1日1章 いのちのパンを!

北見神愛キリスト教会の聖書日課「1日1章」に従って、 日曜日から土曜日まで、牧師のディボーションを短く紹介します。

2019年8月 聖書箇所

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ネヘミヤ6章「トビヤの善行」

6:19 「彼らはまたトビヤの善行をわたしの前に語り、またわたしの言葉を彼に伝えた。トビヤはたびたび手紙を送って、わたしを恐れさせようとした」

サンバラテ、トビヤ、ガシムと聞けば、
いかにも悪そうな名前のように感じます。

確かにネヘミヤ彼らから悪質な妨害を受けました。
中でもトビヤのやり方は、悪知恵の伴うものでした。

政略結婚のようにユダヤと親戚関係になっていました。
さらにトビヤにももちろん良いところがあるので、
結託する人々はネヘミヤにトビヤの善行を伝えました。

トビヤの善行を聞かさられると、「良い人かもしれない」と
私などは心を動かされるものですが、
ネヘミヤは主の御心に堅く立つことができました。

主よ、判断を間違えてしまうことがないように、
私にも聖霊による知恵と洞察力を与えてください。

【参照】
2011年9月3日 6:9「今も生きておられる神
2015年9月5日 6:4−5「五度目に」 
 

ネヘミヤ5章「みずから考えたすえ」

5:7 わたしはみずから考えたすえ、尊い人々およびつかさたちを責めて言った、「あなたがたはめいめいその兄弟から利息をとっている」。そしてわたしは彼らの事について大会を開き、

建設的な批判をする前に、ネヘミヤは「みずから考えたすえ」とあり、
熟考したことが分かります。
新改訳で「十分考えたうえで」と訳されているとおりです。
 
売り言葉に買い言葉ということではありません。
十分に考えて考えた上での建設的な批判をしました。

単なる批判ではなく、事実、真実、解決策を示すという、
建設的な批判をネヘミヤは行いました。
その結果、人々はそれを「アーメン」と受け入れました(13)。 

主よ、よくよく考えもせず、また主を畏れることなく、
感情に任せて物事を進めていくことがないように、
聖霊によって私を守ってください。

【参照】
2011年9月2日 5:14「権利を捧げる」 
2015年9月4日 5:19「覚えて
 

ネヘミヤ4章「われわれに攻め上るでしょう」

4:12 また彼らの近くに住んでいるユダヤ人たちはきて、十度もわれわれに言った、「彼らはその住んでいるすべての所からわれわれに攻め上るでしょう」と。

日本語訳が分かれている12節です。
上記の口語訳は、下記の新共同訳のような意味でしょう。

「あなたたちが戻ると、あらゆるところから
私たちは攻められます」と訳され、
戻ってきて欲しくないということでしょう。

新改訳や2017年訳は「私たちのところに戻って来てほしい」、
と訳されていて、戻って来ないと自分たちが攻められることを、
訴えているのでしょう。
 
戻って来て欲しいのか、そうでないのか、訳としては反対ですが、
どちらにしても、城壁再建に携わる者たちのために、
自分たちが攻められることを嫌がっていることは確かです。

信仰に立とうとする時、誰かに迷惑をかけてしまうようなことが、
無いわけではありません。

しかし信仰に立たないでいる時、結局のところ、
もっと大きな迷惑を自分自身と周囲に及ぼすことを、
忘れずにいたいのです。

他者のことを考えないという愛のない向こう見ずな信仰は、
主の喜ばれることではありません。 

しかし神を第一としない信仰は、結局のところ、
愛も希望も無くなってしまうことを覚えさせてください。

14節にあるように、主を畏れることは、結局のところ、
周囲にいる人々を大切にすることと矛盾しないことを信じます。

【参照】
2011年9月1日 4:14「主を畏れる
2015年9月3日9月3日 4:9「備えた」 
 

ネヘミヤ3章「自分の家と向かい合っている所」

3:10 「その次にハルマフの子エダヤが自分の家と向かい合っている所を修理し、その次にはハシャブニヤの子ハットシが修理した」

いよいよ3章から大祭司を中心に城壁の再建がなされます。
その中で「自分の家と向かい合っている所を修理し」という言葉が、
何度か出てきます。

自分のできる範囲から、また自分の最も近しい人々を無視しないで、
そこでこそまず神のためになすべきことをするということでしょう。

マザー・テレサの話しに感動した女学生が、
「私もカルカッタに行って、その働きを手伝います」と、
純粋に心を動かされてマザーに告げたそうです。

その時にマザー・テレサは優しく微笑みながら、
「遠くのカルカッタではなく、あなたの近くのカルカッタで、
 愛の業を行ってください」というようなことを話したそうです。

近視眼的な信仰に陥ることなく信仰の視野を広げることと同時に、
主が備えてくださった隣人への愛の業に生かしてください。
またその両者は1つであることを覚えさせてください。

【参照】
2011年8月31日 3:5「協力する」  
2015年9月2日 3:14「糞の門」 
 

ネヘミヤ2章「わたしの神が」

2:8 「また王の山林を管理するアサフに与える手紙をも賜わり、神殿に属する城の門を建てるため、また町の石がき、およびわたしの住むべき家を建てるために用いる材木をわたしに与えるようにしてください」。わたしの神がよくわたしを助けられたので、王はわたしの願いを許された。

城壁再建のために材木を与える許可をしたのは王ですが、
ネヘミヤは「神がよく私を助けられた」ことを認めています。

新改訳では「私の神の恵みの御手が私の上にあったので」、
新共同訳では「神の御手が私を守ってくださったので」と、
全ての出来事の背後に主の御手がると認めています。

主よ、今日の1日も主の御手の中にあることを覚えます。
全ては主の御手の中で変えられていくことを信じます。

【参照】
2011年8月30日 2:20「奮い立つ
2015年9月1日 2:4−5「天の神に祈って」 
 

ネヘミヤ1章「わたしも、わたしの父の家も」

1:6 「どうぞ耳を傾け、目を開いてしもべの祈を聞いてください。わたしは今、あなたのしもべであるイスラエルの子孫のために、昼も夜もみ前に祈り、われわれイスラエルの子孫が、あなたに対して犯した罪をざんげいたします。まことにわたしも、わたしの父の家も罪を犯しました」

同胞のための祈りを、ネヘミヤが捧げています。
それはモーセにも、また多くの預言者にも共通することでした。

同胞の罪を自分の罪とし、また自分の痛みとし、
心から主の前に祈っています。

私もこの国に生まれました。
同胞のために祈り続けていきます。
 
【参照】 
2011年8月29日 1:4「神を思う
2015年8月31日 1:11「あなたのしもべらの祈り」 

コロサイ4章「朗読してほしい」

4:16 「この手紙があなたがたの所で朗読されたら、ラオデキヤの教会でも朗読されるように、取り計らってほしい。またラオデキヤからまわって来る手紙を、あなたがたも朗読してほしい」

パウロの手紙は、各教会で朗読されていました。
それは主の真理は、コロサイやラオでキヤの両方の教会に
当てはまるものだったからです。

そして同じ主の言葉によって養われ、
1つのキリストの体としてお互いに成長したのでしょう。

北見での礼拝をDVDにして紋別に送っています。
どうかパウロの手紙が各教会を巡回し、励ましとなったように、
DVDを通して捧げる礼拝にも同じ主の励ましがありますように。

【参照】
2011年8月6日 4:6「やさしい言葉
2013年7月1日 4:2「ひたすら
2015年8月15日 4:17「アルキポ」 
2017年8月25日 4:3−4「そのために」 
 

コロサイ3章「結ぶ帯」

3:14 「これらいっさいのものの上に、愛を加えなさい。愛は、すべてを完全に結ぶ帯である」

バラバラになってしまうのは、
そこに愛がないからなのでしょう。

たとえ意見が違っても、キリストの愛があれば、
必ず1つにならせていただけるのでしょう。

キリストの教会はそういう愛で結ばれていることを、
大切なこととして共に十字架の主の愛を仰がせてください。

【参照】
2011年8月5日 3:12「だから」 
2013年6月29日 3:16「キリストの言葉
2015年8月14日 3:5−6「偶像礼拝
2017年8月24日 3:15「キリストの平和」 
 

コロサイ2章「見えるが」

2:23 「これらのことは、ひとりよがりの礼拝とわざとらしい謙そんと、からだの苦行とをともなうので、知恵のあるしわざらしく見えるが、実は、ほしいままな肉欲を防ぐのに、なんの役にも立つものではない」

私の信仰が律法的、偽善的、よく見せようとする時、
一見、良さそうに見えたとしても、
結局のところ、肉の思いに過ぎないので、肉に負けます。

キリストと共に死に、キリストと共に生きるということ、
そこにこそ真の力があることを覚えます。

【参照】
2011年8月4日 2:7「キリストにねざす」 
2013年6月28日 2:3「知恵と知識の宝
2015年8月13日 2:18−19「キリストなるかしら」 
2017年8月23日 2:14「証書」 
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