ahisats3のブログ

ウオーキング中に見つけた神社、史跡、珍しいもの等を紹介します。

句碑及び歌碑

「安倍仲麿呂」歌碑(春日大社境内)

「天の原 ふりさけ見れば 春日なる 三笠の山に いでし月かも」
百人一首で有名なこの歌は私でも空で言えますが、3月9日の奈良市
神社・史跡めぐりの時、春日大社の境内で、この歌の歌碑を見つけま
した。
作者の安倍仲麻呂は数え年17歳で遣唐使として中国の唐へ渡った留
学生の一人。時の玄宗皇帝に気に入られ、中国名「朝衡(ちょうこう)」と
して50年以上仕えました。53才の時、一度帰国を許されたが、途中で船
が難破して引き返し、結局帰れぬまま唐の地で70歳で没しました。
この歌は53歳で帰国中に船が停泊中に日本に帰れる喜びにあふれて詠
んだのです。

「安倍仲麿呂」歌碑 : 春日大社境内                              2019,03,09  11:25 AM



遣唐留学生 阿倍仲麻呂公 
            喜びも やがて悲しき望郷の歌

           天の原 ふりさけ見れば 
               春日なる 御蓋の山に
                  いでし月かも
                               古今和歌集 巻第九
                                  春日大社 花山院 弘匡 書

【天の原】
  大空のこと。「原」は、「海原」と同じく、大きく広がっている様子を表
  す時に使われます。
【ふりさけ見れば】
  遠くを眺めれば、という意味。「ふりさけ見る」の已然形に、確定条
  件を表す接続助詞「ば」がついたものです。
【春日なる】
  現在の奈良市春日野町あたりの土地で、奈良公園から春日大社ま
  での土地。遣唐使の出発に際しては、春日神社で旅の無事を祈った
  といわれます。
【御蓋の山に】
  春日大社後方、春日山原始林の手前にある山。若草山と高円(た
  かまど)山の間にあります。三笠山とも御蓋山とも書きます。
【出(い)でし月かも】
  「かも」は奈良時代に使われた詠嘆の終助詞です。かつて見た三笠
  山の上に昇る月を表しながら、唐の地で今見ている月を重ねていま
  す。



              阿倍仲麻呂公 望郷の思い
遣唐留学生に選ばれた安倍仲麻呂公(数え歳17歳)と吉備真備公(20歳 晩年
右大臣)たちは、ここ春日の神地で壮行神事を受けて出発、課程履修後は仲麻
呂公のみ乞われて唐朝廷に入り、要職を歴任したのでした。
33才の時帰国願いは玄宗皇帝に許されず、53才の時ようやく一時帰国を認め
られ、蘇州出港前夜碇泊中の船内で詠んだのがこの歌です。
喜びに満ちあふれております。
ところが乗船は難破して安南(ベトナム)に漂着、辛うじて唐首都長安(西安市)に
戻ったものの、遂に帰国の夢むなしく70歳で亡くなりました。
この歌は故国日本をしのび続けた悲しみの歌になってしまいました。
後に仲麻呂公には祖国貢献の功労に報い、右大臣相応の正二位が追贈されて
おります。
                      奈良大学教授 上野誠説参考 奉納者文責


三条右大臣 歌碑 (宮道神社)

宮道神社の前で百人一首で一番有名な歌の歌碑がありました。
この和歌の作者、三条右大臣(藤原定方)は宮道神社に祀られて
います。

歌碑  名にし負わば 逢坂山の さねかずら 人に知られで くるよしもがな

2019,01,14  09:38 AM

                三条右大臣
 名にし負わば 
          逢坂山の 
      さねかずら 
    人に知られで 
      くるよしもがな
                               常遍敬書
小倉百人一首一、有名なこの和歌は、人目を忍ぶ女性に贈った恋の歌
「逢って寝る」という名を持っているのならば、「逢坂山のさねかずら」が
ツルに簡単にするすると「操る」ことができるように私も人に知られないで
あなたのもとにたやすく「来る(行く)」方法があればよいのになあ、という
意味、「逢坂山」に、「逢う」を「さねかずら」に「きね(寝)」を「くる」にさねか
ずらのツルを「操る」と自分が相手の許に「来る」意味をそれぞれ掛けてい
る。切ない恋心を掛詩を多用して見事に表現した名歌である。
作者の三条右大臣は、平安時代の歌人藤原定方(873~932)和歌のみ
ならず管弦にも才能を発揮した貴公子で、京都の三条に屋敷を構え、右
大臣に昇ったのでこう呼ばれた、今昔物語によると父の高藤がこの辺りに
鷹狩りに訪れた若き日、一夜の雨宿りをしたのが土地の豪族宮道列子の
屋敷(後の勧修寺)であり、その縁で高藤と弥益の娘列子は結ばれた、二
人の間には、鼠子、定国、そして定方が誕生、姉の鼠子は、宇多天皇の後
宮に入り、醍醐天皇の生母となった、定方にとってこの辺りは、一族繁栄の
きっかけとなった両親のロマンの地であり、定方自身もこの宮道神社に合祀
されている。                    大阪青山短期大学 小倉 嘉夫 誌





2月27日:22732歩

万葉歌碑(生駒市北大和)

生駒市高山の御県神社参拝後、その付近をウォーキング中に近鉄北生駒駅
のそばに四季の森公園がありました、その公園の中で「万葉歌碑」を見つ
けました。

四季の森公園 万葉歌碑:奈良県生駒市北大和町1丁目                       2018,12,16  01:55 PM







    君之當 見乍母将居 伊駒山 雲英蒙 雨者雖零
                                                                                                                                                     
君が辺り 見つつも居らむ 生駒山 雲な たなびき 雨はふるとも  

 現代語訳:あの方が住んでいるのはあの辺りだと眺めていよう
        雨が降っても 雲よ 生駒山に懸らないでほしい。
                                                      万葉集  巻 12-3032

近鉄学研北生駒駅



2019,01,01  68290歩 

小山田高家の碑と田辺福麻呂の歌碑

9月1日の東灘区・灘区神社めぐりウォーキングの時、東明八幡神社を
参拝後、処女塚を見学しました。
その処女塚の敷地内で、この塚にまつわる二人の「小山田高家の
碑と田辺福麻呂の歌碑」の記念碑と説明板を見つけたのです。


小山田高家の碑と田辺福麻呂の歌碑:神戸市東灘区                      2018,09,01  09:32 AM




小山田高家の碑


田辺福麻呂の歌碑



                 小山田高家の碑
延元元年(1336)、湊川の戦いに敗れた新田義貞は、生田の森から東に
敗走して東明(処女塚付近浜辺)まで来た。しかし、近づいた追手の矢で
馬はたおれ、義貞は馬を降りて、処女塚に登って敵を防いだ、その窮状を
はるかに眺めた小山田太郎高家は、これまでの義貞の恩義を思い出して
、塚に駆け寄って自分の馬に義貞をのせて、東に逃れさせた高家は塚上
に留まって敵を防いだが、味方の敗色は濃く、ついにこの処女塚の上で討
たれてしまった。
太平記の描くこの武勇を記念して、弘化3年(1846)の代官竹垣三左衛門
臂原直道が東明村塚本全左衛門・豊田太兵平・牧野壮左衛門に命じて
てさせものである。

田辺福麻呂の歌碑
 「古の 小竹田荘士の 妻問ひし 兎原処女の 奥つ城ぞこれ」
この歌は、万葉の歌人、福麻呂が処女塚に立ち寄った時の現況と、それか
ら受けた感動を歌ったものである、古くから処女塚古墳には、東灘区住吉宮
町一丁目の東求女塚古墳と灘区都通三丁目の西求女塚古墳にまつわる悲
恋の伝説が言い伝えられている。
この伝説は、二人の男性が一人の女性を慕ったため、女性は身を処しかね
、嘆きつつ死んでしまった。
それを知った男性の墓を東西に造ったという物語である。側面には八十一 
 正四下位加茂季鷹とある、その左方に建碑年号と想えるものがあるが明
らかではない。               平成6年3月 神戸市教育委員会


9月13日:21029歩

与謝野晶子歌碑(宇治市)

宇治上神社のそば、「さらびの道」で与謝野晶子の歌碑を見つけました。
与謝野晶子は、幼い頃から古典文学に親しみ、紫式部を終生の師と仰ぎ、
「源氏物語」の現代語訳に力を注ぎました。

与謝野晶子歌碑



 与謝野晶子
   橋姫
     しめやかに  心の濡れぬ  川ぎりの
      立舞ふ家は  あはれぬるかな

   椎が本
     朝の月  涙の如し  真白けれ
      御寺(みてら)のかねの  水わたる時

   総角(あげまき)
     こころをば  火の思ひもて  焼かましと
      願ひき身をば  煙にぞする

   さわらび
     さわらびの  歌を法師す  君に似ず
      よき言葉をば  知らぬめでたさ

   宿り木
     あふけなく  大御女を  いにしへの
      人に似よとも  思ひけるかな

歌碑のある「さわらびの道」:宇治市 宇治上神社の北側 散策道      2018.06,17  02:37 PM



                 源氏物語 宇治十帖(四)
       早蕨(さわらび)
 年改まり、宇治の山荘にも春が来た。
 今年も山の阿闍梨から、蕨や土筆などが贈られてきた。
 中君は亡き文君や姉君を偲びつつ
    この春はたれにか見せむ 亡き人のかたみにつめる峰の早蕨
 と返歌なさった。
 二月の上旬、中君は匂宮の二条院へ迎えられ、行き先の不安を感じつつも
 、幸福な日々が続く。
 夕霧左大臣は、娘の六君を匂宮にと思っていたので、失望し、薫君にと、内意
 を伝えたが、大君の面影を追う薫君は、おだやかに辞退した。
 花の頃、宇治を思いやる薫君は、二条院に、中君を訪ねて懇ろに語るが、匂宮
  は二人の仲を疑い始める。
                        平成18年10月  (財)宇治市文化財愛護委員会

阿闍梨(あじゃり):先生・師匠のこと。

中君(なかぎみ):宇治の中君ともいう、紫式部の『源氏物語』の登場人物。
           五十四帖中、第三部「宇治十帖」の「橋姫」
           「蜻蛉」まで登場。匂宮の妻。宇治八の宮と北の方の間に生まれ
           た次女。


7月3日:19997歩

桂 文之助 句碑(東大阪市 千手寺)

4月27日、東大阪市の千手寺境内で見つけた「桂文之助 句碑」を紹介します。
桂文之助は明治時代に活躍した上方落語の名人です。

桂 文之助 句碑:東大阪市 千手寺の境内                          2018,04,27  11:20 AM



                      桂 文之助 句碑
              業平と 背中合せの ぬくさかな   そろり
 ” そろり ” とは明治時代に活躍した上方落語の名人で、桂文之助のちに曽呂利新左衛門
 と称した
 元治元年笑福亭松鶴に入門、松竹の名で初高座、後に梅香と改め、その後明治五年初
 代桂分枝に師事して文之助と称する。それより明治十九年感ずるところあって、豊臣秀吉
 のお伽衆で知られた曽呂利新左衛門の名を己が芸名とする。
 初代文枝門人四天王の一人に数えられ、三友派の会長として上方落語の一方の旗頭で
 もあった。明治四十三年、六十八才で引退し、大正十二年七月、八十一才で没するまでの
 十五年間は画家猪里漁仙と号し、茶・狂歌・俳画などを楽しみ趣味三昧の余生を送った。
 奇行に富んだ逸話の多い人で、大正三年六月香典保存会を催して生きたまま葬式を営ん
 だり、上方落語の特徴である見台を廃して扇子一本の素噺を試みたり、お囃子にあわせて
 高座で得意の画を描いたり兎に角話題の多い人物であった。
 門人には後にオッペケペー節や壮士芝居で有名になった浮世亭○○こと川上音二郎らがいた。
 余生を楽しんだ桂文之助は、大軌電車(現近鉄)開通間もないころ当寺を訪れ、先任乗運
 和尚と親交を結び、画・俳句・書状などを残している。
 この句碑は、松尾芭蕉の ” 木曽殿と背中合わせの寒さかな ” をパロデイ化したもので落語家
 らしい洒落気がにじみでている、他に文之助の筆になる業平画像なども残されており、上方
 落語史を物語るうえで大変ユニークな資料となっている。
                                             桂 未之助
                                             上方落語会
                                             光堂 千手寺


お伽衆(おとぎしゅう):戦国~江戸時代,主君のそば近くにあって話相手をする役
見台(けんだい):書物を読んだり見たりするために用いる台



5月3日:17148歩

「久世の鷺坂」柿本人磨呂 歌碑

城陽市神社めぐりウォーキングで8社目に参拝した久世神社のすぐそばに坂が
あり、「久世鷺坂舊跡」の石碑と柿本人磨呂の歌碑がありました。

坂は昔は「久世の鷺坂」と呼ばれ景色のよい場所でここ鷺坂一帯は、万葉集
など和歌の名所であり、また、飛鳥・白鳳時代の寺院跡(久世廃寺)をはじめ
とする古代遺跡が集中し、政治・文化の中心地でもありました。


舊跡(きゅうせき):建物等があった場所、旧跡と同じ意味。

久世の鷺坂   久世神社(京都府城陽市久世芝ケ原142)のそば。  2018,01,13  00:41 PM


久世鷺坂舊跡(くぜさぎさかきゅうせき)           


柿本人磨呂 歌碑

            柿本人磨歌集
 山城の久世の鷺坂
 神
代より
 春ははりつつ
 秋は散りけり

歌の意味:山城の久世の鷺坂は 神代の昔から春は若葉が萌えさかり 秋には
       散ってゆくのです。

1月26日:18099歩

磐瀬の杜(生駒郡三郷町)

11月15日の柏原市神社めぐりウォーキングはJR三郷駅に付近で歌碑を見つけた後
大和川沿いに歩いていると、また歌碑がありました。
歌碑は、磐瀬の杜と言われる小さい公園の中にありました。
調べたら磐瀬の杜(いわせのもり)は諸説ありはっきりとしていません。代表的な説
は下記3か所で私が見つけたのは③のものです。


①奈良県生駒郡斑鳩町稲葉車瀬(いなばくるませ)にある森

②奈良県生駒郡斑鳩町の三室山(みむろやま)の東の森

③奈良県生駒郡三郷町の三郷駅の近く

磐瀬の杜:奈良県生駒郡三郷町立野南3丁目1           2017,11,15  11:47 AM







        神奈備の 磐瀬の杜の 呼子鳥  いたくな鳴きそ 我が恋まさる
 歌番号   巻八-1419
 作者    鏡王女
 現代語訳  神奈備の磐瀬の森の呼子鳥よ、そんなにひどく鳴いてくれるな
        私の恋心が増すばかりだから。
 歌の背景 「呼子鳥」はかっこうかといわれています。
        「磐瀬の杜」は三郷町の龍田大社南方の磐瀬の杜とする説の
        ほか、斑鳩町神南の三室山の東、車瀬の森かとする説もあり
        ます。鏡王女は欽明天皇の孫であろうと推定されている人物で
        欽明天皇の孫であろうと推定されている人物で、天智天皇に
        愛された女性です。後に藤原鎌足の嫡室となり。鎌足が重い
        病気になったときに、興福寺の前身である山階寺を造営した
        と伝えられています。万葉集には天智天皇と交わした租開
        の贈呈歌など四首の歌を残しています。


【鏡王女】(かがみのおほきみ)

天武紀では鏡姫王(かがみのひめわう)、興福寺縁起標式では鏡女王、
万葉集では鏡王女(かがみのおほきみ)と記されている。王女は、きわ
めて高い身分で、鏡王を父とし、鏡王女、額田王は姉妹で額田王の姉
とも云われているが疑問。ともに天智妃であったが、後に鏡王女は、
藤原鎌足の嫡室(ちゃくしつ)となった。最近になって、その墓が舒明天
皇の域内にあることから、舒明天皇の肉親なのか或いは宣化天皇の
後裔、威奈の鏡公の子か、論議をよんでいる。万葉集に相聞歌四首を
残し、万葉集最初の贈答歌人の位置を与えられ、相聞贈答の一つの
典型を作り出したといえるようです。興福寺は、鎌足の病気の時、鏡王
女の発願で開基された。天武天皇12年(683年)7月5日没。

嫡室(ちゃくしつ、てきしつ):正式の妻

高橋虫麻呂歌碑(三郷町)

11月15日の柏原市神社めぐりウォーキングは大狛神社参拝後、次の峠八幡
神社に行くにはJR三郷駅に出てから行く方が近いとわかっていたのでJR
三郷駅に向かって歩いている時、駅南側の交差点で「歌碑」を見つけまし
た。
歌碑は万葉の歌人、高橋虫麻呂の「わが行は 七日を過ぎじ 龍田彦 ゆめ
この花を 風にな散らし」と刻まれていました。

高橋虫麻呂歌碑:奈良県生駒郡三郷町 JR三郷駅付近

2017,11,15  11:45 AM



     我が行きは 七日は過ぎし 龍田彦 ゆめこの花を 風になちらし
 歌番号 巻九ー1748(長歌1747の反歌)
 作者 高橋虫麻呂
 現代語訳 私たちの旅は、七日は越えないでしょう。風の神である龍田彦よ
        決してこの花を風にちらさないでください。 
 歌の背景 この歌は題詞に「春三月、諸鄕大夫等の、難波に下る時の歌」
 と記されていて、高橋虫麻呂の主君であった藤原宇合が知造難波宮司とし
 て勤めを畑氏、その功成った天平4年(732)三月に難波に下った時の作と
 考えられています。龍田彦・龍田姫は本来「龍田」の地の風神であたといわ
 れて、現代では龍田大社に摂社として祭られています。

【高橋虫麻呂】

奈良時代の養老、神亀(じんき)、天平にかけての万葉歌人。歌は万葉集以外
には無い。奈良朝初期に宮廷に仕え元正天皇の養老年間717~724年頃は、
藤原宇合(ふじはらのうまかひ)の配下として常陸地方にいたらしく『常陸国風
土記』の編纂にたずさわったらしい。彼の歌は旅先で歌ったもので、叙事長歌
にひいで、伝説的人物を歌った作は特に名高く、万葉集中特異な位置を占め
代表的歌人の一人である。私歌集に『高橋虫麻呂の歌集』があるが、すべて
彼の作と認められている。

蕪村句碑と新喜多橋の親柱(新喜多中学校)

東大阪市のすべての神社を参拝する、神社めぐりは以前終わっていましたが、
まだ参拝していない神社をグーグルの地図で見つけて、11月10日に自宅からす
べて歩きで行ってきました。
近鉄布施駅の近くの足代神社を目指して歩いてるとき、新喜多中学校の中に
「蕪村の句碑と新喜多橋の親柱」の説明板を見つけたのです。
学校の中と言っても外から見える範囲で、写真も写せました。

蕪村句碑と新喜多橋親柱:東大阪市新喜多2丁目        2017,11,10  06;36 AM







               蕪村句碑と新喜多橋の親柱
蕪村の句碑及び新喜多橋の親柱は、学校の南側、暗越奈良街道筋にあたる
辰巳昭雄氏宅に大切に保存されたきたもので、このたび同氏のご厚志により
市へ寄贈をうけました。
蕪村の碑は、高さ1.5mの自然石の表面に「日は日くれよ 夜は夜あけよと啼
くかわず」の句を刻み、左に画号の「夜半翁」、下には口をあけて啼く蛙を3匹
描いています。
この句は、江戸時代の俳人・画家である与謝蕪村が、街道筋を通った時に詠
んだ句といわれ、江戸時代の案内書の「河内名所図会」にものせられています
。 蕪村は谷口氏といい、享保元年(1716)に摂津東成郡毛馬村(現都島区)
の豊かな農家にうまれ、江戸で漢詩文・俳諧などを学んで早野巴人に入門し、
やがて多数の風俗画・漢画山水図などを描き、天明3年(1783)に68歳で亡く
なりました。
、句碑は、もと西側に住居されていた田中松仙氏(現当主は田中美郎氏)が、
昭和10年に蕪村筆と伝える俳画の軸物を奇遇にも手に入れられ、これをもと
に転刻して建てられたものです。
また、親柱は、大和川付替工事後の宝永年間に、川底の開発により誕生した
「新喜多新田」の中央を流れる長瀬川にかけられていた石橋 新喜多橋の一
部で、共に奈良街道あるいは新喜多の歴史を考える上で、貴重な資料といえ
ます。
   「新喜多の名のおこり」 新喜多の名称は、大和川付替え工事のあと、長瀬川の
    新田開発を行った、鴻池十郎・鴻池七・今木兵衛の三人の名を一字ずつ
    とって名付けられたものです。

                       平成11年4月 東大阪市


新喜多中学校


大阪市城東区にも新喜多という地名があります。
新喜多の由来「新喜多新田会所跡」

11月16日:20409歩
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