ahisats3のブログ

ウオーキング中に見つけた神社、史跡、珍しいもの等を紹介します。

由来(いわれ、出典、語源)

三重、焼津の由来(ヤマトタケルの物語)

大津市内ウォーキングの二日目(7月15日)で参拝した建部大社に、
(古事記と日本書記)

語が境内に絵と文章があり、そこに地名「三重」と「焼津」の由来が
出てきますので紹介します。


語   大津市建部大社境内              2019,07,15  08:54 AM

1 ヤの西征
 ヤマトタケルノミコトは父(第12代景行天皇)の御子・小碓命(オウスノミコト)として
 生まれます。
 父はオウスノミコトに朝廷に従わない西国の九州・熊襲建(クマソタケル)兄弟を
 征伐するよう命じました。
 熊襲兄弟の館を見つけたミコトは、女装をして熊襲の女たちに混じり宴に
 紛れ込み、熊襲兄弟が酔ったところで忍ばせていた短剣で討ちました。
 熊襲兄弟を討った事から強者の称号である「タケル」の名をもらい、日本武
 尊(ヤマトタケルノミコト)の名で呼ばれるようになりました。


2  ヤルと草薙の剣
  西国征伐から戻ったヤマトタケルノミコトに景行天皇は東国征伐を命じます。
  途中、伊勢神宮に立ち寄り叔母のヤマトヒメから神剣・天叢雲剣(アメノム
  ラクモノツルギ)と、国造(キニノミヤツコ)たちは「沼に住む荒ぶる神に困ってお
  ります」と、野に誘い出され四方から火を放たれました。
  退路を断たれたミコトは、ヤマトヒメから授かった神剣で草をなぎ祓い、火打
  具で向い火を放って野火から脱出します。
  後に火で焼いた事からこの地を焼津(やいず)静岡県)といい、草をなぎ
  払った神剣は草薙の剣(クサナギノツルギ)と呼ばれるようになりなした。



3  后・オトタチバナヒメの入水
  更に東へと進んだヤマトタケルノミコトは、次に相模の国から船で海路を進み
  上総の国は渡ろうとしました。
  しかし、海が荒れ船を進めることが出来ずにいると、同行していたオトタチ
  バナヒメが、「私が海に入って海の神を鎮めましよう」といって自ら荒波に
  身を投じたのです。
  すると、たちまち荒れ狂っていた海は静まり、無事に対岸に着くことがで
  きました。



4  ヤルと伊吹山の神
  東国を平定し尾張の国に戻ってくると、今度は伊吹の山に悪い神
  がいると聞きつけたヤマトタケルノミコトは、神剣・草薙の剣をミヤズヒメに預
  けて征伐に向かいました
  伊吹山を登る途中、牛ほどの大きな猪に出会い「これは山の神の使
  いだな、帰り道で相手になってやろう」と大きな声で威嚇してやり過ご
  しました。
  すると突然激しく雹が降り出し行く手をはばまれます。
  実は白い猪は山の神の使いではなく、山の神だったのです。
  怒りを買い雹(ひょう)に打たれて衰弱したミコトは、やっとの思いで脱出
  し故郷の大和の国を目指します。
 


5  ヤルと白鳥伝説
  大和の国を目指し歩き続けたヤマトタケルノミコトは、「足が三重(ミエ)に
  曲がり固い餅のようだ」と嘆いた事からその地を三重(みえ)といわ
  れる
ようになりました。
  更に体調を悪くしたミコトは国しのびの歌を詠みます。
  「倭は国のまほろば たたなづく青垣 山隠れる倭しうるはし」と読み、
  伊勢の能褒野(三重県鈴鹿市)でついに力尽き息を引取ります・・・
  妻や子供たちが駆け付けると、ミコトの魂は白鳥となり能褒野から河
  内の志紀(大阪羽曳野)へと飛び立ちました、今も白鳥伝説として語
  り継がれています。

関連ブログ白鳥陵古墳(羽曳野市軽里)
               能褒野神社一の鳥居(亀山市)

8月17日:20276歩

「椥辻」の由来(山科区)

京阪三条駅から歩き始めた山科区の神社・史跡めぐりウォーキングで朝日
神社の次に地下鉄「椥辻(なぎつじ)駅」のそばで地名「椥辻」」の由来
がわかる説明板があったので紹介します。

「椥辻」の由来:京都市山科区 地下鉄「椥辻駅」のそばにて



              ナギ(梛)の木
マキ科の常緑樹、昭和51年山科区誕生記念に植樹 ナギは「和・凪」
(なぎ)に通じ、困難をナギはらうとか、平和な家庭を意味し、光沢あ
る葉は縦に引いても切れにくいため、男女相愛のシンボルになって
います。
かって村に「ナギ(梛)の大樹」があり、遠く四方からもその姿を見るこ
とができたため、当地「椥辻」の地名のもととなったと伝えられています。
          山科の歴史を知る会    設置 平成12年5月 椥の会

椥辻駅の近くにあった京都刑務所の白くて長い塀     東野井ノ上町20



2月23日:19491歩

蹴上の由来「粟田口刑場跡」

京阪三条駅から歩き始めた山科区の神社・史跡めぐりウォーキングで蹴上
インクラインの次に「九条山」バス停付近で「粟田口刑場跡」の説明板を見
つけました。
その説明板には載っていませんが、調べたら地名「蹴上」の由来が分
かりました。

地名「蹴上の由来」
平安時代から江戸時代までここには「粟田口処刑場」がありました。
その間、1万5000人もの人がここで亡くなった当時日本最大の処刑場
でした。織田信長を本能寺の変で暗殺したことで知られる明智光秀が
斬首され晒された場所としても有名です。ここの京都市街地方面の地
名を蹴上といいますが、処刑を拒む受刑者を蹴り上げながら、むりや
り処刑場まで連れて行った事にちなみます。


粟田口刑場跡:京都市山科区厨子奥花鳥町           2019,01,13  08:48 AM





                粟田口刑場跡
この地は、東国から都への交通の要衝であり、粟田口に位置して
います、ここは、東海道の最後の難所日岡峠につづく高みで、粟
田口峠と呼ばれていました。そのために、幾度となく掘り下げが行
われてきました。
元文元年(1736)には、五条坂安祥院住持の木倉正禅により粟田
口峠南の木橋が石橋に架け替えられるとともに、切り下げられまし
た。文化年間には、車道に車石舗装がされ、人馬道には灯籠が建
てられました、幕府最後の慶応3年(1867)には、急峻な日岡峠を
避け、その北に新道を付け替えました、
その結果、この粟田口峠が日岡峠と呼ばれています、当町内にあ
る修路碑は、その歴史を物語るものです。
また、古来、都と郊外の境界に位置するこの地には、公開処刑場
が設けられていました。江戸時代には、粟田口(日岡)刑場として、
この地で 獄門、火刑が行われました。刑場を望む山裾には、刑死
者の霊を弔い慰め、供養する宗教者によって何基もの供養塔が建
てられました、明治5年(1872)には、この刑場跡地の後ろ山中腹に
粟田口解剖所が設けられ、短期間ではありましたが、近代医学の発
展に寄与した場所でもあります。
しかし、明治初期の廃仏稀釈や現代にいたる開発によって、供養塔
や経王塔などが破壊され、道路測溝の蓋石や石垣石などにされてし
まいました、さらに、明治8~10年にかけての日岡峠切り下げ工事と
、昭和6~8年にかけての京津国道改良工事などによって景観も一変
しました、そのような中で、日岡擁壁には、旧舗石車石や経王塔がは
め込まれて残され、また、当時の南、日ノ丘朝田町には出土した供養
塔の破片や名号碑や題目碑として復元されており、当地の歴史をし
るよすがとなっています。         九条山峠町内会・京都市





2月16日:22746歩

壺井水の由来(羽曳野市壺井)

羽曳野市の神社めぐりで最初に参拝した壺井八幡宮の鳥居の手前で
壺井水の石碑と説明板を見つけました。

壺井水:大阪府羽曳野市壺井400                                  2018,11,03  09:57 AM







        清泉壺井   所在地:羽曳野市壺井400
前九年の役の際、天喜五年(1057)に東北地方の戦地へ赴いていた、
源 頼義とその子義家が大かんばつのため飲み水に困り果て、敗北を
余儀なくされようとしていました。
そのときに、頼義が馬から降りて着用していた鎧を脱ぎ、天を仰いで祈
念し、自ら弓矢を岸壁に向かって射たところ、そこから清水が湧き出し
て渇きをいやすことができたといわれています。
戦いに勝利して、この清水を壺にいれ持ち帰り凱旋した時に井戸を掘り
その底に壺を埋めて壺井水と称したといわれています。


11月6日:19587歩

鷹狩り伝説(多田神社)

多田神社に境内で鷹狩り伝説の説明板があり、そこに三ツ矢サイダーの
商標「三ツ矢」の由来が載っていたので紹介します。


鷹狩り伝説:多田神社境内にて                                             2018,10,10  01:36 PM



ここ多田神社の御祭神 源満仲公(912~997年)と三ツ矢
サイダーにまつわるもう一つの伝説がある。
満仲公が鷹狩りに出かけた際に獲物を射止めようと放った
矢は、狙った鷹の羽をかすめて岩にあたり、その一角から
清らかな泉が流れ出した、傷を負った鷹は満仲公の眼前に
舞い降りて、傷口を泉に浸すと、たちまち回復し、勇ましい
羽ばたきとともに空高く飛び立っていった。
この霊泉こそ、三ツ矢サイダーの源泉「平野水」といわれる。


「平野水」のはじまり
1884年(明治17年)、かって銀山と温泉で賑わった兵庫県の河
辺郡多田村(現川西市)平野で「三ツ矢サイダー」が産声をあげた
。その時の商品名は「平野水」。湧き出た天然鉱をびん詰めした
もので、広辞苑にも「炭酸水の異称」と載る清涼飲料である。「平
野水」を商品化するきっかけは、1881年に「英国の理学家ガラン氏
」が「理想的鉱泉なり」と賞揚したことであった。
ガランとは、1872年からお雇い外国人として造幣寮(のち造幣局)
の技師を16年間務めたウイリアム・ガウランドのことで、古墳の研究や
日本アルプスの命名者としても知られている。

三ツ矢サイダーの矢羽根のマークはここ多田神社で決まった?
三ツ矢サイダーの起源にあたる「平野水」(兵庫県河辺郡多田村(現
川西市)平野が源泉)の商標を決めるにあたって、満仲公にちなん
だ縁起の良い「三ツ矢」を使うことがきまり、多田神社に宮司の福
本等之輔、多田村長の小野義太郎、三ツ矢家当主の権兵衛、当
時「平野水」を製造販売していた川久保平野鉱泉所の川久保久之
らが集まって三本の矢を中心に向かって配列するデザインが考案さ
れたとの記録がのこっている。                                                                                                                              


11月3日48534歩:

茶屋町の由来「鶴乃茶屋跡」(大阪市北区)

大阪市北区のウォーキングで「川崎東照宮跡」の次に見つけたのが
「鶴乃茶屋跡」です。
この周辺は明治の初め頃まで、与謝蕪村が「菜の花や 月や東に
日は西に」と詠んだように、春には菜の花が一面に咲く美しい野原
であったといわれ、人々の憩いの場所となっていました。
蕪村句碑(梅田芸術劇場前)
茶屋町の地名の由来ともなった、茶屋(料理屋)多く、かってこの地
あった「鶴乃茶屋跡」の石碑を見つけました。

鶴乃茶屋跡:大阪市北区茶屋町8-6

2018,10,06  00:40 PM





この周辺は明治の初め頃まで、与謝蕪村が「菜の花や 月や東に
日は西に」と詠んだように、春には菜の花が一面に咲く美しい野原
であったといわれ、人々の憩いの場所となっていました。
この町を縦断する旧池田街道筋に「鶴乃茶屋」、「車乃茶屋」、「萩
乃茶屋」、などの料理茶屋が賑わっていたことが、茶屋町の地名の
由来ともなっています。
かってこの地には「鶴乃茶屋」にゆかりのある江戸時代の豪商「松
並竹塘」の業績を讃える石碑が建立されていました。


10月26日:24970歩

徳庵の由来「徳庵納豆ゆかりの地」

9月25日は、鶴見区と城東区の史跡を探しながらウォーキングをしました。
最初に見つけたのが「徳庵納豆ゆかりの地」です。
大阪市営徳庵住宅集会所に大阪市顕彰史跡大191号「徳庵納豆ゆ
かりの地」の説明板がありました。
その説明板に徳庵の地名は南北朝時代に徳庵という寺があったこと
に由来することが載っていました。

徳庵納豆ゆかりの地:鶴見区徳庵2丁目 大阪市営徳庵住宅集会所

2018,09,25  01:04 PM





              徳庵納豆ゆかりの地(鶴見区徳庵)
徳庵の地は、京街道と分岐する現在の都島区片町から奈良県生駒市高山町に
至る古堤(ふるづつみ)街道沿いにある。
同街道はこの地で寝屋川・六郷川と交差し、そこに架けられた徳庵橋の上手に
は寝屋川筋の水運関係者が観請した住吉神社の祠が今も残る。
このように、この地は交通の要所といえる場所で、野崎観音詣の人々などでも賑
わっていた。
地名の由来は、かつて南北朝時代にあった「徳庵」という寺による。
そこでつくられた納豆は名産品として世に聞こえ、吉野行宮にも献納されていたと
いう。
それは麹菌を使用して発酵させ、乾燥後に熟成してつくられた納豆で、一般の納豆
のような粘り気があり糸を引くものではなく、京都市紫野の大徳寺納豆、京田辺市
酬恩庵の一休寺納豆と同種の塩味の味噌のような風味であった。


10月6日:48553歩

青木の由来「八坂神社」(東灘区青木)

8月4日、神戸市東灘区の神社めぐりウォーキングで12社目に参拝したのが
八坂神社です。
神社のことを調べているうちに、地名「青木」(おうぎ)の由来が分かりま
した。
保久良神社の祭神が青亀(あうぎ)に乗って漂着した所に社殿を造ったが
、アウギが訛って青木になったと伝わっています。
境内には「本庄村道路元標」と刻まれた石碑があり、この町の旧地名が
残っています。

八坂神社:兵庫県神戸市東灘区青木5丁目1−10

2018,08,04  02:26 PM







            本庄村道路元標
八坂神社の境内西南隅に、「本庄村道路元標」と刻まれた石碑が
ある。旧村名を残しており、本庄村の名を残すものの一つである。
道標に似ているが、道標の役割を果たすものではない、設置時期
は大正時代と考えられており、元はこの辺りの浜街道に面して立て
られていた。                 東灘歴史掘り起し隊
                         東灘区役所


8月22日:18767歩

菅公生誕の地「吉祥院天満宮」

4月30日の京都市南区神社めぐりウォーキングで4社目に参拝したのは吉祥院天満宮
です。
菅原道真公の生誕の地として有名です。
菅原道真公はこの地で845年(承和12年)に誕生し、18歳で転居するまでこの地で
過ごしたとされます。

地名、吉祥院の由来
平安遷都とともに文章博士として恒武天皇に随行された道真公の祖父清公卿は遣
唐使の命を受けて唐へ渡航中暴風に遭遇、船上にて吉祥天女の霊験を得て入唐、
無事任務を終えて帰国後、自邸内にお堂を建て吉祥天女の尊像をまつった。これが
吉祥院の由来で地名の起源となっています。

吉祥院(きっしょういん)天満宮:京都市南区吉祥院政所町3

2018,04,30  10:17 AM







                 吉祥院天満宮
祭神として菅原道真を祀り、洛陽天満宮25社の一つに数えられる。社伝に
よれば、道真の祖父清公が、邸内に一宇を建立し、吉祥院と名付けて菅原
家の氏寺としたのが当社の起こりで、承平4年(934)、朱雀天皇が自ら道真
の像を刻み、この地に社殿を築き道真の霊を祀ったことから、吉祥院天満宮
と呼ばれるようになったと伝えられている。
吉祥院は道真誕生の地として有名で、境内には道真が参朝の時に顔を写した
といわれる「鑑の井」や道真のへその緒を埋めたと伝えられる「菅公胞衣塚」
など道真ゆかりの遺跡が残っている。
また、この地は、古くから六斉念仏が盛んに行われた所で、今も吉祥院六斉
念仏講として継承されており、国の重要無形文化財に指定されている。
毎年、4月25日の春祭と8月25日の夏祭には、境内の舞殿でこの伝統芸能が
奉納される。                   京都市

参朝(さんちょう):朝廷に行くこと。

奈良にも道真公の生誕の地があります。

菅原道真公の生誕の地「菅原天満宮遺跡天神堀」



5月11日:18547歩

蛭児大神御輿屋伝説地(西宮本町)

西宮神社を参拝後、甲子園に向かって歩いているとき、西宮本町の
小さい公園で大きい石碑を見つけました。
碑には「蛭児大神御輿屋伝説地」と刻まれておりました。
蛭児(ひるこ)とはえびす様のことで詳しくは下記神社のホームページで確認して
ください。
西宮神社のホームページによると、西宮神社では、えびす様がお越しになられた
由来に因んで、毎年6月14日に本殿の東約500mにあるここ本町の御輿屋(おこ
しや)跡地までえびす様を神輿に乗せて担ぎ、「おこしや祭」を斎行するという。
このお祭の由来は、そのむかし鳴尾(なるお)の漁夫が武庫(むこ)の海で網にご
神像(えびす様)を得て海に戻したら神戸の和田岬辺りで再び同じご神像を得た。
家に持ち帰りおまつりをしていたところ、或る夜の夢に「西の方に宮地があるので
案内いたせ」とのお告げがあった。漁夫は村人を集めえびす様を御輿に乗せて出
発したが、途中で一休みされたえびす様は居眠りをされた。困った漁夫は恐れ多
くも神様のお尻をつねってお起し、ようやく今の西宮神社の地に着いたといわれて
いる。このお尻をつねった場所が今の御輿屋跡地であり、この日は参拝者が娘さ
んのお尻をつねってもよいという風習から「尻ひねり祭り」とも呼ばれ、昭和初期頃
までは女性は洗面器や座布団をお尻にあてるなどしていたが次第にエスカレートし
、警察の中止命令も出る程だったという。「日本人なら知っておきたい古代神話」に
よると、イザナギノミコトとイザナミノミコトの間に最初に生まれたのが意にそわない
ヒルコ(古事記では「水蛭子」・日本書紀では「蛭児」)で、葦船に乗せて流されたの
が、エビス神として戻ってきたという。


蛭児(ひるこ)大神御輿屋伝説地(西宮市本町)

2017,05,04  03:12 PM



此の地は蛭児大神御駐譯の所と伝唱せる古蹟にして御
輿屋と称し毎年6月14日本社より神輿を奉仕して祭典を
行い今に及へり 茲に皇太子殿下御成婚記念事業として
当町浜久保町青年会 謹で境界を修理営繕して旧蹟を
顕彰し碑を建て之を勤す   
  大正13年8月       西宮神社社司吉井良昇

5月22日:23238歩
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