清水寺境内の地主神社を参拝後、出口に向かって歩いていると、何かの
碑があり、近づいてみると、アテルイ・モレの碑でした。
どうして清水寺にこの碑があるかは、下記の碑文に載っています。

阿弖流為(アテルイ)・母禮(モレ)の碑:清水寺境内







                                    顕 彰 碑
「八世紀末頃、日高見国胆沢(岩手県水沢市地方)を本拠とした蝦夷の首
領・阿弖流為(アテルイ)は中央政府の数次に亘る侵略に対し数十年に及
ぶ奮闘も空しく、遂に坂上田村麻呂の軍門に降り同胞の母礼(モレ)と共に
京都に連行された。 田村麻呂は敵将ながらアテルイ、モレの武勇、人物を
惜しみ政府に助命嘆願したが容れられず、アテルイ、モレ両雄は、八〇二
年河内国で処刑された。 この史実に鑑み、田村麻呂開基の清水寺境内に
アテルイ、モレ顕彰碑を建立す。 」  



「八世紀の末頃まで、東北・北上川流域を日高見国(ひたかみくに)と云い、
大和政府の勢力圏外にあり独自の生活と文化を形成していた。政府は服
属しない東北の民を蝦夷(えみし)と呼び蔑視し、その経略のため数次にわ
たり巨万の征討軍を動員した。胆沢(いざわ:岩手県水沢市地方)の首領、
大墓公阿弖流為(たのものきみあてるい)」は近隣の部族と連合し、この侵
略を頑強に阻止した。なかでも七八九年の巣伏(すぶせ)の戦いでは、勇猛
果敢に奮闘し征東軍に多大の損害を与えた。八〇一年、坂上田村麻呂は
四万の将兵を率いて戦地に赴き、帰順策により胆沢に進出し胆沢城を築い
た。阿弖流為は十数年に及ぶ激戦に疲弊した郷民を憂慮し、同胞五百余
名を従えて田村麻呂の軍門に下った。田村麻呂将軍は阿弖流為と副将磐
具公母礼(いわぐのきみもれ)を伴い京都に帰還し、蝦夷の両雄の武勇と器
量を惜しみ、東北経営に登用すべく政府に助命嘆願した。しかし公家達の
反対により阿弖流為、母禮は八〇二年八月一三日河内国で処刑された。
平安建都千二百年に当たり、田村麻呂の悲願空しく異郷の地で散った阿
弖流為、母礼の顕彰碑を清水寺の格別の厚意により田村麻呂開基の同寺
境内に建立す。 両雄以って冥さるべし。
1994年11月吉祥日
     関西岩手胆江同郷会 関西岩手県人会  京都岩手県人会  
     アテルイを顕彰する会 

上記碑文に河内国で処刑されたとありますが、場所は枚方市の片埜神社
の近くで
私は2013年にブログに取り上げています。アテルイ、モレの碑

1月30日:22378歩