1日1章 いのちのパンを!

北見神愛キリスト教会の聖書日課「1日1章」に従って、 祈りつつ、個人的に感じたことなどを分かち合いとして記しています。 ディボーションとして綴っているもので、聖書研究的な講解ではありません。 豪華なフルコースや高級レストランのようなものとしてではなく、 日常の家庭料理の一品的なものとして、共に聖書を味わい養われればと願っています。

Ⅱ列王記

Ⅱ列王記25章「ゼデキヤの目の前で」

25:7 「彼らはゼデキヤの目の前で彼の王子たちを殺し、その上でバビロンの王は彼の両眼をつぶし、青銅の足枷をはめ、彼をバビロンに連れて行った」(新共同訳)

エレミヤ書と合わせて読む時、
ゼデキヤ王は王として、いろいろと悩んだのだろう。

しかし結局のところ、ゼデキヤは心を翻し(エレミヤ34章)、
エレミヤによる主の言葉ではなく、偽預言者の言葉に従います。

目に見えない主の言葉ではなく、
目に見える現実の方を重く受け止めたのでしょう。

その結果、彼の目が最後に見たものは、
自らの子が殺されるという悲惨なものでした。
どれほどゼデキヤは後悔したことでしょうか。

私の目は何を見つめているのかということ、
真実な主の御顔を見つめ、御声に聞き従わせてください。

【参照】
2011年4月14日 25:9「主の宮
2015年5月28日 25:9「焼いた」  
2019年5月15日 25:30「王から賜って」 
 

Ⅱ列王記24章「捕囚として連れ去り」

24:14 「彼はエルサレムのすべての人々、すなわちすべての高官とすべての勇士一万人、それにすべての職人と鍛冶を捕囚として連れ去り、残されたのはただ国の民の中の貧しい者だけであった」(新共同訳)
 
バビロン捕囚が始まっていきます。
ユダヤ民族にとって屈辱の出来事です。 
 
ただこの捕囚の民の中に、ダニエルたちがいました。
異国に行っても信仰を守り通す人々がいました。

屈辱、最悪の事態の中にあっても、
なおも信仰をもって歩んでいけることこそ、
信仰者の本当の力なのでしょう。

主よ、マイナスと思える状況の中でも、
今日もあなたに寄り頼む信仰をもって歩みます。

【参照】
2011年4月13日 24:4「ゆるそうとはされない
2015年5月27日 24:20「すてられた」 
2019年5月14日 24:2「預言者たちによって
 

Ⅱ列王記23章「過越祭が」

23:22 「士師たちがイスラエルを治めていた時代からこの方、イスラエルの王、ユダの王の時代を通じて、このような過越祭が祝われることはなかった」(新共同訳)

長い間、過ぎ越しの祭が祝われていませんでした。
自分たちの信仰の原点を忘れていたことになります。

それはキリスト者が十字架の恵みを忘れ、
信仰が自分中心になっていることにも通じます。
そんな時、傲慢が巣食うことになっています。

こんな者をあわれみ、御子が身代わりとなられ、
私の罪を赦し、背負われた主イエスの十字架が、
いつも私の立つべきところであらせてください。

【参照】
2011年4月12日 23:25「彼のように
2015年5月26日 23:21「過越の祭を
2019年5月13日 23:26「けれども

Ⅱ列王記22章「主の心を尋ねる」

22:18 「主の心を尋ねるためにあなたたちを遣わしたユダの王にこう言いなさい。あなたが聞いた言葉について、イスラエルの神、主はこう言われる」(新共同訳)

自分の心がどうしても中心になります。
それこそ自己中心という罪の基にも関わらず。

また人の心を忖度してみても、
それが良い結果になるというわけでもありません。
通い合えないもの、分かり合えないものもあります。

主よ、まず何よりもあなたの心を
尋ね求める姿勢をもたせてください。

人の心は移ろいやすいものですが、
主の心は愛と真理だからです。

【参照】
2011年4月11日 22:2「右にも左にも曲がらず
2015年5月25日 22:11「律法の書の言葉を聞くと
2019年5月12日 22:19「心に悔い
 

Ⅱ列王記21章「高台を再建し」

21:3 「彼は父ヒゼキヤが廃した聖なる高台を再建し、イスラエルの王アハブが行ったようにバアルの祭壇を築き、アシェラ像を造った」(新共同訳)

マナセは父ヒゼキヤが廃した高台を再建しました。
せっかくヒゼキヤの宗教改革がなされたにも関わらず、
元の木阿弥状態に戻っていきました。

ただマナセ自身は、自分のやっていることは、
正しい改革だと思っていたことでしょう。

マナセには、父に対する反動があったのかもしれません。
そして反動というものは、動機が愛ではないので、
どんなに良いものと思えても、上手くはいかないでしょう。
(もちろんマナセのこの行為そのものも悪なのですが)

主よ、私の中に誰かの反動として行っているものが、
全くないとは言い切れません。そこに愛はありません。
主よ、憐れんでくださり、反動から解放してください。

【参照】
2011年4月9日 21:9「惑わされて
2015年5月24日 21:1「55年の間」  
2019年5月11日 21:4「その宮である
 

Ⅱ列王記20章「わたし自身のために」

20:6 「わたしはあなたの寿命を十五年延ばし、アッシリアの王の手からあなたとこの都を救い出す。わたしはわたし自身のために、わが僕ダビデのために、この都を守り抜く。』」 (新共同訳)

立派な王であるヒゼキヤですが、病となった晩年、
自分のことしか考えられない姿があります。

癒されるのは、主ご自身のため、ダビデとの約束のため、
そしてエルサレムのためであるにも関わらず、
ヒゼキヤは自分の癒やしを目的にしてしまいました。

妻は激しい痛み、異常な数値、大きな病の疑いがありましたが、
心を注いで主の前に祈り、気がついた時には、
医師も驚く主の癒やしを体験しました。

しかしその癒やしは単に健康を回復したということではなく、
その後、自分の母と同居するための癒やしであったことを、
主から教えられ、大きな励ましを得ました。

私の祈りの目的、願いの目的はどこにあるのかを確認し、
主のために生きるものとならせてください。

【参照】
2011年4月8日 20:19「自分が生きている間
2015年5月23日 20:21「その子マナセ
2019年5月10日 20:1「遺言をなさい」 
 

Ⅱ列王記19章「あなただけが主なる神」

19:19 「わたしたちの神、主よ、どうか今わたしたちを彼の手から救い、地上のすべての王国が、あなただけが主なる神であることを知るに至らせてください。」(新共同訳)

ヒゼキヤの祈りの中心は、危機を脱出できるようにとか、
戦いに勝利することができるようにではなく、
主だけが神であることを知るに至らせてくださいでした。

もちろんヒゼキヤの祈りの動機は、
責めてきた敵がいたからであり、危機感を感じてのことでした。

しかし主に祈る中で、何を祈り、願うことかも主に導かれ、
主の名が罵られていることに憤りと悲しみを持ち、
主こそ神であることを全地が認めることを祈り求めました。

主よ、近視眼的になりがちな私の祈りですが、
その祈る事がらを通して、主の御名があがめられ、
主こそ神であることが知るに至るようにと祈らせてください。

【参照】
2011年4月7日 19:30「再び・・・
2015年5月22日 19:14−15「主の前にそれを広げ」 
2019年5月9日 19:31「主の熱心が
 

Ⅱ列王記18章「聞くな」

18:31 「ヒゼキヤの言うことを聞くな。アッシリアの王がこう言われるからだ。『わたしと和を結び、降伏せよ。そうすればお前たちは皆、自分のぶどうといちじくの実を食べ、自分の井戸の水を飲むことができる」(新共同訳)

誰の言葉を誰の言葉を聞かないのか、
そこには知恵や洞察力、信仰が必要になります。

アッシリア王の言われることは、魅力的でもあり、
同時に現実的でもありました。

ある面、サタンは魅力的で現実的な言葉を聞かせ、
私たちを惑わしてくるのでしょう。

主よ、 聞き分ける耳をもたせてください。
御霊が諸教会に言うことを聞かせてください。

【参照】
2011年4月6日 18:35「救い出せるのか
2015年5月21日 18:4「ネホシタン」 
2019年5月8日 18:14「罪を犯しました
 

Ⅱ列王記17章「警告されていた」

17:13 主はそのすべての預言者、すべての先見者を通して、イスラエルにもユダにもこう警告されていた。「あなたたちは悪の道を離れて立ち帰らなければならない。わたしがあなたたちの先祖に授け、またわたしの僕である預言者たちを通してあなたたちに伝えたすべての律法に従って、わたしの戒めと掟を守らなければならない。」 (新共同訳)

既に主は預言者を遣わして、何度も警告をされ、
戒めておられたのに、イスラエルの民は無視しました。

既に主が私にも語ってくださっていることがあります。
それらを右から左に聞き流さず、心に留めて歩ませください。

私の心がかたくな(14)にならないように、
強情(口語訳)にならないように、聖霊によって守ってください。

【参照】
2011年4月5日 17:33「敬いつつも
2015年5月20日 17:15「むなしくなり
2019年5月7日 17:9「ひそかに行い
 

Ⅱ列王記16章「すべての茂った木の下で」

16:4 「彼は聖なる高台、丘の上、すべての茂った木の下でいけにえをささげ、香をたいた」(新共同訳)

今までの王は高台を取り除かなかったとありましたが、
この時代はあらゆるところでの偶像礼拝がなされていたようです。

日常とは異なるところでの罪も大きいですが、
日常生活に主を裏切る罪が満ちていること、
主なる神をないがしろにしていること、
これほど悲しいことはありません。
 
誰かの罪が悪いということ以上に、
主の名が軽んじられていることに、
私も大きな痛みと悲しみを覚えます。

主よ、あなたへの賛美がこの地に満ちますように。
主の愛で覆われていきますように。

【参照】
2011年4月4日 16:7「アッスリヤに
2015年5月19日 16:16「命じたとおりに」  
2019年5月6日 16:20「アハズは
 
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