ahisats3のブログ

ウオーキング中に見つけた神社、史跡、珍しいもの等を紹介します。

2017年01月

大谷本廟(京都市東山区)

清水寺を出て、次に参拝したのが親鸞聖人の墓所、大谷本廟です、

大谷本廟:京都市東山区五条橋東6丁目514





             大谷本廟の歴史
浄土真宗を開かれた宗祖 親鸞聖人(1173~1263)は、御年90歳
でご往生され、烏辺山の南辺(現在の「御茶毘所」)で火葬に付され
たのち、ご遺骨は烏辺野北辺の「大谷」に納められました。
その後十年を経て、聖人の末娘の覚信尼さまが、諸国の門弟の協
力を得て、ご遺骨を吉永の北辺(現在の知恩院山門北側の「崇㤗院
」付近)にご改葬、お堂を建ててご影像を安置されました。
ここを「大谷影堂」また「大谷廟堂」と呼び、本願寺の始まりの地とな
りました。
1603年、大12代准如宗主の時代に、徳川幕府の命により、廟堂は
五条坂の現在地に移転しました。
以来、大谷本廟は、宗祖 親鸞聖人のみ教えを仰ぎ、お念仏のよろ
こびに生かされる門信徒の方がたの尊いご想念によって護持されて
います。




1月31日:24809歩


アテルイ・モレの碑(清水寺)

清水寺境内の地主神社を参拝後、出口に向かって歩いていると、何かの
碑があり、近づいてみると、アテルイ・モレの碑でした。
どうして清水寺にこの碑があるかは、下記の碑文に載っています。

阿弖流為(アテルイ)・母禮(モレ)の碑:清水寺境内







                                    顕 彰 碑
「八世紀末頃、日高見国胆沢(岩手県水沢市地方)を本拠とした蝦夷の首
領・阿弖流為(アテルイ)は中央政府の数次に亘る侵略に対し数十年に及
ぶ奮闘も空しく、遂に坂上田村麻呂の軍門に降り同胞の母礼(モレ)と共に
京都に連行された。 田村麻呂は敵将ながらアテルイ、モレの武勇、人物を
惜しみ政府に助命嘆願したが容れられず、アテルイ、モレ両雄は、八〇二
年河内国で処刑された。 この史実に鑑み、田村麻呂開基の清水寺境内に
アテルイ、モレ顕彰碑を建立す。 」  



「八世紀の末頃まで、東北・北上川流域を日高見国(ひたかみくに)と云い、
大和政府の勢力圏外にあり独自の生活と文化を形成していた。政府は服
属しない東北の民を蝦夷(えみし)と呼び蔑視し、その経略のため数次にわ
たり巨万の征討軍を動員した。胆沢(いざわ:岩手県水沢市地方)の首領、
大墓公阿弖流為(たのものきみあてるい)」は近隣の部族と連合し、この侵
略を頑強に阻止した。なかでも七八九年の巣伏(すぶせ)の戦いでは、勇猛
果敢に奮闘し征東軍に多大の損害を与えた。八〇一年、坂上田村麻呂は
四万の将兵を率いて戦地に赴き、帰順策により胆沢に進出し胆沢城を築い
た。阿弖流為は十数年に及ぶ激戦に疲弊した郷民を憂慮し、同胞五百余
名を従えて田村麻呂の軍門に下った。田村麻呂将軍は阿弖流為と副将磐
具公母礼(いわぐのきみもれ)を伴い京都に帰還し、蝦夷の両雄の武勇と器
量を惜しみ、東北経営に登用すべく政府に助命嘆願した。しかし公家達の
反対により阿弖流為、母禮は八〇二年八月一三日河内国で処刑された。
平安建都千二百年に当たり、田村麻呂の悲願空しく異郷の地で散った阿
弖流為、母礼の顕彰碑を清水寺の格別の厚意により田村麻呂開基の同寺
境内に建立す。 両雄以って冥さるべし。
1994年11月吉祥日
     関西岩手胆江同郷会 関西岩手県人会  京都岩手県人会  
     アテルイを顕彰する会 

上記碑文に河内国で処刑されたとありますが、場所は枚方市の片埜神社
の近くで
私は2013年にブログに取り上げています。アテルイ、モレの碑

1月30日:22378歩

京都最古の縁結びの神様「地主神社」

地主神社は清水寺の中にあることは知っていましたが、場所が分かりにくい
ので寺の人に聞くと清水寺の本堂を通過していくため入館料を払う必要があ
ります。

地主(じしゅ)神社:(清水寺境内)

1月15日の京都市神社めぐり11社目

                   ご利益
大国主命さまは えんむすびのご利益がある神様として有名です、因幡の白兎を
助けられた心のやさしい神さまでみんなに幸福を与えてくださいます。
           世界文化遺産 京都 地主神社


2017,01,15  01:02 PM

            京都最古の縁結びの神様
恋の神様縁結びの神様として知られる地主神社は恋の成就や良縁
達成を祈願する全国各地からの参拝者で年中にぎわっている。
その歴史は古く、創建年代は遠く神代(日本の建国以前)にさかのぼ
り、本殿前の「恋占いの石」は縄文時代から伝わるとされる。
現代の社殿は、寛永十年(1633年)三代将軍徳川家光によって再建
された。奈良時代の双堂という最古の建築様式を残す本殿は、拝殿、
総門、境内地と共に国の重要文化財に指定され、世界文化遺産にも
登録されている。


1月29日:20320歩

冥加料とは「音羽の滝」(清水寺)

清水の舞台に続いて有名な場所である、三筋の清流が流れ落ちる音羽の滝を
紹介します。1000年以上の昔から枯れることなく流れ落ちているそうです。

修学旅行で清水寺に訪れる人は必ずといっていいほど立ち寄る人気が高くその
うえご利益もあるという人気スポットです。そこには多くの人が行列を作り水を尺
に汲んで飲むのですが、使った後には殺菌消毒を行う装置の中へ入れて次の
人に渡されるそうです。

そのご利益は向かって右から健康、美容、出世(観光用に言われているのは健
康・学業・縁結び)となっています。

三つ全部飲むと欲深いということになり、ご利益が消えてしまうということも伝え
られています。

音羽の滝(清水寺)







音羽の滝
三筋の霊水は大昔の音羽山中より湧き出る清泉であり、創建以来一
度も枯れることなく、今日に至ります。観音様の功徳水である金色水
とも呼ばれ延命長寿、所願成就のご利益があるといわれてきました。
(霊水 冥加料五百円)またここは開山延鎮上人と開基行叡居士が出
会った起源の場であり、現在では不動明王をご本尊としてお祀りいた
しております。
毎月28日の不動縁日には朝7時より山内僧侶が揃い、信者と勤行を
いたします。是非とも早朝の荘厳な雰囲気の中、共にご参拝頂ければ
幸いです。                         合掌


冥加料(みょうがりょう)
      気がつかないうちに授かっている神仏の加護・恩恵に対するお礼
      (一種の献金)


1月28日:20339歩

音羽山 清水寺(東山区)

八坂神社の次に地主神社へ参拝しました、地主神社は清水寺の境内に
あるため清水寺へ入館する必要があります。
地主神社の前に清水寺を紹介します。
「清水の舞台から飛び降りる・・・」の諺にもなった、高い舞台があり、私も
たぶん、若い時に一度行ったことがあるはずですが、全く記憶から消えて
いるのです。

清水寺(きよみずでら):京都府京都市東山区清水一丁目294







2017,01,15  00:59 PM



             国宝 本堂舞台 江戸初期
「清水の舞台」といわれ、本堂(国宝」の付属建築物で平安時代の昔から
構築されてきた。
現在の舞台組は寛永十年(1633)徳川三代将軍家光の寄進による再建
のままで、欄干親柱の金網製宝珠に「寛永拾歳」と銘刻されている。
本堂外陣(礼堂)の廊下から南の谷へ間口約18メートル、奥行約10メートルに
、長さ5,5メートルの檜板を敷き詰め檜舞台として張り出し(舞台板は20~30
年毎に張り替える)床下は巨大な欅の柱にを縦横に通し楔でとめて頑丈
に支え、いわゆる舞台造りになている、建築学的には、懸造りといい、礼堂
の下から長短の欅柱で構築されており、観音様のお住まいとされる南インド
の峻険な補陀洛(ボトラガ)山中の宝殿に実に似つかわしい、最南端は錦雲渓
の急崖に13メートル強の高さで建ち「清水の舞台から飛び降りるつもりで・・・」
の諺の生んできた。
本来は本堂に奉祀する御本尊千手観音様に向かって舞楽を奉納する、名実
ともに「舞台」で現に重要な法要には舞楽、芸能などを奉納している、東、西
南側の翼廊は、その楽人たちの詰める楽舎である。
のこ舞台からの、錦雲渓をへだてた向山の子安の塔と阿弥陀ケ峰の眺めや
、京都市街、西山の遠望は、まことに見事である。
左下方には「清水寺」の寺名を由来する音羽の滝がこんこんと三筋の清水を
流し、その上手には同じく舞台造りで奥の院(重要文化財)が建つ。


(ぬき):木造建築で柱等の垂直材間に通す水平材。 木造建築では、水平
       方向の固定に用いる。壁・床下の補強などに使われている。

       建築物以外にも、神社の鳥居や、テーブル・椅子などの家具の足の
       部分にも用いられている

美御前社他(八坂神社摂社その②)

八坂神社の摂社を紹介その②は美御前社と刃物神社を紹介します。

美御前神社(うつくしごぜんしゃ)

2017,01,15  00:02 PM       1月15日の神社めぐり9社目

              美御前社
    祭神 市杵島比売神
        多岐理比売神 
        多岐津比売神
美御前という名の通り、美を象徴する神として祭られています。
本社の祭神、素戔嗚尊が天照大神と契約(うけい)されたとき
素戔嗚尊のもっておられた十挙剣を降りすすいで生まれた三
柱の女神で宗像三女神といい、清浄・潔白の証しとなった神々
で、俗に弁天さんといわれるのもこの市岐島姫に神です。
古くから祇園の芸妓さん舞妓さんをはじめ美しくなりたい願望の
女性はもとより美容理容・化粧品業者の崇敬を集めています。


刃物神社

1月15日の神社めぐり10社目

2017,01,15  00:10 PM

                                      刃物大神の由来
京都は, 平安時代より明治維新に 至るまで王城の地として栄え, その間,
刀剣を初め刃物の製作に幾多の名工を 輩出, 刃物発祥の地として隆盛
を極め てきました。
刃物の基礎はこの地の土壌に培われ, また, ここで修業せし人々をも各地
に 転出させ, この技術を源流として, それ ぞれ刃物産地の基礎を確立い
たし 現在に至っております。
わたくしたちは, これら祖先の遺業 を偲び伝統をうけつぎ, 京刃物の 真髄
を後世に伝えるとともに, 業 界の振興と啓蒙を目的として, ここに 有志相
図り刃物神社を奉献する に当り, その由来を識す。
                              昭和48年11月8日 刃物神社建設委員会

疫神社他(八坂神社摂社その①)

事前の調べで八坂神社の境内に刃物神社があることが分かり、八坂
神社に行くと、多くの摂社がありました、すべては紹介できませんが、
疫神社他、3社を紹介します。

八坂神社の摂社を紹介その①
疫(えき)神社:別称 蘇民将来社  

2017,01,15  11:47 AM   1月15日の神社めぐり7社目

               疫 神 社
  祭神 蘇民将来命(そみんしょうらいのみこと)
むかし、祖神(おやがみ)が諸国を巡って日暮れに宿を請うたところ
巨旦将来(こたんしょうらい)は富み栄えていたのに貸さず、蘇民将来
は貧しかったけれども粟穀で座をしいて粟の粥で手厚くもてなしました
ので、「わらはハヤスナノヲの神なり」といい、後年厄病が流行しても茅の
輪をつけて「蘇民将来の子孫なり」といえば、災厄から免れしめると約
束され、巨旦将来の子孫は皆絶えてしまいましたが、蘇民将来の子孫
は今に栄えています。
例祭一月十九日 夏越祭七月三十一日


八坂神社の摂社で次に悪王子神社を紹介します。
悪とは、悪い・邪悪という意味ではなく『力強い』『強力な』という意味です。

悪王子(あくおうじ)社

2017,01,15  11:57     1月15日の神社めぐり8社目

             悪 王 子 社
 祭神 素戔嗚尊(すさのおのみこと)の荒魂(あらみたま)
悪王子の「悪」とは「強力」の意であり、荒魂は、現実に姿を顕わす
、霊験あらたかな神の意であります。
書願成就の御神徳で聞こえております。
元は東洞院四条下ル元悪王子町にありましたが、天正年中(1573
~92)烏丸通万寿寺下ル悪王子町に還り、慶長元年(1596)四条京
極に、されに明治十年(1877(本社境内に移築したものです。


1月26日:22347歩

初めて見た「つらら」(東山区)

青蓮院門跡を見学後、次の神社に向かう途中の知恩院付近で、外国人が
上を見ながら何かを写していたので、私も上を見ると「氷柱(つらら)」が屋根
からぶら下がっていました。
大阪では、寒い日は水たまりが凍ったことも過去にありましたが、最近は地球
温暖化の影響か、水たまりが凍ることもなくなりました。
60年以上大阪に住んでいますが、氷柱は一度も見たことがありません。

初めて見た「つらら」 2017年1月15日 京都市東山区にて

2017,01,15  11:27  AM




門跡とは「青蓮院門跡」

白水小学校前で「粟田口」の駒札(説明版)を見た後、少し歩いと
青蓮院という大きい寺院があり、その寺院の境内図に「天台宗
粟田御所 青蓮院門跡」となっていましたので、勉強不足の私は、
「門跡」を私は「もんあと」と読んでしまい、門の跡はどこにあるのか
疑問に思っていましたが、その時は特に調べませんでした。
後日、調べたら、「門跡」は「もんぜき」と読み、意味は格式の高い
寺院のことで皇族・公家が住職を務める特定の寺院のことでした。

門跡(もんせき、もんぜき):皇族・公家が住職を務める特定の寺院、
   あるいはその住職のことである。寺格の一つ。元来は、日本の
   仏教の開祖の正式な後継者のことで「門葉門流」の意であった
   (この場合は門主とも)。鎌倉時代以降は位階の高い寺院のこ
   とをいう。


青蓮院門跡(しょうれんいんもんぜき)
         :京都府京都市東山区粟田口三条坊町69−1



2017,01,15  11:27 AM



             青蓮院(しょうれんいん)
三千院、妙法院と並ぶ天台宗山門の一つで天明の大火(1788)の
際に仮の御所となったことから、粟田御所とも呼ばれる。
最澄(伝教大師)が比叡山に建てた僧侶の住居の一つ「青蓮坊」に
始まるとされ、平安時代の行玄のときに三条白川(現在地のやや北
西)に移り、鳥羽法皇の代七子が行玄の弟子が門主(住職)を務め
る「門跡寺院」となった。
歴代門主のうち、三代の慈円は歴史書「愚管抄」の著者として有名
で、十七代の尊円入道親王は和風と唐風を融合した青蓮院龍(の
ちの御家流)と呼ばれる書風で知られる名筆家であった。
境内全域が国の史跡に指定されており、粟田山の山裾を利用した
庭園は、龍心池を中心とした美しい池泉回遊式庭園で、主庭は相
阿弥の、霧島の庭は小堀遠州の作と伝えられている。また、神宮
道沿いの門前には、この寺で出家した親鸞上人のお手植えと伝わ
る巨大な五本の楠(京都市登録天然記念物)がある。
寺宝として、青黒く描かれていることから「青不動」の名で知られる
「不動明王二童子面像」(国宝)をはじめ、多数の文化財を蔵する。
円山公園東の山頂に、飛び地の境内である将軍塚大日堂を有し、
そこからの京都市街の眺めは格別である。


1月25日:28055歩

粟田口の由来(東山区)

粟田神社境内で鍛冶神社を参拝後次に見つけたのが、白川小学校の
前で「粟田口」の駒札(説明版)を見つけました。

地名「粟田口」の由来は、奈良時代以前からこの地域を拠点としていた
、粟田氏に因み、中・近世に京都の市中(洛中)と市外(洛外)を結んだ
街道の出入口の総称で,京都七口の一つ「粟田口」でした。

京都七口:七条口・千本口・大原口・粟田口・五条口・竹田口・東寺口

粟田口(あわたぐち)





                                       粟 田 口
粟田口とは、三条通(旧東海道)の白川橋から東、蹴上付近までの
広範囲に渡る地名である。
この付近は奈良時代以前から開かれた土地で粟田氏が本拠とし
、粟田郷と呼ばれていた、平安京ができると、東国との交通の要地
あるいは軍事上の要衝にあたることから、やがて粟田口(三条口)
と呼ばれ、京都七口の一つに数えられた。
鎌倉・室町時代にはここを通って馬借や車借など運送業者が物資
を運んだ。江戸時代には東海道五十三次の西の起点、三条大橋を
間近に控え、人や物資の往来でにぎわった。
またこの付近には、平安時代の末以降、刀鍛冶(刀を作る職人)
たちが住居を構えていた、中でも、童子に化けた狐に鍛冶の手伝い
(相槌)をしてもらい名刀「子狐丸」を打ったという伝説が残る刀匠
・三条小鍛冶宗近が有名である。
江戸時代の元和年間(1615~1624)には瀬戸から焼き物の技術
が伝えられ「粟田焼」とよばれる陶器の産地になった。
この右手にある門跡寺院・青蓮院は「粟田御所」とも呼ばれている。
                            京 都 市





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