関ケ原町内ウォーキング
神明神社を参拝後、さらに進むと「島津義弘陣跡」がありました。
島津義弘といえば、戦国でも屈指の猛将として知られている武将で、関ヶ原の
戦いでも西軍敗走のなか、敵中を突破して薩摩へと帰還しました。


島津義弘陣跡(関ケ原町)                                                              2019,08,25 04:29 PM





             島津義弘(維新)陣跡
戦国の雄、島津軍団千人を率いた義弘は、北國街道をおさえるため、ここ
小池村に陣をかまえました。
西軍がことごとく敗退するなかで、「西軍に島津あり」の雄姿を見せつける
ため、義弘は最後の賭けに出たのです。「背信」を最後の武器に変えたその
決断こそ、現代にまで語りつがれる「敵中突破」なのです。   関ケ原町 
 
              関ケ原戦跡踏破隊」名碑
鹿児島県日置市の青少年で組織する関ケ原戦跡踏破隊は、昭和35年から
毎年夏休みを利用して関ケ原から大阪までの島津勢退路を踏破しています。
(途中電車等も利用)
この名碑には、これまでの参加者の氏名、年齢を刻み、その労苦を称える
とともに、郷土の先輩方に負けぬ立派な大人に成長できるようにとの自戒の
念をこめて設置しています。
また、関ケ原戦跡踏破隊が取り持つ縁で関ケ原と日置市(旧伊集院町)は、
昭和38年に兄弟都市盟約を結んでいます。       関ケ原町



              島津義弘陣跡
島津義弘隊1千百余は、未明までに関ケ原へ入り、この地から
北西約250メートルの薩摩池付近に陣を敷いた、二番構えとして
石田三成」の側面の守りと、北国街道の押さえを任される、開
戦後は、自ら攻撃に出ることはなく、自陣に近づく者は東西両
軍に関わらず打ち払う姿勢を取った。
三成からは幾度も参戦を要請されたが、使者として訪れた三成
の家臣・八十島助左衛門が下馬しなかったことを無礼として、
激怒し追い返す、その後、三成自身が説得に来るも、「今日の
償は面々切に手柄次第に相働くべく候」と呼応しない。
一進一退の攻防が続く中、小早川秀秋
の寝返りにより戦況は一変、東軍の猛攻に絶え切れなくなった
西軍諸隊は次々に敗走する、孤立した島津隊へ東軍諸隊が迫
るなか、義弘は討死を覚悟するが、甥の島津豊久に説得され、
撤退を決める。
西軍諸隊が背後となる近江方面へ敗走する中、義弘は大胆にも、
東軍諸隊が群がる正面を突破し、伊勢街道を南方に抜ける進路
をとる。島津隊は徳川家康本陣に向かって猛烈な勢いで突撃した。