ahisats3のブログ

ウオーキング中に見つけた神社、史跡、珍しいもの等を紹介します。

2017年04月

柳沢神社(大和郡山市)

大和郡山城の敷地内に柳沢神社がありました。
柳沢神社は5代将軍綱吉の側用人として仕え、柳沢家中興の祖とも称えら
れる柳沢吉保公(19代郡山城主 柳沢吉里の父)を御祭神として鎮座してい
ます。
金魚の養殖をはじめ、様々な恩恵を与えてきたその功績により、明治13年
に旧藩士によって神社が創建されるに至りました。
その際に植えられた数百株にも及ぶ桜の木が、今では多くの花見客の目を
楽しませています。

柳沢神社:奈良県大和郡山市城内町2−18

2017,04,13  10:20 AM





柳沢家は第19代城主 柳沢吉里(甲府から入城)から第24代 柳沢保申まで
6代、145年間に渡って郡山城主を務めました。


4月30日:17131歩

「転用石」とは大和郡山城

4月13日の日帰りツアー旅行、最初の観光地は大和郡山城でした。
日本さくら名所100選の一つで、満開を少し過ぎていましたが、まだ美しさは残
っていました。
ボランテァのガイドさんにより、城の石垣は転用石を使い積み方は野面積みである
ことなど詳しい説明がありました。

大和郡山城は筒井順慶によって築かれた城です。その後は秀吉の実弟である
羽柴秀長の居城となりました。江戸時代には譜代大名が歴代城主を務め、柳
沢吉里が入封後は柳沢氏が明治維新まで居城としました。大和は石材に乏し
い国であったため、天守台の石垣には墓石や地蔵までもが用いられています
(これを「転用石」と呼びます)。なかには「逆さ地蔵」と呼ばれる、逆さになった
状態で石の間に埋もれている地蔵があります。現在は本丸の石垣や堀が残っ
ており、また大手門、大手東隅櫓、大手向櫓が復元されています。大和郡山城
は桜の名所として、日本さくら名所100選にも選定されており、毎年4月1日から
行われる「お城まつり」には多くの花見客でにぎわいます。 ホームページより

転用石(てんようせき):戦国時代・江戸時代の日本の城において築城に際し、
               当初は他の目的で使用されていた
石垣に転用さ
               れたもの。
野面積(のずらつみ):石の加工程度による分類で、野面積、打込接、切込接
              に分類される。

大和郡山城:奈良県大和郡山市城内町

2017,04,13  10:10 AM





ボランテァガイドの説明書を写す。



4月29日:32460歩

大阪通商会社・為替会社跡(大阪市北区)

自由亭跡の次に中之島公会堂の南側植え込みの中で「大阪通商会社・為替会社
跡」の記念碑を見つけました。

明治2年に商業を育てていく目的で政府機関として、通商司大阪支署を設置しまし
た。
この通商司の下に、通商会社と為替会社の2社を設置し、前者は商業振興や国内
諸商品売買の仲介・外国貿易を統括し、後者では預金・紙幣発行・資金貸出・為替
・洋銀・両替などの金融業務を行うこととしたのでした。これが、明治2年のことです。
「銀行」や「株式会社」といった新しい社会の仕組みが、この時代、まさにできつつあ
り、そのモニュメントとして、大阪通商会社・為替会社の跡碑が中之島公会堂の南
側に記念碑が設置されています。


大阪通商会社・為替会社跡:大阪市北区中之島1丁目1

2017,04,13  06:49 AM



記念碑の場所:中之島中央公会堂の南側植え込みの中


4月28日:26592歩

大阪市顕彰史跡 「自由亭跡」(北区)

「朝日新聞創刊の地」の次に中之島で大阪市顕彰史跡第202号「自由亭跡」
のプレートを見つけました。

自由亭跡:大阪市北区中之島1丁目 後ろのビルは東洋陶磁美術館

2017,04,13  06:44 AM

大阪市顕彰史跡第202号 自由亭跡(北区中之島1丁目)
幕末に日本初の西洋料理店を長崎で始めた草野丈吉が、明治14(1881)年
に中之島で開業した料亭である、明治29(1896)年、長女錦によって本格的
な西洋建築の大阪ホテルへと発展した。




4月27日:25486歩

朝日新聞創刊の地(大阪市西区)

4月13日は日帰りのツアー旅行に出かけました、集合場所が梅田で7時40分
だったので、ついでにその近辺でなにか、史跡などを探索しようと、調べたら
「朝日新聞創刊の地」があることが分かり、家を早く出て、一番電車で出発し
てJR北新地駅に着いたのが6時ごろで、大阪市営地下鉄四つ橋線の肥後橋
駅の80mほど南、「朝日新聞創刊之地」と書かれた円柱状の石碑をみつけ、
集合時間には間に合いました。
記念碑を見つけるのに苦労しました、地下鉄肥後橋駅南80mというのは
わかっていたのですが、朝早いので通行人も少なくやっと来た人に聞いても
知っている人はいなく、何度も往復しているうちに、やっと見つかりました。
地下鉄肥後橋駅の7番出入口、近くの「愛媛県大阪事務所」を目標にすれば
分かりやすかったのです。

三大全国紙の一つである朝日新聞は,1879(明治12)年に大阪で創刊されま
した。つまり大阪発祥の新聞であり,現在も登記上の本社は大阪にあります。
東京に進出したのは 9年後の1888(明治21)年のことで,東京発行の紙面は
『東京朝日新聞』,大阪のものは『大阪朝日新聞』と改題され,1940(昭和14)
年より『朝日新聞』の題号に統一されました。

 

朝日新聞創刊の地:大阪市西区江戸堀




2017,04,13  06:21 AM 撮影

創刊之地碑は,円柱の上部側面に「朝日新聞創刊之地」の文字が
刻まれ,上面には 明治12年の創刊号の第一面をプリントしたプレ
ートが埋め込まれています。





4月26日:25648歩

石橋村高札場跡(池田市)

池田市の神社めぐりを終えて阪急石橋駅の手前の踏切付近で「石橋村高札
場跡」を見つけました。

「高札」とは、立て札ともいい、江戸時代 法度掟書、犯罪人の罪状などを記
し、交通の多い市場、辻などに掲げられた板札をいう。その目的は一般の人た
ちに法令を徹底させるためのものでした。

法度(はっと)       :法令。特に、禁止のおきて
掟書(おきてがき):中世後期から盛んになった公布法の一形式。初めに「掟」
             「定」などと書かれた。在地領主・土豪などが用いた


石橋村高札場(こうさつば)跡:阪急石橋駅の近くの踏切そば

2017,04,05  05:12 PM



                                  旧石橋村の高札場跡
 ここは、京都と山陽地方とを結ぶ「西国街道」、大阪と池田・能勢方面とを結ぶ
「能勢街道」(江戸時代は「大阪道」あるいは「池田道」)が交わる場所です。
かつて、多くの人々や物資が行き来したこの辻には、幕府や奉行所などから庶
民に周知させる法令や禁令、生活の規範などを掲げた高札場 がありました。

江戸時代の石橋村は麻田藩青木家(一万石)の領地になっていました。この時代
の戸籍台帳である『宗門御改帳』などによると、元禄三年(690)に29軒1928人、
幕末の文久元年(1861)には24軒104人の人々が暮らしていたようです。
江戸時代の村の様子はあまりわからないものの、次のことがうかがえる史料が
あります。   嘉永6年(1853)の黒船(アメリカ艦隊)来航以降、幕府は初版に海
岸の防備を強化するよう命じました。
同年七月、石橋村庄屋元二郎が江戸に行っていた同村の仁右衛門・徳次郎に宛
てた手紙が残されており、そこには「異国船が来たと驚いている、幕府をはじめ諸
藩の苦労がしのばれる。旱魃やほうき星が外国の仕業であると皆が評判している
」といった内容がしたためられています。アメリカ、ロシアの相次ぐ来航という歴史
を動かした幕末の動揺が、ここ石橋村にも及んでいたことがわかります。

近代以降 明治22年(1889)の町村制の施行によって、石橋村は北豊島村の大字
となりました。昭和10年(1935)、北豊島村は、秦野村、細河村、池田町と合併、昭
和14年には市制が施行されて池田市になり、「石橋」は町名としてその名を今日に
残しています。                                           平成22年4月   池田市教育委員会


4月25日:25841歩

十二神社(池田市)

4月5日の池田市神社めぐりで最後の14社目に参拝したのは十二神社です。
神社名の由来は、祭神が天神七代(伊弉諾尊など)・地神五代(天照大神な
ど)の十二神であることからこの神社の名がついています。
また境内に防空壕跡がありました。

十二神社(池田市)豊島南1丁目2−9

2017,04,05  04:50 PM




防空壕



                十二宮神社境内防空壕跡
この地域は大阪第二飛行場(現、大阪国際空港)に近く、太平洋戦争の激化
にともない空襲の可能性が強くなり、この防空壕は地域住民の避難場所と
して、旧北今在家町、北森本町、西市場町の人々の手によって、昭和18年に
つくられました。
防空壕の大きさは、おおよそ長さ10m、巾3mから4m、高さ2mのコンクリート製で
、30人程度の人が避難できる大規模なものでした、当時は住宅の庭や床下な
どに防空壕がつくられておりましたが、今はほとんど残っておりません。
あの悲惨な戦争を後世に伝えるため、戦後50周年を記念して、「この戦争の傷
跡」碑を設置するものです。
この防空壕は、危険防止のため内部は埋められています。 大阪府・池田市


上記の説明に現在の大阪国際空港が大阪第二空港であったとあるので、それ
では第一空港はどこにあったのかを調べたら大阪第一空港(堺市大和川の辺)
は計画のみに終ったことがわかりました。


4月24日:20831歩

亀之森住吉神社(池田市)

4月5日の池田市神社めぐりで13社目に参拝したのは住吉神社です。

由来
社伝によりますと、此の辺りは大昔には、広々とした入海でしたが、第15代
応神天皇の頃、忽然として亀形の小島が現われてより次第に土地が開け、
第49代光仁天皇の御代、ある夜、里人の夢に「吾ハ住吉大神ナリ、汝等、
吾ヲ信ズル者ハ、白箭(矢)ノ止ル処ヲ見ン」というお告げがありましたので
、翌朝、里人等が集って、森に来てみると果して、お告げの通りでした。
里人らは驚き、畏み、かつ喜びまして、ここに住吉大神を奉したのでありま
す。 時に、光仁天皇宝亀元年庚戊年(西暦770年)でありました。爾来「風
雨順に民豊ナリ依テ郡名ヲ豊島ト呼ビ、其里ヲ豊島ノ庄ト謂ヒ、世々亀之森
住吉神社ト云フ」と社伝にありますように、豊島郡(今の豊中市、池田市の
地域)の総鎮守、大産土神(うぶずなのかみ)として崇敬されてまいりました。 
                                                                                         
ホームページより

住吉神社:大阪府池田市住吉2丁目3番18号  通称:亀之森住吉神社

2017,04,05  04:25 PM





猪名津彦神社(池田市宇保町)

池田市神社めぐりで12社目に参拝した伊名津彦神社は大阪府神社データ
の池田市神社一覧表に載っていませんでしたがグーグル地図で見つけたの
です。

猪名津彦神社は,穴織媛,呉織媛らを中国から連れて帰った阿知使主と都
加使主の父子二柱を祀ります、 社殿の場所には円墳があり石室がありまし
たが、盗掘されたため,池田市綾羽の伊居太神社境内に,あらたに猪名津彦
神社の社殿を建て,そこに石室の破片や人骨を遷して祀っていましたが、そ
の後あらためて旧社地(現在地)に社殿が再建されました。




猪名津彦神社:大阪府池田市宇保町6−18

2017,04,05  03:27 PM



                猪名津彦大明神由来
当猪名津彦神社は、後漢の孝献皇帝(霊帝)の聖裔阿智王都加王の両人を
祀る所で延喜式に云う摂津國豊島郡鎮座の神社である。
日本書記に応神天皇20年秋9月  阿智使主其子都加使主は部下17県の人
達を連れて我國に渡来し大和國桧隈に住吉を興へられ同天皇37年春2月
両人を勅使として呉國に縫工女を求めしめんとされ呉王より兄媛弟媛鳥沙
架女幾利区珥女の四婦女を興へられ同41年春2月阿智使主等呉國より筑
紫に帰省したが胸形大神の乞に兄媛を差し上げ他の三婦女を伴い摂津國
武庫にいたる時に天皇崩御の報に接し献するを得ず後仁徳天皇は居館を
豊島郡為那野に造営し羅綾織維の業を専らにされその功績により此の地
を呉服と名付け反正天皇は勅命を持って送り名をされ猪名津彦大明神とし
之が倭漢直の祖である。
降って允恭天皇の時その子孫忘奴手直に阪上姓を弟奴留間直にはれ奉姓
を賜う文化年間に古墳の盗堀がはやり阿智使主の古墳と傳えられた所も其
の例にもれず行はれ此の所より珠塗の棺の破片人骨の若干を持ち帰へり猪
名津彦大明神跡に埋葬し御霊は現地に御祀りしものであります。
 右文は、伊居太神社の御文章を書写したのもであります。
         平成17年10月吉日


4月23日:29526歩

鉢塚古墳(池田市)

鉢塚古墳は、五社神社本殿の真裏にあります。
直径約40m、高さ約9m、周濠幅10mの円墳で、横穴式石室は玄室長
6.48m、幅3.5m、高さ5.2m、羨道部は長さ8.4m、幅1.8m、高さ2.m
。その規模は京都府の蛇塚、奈良県の石舞台古墳に次ぐ大きさで、大坂
府では最大です。
玄室内に安置されている石造十三重塔は国の重要文化財。

鉢塚古墳 (五社神社境内):池田市鉢塚2丁目4-28



2017,04,04  02:52 PM

           大阪府指定 史跡鉢塚古墳
本墳は上円下方墳と言う特異な墳形と巨大な横穴式石室を有する大阪
府下有数の古墳であるその兆域は五社神社境内に含まれ南西の周壕
や墳丘の一部が削られている他は累々完好な状況を保ち周壕の形跡も
明瞭である石室は両袖式で南西に開口し奥行全長15米(内玄室7米羨
道8米)玄室高さ5米幅4米羨道高さ2米を算える被葬者は不明であるが
六、七世紀頃この地方を統轄した首長の墳墓と見られる。
尚玄室内には重要文化財の石造十三重塔が祀られ相輪が後補である
以外はよく旧規をとどめ各室に上層の軸部を造り出す形式のもので軒口
厚く隅反りがあり鎌倉形式の特色を示している。

兆域(ちょういき):墓の区域



石室内部撮影禁止のため下の画像はウイキペデァより借用。
Hachizuka Kofun.jpg
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