ahisats3のブログ

ウオーキング中に見つけた神社、史跡、珍しいもの等を紹介します。

城、城跡、城関連

城の石垣(北陸銀行福井支店)

青春18キップで出かけた、7月20日の福井市内ウォーキングは夕方まで滞在
する予定でしたが、早めに福井駅を出発することに決めてJR福井駅に戻
る途中の北陸銀行福井支店の前で石垣が展示してありました。


城の石垣:北陸銀行福井支店                                     2019,07,20  00:09 PM





               石垣について
展示してある石垣は、(株)北陸銀行福井支店の新築工事に伴う発
掘調査の際に出土したものです。
出土の場所などから判断いたしましと、当石垣は戦国武将、柴田勝
家が築いた幻の城とも言われている「北庄(きたのしょう)城」もしくは
、後に結城秀康が築いた「福井城」の遺構と考えられます。
出土した石垣は、城の下層3~4階で石材が当市の西北部に位置す
る足羽山で産出する笏谷石が使われています。
                              福井市教育委員会

笏谷石(しゃくだにいし):凝灰岩の一種。福井県福井市の足羽山で
                採掘される石材。


9月6日:20113歩

福井城跡(福井市大手)

7月20日の福井市内ウォーキングは県庁前で「結城秀康公」の像を見つけ
た後、その近くに福井城跡がありました。
今は天守等は残っていませんが、堀と石垣が残っていました。

福井城跡  福井市大手3丁目17−1                           2019,07,20  10:16 AM 







                 福井城天守
福井藩の初代藩主結城秀康は、慶長6年(1601)から約6年をかけて
福井城(北庄城)を築城し、本丸には壮大な天守が偉容を誇っていた。
残されている天守絵図によれば、外観は四層であるが、最下層の
階高を高くとって二階分の床を張っており、内部が五階になっている、
絵図では高さが約30メートルあり、天守台を含めると約40メートルにもなる。
今に残る天守台と控天守台には、大きな礎石が並んでおり、天守台の
北半分に天守が建っていたのであろう。
四層五階の壮大な天守も、寛文9年(1669)4月の大火で焼失して以来
再建されることはなかった。






福井城を建てた結城秀康公像(福井県庁前)

9月1日:41798歩

大津市内ウォーキング②膳所城跡

大津市内ウォーキング②
膳所神社を参拝後、膳所城跡を散策しました。

膳所城は、徳川家康が関ヶ原の合戦の後、築城の名手といわれた藤堂
高虎に最初に造らせた城でした。城構えは、湖水を利用して西側に天然
の堀を巡らせた典型的な水城で、白亜の天守閣や石垣、白壁の塀・櫓(
やぐら)が美しく湖面に浮かぶ姿は、実に素晴らしかったといいます。この
美観は、「瀬田(せた)の唐橋(からはし)唐金擬宝珠(からかねぎぼし)、
水に映るは膳所の城」と里謡(さとうた)にも謡(うた)われています。
 戸田(とだ)・本多(ほんだ)・菅沼(すがぬま)・石川と城主が変わった後
、本多6万石代々の居城として長く偉容を誇りましたが、明治維新で廃城
になり楼閣(ろうかく)は取り壊されました。城門は重要文化財で、膳所神
社や篠津(しのづ)神社に移築されて残っています。
 現在、本丸跡は、膳所城跡公園として整備され、春には桜の名所として
花見客を多く集めています。      滋賀県ホームページより

大津市内ウォーキング② 膳所城跡(膳所城跡公園)                   2019,07,15 11:45 AM











大津市内ウォーキング②瀬田城跡

大津市内ウォーキング②
「堂の上遺跡」を見学後、瀬田城跡を見つけました、城跡には臨湖庵とい
う料亭が建っていたが現在は城跡に、2008年「グランスイート近江・臨湖庵」
という名の高層のマンションンが建ち遺構は何も残っていません。

瀬田城跡:大津市瀬田2丁目13                                                         2019,07,15  09:21 AM

                勢多古戦跡碑
勢多城は山岡城とも呼び建武仲永享元年山岡信濃守景房が築く後に
三井寺を築き光淨院に葬る其の後九代の褒美作守景隆に至る世々勢
多に住す景隆織田信長に仕え三万石を領す天正十年明智光秀信長を
本能寺に殺し安土城を取らんと欲し景隆を味方にせんものと使者を立
て勧告す景隆固く義を執りて応ぜず橋を焼き西岸の舟を集めて之を絶
つ光秀大いに囲む時に徳川家康の浦にて光秀の乱を開き東に帰る途
通ぜず宇治より間道を経て勢多に至る景隆弟景祐と共に前導して田上
山より信楽郷に達せしも士冠あり路を遮る景隆之を討ち破り德川の安路
を計る後に宝暦9年龍安寺西源院天寧和尚は隠れたる忠誠の勢多城最
後の城主従五位下山岡美作守景隆を偲び膳所城主本田下総守康恒に
進言す康恒勢多城跡に一宇を建て臨江庵と命名す現在の臨湖庵之なり
茲に遠祖の功業を偲び山岡氏一族の碑を建立す
                    昭和40年10月17日  駒井鳴水謹書







大津市内ウォーキング①大津城跡

7月14日の大津市内ウォーキングを終えて京阪「びわ湖浜大津駅」から
帰路に向かい駅で電車の発車時間をみると少し時間があったので
駅の周辺を散策していたら「大津城跡」の石碑をみつけました。 

大津城跡:大津市浜大津5丁目2−29                                 2019,07,14  02:50 PM




                大 津 城
豊臣秀吉は、坂本城を廃し大津城を築いた。
これは、秀吉の近江支配が安定したこと、京都や大阪が拠点となり物
資の中継港としての大津の重要性が増したためとされている。
しかしながら、築城年代は明確でなく、京都の吉田神社の神官・吉田
兼見の日記から、遅くとも天正14(1586)年頃には城の機能が移され
たと考えられる。
初代藩主は浅野長吉(長政)、その後、枡だ長盛、新庄直頼を経て、文
政4(1595)年 京極高次が就任している。
高次の妻は、浅井三姉妹の次女「お初」で、慶長5(1600)年の天下分
け目の関ケ原の戦いのときは、東軍についたため、西軍の大軍を引き
付け、関ヶ原の勝敗を左右にたとして小浜藩主に栄転している。
大津城は合戦の翌年に解体、新たに膳所城が築かれている、なお、大
津城の天主は、彦根城に移された。
城が膳所に移された大津は、その後、東海道と北国海道の分岐点とし
て商業都市としての性格を極め、東海道五十三次の宿場町の中では
屈指の人口を有する町として繁栄する。     大津市観光振興課


8月12日:14560歩

ハートの石「愛の石」(津山城)

4月7日の日帰りバスツアーで最後の見学地、津山城の天守台(頂上)
の石垣の石がハート型になっていて、隠れた観光スポットになっている
そうです。

ハートの石(津山城)                                                                           2019,04,07  04:31 PM







         ハーットの石「愛の奇石」
愛の奇石として隠れた津山の観光スポットになって
いるのがここ。
天守台にあるこの石はご覧の通りハート型、この奇
石に触れたカップルは恋が成就すると密かな恋愛ス
ポットになっています。

頂上からの景色



津山城跡(鶴山公園)

4月7日の日帰りバスツアーで岡山後楽園見学後、バスは最後の見学地
津山城に向かいました。
津山城跡の桜は岡山県内屈指の桜の名所で桜が満開で丁度見頃で
した。

津山城跡(鶴山公園) 岡山県津山市山下135                                 2019,04,07  04:19 PM











                 津山城跡
                      国指定史跡(昭和38年9月28日指定)
津山城は、もと山城のあったこの築山の地に森忠政が慶長9年(1604)
に起工し、元輪年(1616)の完成まで3年の歳月をかけて築いた楼郭式
平山城です。
往時には五層の天守閣がそびえていましたが、この天守閣は弓狭間・
鉄砲狭間・石落し等の備えを持ち、唐破風・千鳥破風等のない実戦的な
ものでした、また、本丸・二の丸・三の丸には、備中櫓をはじめ、粟積櫓・
月見櫓等多くの櫓が立並び、本丸には700余の部屋からなる御殿と庭
園がありました。
この城が築かれた当時は、我が国の築城技術が最盛期を迎えた時期に
あたり、津山城の縄張りの巧妙さは攻守両面において非常に優れたもの
で、近世平山城の典型とされています。
明治6年(1873)廃城令によって城郭は公売され、翌7年から8年にかけ
て天守閣をはじめとする一切の建物が取り壊されましたが、豪壮堅固な
石垣はのこりました。
その後、明治33年(1900)城跡は鶴山公園として津山町の管理となり、
昭和38年に国の史跡に指定あれました。

歴代城主
 森家
  森家は清和源氏で、初代津山藩主森忠政は、美濃金山城主森可成の六
  男に生まれました。
  慶長8年(1603)徳川家への数々の武功が認められて、信濃川中島13万
  7500石の大名から美作一国18万6500石の大名に抜擢されました。この
  忠政は、本願寺の変で主君の織田信長と共に壮絶な最期を遂げた森蘭丸
  の実弟にあたります。
  森氏は四代95年にわたって美作国を治めましたが、四代藩主長成に嫡子
  がなく津山森家は改易となりました、その後、森家は二代藩主長継の子長
  直が備中西江原藩主として森宗家を再興し、さらに宝永3年(1706)播磨赤
  穂に移りました。
松平家
  森家にかわり、10万石の大名として新たな津山藩主となった松平宣富は、
  徳川家康の第二子結城(松平)秀康の曾孫で結城家と呼ばれ、徳川一門
  中に重きをなしていました、そして明治4年(8171)に廃藩となるまで、九代
  174年にわたって続きました。



平山城(ひらやまじろ)
平山城とは平野の中にある山や丘陵に築城された城のことを指します。
 日本3大 平山城
    姫路城
    松山城
    津山城
改易(かいえき)
    江戸時代に侍に科した罰で、身分を平民に落とし、家禄(かろく)・
    屋敷を没収するもの。切腹より軽く、蟄居(ちっきょ)より重い。


4月16日:24097歩

岡山城(岡山市北区)

4月7日の日帰りバスツアーで岡山後楽園の次に見学したのが岡山城です。
天守閣の壁に黒漆塗りの板を取り付けるこの時代の建築の特徴から、外観
は黒く、後の時代には「烏城(うじょう)」と呼ばれるようになりました。

岡山城:岡山市北区丸の内2丁目3−1                                           2019,04,07  00:37 PM

月見橋から撮影



岡山城の最上階から撮影



                岡山城の歴史を今に
岡山の市街地の元となった岡山城は、宇喜多秀家が慶長2年(1597)に
築城した後、江戸時代には岡山藩の城府となり、明治維新により廃城と
なりました。
城跡は、大半が市街地となり、本丸も学校用地に転用されて、昭和20年
の岡山空襲で天守と石山門が焼失し、月見橋と西手櫓が現存するだけ
となりました。
この本丸跡は、昭和29年に学校が移転して、烏城公園として整備され、
昭和41年には天守閣が復元されて観光施設ともなっています。
さらに、昭和62年に史跡に指定されてからは、歴史に視点を置いた整備
が求められるようになりました、岡山市は平成4年度から本丸跡中の段
で発掘調査、コンクリート建物の撤去、石垣の解体復元修理、江戸時代末期
の建物の表示、築城期の石垣の露出展示などを行っています。
こうした事業は、中の段の次は天守のある本段、その後は下の段と進め
て行く計画です。
岡山市の歴史的シンボルであって市民共有の遺産である岡山城跡を、より
良い姿で後世に伝えていくため、事業へのご理解をお願い申し上げます。
なお、事業に関するお問い合わせは、岡山市教育委員会文化財課(電話
803-1611)にご連絡下さい。
              平成17年1月16日 岡山市・岡山市教育委員会


4月10日:19052歩

「多聞櫓」の発祥 多聞城跡(奈良市多門町)

3月9日の奈良市内 神社・史跡めぐりウォーキングで佐保川天満宮を参拝後、
多聞城跡を探して歩いている時、
天皇陵を巡っている京都から来た青年と
出合い、その後一緒に歩いて天皇陵を探しました。
「多聞櫓」 という言葉を耳にしたことがありますが、ここの城が発祥だった
のです。

多聞(たもん)城跡:奈良市多門町                    

2019,03,09  01:37 PM



                多 聞 城 跡
多聞城は、戦国武将、松永久秀が築いた城です、永禄2年(1559)
、久秀は大和に侵攻し、翌年、奈良の町を見下ろす佐保山の一画
に多聞城の築城を始めました、永禄6年(1565)、奈良を訪れた宣
教師ルイス・デ・アルメイグは、城は瓦葺で白壁の城壁を備え、城内は 
障壁画で飾られるなど豪華な造りであったと書き残しています、後
に「多聞櫓」と呼ばれる長屋状の櫓や、後世の天守に相当する「四
階櫓」ご造られろなど、近世城郭の先駆けとなる城でした。
松永氏は退いた後、天正2年(1574)、織田信長が多聞城に入りま
した、しかし、天正4年(1576)には、信長により多聞城の取り壊しが
命ぜられ築城からわづか十数年で破却されました。建物の一部は
安土城や二条城で再利用され、残されていた石材は筒井城へ運ば
れたことが知られています。
城域は、現在の奈良市立若草中学校の校地と、西側の光明皇后陵
を含む範囲と考えられ、北西と東西しは堀を巡らし、南西は佐保川
で奈良の町と区切られていました。
発掘調査では、石造物を再利用した石垣の溝や井戸、多数の瓦な
どが見つかっています、また、現在でも閘門の東側には、校地一帯
で発見された墓石類が手厚く供養されています。


3月26日:23972歩

佐治城碑(遥拝所) 京都市山科区

1月14日の山科区の神社・史跡めぐりウォーキングで宮道神社を参拝後
来たに向かって歩いている時、名神高速道路の手前で「佐治城碑(遥
拝所)の石碑を見つけました。

遥拝所(ようはいしょ):遠く離れた所から神仏などをはるかに拝むため
              に設けられた場所

佐治城碑(遥拝所):山科区勧修寺仁王堂町

2019,01,14  09:45 AM



              佐治城碑(遥拝所)
佐治城は、滋賀県甲賀郡小佐治の丘陵にあり、佐治城は佐治氏の
代々の居城である。
佐治氏は、甲賀武士の中でもその歴史は古い、康平5年(1062)に平
業国が佐治郷に転封して、佐治氏を名乗る。
安土桃山時代、佐治一族は織田信長、豊臣秀吉の諸国統一に積極
的に協力してきたが、天正11年の甲賀破議で、領地没収命令が出さ
れ、それに反対し、本城で籠城して秀吉大軍の前に滅亡(1585)する。
  夏草に 草色の風 ふきわたる
                 発起人 神谷季与丸
  佐治城は 草むらの城 泉わく      
                  俳人 坪内稔典

滋賀県甲賀郡小佐治:滋賀県甲賀市甲賀町小佐治
転封(てんぽう):所領を別の場所に移すことである。 国替(くにがえ)


2月28日:17594歩
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