ahisats3のブログ

ウオーキング中に見つけた神社、史跡、珍しいもの等を紹介します。

2018年07月

新宮神社(甲賀市信楽町長野)

7月9日、甲賀市水口の神社めぐりをした、帰りに国道307号線(近江
グリーン道路)の信号「信楽駅口」で新宮神社を案内する看板があり、
立ち寄り参拝しました。

新宮神社:滋賀県甲賀市信楽町長野1151

2018,07,09 05:14 PM







                 新宮神社由緒
 御祭神
  素戔嗚命
  稲田姫命
  大山津見神
新宮神社は、奈良時代の霊亀元年(715年)9月に創建されました。
それ以来、信楽町大字長野、神山、江田、小川の「産土神(氏神)」
として広島区人々から尊び崇められ社号を「新宮大明神」と呼ばれて
いました。
これまでに近衛関白家を始め、近江の守護佐々貴氏家に篤く信仰さ
れ、代々当社に境内神領などの寄進がありました。
南北朝の戦(1336年)の兵火にて焼失して再建されたが、その後大
風の為、本殿が大破し、寛文3年(1663年)11月に現在の本殿が再
建されました。
明9年(1876年)10月「村社」に大正2年(1913年)4月「神饌幣帛料
供信神社」に指定、大正4年(1915年)5月、長野字西出と字川東の
二箇所に「山神社」として「大山津見神」を祀られてていたのを、当社
に合祀されました。
大将3年(1924年)には「郷社」に昇格。「紫香楽一乃宮」として篤く
崇敬されております。

さすが陶器の町 陶器の狛犬

信楽陶器感謝モニュメント





7月31日:20533歩

紫香楽宮跡(新宮神社地区)

甲賀市水口町の神社めぐりを終えて帰る途中に紫香楽宮跡に
立ち寄りました。
下調べが充分でなかったので、一部分(新宮神社地区)を見た
のみで、肝心の宮殿跡などは見ないまま帰ってしまったのです。

紫香楽宮は今からおよそ1250年前の奈良時代中頃、滋賀県甲
賀市信楽町の北部に聖武天皇が造営した都です。
天皇は奈良の都(平城京)で政治を行ったいましたが、甲賀郡紫
香楽村に離宮(天皇が保養等の為に一時的に滞在する施設)を
造りました、これが紫香楽宮です。

紫香楽宮跡は現在、国の史跡としては次の5地区あり、私が見学
したのは新宮神社地区です。
       ・宮町地区 - 宮殿跡を主とする遺跡。
       ・内裏野地区 - 寺院跡を主とする遺跡。
       ・新宮神社地区 - 道路跡を主とする遺跡。
       ・鍛冶屋敷地区 - 鋳造所跡を主とする遺跡。
       ・北黄瀬地区 - 大井戸跡を主とする遺跡。


紫香楽宮跡(新宮神社地区):甲賀市信楽町



     国指定史跡 紫香楽宮跡(新宮神社地区)
               奈良時代(平成22年8月5日指定)
                     所在地 甲賀市信楽町黄瀬
新宮神社遺跡は、奈良時代の官衛建物や井戸、道路と橋脚が見つ
かった遺跡で、新名神高速道路の北側の丘陵部を含む約19,900㎡
の範囲が史跡紫香楽宮跡として追加されました。
道路は、側溝と見られる南北方向の溝の間隔や橋脚の規模から、幅
約12mと約18mの2本の存在が確認されています。この道路の南側
の延長線上には、内裏野地区の寺院跡の中軸線が重なっていて、紫
香楽宮の諸施設が計画的に整備されたとうかがえます。
また、道路の北側で見つかった橋脚は幅約5mの川に架けられた橋に
伴うもので、橋脚の部材には天平16(744)年に伐採されたヒノキが使わ
れていたことから、紫香楽宮の造営時期に建設されたことがわかりま
した。
この道路の東側には、南北に並ぶ2棟の堀立柱建物と、そのさらに北
東に東西向きに建つ1棟が見つかっており、周辺から役所で使われる
土器や転用硯、墨書土器が出土していることなどから、紫香楽宮に関
る官衛建物と考えられていて、橋が架けられていた川からは、天平16
(744)年10月銘の荷札木簡も出土しています。
また、新名神高速道路北側の丘陵には、道路跡とみられる切り通し状
の地形が確認されていて、発掘調査で見つかった南北が丘陵の裾で
屈曲し、その切り通しに繋がっていたと見られています。
現在、発掘調査で発見された遺跡は、高速道路の建設工法の変更に
よって地下に保存されています。




2018,07,09  04:41 PM



7月30日:27693歩

藤栄神社(甲賀市水口町)

甲賀市水口町神社めぐりウォーキングで最後(6社目)に参拝したのが藤栄神社
です。
境内は神社というより公園の中と言う感じでした。

藤栄(ふじさかえ)神社: 滋賀県甲賀市水口町梅が丘2-26

2018,07,09  03:34 PM



社号標石は領界標石を転用したものです。



              藤栄神社とその社宝 
当社は旧水口城内に位置し、水口藩主加藤氏の祖、加藤嘉明 ( かとうよしあき )
を祭神に、文政十二年 ( 1829 ) 藩によって創建され、近世は嘉明 ( かめい )
明神と呼ばれた。 
当社には豊臣秀吉より拝領と伝えられる刀剣や、高麗鞍など旧藩主家伝来の遺
宝が数多く伝えられ、水口藩政時代を知る上で重要である。
なお、社号標石は領界標石を転用したもので、巌谷一六の書。 
                                    水口町教育委員会 

巌谷一六(いわやいちろく):近江国出身の書家、官僚、漢詩人


7月29日:21408歩

綾野天満宮(甲賀市水口町)

甲賀市水口町神社めぐりウォーキングで5社目に参拝したのが綾野天満宮
です。

綾野天満宮:滋賀県甲賀市水口町綾野4-42

2018,07,09  03:25 PM






境内に有った神社の由緒は不鮮明の為、他で調べたものを記載しています。

                  綾野天満宮
 祭神 菅原道真公
菅原淳茂は父道真公の木彫りを自作し、水口天神として祀りました。初めは「
美濃部宮」と称し現在の藤栄神社の地にありましたが、寛永10年に水口城が
築城される際、現在の綾野に還されました。それ以後も江戸幕府は水口城の
鎮護社としました。歴代藩主の加藤氏も保護・崇敬し、多くの石燈籠が奉納さ
れています。

菅原淳茂(すがはらのあつしげ):
  平安時代前期の貴族・漢詩人・学者。右大臣・菅原道真の五男。

 菅原淳茂郷舊蹟地「梅ケ池」(甲賀市水口町)

.


7月29日:21350歩

水口石(東海道 水口宿)

江戸時代の百間長屋跡の説明板の近くの旧東海道の曲がり角
で「水口石」を見つけました。
水口宿:東海道53次、50番目の宿場町

水口石(東海道 水口宿):賀県甲賀市水口町城内5−4    旧地名「小坂町」

2018,07,09  03:19 PM





             水 口 石
東海道に面した小坂町の曲がり角に伝えられる大石。「力石」
とも呼ばれる。江戸時代から知られた大石とみえて、浮世絵師
国芳が錦絵の題に採っている。
この辺りは水口藩の藩庁にもほど近く、長大な百間長屋や、小
坂町御門など城下のたたずまいが濃かった。


7月27日:21591歩

百間長屋跡(甲賀市水口町城内)

本当に今年は暑い日が続きます、暑さに強い私も日中は日傘をさして
歩いています。 男性で日傘をさしている方はあまり見かけませんが、
でも、この度の異常気象の間のウォーキングは日が陰ってから歩いています。

7月9日の甲賀市水口町神社めぐりウォーキングで柏木神社を参拝後次の綾
野天満宮に向かう途中に「百間長屋跡」の説明板を見つけたので、紹介
します。
長屋は昭和50年頃まで残っていたそうです。

百間長屋跡:甲賀市水口町城内6       


石碑の文字「東海道 水口宿 北邸町」      北邸町(きたやしきまち)は旧地名です。  

2018,07,09  03:15 PM



                 百間長屋跡
北邸町(きたやしきまち)に百間長屋(ひゃっけんながや)がありました。
百間長屋はお城の郭内(かくない)の武家地にあり、百間(約180メートル
)の棟割長屋(むねわりながや)には、下級武士たちが隣り合って住ん
でいました。南側(郭内)に玄関があり、東海道に面した北側は出入り
口がなく、町場とは自由に往来が出来ませんでした。これは敵が攻め
てきた時に郭内の城・藩邸を防御(ぼうぎょ)する役割を果たしたのです
。長屋には往来に向かって小さな高窓があり、これを与力窓(よりきまど
)といいます。買い物などはこの窓から首を出して東海道を往来する物
売りにヒモをつけたざる等に銭(ぜに)を入れ、その銭に見合う品物をざ
るに入れてもらってそれを引き上げる方法で買い物をしました。明治初
期の絵地図によると21軒が明記されています。




7月26日:21459歩

柏木神社(甲賀市水口町北脇)

甲賀市水口町神社めぐりウォーキングで4社目に参拝したのが柏木神社
です。
創立当時は日吉宮、その後、若宮八幡宮となり、明治4年、現在の社
名、柏木神社となりました。

柏木(かしわぎ)神社:滋賀県甲賀市水口町北脇187

2018,07,09  02:56 PM





                   柏 木 神 社
祭 神大己貴命(大国主命)
配祀神誉田別尊(応神天皇)・川島皇子
祭典日例 祭四月二十日
八幡祭九月十四日、十五日
本 殿木造・檜皮葺・流れ造り・三間社
由 緒 当神社の創は、白鳳元年(673) に、日吉宮と称して大己貴命をお祀り し
ていた。建久年間(1190)源頼 朝が、鎌倉の鶴が岡八幡宮の御分霊を 合
祀して多くの神田を寄付した。以後 社名を若宮八幡宮と称し、柏木荘十六
か村の鎮守のお社として栄えた。天正 八年(1580)に織田信長の軍勢が
当地を攻めた時、桜門は安土の宗玄寺 に移築され、宝物・古文書等は焼
失し た。寛永九年(1632)に水口城が 築かれた際に、城主が当社を守護
神と して崇め、以後、歴代城主の祈願所に なった。承応四年(1655)に水
口 城代の山口但馬守は、本殿・桜門を修 復し、石灯籠・手水鉢を寄進した
。明 治4年、社名を柏木神社と改めた。昭 和20年、県社に昇格する。
この社は 五穀豊穣、病気平癒、厄徐、交通安全 などの祈願が多い。
                                  平成6年3月吉日 水口町




7月25日:20738歩

一里塚(東海道 林口)

五十鈴神社の境内で一里塚跡の石碑と説明碑を見つけました。
江戸時代に江戸日本橋を起点に主な街道に一里(約4km)ごとに
設けられ、旅人のよき目印になりました。
水口町内では今郷、林口、泉の三箇所設けられ、そのうちの一つです。
私は、大阪府守口市内で一里塚跡を見た事があります。

一里塚:甲賀市水口町  五十鈴神社境内

2018,07,09  02:46 PM





            一 里 塚 跡
一里塚は街道の両側に一里(約4km)ごとに築かれたもので
、東海道では慶長9年(1604)に江戸から日本橋を起点として
整備された。
水口町域では今郷。林口。泉の三ヶ所に設けられている。
塚上には榎の木などを植えて厳重に管理し、旅人のよき目印
ともなったが、明治維新後いずれも撤去された。
林口の一里塚は、これよりやや南方にあったが水口城の郭内
の整備にともない、東海道が北側に付替えられ、五十鈴神社の
境内東側に修景整備されたものです。

守口宿、一里塚跡


7月24日:25481歩

五十鈴神社(甲賀市水口町東林口)

甲賀市水口町神社めぐりウォーキングで3社目に参拝したのが五十鈴神社
です。
神明社と称していましたが、明治4年(1871年)に現社名に改めました。

五十鈴(いすず)神社:甲賀市水口町東林口(ひがしはやしぐち)437

2018,07,09  02:41 PM





             五十鈴神社の由緒
五十鈴神社(甲賀市水口町東林口437番地)は「天照大御神」を
お祀りしています。
藤原時代の長寛2年(1164)に設けられた「御厨」制度により御厨
田の守護神として、また五穀豊穣の神として伊勢皇大神の御分霊
を、「福原大神宮」として称え奉ったのがその創始です。
江戸時代の天和2年(1682)から、水口城主として加藤明友候が
政を掌った間、「神明宮」として信仰も厚く御影石、手洗鉢の寄進を
されています。
その後の歴代藩主の信仰も厚く、由緒深い宮です。
明治4年(1871)「五十鈴神社」と改称されました。その他に稲荷、
八坂、愛宕、秋葉、島姫(弁財天)の各神社をお祀りしています。


7月23日:28137歩

菅原淳茂郷舊蹟地「梅ケ池」(甲賀市水口町)

甲賀市水口町の神社めぐりウォーキングで五十鈴神社に向かう途中で大きい
石碑と「梅ケ池」の説明板がありました。
説明板によると、菅原道真公の五男、「菅原淳茂」の住居がここにあった事を
示す石碑でした。

菅原 淳茂(すがわら の あつしげ)は平安時代初期から中期にかけての貴族、漢詩人、学者。

菅原淳茂郷舊蹟地「梅ケ池」(甲賀市水口町)      2018,07,09  02:28 PM


石碑の文字 「菅原淳茂郷舊蹟梅ケ池」

舊蹟(きゅうせき);歴史上の事件や建築物などがあったあと。



                 梅ケ池
水口城跡の南、市の井用水に接して所在する梅ケ池は、松ケ池、
鏡ケ池とともに「美濃部郷の三池」の一つとして、古くより水口の
人々に知られてきた。
所伝によれば、菅原道真の子で、父が大宰府左遷の祭、美濃部
の地に寓居したという菅原淳茂が、この地に一社を建て、かたわ
らに小池をうがち、梅の木を植えたのが美濃部天満宮と梅ケ池の
始まりという、美濃部氏はこの淳茂を祖とし、中世に美濃部・水口
の地を治めた土豪であった。
梅ケ池は旱魃にも涸れることなく、清 なああ水が絶えないことか
ら、古くは「眼洗い池」とも称し、その水は眼病に特効ありとされた、
また水口を象徴する「碧水」の名もこれより起ったと伝えられる。
野洲川の伏流水が河岸段丘の下で湧き出した湧水(シュウズ)の一
つと考えられ、また池から一帯の水田に水を引く井溝に美濃部一
族の名を冠した「武嶋の溝」の名がつけられていたことなどから考
え、美濃部氏の水田開発にともなう遺構であると考えられる。
平成15年、一帯の土地区画整理を実施するにあたり、その史実を
顕彰し、窮地よりやや南に移し、整備をしたものである。


7月22日:18543歩
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