1日1章 いのちのパンを!

北見神愛キリスト教会の聖書日課「1日1章」に従って、 祈りつつ、個人的に感じたことなどを分かち合いとして記しています。 ディボーションとして綴っているもので、聖書研究的な講解ではありません。 豪華なフルコースや高級レストランのようなものとしてではなく、 日常の家庭料理の一品的なものとして、共に聖書を味わい養われればと願っています。

2020年9月 聖書日課

2020年9月 聖書日課
2020年1年間の通読表は、コチラ
 

イザヤ書11章「主を知る知識」

11:9 「水が海をおおっているように、主を知る知識が地に満ちるからである」

何があっても、どんな時代でも、
海から水が無くなってしまうことはありません。

主よ、あなたを深く知ることを切に求め、
主の素晴らしさに感動し、心動かされ、
ますます主を愛する者とならせたまえ。

そして私の周囲にも、そして全地に、
主を知ることの喜びが満ち溢れますように。 

【参照】
2012年6月4日 11:3「楽しみとし
2016年10月26日 11:2「主の霊がとどまる
 

イザヤ書10章「自分を誇る」

10:15 「おのは、それを用いて切る者にむかって、自分を誇ることができようか。のこぎりは、それを動かす者にむかって、みずから高ぶることができようか。これはあたかも、むちが自分をあげる者を動かし、つえが木でない者をあげようとするのに等しい」

こういう御言葉を読むと、本当にそうだなあと、
主に対して申し訳なく思います。

私が神にでもなったかのように、
神様ご自身を動かそうとする恐ろしさ。

十字架を背負われた主イエスの御足の跡を、
一歩一歩、従い行く者とならせてください。
 
【参照】 
2012年6月2日 10:13「誇らしげな高ぶり
2016年10月25日 10:20−21「真心をもって
 

イザヤ書9章「異邦人のガリラヤ」

9:1 「しかし、苦しみにあった地にも、やみがなくなる。さきにはゼブルンの地、ナフタリの地にはずかしめを与えられたが、後には海に至る道、ヨルダンの向こうの地、異邦人のガリラヤに光栄を与えられる」

異邦人のガリラヤ。なまった言葉を話すゆえに蔑まれ、
異教的な習慣もある、そこは呪われた土地。

しかしそんなガリラヤのナザレで、
主イエスは育ち、宣教を開始されました。

復活後の主イエスは、そのガリラヤの地に行くように、
弟子たちを促し、そこで改めて弟子たちに出会われました。

主よ、闇と思える状況でも、人々からどう思われても、
呪いのようなものを引きずっているように思えても、
そんな異邦人の地のガリラヤで主イエスは福音を宣言されました。

その宣言が、今に至るまで、私のところにまで響き渡り、
そこに栄光を現してくださることを感謝します。

【参照】
2012年6月1日 9:7「万軍の主の熱心
2016年10月24日 9:6「われわれのために
 

イザヤ書8章「み顔をかくしておられる」

8:17 「主はいま、ヤコブの家に、み顔をかくしておられるとはいえ、わたしはその主を待ち、主を望みまつる」

主が御顔を隠しておられる、
そういうところを信仰者は通るものです。

そしてそういうところを通った時に、
それでもなお主を待ち望むことを選び取る時、
その信仰は一回り大きくなるのでしょう。

主よ、あなたの御顔が見えないと思うその時こそ、
待ち望むという信仰の本質を養わせてください。 

【参照】
2012年5月31日 8:17「主を望み待つ
2016年10月23日 8:10「共におられる
 

イザヤ書7章「動揺した」

7:2 時に「スリヤがエフライムと同盟している」とダビデの家に告げる者があったので、王の心と民の心とは風に動かされる林の木のように動揺した。

真の神から目をそらし、真の神に信頼をおけない時、
王と言えども、心は揺れ動くものです。
 
私の揺れ動く心は、真の神を見つめているようで、
目の前の現象のみに目をとめているからでしょう。

主よ、揺れ動くことのない平安、
復活の主が与えてくださる平安で満たしてください。
 
【参照】 
2012年5月30日 7:12「求めません
2016年10月22日 7:4「静かにし
 

イザヤ書6章「聖なるかな」

6:3 互に呼びかわして言った。「聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな、万軍の主、その栄光は全地に満つ」

神の聖さがあまりにも聖いので、
3度もその言葉を重ねなければならないほどです。

聖なる神を信じ、私を聖なる者とする神の愛に生かされ、
神の栄光が満ちていくことを望みつつ歩ませてください。

【参照】
2012年5月29日 6:8「つかわされる
2016年10月21日 6:5「わざわいなるかな

イザヤ書5章「善を呼んで悪といい」

5:20−21 「わざわいなるかな、彼らは悪を呼んで善といい、善を呼んで悪といい、暗きを光とし、光を暗しとし、苦きを甘しとし、甘きを苦しとする。わざわいなるかな、彼らはおのれを見て、賢しとし、みずから顧みて、さとしとする」

アダムとエバの罪がここにもあります。
自分が善悪を知る木の実をもぎ取り、
自分こそが善悪の判断の基準となってしまいます。

主よ、私が神になってしまわないないように。
私が悪にしか見えないこと、苦さしか感じないところ、
すなわち主の十字架のようなところに、救いの泉が湧き出る、
そのことを忘れないで歩ませてください。

【参照】
2012年5月28日 5:20−21「わざわいなるかな
2016年10月20日 5:21「わざわい
 

イザヤ書4章「生命の書」

4:3−4 「そして主が審判の霊と滅亡の霊とをもって、シオンの娘らの汚れを洗い、エルサレムの血をその中から除き去られるとき、シオンに残る者、エルサレムにとどまる者、すべてエルサレムにあって、生命の書にしるされた者は聖なる者ととなえられる」

日本代表、何かの選考会、合格発表などで、
自分の名前が記されている、呼ばれる時に、
大きな喜びが湧き上がります。

自分の名前がそこにある、いのちの書にある、
それは何という幸いなことでしょうか。

天に名が記されていることこそを喜び、
その喜びの中で今日を歩ませてください。 

【参照】 
2012年5月26日 4:3「残された者」 
2016年10月19日 4:2「主の枝は
 

イザヤ書3章「悪臭となり」

3:24 「芳香はかわって、悪臭となり、帯はかわって、なわとなり、よく編んだ髪はかわって、かぶろとなり、はなやかな衣はかわって、荒布の衣となり、美しい顔はかわって、焼き印された顔となる」

神を神とせず、高ぶり、罪に生きる時、
悪臭がただよい、罪の奴隷になっていきます。

自分が美しいと思い、慕い求め、誇っていたものが、
そうではなくなり、虚しくなっていきます。

主よ、あなたこそ聖なるお方です。
あなをこそ誇りとして、歩ませてください。
 
【参照】 
2012年5月25日 3:9「顔つき
2016年10月18日 3:5「互いに相しえたげ
 
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