ahisats3のブログ

ウオーキング中に見つけた神社、史跡、珍しいもの等を紹介します。

東大阪市(大阪府)

東高野街道・道路改修記念碑(東大阪市)

昨日(11月3日)は羽曳野市の神社めぐりをしました、羽曳野市に向かう
途中の東大阪市の「喜利川南」の信号の所の「安全安心スレーション」の前に
記念碑と説明板がありました。

東高野街道・道路改修記念碑:東大阪市 喜利川南交差点

2018,11,03  07:11 AM

          東高野街道・道路改修記念碑
この前の道は、東高野街道です、京道、紀伊道ともいわれていま
す、京都九条の教王護国寺(東寺)から伏見を経て、木津川を渡
り、山城との国境である洞ケ峠を越え、旧河内国に入り、生駒山脈
の西麓を経て、大和川を渡り、石川沿いに南下して、紀見峠を超
えて高野山へ至る街道です。治承年間(1177~1181年)に開かれ
たと伝えられていますが、当時高野詣での宗教街道として、大いに
利用されたため、この伝承があるのでしょう。古代において、河内
の平野部は池や低湿地のため、この山麓ぞいの道は河内で唯一
の南北道であり、かなり古いころから、重要な交通的役割を果たし
たことでしょう。
道路改修記念碑は、昭和11年、枚岡村が大阪府に対し、現在の
府道大阪・枚岡・奈良線(産業道路)大坂市内から箱殿付近まで
は副員も広げ、整備されているが、それ以上は、狭くて路面も悪く
、全国唯一の針金製造地なのに、大型自動車が通行できないの
で改築してほしいという請願をしていました、昭和12年6月、貞明
皇太后の枚岡神社行啓に際し、周辺の道路が、大きく改築された
り、新しく敷設されたのを記念して、大阪府が建碑したものです、
位置は若干移動されています。
もとは、ここに東高野街道の里程標が建てられていました。
                平成3年3月  東大阪市教育委員会


喜利川南交差点

三井会所跡と玉岡神社(東大阪市)

10月2日、第二寝屋川川の起点(八尾市)から下流に向かって歩いて
いるとき東大阪市御厨で「三井会所跡」と玉岡神社を見つけました。
江戸時代、大和川の付け替えにより広大な土地(新田)がつくられ、
それを管理する会所(鴻池新田会所等)がこの付近に菱屋と名のつく
新田が3か所ありました、(菱谷東、菱谷中、菱谷西)
この顕彰碑が建つ場所は三新田を管理する為、三井家によって建てら
れた「三井会所」のあった場所です。
顕彰碑の側には三井会所の敷地内でまつられていた「玉岡神社」が残
されています。

三井会所跡:東大阪市御厨5丁目2

2018,10,02  04:21 PM




10月19日:19683歩

五里山古墳群と五里山3号墳(東大阪市)

10月2日、東大阪市上四条町の旧春日神社本殿跡を探索した
時、その近くで「五里山古墳群と五里山3号墳」の説明板を見つ
けました。

五里山古墳群と五里山3号墳: 大阪府東大阪市上四条町25−29

2018,10,02  02:01 PM



          五里山古墳群と五里山3号墳
五里山古墳群は、鳴川南岸の尾根の先端から土石流段丘上、標高
120mから90mにわたる群集墳です、6世紀中ごろから7世紀前半に
かけて構築された横穴式石室をもつ11基の円墳からなっています、
半壊しているのを含め5基(1~4号墳、11号墳)が現存し、1~3号墳
は昭和43年に東大阪市の史跡に指定されています、昭和41年と平
成20年に発掘調査が行われました。
3号墳は6世紀中頃築造された径16m、高さ4mの円墳です、玄室の
長さ4.9m、奥壁幅1.93m、高さ2.2~2.73m、羨道の長さ5.2m、幅
1.63~1.8m、高さ1.58mを測る。南南西方向に開口する右片袖式の
横穴式石室があります、須恵器、土師器、馬具、鉄刀、鉄鏃など多く
の遺物が出土しています、本古墳群内でもっとも早く造られた古墳で
す、組合式石室とともに本棺に使用された鉄釘も見つかっており、7世
紀前半まで追葬が行われていました。
                         平成21年3月  東大阪市
鉄鏃(てつぞく):鉄製の矢じり



10月18日:28602歩

旧春日神社本殿(東大阪市)

10月2日のウォーキングは第二寝屋川の起点から終点まで歩く目的で
出かけましたが、全コース歩くことはできませんでした、10月6日に
残りのコースを歩きました。
まずは10月2日、第二寝屋川の起点に向かう途中に立ち寄った、東
大阪市上四条町にあった「旧春日神社本殿跡」を紹介します。
下記の説明板によると、四条村の氏神であった春日神社が明治政府
の神社統合整理により、枚岡神社の合祀されたため、現在地より東
にあった社殿、狛犬等をこの地に移され今日まで守り伝えられていま
す。

旧春日神社本殿:大阪府東大阪市上四条町24

2018,10,02  01:53 PM





                旧春日神社本殿跡

四条村の氏神であったこの春日神社は、中臣氏の祖神の天児屋根命を祭神と
し、もとは村の東端の字宮ノ前、現在のさくら荘となっている所にまつられていま
した明治五年(1872)、明治政府による神社の統合整理により、近郷の神社と共
に枚岡駅の東側に鎮座する河内の国一の宮の枚岡神社に合祀されることになっ
たため、残る社殿と石鳥居・石燈籠・狛犬がこの地に移され今日まで守り伝えら
れてきました。
本殿は覆屋内にあり、1間社春日造りの形式で、現在は軽く桧皮を葺いています。
東側屋根裏の棟木面には、「天文九年庚子年月日(1540)」と墨書きが明瞭に残
り、主屋の頭貫先端の禅宗様式の木尊・南拝・蓑毅の輪郭や彫剣等などに古い
特徴が見られますが、他の特徴などから、実際は墨書の年号より遅れる近世初
頭に、新旧部材を使って建築されたものではないかと考えられている。

本殿には、龍に雲文・唐草文・花文・入八双文。蝶文など、赤・青・緑等の色彩を
使用して各部に極彩色を施しています。この内板扉の絵筆は後補のものです。

なお、覆屋の正面にかかる額は痛みが進んでいますが、「春日大明神 南岳悦山
讃書」と刻まれており、悦山は宇治の黄檗山 萬福寺の名僧にあたります。
昭和49年3月25日には、貴重な市内神社建築物の一つとして、市の有形文化財
に指定されています。                  平成13年9月 東大阪市


10月17日:20119歩

桂 文之助 句碑(東大阪市 千手寺)

4月27日、東大阪市の千手寺境内で見つけた「桂文之助 句碑」を紹介します。
桂文之助は明治時代に活躍した上方落語の名人です。

桂 文之助 句碑:東大阪市 千手寺の境内                          2018,04,27  11:20 AM



                      桂 文之助 句碑
              業平と 背中合せの ぬくさかな   そろり
 ” そろり ” とは明治時代に活躍した上方落語の名人で、桂文之助のちに曽呂利新左衛門
 と称した
 元治元年笑福亭松鶴に入門、松竹の名で初高座、後に梅香と改め、その後明治五年初
 代桂分枝に師事して文之助と称する。それより明治十九年感ずるところあって、豊臣秀吉
 のお伽衆で知られた曽呂利新左衛門の名を己が芸名とする。
 初代文枝門人四天王の一人に数えられ、三友派の会長として上方落語の一方の旗頭で
 もあった。明治四十三年、六十八才で引退し、大正十二年七月、八十一才で没するまでの
 十五年間は画家猪里漁仙と号し、茶・狂歌・俳画などを楽しみ趣味三昧の余生を送った。
 奇行に富んだ逸話の多い人で、大正三年六月香典保存会を催して生きたまま葬式を営ん
 だり、上方落語の特徴である見台を廃して扇子一本の素噺を試みたり、お囃子にあわせて
 高座で得意の画を描いたり兎に角話題の多い人物であった。
 門人には後にオッペケペー節や壮士芝居で有名になった浮世亭○○こと川上音二郎らがいた。
 余生を楽しんだ桂文之助は、大軌電車(現近鉄)開通間もないころ当寺を訪れ、先任乗運
 和尚と親交を結び、画・俳句・書状などを残している。
 この句碑は、松尾芭蕉の ” 木曽殿と背中合わせの寒さかな ” をパロデイ化したもので落語家
 らしい洒落気がにじみでている、他に文之助の筆になる業平画像なども残されており、上方
 落語史を物語るうえで大変ユニークな資料となっている。
                                             桂 未之助
                                             上方落語会
                                             光堂 千手寺


お伽衆(おとぎしゅう):戦国~江戸時代,主君のそば近くにあって話相手をする役
見台(けんだい):書物を読んだり見たりするために用いる台



5月3日:17148歩

千手寺(東大阪市東石切町)

4月27日、弁天塚古墳のあった千手寺を紹介します。
寺の入り口は石切参道商店街を登り、石切大仏を過ぎて約100mのところ
右側にあります。

千手寺(せんじゅうじ):大阪府東大阪市東石切町3丁目3−16







                 恵日山 光堂 千手寺
真言宗の古刹千手寺は河内平野を一望できる高台に位置し、修験道の開祖
役行者(えんのぎょうじゃ)が不思議な神虎の導きによってこの地に一寺を建立
し、その後、焼失した堂宇を在原業平が中興したと伝えます。光堂と呼ばれた
本堂を中心に、中世には修験道の霊場として、また西方には夕陽を望み極楽
に往生を願う迎棲堂(光堂)として信仰を集めました。
寺の本尊は、大坂府の文化財に指定されている木造千手観音立像です、カヤ
材寄木造り、像高190cmの大きな仏像であり、平成3年に行われた修理により
、胎内に「正平十二年丁酉九月六日、南都大仏師 法眼康成 子息康乗 舎弟
円賢」の墨書、頭部内面にも 「故法眼康俊 興福寺法眼康成 南都大仏師 子
康乗 同円賢 延文二年十一月十八日」などの墨書が発見され、運慶・快慶ら
慶派の流れをくむ終末期の作品であることが判明しました。また造立年には、同
じ年である南朝の元号「正平十二年」と北朝の元号「延文二年」(ともに1357年
)とが併用されており南北朝時代の微妙な政治情勢を表しています。
.このほか寺には、生駒宝山寺の湛海律師作になる江戸時代の木造不動明王
像二体(ともに大阪府指定文化財)や青不動と両脇士を描いた江戸時代の絹本
箸色不動明王画像、鎌倉~室町時代の密教法具(いずれも東大阪市指定文化
財)など多くの文化財が保存されています。     平成22年3月 東大阪市


 堂宇(どうう):堂の建物。おもに、外部の人間が使う「お堂」に対して、寺院関係
         者などの内部の人間が使う建物のことを「堂宇」という。


5月2日:23368歩

神武社(石切神社摂社)

先日(4月16日)東大阪市の大石神社を参拝した帰りに、寄った石切神社
(正式名:石切劔箭神社)で「石切神社神武社跡地」の鳥居近くの商店街
の入り口で見つけた「神武社跡地」を見つけましたがその神武社が今は
石切神社の境内に摂社としてあることが分かり、4月27日に再度ウォーキング
を兼ねて訪問しました。

神武社:石切神社摂社                  真ん中の鳥居が神武社

2018,02,27  11:35 AM



              神 武 社
 祭神  神倭磐余彦尊(神武天皇)
 例祭日 4月3日
 神武天皇が蹴り上げた「石」を御霊代としてお祀りしています。
 この石は御東征のみぎり高天原の神々に武運を祈り蹴り上げ
 たと伝わるものです。
 日本一運勢の強い開運の神であり延命長寿の神として信仰
 されています。

 東征(とうせい):日本神話において、初代天皇カムヤマトイワレビコ
           (神武天皇)が日向を発ち、大和を征服して橿原宮で
           即位するまでを記した説話。..

5月1日:18149歩

五社明神社(石切神社摂社)

先日(4月16日)東大阪市の大石神社を参拝した帰りに、寄った石切神社
(正式名:石切劔箭神社)で「石切神社神武社跡地」の鳥居近くの商店街
の入り口で見つけた「神武社跡地」を見つけましたがその神武社が今は
石切神社の境内に摂社としてあることが分かり、弁天塚古墳を千手寺の
境内を探策した後、石切り神社の境内を探して見つけまさいた。
石切神社の境内摂社として、五社明神社と神武社が並んでありました。
先に五社神明社の方を紹介します。

五社明神社(石切神社摂社)  右の鳥居が五社明神社

2,018,04,27 11:30 AM



                 五社明神社
 祭神 恵比須大神
     大国主命大神
     住吉大神
     稲荷大神
     八幡大神
 例祭 五月二日
     御五柱の神々を合わせてお祀り申し上げているところから「五社
     明神社」の社名をいただいております、商売繁盛はもとより大願
     成就、五穀豊穣、産業降威など様々な商売を営まれる方々から
     篤い信仰を集めています。

弁天塚古墳(東大阪市東石切町)

グーグルの地図を検索していたら、石切神社の近くに楠木正行首塚と弁天塚古墳
があるとこが分かり、4月27日のウォーキングは楠木正行首塚と弁天塚古墳を探す
ために出かけました。
どちらも、そばまで行っても見つからず、地元の方に聞いてやっとわかりました。
弁天塚古墳は千手寺という寺の中にありました。
現地に説明板等はなく、調べたら、六世紀後半に築かれた横穴式の古墳で全長
9mをこえる規模の大きい片袖式の石室で、今はここしか残っていませんが、昔は
この近くに30基ほどの古墳群があったそうです。

弁天塚古墳:東大阪市東石切町3-3-16 (千手寺の境内)

2018,04,27  11:17 AM






4月30日:56924歩

楠木正行首塚(東大阪市山手町)

楠木正行の首塚が東大阪市にあることが分かり、4月27日のウォーキングで
探しに行きました。
先日、行った大石神社のそばでした。
現地に到着して首塚であることを示すことを書いた説明板等は無く、近所
の人に聞いてやっとわかったのでした。
近くに神社などがないのに鳥居があり、この塚の鳥居と思われます。

楠木正行首塚 : 大阪府東大阪市山手町10







首塚のそばに建つ「顕彰碑」
碑文は漢文で書かれており、おおよその意味は1924年(大正13年)1月に村人
が寄付を持ち寄り、荒れていた石垣など整え、これを記念し、碑を建てた旨が書
かれていて、首塚が、いつ頃から存在したかは書かれていないが、この時点でも
風雨にさらされ、石龕の扉の菊水の模様は磨耗が激しいとしています。

石龕(せきがん):石の塔


額田駅から首塚に向かう途中にあった案内板、しかしこれだけでは、枚岡公園
重願寺はすぐわかりましたが、首塚はわからず、地元の人に聞いてやっとわか
りました。




ここにも楠正行の墓(東大阪市 往生院)


4月29日:21466歩
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