関ケ原町内ウォーキング
関ヶ原の合戦古戦場めぐりで「石田三成陣跡」の次に「決戦地」を見つ
けました。

西軍有利な陣形で臨んだ戦いであったが、小早川と脇坂ら4隊の裏切
りは、たちまちにして戦況を一変させた。小早川勢の大谷隊への突入と
同時に、西軍の配色が濃くなり、各軍の兵士の浮足立つなか、石田隊
は集中攻撃を受けながらも、最後まで頑強に戦った。笹尾山を前にした
この辺りは、最大の激戦のあったところです。


関ヶ原の戦い「決戦地」

2019,08,25  05:05 PM











                                         関ケ原合戦あらまし
西暦1600年慶長5年)9月15日(現在の暦では10月21日)、徳川家康率いる
東軍と石田三成率る西軍がここ関ケ原盆地で激突した。
豊臣秀吉亡き⑤、自らの時代を開こうとした徳川家康は、同6月会津上杉攻
めを口実に大坂を離れ三成の挙兵を誘い込んだ、8月会津攻めから引き返
した家康は、9月1日江戸を発ち、14日には美濃国赤坂に着陣した、この間
家康は豊臣政権内の諸将の反目や政治的矛盾を利用し、豊臣恩願の武将
の多くを東軍に引き入れた、一方豊臣家への義を重んじた三成は8月下旬か
ら大垣城に立てこもっていたが、急遽14日の夜大垣城を出て早朝には関ケ
原に布陣し、本陣をここ笹尾山に置いた、一方東軍も西軍の動きに呼応し、
午前7時頃には家康は関ヶ原の桃配山に陣取った。
午前8時、東軍の先鋒福島正則隊を出し抜いて井伊直政隊が発砲し、かくし
て決戦の火ぶたは切られた、地形を利用して東軍を誘い込み、包囲攻撃の
陣形をとった西軍が有利な様相だったが、一進一退の攻防が続いた、しかし
、かねて家康と通じていた松尾山の小早川秀秋が一向に反応しないことに業
を煮やした家康が、小早川の陣に向けて誘い鉄砲を撃たせると、気が動転し
た小早川は味方の大谷吉継隊を襲い吉継は自刃、ここに形成が逆転した。
正午過ぎ家康は総攻撃を命じ、小西行長隊、宇喜多秀家隊と崩れ、頑強だっ
た石田隊も敗走をはじめた、桃配やま家康本陣背後の南宮山の毛利隊も、内
応した吉川広家に阻まれ最後まで参戦することなく陣を引いた、最後御残った
西軍の島津義弘隊は、正面から敵中突破を敢行し、多良方面へ去り、家康の
追撃中止命令が下った。時に午後2時半のことである。
天下分け目の合戦を制した家康は、西軍諸将の内、八十八家を改易にし、五
家の所領を大きく削ったという、その後大阪の陣で豊臣氏を滅ぼし、徳川三百
年の大平の基礎を築いたのであった。

改易(かいえき)
江戸時代に侍に科した罰で、身分を平民に落とし、家禄(かろく)・屋敷を没収す
るもの。切腹より軽く、蟄居(ちっきょ)より重い。


10月16日:30616歩