ahisats3のブログ

ウオーキング中に見つけた神社、史跡、珍しいもの等を紹介します。

2014年03月

秦刀鍛冶屋敷跡(寝屋川市秦町)

水本村役場跡を探しに歩いているとき、寝屋川市が設置する
案内板で秦刀鍛冶屋敷跡が寝屋川市秦町にある事が分かり
ました、辿り着いたその場所は住宅の中にあり、今は全くその
痕跡すら無く、説明板と石柱があるだけでした。



説明板は比較的新しく、説明文を転記する必要もなく読みとれ
ます。

2014,3,23 撮影


3月31日:21871歩

水本村役場跡(寝屋川市)

寝屋川市に五つある村役場跡の最後に見つけたのが、水本村役場
跡でした、予め下調べで寝屋川市立第四中学校のそばと分かってい
たので、まず第四中学校を見つけて、付近を歩きましたが、見つから
ず、聞く人も無く困っていたら、寝屋川市が設置している、案内板を見
つけて、それをよく見ると、村役場跡は中学校より道路が一本南であ
ることが分かりました。

寝屋川市が市内の至る所に設置している名所旧跡へ誘導する案内板
、これを見て道路が一本南であることが分かりました。
今までに何度もこの、誘導サインに助けられました。

主要部の拡大



2014,3,23 撮影

水本村は昭和36年(1961)6月28日、すでに昭和26年(1951)5月3日に
市制を施工している寝屋川市と合併しました。
合併と同時に村制の大字燈油は国守町と改称し、寝屋・打上はそのまま
寝屋川市の大字に継承されました。

水本村の人口は2170人(寝屋556、打上475、燈油1139)と記載されてい
ます。

3月30日:15918歩(午前中雨、午後、南風荘で風呂と将棋)

大将軍社(寝屋川市高柳)

大将軍社、九箇荘村役場跡を探しに行った時に、途中にあ
りました。
大将軍というのは方角の神の一つで、高柳村では、そのころ
異変が続いて、村人は相談して、鬼門の方角(北東)に大将
軍を祀ることになり、その後村人の厚い信仰を集めてきまし
た。
これが高柳の大将軍社の始まりです。
この大将軍を祀ってからは、高柳村に平穏が続いているとい
う事です。

2014,3,23 撮影


友呂岐村役場跡(寝屋川市)

友呂岐村役場跡は寝屋川市立北小学校の西門のそばで
見つけました。

「友呂岐」という地名は「鞆呂岐」とも書きます。鎌倉時代の
文献にも皇室領庄園として「鞆呂岐荘」という名前が出てくる
そうです。

明治22年(1889年)に町村制が施行されたとき、「木屋」「郡
」「太間」「田井」「石津」「平池」「三井」の7村が合併して「茨田
(まった)郡友呂岐村」ができました。

友呂岐村役場跡:寝屋川市寿町

寝屋川市立北小西門そば

2014,3,23 撮影

喫茶モナミとクオーレ薬局の間の道を入るとすぐです。


3月28日:20166歩

やっと見つけた叔父さんの墓(飯盛霊園)

叔父さんと言っても私の叔父さんではありません。
今日は、私のホームグラウンド飯盛山に午後から出かけました、
頂上に着いたのが12時過ぎでした、そして少し低いが視界が
広いもう一つの四條畷寄り北側の別の頂上へ行き景色を見て
から歩こうと思ってそこに着くと、すでに先に一人の感じの良い
青年がそこにいました。
その青年は静岡県磐田から青春キップで来た人で、全国の山を
巡って、すでに20の山に行ったそうです、話しをしているうちに、
その青年の叔父さんの墓が飯盛霊園にあると聞き、私は歩い
て行けば2時間くらいで行けるので一緒に行きましょうと、誘いま
した。
実際は1時間45分くらいで到着し、霊園事務所で青年の叔父さ
んの墓地の場所を教えてもらい、探しましたが事務所で教えて
貰った場所に墓地は無く、諦めかけましたが、せっかく遠くから
来た青年のために、なんとか見つけようと、墓参りに来ている人
を探して、墓地の番号を言って探し方を教えてもらいやっと見つ
けた墓がキリスト教の墓でした、墓石の名前をさがしても見つから
ないわけで、そのキリスト教の墓には個人の名前が墓石の裏に約
100人の名前がメタルのプレートで記載されていました。
そこに叔父さんの名前があったのです。

名前で墓を探しても見つからない訳で墓の前面に名前は有りません

裏面に名前と命日、年齢が記載されていました。

2014,3,27 PM4 撮影

青年は飯盛霊園からバスで帰りましたが、PM4時30分に別れて、
私はバイクを飯盛山の中腹に置いているので約1時間30分で戻り、
バイクに着いたのがまだ明るいPM6時でした。

帰る途中の山から見えた飯盛霊園の一部


3月27日:35185歩(飯盛山から静岡の青年と飯盛霊園へ歩く)

大阪城築城の残石(枚方市)

3月25日、枚方市の法務局に用事があり行った時、その付近
を歩いた時に見つけました、大阪城築城の残石が淀川の堤防
の上に大きな石と説明文がありました。

場所は枚方市新町2丁目、関西医科大学のそばです。



説明文によると、豊臣秀吉ではなく徳川秀忠が大阪城の
再建のために使う予定の石であったようです。

2014,3,25 撮影

三島鴨神社(高槻市三島江)

高槻市柱本、三島江地区を歩いた時、三島鴨神社があり
ました。

三島鴨神社の場所:高槻市三島江2丁目7-37

2014,3,21 撮影

鳥居が阪神淡路大震災で壊れ新しく建立したことが
説明されています。




三島江浜跡(高槻市三島江)

高槻市内の、柱本、三島江地区を歩いた時、「くらわんか舟
発祥の地碑」の次に見つけたのが「三島江浜跡」でした。

三島江浜は江戸時代には対岸・出口(枚方市)との間に渡し舟
があり、北摂と北河内を結ぶ地ということから大変にぎわった
といいます。大坂と伏見を結ぶ淀川過書船(幕府から通行を
許可された運搬船)などが出入りする河港でもありました。

「三島江浜」説明板の場所:高槻市三島江

2014,3,21 撮影



現在の三島江浜

説明板の場所:淀川堤防の下、高槻市立三箇牧小学校プールの左


3月26日:19318歩(一日雨のため傘、ゴム長靴で市内を歩く)

くらわんか舟発祥の碑(高槻市柱本)

3月21日、高槻市内を歩いた時、淀川の堤防で見つけた記念
碑です、くらわんか舟は枚方が有名ですが、発祥の地は高槻
でした。

くらわんか舟発祥記念碑

この説明文には、くらわんか舟は高槻で発祥したが、後に
枚方の方が繁栄したと記入されています。

場所:高槻市柱本3丁目(淀川堤防の上)


3月25日:18532歩

栗本鐵工所発祥の地(大正区)

3月16日、木津川渡船を探しに行った時、JR大正駅から歩
いた途中、泉尾東公園の中に、何かの説明を書いた石碑が
あったので、そばに行き読んでみると、その場所は栗本鉄工
所が発祥した所でした。

大正区泉尾東公園
明治42年から平成14年まで、この場所に工場がありました。

「栗本鐵工所発祥の地」記念碑

記念碑の説明文の内容

栗本鐵工所:
    本社:大阪市北堀江
    資本金:311億円
    水道、電力、ガス、石炭などのパイプ、その他エネルギー関連の
    製品を製造する、クボタと並ぶ日本のトップ企業。
    現在、工場は加賀谷工場(住之江区)など、全国に11か所。
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