ahisats3のブログ

ウオーキング中に見つけた神社、史跡、珍しいもの等を紹介します。

2018年11月

慈尊院(九度山町)

11月10日、九度山町へ行った時、下調べで丹生神社が近くにあることが
分かっていたので参拝に行きました、丹生神社は慈尊院というお寺の上
にありました。
慈尊院の方を先に紹介します。
慈尊院の由来は、高野山(金剛峰寺)の麓に政所(寺務所)として創建され
ました、弘法大師(空海)の母が四国から会いに来ましたが、女人禁制のた
め政所に滞在していました、空海の母は承和2年(835)に亡くなりました、そ
のとき空海は弥勒菩薩の霊夢を見たので、廟堂を建立し自作の弥勒菩薩
像と母の霊を祀りました。弥勒菩薩の別名を「慈尊」と呼ぶことから、この政
所が慈尊院と呼ばれるようになったのです。

空海はひと月に9度(正確に9度というわけではなく、それだけ頻繁にというこ
との例えだと言われている)は必ず20数kmに及ぶ山道(高野山町石道)を下
って政所の母を訪ねてきたので、この辺りに「九度山」という地名が付けられ
たのです。


慈尊院:和歌山県伊都郡九度山町慈尊院832

2018,11,10  03:45 PM









11月30日:21984歩

真田古墳(真田の抜け穴伝説)

真田庵(真田屋敷跡)から東へ約170mの所に「真田古墳」がありました。

古墳時代後期(4世紀頃)に作られた横穴式石室をもつ円墳の古墳です。
この穴が大坂城までつながっているという説等、複数の伝説があります。

真田の抜け穴伝説が残る場所として、1953年の発掘調査後、真田古墳
と名付けられました。

真田古墳:和歌山県伊都郡九度山町九度山1378

2018,11,10  03:22 PM







            真田古墳(真田の抜け穴伝説)
真田古墳は、木の川と丹生川に挟まれた段丘状大地の中腹にあり、古墳時代
後期(六世紀頃)の横穴式石室をもつ古墳である、現在は墳丘が失われている
ため確かではないが、円墳もしくは方墳と考えられる。
天井石が無いため井戸のように見える玄室は、東西約1.8メートル、南北約三メート
ル、高さ約1.7メートルあり、羨道部分との境界には柱石を設置して 石を設置でき
る構造になっている。
玄室から南向きに造られている羨道は、幅1.7メートル、高さ1.3メートルで長さは1.4
メートルのみが確認できている。
紀の川流域にある古墳時代後期の古墳の構造と様式がよく残っており、町内唯
一の古墳として大変貴重な遺跡である。
地元に残る伝承から真田古墳は通称真田の抜け穴と呼ばれている、慶長5年(
1600)関ヶ原の戦いの後、九度山に蟄居を命じされた真田信繁(幸村)が慶長
19年(1614)の大阪冬の陣に参陣するために利用した抜け穴であるという伝説
が残っている。
幸村の動向を監視していた徳川の目を欺くために利用したものとされているが、
抜け穴の行き先としては複数の伝承が残っている。
大坂城まで通じているという説が代表的だが、蟄居していた屋敷から通じている
という説もあれば、紀の川に通じていてそこで水行の訓練を行ったという話も伝
わっている。
「紀伊詩風土記」には、古墳の跡があり里の人は真田の穴と呼び幸村の作った
抜け穴と思われている、と記されており、「紀国名所図会」には、訓練を行ったと
される真田淵という地名が記されている。
真偽のほどは定かではないが、真田幸村という人物が九度山で慕われていると
いう証拠なる重要な伝承である。

大阪にも同じような伝説があります。
大阪城への抜け穴(三光神社)


11月29日:36078歩

真田地主大権現(真田庵)

九度山町で最初に見学した「真田庵(善名称院)」の境内に「真田大権現」と
いう神社がありました。

この神社の由来は、真田屋敷跡に建てられた、お寺(善名称院)に、怒った
姿の昌幸の霊がたびたび見られるようになりました。そこで大安上人は昌幸
の霊をこの地の大権現の神様にして祀ったところ、穏やかな顔になった昌幸
が現れ、そして祀ってもらったお礼にこの地を守ると約束しました。それがこ
の真田地主大権現です。

昌幸:真田昌幸(さなだ まさゆき)、真田幸村の父。

真田地主大権現:和歌山県伊都郡九度山町九度山1413   真田庵(善名称院)の境内

2018,11,10  03:11 PM

鳥居の額に六文銭





11月28日:28573歩

真田庵(真田屋敷跡)

11月10日のウォーキングは和歌山県九度山町へ行きました。


2016年の大河ドラマ「真田丸」に九度山が出て来てから一度九度山に
行ってみたいと思っていたのです。

関ヶ原の戦で敗れた真田父子は高野山に蟄居を命じられました。
その麓、九度山町に真田屋敷跡が残っているのです。

和歌山県九度山町:人口 4295人、面積44,15平方キロメートル
  九度山、地名の由来は、高野山の開祖である空海(弘法大師)の母が
  暮らしていたという慈尊院があり、空海は月に9度母に会いに来ていた
  ことから九度山の地名が付いたと伝
わっています。

真田庵(真田屋敷跡)

2018,11,10  03:07 PM



           県指定文化財 真田屋敷跡
戦国の武将 真田昌幸・幸村父子は慶長5年(1600)関ヶ原の戦で西軍に
味方して敗れ、高野山に配流の身となったが、後、九度山のこの地で閉居
生活をした、
昌幸は、慶長16年(1611)・再起を願いながらこの地で65歳で生涯を閉じた
、幸村は、慶長19年(1614)子、大助ら一族と共に九度山のこの地を出で立
ち大坂城に入城、大阪冬の陣、夏の陣で奮戦、元和元年(1615)茶臼山付
近で壮烈な最後を閉じた。
その後、江戸中期の寛保元年(1741)大安上人によって善名称院(真田庵)
が創建され現在に至っている。

真田父子
 父:真田 昌幸(さなだ まさゆき):九度山で65歳で逝去 真田丸では草刈
                      正雄が演じた。
 子:真田 幸村(さなだ ゆきむら):45歳で大坂で戦死、真田丸では堺雅人
                      が幸村役。真田幸村戦死の地(安居神社)

11月27日:20194歩

大和川付替記念公園(柏原市)

11月3日の羽曳野市の神社めぐりを終えて、帰路の途中、大和川と
石川の合流地点に「大和川付替記念公園」がありました。

大和川付替記念公園:柏原市        信号「安堂」付近

2018,11,03  04:53 PM







             大和川付けかえと中甚兵衛
河内平野を幾重にもわかれて淀川に注いでいた大和川が今の姿に付けかえ
られたのは、元禄が宝永と改元された1704年のことです、工事は、わずか8ヶ
月で完成しました。洪水に悩む地域のお百姓の訴えが実を結んだものである
が、最初の江戸幕府への願い出から付けかえの実現までには、50年近くの
月日を要しました。その間にも幕府は何度も付け替えの検分をしました。
そのたびに川筋となる村々から強い反対にあい計画は中止されました。しかし、
3年連続して河内平野が全て泥沼と化すような洪水にあって、幕府は対策に
本腰を入れ専門家を派遣、工事を行いました。
この工事で、淀川河口の水はけは良くなったものの、大和川筋は一向に改善
されず、川床には土砂が堆積して田畑より3メートルも高い天井川になってし
まいました。
しかも、幕府は付替え不要の方針を固めたため、依然洪水に悩む人々は、付
替えの要望が出来なくなり治水を望む運動の規模も、どんどん縮小してしまい
ました。
しかし、多くの文書や絵図を作成して状況の改善と新田開発の有効さを訴え続
けた根気と情熱が、幕府の方針を変更させたのです。
この付替え促進派で終止運動の中心にあったのが今米村(現在の東大阪市今
米)の庄屋に生まれた中甚兵衛で、同志の芝村・曽根三郎右衛門や吉田村・山
中治朗兵衛の引退や死にもめげず、最後はたった一人で何度も奉行所に出向
き工事計画を具申しました。
そして、ついに力量を認められた実際の工事にも御用を仰せつかりました、また、
その子九右衛もそれを手伝ったと記録されています。
甚兵衛、付替え時60歳。翌年剃髪して乗久を名乗り、享保15年92歳の天寿を
全うして亡くなりました。
御墓は京都 嵐山 西大谷に、生地の旧 春日神社跡に従五位記念碑が、またその
北100メートルには生家の屋敷跡の石垣が残っています。


剃髪(ていはつ):(仏門にはいり)髪をそりおとすこと。


中甚平記念碑(東大阪市今米公園)

日吉神社(羽曳野市西浦)

11月3日の羽曳野市の神社めぐりで最後の9社目に参拝したのが日吉神社
です。

日吉神社;羽曳野市西浦5丁目376      通称:西浦日吉神社

2018,11,03  03:55 PM





               歴史街道   日吉神社
西浦から蔵之内、尺度に至る一帯は、古くから良質の水田が広がっていた
ため、物部氏・蘇我氏などの氏族や国の支配地でしたが、鎌倉から室町時
代にかけては比叡山延暦寺の荘園となります。
そして、室町時代後期、この地に比叡山の山岳信仰の源流とし、延暦寺の
地主神として信仰を集めていた近江国坂本村(現:大津市坂本本町)の「日
吉神社」(日吉大社)の神霊が勧請されると、人々は渡来系氏族・利苅村主
氏の祖先神を祭る利雁神社を離れて、日吉神社を崇拝し、蔵之内、尺度に
も建立したと言われています。
境内には本殿・幣殿・神饌所があり、現在の祭神・大山咋命は魔除けの神、
山の守護、酒造りの守護として崇拝され、秋の例祭は10月17日に行われ
ます。                                 羽 曳 野 市


11月25日:24875歩

蔵之内日吉神社(羽曳野市)

11月3日の羽曳野市の神社めぐりで8社目に参拝したのが蔵之内日吉神社
です。
境内に神社の由緒等を書いたものはありませんでした。

蔵之内日吉神社:大阪府羽曳野市蔵之内180

2018,11,03  03:35 PM



神社は高い所にありました。(神社から東に向かって写す)


11月24日:27087歩

広瀬八幡宮(羽曳野市)

11月3日の羽曳野市の神社めぐりで7社目に参拝したのが広瀬八幡宮です。

広瀬八幡宮:大阪府羽曳野市広瀬



2018,11,03  02:23 PM



              広瀬八幡宮 由緒略記
  御祭神  応神天皇・仲哀天皇・神功皇后
広瀬は昔、壺井村広瀬と呼ばれておりましたが慶長年中(1596~1615)
に壺井八幡宮の社家多田家より分家した大黒小左衛門の子息清右衛門
により新田開発され新町村となる。
この新田開発の際、清右衛門は壺井八幡宮を勧請し広瀬神社と称之新田
開発の守護を祈願されたのであります。
当時境内地は、東西十五間、南北二十五間で外廻りに堀がめぐらされてあ
りました。
江戸時代には祭礼が盛んで境内内には放生池もあり八月十五日(旧暦)に
放生会があり御神輿の渡御も盛大に行われ現在児童グランドの前あたりに御
旅所を設けられていたようである。
以後明治時代に政府の方針により各地の神社を統合し壺井八幡宮に合祀さ
れ太平洋戦争後元の広瀬境内に分祀され広瀬八幡宮と称し地域の守護神と
して神事を行い現在に至っている。
御神徳は厄除け、安産、五穀豊穣、家内安全、無病息災に霊験あらたかであ
ります。

放生池(ほうじょういけ):捕らえた魚等を放してやる池。
放生会:(ほうじょうえ) :殺生を戒める仏教の教えにより,魚鳥など生きもの
                を放って肉食や殺生を戒める儀式。


11月23日:21322歩

利雁神社(羽曳野市尺度)

11月3日の羽曳野市の神社めぐりで6社目に参拝したのが利雁神社です。

創建の由緒は不詳である。元は尺土村の西南の利雁山に鎮座し「王の宮」
とも称していたという。延喜式神名帳では小社に列している。天正年間の兵
乱で社殿を失い、慶長17年に遷座した。明治5年(1872年)に村社に列格し
たが、明治40年10月12日、喜志村字宮(現 富田林市宮町)の美具久留御
魂神社に合祀された。

再建時期は不詳であるが、合祀後、羽曳野市尺度の西方寺の西側に利雁
神社が再建された。(フリー百科より)

利雁(とかり)神社:羽曳野市尺度

2018,11,03  02:05 PM




11月22日:24333歩

高屋神社(羽曳野市古市)

11月3日の羽曳野市の神社めぐりで5社目に参拝したのが高屋神社です。
石川の西側に鎮座していました。

高屋(たかや)神社:大阪府羽曳野市古市6-12

2018,11,03  01:24 PM



神社の前は東高野街道



                  高 屋 神 社
高田大地の中央南よりの高屋集落の中にあり延喜式内の古社である。
高屋丘陵は古墳時代のころは、物部一族の系統である神別氏族の「高
屋連」の本貫地であったことから、高屋連一族が氏神として創始したもの
と考えられる。
社伝によると、宣化天皇3年(538)勅命によってkのちに創建されたもの
と伝えられている。祭神は「饒速日命(物部氏の遠祖)」と「広国押武金日
命(安閑天皇)の二神となっている。
この高屋連については、平安初期の弘仁6年(815)に編さんされた新選
姓氏緑の河内国神別の中に「高屋連は饒速日命の10世の孫、居巳止尼
大連の後なり」と明記されているし、続日本紀の文武天皇の慶雲元年(
704)6月の条に「高屋連薬女の3つ児誕生」の件や、上の太子叡福寺裏山
の古代墓から出土の「宝亀7年の高屋連牧人墓誌」および古市西琳寺関
係文書の中に出てくる「西琳寺の僧名」からも、河内国古市郡の人、高屋
連〇〇と記された人々を散見することができる。

散見(さんけん):あちこちに見あたること。

石川河川敷


11月21日:22819歩
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