 
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寝る前に寝床に鉛筆と「でっかいメモ」をおいておく。夢を見るたび、ただちにとびおきてその内容をメモするクセをつける。小さいメモ帳ではもうろうとした状態なので書きにくい。大学ノートと鉛筆がいい。これも不思議だが「夢をみたら直後、瞬間的に目を覚まし、書き込もう」と思うとだんだんできるようになる。

数日で慣れてできるようになる。はじめは夢うつつで、もうろうと面倒くさいな、眠たいなと書きなぐることができず、そのまま寝込んでしまうことが多いけれども。瞬間的にメモを書きまくったら、また寝ればよい。

朝起きたらメモ帳には驚くべきあなたの「秘密」が書かれている。

今まで全く知らなかった「もうひとりの自分」を知ることがある。

これは非常に面白いしワクワクするので是非実験してほしい。「もうひとりの自分を知る」絶好の方法。

そこに書かれてあることはー

自分でも驚くようなことが書かれてある。朝起きて見ると、なにか、つじつまが合わない、あたかも前後のつながらない、筋書きがめちゃくちゃな映画のように乱雑に書きなぐってある。誰だかわからない登場人物や文脈がめちゃくちゃなのが多い。いったい誰が書きなぐったのだろうという具合だ。

グダグダとユングやフロイトがどうの、夢分析、精神分析、潜在意識がどうのとか能書きを垂れる前に自分でやってみることだ。

自分を超える「なにか」今まで全く知らなかった自分、内なる自分の記録だ。

朝起きた直後や夢を見た直後は、なまなましく鮮明に覚えているが、数分でほとんど忘れてしまう。起床直後に夜中に自分で書きなぐったものをすぐに読み、思い当たる点や補足できるところを補完解説し、コメントできるところは、ただちに追加で書き込んでおこう。あとで書こうと思っていても数分ですべて忘れてしまう。

大事なことはじっくり自分なりに解釈してみることで、なにか思い当たるふしがある場合も多々ある。

こころの表層から奥底へ沈殿して頑固にこびりついてるヘドロのようなこころの「深層」が明かになってくる場合もある。だが、それだけではない、もっと深層の何かが垣間見える場合もある。

特に今、自分が直面、悩んでいる難問、仕事、人間関係等のこたえのヒントが、暗示、暗喩ででていることは頻繁にあるので価千金でもある。
大事なことはそのメモを見て、表層意識でわかる範囲で解釈してみることだ。つじつまのあわない解釈のできない箇所もたくさんあるが、こじつけはやめ、忘れてそのままにしておけばよい。起きているときパッとひらめき、つながることもある。この解釈の過程が非常に重要。

またまったくワケのわからないような不思議なストーリーもある。地球の外でぷかぷか浮いていてその浮揚感を如実に感じるものや、聞きなれない言語をしゃべっているもの、すでに忘れてしまったような、はるか昔の友人や白髪の老翁がでてきて「何か」を話してくる場合もある。


カネはかからない。自分自身で今晩からやってみることだ。
そこには驚くべきあなたの「秘密」が書かれているはずだ。実際にやってみればすぐにわかってくる。

以上

馬小屋の大怪人 水木しげる 漫画「猫楠−南方熊楠の生涯」

馬小屋の哲人 大怪人 水木しげる著 漫画「猫楠−南方熊楠の生涯」

猫楠 南方熊楠の生涯 (角川文庫ソフィア)
水木 しげる
角川書店
1996-10-22


南方マンダラ (河出文庫)
南方 熊楠
河出書房新社
2015-04-28


森のバロック (講談社学術文庫)
中沢新一
講談社
2019-06-28


角川文庫 水木しげる著 漫画「猫楠−南方熊楠の生涯」
神坂次郎著 新潮文庫「縛られた巨人―南方熊楠の生涯」
南方熊楠著 中沢新一編 河出文庫「南方マンダラ」
中沢新一著 講談社学術文庫「森のバロック」
南方熊楠顕彰館HP
南方熊楠記念館HP

馬小屋の哲人 大怪人 水木しげる著 漫画「猫楠−南方熊楠の生涯」

水木しげるの漫画は昔から大好きで、ゲゲゲの鬼太郎はじめ、特に登場人物の妖怪や、ねずみ男、目玉のおやじ等のキャラクターや、なにげない会話も面白い。たまたま角川文庫 水木しげる著 漫画「猫楠−南方熊楠の生涯」を読んだ。ムチャクチャ面白く傑作だった。しかも水木しげるのほかの名作傑作にみられるように人間、宇宙、魂、生と死、霊魂、自然などに対する深い洞察があった。

この大傑作の漫画「猫楠−南方熊楠の生涯」が、はたして水木しげるのフィクションをも相当に含んでいるのか、それとも南方熊楠の実際にあらかた沿ったものなのか、神坂次郎著 新潮文庫「縛られた巨人―南方熊楠の生涯」また図書館等で南方熊楠の生涯、粘菌の事などもチェックした。わかる範囲内でだが、ほぼ南方熊楠の生涯に沿ったものであった。驚いた。

しかしこういうものすごい型破りの大怪人が存在していたなんてびっくり。この水木しげると南方熊楠という絶好の組み合わせが醸し出す雰囲気がさらにものすごい。

博物学、民俗学、語学、性愛学、粘菌学、エコロジー、粘菌をはじめ陰花植物、神話、幽霊と妖怪、真言密教、半陰陽、猥談、生命の神秘 生と死等々……広範囲な才能で世界を驚愕させた南方熊楠。そんな大怪人、大奇人、大変人の生きざまを天才・水木しげるが描いたもの。

趣旨を変えない範囲で抜粋引用等はじめ適宜変更し私なりに要約してみた。

なお、愚鈍な私の癖で、本当はシンプルで単純なことを、わざわざあえて哲学的にこじつけ、ごてごて書いていい気になっているが、今回はシンプルに書いた。これでいいのだ・・・
以下ーーー

日本を飛び出しアメリカに留学した熊楠は、ありふれた机上の学問、学校にあきたらず、ロンドン大英博物館で東西の文献、書籍、美術品や考古学資料研究などに没頭。英国科学誌、「ネイチャ−」に「極東の星座」を発表、同誌に50回も掲載、また「ノ−ツ・アンド・クィアリ−ズ」に数百の論考、随筆を寄稿掲載。

人並みはずれの記憶力と、外国語は、十か国語以上、さらには猫語、幽霊語まで話したともいう。熊野の那智には広大な原生林が広がり、地衣類や粘菌類の宝庫であった。昼は森の中で植物粘菌等の植物採集と研究、夜は観察と標本資料の作成に没頭。夜は特に仏教哲学、華厳経を熟読、真言僧・土宜法龍との手紙による交流。世界は全ての事物が互いに縁起によって関係することに思い至る。南方マンダラ、心、物、事、理などの諸不思議の体系、大日如来の大不思議へと。

動物でも植物でもなく粘菌が分裂していく様子に生と死、生命の神秘 生命の不思議さ、輪廻、宇宙、曼荼羅とかを直観していた。昭和天皇にも御進講する。

以上ーーー
趣旨を変えない範囲で抜粋引用等はじめ適宜変更し私なりに要約してみた。

なお、愚鈍な私の癖で、本当はシンプルで単純なことを、わざわざあえて哲学的にこじつけ、ごてごてと難しく書いていい気になっているが、今回はシンプルに書いた。これでいいのだ・・・


南方マンダラ、心、物、事、理などの諸不思議の体系、大日如来の大不思議、土宜法竜往復書簡等については、いずれ華厳 理事無礙 事事無礙と合わせてさらに熟考する予定。愚鈍な私が、どこまでシンプルに迫れるだろうか・・・

「二老人」 トルストイ著 「人はなんで生きるか」

ee6b305f.jpgちょうど1−2年前より一日の仕事を終えほっとした夜半、学生時代来、あまり読んでこなかった世界の名作文学を手あたり次第乱読しはじめていた。確かに、今までの読書は仕事、ビジネス関係中心で、または哲学宗教 特に東洋哲学、心理学関係等に相当偏って世界の大文豪の大思想に、あまり触れてこなかったことを痛感し始めていた。

その中で特にトルストイ著「人はなんで生きるか」の「二老人」は読後言い知れぬ心の安らぎ、驚き、感動した。そこから、トルストイ「イワンのばか」「懺悔」「イワン・イリッチ」「文読む月日」等等、武者小路実篤等へ展開。

ネタバレせぬようにこころがけ、趣旨を変えない範囲で抜粋引用等はじめ適宜変更し私なりに要約してみた。誤字脱字等はじめ、大愚無学の私は、とんでもない間違いをしている可能性も多いのでご容赦願います。

以下ーーーーーーーーーー
トルストイ著 中村白葉訳 岩波文庫 「人はなんで生きるか」「二老人」よりーーーーーーーーー


ふたりの老人が旧都エルサレムへ神詣でに行く。
ひとりはエフィーム、もうひとりはエリセイ。

エフィームはまじめな金持ちの実直な百姓、タバコも吸わない、生涯悪い言葉を使わない、二度続けて村老の役目をつとめあげる。いつも次から次へと仕事が気になって暇がなかった。なにごとも自分の目で仕上げを見ないと気が済まない。いつも手元に旅費は十分にあった。旅に出るにあたり家事万端を総領息子に何から何まで細かいことを言い残していく。旅の途中でも息子がいいつけどおり仕事をちゃんとやっているか気になった。

エリセイは以前は旅大工をしていた。年をとってからは家で養蜂をやっていた。金持ちでも貧乏でもない心のいい快活な男、ウオッカを飲めばタバコも吸う。歌をうたうことも好きな、まことにのどやか。家のものとも隣近所とも仲良く暮らしていた。頭がつるりと禿げていた。カネはないけれども旅費は親戚の皆からかきあつめる。旅に出るにあたっては、息子に特に何もいいのこさず、何をどうしたらいいのかは、自然にわかってくるものだという調子だった。

二老人は旅に出た。往路、旧都エルサレムへの途中、エリセイはのどが渇き一服したくなったので道すがらの百姓小屋に水をもらいに、エフィームはひとりで旧都エルサレムへと先に進んだ。

エリセイが水をもらいに行った百姓小屋は飢饉で病気が起こって貧しくて食べ物もなく、老婆も百姓も、その女房も小さな男の子も女の子も皆が飢えて死にかけていた。草場も耕地も変え持ちの百姓の抵当に入っていた。金目のものはすべて売り払っていた。

エリセイは思い乱れた。こんなことをしているうちにお金も時間もずいぶん使ってしまった。行かねばならない、けれどもここの人たちが可哀そうだ。エリセイは頭がバカになったように、いくら考えても考えても、いい思惑は浮かばなかった。彼は決心した。エリセイは旅のお金から百姓道具や草場や畑、田んぼを請け出し野良道具を買い出し馬までも買う。

通りがかりの村の人が自分の事をほめているのを聞きその百姓の家を去る。ただ旅のお金はほとんど残ってなかったのでエフイームを追って旧都エルサレムへ行くことをあきらめ、もと来た道を故郷の家路に引き返す。帰りには足がはかどり疲れということを知らなかった。故郷の家は万事うまくいっていた。仕事は滞りなく仲良く平和に暮らしていた。皆はどうして行くところまで行かずに中途で引き返し、ただどこかでお金だけを使ってくるなんてと驚きはしたがじきにわすれてしまった。エリセイはお金をつかってしまったので旅費がなくなって戻ってきたのだと話すだけだった。

エフイームはこの経緯を全く知らず。

エフイームはエルサレムにひとり到着し、祈りをささげながら礼拝堂のすぐ横、いちばんありがたい場所にエリセイのようにつるつるに禿げた老人の姿を見出すが、どうしてエリセイが自分より先にここにいるのか不思議でならなかった。三日間のお祈りの度、その禿げ頭はあたり一面に輝いていた。

お祈りがすんで、エフィームはひとりで帰路に着く。留守宅の事が気になりはじめていた。途中、往路エリセイと別れ別れになった村で、はじめてエリセイのことを聞いて驚き家路へと急ぐ。

エフイームは1年ぶりに故郷の村へ帰着。息子は放埓をしていたようすだった。先に帰郷した養蜂所のエリセイの禿げ頭はエルサレムの時と同じように光り輝き、太陽が輝くばかり美しく光り輝いていた。エフイームは帰路、百姓家に寄ったことを話そうとしたが、エリセイは話をそらした。エフイームもまた百姓家で会った人のことや、エルサレムで彼を見たこと事もひとことも言いださなかった。
ーーーーー
以上
トルストイ著 中村白葉訳 岩波文庫 「人はなんで生きるか」「二老人」より
趣旨を変えない範囲で抜粋引用等はじめ適宜変更し私なりに要約してみた。誤字脱字等はじめ、大愚無学の私は、とんでもない間違いをしている可能性も多いのでご容赦願います。

*私は文学にはとんと縁がないので現在は手あたりしだいでたらめに世界の大文豪の作品を読んでいますので、これはというのがあれば、お手数ですが是非ご教示お願いいたします。

最近自分はだいぶ偏っている、偏っていたなと気づいています。

感謝

音楽による魂の目覚め|中国古代音楽|咸池楽論|精神の三態の変化

音楽による魂の目覚め|道家の中国古代音楽
『咸池(かんち)の楽』とは?|精神の三態の変化100430_0907101
福永光司著 中国古典選「荘子」天運篇、福永光司著 中国文明選「芸術論集」咸池楽論を参考に適宜一部抜粋引用、趣旨を変えない範囲で私なりに私の理解した限りで試しに要約してみた。
ものごっついあほみたいな見当違いや間違いも多々あるかもしれませんがご容赦ねがいます。


荘子的超越者「真人」への精神の三態の変化
 A→B→A' 構造
「方内=A」→「方外=B」→「無方=A’」 

以下
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
中国最古の「楽記」は儒家の音楽の哲学を代表するのに対して、「咸池楽論」は道家の音楽の哲学を代表する音楽論。*咸池とは咸(あまねく)池(うるおす)の意味。

日常的な生活の中に埋没し、常識的な価値観の中に安住している人間が、咸池(かんち)の楽を聞く時、「道」(天地造化のはたらき)の世界に目覚め、自己の生存の根源を意識し、求道者の精神の三態の変化、すなわち 崙常的自我の崩壊=A=方内の打破」◆嵋魂=B=方外に遊ぶ」「和光同塵=A'=無方での逍遥遊」を体験する。

この精神の三態の変化を体験してはじめて「道」の世界に参入しうる。その音楽が、真実在、天地造化の世界の大いなる調和と一体となった魂の愉楽を実現し、人間の魂を深くゆりうごかし飛翔させる。大いなる混沌、悠久無限の中で自己の限られた実存生存の根源を意識させ「道」の前に、ただ独り立たせる。音楽を個人の魂の覚醒と浄化、救済するものとして本質づける。

求道者の精神の三態の変化 すなわち
 崙常的自我の崩壊=A=方内の打破」
◆嵋魂=B=方外に遊ぶ」
「和光同塵=A'=無方での逍遥遊」

第一奏<日常的自我の崩壊=A=方内の打破>

春雷の天地を揺るがし鳴り響き、変化して常無し、千変万化する響きを展開させていく。先ず懼れの感情を抱かせ、物の怪に取りつかれたように不安な状態になる。生活の中に埋没していた精神、常識的な思慮分別、安住していた世俗性、「方内」へのとらわれが打破、否定され、真実なる世界(道)に驚き目覚める。世俗の価値観、分別知からの転換へ。日常的な自我の崩壊。

第二奏 <忘我=B=方外に遊ぶ>

四面はてしない太虚の中にひとりたたずませ、心の緊張を解いて気持ちを(怠)ぐんなり(弛緩)させる。ひとつの脱出現象が起きる。身体は果てしなくひろがる宇宙空間いっぱいに溶け込み、とらわれない道の世界、絶対無分節、悠久無限の「方外」の世界に遊ぶ。今までの自己を支えていた知的葛藤や主我意識、一面的な価値観の妄執から解き放たれ、世俗的な分別知の束縛、言語概念と確執からの脱出、解放。心は、なよなよと弛緩する。忘我。

第三奏<和光同塵=A'=無方での逍遥遊>

万物が混沌として群がり生じる。人間の言語や思考で方向づけることのできない無限定の世界、声なき声の世界に彷徨し生死虚実を超えながらも生死虚実として現象する真実在の世界。一切の常識的な思慮分別を超克し、ひっそりとした静寂の中で常識的な思考や言語に無理に拘泥し固執することもなく和光同塵、無知無欲の愚者となり、天と和する(天楽)。無為自然の道とひとつとなり「無方」の世界に逍遥遊する。とらわれず、またとらわれないことにも、とらわれず。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
以上 

福永光司著 中国古典選「荘子」天運篇、福永光司著 中国文明選「芸術論集」咸池楽論を参考に適宜一部抜粋引用、趣旨を変えない範囲で私なりに私の理解した限りで試しに要約してみた。
ものごっついあほみたいな見当違いや間違いも多々あるかもしれませんがご容赦ねがいます。

『荘子』大宗師篇の荘子的超越者「真人」への精神の三態の変化
 A→B→A'構造
「方内=A」→「方外=B」→「無方=A’」
ーーーーーーーーーーーーーー
私は学生時代からしょっちゅうテントを担いで深山幽谷に遊んでいた。そこから、根性なしの私なりに学んだことは、しんどい時ほど決して山頂を仰ぎ見ない、休まないということだった。

特に7−8合目の胸突き八丁の急坂、山頂直下の岩場など山頂を見上げたりいっぷく休憩したり歩みをとめ景色など見るものならバテて疲れ果てる。ひたすら下を向いて山道だけを見て、足元にしたたる汗だけを見るというのがコツだった。ひとつひとつ、もくもくと一歩一歩絶対休まず歩き続けると、いつのまにか足元の傾斜が急に緩やかになり、はじめて前方を見ると、すでに山頂直下に達し展望が開けるということだった。決して休んではいけない、はってでも歩き続けること、いったん休むと疲れがどっとでて、動けなくなってしまうということだった。根性なしの私なりにわかった山登りの拙いコツとなった。

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カーネギー「道は開ける」靴がないとしょげていた 両足もがれたその人に 通りで出会うその前は

D・カーネギー著 香山晶訳 創元社「道は開ける」より。
原著 How to Stop Worrying and Start Living by Dale Carnegie。
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「靴がないとしょげていた 両足もがれたその人に 通りで出会うその前は」

私は学生時代より祖父、母に教えてもらったデール・カーネギー著 香山晶訳 創元社「道は開ける」を事あるごとにもう何十年間も読んでいる。この本は実にすばらしい、勇気を与えてくれる名著だと確信する。

下記、紹介した以外にも全編、単なる能書きや格言、理屈、自己啓発や机上の心理学や哲学ではなく、日々の仕事等日常生活の中での具体的な苦悩、悩み、神経症、疲労等の真っただ中で、七転八倒し悩みつくし、ようやくそのどつぼからはいあがってあみ出された悩みの克服方法のケーススタディで満ち溢れている。

私は「靴がないとしょげていた 両足もがれたその人に 通りで出会うその前は」を、山の庵に貼り付けてある。私、自称、仙人もこういう即効性のある具体的日常のケーススタディ的な、書をあらわしてみたいが、いまだ至っていない。


創元社 D・カーネギー著 香山晶訳「道は開ける」より、趣旨を変えない範囲で抜粋引用等はじめ適宜変更し私なりに要約してみた。
以下ーーー

第15章 「百万ドルか、手持ちの財産か?」

・ハロルド・アボットはカンザスで食料雑貨店を経営していたが、店が倒産し莫大な借金を背負い職探しに行く費用さえ失っていた。眠れない日々が続いていた。私の足取りは打ちひしがれまさに精も根も尽き果てていた。

その時、不意に、通りの向こうから両足のない男がやってくるのが目に入った。彼はローラースケートの車輪を取り付けた小さな木の台に座っていた。手に握った木の杖で勢いをつけながら通りを進んできた。

彼はニッコリ笑いながら私に挨拶した。「おはようございます。今朝はよく晴れましたね。」彼の声には生気がみなぎっていた。私は両足がない、その男の姿を見守っているうちに自分がどれほど恵まれているかを悟った。私には二本の足がある。歩くこともできる。自分を甘やかしていることが恥ずかしかった。いつの間にか勇気が湧いてきた。私はあの時のことを忘れない。私は今でも次の言葉を壁に貼り付けて、毎朝読んでいる。
「靴がないとしょげていた 両足もがれたその人に 通りで出会うその前は」
***

・エディ・リッケンバッカーは太平洋で遭難し21日間も救命ボートの上で過ごし助かる見込みもないまま太平洋を漂流した男だが彼は、「あの体験から学んだ最大の教訓は、飲みたいときに飲める新鮮な水と、食べたいときに食べられる食料さえあれば、いったい何を悩む必要があるのだろう」
***

・ジョン・パーマーは商売上の悩み、心配のために年寄くさい不平家にかわり、陰気で怒りっぽく神経症になり、あわや自分の家庭まで失うところであった。その時私のところで働いていた若い元傷痍軍人が「あんたなんかとても運のいいほうだぜ。おれなんかあんたと変わりたいぐらいだぜ。おれを見てくれ、腕は一本しかないし頭の半分は砲弾で吹っ飛んだがブツブツ言ったことがあるかい?いい加減、愚痴や不平と縁を切らないと商売はもちろん、健康も家庭も全部なくしてしまうぜ」この言葉を聞いた途端、私は正気をとりもどしたのです。自分はどれほど恵まれているかに気づいたのです。
***

・ショーペンハウエルは「われわれは自分に備わっているものをほとんど顧慮せずに、いつも欠けているものについて考える」と言ったが、確かにこの傾向こそ、地上最大の悲劇と言ってもよい。
***

第17章 「レモンを手に入れたらレモネードを作れ」

・刑務所の鉄格子の間から、二人の男が外を見た。一人は泥を眺め、一人は星を眺めた。
***

ーーーーーーーー以上ーーーー
創元社 D・カーネギー著 香山晶訳「道は開ける」より、趣旨を変えない範囲で抜粋引用等はじめ適宜変更し私なりに要約してみた。

仙人の庵より・・・



陶淵明 飲酒 廬を結んで人境に在り 人境とはどこか

陶淵明 飲酒 其の五  結廬在人境 廬を結んで人境に在り 人境とはどこか f47738b8.jpg

陶淵明 飲酒 其の五にある・・この「人境」高校時代の漢文でなにげなく「じんきょう」と暗誦していたものの「人境」、「人」「境」ということばには、もっと深い意味がひそんでいるのではないか。
(*なお臨済の四料簡の「人」「境」は追って研究詳細する予定)

なお趣旨を変えない範囲で抜粋引用等はじめ適宜変更し私なりに要約してみた。誤字脱字等はじめ、大愚無学の私は、とんでもない間違いをしている可能性も多いのでご容赦願います。

岩波文庫 松枝茂夫・和田武司訳「陶淵明全集 上」
新潮文庫 吉川幸次郎著「陶淵明伝」
岩波文庫 夏目漱石「草枕」

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以下 岩波文庫 松枝茂夫・和田武司訳「陶淵明全集 上」

 廬を結んで人境に在り
 而も車馬の喧しき無し
 君に問う 何ぞ能く爾ると
 心遠く地自から偏なり
 菊を採る 東籬の下
 悠然として南山を見る
 山気 日夕に佳し
 飛鳥 相与に還る
 此の中に真意有り
 弁ぜんと欲して已に言を忘る

人里に廬を構えているが、役人どもの車馬の音に煩わされることはない。「どうしてそんなことがありうるのだ」とおたずねか。なあに心が世俗から遠く離れているため、ここも自然と僻遠の地に変わってしまうのだ。

東側の垣根のもとに咲いている菊の花を手折りつつ、ゆったりとした気持ちで、ふと頭をもたげると、南方はるかに廬山のゆったりした姿が目に入る。山のたたずまいは夕方が特別すばらしく、鳥たちが連れ立って山のねぐらに帰っていく。この自然のなかにこそ、人間のありうべき真の姿があるように思われる。しかし、それを説明しようとしたとたん、言葉などもう忘れてしまった。

以上
岩波文庫 松枝茂夫・和田武司訳「陶淵明全集上」 
ーーーーーーーーーーーー
以下 
新潮文庫 吉川幸次郎著「陶淵明伝」

廬を結びて人の境に在り、といえば、その草庵は、過度にへんぴなところにあったのではない。むしろにぎやかなところにある。しかも訪問の車馬のわずらわしさはない。このにぎやかなところにいながら、どうしてこうひっそりと暮らせるのかと、ある人が自分に問う。自分は答える、それは心の持ち方次第。主人の心が悠遠であれば、土地も自然とへんぴになるまでさ。

・・・ふと目にうつる南山、その美しい山容は、夕方の空気の中に、いっそう美しくかすみ、鳥たちが、たのしげにそこへ帰ってゆく。この平和な美しい風景の中にこそ真意、宇宙の真実は把握される。

把握した宇宙の真意、それを言語として弁証しようと、さっきはふと思った。しかしよそう。カオスはカオスであることによってのみ活力を全うする。それを言語のコスモスにもち来たる必要はない。荘子はいっている。魚を得ようとおもうものは、魚を得たがさいご、漁獲の道具のことは忘れる。そのように意を得たものは言を忘れる。余もまた言を忘れよう。そうしてただこの宇宙の真実の中に見入り、見入ろう。・・純朴な真実な生活をいとなむことへの思慕・・・

陶淵明は、つねにその言葉以上のものを、その言葉によって語ろうとしている。・・陶淵明の言葉は、常に平静である。しかしそれは高い密度をもった平静さであり、平静なものの裏には、複雑で濃厚なものが、ひしめき、かげろっている。

山を見ている陶淵明も悠然としていれば、見つめられている山も悠然としている。主客は合一して分かちがたく、そうした渾然たる状態を、悠然見南山とうたったのではないか。

以上
新潮文庫 吉川幸次郎著「陶淵明伝」
ーーーーーーーー
以下
岩波文庫 夏目漱石「草枕」

うれしい事に東洋の詩歌はそこを解脱したのがある。菊を採る東籬下 悠然として南山を見る。ただそれぎりの裏に暑苦しい世の中をまるで忘れた光景が出てくる。垣の向うに隣りの娘が覗いてる訳でもなければ、南山に親友が奉職している次第でもない。超然と出世間的に利害損得の汗を流し去った心持ちになれる。

もちろん人間の一分子だから、いくら好きでも、非人情はそう長く続く訳には行かぬ。淵明だって年が年中、南山を見詰めていたのでもあるまいし、王維も好んで竹藪の中に蚊帳を釣らずに寝た男でもなかろう。やはり余った菊は花屋へ売りこかして、生えた筍は八百屋へ払い下げたものと思う。

以上岩波文庫 夏目漱石「草枕」
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以上、趣旨を変えない範囲で抜粋引用等はじめ適宜変更し私なりに要約してみた。誤字脱字等はじめ、大愚無学の私は、とんでもない間違いをしている可能性も多いのでご容赦願います。
ーーー
陶淵明の人境というのは荘子のA→B→A'構造のA‘に近いものと考えられる。
A→B→A'構造
『荘子』大宗師篇の荘子的超越者「真人」仙人への構造
「方内=A」→「方外=B」→「無方=A’」
なお『荘子』でいう「方」とは規範、限定、分節、共同体社会の秩序、礼教規範を意味する。

A=「方内」「有為」(*とらわれ)
ー街の雑踏のど真ん中 共同体 人の世ー
B=「方外」「無為」(*とらわれず)
ー深山幽谷 洞窟 仙人 ひとり住む隠棲者ー
A'=「無方」「至妙の有為」(*とらわれず、とらわれないことにも、とらわれず)
ー帰還 新たな街の雑踏 新たな共同体、人の世。逍遥遊ー 

この境地A'こそが陶淵明のいう「人境」にちかいものではないか。

*なお、一海知義著 岩波新書「陶淵明ー虚構の詩人ー」も非常に興味深い。
また、別の次元だが、三界唯心「一水四見」(一水四見・・同じ水でありながら,天人はそれを宝石で飾られた池と見、人間は水と見、餓鬼は血膿と見、魚は自分のすみかと見る・・・)の視点からも、きわめて興味深い。

*臨済の四料簡に 奪人不奪境 奪境不奪人 人境俱奪 人境俱不奪というのがある。無学大愚の私などには到底、理解がおよばないが、人境さらに「人」「境」とは何なのかをも考えてみたい。


私、自称、仙人もこのような境地で日常の仕事、ビジネスをひとつひとつ、もくもくと遂行していきたいと強く思っている。陶淵明「 廬を結びて人境に在り 心遠ければ 地 自ずから偏なり 悠然として南山を見る」・・週末は山の仙人の庵にて中国古代音楽でも聞きながら・・・とらわれず(=A)また、とらわれないことにも(=B)とらわれず。(=A')
『生きながら(=A)死人となりてなり果てて(=B)思いのままに するわざぞ(=A')よき』 至道無難禅師

We are tough. You have to be tough



荘子 達生篇 則天去私の無為と至妙の有為 無為而無不為

荘子 達生篇 則天去私の無為と至妙の有為
なお、達生篇 には「木鶏」はじめ興味深い可笑しな説話がいっぱいある。100429_152118

朝日新聞社 中国古典選 福永光司著「荘子」達生篇より趣旨を変えない範囲で私なりに引用要約してみた。
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以下

荘子 達生篇は、内篇とくに養生主篇の思想を祖述して、人間が自己の生を全うし、人生の達人となるためにはどのようにすればよいのかを明らかにする。

一言にして尽くせば天理の自然に順って私心を捨てること、いわゆる、則天去私の無為を説くことにあるが、この無為の境地に立てば、かえって至妙の有為が実現すると説くところにこの篇の積極的な立場がある。

古来、至芸妙技をもって知られる名工巨匠たちや、また神仙への求道的な苦行を説く嵆康(けいこう)、涅槃への厳しい仏道修行をする慧遠(えおん)等が、この達生篇や繕性篇から多く引いている。

無為の為さざる無き、積極面を単なる観念としてではなく、現実の社会に生きる人間の具体的ないとなみに即して説明している。(注1)「有為の極致としての無為」を説き、人間の有為を積極的に肯定する立場、(注2)「有為から無為に至る」実践のプロセスを重視する立場を明確に示している。


世俗的ないとなみを棄てれば、肉体は疲れることなく全うされ、生への執着を忘れてしまえば、精神はそこなわれることなく本来の純粋さに立ち返る。いったい肉体が疲れることなく全うされ、精神がそこなわれることなく本来の純粋さに立ち返れば、「天と一」となる。天地自然のはたらきとそのまま一つになった絶対自由の境地に遊ぶことができる。

肉体と精神とがそこなわれずに全うされている状態、それを天地自然の推移変化を己の推移変化とする、とらわれなき境地とよぶ。人間は己の精神を純粋化した上にもまた純粋化していけば、生命の根源に立ち返って「天」すなわち本来の自然性をあるがままに眺めることができるのである。

真の養生が「世を捨てる」こと、世を捨てることによって「事を捨て」「生を忘れて」「天と一つになる」ことにあることを結論する。
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以上 朝日新聞社 中国古典選 福永光司著「荘子」達生篇より趣旨を変えない範囲で私なりに引用要約してみた。なお、達生篇 には可笑しな説話、木鶏「これを望むに木鶏に似たりの説話」等がいっぱいあるので紹介していく予定。


(注1)原文 朝日新聞社 中国古典選 福永光司著 外篇P466 L1、原文記載は、「有為の極致としての無為」だが、→「無為の極致として有為」ではないかと思う。まあどっちでもええが、どおでもええが・・・(笑)
(注2)同様に原文記載は、「有為から無為に至る」だが、→「有為から無為、そして至妙の有為に至る」のほうが、あほうの私にはよりわかるような気もする。まあなんでもええし、どおでもええのやけども(笑)

荘子 達生篇の構造
かなり核心部A→B→A'構造なので・・
有為(A)→無為(B)→至妙の有為(A')

華厳の存在解体後の存在論とほぼ同様の構造。
「事」(A)→「理」(B)→「理事無礙」(A’)→「事事無礙」(A’’)

『生きながら(=A)死人となりてなり果てて(=B)思いのままに するわざぞ(=A')よき』 至道無難禅師

私、自称、仙人もこのような境地で日常の仕事、ビジネスをひとつひとつ、もくもくと遂行していきたいと強く思っている。陶淵明「 廬を結びて人境に在り 心遠ければ 地 自ずから偏なり 悠然として南山を見る」・・週末は山の仙人の庵にて中国古代音楽でも聞きながら・・・とらわれず(=A)また、とらわれないことにも(=B)とらわれず。(=A')


New York tough We are tough. You have to be tough クオモ NY 州知事

こんなに感動したスピーチはなかった。勇気をありがとう。  
がんばれ New York tough クオモ NY 州知事 Governor Cuomo

New York tough
We are tough. You have to be tough

Governor Cuomo: "We're going to get through it because we are New York and because we've dealt with a lot of things, and because we are smart. You have to be smart to make it in New York. And we are resourceful, and we are showing how resourceful we are. And because we are united, and when you are united, there is nothing you can't do. And because we are New York tough. We are tough. You have to be tough. This place makes you tough, but it makes you tough in a good way."

Cuomo: "We're going to make it because I love New York, and I love New York because New York loves you. New York loves all of you. Black and white and brown and Asian and short and tall and gay and straight. New York loves everyone. That's why I love New York. It always has, it always will. And at the end of the day, my friends, even if it is a long day, and this is a long day, love wins. Always. And it will win again through this virus. Thank you."

こんなに感動したスピーチはなかった。 勇気をありがとう。  
がんばれ New York tough クオモ NY 州知事 Governor Cuomo

New York tough
We are tough. You have to be tough.

感謝

馬鹿一(ばかいち)

なんだかおもしろい興味深い登場人物がいた。
武者小路実篤著「馬鹿一(ばかいち)」趣旨を変えない範囲で私なりに引用要約してみた。以下 2e055d21.jpg
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馬鹿一(ばかいち)は暇さえあれば買う人もいないのだが、石ころや雑草の画をかいている。馬鹿一を訪れるときは道端でそのへんの雑草をでたらめに折りとってお土産に持っていくのだ。気がむしゃくしゃしたり、不愉快なことがあると馬鹿一のところに足が向くのだ。馬鹿一と話していると、あくせくしているのは馬鹿げていると思うのだ。
徹底した馬鹿にはかなわない。結局この世で一番幸せなのは馬鹿一だと思うこともあるのだ。何しろ悪意がないのだ。万事善意にとって、いつもうれしそうにしているのだ。

馬鹿一はすっかり喜んで「僕は今までにこの草を何度も見たが、まだ、この草の美しさを十分知ることができなかった。君のおかげでこの草の美しさを知ることができるのは、ありがたい」お土産にその辺の道端におちている何の変哲もない石ころを持って行っても同じだ、まるで宝石でも受け取るようにいろんな角度から熱心に見ているのだ。

・・・馬鹿一は「この世は美しいものでいっぱいだ、君はあきるほど見たことがあるか?見ない前にあきているのではないか?面白さがわからないのだ・・・よく自然を見ない人に限って自然を馬鹿にする・・・迷路を歩くと頭がこんがらがるだけだ・・・自然は又私を愛してくれる・・私はつい愉快になり元気になり本気になり一生懸命になる、ありがたし、ありがたし・・」
ーーーーーーーーーーーーーーーー
以上

武者小路実篤著「真理先生」にも登場する馬鹿一(ばかいち)趣旨を変えない範囲で私なりに引用要約してみた。
以下
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真理先生が馬鹿一の画を見たいといったので連れて行くと、馬鹿一は大喜びで画を出してきて見せた。真理先生は始めはあまりにも幼稚な絵で驚いたようだったが、熱心に見た。長い沈黙の後で・・「感心しました」馬鹿一はそれまで黙って神妙にしていたが、そういわれると馬鹿一は飛び上がるように喜んで「本当ですか」真理先生は「本当です、僕には画のことはわかりませんが、今までにこんな誠実無比な画をみたことがありません・・・実によく見て書いてある。しかも実に愛して書いてある。それ以上に実に尊敬してかいてある。誰もこんなに雑草や石をこんなに愛することはできないでしょう・・・」すると馬鹿一は「ありがとう、ありがとう」と言って泣き出した。そして今まで描いた何百枚という石や雑草の画を持ち出してきた。真理先生は「今の時代にあなたのような人がいるとは嬉しくなります、実に感心しました。石や雑草を神のつくったもののように尊敬して実に正直に描いているのに感心しました・・・」
ーーーーーーーーーーーー
以上

西田天香 懺悔の生活 無一物無所有 トルストイ イワンのばか

春秋社 西田天香「懺悔の生活」
廣済堂出版 神渡良平「許されて生きる」
一燈園(西田天香)許されていきる公式HP等より熟読させていただき、趣旨を変えない範囲で下記引用抜粋要約等させていただきました。特に公式HPに感謝いたします。

なお、私は一燈園の関係者、同人ではありませんので、私の表面的浅薄な理解、理解不足により間違い等が多々あるかもしれませんが、ご容赦願えれば幸甚です。
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ちょうど1−2年前より一日の仕事を終えほっとした夜半、学生時代来、あまり読んでこなかった世界の名作文学を手あたり次第乱読しはじめていた。確かに、今までの読書は仕事、ビジネス関係中心で、または哲学宗教 特に東洋哲学、心理学関係等に相当偏って世界の大文豪の大思想に、あまり触れてこなかったことを痛感し始めていた。

その中で特にトルストイ著「イワンのばか・人にはどれほどの土地がいるか・・」「人はなんで生きるか・二老人・・」「懺悔」「文読む月日」また武者小路実篤「釈迦」「馬鹿一(いち)」「維摩経」等に不思議な心の癒しを感じはじめていた。

この関連で、たまたま以前より名前だけは知ってはいたが、戦前の一燈園の西田天香という人に興味を覚え、西田天香著「懺悔の生活」を読んだ。信じられないくらい深く感動した。なにしろまず托鉢として見ず知らずの他人の家のお便所の掃除をはじめ、無報酬の掃除奉仕、欲望への執着心をたち切る、懺悔・下坐の生活、わびあい、拝みあい、生かされている生命、許されて生きる、無一物無所有奉仕、無執着、福田(ふくでん)思想等、ほんまかいなという、知れば知るほど不思議な感覚だった。晩年のトルストイの思想、また「荘子」斉物、万物斉同に共通するものを強く感じた。
100429_1705441私は学生時代以来、しょっちゅうテントを担いでひとりで深山幽谷にこもっていた。真夜中、漆黒の深山幽谷のテントからひとりはいだし、満天の星をながめているときの、ある種の感覚にちかいものだった。

その感覚というのは万物斉同、万物、大自然、宇宙はひとつ。人間はもともと無一物、所有もなにもない、大自然、大宇宙の中のひとつ、我が「身体」我が「所有」もなく、それらは借り物、預かり物であって、人間はもともと無一物で生まれ、生命も授かったものである。ありがたくも生かされているから感謝するというものでもあった。本来、無一物無所有であるならいったい何に執着するのか。
・・・また逆に・・・
テントからすこし離れた源流の湧き水を汲んで、ふと見ると、ろうそくの明かりで漆黒の闇にボウーと光り浮かんだテントは、まさに大宇宙の中に浮かんだ地球のような感じがしたのだ。・・・全宇宙が大自然が自分の庭のごとく、そもそも自分と一体、自分の所有そのものであるなら、これもまたいったい何に執着するのかという感覚にもなった。

以下
一燈園(西田天香)許されていきる公式HP等より抜粋引用
――――――
「世間のいろいろな争いは我執ということからはじまる。我執を離れて、自分を利すると同時に他をも利する方法はないものか?」「あらゆる財物は、預かり物である。本来個人が所有すべきものではない」(無一物無所有)という理念。「生命は授かりものであり、生きようとしなくても生かされており、生かされているから感謝して働かせてもらうのだ、そのために必要な食は求めなくても与えられるのだ」とする生命観・人生観に立った無所有奉仕の生活をはじめた。

 人が奪い合うのは執着、財産や地位や名声への執着で争いの種でもある。見返りを求めず、無執着の気持から世に働きかけるとき、人は奪い合いから無縁だといえる。 無執着の気持ちからお互いに与えあうことを理想として、一燈園ではまず自分から他に捧げることを行います。一燈園生活は、托鉢に捧げられた喜捨によって生かされる生活です。つねに他より下に自らを置き、悩める人、弱い人の立場で生活することを実践。これを懺悔・下坐の生活という。

一燈園生活は、生命本来の姿にかえって自然にかなった生活をすれば、人は何物も所有しなくても、働きを金に換えなくても生かされるものであることを信じ、つねに無所有奉仕の生活を行っていく。人間はもともと無一物で生まれ、生命も授かったものであります。自分のものといえるものは何もなく、権利を主張できる何物もありません。無一物、無所有こそ人間本来の姿だといえます。 
人間のあらゆる争いの源には、欲望や利己心があります。そして財産や地位、名声などに執着しようとします。こうした欲望への執着心をたち切り、利己心を浄化させて本来の姿に帰ることが必要です。身についたもの、集まってきたものをすべて、全体のものとしてお返しし、 許されて預かりものとして扱う・・・・

人間は生きんがために食べ、食わんがためには働かねばならないという、人間観、人生観があります。ところがそれを180度転換させて、この生命は授かりものであり、生かされているから感謝して働かせてもらうのだ、 そのために必要な食は求めなくても与えられるのだ、という生き方を実践したのが天香さんであります。
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以上一燈園(西田天香)許されていきる公式HP
春秋社 西田天香「懺悔の生活」
廣済堂出版 神渡良平「許されて生きる」 
等より熟読させていただき、趣旨を変えない範囲で引用抜粋要約等させていただきました。特に公式HPに感謝いたします。なお私は一燈園の関係者、同人ではありませんので、私の表面的浅薄な理解不足により間違い等が多々あるかもしれませんが、ご容赦願えれば幸甚です。

応に住する所無くして而も其の心を生ずべし 応無所住而生其心

井筒俊彦著 岩波文庫「コスモスとアンチコスモスー東洋哲学のために」
禅的意識のフイールド構造より
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趣旨を変えない範囲で抜粋引用等はじめ適宜変更し私なりに要約してみた。かなり難解で私の理解をはるかに超えてはいる。全くの門外漢の私ではあるが、基本的理解が不足してるかもしれないが、わかる範囲で試しに間違いをおそれず要約してみる。なお、正確を期するとアップするまで何年かかるかわからないので、とりあえず自分のために仮にアップしてさらに理解を深め気づくたびに加筆訂正補筆していく予定。。


ー「応(まさ)に住する所無くして、而(しか)も其の心を生ずべし」ーー
   応無所住而生其心
以下
ーーーーーーーーーー
・仏教述語としての「分別」は、哲学的意味論での存在分節の事。つまり本来、どこにも切れ目、裂け目のない存在リアリティー、それを禅では「無縫塔」という。この全宇宙に、ただひとつの無縫塔にコトバの意味の指示する区分、区割りに従って縦横に切れ目を入れ、そのひとつひとつを本質的に独立した事物事象として定立する。

・あらゆるもの事物事象のひとつひとつが「名」をもっているのであって、「名」のないものは存在しないに等しい。花は花の「自性」によって花である。花は花という名を帯びることによって、本質を規定される。逆に言えば、およそ存在するものは、全て「名」の喚起する「意味」によってがっしり固定されている。

・「本質」という語にあたるものは仏教では一般に「自性」と呼ぶ。
・禅は、一切の事物事象が無「自性」であるとする。そして無「自性」こそが存在の真相だとする。

・禅的主体としての「無心」とは、心が無い、心が働かない、ということを意味しない。何ものにも縛られない心を自由に働かせながら、存在世界に処していくことを「無心」という。

・何ものにも縛られないとは、事物事象の本当は実在しない「自性」なるものを、実在と間違えて、それに凝固固着することがないということだ。

・「金剛経」の一句「応無所住而生其心」がそのことを簡潔に適格に表現している。
「応(まさ)に住する所無くして、而(しか)も其の心を生ずべし」六祖慧能はこの一句を聞いて悟ったと伝えられている。要するに、どこにも、何ものにも凝住固着することなしに(無所住)しかも心の一切の働きを停止してしまうのではなく「無住」のままで心を起こし、自在に働かせていくべきであるということ。

・サンスクリットの原文では「かくのごとく、固着せぬ心が起こされるべきである。何かに固着したような心は一切起こされるべきではない。」
・「固着した心」―何に固着するのか。勿論、ものの「自性」に、あるいは、「自性」をもつものに、である。

・例えばハナという語に対応する意味形象を存在論的「本質」すなわち「自性」と誤認して、そこに主体から独立した客観的なものとしての「花」を認めること。

・心を起こせば、心はたちまち対象にひっかかってしまう。実体化された言語的意味形象の葛藤の中に撒きこまれて動きがとれなくなる。心は一処に固定され、一物に固執して、無分節性の自由を失ってしまう。

・「応(まさ)に住する所無くして、而(しか)も其の心を生ずべし」とは、存在の本源的無分節性の自由を保ちながら、しかも存在分節し、存在分節しながら、しかもその分節態に縛られない、そのような形で心を動かせていく。これが「無心」的主体の本来のあり方である。


・「無心」は通常の見聞覚知を超絶してはいる。が、見聞覚知を離れて、全く別の次元で働くわけではない。見聞覚知を超えた「無心」が生きていく場所は、まさに見聞覚知のほかはない。
以上
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趣旨を変えない範囲で抜粋引用等はじめ適宜変更し私なりに要約してみた。かなり難解で私の理解をはるかに超えてはいる。全くの門外漢の私ではあるが、基本的理解が不足してるかもしれないが、わかる範囲で試しに間違いをおそれず要約してみる。なお、正確を期するとアップするまで何年かかるかわからないので、とりあえず自分のために仮にアップしてさらに理解を深め気づくたびに加筆訂正補筆していく予定。。

言語的妄念による分節分別 播種 プラパンチャ 

井筒俊彦著 岩波文庫「意味の深みへー東洋哲学の水位」
文化と言語アラヤ識より。

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趣旨を変えない範囲で抜粋引用等はじめ適宜変更し私なりに要約してみた。かなり難解で私の理解をはるかに超えてはいる。全くの門外漢の私ではあるが、基本的理解が不足してるかもしれないが、わかる範囲で試しに間違いをおそれず要約してみる。なお、正確を期するとアップするまで何年かかるかわからないので、とりあえず自分のために仮にアップしてさらに理解を深め気づくたびに加筆訂正補筆していく予定。

ー言語的妄念による分節分別 播種 プラパンチャー 
以下
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・考え、語る言葉は一定の地平、世界像を提供する。我々はそれによって世界を見、それによって現実を経験する。

・言語的意味表象の鋳型を通じて、存在のカオスを様々に区切り、そこに成立する意味的分節単位の秩序として第二次的に世界を組み立てる。

・言語こそ人間を動物一般から超出させる。自然と文化の間の境界線は言語である。言語は意味論的には一つの現実分節のシステム。

・人間もまた原初的には独自の環境世界(ユクスキュル)に住んでいる。環境世界とは生物学的生存の秩序である。生存の必要に応じて分節された事物、事象とそれら相互関係とが構成する自然的世界。

・人間はこの第一次生物学的存在分節の上にもうひとつの、まったく異質の存在分節を付け加えた。それが文化と呼ばれる。この第二次的非自然的文化的存在分節によって人間は他の動物から自らを決定的に区別する。

・常識的に現実と呼ばれる経験世界の客観的実在性を普通の人は自然に無批判に信じて疑わない。人々が真実在と思い込んでいる経験的事物、事象はことごとくコトバの形象、夢幻にすぎない。

・言語的妄念の作用を、プラパンチャと呼ぶ。業(カルマ)に淵源する一切の悩みが滅したときにはじめて解脱がある。業(カルマ)の悩みはすべて意識の分節作用から生起する。そしてそれら一切が妄想分別(プラパンチャ)から生じてくる。

・人間がいろいろな行為をすると、それがそのまま消えてしまわずに、心の深部に浸潤し、いわば下意識の暗闇の中で下意識的エネルギーに変質し、それの働きで様々な実存の苦悩(悲喜、愛憎、等々)が生まれてくる。実際は絶対無分節である存在リアリティーを人間の意識が恣意的に分割、分節する。そしてそれらを、好悪、愛憎の対象とする。それらの根拠として妄想分別(プラパンチャ)を挙げている。

・プラパンチャとは空、無が様々な語の意味の示唆する分割線にそって四方八方に分散し散乱することを意味する。意味的散布、「播種」という概念である。

竜樹(ナーガールジュナ)によれば、経験世界における一切の事物・事象がコトバの意味よって我々の意識内に喚起される、仮称、仮名であって本当は空であり、無自性であることを意味する。

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以上趣旨を変えない範囲で抜粋引用等はじめ適宜変更し私なりに要約してみた。かなり難解で私の理解をはるかに超えてはいる。全くの門外漢の私ではあるが、基本的理解が不足してるかもしれないが、わかる範囲で試しに間違いをおそれず要約してみる。なお、正確を期するとアップするまで何年かかるかわからないので、とりあえず自分のために仮にアップしてさらに理解を深め気づくたびに加筆訂正補筆していく予定。

言語アラヤ識 意味可能体 唯識「薫習」と「種子」

井筒俊彦著 岩波文庫「意味の深みへー東洋哲学の水位」
文化と言語アラヤ識より。

110429_163555趣旨を変えない範囲で抜粋引用等はじめ適宜変更し私なりに要約してみた。かなり難解で私の理解をはるかに超えてはいる。全くの門外漢の私ではあるが、基本的理解が不足してるかもしれないが、わかる範囲で試しに間違いをおそれず要約してみる。なお、正確を期するとアップするまで何年かかるかわからないので、とりあえず自分のために仮にアップしてさらに理解を深め気づくたびに加筆訂正補筆していく予定

ー言語アラヤ識 意味可能体 唯識「薫習」と「種子」ー
以下
ーーーーーーーーーーーーーーーー

元来、唯識哲学は3層(8識)の意識構造モデルを立てる。
1.感覚知覚と思惟・想像・感情・意欲などの場所としての表層(第1−5識および第6意識)
2.一切の経験の実存的中心点としての自我意識からなる中間層(第7末那識)
3.心理学が無意識とか下意識とか呼ぶ深層(第8阿頼耶識・蔵識)

・・・この中で上記3の深層識(第8阿頼耶識・蔵識)の構造について・・・

・人間の経験は、いかなるものであれ言語的行為であろうと非言語的行為であろうと業(カルマ)として、必ず意識の深み,下意識に痕跡、影を落としていく

・言語哲学の立場から第3の深層意識領域を特に言語アラヤ識と呼ぶ。固定された意味として、出現するには至っていない、まだ出現しきっていない「意味可能体」。言語に形式的に組み込まれていない浮動的な意味の貯蔵所。意味と呼ばれるものが誕生し生育する意識下の領域。

・半ば出来かけの、まだ、一定の「名」をもたない、不定の意味を収蔵する場所、また意味らしきものがほとんど全く分節されない漠然とした形で、生れ出てくる場所。

・すべての行為が人の心の無意識の深みに移香のように残る。これを「薫習」と呼ぶ。このプロセスがアラヤ識内で不断に続いていく。人間の経験の一片一片は心の奥底に意味の匂いを残していく。意識の深層に薫きこめられた匂い「薫習」が、意味可能体「種子」を生む。

・「意味可能体」は下意識の闇の中に現れては消え、消えては現れ浮遊している。これらが日常的意識の表面に働く外部言語を下から支えている。

・業(カルマ)が意味の「種子」に変性する過程を「薫習」という。経験が「種子」を生み、種子は新たな経験を触発する。業(カルマ)の集積は直ちに、また時間をかけて意味の「種子」に変わっていく。

・有と無の間を彷徨している縺れ合い絡み合う無数の「意味可能体」流動的 浮動的意味可能体が絶え間なく生産され、まだ名づけられないままに、意識の表層「名」の世界に出現してくる。無分節と有分節のはざまに何かさだかならぬものの面影がほのかに揺らいでいる意味生成の場所。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーー
以上
趣旨を変えない範囲で抜粋引用等はじめ適宜変更し私なりに要約してみた。かなり難解で私の理解をはるかに超えてはいる。全くの門外漢の私ではあるが、基本的理解が不足してるかもしれないが、わかる範囲で試しに間違いをおそれず要約してみる。なお、正確を期するとアップするまで何年かかるかわからないので、とりあえず自分のために仮にアップしてさらに理解を深め気づくたびに加筆訂正補筆していく予定。

存在解体後の存在論 華厳 理事無礙・事事無礙

井筒俊彦著 岩波文庫「コスモスとアンチコスモスー東洋哲学のために」華厳の理事無礙・事事無礙、存在解体のあとより。

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趣旨を変えない範囲で抜粋引用等はじめ適宜変更し私なりに要約してみた。かなり難解で私の理解をはるかに超えてはいる。全くの門外漢の私ではあるが、基本的理解が不足してるかもしれないが、わかる範囲で試しに間違いをおそれず要約してみる。なお、正確を期するとアップするまで何年かかるかわからないので、とりあえず自分のために仮にアップしてさらに理解を深め気づくたびに加筆訂正補筆していく予定。



今回は華厳の存在解体後の存在論
「事」(A)→「理」(B)→「理事無礙」(A’)→「事事無礙」(A’’)

はずして見ながらはめて見る。はめて見ながらはずして見る。二重の「見」
以下
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
「事」(A)
常識的日常の差別相・自性・言語による分節・固定化された言語と「名」

・森羅万象―存在が数限りない種々様々な事物に分かれ、それぞれが独自の「名」を帯びて互いに他と混同せず、しかもそれらの「名」の喚起する意味の相互連関性を通じて有意味的秩序構造をなして拡がっている、こんな世界に人は安心して日常生活を生きている。常識的人間が見ているままの互いに区別、分別された事物。存在の差別相。分節相。「自性」

・固定化された言語、コトバ、「名」が源泉。凝固度の高いところは「名」によって固定され独立し「シニフィアン=言語記号の表現面、言語音声、名」「シニフィエ=言語記号の内容面 、意味、概念、観念等」結合体となって表層意識で正式の言語記号として機能する。世界や事物の秩序とは、客観的なものではなく、むしろ、言語による分節がつくる一定の見方にすぎない。この一定の見方を絶対だと思い込むことを妄念という。

「理」(B)
存在解体、絶対無分節 空化、離言、言語道断、無分別知、無垢識への転成、自性清浄心

・世界の「存在秩序を「空」化する。すべてのものの実体性、自性を徹底的に否定「一切皆空」恒常的不変であるかのごとく見えていた分別的存在の秩序が揺らぎはじめる。自性が実在するものではなく妄念、人間の分別意識、コトバの所産、事物間の差異が消えてしまう。境界の忘絶・存在の空化、存在世界の全体が一物もない無的空間となる。

・意味凝固体としての「名」いまだ「シニフィアン」を見出だすに至っていない潜在的、暗在的「シニフィエ」つまり「名」によって固定されていない、アラヤ識に貯蔵されている凝固しかけの揺れ動く浮動的「意味」可能体の無化、空化、離言、無分別知、アラヤ識の生成機能の停止、無垢識 空(=自性清浄心)への転成。

・華厳「自性清浄心」至る所に、無数の現象的形態に自己分節していく。それらが「事」として我々の目に映じる。絶対無分節であって様々な自己分節が万象差別の世界を現出する一切存在の根源。「理」は絶対無分節であるが、現象的に千差万別に分節されて現れる。「理」=「空」は絶対無分節であるからこそ無限に自己分節していく可能性がある。

・事物を事物として成立させる相互間の境界線、枠組みを取り外して事物を見る。ものとものとの存在論的分離を支えてきた境界線が取り去られ、あらゆる事物の間の差別が消えてしまう。絶対無分節 存在解体。存在空化、「空」言語道断、離言。

「理事無礙」(A’)
存在解体後の存在論。性起・分節と絶対無分節の同時現成「二重の見」

・「理」は何の障礙げもなく「事」のなかに透入して「事」は何の障礙もなく「理」を体現する。結局は「理」そのものである。「理」と「事」は互いに渾融して自在無礙。

・「理」にそのまま坐りこんでしまわずに、またもとの差別、分別の世界「事」に戻ってくる。一度外した枠をまたはめ直して見る。外的には以前と全く同じ事物、しかし内的には微妙に変質した事物として、千差万別の事物が再び現れてくる。二重の見、はずして見ながらはめて見る。はめて見ながらはずして見る。この二重の「見」を通じて、実在の真相が始めて顕になる。

・「事」を見ていながら、そのままそれを透き通して、そのまま「理」を見ている。分節と絶対無分節の同時現成。複眼の士の見る存在ビジョン、臨済録「我、諸法の空相を見るに、変ずればすなわち有、変ぜざれば、即ち無、三界唯心、万法唯識」「名」の支配する世界、コトバの世界、意味的に分節されたものの世界に身をおきながら、しかもコトバの世界を離れない。

・「分別」と「無分別」存在の意味的分節と無分節との同時成立。存在解体後の存在論。空中に浮遊する一微塵であっても「理」の存在エネルギーの全投入、挙体「性起」である。「性起」一切の「事」、そのひとつひとつが「理」を体現している「遍一切処」

・絶対無分節である「理」(すなわち空)ひとつひとつのものという形で自己分節的に現象して現象的存在次元森羅万象の世界が生起して「理」の「事」的顕現、これを華厳で「性起」とする。

「事事無礙」(A’’)
相互浸透 相即相入 縁起

・すべてのものは、相依相関的に、瞬間ごとに現起する、存在の流動的関連性は無限に延びひろがって一塵といえどもそれから外れることはない。すべてのものが、相互浸透的に関連しあっている。一塵起こって全宇宙が動く。根源的に無自性である一切の事物の存在は相互関連的、すべてがすべてと関連しあう。常にすべてのものが、同時に、全体的に現起する存在の実相「縁起」の世界。すべてのものは「理」を通して互いに円融し「相即相入」している。ひとつのものの存在にも、全宇宙が参与する。
・「あらゆるものはシニフィエ(=言語記号の内容面、 意味、概念、観念等)の構成要素は全く同じであるのにもかかわらずシニフィアン(=言語記号の表現面=言語音声=名)が異なる。構成要素の有力、無力の主伴論理(下記*)ものの有力的側面も無力的側面も同時に見える。存在の無力的構成要素を不可視の暗闇から引き出していかなるものも両側面において同時に見えている(詳細略)
―――――――――――――――――――――――――
以上
井筒俊彦著 岩波文庫「コスモスとアンチコスモスー東洋哲学のために」華厳の理事無礙・事事無礙、存在解体のあとより。

趣旨を変えない範囲で抜粋引用等はじめ適宜変更し私なりに要約してみた。かなり難解で私の理解をはるかに超えてはいる。全くの門外漢の私ではあるが、基本的理解が不足してるかもしれないが、わかる範囲で試しに要約してみた。なお正確を期するとアップまで何年かかるかわからないので、とりあえず自分のために仮にアップしてさらに理解が深まり気づくたびに加筆訂正補筆していく予定。bb0b00a1.JPG

・華厳的な意味で事物間の境界線をはずして存在世界を見たら、いったい世界はどんなふうに見えてくるのだろうか。また取りはずした境界線をもう一度はめて見たら、事物はどんな姿で現れてくるのだろうか。

・「二重の見」は瞑想、修行等以外に、いかにして体得されるのであろうか。またアラヤ識からの無垢識への転成はいかにして可能であるのか。私は特に言語、コトバの構造に特に注目している。

・意味凝固体としての「シニフィアン」を見出だすに至っていない潜在的、暗在的「シニフィエ」つまり「名」によって固定されていない、凝固しかけの揺れ動く浮動的「意味」可能体。これらが心のありかた、無意識の行動に重大な影響を与えているようだ。

・華厳の存在解体後の存在論「事」(A)→「理」(B)→「理事無礙」(A’)→「事事無礙」(A’’)は荘子のA「方内」「有為」(とらわれ)→B「方外」「無為」(とらわれず)→A'「無方」「至妙の有為」(とらわれず、また、とらわれないことにも、とらわれず)構造に酷似しているように思われる。特に華厳の世界観と荘子の「斉物論篇」

・また中国禅における宗教、修行の構造「悟了同未悟」A(分節、現実の否定、未悟)→B(絶対無分節、悟)→A’(新たな分節による現実肯定、已悟)A→B→A’→B'→A''→B''→A'''→・・・・・・の円環運動思想との関係。

・特に「事事無礙」の世界は極めて難解、私のようなものにはまだまだ理解が及ばないけれども、「事事無礙」主伴論理は(*上記)遺伝子のオン・オフスイッチが髣髴される。

・またこの「事事無礙」のイメージ図が南方熊楠の南方曼荼羅と酷似していたような記憶がうっすらとある。

・絶対無分節である「理」(すなわち空)が、なぜ自己分節的に「性起」してくるのか等々。

次回へ・・・0f14a1a7.jpg

大愚槃特「塵(ちり)を払い垢(あか)を除かん」

武者小路実篤著「釈迦」に大愚槃特(はんとく)「塵(ちり)を払い垢(あか)を除かん」の話があった。非常に興味深く感動し面白かったので趣旨を変えない範囲で適宜変更し私なりに要約してみた。
ーー以下ーーー

皆から馬鹿あつかいされている大愚槃特(はんとく)が門の外で大声で、わあわあいって泣いている。仏陀は大愚槃特(はんとく)は、珍しく人がよく、正直者なのを知っていた。

「何を泣いているのだ」「私は愚鈍で自分の名前さえ満足に覚えられないので追い出され、途方にくれて泣いていたのです」

仏陀は「そうか、それなら気にすることはない、私のところへついてくるいがいい。自分で自分の愚かなことを知るのは智者だ。ほんとうの愚者は自分は智者だと自分でいう」

そこで仏陀は二つの句を教えた。それは「塵(ちり)を払い垢(あか)を除かん」しかし大愚槃特(はんとく)は、覚えることができなかった。・・・

仏陀はいった「お前は、掃除や履物のふき掃除をすることはできるか」・・・大愚は一心不乱に掃除や皆の履物掃除をつとめながら口の中で句をとなえ遂には覚えたのだ。

そしてその意味も終いにわかった。

大愚槃特(はんとく)は「塵(ちり)は欲で垢(あか)は結縛(こだわり、執着)」ということだ。智者はそれを除いて「塵(ちり)垢(あか)を清浄にすることなのだ」・・心がかつ然と開けた。

大愚は祇園精舎の名物男になって、相変わらず、皆の靴をぬぐいながら小声で「塵(ちり)を払い垢(あか)を除かん」と唱えていた。

ーー以上 趣旨を変えない範囲で適宜変更し私なりに要約してみた。ーーー
私は修行がまだまだ足りない俗物なので、仕事をしていると雑念妄念がしょっちゅう湧き出てくる。最近は、その度「塵(ちり)を払い垢(あか)を除かん」と唱えている。なお一説にはこの人物こそが「天才バカボン」に出てくる、いつも箒をもって掃除をしているレレレのおじさんのモデルとも聞いたことがある、真偽のほどは全く不明だが・・・

これと関連して武者小路実篤「馬鹿一(ばかいち)」趣旨を変えない範囲で適宜変更し私なりに要約してみた。
ーーー以下ーーー

馬鹿一(ばかいち)は暇さえあれば買う人もいないのだが、石ころや雑草の画をかいている。
馬鹿一を訪れるときは道端でそのへんの雑草をでたらめに折りとってお土産に持っていくのだ。気がむしゃくしゃしたり、不愉快なことがあると馬鹿一のところに足が向くのだ。馬鹿一と話していると、あくせくしているのは馬鹿げているの思うのだ。

徹底した馬鹿にはかなわない。結局この世で一番幸せなのは馬鹿一だと思うこともあるのだ。

馬鹿一はすっかり喜んで「僕は今までにこの草を何度も見たが、まだ、この草の美しさを十分知ることができなかった。君のおかげでこの草の美しさを知ることができるのは、ありがたい」お土産にその辺の道端におちている何の変哲もない石ころを持って行っても同じだ、まるで宝石でも受け取るようにいろんな角度から熱心に見ているのだ

・・・馬鹿一は「この世は美しいものでいっぱいだ、君はあきるほど見たことがあるか?見ない前にあきているのではないか?面白さがわからないのだ・・・よく自然を見ない人に限って自然を馬鹿にする・・・迷路を歩くと頭がこんがらがるだけだ・・・自然は又私を愛してくれる・・私はつい愉快になり元気になり本気になり一生懸命になる、ありがたし、ありがたし・・」

ーーー以上 趣旨を変えない範囲で適宜変更し私なりに要約してみた。ーーー

ついでにトルストイ「イワンのばか」を趣旨を変えない範囲で適宜変更し私なりに要約。なぜかわからないが、ゆったりとした、なんとも言えぬ不思議な心の安らぎがある。
下記は私の好きなフレーズ。

ーーー以下ーーー
・イワンが額に汗して野良仕事からかえってみると、兄がその兄嫁と一緒に夕食を食べていた、兄は借金の支払いができなくて逃げてきたのだった。兄はイワンを見ると言った。
「なあ、イワン、また商売でひと儲けするまで女房とともにやっかいになる、養ってもらいたいのだ」イワンは「いいとも、いいとも、どうぞいつまででも」すると兄嫁がいった「私はばかといっしょにご飯をいただくのはまっぴらです、汗くさくてたまりません」兄は「イワンよ、おまえはばかで、くさいのであっちへいって外で飯を食ってくれないか」イワンは「ああ、いいとも、いいとも」と外で飯を食い、馬の世話の仕事に出かけた。

・兄たちはお金持ちの父親に財産わけをせびりに来た。父親は「兄たちはうちのために何もしていない、すべてイワンがきりもりしている、お前たちにすべてわけてやるとイワンも妹も気を悪くするだろう」兄たちは言った「イワンはばかだし、嫁も来ないでしょう。何もいらない、妹もなんにもいりません」イワンは言った「ああいいともさ、欲しいだけ持って行ってください」

・イワンの妻はイワンに「あなたのことをみんながばかだと、言っています」イワンは「そうか、よしよし」イワンの妻は考えに考えた。彼女もやはりばかであった。妃の服を脱ぎ捨てて箪笥へしまい、イワンの妹のところへ野良着で百姓仕事を教わりに行った。そして仕事をおぼえると夫のイワンの仕事を手伝い始めた。イワンの国からは賢い人はみんな出て行ってしまい、ただばかだけがあとにのこった。
ーーー以上 趣旨を変えない範囲で適宜変更し私なりに要約してみた。ーーー
昨年秋、たまたま登山口のバス停にトルストイの短編集がほってあった。バス時間待ちで読んでみたのがはじまり、以降、トルストイ、武者小路実篤とどんどん広がり始めた。

常不軽菩薩とも関連してさらに考えていく予定。

宮沢賢治

雨ニモマケズ
風ニモマケズ
・・・
慾ハナク
決シテ瞋ラズ
イツモシヅカニワラッテヰル
・・・
アラユルコトヲ
ジブンヲカンジョウニ入レズニ
・・・
ミンナニデクノボートヨバレ
ホメラレモセズ
クニモサレズ
サウイフモノニ
ワタシハナリタイ
・・・


維摩経|武者小路実篤|「布施もまた道場だ、報いを望まないから」

維摩経|武者小路実篤|「布施もまた道場だ、報いを望まないから」

鎌田茂雄、長尾雅人、中村元、谷口雅春、武者小路実篤等の維摩経訳を熟読している。それぞれに訳者の学問的、思想的、宗教的背景、人生模様等がうかがえて非常に興味深い。

今回は武者小路実篤著「維摩経」を中心に趣旨を変えない範囲で適宜変更し私なりに要約してみた。
(なお、愚鈍な私の要約なので、間違いも多々あるかもしれないが、ご容赦いただきたい)
ーーー以下ーーー

光厳童子が街はずれで維摩居士とばったり出会った。
光厳童子「居士はどこからいっらしゃいましたか」
維摩居士「道場からきました」
光厳童子はそのへんに修行道場はなかったはずだがといぶかり「居士のいう道場とはいったいどこの道場ですか」

維摩居士は言った。すべてのものが道場となる、ありとあらゆる日常の一切の行為が道場となり修行だという・・・
その中で「布施もまた道場だ、報いを望まないから」だという。人が善事をなすことで報いを望めたら、それは報恩されないと不愉快に思うだろう。
しかし布施は報酬をのぞまない、いいことだけをして、あとになんにも残らない。そこがおもしろい。
「陰徳に陽報あり」という言葉があるが、陽報を望んでの陰徳は醜い。多くの場合罰を受けるだろう。それが心のひっかかりになるであろう。布施はそういうものではないとはっきり言ってるところがおもしろい。「布施を行え、報いあればなり」というのが普通の道学者の云うことだ。しかしここではもう一皮下のことを云っている。其処が道場なのだ・・・報いなぞは少しも思わず、布施をする、それこそが道場だともいえる。
ーーー以上ーーー
参考
・『景徳伝灯録』達磨が初めて帝に会った。帝は達磨に質問した。「私はいくつもお寺をつくり仏像を造り、写経もしてたくさんの僧を育てお世話してきた、どんな功徳があるか」
達磨が答えた「無功徳、功徳なぞない」

・「三輪清浄(さんりんしょうじょう)の布施」・・・「布施する人」「布施される人」「布施される物の価値」という3要素に執われず執着しないで布施することが最善の布施のあり方のようだ。三輪空寂の布施ともよばれるようだ。また菩薩が他者に関わる際の大切な四つの無量の心(慈・悲・喜・捨)の「捨」とは何なのだろう。布施と関連して考えている。

・上記等に関連してとトルストイ「イワンのばか」はじめ、西田天香さんの福田(ふくでん)托鉢等、武者小路実篤の思想等に関連して、私なりに考えてみたい。特に武者小路実篤の「釈迦」「馬鹿一(ばかいち)」等は非常に興味深い。

・福田(ふくでん)を耕し徳を積むというのは、地(自分自身)のために徳を積むのではなく、天のために徳を積むと考えればわかりやすいのかもしれないが、しかし、天に徳を積むというのは、天が見返りをくれるという、やはり見返りを期待するということに近いのかとも思われる。愚鈍な私はまだまだ理解整理できていない。ただ、もしかしたら維摩経の「不二」を含めて荘子の「斉物」に、この「福田ふくでん」とは何かのヒントがあるような気がする。また仕事をさぼって考えてみる。

「塵(ちり)を払い垢(あか)を除かん」

自灯明 「期待値ゼロ」からの実践


自灯明 「期待値ゼロ」からの実践。

法句経、スッタニパータ、原始仏典等を仕事、移動時間の合間等に読んでいる・・・・

心の底では、わかっていても、見たくない、聞きたくない、考えたくない、あまりにも本当の姿が、これでもかと書かれている。そこにはいわゆる超越的、形而上学的、神秘的な絶対的救済者、神秘的な力、他力救済はないように感じる。(また修行をより深めるひとつとして、白骨観、不浄観という身体への執着を断つ恐ろしげな観想もある)

原始仏典等に例えば・・・

・スッタニパータ 804( 荒牧典俊先生訳)
「ああ、いまの世の人生のはかないことよ。百年も生きないうちに死んでしまう。もしや、ひょっとして百年をこえて生きるひとがあるとしても、それからどうなるかといえば、やっぱり、老いぼれて死んでいくよりほかにはない」

・法句経 286(中村元訳)
「わたしは雨季にはここに住もう。冬と夏にはここに住もう」と愚者はこのようにくよくよと慮って、死が迫ってくるのに気がつかない」


・法句経6(中村元訳)
「われらは、ここにあって死ぬはずのものであると覚悟をしよう」

・法句経287(中村元訳)
「死はさらって行く。眠っている村を大洪水が押し流すように」

超越的、形而上学的、神秘的な絶対的救済者、神秘的な力、他力救済はないように感じる。神も仏もないのだろうか。ニヒリズムの極致・・・ただ座して老いぼれて虚しくただ死を待つだけなのか・・・空虚感、虚無感と諦観・・・

だが・・・しかしまてよ・・ここにはなにかがあるのではないか・・・

・法句経 160(友松圓諦訳)
「おのれこそ おのれのよるべ おのれを措きて 誰によるべぞ よくととのえし おのれにこそ まことえがたき よるべをぞ獲ん」

・大パリニッバーナ経
「自灯明・・自らを島とし、自らをたよりとして、他人をたよりとせず・・・他のものを救いのよりどころとしてはならない・・・」

これはもしかするとニーチェ「超人」に通じるのではないか・・・外に救いをもとめるのではなく、たった一人、林の中をもくもくと歩む象のごとく、自分の力のみで道を切り開いていく。救いのよりどころ、頼みは自分のみ。自己の徹底的な鍛錬と追求。・・・厳しい道だ・・・

心の底では、わかっていても「見たくない、聞きたくない、考えたくない。自分には関係ないことだ」と思いたい。また現実の姿から目をそむける。自分だけは老いず、病気にもならず、明日も明後日もまた明々後日も今日と変わらず、生きているという「期待」をしてしまう。・・・「期待」・・・

これらは、前回投稿したように「人はなぜ見たいようにしか見れず、聞きたいようにしか聞けず、思いたいようにしか思えないのか」 一水四見と直結する。

なぜ、そのような「期待」をしてしまうのか。

その「期待」と現実の姿の乖離に気付いたとき「苦」が生じるのかもしれない・・・
では何の期待もしない「期待値ゼロ」の地平からすべてをながめればいいのだろうか・・・・・

*例えば、絶対零度(セ氏マイナス273度で、これ以下の温度はない)を座標軸のゼロ(期待値ゼロ)に設定すれば、何があってもどうあっても温度(起こりうる事象)はすべて(+)となる・・・

詳細は次回に続くが・・・「期待値ゼロ」の地平から 下記,鉢△裡隠牽暗戞∧向性が真逆の日々の行為へとつながっていく。この全く違った生き方、方向性の分岐点のポイントはどこから生じるのだろうか。

ゞ虚感と諦観、なにをやってもどうせ老いて病んで死んでいくんだからとあきらめ、嘆きと虚無感にさいなまれ、うずくまってしまう。
△匹Δ擦茲椶茲椶墨靴い道爐鵑任いのだ。いずれ死んでしまうのだから・・・今、生きているだけでも儲けものや、歩けるだけでもありがたいこっちゃな。誰にも頼らず今、生きているうちに、おもしろ可笑しくやりまくらんと・・・あかんでもともと、だめもとやがな、ちょっとでもあたれば儲けもんや、あかんかっても死にはせんで、生きてるだけでも、ありがたいこっちゃで・・・・・・・・・・「超人」的な超積極的な行為、実践。

上記は私の場合、実際の仕事、日常を通じて日々試行錯誤実験を繰り返している。ひとさまに、こうすればいいとか示唆できうるレベルでは毛頭ない。単なる自分のためのメモ、備忘録として。まことにお恥ずかしい限りではある。

次回「期待値ゼロ」からの実践に続く・・・

「人はなぜ見たいようにしか見れず、聞きたいようにしか聞けず、思いたいようにしか思えないのか」 一水四見

ここ数年来、会社経営や組織マネージメント、またマーケティングコンサル業において「人はなぜ見たいようにしか見れず、聞きたいようにしか聞けず、思いたいようにしか思えないのか」様々な状況、局面において何度も強く思うことがあった。

しかし、ふと気付いたのは、これは自分では気付いていなかったが、私自身を含めてそうなのではないか・・・

これはいったいなぜなのだろう。本当に不思議で、また謎であった。

もしかすると、人それぞれに違った「現実」世界を認知、認識してるのかもしれないとようやく以下のように思い至った。

(・・・生来愚鈍な私にはかなりの時間がかかった。私の場合、実際の仕事、日常を通じて日々試行錯誤実験を繰り返している。下記はひとさまに、こうすればいいとか示唆できうるレベルでは毛頭ない。単なる自分のためのメモ、備忘録として。まことにお恥ずかしい限りではある。・・・)

以下

すべては意識(主観)脳内現象であって、これを主観(意識)に現象がたちあがるともいえる。とりあえず客観的事象、事実というのは留保しておく。
簡単に言えば、立ち上がってくるすべては主観の解釈(脳内認知、脳内再構築)による。・・・一水四見・・・

どのような現象が立ち上がる(主観の解釈 脳内認知、脳内再構築)かは、ひとそれぞれの脳内の認知回路、刻み込まれた「ひな型」青写真、バイアス、枠組み等による。

これらは過去の経験、記憶や過剰な反省的思惟、日常の言語、コトバ、感情の動かし方、喜怒哀楽、環境、育ち、文化、宗教また遺伝等によって刻み込まれたる脳、脳内神経伝達回路によるだろう。

これを禅では分別妄想と呼ぶようだ。この分別妄想、妄念は、人それぞれが自らつくって刻み込んできた人工的仮設の枠組、認知、思考の「ひな型」、回路の結果でもある。
言い方をかえれば人は自らまいた種(=「種子」)は自ら刈り取るということにもなる。

この刻み込まれた「ひな型」脳内認知回路、脳内再構築、青写真、枠組みの構造は下記の´△料佇向の往還、循環的運動、相乗効果に近い。

わかりやすい例として下記の「達摩二入四行論」柳田聖山訳を参考・・・

・・・ある人が自分の手で竜や虎の絵を画いて、自分でそれを眺めて、かえって自分で恐れおののくようなものだ。迷える人もこれと同じであって、自分の意識という筆で分別して刀の山や剣の林の姿を描き、かえって自分の心で恐怖しているにすぎぬ・・・・・すべて君の意識という筆先が、それを画いて作りだし、みずから、あわて、みずから怖れているのであって、。君自身の心が、自分でそれを作るだけだ。・・・・・すべて、君自身の意識という筆が勝手に妄念、分別してそれを作るにすぎぬ。・・・

仝醜垠絢鏤
表層、顕在意識の現象(現行)から自ら種子をまく→意識、末那識(執着心)に染め上げられ薫習(=くんじゅう)種子として最深層無意識の阿頼耶識へ貯蔵

⊆鏤卆幻醜
最深層無意識の阿頼耶識に蓄えられた種子が発芽し→表層、顕在意識に現象(現行)現勢化し自らかりとる。

´∩佇向の往還、循環的運動が、相乗的にすすんでいく。

「なにも思わぬは、仏の稽古なり」至道無難禅師
・ものごとをあるがまま、ありのまま見て聞いて思うこと(正岡子規、森田正馬、マインドフルネス等等)・・・則天去私(夏目漱石)、素直な心。

「主(ぬし)なくて、見聞覚知する人を、いき(生き)仏とはこれをいふなり」至道無難禅師
・この主(ぬし)というのが上記 自ら刻み込んだ双方向の脳内認知神経回路(バイアス)人工的仮設、脳内再構築の枠組等を意味するのではなかろうか。六識、五蘊、脳科学と関連して・・・詳細継続究明中。

「一水四見」
・同じ水でありながら,天人はそれを宝石で飾られた池と見、人間は水と見、餓鬼は血膿と見、魚は自分のすみかと見る。・・・ユクスキュル「生物から見た世界」・・・

「至道無難、唯だ揀択(けんじゃく)を嫌う、但だ憎愛莫ければ、洞然として明白なり」三祖信心銘
・主に感情や情動に関係する脳の辺縁系、扁桃体や視床下部等の過度の興奮を制御することを意味しているようだ。

「おのれこそおのれのよるべ おのれを措きて誰によるべぞ よくととのえしおのれにこそ まことえがたきよるべをぞ獲ん」法句経 160(友松圓諦訳)


最近は仕事のあいまに、現象学、ソシュール等の言語学(コトバ)等の構造(言葉は単に事物や記号、名前をつけただけでなく、実はモノの秩序、世界を作っている)「意味」などを、私は全くの素人ではあるが試行錯誤しつつ考えている。

これらは西欧の伝統的哲学思想等のバックグラウンドのない私には難解である。けれども東洋、特に唯識仏教、禅、荘子など、また、聞きかじりの脳科学、深層心理学等、認知科学等を媒介して考えたり、特に日々の仕事、なにげない日常の経験等から実際に則して考えれば、よりわかりやすいような気もする。

しかし、考えれば考えるほど井筒俊彦(言語アラヤ識、意識と本質、意味可能体と薫習、意味分節等はじめ)の思想は相当深遠のようだ。

日常なにげなく使っているコトバ、言語、ひとりごと等が大事なカギでもあるようだ。私の場合、実際の仕事、日常を通じて日々試行錯誤実験を繰り返している。上記はひとさまに、こうすればいいとか示唆できうるレベルでは毛頭ない。単なる自分のためのメモ、備忘録として。まことにお恥ずかしい限りではある。

維摩の一黙、雷の如し「なにも思わぬは仏の稽古なり」 至道無難禅師

維摩の一黙、雷の如し
「なにも思わぬは仏の稽古なり」 至道無難禅師

ヴィクトール・E・フランクルは面白い例を挙げている。

ムカデがあるとき自分の百本もある足の動かし方の順序が気になって自己「観察」と過剰な「反省」(対象化、分析、概念化、区別、主客二分)をはじめたところ、ついに悶絶し歩けなくなったという。狭義の知性による、混沌とした深層意識領域の完全な言語化、意識化は、もともと不可能であり、どうしても思考の反復ピストン往復運動になり、いつまでも明証感情の未処理の残像が残る。

過剰な自己反省から解放され(脱反省)自己を忘れ事に専心し、事に仕えた時、無意識への信頼の回復した時にはじめて反省(対象化)しても反省しきれない精神的深層人格、精神的無意識の働きがあるとする。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
隠者は私にかく語った。

・・・でっちあげられた、そもそもありもしない「主」とか「客」とか「主客未分」とか狭義の知的概念という物差し、枠組み・・・その枠組みで世界なるものを、自分の描きたい筋書き、青写真、ひな形通りに区別、分節、分別し、こじつけ解釈しているだけではないのだろうか。

狭義の知性ではとらえられない深層の無意識の領域に対して狭義の知性でこしらえた概念(人工的仮設の枠組み)で切り込んでゆくようなもの。

「主」とか「客」とかいう古ぼけた「贋金」をいったん使い始めると、それが、あたかも自明の理であるように、その言葉、概念自体に一切の疑いをもたない。
「主客未分、純粋経験」とかいうでっちあげの金科玉条のかびくさい概念。
つまり、「主」とか「客」とか、いわゆる狭義の知性、西欧流の概念で、分節、概念化したものを、全く疑いもなくそれを自明の前提、枠組みとして詮索議論をはじめてしまい、そのことに気づくことはない。

「荘子」の渾沌の寓話(応帝王篇、渾沌七竅に死す。福永光司訳参考)人間のさかしら、作為、分別が存在の生々溌剌としたる自然のいとなみ、安らかな生を窒息させ死滅させる愚かさにあるように、もともと、概念的把握や人間の合理的知的思惟を超えたところに、限りある知的処理、知的殺戮行為で、わざわざ火をつけておきながら、今度は逆に大騒ぎで、これみよがしに鎮火しようとする。

つまり、個々人の人工的仮設の枠組みを通して、ただただ自分の見たいように見て、自分の聞きたいように聞く自作自演、妄想のマッチポンプにすぎないのではなかろうか。

「なにも思わぬは、仏の稽古なり」 至道無難禅師
維摩の一黙、雷の如し 維摩経「入不二法門品」

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
ー参考(詳細継続研究中)ー
・脳科学の「枠組み」で禅、禅の覚り、さらには宗教経験等のプロセスを考えると、わかりやすいが難解。

・「純粋経験」というのは、この大脳辺縁系と脳幹(本能や情動、無意識、直観)に対応し、「反省的思惟」というのは大脳の前頭連合野(狭義の知性、分別、分析、狭義の知性、意識)に対応するかもしれない。情動と狭義の知性(概念化・意味・区別・言語化)のバランス、媒介、相互抑制、制御、相互フイードバック、動的平衡、統合しているものが実は「感情」かもしれない。

・情動(無意識)⇔感情(無意識から意識化へ 自己認知モニター)⇔言語化(意識化・概念化・意味・区別) 
・ 感情とは一般的には意識化、自己認知(モニター)された情動である。

・感情には意識化され概念化(意味・区別・言語化)されたものと、意識化されてはいるが概念化(意味・区別・言語化)できない(なんともいえない)感情がある。さらに意識化されぬ、つきあげてくるような感情もある。

・概念化、意味付けされた感情は狭義の知性の制御がすでにかかっている。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
ー参考ー
西田幾多郎『善の研究」岩波文庫P206−207より抜粋

而して真の自己を知り神と合する法は,ただ主客合一の力を自得するにあるのみである。
而してこの力を得るのは我々のこの偽我を殺し尽して一たびこの世の欲より死して後蘇るのである。

此の如くにして始めて真に主客合一の境に到ることができる。これが宗教道徳美術の極意である。
基督教ではこれを再生といい仏教ではこれを見性という。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
ー参考ー
鈴木大拙
「最終講義、禅八講」より適宜抜粋引用要約

・「自己」はあるがままに掴まねばならない。自己が分裂すると、自己であることを止める。「見るもの」と「見られるもの」ができるからである。この過程はいかに繰り返してみても、人が自分の影を追いかけるようなもので、追えば追うほど影は逃げる。

・禅の捉えようとする自己はまだ主客に分かれず、従ってどんなやり方の分析も手を出せない「自己」である。

・知性に頼り、知的解決を求めるのになんの非もない。・・・問題が人の存在そのものにかかわるときに、知性に全幅の信頼を寄せたり、知性があらゆる面で完全な満足を与えてくれると考えるのは大きな誤りであろう。

・「存在」は知性的に把握されるか概念化されるかすると、もはやそのものではなくなる。それゆえに、それは不可得なのである。

・一方で知性を立て、他方に不可得なものを立てると、そのものは捉えられない。二つを互いに分離させようとしてはならない。両者を対立させてはならない。

・「哲学的」反省とは、意識の流れの外に立って、それを観察することである。これが起これば「自己」はもはや「自己」ではない。・・・・

・「自己」は、意識の表面に連れ出されて二分化の方法の対象にされることは決してない。それは、客体化の無限の過程の終点に位置している。反省という手段は、意識の流れの外に立って、それを観察することである。・・・反省という手段は思慮分別や合理化や分別的弁別と同じことであるから、それによって「自己」を知ることはありえない。反省する「自己」が絶えず後退して、決して反省の対象にならない。・・・点検するために意識の流れを止めると、流れではなくなり澱んだ水たまりになる。流れそのものを知ろうとすれば、飛び込むことが絶対に必要である。

・「自己」を時間的に考えると、反省されるのは過去における「自己」の記憶であって、この反省や点検を行っている現在の「自己」ではない。・・誰もが掴みたいと思うのは、現実の「自己」、あるいは行為する「自己」であって一瞬前の「自己」の記憶イメージではない。・・・真実の自己は現在に属していて、この反省という仕事をしつつあるのだから、それは行為者自身である。この行為者は反省や点検や内観に自分をさらすことはない。これらを行う時、行為者は「自己」の外へ出て行って、行為者であることを止め点検者に変身する。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
ー参考ー
『荘子』大宗師篇、福永光司訳 荘子的超越者「真人」仙人の構造。

『荘子』において一切存在は方生方死であり、この生滅変化してゆくはてしない変化の流れそのものが道、実在の真相であって、個体はこの変化の流れに生じては滅し、滅しては生ずる波のごときものに他ならない。不滅なのはこの変化の流れそのものであって、生滅する個体ではない。人間はこの道の不断の流動にそのまま従う時、真に生と死を超えることができると説く・・・・

個々の事象にとらわれ「区別」し「私心」「分別」をもつことにこそ人間の惑いと悲しみがある。生成変化していく、はてしない大きな流れそのものが「道」であるとしている。この不断の流動にそのままやすんずるとき真に生と死を超えると。これが究極の養生の秘訣だとある。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
ー参考ー
「荘子」応帝王篇 渾沌の寓話(福永光司訳より適宜抜粋要約)

荘子は人間のさかしら、作為と分別が、一切存在の生々溌剌たる自然のいとなみを窒息させ死滅させる愚かさを風刺する。

荘子において真実在とは、人間の心知の分別を超え、概念的把握を絶した非合理極まる渾沌であった。この渾沌は体験するよりほか仕方のないもの、人間の合理的思惟では捉えることのできないものだった。

道とは、矛盾の同時存在であり、あらゆる対立が対立のまま一つである異質的連続だったが・・・認識は常に一種の知的処理、知の殺戮行為を媒介として成立する。生きたる渾沌は七竅をうがたれることに始めて認識の対象になりうるのである。

荘子は認識の統一性と体系性よりも、生きたる渾沌の非合理と無秩序を愛する。荘子にとって大切なのは安らかな生であって、知的統一や認識や理論体系でもなく、自己と世界の因果的統一を思弁することではない。生命なき秩序よりも生命ある無秩序を愛するのである。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
ー参考ー
熊野宏昭著 星和書店 「マインドフルネスそしてACTへ」日本評論社「新世代の認知行動療法」ちくま新書「ストレスに負けない生活」サンガ「実践!マインドフルネス」等より部分的に要約抜粋引用。
マインドフルネスとは・・・

・今の瞬間の現実に常に気づきを向け、その現実をあるがままに知覚し、それに対する思考や感情には囚われないでいる心の持ち方、存在の有様。

・対象と「観察する自分」との間に、さらに解釈や評価をする思考、イメージ、感情などが入り込んできて、それらを現実や自分と取り違えることで、あるがままに知覚できなくなり、「妄想」の世界が広がってしまう。

・思考は「無知(心の基本的状態)」に由来する。何を考えても、それはバイアスを伴う。
・ 思考が無くなったとき智慧が働き始める。 つまり、思考は自分ではない。

・対象のあるがままの体験。
・感受で止めて、外(外的事物にまつわる勝手な思い込みの生成)にも、内(勝手な自己イメージの生成)にも広げない。

・バーチャルな世界を作り上げる言葉の力は、将に諸刃の剣で、それが自分自身に向かった場合には、ありもしないネガティブな評価を現実として感じることになる。

・「見るものは見ただけで、聞くものは聞いただけで、感じたものは感じただけ、考えたことは考えただけで とどまりなさい。そのときあなたは、外にはいない。内にもいない。外にも、内にもいないあなたはどちらにもいない。」

「主(ぬし)なくて、見聞覚知する人を、いき(生き)仏とはこれをいふなり」至道無難禅師

ーーーーーーーーーーーー
ー参考ー
華厳僧侶 元暁の説話・・
諸説あるが、だいたいの大意を概略要約、下記。

元暁は入唐求法の旅の途中、ある夜、雨に降られ、洞窟で野宿した。その晩は何も知らず気持ちよくぐっすり寝たのだが、朝起きてみるとそこは風葬の墓場であり無数の骸骨や髑髏が転がっていた。
昨夜は、喉が渇いたので、真っ暗なため、それとは知らず手を延ばしておいしく水を飲んだが、翌朝起きて見ると髑髏に入っていた水であったことがわかり、急に吐き気を催したという。
そこが墓場だと知った夜は、気味が悪く、夢の中で鬼や魑魅魍魎が現れうなされて安眠をさまたげた。
その時、いっさいのものはおのれの心より生ずる、「心の外に師をもとむべからず」三界唯心と豁然大悟した。

ーーーーーーーーーー
ー参考ー
柳田聖山訳 「達摩二入四行論」より要約抜粋引用。


「すべて妄念が勝手に作るなら、いったい妄念が勝手に作るとはどういうことですか。」

「例えば君の屋敷の中に大きな岩石が庭先にあるとせよ。はじめはたとえ君がその石の上に寝転ろがろうと、座ろうと、驚くことも怖れることもない。ところが、君があるとき、にわかに発心して、仏像を作ろうと思って、人をたのんで仏の形像を描き出してもらうと、君の心はそれを仏だと考え、すぐに罪を怖れて、あえてその上に座ろうとはせぬ。それは昔の岩石にほかならぬのに、君の心がそれを仏だと思うためである。すべて君の意識という筆先が、それを画いて作りだし、みずから、あわて、みずから怖れているのであって、実は岩石の中に罪だとか福だとかがあるわけではない。君自身の心が、自分でそれを作るだけだ。すべて、君自身の意識という筆が勝手に妄念、分別してそれを作るにすぎぬ。」

「なにも思わぬは、仏の稽古なり」 至道無難禅師
ーーーーーーーーーーーーーーー
維摩の一黙、雷の如し 維摩経「入不二法門品」
随処に主と作れば、立処皆な真なり(臨済録)
ーーーーーーーーーー
ー参考ー
禅・頓悟要門から大珠慧海禅師とある修行僧との問答.
「飢来喫飯困来即眠=飢え来たらば飯を喫し、困じ来たらば即ち眠る。」

修行僧「和尚様は道を修行するに際し、なにか工夫をされているのですか?」
慧海禅師「工夫している」
修行僧「それは、どういう手だて、工夫なのでしょうか?」
慧海禅師「腹が減ったら飯を食い、疲れたら眠るのだ。」
修行僧「それなら誰でもそうではないのでしょうか。他の人と何も変わらず同じではないのでしょうか?」
慧海禅師「同じではない。違うのだ。」
修行僧「どこがどう違うのですか?」
慧海禅師「他の人は飯を食う時、心から食わず、いろいろ他の事を思って片手間に飯を食う。他の人は眠る時にも、心から眠らずあれこれ考えて眠る。ここが違うのだ。」

ーーーーーーーーーーー
ー参考ー
ある人が自分の手で竜や虎の絵を画いて、自分でそれを眺めて、かえって自分で恐れおののくようなものだ。迷える人もこれと同じであって、自分の意識という筆で分別して刀の山や剣の林の姿を描き、かえって自分の心で恐怖しているにすぎぬ。(柳田聖山訳「達摩二入四行論」より)

「なにも思わぬは、仏の稽古なり」 至道無難禅師
ーーーーーーーーーーー
ー参考ー
大事なことは、あらゆるとき、あらゆる機会に、日常の行住坐臥のひとつひとつのうちに、ひたすら無心を学び、ものを分別することなく、ものに寄りかかることもなく、ものに執着することなく、日ねもす、のほほんとして成行きにまかせ、まるで阿呆のように生きてゆくことだ。(黄檗伝心法要 宛陵録 入矢義高訳より)
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
「主(ぬし)なくて、見聞覚知する人を、いき(生き)仏とはこれをいふなり」至道無難禅師
『生きながら死人となりてなり果てて思いのままに するわざぞよき』 至道無難禅師

維摩の一黙、雷の如し 維摩経「入不二法門品」

隠者は私にかく語った。





善の研究 (岩波文庫)
西田 幾多郎
岩波書店
1979-10

人間とは何か 実存的精神療法
V・E・フランクル
春秋社
2011-05-06

“自分”のありか
山田 邦男
世界思想社
2006-09











呼吸による感情のコントロールー効果的な祈りー白隠禅師 軟酥の法

呼吸による感情のコントロール
ー効果的な祈りー白隠禅師 軟酥の法

感情のコントロールに関しては下記の5種類とその背景となる理論と日々の仕事(修行の場=道場)と密接に関連して日常の簡単な実践方法を試行錯誤(事上磨練)中ではある。
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今回は下記,慮撞柬,砲茲覺蕎陲離灰鵐肇蹇璽襪亡慙△靴董叱果的な祈りー白隠禅師 軟酥の法






仝撞柬,脳霪闇召梁臟省娜鏃呂隣桃体、海馬等、視床下部を制御コントロール(自律神経反応やホルモン分泌の調整)し感情をコントロールする方法。

⊂霪阿ら感情への自己認知モニターシステムを統御し感情をコントロールする方法。

6控舛涼寮(大脳前頭前野)から扁桃体等を鎮め(マインドフルネスによるラベリング)認知バイアスを修正し感情をコントロールする方法。

こで賄のエピソード記憶を塗り替え感情をコントロールする方法。

行動(外相)を変えて感情(内相)をコントロール方法等。

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今回は,慮撞柬,脳霪闇召隣桃体、視床下部を制御コントロール(自律神経反応やホルモン分泌の調整)し感情をコントロールする方法に関連してー効果的な祈りー白隠禅師 軟酥の法ー
 投稿済の効果的な祈りの方法(全般的祈り)にかなり近い。


白隠禅師の「夜船閑話」「遠羅手釡」に軟酥の(なんそ=バターのようなもの)法による養生秘法がある。
下記 古文の訳は帯津三敬病院長 帯津良一医学博士と直木公彦訳を適当に変更引用。

臍下丹田呼吸法(吐く息を長く意識する、吐ききる)と同時に、息を吸う時にまず色も香りも清浄な仙人の秘薬を種々練り混ぜた光り輝く軟酥状の卵大のものを頭のてっぺんに置いたと想像する。

息を吐くときにその絶妙な香り風味が頭蓋からしだいに体温で溶けはじめ、たらりたらりと浸み込みだんだん浸みわたって下ってきて両肩から左右の腕、両乳、胸、肺、肝臓、腸、胃、そして肛門へとあらゆる内臓諸器官をひたしてうるおし流れ背骨、肋骨、尾てい骨をも潤すと観想するのである。

秘薬がとけてしみわたるようにゆるりゆるりと下へ下へ流れくだる。息を吐ききるとき胸の中につかえた五臓六腑の気の滞りや、苦悩、煩悩、しこり、不安や心配、恐れ、取り越し苦労等も一緒に溶けて足の裏から体外へ流れ出るのである。

そうしてこの流れ出た霊妙な秘薬は足元より出て桶(風呂)に秘薬が満々と満ちて腰までおよび下半身、臍の下まであたため蒸すのである。三界は唯心の所現であり身体は妙香をかぎ身体は妙風につつまれ、調和がよみがえり精気が充満してくるのである・・・このとき積年の苦悩、煩悶、神経症は融解消失し胃腸内臓器官を調和させ内分泌機能も旺盛になるのである・・・

ーーーーーーーーーーーーーーーーー
「大安般守意経」に釈尊の呼吸法がある。安般の「安」とは入息、「般」とは出息という意味。「守意」とは意識する、自覚する、集中するという意味。
「仏は座して安般守意を行ずること90日なりき」(大安般守意経)
「弟子たちよ、私はこの3か月間、出息を念じて多く得るところがあった」(阿含経)
ーーーーーーーーーーーーーーーーーー
『荘子』刻意篇に神仙の吐故納新、吹咆呼吸という故き気息を吐き新しき気息を納れる導引術(養生)の記載がある。また『荘子』大宗師篇にも、世俗の人間はせわしない息遣いを喉であえいでいるが、真人はしっかと大地を踏んで立つ踵の底から生命全体を呼吸する等に近い趣旨の記載がある。
---------------------------------------------------------
上記△両霪阿ら感情への自己認知モニターシステムを統御し感情をコントロールする方法と関連して気が付いてみると、ここ半年、あまりに情動感情を引き込むように揺さぶる(共鳴)例えばマーラーのようなクラシック音楽を自然と聞かなくなっていた。なお、五島雄一郎著(東海大学名誉教授、医学博士)「大作曲家たちの精神病理のカルテ 死因を辿る」は非常に興味深い。

最近、全くの初心者だが、急に吹奏楽、スイングジャズ等、なぜか聞くようになってきたようだ。。

上記⊂霪阿ら感情への自己認知モニターシステムを統御し感情をコントロールする方法と関連して宗教儀式としての音楽、音楽療法、心の共鳴共振とも関連して、ちょっと考えている。どんな状況の時に、どのような音楽を聞くかということは、その時々の心の状態により、どつぼからの脱出という側面と、逆にどつぼに加速度的に、はまりこんでいくリスクもある。音楽による魂の目覚め。再生の儀式としての音楽芸術 「涙」の円環、往還運動構造

中村天風|安定打坐法|瞑想|一音傾聴法や、音楽療法としての中国古典音楽の哲学|道家の咸池楽(かんちがく)と儒家の楽記(がくき)|興味深いのでご参照ください。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
投稿記事、効果的な祈りの方法(全般的な祈り)と関連して盤珪禅師の「不生」について考えている。いずれ・・・




白隠禅師―健康法と逸話
直木 公彦
日本教文社
1975-01-01















効果的な祈りの方法 阿頼耶識 遺伝子スイッチオン・オフ、脳認知バイアスの観点から。

前回の効果的な祈りの方法に関して、阿頼耶識(仏教唯識の最深層の無意識)、遺伝子スイッチオン・オフ、脳認知バイアスの観点から。

”汁悄顕在意識から種子(=しゅうじ)→最深層無意識の阿頼耶識へ貯蔵。(現行薫種子)。

新たに経験したことが(最深層の無意識の阿頼耶識によって、すでにバイアスがかかって形成されてしまっている)意識、末那識(自我執着心)に染め上げられながら新たに薫習(=くんじゅう)種子(しゅうじ)として形成され阿頼耶識という蔵(くら)に貯蔵される。現行が阿頼耶識に新たに種子を薫じ蓄えていく(現行薫種子)。

∈膿質慳軌媼韻琉ね衞躰韻ら種子(=しゅうじ)→表層、顕在意識へ発芽現勢化。(種子生現行)。

また逆に、この阿頼耶識に蓄えられた種子がいずれ縁(ある意味で環境、縁起、心の持ち方、日々の行い、言葉、祈り等)によって発芽し(すでにバイアスがかかって形成されてしまっている)末那識、意識を経由して、発現、現勢化、顕現していく。阿頼耶識という蔵に既に蓄えられた種子(しゅうじ)が現行(現象として現れる)を生む。(種子生現行)

´△倭佇向の往還、循環的運動。

効果的な 「祈り」は最深層心理ともいえる阿頼耶識という蔵(くら、一切種子識)を掘り起し活性化させ浄化させるひとつの方法であろう。(なお、ここでいう「祈り」は特定の宗教とは特には関係はない。)
前回の効果的な祈りの方法

深層意識の阿頼耶識という蔵(くら、一切種子識)に溜めこんだ種子を、あたかも濁った水のたまった桶にきれいな水を一滴一滴、表層の顕在意識から注ぐように、過去に蓄積されてしまったなかなか気づかない(脳認知)バイアスを浄化していく。

これはまた詳細するが、感情(情動)、特に恐怖、不快、敵対、怒り、逃避、自己生存防衛等のせっぱつまった感情(情動)と、それらのふとわきあがる記憶の幾度もの想起、反芻を起因として根強いバイアスが形成されていることが多い。恐怖の記憶を再統合する脳科学的プロセスも研究されているが、抑圧感情にまつわる記憶はそれを思い出す時、脳の回路は再活性化し過去の記憶を変化、上書き(塗り替える)することができる。

「祈り」はある意味で「修行」ともいえるだろう。

ここで、阿頼耶識に蓄えれらた種子は経験したことが印象刻印され蓄えられる(新燻種子)と記したが、実は個々人が生まれる前から、太古の生物の起源から、また宇宙の始まりからの経験の集合的な蔵(本有種子)とも考えられる。

また下記のこともあわせて考えると種子というのは非常に遺伝子の概念に近いものかもしれない。

最近では遺伝子そのものが変異するのではなく,DNAの配列変化によらない遺伝子発現を制御、伝達するシステムをエピジェネティックスというが、後天的な経験や環境などが遺伝子の配列自体には影響せず発現させたり沈黙させたり、その振る舞いを変化させる様々な分子メカニズムが明らかになってきている。

効果的な「祈り」は遺伝子のスイッチ(オン、オフ)に深く関係していると推定できる。

以上「ふむふむ、ほんまかいな、眉唾ちゃうかいな。」とせせら笑っていても、何にも、なーんにも変わらない。やってみなければ、なーんにも変わらない。

まず、ためしに今日1日だけ、眉間にシワを寄せずに、またシワをよせはじめていることに気づいたら、息をゆっくりはきながら、指でなでて広げるようにする。「なんとばかばかしい、あほかいな。」と思うかもしれないが、祈りの一環としてやってみることだ。この裏付けとなるのは、W、ジェイムズ等の宗教心理学「笑うから楽しい。」また禅や森田正馬博士の「行動を変えれば、思考と感情も変化する。」「外相整いて内相自ずから熟する」等を理論的な背景としているが、また詳解させていただく。(なお、鏡で自分自身の笑ってる顔(つくり笑いでもよい)をまじまじと見れば、効果倍増だが、気がくるったと思われるので注意。)

たとえ効果が感じられなかったとしても何も損はしない。しかし少しでも変化が感じられれば、試行錯誤、実験しつつ、より効果のある方法を、やり続ければよい。
前回の効果的な祈りの方法






ザ・シークレット
ロンダ・バーン
角川書店
2007-10-29

眠りながら成功する―自己暗示と潜在意識の活用
ジョセフ・マーフィー
産能大出版部
1989-11-01

奇蹟の時は今
J.E.アディントン
日本教文社
1978-05


生命の実相―頭注版 (第8巻)
谷口 雅春
日本教文社
1962-12


運命を拓く (講談社文庫)
中村 天風
講談社
1998-06-12


華厳の思想 (講談社学術文庫)
鎌田 茂雄
講談社
1988-05-02




白隠禅師―健康法と逸話
直木 公彦
日本教文社
1975-01-01








脳科学は人格を変えられるか? (文春文庫)
エレーヌ フォックス
文藝春秋
2017-08-04
















効果的な祈りの方法

効果的な祈りの方法

ー準備ー
・起床時、就寝前、瞑想、マインドフルネス、坐禅等により(形式は問わず、自分流でよい。うとうと寝ながらでもよい。)できるだけ狭義の知性脳である大脳前頭葉等の活動等を鎮められる環境に身を置く。

・まず臍下丹田、腹式呼吸または深呼吸等をしながら、情動脳等の大脳辺縁系の扁桃体、海馬等、視床下部等(自律神経反応やホルモン分泌の調整)無意識の領域を制御調整し、感情をコントロールしつつ、まず下記,料竿姪な祈りからはじめて、次に△慮鎚未竜Г蠅砲呂い蝓↓最後に再び、個別の祈りを全般的な祈りに融合させていく。

ー〜竿姪な祈りー

(名前は何と名づけてもいいのだが、例えば)神、仏性、宇宙の理、宇宙の波動、道、真人、実相、真実在、潜在意識、如来、華厳、大日如来、遺伝子、量子宇宙、脳科学等、自分をはるかに超えた不可思議な力が、すでに、もともと自分に満ち溢れている(た)ことを言葉で唱える(内語含む)。と共に同時にその力との融合感、一体感をイメージし感じる。深い深呼吸とともに、そういう力が全身に流れ入りよみがえってくるのを感情をともなわせ想像する。自己暗示的でもよい。自分は騙されたり、恐れたり害されたり傷つくようなちっぽけな存在ではなかったことを確認し安心し、深い満足感とともに感謝する。

ー個別の祈りー

言葉は非常に重要だが、狭義の知性脳、意識の表層だけからの観念や言葉だけではなく、思い願うことは、すでに成就しているというイメージ、映像等(映画をみるように)、もともとそれはそこにあったという感情をともなわせ、喜び(情動)うれしさがあふれるまですること。

情動脳等の大脳辺縁系、扁桃体、海馬等等、心の奥底の深層、潜在意識、無意識の領域に深く分け入り、はたらきかける。自分が今まで一番うれしかったことを思い出す。(感情をともなったエピソード記憶の塗り替えをも含む。)メモなどに単語でおめでとう!ありがとう!すべて解決済、よかったよかった、うれしい!ありがとうございます!!!等と書きなぐる。よっしゃ!!やったー!喜びとうれしさがこみあげて、ドキドキしたり、興奮で顔がほてってきたり、顔がほころび笑顔になってくるまで詳細に味わい感謝する。さらには、結果がすでに成就したときの映像を鮮明に思い浮かべ想像上の会話や寸劇(役者)を演じるのである。 ´△竜Г蠅任脇辰亡蕎陲重要なキーワードとなる。

なお、現象面での否定的、消極的、悲観的な単語、言葉(内語、つぶやき等)を一切使わない、書かない。言葉(内語、つぶやき含む)は具現化するということに気をつけること。懇願とか泣きつくような言葉を使って祈りはしない。現象面での不足、不満、困難、逆境、恐れ、怒り、悲しみ、苦しみ、特に恐怖の感情、心配や不安、取り越し苦労等を言葉で何度も繰り返し印象刻印しては逆効果になる。

しかめっ面(渋面)をしないで、まず笑顔をつくること。笑うから楽しい、うれしいのである。

他人に対する不足や愚痴、また他人のことはどうでもよい、自分が自分が、自分だけがという利己主義的な考えや他人の悪口や非難、嫉妬、恨み、怒り等、また△,稜板垢醗曚覆觧は、祈りはかえって逆効果となりがちである。

ー8鎚未竜Г蠅帆竿姪な祈りの融合ー

未来形はつかわない。すでに、それはかなえられたというより、もともと、すでに成就して、そこにあったということを再確認、確信し、△慮鎚未竜Г蠅鬮,料竿姪な祈りに全部託して、信頼して全部ゆだね、まかせてしまい、祈りはすでにかなえられた、かなえられているという確信と断言、満足感と安心感、そして感謝をもって祈りを完了する。


またこの効果的な祈りに対して「ほんまかいな。ほんまでっかいな。」という疑いがおきた時は、これは本来の宗教の神髄であるだけでなく、最先端の脳科学、量子の世界、唯識深層心理学、心身医学的にも実証、担保されつつあるものであり、信念することである。

(なお、ここでいう「祈り」は、特定の宗教とは特には関係ありません。)

仙人






ザ・シークレット
ロンダ・バーン
角川書店
2007-10-29

眠りながら成功する―自己暗示と潜在意識の活用
ジョセフ・マーフィー
産能大出版部
1989-11-01

奇蹟の時は今
J.E.アディントン
日本教文社
1978-05


生命の実相―頭注版 (第8巻)
谷口 雅春
日本教文社
1962-12


運命を拓く (講談社文庫)
中村 天風
講談社
1998-06-12


華厳の思想 (講談社学術文庫)
鎌田 茂雄
講談社
1988-05-02




白隠禅師―健康法と逸話
直木 公彦
日本教文社
1975-01-01








脳科学は人格を変えられるか? (文春文庫)
エレーヌ フォックス
文藝春秋
2017-08-04







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ダイヤモンド社より10月末新刊『集団感染マーケティング』集団心理や組織の盲点をつきどうやってお金をかけずに売上を5倍、10倍へ爆発的に増やしてきたのか。
一龍「一流への道」でも紹介

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1通のちょっと変わった手紙で、新規客が殺到する! 集団感染マーケティング [単行本(ソフトカバー)]


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ダイヤモンド オンライン特別レポート・インタビュー記事 「集団感染マーケティング」の正体とは? 

ダイヤモンド ビジネスタレント セミナー講師
プロフイール
高等戦術研究室 杉村晶孝
Institute for the Advanced


集団感染マーケティングコンサルティング、個別企業 営業実務支援・セミナー研修、短期海外駐在等

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略歴

●●●●大阪府立天王寺高校卒、伝説の近畿予備校を経て、京都大学法学部(法哲学)卒。幼少期から立志伝中のど根性商人の祖父に商人魂を鍛えられる。総合商社、丸紅にて国内営業,三国貿易,国際プロジェクト金融等(数年のアーサーヤング米国シカゴ本部派遣留学含む)ダントツの営業実績を残す。
●●●その後、大手金融機関に転職。国際証券金融、投資銀行、マーチャントバンク、投信企画開発等、米国、香港、台湾等海外で長年勤務。米国流の国際的でスマートなビジネスに、ど根性大阪商法と華僑流商売を融合。
●●香港ではユダヤ商人、華僑をも震撼させる国際証券ビジネスで売上実績1500億超。さらに中国や台湾大企業向、業界初の「仕組み」ビジネスで数百億の記録破りの実績。業界の話題を呼ぶ。
●●その後、ダイレクトマーケティング、コミュニティ口コミビジネスをゲリラマーケティングで融合した「集団感染マーケティング」で個人向金融商品900億円超の前代未聞の販売実績を達成。マスコミ等の注目をあびる。カント会所属。
●●●●大企業、外資から中小企業、自営、個人商店の個別の営業支援、コンサル、研修セミナー、短期海外駐在等実施中

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著書

『集団感染マーケティング』(ダイヤモンド社)『やる気になったあなたが成功するために本当に必要なこと・仙人の教えとは?』(明日香出版社)『お役所系集団に口コミで売り込む方法―なぜ消防署で住宅ローンがバカ売れするのか?』(ダイヤモンド社)『客が客を呼ぶ「集団感染」のスゴイ仕掛け』(ぱる出版)等がある。
メッセージ
杉村晶孝 著書紹介
●●杉村晶孝著 明日香出版社『やる気になったあなたが成功するために本当に必要なこと』あなたにこっそり巣くった、こころの集団感染の「ワナ」をぶっこわせ 2008/12

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やる気になったあなたが成功するために本当に必要なこと (アスカビジネス) [単行本(ソフトカバー)]



本のソムリエ 本ナビ 一日一冊読書普及研究所掲載★92点

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「わてかってアホやけど、あんたかってアホやがな。人にどう見られようと、何と思われようと、どうでもええがな。なんでもええがな。アホに徹したら、なんでもできまんがな。ダメもとやがな」
杉村晶孝 著書紹介
●●●杉村晶孝著 ダイヤモンド社『なぜ消防署で住宅ローンがバカ売れするのか―お役所系集団に口コミで売り込む方法』2007/10/18・・・ce37ea19.JPG



なぜ消防署で住宅ローンがバカ売れするのか?―お役所系集団に口コミで売り込む方法 [単行本]


●●●コミュニティビジネス、口コミ伝染ビジネスをダイレクトマーケティングに融合した究極のゲリラマーケティング
ダイヤモンド オンライン記事

土井英司、厳選ビジネス書評ビジネスブックマラソンで「神田昌典さん以来の衝撃的マーケティング書」と絶賛 

本のソムリエ 本ナビ 一日一冊読書感想集でも紹介★94点

ダイヤモンドオンライン記事 ビジネス書ベストセラー『なぜ消防署で住宅ローンがバカ売れするのか?』
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杉村晶孝 著書紹介
●プロフェッサー杉村&高等戦術研究室著 ぱる出版『客が客を呼ぶ集団感染のスゴイ仕掛け』〜ゼロから900億つくった私の方法論。

●大阪ど根性商人出身でユダヤ商人、華僑との国際ビジネス経験を基に「群れに投網を投げ一網打尽」にする集団感染マーケティングの全貌。



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「わてかってアホやけど、あんたかってアホやがな。人にどう見られようと、何と思われようと、どうでもええがな。なんでもええがな。アホに徹したら、なんでもできまんがな。ダメもとやがな」

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