ahisats3のブログ

ウオーキング中に見つけた神社、史跡、珍しいもの等を紹介します。

渡し船(跡を含む)

七里の渡し跡(桑名市)

9月7日の桑名市内ウォーキングで六華苑の次に七里の渡し跡を見学しました。
七里の渡し(しちりのわたし)は東海道五十三次で知られる宮宿(愛知県名古
屋市
熱田区)から桑名宿(三重県桑名市)までの海路で、距離が約7里(28キロ
)あった事から七里の渡しとよばれました。
先日(8月17日)青春18キップで名古屋市に行ったとき熱田の七里の渡し跡を見
学したので両方の七里の渡し跡を見学したことになりました。

七里の渡し跡(名古屋市熱田区)



七里の渡し跡(桑名市)                                       2017,09,07   11:01 AM


今は渡し場の前に防潮堤ができました。










ここにある大鳥居は、これより伊勢路に入ることから「伊勢国一の鳥居」と称され
、伊勢神宮の遷宮ごとに建て替えられています。


9月24日:44586歩

七里の渡し跡(名古屋市熱田区)

熱田神社宮のそばで、七里の渡し跡を見つけました、東海道53次の内唯一
の海路で熱田から桑名までの距離が7里あったので七里の渡しと呼ばれて
います。
熱田側の渡し跡は「宮の渡し公園」として整備されています。
宮の渡し公園 《えた~なる ふれんど -愛知(名古屋)観光地紹介サイト-》

七里の渡し跡(名古屋市熱田区)

2017,08,17  04:17 PM





                七里の渡し舟着場跡
江戸時代、東海道の宿駅であった熱田は、「宮」とも呼ばれ、桑名までの海路
「七里の渡し」の舟着場としても栄えていました。
寛永2年(1625)に建てられた常夜灯は航行する舟の貴重な目標となっていま
したが戦災で焼失し、その後昭和58年に復元されて往時の名残りをとどめて
います。
歌川広重による「東海道五十三次」の中にも、宮の渡舟着き場が描かれており、
当時の舟の発着の様子を見ることができます。        名古屋市


8月27日:20355歩

富島渡船場跡(大阪市福島区)

JR京橋駅から西九条の「大阪市電創業の地」を目指して歩いているとき
大阪中央卸売市場付近で「富島渡船場跡」の記念碑を見つけました。

富島(とみじま)渡船場跡:大阪市福島区野田一丁目

2017,03,22  08:11 AM


富島渡船場跡の記念碑がある場所


この渡しの歴史は比較的新しい。明治18年の淀川大洪水のとき、約500
メートル上流に架かっていた二代目の安治川橋が、上流から流れてきた
流木、さらに流失した上船津橋をせき止める形となり、周辺住民に被害を
及ぼす危険な状態になったため工兵隊によって爆破された。以来、この
付近に橋が架けられることはなく、個人営業で始められたこの渡しが唯一
の交通手段となった。その後明治40年に大阪市営となり、昭和6年11月
に中央卸売市場が開設されてからは、仕入れに通う商人の専用渡しの感
があったという。やがて、自動車の普及に伴い利用者が減少し、昭和57年
にその歴史を閉じた。               大阪市ホームページより


3月27日:25829歩

三国の渡し跡(豊中市/大阪市)

豊中市神社めぐりで三和町の「菰江村社」を参拝後、更に東へ歩くと三国
橋があり、そこに「三国の渡し跡」の記念碑があるのを知っていたので橋
を渡って記念碑を見ました。(記念碑は大阪市側にあります)。
三国という地名は豊中市にも大阪市にもあります。

豊中市域に存在した神崎川の渡し場は「目いぼ(小曽根)の渡し」「三国の
渡し」「洲到止の渡し」の3か所ありました。
洲到止(すどうし)渡し場の跡(豊中市)

三国の渡し跡:大阪市淀川区

2016,12,08  09:53 AM


矢印が記念碑の場所

佐太の渡し跡(守口市)

11月12日のウォーキングは守口市内を歩きました、守口市内を歩くと
思ったきっかけは以前守口市の神社巡りは全て終わっていたはず
が飛来神社と山王権現神社がまだ参拝していなかったことが分り、
その2社を探すついでに守口市内を歩こうと思ったのです。
結果は飛来神社は以前に参拝したことがあったのでした、その時
は佐太神社御旅所として参拝していたので飛来神社と佐太神社御
旅所が同じとは知らなかったのでした。
山王権現神社は見つけて参拝しましたが、それより先に見つけた「
佐太の渡し跡」を紹介します。

佐太の渡し跡は寝屋川市との境界近くにある佐太神社の北側、国道
1号線の道路脇の淀川左岸側にありました。

「佐太の渡し」は摂津市鳥飼と守口市佐太間に運航していましたが、
架橋により昭和48年廃止されました.

淀川堤防から見る。        2016,11,12  01:52 PM

石碑から淀川堤防を見る

「淀川筋佐太渡船場」の石碑 

川の向こうには「鳥飼渡し跡」があります 淀川最後の渡し船(鳥飼の渡し跡)



11月20日:63239歩

髭の渡し跡(尼崎市)

常松春日神社を参拝後、次の西昆陽須佐男神社に向かう途中の武庫
川河川敷で見つけたのが「髭の渡し跡」です。

髭の渡し跡(尼崎市) 説明板の所在地 尼崎市常松2丁目468番地先

              市バス 「髭茶屋」南西約450m



2016,06,19  PM 02:16 撮影

               西国街道・髭の渡し
この付近には江戸時代に武庫川を超える西国街道の渡し場がありました
街道沿いの西昆陽村には髭をはやした老人が営む茶屋があったことか
ら「髭の渡し」と名付けられたといわれています、江戸幕府の命令によっ
て文化3年(1806)に作られた「山崎通文間絵図」をみると、武庫川の河
原をはさんで街道の道筋は両岸の堤のところで途切れています、尼崎側
の街道沿いに「髭茶屋」や「立場(人足が休息する所)」と注記された建物
が描かれています。
この渡しでは、東から西への川越えは常松村と西昆陽村の2か村が月番
で受け持ち、西から東への川越えは、段上村、上大市村、下大市村(いず
れも現在は西宮市)の3か村が月番で受け持っていました、例年10月中
旬から翌年春の彼岸までは、仮橋が架けられ、水量が増した時には人足
による肩越えによる渡しが行われてましたが、後には船での渡しが行われ
るようになりました、参勤交代と大名や往来の旅人など数多くの人々に利
用されてきたこの渡しは、明治の終わりに下流に甲武橋が架けられ、西国
街道の新道(現国道171号線)できるまでは続きました。
                    兵庫県西宮土木事務所 尼崎市

野里の渡し(野里住吉神社境内)

住吉神社の境内で「野里の渡し」の石碑を見つけました。
今は影も形もありませんが、この神社が建っている場所のあたりには明
治期の淀川改修まで、中津川が流れていました。
大和田街道沿いにに建っているこの神社の近くには渡し船があり、野里
の渡しとよばれていました。
野里住吉神社の横にある地面が高くなった場所は、昔の堤防の後らしい
です。

野里の渡し(野里住吉神社境内)

2015,12,09 撮影




12月15日:27021歩

十三渡し跡(淀川堤防にて)

淀川区の神社めぐりも終わり、もう少しウォーキングしていたら淀川の堤防
で十三の由来になった「十三渡し跡」を見つけました。

十三(じゅうそう)渡し跡(淀川堤防にて)     場所:十三大橋北詰


2015,11,30 撮影







十三の由来「神津神社」

淀川最後の渡し船(鳥飼の渡し跡)

昭和29年に日本最初の有料橋「鳥飼大橋」の完成により、
「宮ノ下の渡し」は姿を消しましたが、「鳥飼の渡し」は残り
昭和50年の淀川改修工事まで存続し、淀川最後の渡し船
の役目を終えました。
「鳥飼の渡し」は大阪府営で無料でした。

鳥飼の渡し跡の説明板のある場所 : 摂津市鳥飼下3丁目9

2014,9,4 撮影




9月12日:14287歩

宮ノ下渡し跡(摂津市一津屋)

宮ノ下渡し跡は味生神社の前にありました、
河内大庭(現守口市)と摂津一津屋(現摂津市)を結ぶ渡しで
昭和29年の鳥飼大橋の完成まで摂津と河内を結ぶ重要な役
割を果たしてきました。




説明文の内容:
宮ノ下渡しは、河内大庭大切と摂津嶋下郡一津屋村宮ノ下
を結ぶ渡しで、戦国時代末の戦国時代末の永禄年間(1558
69)から存在したと伝えられており、川幅も約300
(550メートル)あったとされています。
宮ノ下の小字の駒頭から駒頭渡しとも呼ばれていました。
『一津屋村志』(明治十二年、稿本)には「渡船場有リ、
駒頭渡ト称シ、本村ノ中央、即チ河内国七番村ニ通スルモ
ノ、広サ三百七間四尺、渡船ニ艘、私渡ナリ」と記してい
ます。

昭和二十九年の鳥飼大橋完成によって姿を消しましたが、
「鳥飼の渡し」とともに摂河を結ぶ重要な交通上の役割を
果たしてきました。


2014,9,2 撮影


上記の説明文で「鳥飼の渡し跡」もあることがわかり、
この後、淀川上流方向に向かって歩きました。


9月11日:14485歩
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