ahisats3のブログ

ウオーキング中に見つけた神社、史跡、珍しいもの等を紹介します。

産土とは「小山産土神社」(藤井寺市)

大和川を渡り藤井寺市の「大和川付替え300年記念碑」を見つけた後、
産土(うぶすな)神社を見つけ参拝しました。
今まで各地で産土神社を参拝してきましたが、産土の意味を詳しく調べ
て見ました。

産土(うぶすな): 産土とは産室のある場所の砂、土の事を意味しました。
            産室は昔は離れた所に作られ、そこで出産をしたのです。
            いつの間にか、産土を誕生の土地を意味するようになった。
産土神      :  生まれた土地の守護神

小山産土神社:大阪府藤井寺市小山四丁目7番9号

2017,06,16  00:09 PM



                小山産土神社
創建 
室町時代、現本殿の蟇股(カエルマタ・桃山時代)は、当時の儘の蟇股を残して
おります。
蟇股は藤井寺市内では、最古のものであり神仏習合社の証しでもあります、
又、元禄5年「寺社数改帳」に志紀郡小山村の守護神、小山牛頭天王と隣接
する、お寺天王山「清圓寺」が記載され、神社神紋、清圓寺仏紋も同じく五爪
に唐花と成っております、清圓寺の屋根等をご覧ください。
尚、祀り事は、大正後期まで清圓寺住職くにより行われておりました。
明治維新(神仏判然令)後、明治12年以降の本殿、御神鏡裏には河内小山
坐・進雄(スサノオ)神社鏡と記されております。
その後、昭和17年寄贈石碑に産土神社(生まれた土地の神)と神社前にあり
ますが、神社庁記載には戦後の昭和27年頃に産土神社としております。

神紋仏紋:各家の家紋と同じようにそれぞれの神社や寺院にも紋章が用い
        られており、これを神紋(しんもん)、仏紋(または寺紋)と称してい
        ます。


大和川付替え300年記念植樹(藤井寺市)

松原市の神社めぐりをする目的で四條畷から歩き始めたウォーキングは大和川
(新大井橋)を渡り藤井寺市の「大和川付替え三百年記念」の記念碑を見つ
けました。

大和川付け替え300年記念

            大和川付替え三百年記念植樹
この大和川堤防の桜は 大和川付替え三百年記念として 寄付により
植樹されたもので 桜の名所「SAKURA  ふれあい・広場」として 皆さ
まに愛されることを祈念し、記念碑を建立するものです。
         平成16年11月吉日  
           桜植樹事業実行委員会     藤井寺ライオンズクラブ
           社団法人藤井寺青年会議所  藤井寺市観光協会
           藤井寺市商工会          藤井寺市緑化推進協議会
           藤井寺市
              


歩き始めて6時間30分  2017,0616  11:50 AM


矢印が記念碑の場所



6月22日:21317歩

西村市郎右衛門碑(八尾市志紀町)

四條畷から松原市を目指して歩き始めたウォーキングは八尾市に入りJR志紀駅
を過ぎて、すぐの所で大きな記念碑を見つけました。
この記念碑は江戸時代 大和川の付け替えにより、この地域が水不足になり
村人を救うため幕府の許可がおりる前に樋門(水門)を造り農民を救ったが、
捕えられ大坂城内で亡くなった、弓削村の庄屋 西村市郎右衛門の霊を慰め
るため、大正時代に建てられたものでした。

西村市郎右衛門碑:八尾市志紀町南1丁目  JR志紀駅 徒歩3分







                  記 念 碑 由 来 記
今から270余年前に、大和川は現在の様につけ替えられた、そのため旧大和
川沿いのこの地方では水の便はわるくなった、村々の庄屋らは相談して幕府
に水路の新設を歎願しつづけた、ある年大旱ばつがあった、農民たちは大和
川の水を少しでも流してほしいと百方奔走した、この時、弓削村の庄屋 西村市
朗右衛門は見るに忍びず 近郷20数か村の庄屋を集め相談の末 自分は責
任をおうて大和川に水門を掘って水を引き入れた このため稲田は生気をとり
もどしたが 市郎右衛門は幕府の許可もなく工事をしたことをとがめられ 大阪
城内で処刑された その後この恩人の功績を永く伝えるために 弓削では大正
5年にこの記念碑を建てたものである。          昭和45年9月

                

                西村市郎右衛門碑
宝永元年(1704)の大和川の付替えで、旧大和川流域の灌漑用水が乏しくなっ
たため、流域の村々は新大和川から井路川へ水をひくことを請願しましたが、
許可される前に大旱にあい、農民は困苦にあえいだ。このため弓削村の庄屋
西村市郎右衛門は、幕府の許可を待たずに二つの樋を開いて農民を救った。
捕えられ大阪城中で客死、家財没収一家は断絶となった。志紀、大正地区で
は、旧盆のころ「功念仏踊」を踊ったが、これは市郎右衛門の霊を慰めるため
という。大正五年顕彰碑が建てられたが、外環状線道路工事のため、昭和45
年9月現地へ移された。                 八尾市教育委員会


JR志紀駅前



6月21日:25377歩

縄手遺跡(発掘ふれあい館 東大阪市)

四條畷から松原市を目指して歩き始めたウォーキングは東高野街道に沿って進
み、瓢箪山駅を過ぎて「発掘ふれあい館」の前で「縄手遺跡」の説明版を見つ
けました。

縄手遺跡: 東大阪市南四条町3-33  発掘ふれあい館の前

2017,06,16  8:19 AM



                  縄 手 遺 跡
縄手遺跡は、縄文時代中期末~後期前半(約4000~3500年前)を中心と
した集落跡で、縄手小・中学校の敷地を中心に東西300m、南北400mの
範囲に広がっています。 昭和26年、縄手中学校の造成工事の際、弥生
時代~古墳時代の土器が採集され、遺跡の発見となりました。 昭和40
年縄手農協の工事に際に初めて縄文時代後期の土器片が出土し、以後
小・中学校の校舎増改築工事に伴う発掘調査が進められ、近畿地方でも
有数の縄文時代集落跡であることが明らかになってきました。
これまでの調査で、縄文時代後期の竪穴式住居群のほか土坑・埋甕・
囲い炉・円型石組遺構などのほか多量の縄文土器(深鉢・浅鉢・注口土器
)や石器・土偶など各種の遺物が出土しています。
とくに住居跡は、近畿地方の数少ない縄文時代の住居跡例として貴重な
発見でした。遺跡内には、弥生時代の終わりごろの壺棺や古墳時代の
溝のほか、小学校敷地北端部から上部を削平された直径約30mの円墳
”えの木塚古墳” も発見されています。円筒埴輪や子持ち勾玉などが出土
した市内で最も古い古墳の一つです。   平成15年3月 東大阪市


土坑(どこう):発掘調査などの際に確認される遺構のうち、人間が土を掘
         りくぼめてできたと考えられる穴で性格が見極めにくいもの
         を指す。
         つまり遺構として検出されたとき、竪穴住居跡ないしその

         の性格が明確な遺構と考えられるもの以外のものを「土坑」
         と呼び、調査の結果、性格の見きわめにくい遺構と判断され
         た場合も「土坑」として取り扱われる。
埋甕(まいよう):「うめがめ」ともよぶ。土器の中に遺体などを収容して住居
           跡内外に埋設した縄文時代の風習。
勾玉(まがたま):曲玉とも表記される、先史・古代の日本における装身具の
           一
つであり。祭祀にも用いられたと言われるが、詳細は分     
           かりません。


       勾玉         子持ち勾玉



6月29日:26368歩

枚岡神社 一之鳥居

四條畷から松原市を目指して5時17分に歩き始めたウォーキングは東高野街道
に沿って進み、瓢箪山駅の手前で枚岡神社の「一之鳥居」がありました。
平成7年の阪神淡路大震災で破損したため補修した跡が下の画像で分かると
思います。
この鳥居に掛かる注連縄は、古くより地元鳥居町氏子の手により作られ、毎年
1月3日に掛け替えが行われています。

枚岡神社 一之鳥居:東大阪市鳥居町  枚岡神社は800m東の出雲井町

                                                                                 2017,06,16    07:54 AM





                       記
第一鳥居は享和年間に建立以来 弘化3年6月に注連縄掛等取付け
の手を加え 鳥居町の人手に馴れ親しんで今日を迎え平成7年の
阪神淡路大震災に歪みが生じ鳥居自治会の協力のもと上部柱及び
貫等を取替え立派に改修工事が完成し、神津嶽を望む第一鳥居の
威容を一段と高く仰ぎ盛大に竣工式を挙行した。
       平成10年8月吉日  河内国一之宮 枚岡神社
                    鳥居自治会
                    施工  岐阜 株式会社 田口石材

注連縄(しめなわ):般的に、神域・聖域を外界から隔てる結界として用いられる
            縄。正月には一般
家庭の玄関などにも飾られる。松葉を差して
            松飾りとする場合もある。



6月19日:18515歩

四條畷から松原市を歩く(10万歩達成)

一昨日(6月16日)のウォーキングは四條畷から松原市を歩きました。
往路は東高野街道に沿って歩き瓢箪山付近で外環状線に出て、そのまま
南下して八尾市、柏原市を通過して大和川を渡り、藤井寺市から松原市に
入りました。 松原市の神社めぐりをしてから、復路は平野区経由JR大阪東
線に沿って歩き放出まで歩く予定でしたが、時計を見ると午後10時を過ぎて
いたので、このまま歩けば家に着くのが12時を回ると考え、高井田中央駅か
ら電車に乗って帰りました。
合計17時間、10万歩(101512歩)を超える自己最高記録のウォーキングとなりま
した。

枚岡神社の第一鳥居                                                                      07:54 AM

近鉄瓢箪山駅                                           08:06 AM

外環状線、服部川西交差点                          09:13 AM

近鉄志紀駅                                              10:30 AM

 東大阪大学柏原高等学校(旧柏原女子高等学校)                             11:21 AM

大和川                                       11:37 AM

出発後7時間で松原市に到着                         00:38 PM

大阪市東南環境事業センター(平野区瓜破南)                 04:18 PM

瓜破大橋                                     04:24 PM

JR大阪東線 長瀬駅                              08:43 PM

JR大阪東線 高井田中央駅で放出行きに乗車               10:05 PM


神崎川分岐点跡(摂津市一津屋)

産経新聞のシリーズの連載で「淀川を行く」の5月18日付で「旧神崎川分岐点
跡」のことが載っていたので探しに行って見つけてきました。
摂津市の一津屋(淀川の堤防の上)にその説明版がありました。
今年の4月に設置されたばかりの新しいものでした。

神崎川分岐点跡:摂津市一津屋(淀川の堤防の上)

2017,06,12  11:47 AM



                   旧神崎川分岐点跡
平安時代初期に編さんされた「続日本書記」には、桓武天皇4年(785)に
「使いを遣わして、摂津国神下、梓江・鯵生野を掘りて、三国川に通ぜしむ
」とあり、淀川と三国川をつなぐ新運河(旧神崎川)が開削された事実が認
められます。
鯵生野は。現在地名として残る味生のことで、別府や一津屋付近をさす場
所であると考えられ、この新運河は、一津屋から江口にいたる間で淀川と
別れて北上し、別府を通り西に向かって湾曲しながら安威川に合流してい
ました。
新運河の開削工事は、長岡京の遷都にともない、淀川の水を比較的水量
の少ない三国川へ流すことで、淀川の水量を削減して水害に備えるととも
に、西国からの物資を、大物(現兵庫県尼崎市)を経て、都へ運搬しやすく
する目的があったものといわれています。
同じく「続日本書記」には、長岡京遷都を推進し、摂津職の大夫であった和
気清麻呂が、延暦7年(788)に、河内・摂津両国の境を開削し、河内川(現・
平野川)を大阪湾に導く工事を行ったとの記述があります。それに先立つ、こ
の淀川と三国川の新運河の新河道についても、和気清麻呂が開削工事に
あたったものと考えられます。
この工事以降も、たびたび淀川は水害を引き起こし、地域の人々を苦しめま
したが、明治11年(1787)に、神崎川の直川化工事が行われ、現在の姿とな
りました。        平成29年(2017)4月吉日 摂津市教育委員会



神崎川から淀川に向かって撮影

神崎川の始まりでした
神崎川の始まり地点、後方左手に守口市、大日のビルが写っています。






6月18日:22910歩

段上若宮八幡神社(西宮市段上町)

5月28日の西宮市神社めぐりで最後の17社目に参拝したのが段上若宮八幡
神社です。 


段上若宮八幡神社:西宮市段上町1丁目5番1号 
            阪急今津線 甲東園駅 東に徒歩5分



2017,05,28  04:54 PM





                                村社 若宮八幡神社
大日霊女尊が祀られており、大市八幡神社から延宝8年(1681)に分霊
を勧請したと伝えられる。 元来西向きに建っていた明神系八幡鳥居の
右柱には宝永4年(1707)とあったが阪神淡路大震災で残念ながら倒壊
してしまった。 その後再建された鳥居は南に広い道路が作られたため
以前と異なり南面している、その先には古墳時代の須恵器が出土した
段上遺跡がある。                   甲東文化財保存会


大日霊女尊(おおひるめのみこと):天照大御神(あまてらすおおみかみ)のことで
      古事記においては天照大御神(あまてらすおおみかみ)、日本書紀にお
      いては天照大神(あまてらすおおかみ、あまてらすおおみかみ)と表記さ
      れる。別名、大日孁貴神(おおひるめのむちのかみ)。神社によっては大
      日女尊(おおひるめのみこと)、大日霊女尊(おおひるめのみこと)、大日
      女(おおひめ)とされている。 

6月17日:27814歩

大市八幡神社(西宮市若山町)

5月28日の西宮市神社めぐりで16社目に参拝したのが大市八幡神社です。 

大市(おおいち)八幡神社:兵庫県西宮市若山町3-31

2017,05,28  04:18 PM




西宮市指定天然記念物で樹高24m、幹の直径5.3m、幹を中心に20数mにわた
って枝を張る巨木で樹齢400年とされています。これは、播州姫路城主、池田三佐
衛問尉輝政が慶長十五年(1610)本殿建立の際に参詣した時、記念に植樹したと
伝えられてます。


池田三佐衛問尉輝政が慶長十五年(1610)本殿建立の際
に参詣した時、記念に植樹したと石碑に刻まれています。

                                                                                         

           村社大市八幡神社
楠の大木を中心とする鎮守の森の村社は ”大市の八幡さん”と崇拝
され、古くは下大市、上大市、段上、門戸、高木の五か村の郷社で
あったが、現在は上大市、下大市、樋ノ口の産土神となっている。
三間社流造桧皮葺の本殿は兵庫県と西宮市の指定文化財となって
いる、文化3年(1806)山崎道分間延絵図にも記載されており、その
解説に本殿は桃山時代の様式のものとある。
                        甲東文化財保存会


6月16日:101512歩


瓦林城址(日野神社境内)

5月28日の西宮市神社めぐりで15社目に参拝した日野神社の境内で
瓦林城址の石碑を見つけました。
城があったことを示す遺構は何も残っていませんが、日野神社の由緒
書きに瓦林城址について載っていたので転記します。

瓦林城
当社(日野神社)は瓦林城址と伝えられる。 周辺に城の前、城の東、ク
ツヌギ、コマダテ、陣馬畑等の字名が昭和初期まで残っていたことからも明
らかであろう。
延元元年(1336年)に赤松氏の武将・貴志五郎四朗義氏が瓦林城で戦
った記録が残り、既に築城されていたことがわかる。 摂津から河内に勢
力を揮い後に城主になった、菅原道真公の子・右馬之助を始祖とする河
原林氏は、市内の越水城、芦屋の鷹尾城尼崎の富松城等を治めてい
たが、織田信長に味方し元亀元年(1570年)阿波讃岐の三好の軍勢と戦
い、同年9月28日に瓦林城は落城、城将・河原林三河守以下男女百十余
人は討死し、その歴史を終えた。
瓦林城の廃城後、瓦林一族も離散し、久留米の有馬家に仕えたものもい
たが、多くは土着し現在では明治以降からこの地域に暮らす殆どの家が、
同氏と何らかの関係を有す。
富松城跡(尼崎市富松町) 鷹尾城跡(芦屋市)

瓦林城址(西宮市日野町 日野神社境内)

2017,05,28  03:06 PM


6月15日:18835歩
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