ahisats3のブログ

ウオーキング中に見つけた神社、史跡、珍しいもの等を紹介します。

櫛玉比女命神社(広陵町)

奈良県道14号、桜井田原本王寺線を通過中に「かぐや姫」の像のある
「はしお元気村」を見学後、少し走った所で櫛玉比女命神社をみつけて
参拝しました。

広陵町(こうりょうちょう)
 人口:33595人  面積:16.30 ㎢   広陵町出身の有名人:奈美悦子


櫛玉比女命神社:奈良県北葛城郡広陵町大字弁財天399             2020/07/22  10:03 AM









       櫛玉比女命神社(くしたまひめのみことじんじゃ
延喜式にいう「廣瀬郡五座」のひとつで、いわゆる式内社の格を誇る。
その位置は前方後円噴の後円部あたり、埴輪片が出土する。
古墳と神社が結びつく例として注目される。祭神櫛玉比女命は櫛玉彦
命に配されるが、「大日本史」では、、饒速日命の妃である御炊屋姫を
当社祭神としている。
現在の本殿は春日造檜皮葺を銅板葺に改め、その前方に入母屋造瓦
葺、正面千鳥破風付の拝殿を設けた江戸期の建築である。


饒速日命(にぎはやひのみこと)の墓を先日 生駒市ウォーキングの時に見
つけて参拝しました、なお日本書紀では天照大神から十種の神宝を授
かり天磐船に乗って哮峰に降り立ったとされる神様です。
饒速日命の墓(生駒市白庭台)

哮峰(タケルガミネ)は交野市にある山で近いうちに行きたいと思っています。

「巨大かぐや姫像」はしお元気村(広陵町)

新型コロナウイルスが治まらないため今回の青春18切符は買わないこと
に決めました、7月22日は車で奈良県の樫原神宮へ参拝に行く目的
で出かけました。
奈良県道14号、桜井田原本王寺線を通過中に大きい「かぐや姫」の
像が見えたので立ち寄って見学しました。
「はしお元気村」は奈良県広陵町の施設で老人対象の講習会等を行う
施設で風呂や、地元の野菜などを売る朝市もありました。
「はしお」の由来を調べたら、この地域の旧地名で、近鉄「箸尾駅」とい
う駅もありました。
「かぐや姫」についても調べたら、諸説ありますが、竹取物語に登場す
る竹取翁の名前が「讃岐造(さぬきのみやつこ)」であり、これが大和国
広瀬郡散吉郷の「讃岐神社」周辺であると考えられるのだそうです。


はしお元気村:奈良県北葛城郡広陵町大字弁財天295−3                  2020/07/22 09:38 AM













8月14日:20529歩

七条大橋(下京区 / 東山区)

京阪出町柳駅~七条駅までウォーキング
株主優待券を使っての京都市内ウォーキングの二日目は、京阪香里園
駅まで戻る為、京阪七条駅まで来ました。
駅のそばにあった七条大橋の説明板によると平成31年3月29日付で
、国登録有形文化財に登録されました。
鴨川に架かる橋では最も古い橋です。


七条大橋(下京区 / 東山区)                                                               2020/07/10  06:00 PM





               七 条 大 橋
七条大橋は明治末期に進められた「京都三大事業」(第二琵琶湖疏水の
建設、上水道事業、道路拡張及び市電の敷設)に際し、建設された橋梁
である。
明治44年(1911年)11月に着工、大正2年(1913年)3月に竣工し、三大
事業による橋梁としては、唯一現存している。
本隊の設計は、東寺、東京帝国大学教授であった柴田畦作、意匠は東京
帝国大学建築学科出身の建築家である森山松乃助らが担当した。
親柱や金属製高欄(現存せず)には、当時の流行を取り入れた幾何学的
な意匠の「セセツション式欧風意匠」が用いられており、鉄筋コンクリート橋として
は全国的に見ても規模の大きなものであった。
昭和62年(1987年)、京阪電鉄の地下化に伴い、琵琶湖疏水鴨川運河が
暗渠となり、疏水上の一径間が撤去され、現在は、五径間連続の鉄筋コン
クリート造アーチ橋(橋長82メートル、幅員18メートル)となったおり、「三十三間堂の
通し矢」をイメージした矢車模様の高欄に改修されている。
平成31年3月29日付で、国登録有形文化財に登録された。
                                       京都市

遠くに京都タワーが見えました。




8月13日:21285歩

元和キリシタン殉教の地(東山区鍵屋町)

京阪出町柳駅~七条駅までウォーキング
五条大橋を渡り、鴨川左岸を京阪七条駅に向かって歩いている時
植込みの中に元和キリシタン殉教の地の石碑を見つけました。

現地に説明板等はありませんが下記のことが分かりました。
江戸幕府のキリシタン弾圧は,慶長17(1612)年に始まり,翌年には
京都にも波及し,大坂冬の陣(1614)が起こるまで続いた。二回目の
弾圧は,元和年間(1615~23)に始まり,元和5(1619)年秀忠(1579
~1632)上洛に際し,ますます厳しくなった。秀忠は伏見でキリシタン
投獄者のことを知り,老若男女の区別なく火あぶりの刑を命じ,52人
(11人の子供が含まれていました)が大八車に積み込まれ,六条河
原で悲惨な最期を遂げた。これ以後京都ではキリシタンが歴史の表
舞台に登場することはなかった。この石標はキリシタン殉教の跡であ
る六条河原を示すものである。


元和キリシタン殉教の地:京都市東山区鍵屋町                                         2020/07/10 05:46 PM

殉教:自分の信ずる宗教のために命を捨てること。



京都市文化観光局観光部振興課
寄贈 京都元和の記念碑を建てる会





8月12日:19732歩

五条大橋(下京区・東山区)

京阪出町柳駅~七条駅までウォーキング
五條大橋の西詰の所で「扇塚」を見つけた後、五条大橋を渡りました。
その時、五条大橋の歴史等を書いた大きい説明板がありました。


五条大橋(下京区・東山区)                                                               2020/07/10  05:37 PM




江戸時代の橋脚(石柱) 神戸市東灘区御影からはこばれたものです





            五 条 大 橋
歴 史 
平安時代、現在の五条通は六条坊門小路と呼ばれていました、六条
坊門小路の鴨川には橋が無く、豊臣秀吉が天正18年(1590年)に当
時の五条通(現松原通)の橋を、現在の場所に移しました。
現在の橋になるまでには、洪水・大火などで幾度か改築されています。
明治時代には木製の幅6mの橋でしたが、昭和34年(1959)に架け替
えられ今の姿になりました。
橋脚(石柱)と橋桁
五条大橋西側の五条児童公園では、秀吉が造らせた初代五条大橋
の橋脚(石柱)を見る事ができます。
また、京都国立博物館には、立体的に組まれた橋脚(石柱)と橋桁が
あり、当時の橋の大きさが想像できるほどの迫力があります。
その橋脚(石柱)には津国御影<天正拾七年/五月吉日と文字が刻ま
れており、現在の神戸市東灘区御影からはこばれた事がわかります。
デザイン
現代技術と美の粋を集めた鉄製橋として架け替えすることになりました
が高欄については、旧橋と同じ木製にしたい地元の要望と近代橋を主
張する当時の建設省や学識者の間で議論がありました。
最終的には両方の意見を生かし、高欄は原型を模した石造り、青銅製
の擬宝珠は旧橋のものをそのまま活用することとなりました。
擬宝珠(ぎぼし・ぎぼうし・ぎぼうしゅ
旧橋で使用されていた擬宝珠は、災害などでいくつか無くなり新しく補
充されていますが、現在も初めて設置された正保2年(1646)のものが
二基残っています、江戸時代の擬宝珠を探してみて下さい。


8月11日:21912歩

扇発祥の地「扇塚」(京都市下京区)

京阪出町柳駅~七条駅までウォーキングは四条を過ぎて五條まで来ました。
五條大橋の西詰の所で「扇塚」を見つけました。
調べたら、「扇」は古来、中国から伝わったと思っている人が多いようです
が、実は日本で発明されたものなのです。古代中国で「扇子」といえば「う
ちわ」の形状を指し、開閉式の「扇」というものは存在しませんでした。


扇発祥の地「扇塚」(京都市下京区)                     2020/07/10  05:32 PM







                              扇 塚 の 記
扇 は平安時代 の初期この地に初めて作られたものである
ここ五條大橋 の畔は
時宗御影堂 の遺跡であり 平敦盛 没
後その室 本寺祐寛上人によって得度し蓮華院 尼と称し寺
僧と共に扇を作 ったと言い伝えられている この由緒により
扇工この地に集まり永く扇の名産地として広く海外にまでも
喧伝されるに至った いまこの由来を記してこれを顕彰する
                                       昭和三十五年三月十五日
                                                 京都市長 高山
義三

上記説明文の補足説明
平安時代に平敦盛の妻が、夫の死後、菩提を弔うために出家
して「蓮華院尼」となり、現在、扇塚のある鴨川五条西詰にあっ
た「平時宗御影堂」に入りました。
 ここの寺の僧と共に作りはじめた扇子がその後「御影堂扇」と
して有名になり、多くの扇工が五条界隈に集ったという故事にち
なんでおります。


8月10日:18075歩

日本の三大盛り場「新京極の由来」

最近私が見たいものは、蝉が殻から抜ける瞬間です。
仕事仲間の友人から何度も見たことがあり、大変神秘的であると聞かさ
れぜひ見たくなったのです。
夕方大きい木の根元から蝉の幼虫が出てこないか見に出かけています
が、地面に幼虫が出たあとの小さい穴が幾つも空いているのや、抜けた
後の抜け殻が木や葉についているのを見つけましたが、幼虫にはいまの
所まだ遭遇していません。
ブログの方は7月10日の報告が残っています。

京阪出町柳駅~七条駅までウォーキング
新京極六角公園にどうして「新京極」というようになったのか、その由来
を書いた説明板がありました。

新京極の由来  京都市中京区                         2020/07/10  05:01 PM

新京極通


新京極六角公園


愛称「ろっくん」もマスクをしていました。



                新 京 極
北は三条通から南は四条通に至る約五百メートルのこの通りを新京極通
といい、通り名は平安京の最も東に位置した東京極大路(現在の寺町
通)東側に新しく造られた通りであることに由来する。
天正年間(1573~1592)、豊臣秀吉が市中の多くの寺院を寺町通に集
めたことに伴い、そのその境内が縁日の舞台として利用され、周辺は見
世物や催し物を中心に発展するようにあった。
明治5年(1872)、このことに注目した京都府参事 槇村正直は、東京遷都
で衰えていた市民の士気を盛り上げるべく、寺院の境内を整理して、そこ
に新たに通りを造った、新京極通の誕生である。
明治10年(1877)頃には芝居座、浄瑠璃、寄席などの興行場や飲食店な
どの多くの店舗が建ち並び、明治30年代には、東京の浅草、大阪の千日
前とともに日本の三大盛り場として知られるようになった。
現在も、修学旅行生をはじめとする多くの観光客や買物客でにぎわう。
上方落語の始祖・安楽庵築伝が住職を務めた誓願寺、和泉式部の寺とし
て知られる誠心院や西光寺、蛸薬師堂妙心寺、安養寺、善長寺、錦天満
宮、染殿院という由緒ある七つの寺院と一つの神社が通りの歴史を今に
伝えている。

隣の寺町通は、その昔、平安京の最も東に位置した東京極大路と呼ばれ
ていました。だから、その東側に新たに造られた通りということから、新京
極通という名が付けられたのです。


8月9日:17658歩






本能寺(京都市中京区寺町通)

京阪出町柳駅~七条駅までウォーキング
京都市役所から少し歩いたところに織田信長が明智光秀によって襲撃
された本能寺がありました。

本能寺:中京区寺町通御池下る本能寺前町                                       2020/07/10  04:44 PM







                 本 能 寺
法華経宗本門流の大本山で、応水2年(1415)、日隆上人によって
創建された。
当初は本応寺と称していたが、永享5年(1433)、六角大宮に移転
した際、本能寺と名を改め、更に天文14年(1545)、油小路蛸薬師
一帯に広大な寺域を得て大伽藍を復興した。
本寺は、天正10年(1582)、織田信長が明智光秀によって襲撃(本
能寺の変)され、自刃したところとして名高いが、その折、三十余りの
宿坊を構えた大伽藍は灰燼に帰した。その後、豊臣秀吉の都市計
画により、天正17年(1589)、現在の地に移転再建したが、、江戸時
代後期に天明・元治の大火にかかり、堂宇は悉く焼失し、現在の本
堂は昭和3年1928に再建されたものである。
寺宝には、花園天皇宸翰、伝藤原行成筆の書巻等の貴重な逸品を
蔵し、境内には、織田信長及びその側近の供養塔、並びに江戸時代
後期の南画家浦上玉堂父子の墓などがある。

信 長 公 廟



               信 長 公 廟
信長が光秀の謀反により無念の自刃をとげたのは天正10年(1582)6月
2日早朝のことだった本能寺の変である。そのころは当寺は四条西洞院
にあり四町四面の広大な寺域、周辺に堀と土塁その内部に七堂伽藍や
多くの子院や厩舎を備えるという城郭構えになっていて信長が常宿する
にふさわしい都で随一の大寺院であった。
この大伽藍が鳥有に帰し光秀の天下もわずか十数日で終わったあとに
信長の三男信孝は信長らの遺骨収集の作業をすすめ、本能寺の変から
一箇月後の7月3日早くも本能寺を父信長の墓所と定めた。
この信長の墓はこのとき信孝が建立したものである、この廟所には武将
の魂とされる信長所持の太刀が納められている。

烏有(うゆう):すっかりなくなること。


8月8日:21096歩

間部詮勝寓居跡(中京区寺町通)

京阪出町柳駅~七条駅までウォーキング
中京区寺町通で「本因坊発祥の地」を見つけた後、京都市役所分庁舎
裏の小さな公園の側に間部詮勝寓居跡の石碑がありました。



間部詮勝(まなべあきかつ)寓居跡:京都市中京区寺町通二条下る東側

2020/07/10  04:35 PM



                                    間部詮勝寓居跡
この地には、昭和43年(1968)まで約四百年にわたり、、顕本法華宗の
本山・妙満寺があった。現在は左京区の岩倉幡枝に移転した、同寺に、
安政5年(1858)幕府の老中、越前鯖江(さばえ)藩主間部詮勝が滞在
し、安政の大獄と呼ばれる志士の弾圧を指揮したという。
井伊直弼(なおすけ)が大老となり、勅許(ちょっきょ)を受けずに日米修
好通商条約に調印したので、尊王攘夷(そんのうじょうい)派などの反対
が高まった。そこで井伊大老は、詮勝を京都に送り、朝廷との交渉に当
らせるとともに、志士の弾圧にのりだしたのである。詮勝は、安政5年9月
京都入り、翌年3月まで滞在、朝廷、公家と交渉する一方、町奉行所を指
揮して、梅田雲浜(うめだうんびん)ら志士を続々逮捕した。しかし詮勝は
のち井伊大老と意見があわず、老中を罷免された上、処罰をうけた。


間部 詮勝(まなべ あきかつ)
   江戸時代後期の大名。越前鯖江藩(現在の福井県鯖江市)第7代藩主。
   間部家8代。幕末に老中首座を務めた。





8月7日:23361歩

囲碁「本因坊」発祥の地(京都市中京区寺町通)

京阪出町柳駅~七条駅までウォーキング
木屋町で島津製作所創業の地を見つけた後、今度は寺町通りで
本因坊発祥の地の駒札と碁盤のモニュメントをみつけたのです。
この場所は江戸時代の碁の名人本因坊が住んでいたところでした。

本因坊発祥の地:京都市中京区寺町通夷川上ル                               2020/07/10 04:30 PM





                                 囲碁「本因坊」発祥の地
この寺町通の名は、天正17年(1589)頃、豊臣秀吉の都市計画によ
り洛中の寺院が集められたことに由来する。
寂光寺もそのひとつで、別名を久遠院ともいい、通りをはさんだ西側
の町名「久遠院前町」にその名残が見られる。
寂光寺の塔頭「本因坊」に住まいしていた僧侶の日海(1559~1623)
は、信長・秀吉時代から囲碁の名人として名高く、江戸幕府が開かれ
ると、徳川家康の命によって寺を弟子に譲り、本因坊算砂と改名して
幕府の碁所を任された。
算砂は江戸に屋敷を拝領した後も、寺町の本因坊を本店として、春に
江戸に下り、年末に京に戻る暮らしをしていた。
以降、本因坊の名は世襲で受け継がれたが、二十一世の秀哉は、真
の実力者が本因坊を名乗るべきとしてその名跡を日本棋院に譲り渡し
、「本因坊戦」が誕生した。
宝永の大火(1708)で罹災した寂光寺は現在、仁王門通東山西入に
位置し、算砂愛用の盤石や算砂直筆の囲碁狂歌などの貴重な史料を
蔵している。

本因坊 算砂(ほんいんぼう さんさ)
  永禄2年(1559年)~元和9年5月16日(1623年6月13日)は、安土
  桃山時代、江戸時代の囲碁の棋士。生国は京都。顕本法華宗
寂光
  寺
塔頭本因坊の僧で法名を日海と称し、後に本因坊算砂を名乗り、
  江戸幕府から俸禄を受けて家元本因坊家の始祖となるとともに、碁
  打ち・将棋指しの最高位、連絡係に任ぜられて家元制度の基礎とな
  った。一世名人。本姓は加納、幼名は與三郎。


碁所(ごどころ):江戸時代、囲碁の最高権威者に与えられた称号.

名跡(みょうせき):代々受け継がれていく家名。

俸禄(ほうろく):給料


8月6日:21981歩
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