ahisats3のブログ

ウオーキング中に見つけた神社、史跡、珍しいもの等を紹介します。

2017年05月

天照皇太神宮(西宮市)

5月28日の西宮市神社めぐりで2社目に参拝したのが天照皇太神宮です。
境内に由緒などを書いた説明版はありませんでした。

当神社の創建は、明治12年の神社明細帳によりますと、享保2年酉(1717)5月
に勧請されたと明記されていますが、当社奉賛会の記録では正徳元年(1711)
の創建とされています。
いずれにしてもこの享保年間は、全国的におかげ参り盛り上がったそうで、この
村にも「伊勢講」が組まれていたそうです。
その後、文化13年(1816)に社殿は焼失し、同年再建されました。
また阪神大震災では全倒壊し、平成十二年一月に神明造りの拝殿、本殿が再
建されました。 ホームページより

天照皇太神宮(あまてらすこうたいじんぐう):西宮市上田中町3-36




2017,05,28  07:54 AM


本殿の鰹木は偶数(6本)、千木は上が水平
神社名から祭神は天照大神(女性)



5月31日:31099歩

東鳴尾皇太神社(西宮市)

一昨日(5月28日)は西宮市の神社めぐりをして17社を参拝することが
出来ました。
阪急武庫川駅で下車して、上田中町の天照皇太神宮に向かっている
時、偶然見つけて最初に参拝したのが東鳴尾皇太神社です。

東鳴尾皇太神社: 西宮市東鳴尾2-14

2017,05,28  07:41AM



                                   東鳴尾皇太神社 
             兵庫県武庫郡鳴尾村字東鳴尾88番地 鎮座
 一、旧社名  皇太神社
    新社名  東鳴尾皇太神社
 一、改称理由 
   旧社名は適当ならざるを以って大字名をとり昭和19年東鳴尾皇太神社と改称す。
一 御祭神
   天照皇大神
                       由 来
一、当神社は関係文書亡失致し創立の年代等を詳にせざるも古老の傳により元禄4年
  (1691)3月の創建と傳ふ 即ち徳川綱吉公が当地の領主に命じて勧進せしものと言
  ふ 後 当村民等代々之を鎮祭し当地の守護とせり然して寛政11年(1799)9月再
  建す。
一、昭和20年第二次世界大戦にて焼失す
一、昭和30年12月23日再建、東鳴尾皇太神社とし現在に至る
一、祭祝
   例祭  4月20日、10月20日
                             平成3年12月吉日

沢良宜城跡(茨木市美沢町)

茨木市の名所旧跡でまだ行っていないところがないか調べていたら、「佐和良宣
城跡」をまだ見ていないことが分かり5月26日、見山の郷へ行った帰りに、探して
見学してきました。

沢良宜(さわらぎ)城跡:大阪府茨木市美沢町13 美沢公園内

2017,05,26  11:37AM



                   沢良宜城跡
室町幕府三代将軍足利義満(1368~94)は、子の義持に将軍職を譲って六
年目にあたる応永六年(1399)、堺港に進出してきた周防国の大内義弘
を堺に攻めました、このとき、沢良宜城主 藤井三位は義持将軍から「御馬廻
り免状」をもらい、家老職や郎党を従えて勇躍出陣しました。
「御馬廻り衆」とは、いわば室町幕府直参の旗本で「応永記」には二千騎と記
されています。
当時の沢良宜勢は約三千坪の城を中心に、勝尾寺衆徒の中でも相当な力を
持っていたようです。
この城は、応仁の乱(1467~1477)の頃か、もう少し前の1400年代の早い時
期になくなったと考えられています。 城跡に隣接した この佐和良義神社(式
内社)境内は、南北に長くなっており、城の乗馬訓練の馬場があったと言われ
ています。                  茨木市教育委員会



通りから見えないので、このようなものが公園の外にあります。


5月29日:23836歩

戸伏神社(茨木市)

茨木市の神社をすべて参拝する神社めぐりは以前に終わっていましたが
グーグルの地図で戸伏神社というまだ参拝していない神社を見つけたので
昨日、見山の郷に行った帰りに参拝してきました。
神社の由来などは分かりませんが、戸伏神社は通称名で正式名は素戔嗚
尊神社と言うことが分かりました。




素戔嗚尊神社(通称:戸伏神社):茨木市戸伏(とぶし)町

2017,05,26  10:27 AM


狛犬の日付は明治28年


5月28日:65581歩

「甲子園大運動場」記念碑」

甲子園球場から阪神甲子園駅に向かう途中で「甲子園大運動場」の記念碑
を見つけました。

「甲子園大運動場」記念碑

2017,05,04  05:00 PM



全国中等学校野球大会(現全国高等学校野球選手権大会)が第10回大会を
迎える1924年(大正13年)の春 阪神電鉄が米国ニューヨークジャイアンツのグラウンド
などを参考に日本初の本格的な野球場の建設を計画 同大会開催を受け入れ
のため昼夜兼行の工事で わずか4ケ月半で東洋一の雄大な施設が完成された。
この年が甲子の干支で甲子園大運動場と名付けられた 翌1925年 全国選抜
中等学校野球大会(現選抜高等学校野球大会)も第2回大会からここで開かれ
70年間で約5万2千人の球児たちが甲子園球場で生涯忘れえぬ感激を胸にした
高等学校野球の今日の隆盛は 永年にわたり甲子園球場で育まれたものである
その建設70周年に当たり 甲子園球場建設当初の姿を永遠に残すため ここに
感謝の意を込めて記念碑を建設する
                       1994年8月   朝  日  新  聞  社
                                 毎    日    新   聞   社
                                        日本高等学校野球連盟

6月27日:25455歩

永久欠番選手レリーフ(甲子園球場)

芦屋市と西宮市の神社めぐりを終えて阪神甲子園駅から電車で帰るとき
甲子園球場で「阪神タイガース 永久欠番選手レリーフ」を見つけました。
以前甲子園球場に来ていた時はなかったので、調べたら2010年の球場を
改装するときにできたそうです。

阪神タイガース 永久欠番選手レリーフ(甲子園球場)  2017年5月4日撮影



                           比類なき勲章、栄光の数字  『永久欠番』
 さまざまなスポーツ界において、その道で類稀なる偉大な成績を残した選手を称
え、その栄誉と功績を後世にまで伝承させるために、その背番号を欠番扱いとする
制度。メジャーリーグで初めて制定したニューヨーク・ヤンキースでは 1939年、第1
となったルー・ゲーリック内野手の『4』に始まり、ベーブ・ルース『3』、ジョー・ディマジ
オ『5』ら、錚々たる名前が並んでいる。
日本プロ野球においては 1947年、巨人の沢村栄治投手の『14』が第1号。そして
タイガースでは 1958年11月30日、この年限りで現役を引退した藤村富美男投手
の背番号『10』が、球団史上初めての永久欠番となった。以降、1972年の現役引
退と同時に村山実投手の『11』が栄光の数字となり、吉田義男選手の『23』は彼の
現役引退以降、その背番号をつけるにふさわしい選手が誰一人現れず、その後監
督としてタイガースを初めて日本一に導いた翌々年、1987年に3番目の永久欠番と
なっている。」


        10   藤村富美男 強虎の礎となった『ミスタータイガース』
1936年4月29日、創設されたばかりのタイガース公式戦第一戦の投手として先発
し、完封で記念すべき球団初勝利を挙げた。しかし藤村投手の本領は、37インチ
という驚愕の長尺バットを操っての豪快なバッティング。戦前、戦後を通じて数々の
打撃タイトル、記録そして伝説を残してきた。1949年にはチームが8球団中6位に終
わった中で、リーグ最多安打(187)、最多打点(142)、最多本塁打(46)を記録。
優勝チームである巨人の川上選手、千葉選手らをおさえて、最高殊勲選手に選出
された。捕手以外のすべてのポジションをこなし、監督も兼任したスーパースター。
タイガースの背番号『10』を背負ったのは、後にも先にもこの藤村選手をおいて他
には存在しない。」


                   11 村山実 反骨精神で挑み続けた『炎のエース』
 入団初年度に18勝を挙げ、最優秀防御率(1.19)と沢村賞を獲得。躍動感溢れ
るそのピッチングフォームは、当時のマラソンランナーになぞらえ『ザトペック投法
』と呼ばれた。巨人からの誘いを受けながら、迷うことなくタイガースへ入団した経
緯は男気を感じさせた。また、時期を同じくして巨人に入団し、当時の球界で華々
しく脚光を浴びていた長嶋選手との間で繰り広げられた数々の名勝負。宿敵に
真っ向から立ち向かうその反骨精神と気概は、多くのファンを魅了した。1970年
からは選手兼任監督としてタイガースを指揮。現役引退を表明した1972年のオフ
に、村山投手が14年間背負い、222勝を積み重ねてきた背番号『11』は永久欠番
となった。」



            23 吉田義男 ダイヤモンドを華麗に舞った『今牛若丸』 
 19歳での入団初年度から、不動の遊撃手としてその名を球界にとどろかせてきた
。芸術品とも言える華麗なクラブさばきと、『牛若丸』と異名をとった身のこなしで、ベ
ストナインに選出されること9回。通算盗塁数は350を数えた。現役引退後は評論活
動を経てタイガースの監督に就任。そして二度目の指揮となった1985年、チームを
実に21ぶりとなるリーグ制覇に導き、そのまま日本シリーズでも西武を破って日本一
に輝いた。これは2リーグ分立後では球団初の快挙。現役時代に得た『不世出の遊
撃手』という称号に加え、タイガース初の日本一監督としての栄誉は、その後、永久
欠番となった背番号『23』と共に色褪せることなく語り継がれている。




2017,05,04 04:55 撮影 この日(5月4日)は神宮でヤクルト戦があり、
藤川選手は出ていました、この日甲子園では2軍の試合がありました、
下の写真は藤川選手にそっくりです、2軍に藤川選手にそっくりの選手が
いるのか疑問でしたが、調べたら富士川球児という「そっくりさん」とわか
りました。




5月26日:18226歩

甲子園の由来「甲子園素戔嗚神社」

西宮市の神社めぐりで最後5社目に参拝したのは甲子園素戔嗚神社です。
甲子園球場の一塁側アルプス席の近くにあります。
阪神タイガースフアンの私は、以前はよく甲子園球場に行きましたが、そばに神社
があるのに当時は気が付きませんでした。

甲子園の地名の由来はむかし、甲子園一帯は、兵庫県武庫郡鳴尾村と呼ばれ
ていました。大正13年8月1日、武庫川改修工事に伴い、廃川となった旧枝川・
申川の三角州に、阪神電鉄により、大野球場が開設された。この年の干支、甲
子(きのえね)にちなんで、甲子園球場と命名され、周辺に住宅開発が進められ
、地名を甲子園とつけられました

甲子園素戔嗚神社:兵庫県西宮市甲子園町2−40



2017,05,04 04:46 PM





ボールのモニュメント  平成20年8月1日 揮毫 星野仙一


5月25日:17568歩

千木、鰹木とは「上野神社」(西宮市)

西宮市神社めぐりで4社目に参拝したのが上野神社です、

太平洋戦争で全てが焼失しましたが、戦後に立て直し本格的な神明造りの立派
な社殿だったそうです。
平成7年の阪神淡路大震災によって倒壊しましたが、現在は新しく神明造りで再
建復興されております。

今回は屋根の部材である千木、鰹木について調べました。千木・鰹木 - Wikipedia

本殿の屋根には、「千木(ちぎ)」と「堅魚木(かつおぎ)」がありますが、祭神が女
性の場合は、堅魚木の数が偶数、奇数が祭神は男性。
千木の形が内削(うちそぎ)上が水平の場合は女性の祭神。 男性の場合は、外
削(そとそぎ)垂直だとされています。

上野神社(うえのじんじゃ)  西宮市今津上野町7-15
御祭神;天照皇大神(女性)
 安産の守護神として崇敬篤く、「拝殿の鈴緒を以て妊婦の腹帯とせば、安産す」
と伝承する。





堅魚木が偶数6本   千木の形が内削 上が水平

2017,05,04  04:00 PM




5月24日:22372歩

桜翁稲荷大明神(西宮市津門呉羽町)

西宮市の神社めぐりで3社目に参拝したのが、阪神今津駅の近くで桜翁稲荷
大明神です。

むかし、今津の浜の方にたくさんの酒蔵があったころ、夕方になると一人の老
人が現れ、家々を訪ねては碁を打っていました。
上品で、碁が強いうえに話もうまく、どこの家でも歓迎されていました。
ただ「桜翁」と言う名前以外は、どこのだれかは分かりませんでした。
ある夜、老人が帰ろうとした時、土間に油揚げがあるのに気付きました。
老人はいきなりその油揚げを食べようとしました。
それはネズミ取りの仕掛けだったので老人は手を挟まれてしまい、悲鳴をあげ
ながら外に飛びだして行きました。
あくる日、酒樽の中で前足をネズミ取りに挟まれて死んでいる1匹のキツネが
発見されました。
人々は、あの老人はキツネが化けていたのだと気付きました。
何も悪いことはしていないのに、獣の本性で手を出してしまった一枚の油揚げ
のために死んだのはあまりにも可哀想だと、ねんごろに葬ってやりました。
造り酒屋の旦那・ご隠居衆はお金を出し合い、このキツネを祀るお社を作りま
した。これが西宮市今津に今も伝わる桜翁稲荷大明神の始まりとされています。


桜翁稲荷大明神:西宮市津門呉羽町1-21



2017,05,04  03:43 PM


阪神今津駅


5月23日:37057歩

蛭児大神御輿屋伝説地(西宮本町)

西宮神社を参拝後、甲子園に向かって歩いているとき、西宮本町の
小さい公園で大きい石碑を見つけました。
碑には「蛭児大神御輿屋伝説地」と刻まれておりました。
蛭児(ひるこ)とはえびす様のことで詳しくは下記神社のホームページで確認して
ください。
西宮神社のホームページによると、西宮神社では、えびす様がお越しになられた
由来に因んで、毎年6月14日に本殿の東約500mにあるここ本町の御輿屋(おこ
しや)跡地までえびす様を神輿に乗せて担ぎ、「おこしや祭」を斎行するという。
このお祭の由来は、そのむかし鳴尾(なるお)の漁夫が武庫(むこ)の海で網にご
神像(えびす様)を得て海に戻したら神戸の和田岬辺りで再び同じご神像を得た。
家に持ち帰りおまつりをしていたところ、或る夜の夢に「西の方に宮地があるので
案内いたせ」とのお告げがあった。漁夫は村人を集めえびす様を御輿に乗せて出
発したが、途中で一休みされたえびす様は居眠りをされた。困った漁夫は恐れ多
くも神様のお尻をつねってお起し、ようやく今の西宮神社の地に着いたといわれて
いる。このお尻をつねった場所が今の御輿屋跡地であり、この日は参拝者が娘さ
んのお尻をつねってもよいという風習から「尻ひねり祭り」とも呼ばれ、昭和初期頃
までは女性は洗面器や座布団をお尻にあてるなどしていたが次第にエスカレートし
、警察の中止命令も出る程だったという。「日本人なら知っておきたい古代神話」に
よると、イザナギノミコトとイザナミノミコトの間に最初に生まれたのが意にそわない
ヒルコ(古事記では「水蛭子」・日本書紀では「蛭児」)で、葦船に乗せて流されたの
が、エビス神として戻ってきたという。


蛭児(ひるこ)大神御輿屋伝説地(西宮市本町)

2017,05,04  03:12 PM



此の地は蛭児大神御駐譯の所と伝唱せる古蹟にして御
輿屋と称し毎年6月14日本社より神輿を奉仕して祭典を
行い今に及へり 茲に皇太子殿下御成婚記念事業として
当町浜久保町青年会 謹で境界を修理営繕して旧蹟を
顕彰し碑を建て之を勤す   
  大正13年8月       西宮神社社司吉井良昇

5月22日:23238歩
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