ahisats3のブログ

ウオーキング中に見つけた神社、史跡、珍しいもの等を紹介します。

摂津市(大阪府)

神崎川分岐点跡(摂津市一津屋)

産経新聞のシリーズの連載で「淀川を行く」の5月18日付で「旧神崎川分岐点
跡」のことが載っていたので探しに行って見つけてきました。
摂津市の一津屋(淀川の堤防の上)にその説明版がありました。
今年の4月に設置されたばかりの新しいものでした。

神崎川分岐点跡:摂津市一津屋(淀川の堤防の上)

2017,06,12  11:47 AM



                   旧神崎川分岐点跡
平安時代初期に編さんされた「続日本書記」には、桓武天皇4年(785)に
「使いを遣わして、摂津国神下、梓江・鯵生野を掘りて、三国川に通ぜしむ
」とあり、淀川と三国川をつなぐ新運河(旧神崎川)が開削された事実が認
められます。
鯵生野は。現在地名として残る味生のことで、別府や一津屋付近をさす場
所であると考えられ、この新運河は、一津屋から江口にいたる間で淀川と
別れて北上し、別府を通り西に向かって湾曲しながら安威川に合流してい
ました。
新運河の開削工事は、長岡京の遷都にともない、淀川の水を比較的水量
の少ない三国川へ流すことで、淀川の水量を削減して水害に備えるととも
に、西国からの物資を、大物(現兵庫県尼崎市)を経て、都へ運搬しやすく
する目的があったものといわれています。
同じく「続日本書記」には、長岡京遷都を推進し、摂津職の大夫であった和
気清麻呂が、延暦7年(788)に、河内・摂津両国の境を開削し、河内川(現・
平野川)を大阪湾に導く工事を行ったとの記述があります。それに先立つ、こ
の淀川と三国川の新運河の新河道についても、和気清麻呂が開削工事に
あたったものと考えられます。
この工事以降も、たびたび淀川は水害を引き起こし、地域の人々を苦しめま
したが、明治11年(1787)に、神崎川の直川化工事が行われ、現在の姿とな
りました。        平成29年(2017)4月吉日 摂津市教育委員会



神崎川から淀川に向かって撮影

神崎川の始まりでした
神崎川の始まり地点、後方左手に守口市、大日のビルが写っています。






6月18日:22910歩

三宅城跡(摂津市蔵垣内)

防風庵跡から、南へ5分のところの、蔵垣内公園で三宅城跡
をっ見つけました。

三宅城跡の場所:摂津市蔵垣内3丁目

2014,9,13 撮影





9月25日:12044歩

「防風庵跡」(摂津市千里丘東)

摂津市千里丘東1丁目の住宅街の中で、何かの説明版が
あるので、近づいて読むと「防風庵跡」でした。


「防風庵跡の場所:(摂津市千里丘東1丁目

2014,9,13 撮影



樹齢1266年、弥栄の樟(摂津市千里丘東)

摂津市千里丘東にある、弥栄の樟(やさかのくす)は天平年間(729~748)
に植樹されたと伝わっています。
私の計算では樹齢1266年です。(2014-748=1266)


弥栄の樟(やさかのくす):摂津市千里丘東5丁目3-5





一般に「くすのき」は楠を使う場合が多いですが
樟、楠 どちらも「くすのき」と読みます

2014,9,13 撮影

上記説明版の内容:
天保14年(1846年)9月の嶋下郡味舌郷(ましたごう)の図面で金剛院持。
と記されている弥栄の樟は、当時この付近も金剛院(千里丘3丁目)の一部
であったことを物語っている。かつてはこの地に藤の木八幡神社(中内八幡
宮)の社があり、中内八幡宮の歌をうたいながら参詣する人も多かった。
この八幡宮も明治45年4月、須佐之男命神社に合祀されたが、その当時から
ひときわめだったのがこの樟である。聖武天皇の天平年間(729~748年)植
樹という伝承があるが、昭和初めに味舌村では「弥栄の樟」と命名し、命名式
には芸人を呼び寄せて披露しこの樹を厚く保護した。
この樟は平成元年4月大阪みどりの百選選定委員会において「大阪みどりの
百選」の一つに選ばれた。

9月24日:19188歩

古戦場 流れの馬場跡(摂津市)

摂津市千里丘東の境川の堤防で「「流れの馬場跡」と刻まれ
た石碑を見つけました、説明版が劣化して読みにくい状態で
したが、それを読んでびっくりしました。
天正8年(1580)5月28日、不意に襲ってきた織田信長軍が
この近くにあった勝久寺にたてこもっていた、多数の僧侶、門
徒などを捕えて、堂舎を焼き払った上、殺害して、あたり一面
は血の海となり、この付近を「流れの馬場」の古戦場として今
に伝わっています。

流れの馬場跡:摂津市千里丘東3町目1

読みにくかった説明版 2014,9,13 撮影

前を流れる境川は水が流れていませんでした。

伏越樋門跡(摂津市東別府)

摂津市東別府で「伏越樋門跡」を見つけました。
現地の説明版によると、伏越樋とは川底を潜るように作られ
た水路のトンネルのことです、鳥飼村等の灌漑の余り水(悪水)
を下流の吉志部村(現在の吹田市岸部)まで運んで神崎川に
放流するための水路でした。
江戸時代の初期に鳥飼村の領主であった高槻藩主 永井直清
が鳥飼村の祈願を受けて作りました、当時としては高度な技術
が使われました。
大正2年に完工した安威川の付け替え工事によって役目を終え
ました。

伏越樋門跡(ふせこしひもんあと):摂津市東別府5丁目4

2014,9,13 撮影


三つ樋(摂津市鳥飼野々)

摂津市鳥飼野々で三つ樋(みつひ)を見つけました。
「三つ樋」は鳥飼地区の四つの悪水を集めて安威川に放流
するための樋門です。

悪水(あくすい)とは:灌漑後の不要水。
灌漑(かんがい)とは:人工的に水を川などから引いて田畑を
             潤すこと。

三つ樋の場所:摂津市鳥飼野々3丁目28

2014,9,13 撮影





9月22日:17603歩

黒丸城跡(摂津市鳥飼中)

黒丸城跡は鳥飼仁和寺大橋有料道路の摂津市側の入口
付近にありました、現在は城跡を示す遺構は残っていませ
んが、城跡を示す石碑と説明版がありました。

黒丸城跡:摂津市鳥飼中2丁目1

2014,9,13 撮影

説明版

                 黒丸城址

黒丸城(鳥飼砦)は、土石を積み重ねて築いた小城であったら
しいが、その築城の年代や由来についての詳細は不明である。
しかし「細川両家記」にみえる次のような記述は、当時このあ
たりに何らかの城塞的構造物のあったことをうかがわせる。

同四日に三好方の衆は天王寺まで諸陣くつろげられ候、
五日に鳥養に帰陣也。

 (永禄二年<1559年>八月)
同廿二日に諸軍敢軍して始め陣所天満森へ被引退候・・・
然処に鳥養辺にて御談奮あり。

 (元亀元年<1570年>九月)
また、字地に黒廻・城ノ前・内殿・地殿などの名前があること
から、黒丸城にゆかりの深い土地かと思われる。

 いずれにしろ、本城(砦)は淀川べりに築かれた平城であっ
て、大阪方面攻撃の際の前線基地の一つとしての機能を濃厚に
もった城郭であったと思われる。



離宮「鳥養院」跡(摂津市鳥飼上)

平安時代、宇多天皇の離宮だった鳥養院の跡を摂津市内を
歩いた時に見つけました。
(離宮とは:皇居や王宮とは別に設けられた宮殿のこと。)

鳥養院の跡:摂津市鳥飼上5-7

2014,9,13 撮影

離宮「鳥養院」の址 説明版

上記説明版の内容:
淀川は、平安京より天王寺・住吉・高野山・熊野への参詣や、西国の任地
へ下る地方官が多く利用していました。
天皇・上皇をはじめ多くの官人たちの往来が文芸に残され、当時の淀川筋
の光景を偲ぶことができます、その中で「曽我物語」の巻第一に、惟喬親王
と中将在平業平が懐旧談にふける条で「今昔の事ども申うけたまはるにつ
けても
御衣の御袂、しぼりもあへさせたまわず、鳥養の院の御遊幸、……」
とあります。
また「大和物語」には、亭子院(宇多天皇の号)がここをしばしば訪れたことが
書かれています。
なお、このあたりの字名が「御所垣内」といわれていたことから、石碑の建って
いる付近に離宮があったと思われます。
「大和物語」の中に鳥養という題で大江玉淵の娘の歌として ”あさみどり かひ
ある春に あひぬれば かすみならぬど たちのぼりけり” と詠まれています。


9月20日:6887歩

須佐乃男命神社(摂津市)

須佐乃男命神社(すさのうのみことじんじゃ)はJR千里丘駅
の北側、吹田市に近い所にありました。

須佐乃男命神社:摂津市千里丘3丁目5-15

2014,9,9 撮影


由緒;
当神社の創建時期は不詳乍ら古文書によると聖武天皇の天平年間
(729~749)に 僧行基が諸国行脚の途中で味舌上松に金剛院(真言
宗)を建立し寺の鎮守神として 「牛頭天王」を祀ったのが起源と考えら
れ、江戸期の寛永年間(三代将軍 家光の時)に 山田村長野の樫切
山にあった「三社の宮」の御祭神を合祀してからも長期にわたって 祭
祀されて来たのであります。
明治五年神仏分離令の実施により社名も「須佐之男命神社」と改め、
社格、「村社」 に指定されました。(社格は現在廃止)
一方社格指定のない無格社の整理統合が進められた結果、坪井の
八幡社と道祖神社 、庄屋の春日神祀・正音寺の柚の子八幡社、中内
の藤の木八幡社が当神社に合祀されて現在に至っております。
平成13年7月吉日 御社殿修復委員会
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