ahisats3のブログ

ウオーキング中に見つけた神社、史跡、珍しいもの等を紹介します。

2016年02月

毛馬の残念石

2月21日のウォーキングは淀川堤防を歩き長柄橋を渡って旧毛馬閘門にある
「残念石」を見ることにありました。
残念石とは、せっかく切り出され大阪城まで運ぶ途中に何らかの理由で
大阪城まで行けなかった石のことですが、ここにある石は近くにある説明
板によると、江戸時代に大坂城を再建する折、伏見城から運ばれた石垣
の石が、運搬船から途中で転落し、淀川改修工事の際に引き上げられた
ものとされています。
さぞや石も大阪城でなくここにあるのが、残念に思っていることでしょう。









毛馬の残念石
ここ点在する石は、元和六(1620)年以降江戸幕府が大坂城再
築の際に、廃城になった京都伏見城の城石を再利用するた
めに運んだものです、その途中、運搬船から転落した石が明治
以降に行われた、淀川改修工事の際に引き上げられ、ここに置
かれたと推測されています。これらの石は京都市山科区や加茂
町(京都府相楽郡)採石場から切り出されたものです。
多くの石に見られる点で型取られた刻印は、点彫りと呼ばれ築城
が盛んに行われた慶長年間頃まで各地の城に見られるものです。
点のほかに「山」や「四角」の刻印も見ることが出来ます。
現存する大阪城の石垣にもこれと同様の刻印が数多く残されたて
います。
残念石の由来
これらの石は大坂城築城に活かされることがなかったということか
ら、「残念石」と呼ばれていす、枚方や高槻でも淀川の川底からこ
こと同様の石が見つかっています。

残念石の場所


2月29日:13032歩

現龍大神(東淀川区柴島)

2月19日、白髭大明神に続き、もう一社、大阪府神社一覧表に載っ
ていない神社を見つけました。
それは長柄橋の右岸、柴島浄水場の敷地内にありました。
敷地内と言っても、柵などは無く自由に参拝できる状態でした。
神社名の入った石碑の台座には「柴島浄水場一同 昭和四十四年
八月吉日」の文字が彫られていました。
説明板などは無く詳しいことは分りませんが、柴島浄水場が建立し
たと思われます。


現龍大神:大阪市東淀川区柴島(くにじま)1丁目1

2016,02,21 撮影





まだあった東淀川区の神社(白髭稲荷大明神)

2月21日は久しぶりに第二の故郷、東淀川区の菅原付近の淀川
堤防をウォーキングの場所に選びました。
その時、まだ参拝していなかった神社を2社も見つけたのです。
昨年に東淀川区の全ての神社を参拝する、神社めぐりをして、東
淀川区にはもう参拝していない神社はないと思っていたのに、あっ
たのです、最初に見つけたのは、ホームセンターコーナン菅原店の駐車場
横で「白髭稲荷大明神」という神社です。鍵がかかっていて中に入れ
ませんでしたが、外からお参りしました。
見落とした理由は、大阪府神社一覧表に載っていなかったからです。
ネットで検索しても由緒、由来などは分りませんでした。

白髭稲荷大明神:大阪市東淀川区菅原2丁目2-114 (コーナンの住所)

2016,02,21 撮影





柵の隙間から見えた人物像です、この方をお祀りした神社で
あることが推測できます。


2月28日:20772歩

「五代友厚精藍所西朝陽館跡」(北区堂島)

西成区からJR北新地を目指して歩き続けて北区堂島までつきました。
NTTテレパーク堂島第二ビルの前で石碑が三つ並んでいるのを見つけました
、その一つが「五代友厚 精藍所西朝陽館跡」の石碑でした。

 朝陽館とは、大阪の発展と深い関わりのある五代友厚が、国産の藍がイ
ンド産のものに圧されるのを憂い、明治9年(1876年)に、蒸気機関を動力
とする最新設備を導入し、従業員300人で操業を始める。最盛期の明治
10年(1877年)から明治11年(1878年)には、海外にも輸出をするなどした
のだが、段々と輸入品に押され業績が悪化して、明治16年(1883年)に閉
鎖となる。

西朝陽館と西の字が付いているのは、東京にも同名のものがあり、それと
区別するためだったという。 出典フリー百科より

「五代友厚 精藍所西朝陽館跡」(北区堂島)

2016,02,19 撮影

石碑の場所:NTTテレパーク堂島第二ビルの前


カッフェー・キサラギ跡(大阪 最初のカフェ)

大阪市西区、川口教会の近くで「カッフェー キサラギ跡」の大阪市の
「顕彰史跡 第175号」を見つけました。

カッフェー・キサラギ跡:大阪市西区川口教会の前

2016,02,19 撮影




カッフェー・キサラギ跡(西区川口)  [大阪市顕彰史跡 第175号]
明治末年、大阪に初めて登場したカッフェである、場所はもとの川口居留地
に近く、川口教会の南東に位置していた。木津川に面して建てられた建物
からは、川をはさんで江之子島にあった旧大阪府庁を望むことができた。
同店では喫茶と洋食を供していたが、店に入ると靴を脱ぎスリッパに履き替
えて板敷の室内に上がる、といったしつらえであった、また室内の中央には
大きなストーブが置かれ、その周囲に木卓や椅子が無条件に置かれていた
しかし大阪で最初のカフェとあって、画家の小出楢重・鍋井克之・足立源一郎。、
歌舞伎役者の食満南北、詩人の百田宗治、ステンドグラス作家の鶴丸梅太郎ら
が「プライム会」と称して毎月集まった、大正に入ってからは、道頓堀に「カッフェ
パウリスタ」、千日前に「カッフェ ナンバ」新世界に「カッフェ ミカド」が登場した、カッフェに
集まった人々が中心となってさまざまな文芸雑誌が誕生した。


2月27日:12086歩

松島橋の碑(西区本田)

JR北新地に向かう途中、大阪ドームを過ぎ松島橋の右岸で「松島橋の
碑」を見つけました、現在の橋ができる以前の橋は木製であったことが
説明板に書かれていました。

松島橋の碑:大阪市西区本田1丁目 松島少年広場内
松島橋の碑
2016,02,19 撮影



木津川と尻無川(埋立)が分岐していた当地は、かつて樹齢三百年とい
われる名松があったことより、松島の地名がつけられたものである。
明治に入って、川口地区に外国人居留地が設けられたのを機に、木津
川の渡しを廃止し、松島橋が架けられたのが明治2年であった。
橋長が69.4メートルで、幅員が6メートルの木橋で、高い帆柱をもった
船を通すために、反りの大きい橋であったことが長谷川貞信の「浪華百
景」の中で描かれている。
しかしこの橋は、明治18年の淀川大洪水のとき流出したことにより、橋
脚を鉄杭にした木桁橋が架けられた。
現在の橋は、昭和5年に都市計画事業により架けられたものである。
平成11年4月 大阪市

現在の松島橋

大阪ドームロータリー港

2月19日、西成区の神社めぐりを終えて、JR北新地駅に戻る途中
大阪ドームの近くで見つけた「大阪ドームロータリー港」を紹介します。
2004年に国際ロータリーの会場になったのを記念して、この船の着く
場所の名前を「大阪ドームロータリー港」と呼ぶことにしたことが説明板
に記載されていました。






現地説明版の拡大
2016,02,19 撮影

津守神社(西成区)

西成区の神社めぐりで最後に参拝したのは津守神社です。

現在の大阪市西成区津守の一帯は、江戸時代に「津守新田」として開墾
された歴史があり、津守新田の開発の際に勧請されて創建された神社が
現在の津守神社にあたります。
江戸時代には、この神社は五所神社・五社大明神・稲荷神社などと称さ
れており、1871年(明治4年)に津守神社に改称されました

津守神社:大阪市西成区3丁目-4
PIC_0312
西成区の神社めぐり5社目、残り無し完結

2016,02,29 撮影


2月26日;61026歩

敷津松之宮西成社

敷津松之宮西成社は浪速区にある敷津松之宮神社の御旅所です。
同神社の由緒略記によれば、神功皇后が武内宿彌(たけのうちのすくね)
を従え敷津浜を航行中、松の木3本を植えて航行の安全を祈願したのが
起源で、はじめは松本の宮といい、明治維新の頃は八坂神社と呼ばれて
いました。
普通御旅所といえば敷地の狭い所が多いのですが、敷地の広い普通の
神社と変わりませんでした。

敷津松之宮西成社:大阪市西成区松2丁目3  通称:敷津松の宮御旅所
                  大国町の由来「敷津松の宮」(大国主神社)

西成区の神社めぐり4社目、残り1社
PIC_0310


「こつまなんきん」の由来 生根神社

大阪市西成区の神社めぐり、3社目に参拝したのは生根神社です。
境内には、浜村淳 奉納の俳句や「こつまなんきん塚」がありました。


生根(いくね)神社:大阪市西成区玉出西2丁目1-10

西成区の神社めぐり3社目、残り2社

浜村淳 奉納の句碑 「いざ うたえだいがく音頭に 夏の月」

「こつまなんきん塚」


「こつまなんきん」は当神社のある玉出の古名を勝間(こつま)村と言い、
当地の名産でした、小ぶりで、色の濃い、味わい深いかぼちゃを記念し
た塚。
江戸時代の大坂では天王寺蕪と並んで有名な「なにわ野菜」でした。

また、こつまなんきんとは、幼い海女の様に、色が黒く、小柄で、体のよ
く締まった、女性をもてはやす言葉としても知られています。
今東光は著作『こつまなんきんでそのような女性を描きました。

記事検索
プロフィール

ahisats3

カテゴリ別アーカイブ
QRコード
QRコード
  • ライブドアブログ