ahisats3のブログ

ウオーキング中に見つけた神社、史跡、珍しいもの等を紹介します。

2016年07月

待望の「ねむの花」(むろいけ園地)

最近は神社めぐりをよくするので、山に行く回数が減りましたが、7月20日
は飯盛山から、むろいけ園地を歩きました、昨年10月にむろいけ園地を
歩いた時、サヤエンドウのようなものが地面に落ちているのを見つけて調べた
ら「ねむ」の木の鞘(さや)でした、その鞘を見つけたと同じ場所付近に来た
ので合歓の木の上を見ると花が咲いていました、高い所に咲いているので
普通に歩いていると気が付かずに通過する処でしたが、見上げるとピンク色
の花が咲いていました。
昨年から咲くのを待っていた、合歓の花を見ることが出来ました。

合歓(ねむ)の花:むろいけ園地にて

2016,07,20  14:24  撮影






ねむの木の鞘(さや)でした


7月31日:16525歩

夢の浮橋跡(京都市東山区)

新熊野神社を参拝して7月18日に予定した全ての神社めぐりを終えて
京阪東福寺駅に向かう途中で「夢の浮橋跡」の石碑と説明板を見つけ
ました、今がその面影はありませんが、昔は辺りに川があり橋が架か
っていたのです。

夢の浮橋跡:  京都府京都市東山区泉涌寺五葉の辻町



夢の浮橋跡
かつてこの地に夢の浮橋が架かっていた、この橋は四条天皇をはじめ、
歴代の天皇后妃等の墓所が多い、泉涌寺に詣でる本道に架けられた橋
であり、古くから大路橋もしくは落橋とも呼ばれていた。
夢の浮橋という名は、源氏物語・宇治十帖の「夢の浮橋」の名にちなみ、
この娑婆世界の無常のさまが、夢のごとく、また浪にただよう浮橋のごと
くはかないものであるというたとえからとったと伝えられています。
川の流れは泉涌寺の後ろの山から出て、今熊野の南をめぐり、さらに一
の橋の下を流れて鴨川に入りますが、今は暗渠となり橋は取り外されて
います。   京都市

新熊野神社(京都市東山区)

7月18日、京都市の神社めぐりの最後14社目に参拝したのは新熊野神社
です。 新熊野と書いて「いまくまの」と読みます。
境内(本殿の裏)には「京の熊野古道」がありました。

新熊野神社は熊野信仰の盛んな平安時代末期、永暦元年(1160年)
、後白河法皇によって創建された神社です。
当時の京都の人にとって熊野に参詣することは大変なことで、そう何
回も行けるわけではありません。そこで、熊野の新宮・別宮として創建
されたのが当社で、当社は長らく京の熊野信仰の中心地として栄えま
した。当社が「新熊野」と書いて「いまくまの」と読むのは、紀州の古い
熊野に対する京の新しい熊野、紀州の昔の熊野に対する京の今の熊
野という当時の京都人の認識が、その由来となっています。 

新熊野(いまくまの)神社:京都府京都市東山区今熊野椥ノ森町





京の熊野古道

2016,07,18  15:23 撮影


7月30日:16737歩

松明殿稲荷神社(京都市)

7月18日、京都市の神社めぐりで13社目に参拝した松明殿稲荷神社は
事前に調べた神社の中にはありませんでしたが、最後に参拝する予定の
新熊野神社に向かう途中で見つけたのです。

松明殿稲荷(たいまつでんいなり)神社:京都市下京区稲荷町452-1

2016,07,18  14:52  撮影



松明殿稲荷神社
伏見稲荷大社の境外末社で田中社ともいう。
平安時代の天暦2年(948)に創始され、社名は同10年(956)、(みことのり)
により燎祭が行われた際に「炬火殿(たいまつでん)」の号を賜ったことに由来す
ると伝えられる。また、江戸時代に出された「都名所図会」には、伏見稲荷大社
の春の稲荷祭のとき、当氏子が松明をともしてその神輿を迎えていたことから、
「松明殿」の名で呼ばれていたと記されている。
はじめ、黒門通塩小路辺りにあったが、その後、七条東洞院などを経て、宝永8
年(1711)現在の地に移ったとされる。
大巳貴命、伊弉諾命、伊弉冊命、猿田彦命、倉稲荷魂命を祭神とし、天智天皇
像(木像)及び大友皇子(木像)を安置する。
また、境内西側には、五条坂の安祥院の僧で、日ノ丘峠の改修、亀の水遺跡な
どで知られる江戸時代中期の僧・本倉正禅養阿の銘のある手洗石及び井戸が
ある。 京都市

(みことのり):天皇の命令。



鴨川(七条大橋から下流に向かって写す)

女人厄除祈祷所「市比賣神社」

7月18日、京都市の神社めぐりで12社目に参拝した市比賣神社は
五祭神全てが女神です。

市比賣(いちひめ)神社:下京区六条河原町西入ル





2016,07,18  14:37  撮影

              市比賣神社(いちひめじんじゃ)
祭神として市寸嶋比賣乃命・多紀理比賣乃命・多紀都比賣乃命・
神大市比賣乃命・下照比賣乃命の五女神を祀っている。
恒武天皇が平安遷都に伴い、左右両京の市座(常設市場)を守護
する神社として延暦14年(795)に創建したものと伝えられる。
もとは東市座内の七条坊門にあったが、天正19年(1591)にこの地
に移った。 なお、京都市中央卸売市場には開設時より当社の末社
が祀られている。
清和天皇から後鳥羽天皇に至る27代の間は、皇室、公家の崇敬が
厚く、皇子又は子女の誕生ごとに当社の「天之真名井」のご神水を
産湯に加えられており、また、「お食べ初め」のもとである「五十日顕
之餅」神事や「市之餅」と名付けた産餅も授与された。
商売の繁盛を加護し、子供の成育と女性を守護する当社は、女性だ
けの厄除けの神を祀る京都の古くから女人厄除祈祷所として、全国
の女性の信仰を集めている。
近年はカード塚は創られ、あらゆるカードを供養するという現代的な祭典
も行われている。
毎年5月と11月の13日は例大祭が行われる。   京都市

7月29日:24339歩

高瀬川船廻し跡(京都市)

京都市の神社めぐり、次の市比賣神社に向かう途中の高瀬川で記念碑と説明
板がありました。
高瀬川の名前は知っていましたが、豊臣秀吉が命じて造られた運河であること
は知りませんでした。
また高瀬川の名前の由来は、荷物を運ぶため舟べりを高くした「高背舟」に因む
事も知りました。

高瀬川、京都市下京区木屋町通付近   当時は川幅9m以上ありました。

記念碑と説明板

2016,07,18  14:29  撮影

高瀬川船廻し跡
豊臣秀吉が天下統一の後、その権力を誇るものとして「天下泰平」祈願の
寺・方広寺(大仏殿)を建立した時、その資材(石材)を瀬戸内の島より諸
大名に命じて、伏見港から京へ搬入するために、天正14年(1586)、当時
の豪商・角倉了以に命じて、御土居の外に沿って掘らせ、慶長19年(1614)
、現・一之舟入(二条)から伏見まで息子素庵と共に開通させた水路(運河)
高瀬川である。 その後、この高瀬川は、京に米・材木・薪炭・などの他、日
常雑貨なども運び込む大切な通路として、大正9年(1920)まで使われてい
た。 
当時使われていた高瀬舟「は水深の浅い川に合わせた舟底の浅い平
らな舟で急流で荷を積んでも乗り切れるように「高背」即ち船べりが高く造ら
れていた、子のような舟で五、六隻一度に繋いで14、5人の船頭たちが両岸
に造られた普通の道より一段低くなった網場を、ホーイ、ホーイと抱え声を掛けな
がら背に架けた綱で引いて上がってきた。 当時この辺りの川幅は9メートル余
りあり、岸は砂浜のよになっており船廻し場となっていた。 また、ひと・まち
交流東館角の菊浜区民館辺りに回漕点がり、ここから上流六条坊門(五条)
にかけての舟繋ぎ場には、いつも何艙かの高背舟が繋がれていたと言われ
、五条~七条間に架かる橋は人が橋の下を綱を引いて通れるように門樋橋
(榎木橋)・七条小橋などみな高くしてあり、六軒橋・上の口橋は階段式(十段
ほどの石段)と成っていたため、人は通れても車は通れなかったし、正面橋
は橋まで急な上り坂に成っていたため、材木などを積んだ車などは、両側か
ら綱をつけてまだ後ろから人が押して渡っていたとの事である。 尚、この川
に因んだものとして木屋町通り・(大仏)正面通り・梅湊町・富浜町・納屋町・材
木町などの通り名や町名があり、当時正面通り木屋町東には米の取引所が
あり、その「米浜」という名が郵便局名として残されている。 
           菊浜高瀬川保勝会  京都市


7月28日:22608歩

日本三大えびす「京都恵比寿神社」

7月18日、京都市の神社めぐりで11社目に参拝した京都恵比寿神社は日本
三大えびすの1つです。

商売繁盛の神様・恵比寿さまが祭神の京都ゑびす神社は、兵庫県・西宮神
社、大阪府・今宮戎神社と並んで日本三大えびすと称され、「京のえべっさん
」の名で親しまれています。
 毎年1月8日から12日の5日間、京都ゑびす神社では初えびす(十日ゑび
す)が行われ、福娘の巫女が奉納の舞を踊り、笹や縁起物の飾りを授けてい
ただけます。京都ゑびす神社にお参りに来られた方は、恵比寿さまは耳が不
自由なので、まず本殿の正面でお参りした後、左へ廻って横の戸を軽くたたい
てから願い事をしてください。 ホームページより

京都恵比寿神社:京都府京都市東山区大和大路通四条下る四丁目小松

2016,07,18  14:02  撮影



                  恵比寿神社
事代主神、少彦名神、大国主神を祀る、社殿によれば、建久2年(1191)
栄西禅師が宋(中国)よりの帰途、舟が暴風に遇い遭難しそうになったが
、海上に恵比寿神が現れ、その加護により難を免れたといわれ、建仁2年
(1202)建仁寺創建に当り、境内に恵比寿神を祀り建仁寺の鎮守社とした
のが当社の起こりである、応仁の乱後、建仁寺再建の際も同所に再建さ
れ、今もなお当地の産土神としての人々の崇敬を受けている。
境内の岩本社には、平安時代の歌人在原業平を祀っている、また、財布
塚、名刺塚は古くなった財布や名刺の供養のため築かれたものである。
毎年1月10日を中心にして前後5日間行われる「十日えびす」の大祭には
全国各地から商売繁盛・家運隆昌・交通安全を祈願するために多くの人が
参詣する。     京都市

清水焼発祥の地「若宮八幡宮」

7月18日、京都市の神社めぐりで10社目に参拝した若宮八幡宮は清水焼
発祥の地、五条坂の中程にあり、陶器神社とも呼ばれています。

若宮八幡宮:京都市東山区五条橋東5丁目480  別称:陶器神社

2016,07,18  13:45  撮影



 若宮八幡宮
応神天皇(八幡神の主神)とその父母・仲哀天皇及び神功皇后を主祭神とし
左の相殿に仲恭天皇を祀っている。 また、昭和24年に右の相殿に陶租神
の椎得根津彦命は合祀されたことから、「陶器神社」としてもしられている。
平安時代の天喜元年(1053)に後冷泉天皇の勅願により源義経が六条醒ヶ
井(現在の西本願寺の北東辺り)に創建したのが当社の始まりと伝えられ
当初は六条八幡、左女牛八幡とも呼ばれた、源氏一族や武士からの信仰
が厚く、室町時代には足利歴代将軍の崇敬を集め、隆盛を極めた。その後
、応仁の乱により荒廃し社地を転々として慶長10年(1605)に五条坂のほぼ
中央に当る当地に移された。
現在の社殿は承応3年(1654)にされたものである。
毎年8月7日から10日までの4日間、若宮祭とともに陶器祭が行われ五条坂
一帯で盛大に開催される陶器市は多くの人でにぎわうまた、昭和60年(1985)
には若宮八幡宮前に、五条坂の先人及び陶器祭運営功労者への感謝を込め
て「清水焼発祥の地 五条坂」の記念碑が建立された。  京都市




7月27日:15802歩

安井天満宮(京都市東山区)

7月18日、京都市の神社めぐりで9社目に参拝した安井天満宮は縁切り、縁結
びの神社で大勢の人が参拝していました。

境内には「縁切り縁結び碑(いし)」

があり、参拝者の多くがこの「縁切り縁結び碑(いし)」を目当てにやってきます。
碑には、「○○と縁を切りたい」などの願い事が書かれた「形代(かたしろ)」(身代
わりのおふだ)という札が一面にビッシリ貼られています。
切りたい縁・結びたい縁などの願い事を書いた「形代」を持って願い事を念じな
がら碑の表から裏へ穴をくぐり、悪縁を切ります。
次に裏から表へくぐって良縁を結びます。
最後に「形代」を碑に貼り、縁切り・縁結び完了。

安井天満宮:京都市東山区東大路通松原上ル下弁天町70

2016,07,18   13:48 撮影



「縁切り縁結び碑(いし)」



霊明神社(東山区)

7月18日、京都市の神社めぐりで8社目に参拝したのは霊明神社です。
場所は京都霊山護国神社の南側に鎮座しています。


霊明神社を創建した村上都愷(くにやす)は光格天皇(在位1779~1817)の朝廷に
仕えていましたが、葬儀を仏式で行うことに疑問をもち、山林、約一千坪を買い、霊
明神社を創設し、神道による葬式を始め、京都で死んだ藩士を霊明神社の墓地に
葬るなど、近江屋で襲われ亡くなった龍馬と中岡慎太郎、二人の遺体は海援隊など
の同志によって霊明神社に運ばれ、神社が神葬祭を行って「実葬」しましたが、
明治10年(1877)政府によって墓地と境内地の大半を召し上げられ政府が管理する
招魂社になりました、招魂社というのが現在の京都霊山護国神社です

霊明(れいめい)神社:京都府京都市東山区清閑寺霊山町25

2016,07,18  12:35 撮影




聖地霊山 霊明神社由来
  御祭神
   造化の御神宇宙の大霊
  天之御中主命
 霊界の守護神
 熊野三柱大神  菊理媛命 速玉男命 事解男命
 相殿
  天照皇大神 猿田彦大神 天鈿女命 
 武甕槌命 経津主命
  末社 猿田彦明神神石 文化4年(1807)
 「神石奉送一札」とともに還される。
  宇多天皇の御代 融大臣の河原院 御造営時
御神石「土祖神 猿田彦命」

創設
文化6年(1809)8月3日主殿寮の史生従六位上日向目 村上都愷(くにやす)
大人が門人および神道有志のため、徳川幕府の政策下にありながら神道葬
祭を断行し、神道信仰素志貫徹を図るため、正法寺の塔頭清林庵 所有山林
の一千坪を買い受けて霊山神葬地を創設し、同年11月霊明神社を創建して
神道葬祭を始める。
三代の神主 村上都平(くにひら)大人の時、文久二年(1862)11月18日竹御
所(曇華院)に仕える勤王家 吉田玄蕃の志により、長州清末藩 国学者 船越
清蔵守愚の墓を建立し、長州藩主の使者と長州藩士の参列のもとに神道葬
を営んだ。
【これが機縁になって】長州藩をはじめ殉難志士を当霊山に埋葬祭祀すること
になった。
文久2年(1862)12月14日神祇伯白川家の古川躬行や津和野藩の福羽美静
らの発起により、安政の大獄以降の殉難志士の「報国忠死の霊魂祭」が営ま
れ、招魂社また【靖国神社創建の起源】をなすものとなった。
「死して護国の神となる」「霊山の村上にて皇国の手振りにて葬らることを如何
に楽しとせし事ぞ」と霊明神社に葬られ、神霊として祀られることを無上の名誉
と思ったのである。
明治政府が我が国最初の官祭招魂社の場所と定めたのは、霊明神社によって
志士の神霊を鎮め、慰霊している聖地であったからである。
招魂社創建に伴い、霊明神社の約1800坪の墓地・境内地が上知となった。

上知(じょうち):江戸幕府や明治政府が出した土地没収の命令。

7月26日:16560歩

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