ahisats3のブログ

ウオーキング中に見つけた神社、史跡、珍しいもの等を紹介します。

2014年06月

歩数最高記録達成できず(京田辺市、八幡市を歩く)

6月27日は朝7時に家を出発して京都市内を歩く目的でした
が家から全て歩いて京都市内を散策するのは無理でした。
まず家から第二京阪国道の歩道を歩いて京田辺市に着いて
から、八幡市内を歩いているうちに時計を見ると午後9時ごろ
に家に帰るには、もう帰りに向かわないといけない時間でした
やはり、家に着いた時は午後9時を過ぎていました。
実は、今までに歩いた歩数の最高記録を狙っていましたが、
むりでした。(6月27日の結果84281歩、過去2番目の記録でし
た、一番は2013年11月22日 87012歩)
第二京阪国道を歩いた場合は京都市内には遠回りになるの
で次回は淀川に出て川沿いを歩こうと考えています。
若宮八幡宮という神社を見つけた以外は、特に史跡が見つか
らず、一日歩いて見つけた、印象に残った建造物や場所を写
しました。

ホームセンタームサシ京都八幡店の近くで見つけた建物、歩いていた
人に聞くと八幡市の浄水場かもしれないと言っていましたが、
(八幡市の上水道の貯水地と思われます)

ホームセンタ ムサシのそばにあった「乗馬クラブ クレイン京都」

飯盛山からよく見える煙突、枚方市の清掃局の施設でした。

大阪府広域水道企業団、村野浄水場

府道736 交野久御山線の交野市倉治付近


6月30日:17047歩

渡辺姓の発祥の地 「坐摩(いかすり)神社」


坐摩神社の正式名は「いかすりじんじゃ」ですが、通称「ざま
じんじゃ」と呼ばれています。
6月21日に大阪市内を歩いた時は、この神社を探すのが目
的でした、御堂筋沿いにある、南御堂の西側にあるのが分か
っていたのですぐに見つかりました。
神社の由緒書きには、全国の渡辺姓の発祥の地と記載され
ています。

以下神社の由緒書きを転記しました。
「神功皇后が新羅より御帰還の折、淀川南岸の大江、田蓑島
後の渡辺の地に奉祀されたことに始まる。
延喜式神名帳には攝津國西成郡の唯一の大社と記され、住吉
より産土神として今日に至る。
坐摩(いかすり)の語源は、土地又は住居地を守り給う意
の居所知(いかしり)が転じたものと伝わる。
天正10年(1582)豊臣秀吉の大坂築城の際替地を命ぜられ、
寛永年間現在地に遷座。現在の鎮座地名を渡辺と称するのは
元の地名が移されたことによる、故に全国の渡辺・渡部等の姓
の発祥の地とされる。
明治天皇御降誕に際し宮中より御安産の御祈願を仰せつかり、
秋季大祭当日(旧暦922日)
皇子継承後降誕あらせられる。
明治元年、明治天皇大阪行幸の折当社に御親拝なり、境内で
相撲を天覧遊ばされる。昭和11年官幣中社に列せられる。」




 



御津(みつ)八幡宮(西心斎橋)

6月21日、大阪市内を歩いた時、アメリカ村で見つけた神社です
神社の中に由緒書きなどは無く、調べたところ、神社の名前は
地名によるもので、以前は当地は三津と呼ばれていました。
神社に伝わる書物によれば天平勝宝元年(749年)。孝謙天皇
が勅使を遣わし筑後の宇佐神宮より京に遷座する途中、初めて
上陸した行宮の跡に祀ったと伝わっています。
文禄年間(1592年~1596年)の兵火で焼失し、再建されましたが
昭和20年の大阪大空襲でまたもや焼失し、昭和35年に再建され
たのが現在の社殿です。

場所:大阪市中央区西心斎橋2丁目10-7

2014,6,21 撮影




6月29日:90584歩(一日に歩いた自己最高記録達成)

道頓堀 「出世地蔵尊の由来」

道頓堀の西側は現在道頓堀2丁目ですが、江戸時代は九郎
右衛門町と呼ばれ花街として賑いました、そこに古くから祀ら
れていた、お地蔵さんは芸妓や俳優が出世を願いお参りに
来たことから「出世地蔵尊」と呼ばれていました。
太平洋戦争の大阪大空襲で行方がわからなくなりましたが、
終戦から数年後、土の中から発見され現在の地に祀られまし
た、現在も御利益を求めて多くの人が訪れます。
また毎年地域の子供たちの健やかな成長を願って地蔵盆祭
りが開催されます。

場所:近鉄難波駅から徒歩3分、南海難波駅から徒歩6分

2014,6,21 撮影




6月28日:29057歩

JR梅田貨物駅跡の碑

現在JRは大阪駅、私鉄や地下鉄などは梅田駅と呼ばれて
いますが、実はJRにも梅田駅はありました。
貨物専用の駅「梅田駅」がありましたが、その業務を吹田貨
物駅と百済貨物駅に継承して平成25年3月31日をもって138
年の歴史を閉じました、そのことを示す記念碑と車輪が済世
会中津病院付近に保存されているのを見つけました。


2014,6,21 撮影


金網が邪魔をして読みにくいので碑文を下記に転記します。

         この地に梅田駅ありき
この地での鉄道貨物の取り扱いは、大阪・神戸間に関西初の
鉄道が完成した際に、大阪貨物取扱い所として明治7年(1874
年)12月に開始された、その後大阪駅は客貨の取扱いが著しく
増加したため、貨物扱いを、梅田駅として昭和3年(1928年)12
月に営業を開始した、戦後になり、昭和47年(1972年)国鉄改革
に伴い移転が決定され、この度、梅田駅は、その業務を吹田貨
物ターミナル駅と百済貨物ターミナル駅に継承し、平成25年(1031年)
3月31日をもって138年の永い歴史を閉じ梅田信号場となった。
ここに、これまで、この地で、大阪の生活と産業を支えてきた梅田
駅に心より感謝の気持ちを捧げる。
     平成25年4月1日 西日本旅客鉄道株式会社
                 日本貨物鉄道株式会社  

元萩乃橋の碑(北区中津)

長柄橋弾痕跡を見た跡、次に見つけたのが「元萩乃橋の碑」
です。
このあたりは能勢街道で大阪と能勢地方を結ぶ街道でした、
能勢から炭、薪、柿、木材、銅、銀などが、池田からは酒、
植木などが運ばれ、大阪からは衣類、干物、魚、塩が運ば
れた物流の道でした。


ケーキ屋の門にあります。

場所:大阪市北区中津1丁目11


6月27日:84286歩(自宅から京都八幡市&京田辺市を往復歩く)

長柄八幡宮(北区長柄中)

大阪市北区中3丁目3-1で長柄八幡宮を見つけました、
この神社の「だんじり囃」は大阪随一で、豊臣秀吉が大阪城を
築いた時、その完成を祝って「だんじり囃」を奉納したところ、
秀吉も大変気に入ったそうです。





境内で見つけた珍しい張り紙





6月26日:19687歩

旧長柄橋橋脚の弾痕跡

6月21日、大阪市内を歩いた時、長柄橋南詰めで見つけた
のが、空襲による弾痕が残る橋脚の一部でした。

そのいきさつは下記です。
昭和20年6月7日11時9分~12時28分、大阪大空襲で長柄
橋の下に避難していた約400人の人々が機銃掃射を受け犠
牲となりました。周りの燃え上がる火で淀川の水はお湯
のようにぬるかったと聞きました、その犠牲者の魂を鎮
め慰める観音像です。
観音像のそばには、その時の弾痕跡が残る橋柱がありま
す、昭和11年に造られた2代目の長柄橋の柱です。
この弾痕の残る柱は、現在の3代目の橋ができるまで戦
後も橋を支えてきたのでした。」



犠牲者を弔う観音像






ピッチャープレート等(大阪球場の痕跡)

大阪球場は今は有りませんが、南海電車難波駅前にあった
ので、難波球場とも呼ばれていました(正式名称は大阪スタジ
アム)。
その痕跡を示す、ピッチャープレートとホームベースのあった同じ場所
に記念のプレートが埋め込まれているとの情報を聞いて6月21
日、大阪市内を歩いた時、探して見つけました。
今は「なんばパークス」という緑を取り入れたビルと公園が一体に
なった複合施設の2階部分にありました。

そばにいる人に聞いても知っている人は少なく警備員の人に
聞いてやっと分かりました。








大阪球場:昭和25年に煙草工場の跡地に建設、南海ホークスの本拠地
       でした、球場閉鎖後は住宅展示場として使用されていました
       が平成15年(2003)になんばパークスとしてオープンしました。

6月25日:20281歩

茨木童子(茨木市の民話)

6月11日、元茨木川緑地を歩いた時、茨木童子の石像がありました。

この像は平成2年に茨木市青年会議所が製作し市に寄贈
したものです。

2014,6,11 撮影





調べたところ、茨木童子の民話は摂津国(大阪府茨木市水尾と
兵庫県尼崎市富松町)、越後国(新潟県長岡市の軽井沢集落)
合計三か所の説がありました。
茨木童子の故郷 「西富松 須佐男神社」

6月24日:23807歩
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