2016年03月01日

再構造化の過程

 再構造化の過程とはどのようなものでしょうか。『意味構造に立つ読解指導』での沖山の言を基に順序づけをしてみます。

文章全体を関係面に注意しながら通読する。(構造の秩序の発見)・・・「見通し」
 まず文章の意味構造の全体像を洞察する。内部構造は一つの統一的な流れとして文章全体の依存関係に見出されるから、文章全体を関係面に注意して通読する。構造の秩序を発見することであり、それを「予見」とした。依存関係に見出すように読むということである。
◆^嫐I枩个糧見(相互依存関係から段落へ)・・・◆銑ぁ屬らみあい」
 ,罵集した構造の秩序がどのような相互関係に見出されるかに注意して詳しく読んでいく。これが、構造としての意味布石の発見である。分析の最も小さなまとまりになる。
 意味段落相互の関係の焦点化(相互依存関係から主題へ)
 △波見した意味布石相互の関係から意味段落が発見され、意味布石相互の意味を焦点化することで、意味段落の意味布石が決定される。
ぁ^嫐9渋い陵解(表現意図)
 意味段落相互の関係を焦点化することで内部構造の焦点が発見され、「表現意図」が浮かび上がってくる。これが意味構造を理解したということになる。

 この一連の操作は、今日、△老措庵瞥遒陵彭世魏,気┐襦↓は形式段落相互の関係から意味段落を明らかにするといったことと同じように見えますが、これは沖山が「意味段落」に言及して後に一般的になったものです。
 









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2015年03月18日

読解のあり方

 文章を意味の構造体ととらえると、読解のあり方はどうなるでしょうか。
 一番大切なのは、書き手が何をどのように伝えようとしているかということです。ですから、文章の表現に即して、「意味布石」を発見し、意味布石相互の意味としての関連を洞察し、焦点化を低次から高次へと推し進め、書き手の描こうとした内面に向けて迫っていくことなのだと沖山は述べています。
 書き手が構造化した文章に、読み手が内面のつながりに着眼しながら構造的に読みとっていくので、それを再構造化と呼んだのです。

 このようにみると、文章をどうとらえるかによって、理解の仕方は大きくちがってきます。
 文章を形式的な段落に着目して順番に読んでいくのは、部分集合として文章をとらえることであり、形式的な読みであり、内面に肉薄するのは困難です。沖山はこのことを強調しました。


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国語教育 | 教育問題

2015年03月17日

意味構造・意味段落

 ソシュールは、一般的に使われている言語(ことば)を言語(ラング)と言(パロール)に区別しました。言語というのは、話しや文章中に位置づけられる以前の約束としてのことば、辞書的なことばのことです。言というのは、話しや文章中に使われることによって、限定された意味をもって定着されたことばです。個人の所産と言えるものです。
 ですから、よく使われている言語活動(ランガージュ)というのは、人が言語を話しや文章中に位置づけ、使用すれば、それは限定された意味を発揮することになるわけです。

 そこから沖山は、文章とは個人的な所産である意味の構造体であるということを主張し、意味構造や意味段落ということばで説明したのです。この用語が、その後一般的に使われるようになりました。


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国語教育 | 教育問題

言と言語の峻別

 先に、沖山はソシュールに関心を持っていたと述べました。
 スイスの言語学者であるフェルデナン・ド・ソシュールはさまざまな学問に影響を与えた『一般言語学講義』で有名なのですが、この本を世界に先駆けて最初に日本語で翻訳したのが小林英夫博士です。『言語学原論』と言うものです。日本の構造主義関連の学者はほとんどこの本を通して研究したと言われるほどで、国内の言語学の権威でした。
 沖山は、小林から直接手ほどきを受け、ソシュール言語学を学び、そこから読解に関する基本的な考え方を得ることになりました。構造学習論のもっとも根底を支える理論です。
 それは、「ことば」というものを、言と言語に峻別するということであり、そのことが沖山に、学習というもののあり方を明確にさせたのでした。このことに思い至った時の沖山の驚きは非常に大きなものだったろうと推測されます。


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国語教育 | 構造学習

2015年03月15日

「きみ語り、われ聞く」

 『意味構造に立つ読解指導』から、基本となるものを確認していくことにします。
 最初に「ことば」についてです。
 沖山は、「なによりもことばは具体的、個別的な人間に所属する」と述べています。ことばは人間によって語られ、人間によって聞かれ、そのような人間相互の関係的存在として考えるときに、ことばははじめて具体的な存在となってくるというのです。
 それを、「きみ語り、われ聞く」と表しました。表現する立場から考えると、「われ語り、きみ聞く」ということになります。


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