ahisats3のブログ

ウオーキング中に見つけた神社、史跡、珍しいもの等を紹介します。

2018年03月

白河天皇 成菩提院陵(伏見区)

3月14日の伏見区神社めぐりウォーキングで、北向山不動院の次に
見つけたのが第72代天皇「白河天皇 成菩提院陵」です。

白河天皇 成菩提院陵(じょうぼだいいんのみささぎ):京都市伏見区竹田浄菩提院町

2018,03,13  01:25 PM




白河天皇についてフリー百科よりコピー
  

3月31日:17223歩

北向山不動院(伏見区竹田浄菩提院町)

3月14日の伏見区神社めぐりウォーキングで飛鳥田神社参拝後、次の目的
田中神社に向かって歩いているとき、大きい寺院「北向山不動院」があり
ました。

北向山不動院:京都市伏見区竹田浄菩提院町61

2018,03,14  01:15 PM





               北向山不動院
天台宗の単立神社で、一般に北向不動の名で親しまれている。
大寺年(1130)鳥羽上皇の勅願により鳥羽離宮内に創建され興教大師
を開山としたのが当寺の起りである。
本堂に大師が自ら仏師康助に刻ませた不動明王(重要文化財)を王城
鎮護のため北向に安置した、そのため、上皇から北向山不動院の名を
賜ったといわれる。
久寿2年(1155)、播磨国(兵庫県)大国の庄を寺領とあいて、藤原忠実
が中興に当った、その後、応仁の乱の兵火など、しばしば災害に遭った
が、幸い本尊不動明王は難を逃れた、朝廷の保護も厚く近世に至って
復興した。
現在の本堂は、正徳2年(1712)東山天皇の旧殿を移したものである。
境内鐘楼にかかる梵鐘は二品済深親王の御銘があって、元禄7年
(1694)に名士名越淨味によって鋳造されたものである。  京都市


二品(にほん):日本の律令制において定められて親王・内親王の位を
           品位(ほんい)といい、一品から四品まであり、奈良時代
          から江戸時代まであった。
親王(しんのう):天皇の兄弟・皇子。           

飛鳥田神社(伏見区中島樋ノ上町)

3月14日の伏見区神社めぐりウォーキングで10社目に参拝したのが飛鳥田神社
です。
飛鳥田神社は横大路にもあり(3月14日伏見区神社めぐりで15社目に参拝)
どちらが式内社 飛鳥田神社であるかどうかについては明確ではなく、論社
扱いです。  

「論社」とは荒見神社(久御山町)

飛鳥田(あすかた)神社:京都市伏見区中島樋ノ上町84

2018,03,14  00:10 PM





                飛鳥田神社
江戸時代の文書に荷田龍頭田の田に、祖先の霊が白い鳥となり稲の実
を口に含んで飛来した、そこで龍頭田は祖先の霊を祀り飛鳥田神社と名
付けた、弘仁7年(816)に官社に昇格したが神社の一帯に東福寺が建て
られることになり延応元年(1139)に今の地に 遷られた 等と記される、
米を始めとする五穀の神に加え子孫繁栄・子供の守り神であり、学力向
上・受験合格・頭の病気平癒の神様と敬われる。
                             飛鳥田神社護持委員会


3月30日:21412歩

鳥羽離宮南殿跡(伏見区)

3月14日の伏見区神社めぐりウォーキングの時に見つけた鳥羽離宮南殿跡は
下記、6殿の一部で今は空き地で何も残っていません。
石碑と説明板があるのみです。

鳥羽離宮

  • 南殿
  • 泉殿
  • 北殿
  • 東殿
  • 田中殿
  • 馬場殿

  •         現在は池のようなところは陸地になっています。

    鳥羽離宮南殿跡(伏見区)

    2018,03,14  11:49 AM



                     鳥羽離宮南殿跡
    この遺跡は、白川天皇が即位後に、院政の拠点として11世紀の末、応徳3(
    1006)年に造営されたものを、昭和38年から42年にかけ調査し、建物と庭園

    の跡を確認したのである、南殿は鳥羽離宮で最初に造営された宮殿である。
    建物跡は公園北方にある、なお、公園内の「秋の山」は当時の庭園の築山に
    当る。
    元来、鳥羽離宮というのは、この南殿と北に離れて、北殿・東殿・田中殿・馬場
    殿等があった、それは淀川につながる大きな池の岸辺に配置されていたもの
    である。
    北殿は、名神高速道路京都南インターチェンジにあり、その遺跡は近くの鴨川の氾
    濫のためこわされている、東殿は、いまの安楽寿院で、白河・鳥羽・近衛天皇
    も含まれる、田中殿は遺跡が見つかっている、馬場殿は城南宮の北と考えら
    れるがあきらかでない、城南宮も鳥羽離宮の一部と考えられ、流鏑馬に事よ
    せて、後鳥羽上皇が13世紀はじめ、北条氏討滅をはかったことで有名である。
    これらの御所が付属する仏殿として、南殿に証金剛院、北殿には勝光明院、
    東殿には安楽寿院があり、田中殿には金剛心院があった、南殿の御所は西
    南から東北へと順次に雁行形に配置された和風建築である、寝殿・小寝殿・
    御堂。金剛殿は、遺跡で確認され、池にのぞんで風雅に配置されていた。なお
    、大門・中門・中門廓・西対跡は、鴨川堤防の下に埋もれている。


    雁行形(がんこうがた):各住戸を斜めにずらして建てる形式のこと。
                   建物を上から見ると、雁が並んで飛んでいるように見え
                   ることからこの名がついた。


    3月29日:38551歩

    地名「赤池」の由来(伏見区)

    菱妻神社の参拝を終えて、久我橋を渡り千本通りの交差点で「赤池」の
    説明板を見つけました。
    下記の説明板には詳しく載っていませんが、平安時代の末期に袈裟とい
    う女性が夫の身代わりとなって切られて、その血で池が真っ赤になったの
    でこの付近の地名が赤池となったそうです。
    そしてもう一つの説があり詳しいことは下記を検索下さい。
    京都の怖い地名 「赤池」- 古都コトきょーと-

    赤池の由来(伏見区)

    2018,03,14  11:34 AM



                         赤  池
    この辺りの地名を赤池と言う、江戸時代の地誌「山城名勝志」等に、昔池が
    あり、遠藤盛遠(後の文覚上人)の横恋慕を拒み、夫の源渡の身代わりにな
    った袈裟という平安時代末期の女性の物語と関連付けた由来が記述されて
    いるが、池が赤茶けていたのは金気(鉄分)の多い地層のためと考えられる。
    森遠の渡も鳥羽上皇に仕えた北面の武士であり、上皇が営んだ広大な鳥羽
    離宮の南門がこの付近に建ち、門の南にあった鳥羽の津と平安京を鳥羽の
    作り道が結んでいた。
    慶応4年(明治元年)(1868)正月3日、徳川慶喜に命じられ、大坂城から淀を
    経、鳥羽街道を北上して都を目指す旧幕府方の大軍の千峰を務める大目付
    の滝川播磨守具拳は、この地で薩摩兵に入京を阻まれる、夕闇が迫り強行突
    破を図ろうとするや、四百メートル程北の城南宮の参道から薩摩軍が砲撃、播磨
    守の傍で炸裂し、鳥羽伏見の戦いが始まった、五日、錦の御旗を押し立て官軍
    が鳥羽街道を南進、慶喜は六日夜に大坂城を脱出、官軍が勝利を収め、明治
    維新を迎える。                         京都市


    赤池 説明板の場所 (交差点信号の名称「千本通赤池」)

    菱妻神社(伏見区久我石原町)

    3月14日の伏見区神社めぐりウォーキングで9社目に参拝したのが菱妻神社です。
    社名の由来は神社のホームページによると、平安時代後期12世紀の初め永久元
    年(1113)2月、右大臣 源雅実()公が奈良の春日大社から天児屋根命()を勧請し
    て、「火止津目()大明神」と崇め奉ったことに始まり、久寿元年(1154)「火止津目
    」の字を「菱妻」と改められました。
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    菱妻(ひしずま)神社:京都市 伏見区久我石原町3-27

    2018,03,14  11:03 AM





                         由  緒
    当神社は平安時代12世紀の初め、鳥羽天皇の永久元年(1113)2月に久我家の
    租 右大臣源雅実公が、奈良の春日大明神から、藤原氏の祖神、天児屋根命を
    勧請し、源氏の守護神として、火止津目大明神を崇め奉ったことに始まる。

    菱妻神社の一の鳥居は名神高速の南側にありました(神社は北側)




    3月28日:19972歩

    月ヶ瀬梅林(奈良市月ヶ瀬)

    3月14に伏見区の神社めぐりした、神社をまだすべて紹介が終わっていません
    が、2日前(3月25日)に行った月ヶ瀬梅林を紹介します。
    今は桜が見頃の時期を迎えて梅は終わったイメージがありますが月ヶ瀬の梅は
    まだまだ見頃でした。
    約45年前に行った記憶はありますが、景色や梅のことはまったく思い出せませ
    ん。
    月ヶ瀬梅林は奈良県奈良市月ヶ瀬尾山とその周辺に位置する梅林で五月川の
    渓谷沿いに梅の木が広がる様から月ヶ瀬梅渓とも呼ばれます、古くから有名な
    梅林で、日本政府が最初に指定した名勝の一つで、現在約1万3千本の梅が栽
    培されています。


    月ヶ瀬梅林:奈良県奈良市月ヶ瀬長引21-8

    2018,03,25  10:05 AM






    3月27日:30788歩

    久我神社(伏見区久我森の宮町)

    3月14日の伏見区神社めぐりウォーキングで8社目に参拝したのが久我神社です。
    久我は「くが」ではなく「こが」と読みます。
    下記の由緒書きで、 旧国名の山城国は、その前、山背と書き「やましろ」と読
    みましたが、794年の平安遷都で山城と改字したことが分かりました。

    久我(こが)神社:京都府京都市伏見区久我森の宮町8-1

    2018,03,14  10:34 AM







                                                 由  緒
    当社は、八世紀末平安遷都に先立ち桓武天皇が山背長岡に遷都された頃
    (784年延暦3年)、王城の艮角の守護神として御鎮座になったものと伝えら
    れる由緒深い延喜式内社である。
    別雷神・建角身命・玉依比売命の三柱を御祭神とし賀茂両社と同体であり、
    古来 鴨森大明神とも号し久我の郷人をはじめ諸人の平和安全方除け発展
    を守護する神として御神徳が厚い。
    また久我の杜といって久我の渡りと共に歌にもよまれている。


    山背(やましろ):旧国名。山州,城州とも。畿内の一国。現在の京都府南部。
               もと奈良山の背後の地ゆえ山背(やましろ)(山代)と書き,
                            794年の平安遷都で山城と改字,全国の政治・経済・文化の
                            中心となる




     京都市登録有形文化財
                  久 我 神 社 本 殿
    久我神社は延喜式神名帳の久何神社とみられ、江戸時代には森大明神とも
    呼ばれていた、祭神は別雷神・建角身神・玉依比売の三座である。
    現在の本殿は天明4年(1784)の再建である。
    棟札によると、大工棟梁は小島弥惣太源久清であるが、弥惣太が幼年のため
    、播磨の宗左衛門と利兵衛が肝煎として造営に携わっている。
    建物は三間社流造で、切石積上に建つ、身舎内部は内陣と外陣に分かれてい
    る。妻飾は虹梁大瓶束で、密集した葉を彫刻した 形が付く、この地域の建物
    としては妻飾などの彫刻がやや派手であるが、これは播磨の大工が造営に関
    与していることによるとみられる。
    この本殿は造営棟札の他に普請願書の控えや板製の建地割図など造営に関
    する資料がよく残っており、建築年代が明らかである、播磨の大工の関与が認
    められる比較的規模の大きな社殿で、保存状態も良好である。
                                 平成20年4月1日登録 京都市

    肝煎(きもいり): 人の世話をしたり、二者の間を取り持ったりすること
    妻飾(つまかざり):日本建築の切妻造または入母屋造の屋根の妻部分 (側面の
                三角形の壁面) の装飾をいう。

    妻飾の例

    神川神社(伏見区羽束師鴨川町)

    3月14日の伏見区神社めぐりウォーキングで7社目に参拝したのが神川神社です。
    鳥居の額の神社名が「住吉大明神」になっていたので調べたら、住吉大明神
    神川神社とも呼ばれ、古くから「神川坐住吉神社」と呼ばれていました。

    神川神社:京都市伏見区羽束師鴨川町368

    2018,03,14  10:13 AM







                     本殿再建奉告碑
    千三百年余の古此の地に鎮り坐し延喜式内社に列格さる神川神社是也
    世々産土神として崇め御守護を結び今に至る。
    而るに昭和57年6月11日不測の災により本殿焼損す 新殿造営の議を重
    ねること幾十度浄財寄進を決せり 昭和58年10月中旬本殿竣工す同月24
    日佳日を卜し正遷座祭を厳修せり。
    惟に氏子中同し心に結び神威之をけ給ふ正に明白たり。
                                    宮司 古川俊三 撰文

    卜し(ぼくし):うらなう、うらなって定める。
    け:たすけ


    3月26日:32277歩

    羽束師坐高御産日神社(京都市伏見区)

    3月14日の伏見区神社めぐりウォーキングで6社目に参拝したのが羽束師坐高御産日
    神社です。
    山城国では最も歴史の古い神社です。

    羽束師坐高御産日((はづかしにますたかみむすび)神社:伏見区羽束師志水町219-1

    2018,03,14  09:34 AM



                      羽束師坐高御産日神社
    当神社は雄略天皇31年(477)に創祀され生成霊力の御神徳をおもちの皇産霊神
    二柱を奉斎しています。
    皇産霊を「ミムスビ」と言い「ムス」はものの生成を意味し、成長する力を「ヒ=霊力」
    と言います。元、高皇産霊神は高木神とも申し、神の依ります神体木(神籬 )に縁
    の深い御名で明らかに田の神の降臨をあおぐ祭に関りのある農耕神の信仰をに
    なう神であります。
    随って護国豊穣を祈る人々の間に稲霊を崇めるムスビ信仰が育まれ、特に収穫時
    に新穀を神と共に新嘗(ニイナメ)する農耕行事は最も貴重な祭儀として、高皇産霊神
    、神皇産霊神が祀られてきた。この行事は弥生時代から現在までの変遷を超え種
    々の文化要素を習合しつつ新嘗祭となり勤労感謝の日となって今なお生活の中に
    伝承されています。
    続日本記大宣元年(701)4月3日の条に「勅して山背国渡津賀志の神等の神稲は自
    今以後中臣氏に給へ」とあるのは当社に属する斎田から抜穂して奉祭し際人中臣氏
    が新嘗祭を行ったことを示唆する資料といえます。
    本殿の左右に天照皇大神を始め十一神が祀られています。
    大同3年(808)に斎部廣成公が諸国騒擾の多き様を憂い安穏を祈願する為、平城天
    皇の奏聞を得て勧請造営された神社です。
    延喜の制では(967)大社に列格され四時祭には官幣に預り臨時祭祈雨神に座して
    天下豊年の御加護を垂れ給いました。
    延喜元年(901)右大臣 菅原道真公、筑紫へ左遷の砌当社に参詣 「君臣再び縁を結
    び給へ」 とご祈念の上  
                捨てられて 偲ぶおもひの  しげるおや 身をはずかしの 社といふらん
    の歌をご詠進になり下向されました。東縁の地に社を営み北向見返天満宮が奉斎さ
    れました。
    菅公の御徳を慕い一の鳥居の東縁の地に社を営み北向見返天満宮が奉斎されまし
    た。
    境内は古来羽束師の社と称せられ古歌謡曲等に詠われてきました。山城国中、名だ
    たる社叢の一つとして四季折々の風情を今に伝え京都市の史跡に指定されています。
    毎年5月第一日曜日の御出に始まり同第二日曜の 幸祭には氏子区内古川町、菱川
    町、志水町、樋爪町を大神輿が青年会の人等によって担がれ 幸します。併せて子供
    神輿も境内を練り歩き大変賑わいます。  

    神籬(ひもろぎ):神事をとりおこなう際,臨時に神を招請するため,室内や庭に立てた
               榊(さかき)。しめ縄を張って神聖なところとする。
               古くは,祭りなどの際に,周囲に常磐木(ときわぎ)を植えて神座とし
               た場所をいう。
    騒擾(そうじょう):集団で騒ぎを起こし、社会の秩序を乱すこと
    奏聞(そうもん):天皇に政治上のことで勅裁を仰ぐために,口頭または文書で上申す
              ること、奏上も同じ意味。





                     羽束師川と道標
    久我の地から古川・橋爪・水垂・大下津・山崎を経て桂川に注ぐ本支流合わせて
    総延長12キロメートル余の人口水路七間堀を羽束師川と呼んでいます、この川は
    桂川右岸低湿地の内水や悪水吐けの為に、文化6年(1809)から17ケ年の歳月
    をかけて新川の掘削 古水路の改修樋門の設置などの工事が完成しましたが、
    かくして二部12村の水場の人々は累代にわたる水害からまぬかれ、荒廃した
    土地は耕地にかわりその余慶は今日に及んでいます、しかるに此の工事は官
    府の力ではなく神明のご加護を祈り心身をくだき私財を投じて地域開発の素心
    を貫いた羽束師神社祠官で累代の社家古川吉左衛門為猛翁の独力によって
    成し得た大事業でありました。
    文政8年(1825)工事が完遂するや羽束師神社の名を取り羽束師川と命名され
    西陣伊佐町井上傳兵衛氏は為猛翁の偉業を後世に伝えんと久我畷四ツ辻に
    この道標を建立されました、爾来時は移り姿は変わりましたが、その功績を偲ぶ
    に相応しき神社境内に鴨川町西村奈良松氏のご厚意をうけ昭和55年に現地に
    移設しました、今年は恰も工事着工より二百年の佳辰に当りこの偉業を讃える為
    記念碑を建立し由緒を銘記した次第であります。
                                      羽束自師神社





    3月25日:20195歩
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