ahisats3のブログ

ウオーキング中に見つけた神社、史跡、珍しいもの等を紹介します。

大阪市(城東区)

千間川跡(大阪市城東区)

真田幸村の墓をお参りした後、帰り道の地下鉄「緑橋」付近で「千
間川と緑橋」の記念碑を見つけました。
説明によるとこの付近には、かって千間川という用水路があった
所で、昭和42年から工事が始まり昭和46年に暗渠化の工事が終
わり、今は緑陰道路に生まれ変わりました。

「千間川と緑橋」:記念碑の場所はコノミヤ緑橋店の道路向   大阪市城東区東中本1丁目

2018,12,04  01:57 PM



                   千間川と
                   緑橋
かつて、ここには西の平野川と今の東大阪市との市境界になる中高
野街道を結ぶ用水路が流れ、その長さが千間(1800メートル)あったと
ころから千間川と呼ばれ、東成から市内へと小舟で行き交う人も多か
った。
千間川には20あまりのゆかしい名の橋が架かっていたが、昭和42年
ころから川を暗渠化する埋立が始まり、昭和46年に完了、現在は緑
陰道路に生まれ変わった。
緑橋は南側交差点名に当時の名残りを留め、心のふるさととなって
いる。                       平成8年10月 大阪市






グーグル地図 もっと拡大すれば「千間川跡碑」の文字が出てきます。

大阪四不動「させん堂不動寺」

9月25日の鶴見区と城東区の史跡めぐりウォーキンクで見つけた「左専道小学
校発祥の地」の石碑の場所にあった「させん堂不動寺」を紹介します。

させん堂 不動寺:大阪市城東区諏訪2丁目13−5

2018,09,25  02:56 PM



                   させん堂不動寺
不動明王を本尊とする真言宗の寺院です。
豊臣秀吉が大坂城を築城を築城した時、現在の生魂玉神社のあたりにあった
不動堂は取り壊され、慶長7年(1802)に東成郡木野村において再建されたと
伝えられます、その後水害に見舞われ、宝暦9年(1759)に現在の場所に移さ
れました、江戸時代の書物「摂津名所図会大成」に左専道不動」としてその名
が見え、日々の参拝が絶えなかったといわれ、広く信者を集め、とりわけ正月
二十八日の「初不動」には多くの人々が参詣し、たいへんな列が絶えないほど
の賑わいを見せていたそうです。
現在は大阪四不動尊詣の「東方不動尊」として、東方を担っています。
天明2年(1782)の銘が刻まれた梵鐘は、美術史上保存の必要性があるとして
、戦時中も供出を逃れました。
                           平成29年3月 城東区役所


                                   大阪4不動
  東 させん堂 不動寺    大阪市城東区諏訪2-13-5
  西 築港高野山 釈迦院  大阪市港区築港1-13-3 
  南 夕陽丘 大平寺     大阪市天王寺区夕陽丘町1-1 
  北 福島了徳院       大阪市福島区鷺洲2-14-1


10月10日:24326歩

左専道小学校発祥の地(城東区)

9月25日の鶴見区と城東区の史跡めぐりウォーキングは「蒲生の蒲穂ゆかり
の地」の次に「左専道小学校発祥の地」の石碑を見つけました。

左専道小学校は現在の諏訪小学校の前身で明治8年に左専道村と永田
村の組合立の「第5大区二左専道小学校として創立され、その後、何度も
改称され、昭和22年に「大阪市立諏訪小学校」となりました。
「左専道」という旧地名は、菅原道真公が太宰府に左遷される途中, この地
の諏訪神社で休憩したことから, ここが「左遷道」と呼ばれたが, 「左遷」とい
う名は聞こえが悪いということで, 地元の人たちが「左専道」と 改めたと伝わ
っています。

左専道小学校発祥の地 大阪府大阪市城東区諏訪1丁目  不動寺の前

2018,09,25  02:58 PM





蒲生の蒲穂ゆかりの地(大阪市城東区蒲生)

9月25日の鶴見区と城東区の史跡めぐりウォーキングは「旧野崎道の跡」
の次に「蒲生の蒲穂ゆかりの地」を見つけました。
蒲生3丁目は私が高校を出て初めて就職した会社があった所で、懐か
しく歩きました。

蒲生の蒲穂ゆかりの地  大阪市城東区蒲生3丁目4−20

2018,09 02:24 PM







       蒲生の蒲穂ゆかりの地(城東区蒲生3丁目)
このあたりは、寝屋川(旧大和川)の流路にあたる湿地帯で、かって
は蒲(がま)という草がよく繁っていた、蒲の葉は高さ1~2mに伸び、
夏から秋にかけて稲穂のように細長い棒状の穂をつける。
「古事記」にある因幡の白ウサギの伝説には、サメの毛をむしられた白
ウサギの治療のために大国主命(おおくにぬしのみこと)が蒲穂を使っ
たことが記されるが、今日でも蒲の花粉はやけどや傷の薬として利
用されている。
また、布団を「蒲団」とも書くように、古代には布団の材料として使わ
れた。江戸時代には、敷物の素材に利用されていた。
蒲生のあたりで採れる蒲穂は、特に美しく、長さも長かったといわれ、
江戸時代には特産品の一つとして知られていた。
一説には、蒲生の地名は蒲穂から来たものといわれている。


10月8日:29792歩

旧野崎道の跡(城東区今福南)

9月25日の鶴見区と城東区の史跡めぐりウォーキングは「徳庵納豆ゆか
りの地」の次に旧野崎道の跡の碑をみつけました。

京阪電鉄京橋駅付近で、京街道から分岐する古堤(ふるづつみ)街道
(生駒市に至る)は、野崎道ともいわれました。これは大東市野崎の慈
眼(じげん)寺(通称野崎観音)への参詣道として元禄期(17世紀末)か
ら明治末期頃まで賑わったことによります。参詣はこの堤道を歩く者や
、寝屋川を屋形船で行く人たちもおり双方から遊山気分でののしり合い
、口論する独特の風景が見聞され、落語にも取り上げられています。

旧野崎道跡:大阪市城東区今福南2丁目1−1

2018,09,25  01:25 PM




かって屋形船が通った現在の寝屋川   上流側

下流側


10月7日:26931歩

蒲生行者堂(城東区蒲生)

大坂冬の陣「佐竹義宣本陣跡」のある、若宮八幡大神宮すぐそばで
蒲生行者堂を見つけました。

蒲生(がもう)行者堂:大阪市城東区蒲生4丁目10-24

2018,05,19  02:30 PM



             蒲 生 行 者 講
蒲生行者講は、三百余年の間、蒲生村民の安全と繁栄を念じてきました。
奈良県の大峯山上の行場で厳しい山行を終えて下山してきた人に、体を
またいでもらうと強くなるというので、人々は、道に横たわってまたいでもら
ったそうです。

大峯山 護持院 櫻本坊(奈良県吉野郡吉野町)の境内にある
玉垣には「大阪蒲生行者講」の名が刻まれており、大峯山で
修行を行っていた蒲生行者講の歴史を今に伝えています。


大峯山にある「西の覗き」と呼ばれる行場では、先達に足と命
綱を持ってもらい、崖を覗く荒行が行われています、先達の問
いかけに対し「はい」と答えるまで吊るされ続けます。


6月9日:17189歩

大坂冬の陣「佐竹義宣本陣跡」

大坂冬の陣「佐竹義宣本陣跡」は大阪市城東区の若宮八幡大神宮の中に
祈念碑が建てられていました。
(私は2015年6月16日に参拝していますが、その時はこの記念碑はありま
せんでした)若宮八幡大神宮(城東区蒲生)


大坂冬の陣「佐竹義宣本陣跡」:若宮八幡大神宮の境内





若宮八幡大神宮は当地域の土地柄が寝屋川(古くは大和川)鯰江川
の二川、また古街道東西に貫通し低地であり地味砂土に富み、農耕
に適し、水運の便多く、浪速に於ける庶民生業の中心地として繁栄し
てまいりました。その関係上難波に都を定められ、御製「高殿にのぼり
てみれば煙突の民のかまどはにぎわいにけり」に示された、仁徳天皇
の御遺徳をしのび、村民こぞって神祠を勧請御創建せしに始まると伝
えられて居ります、「摂津名所図絵」によれば、蒲生とは名産に蒲穂あ
り、色美しく、尺長く、良質のものができましたと記されて居ります。
蒲生の地名もここから出たものでしょう、社伝によれば人皇103代後土
御門天皇の御宇、文明14年8月(1482)畠山義紀と河内守口城に攻め
たる時、村民の崇敬篤く、神域広大なりし当地の神祠に、武運成就を祈
願したと伝えられ「難波戦記」に依れば、大阪冬の陣(鴫野、京橋口の
戦い)に於いて、佐竹義宣、当地境内に本陣を構え、戦勝を祈願したと
あり、その時「心なき軍兵共の為、神木たる楠の大樹は地上より伐り倒
され篝火の料に用いられぬ惜むべきことなり、戦後佐竹家より、矢を献
納して贖罪の祈願をす、其の矢は伝わりて明治に至りしも18年の洪水
に社と共に流失せり、楠の根幹は其の後芽を吹きだし三百年間の大樹
を生長し明治まで繁茂して樹下は村童の遊び場なりしが二十年ころ樹
盛誠に衰え三奉共終に枯死せしを以ってその後に絵馬堂を建設せり、
根幹は其の絵馬堂一面の大きさなりと云えば戦時伐木せし楠の如何に
大なるものなりしかを知るべし、したがって樹齢も他の霊に推算せば、
一千数百年前のものなろことを認むべし」昭和10年の記録
以上のごとく蒲生御一帯の守護神として(勝運、商売繁盛、五穀豊穣、
安産、家内安全、厄除けを祈願し)世に蒲生の西向き八幡さまと絶大な
る信仰をあつめて参りましたことを尊見されております。
昭和10年社殿修営の大事業、並びに昭和45年御鎮座1500年記念参
集殿御造営事業を竣工せしにより、佐竹義宣の本陣地として碑を立つ
ものであります。
      改修 平成27年6月吉日  若宮八幡大神宮 前宮司 森 弥生

篝火(かがりび):夜間の警護・照明などのためにたく火。
贖罪(しょくざい): 善行を積んだり金品を出したりするなどの実際の行動
           によって、自分の犯した罪や過失を償うこと。罪滅ぼし。

2018,05,19  02:29 PM


6月8日:23158歩

上杉景勝本陣の地(鴫野八剱神社)

5月14日の城東区ウォーキングの時、鴫野八剱神社境内で大坂冬の陣
鴫野の戦い「上杉景勝本陣の地」を見つけました。
鴫野の戦い - Wikipedia
上杉景勝(うえすぎかげかつ):戦国時代から江戸時代前期にかけての大名。
                    豊臣政権の五大老の一人。米沢藩の初代藩主。
                    上杉宗家(山内上杉家)17代目で、同家16代目
                    上杉謙信を家祖とする米沢上杉家2代目。


上杉景勝本陣の地:鴫野八剱神社の境内






6月6日:33785歩

巡航船の船着き場跡(城東区)

5月14日のウォーキングは大阪市城東区内を歩きました。
電車の京阪線や片町線が出来る前は寝屋川が大阪市街と北河内・
中河内をつなぐ重要な交通の要路でした、その船着き場跡の説明板
を新喜多大橋と新喜多橋の間で見つけました。
説明板には珍しい当時の切符などの写真が載っていました。

巡航船の船着き場跡:大阪市城東区 新喜多大橋と新喜多橋の間の右岸

2018,05,14  01:15 PM



                 巡航船の船着き場跡
江戸時代から明治時代にかけて寝屋川は、大阪市街と北河内・中河内を
つなぐ重要な交通の要路であり、今福はその中継地として栄えていました。
しかし、明治後期に相次いで開通した京阪電鉄や国鉄片町線(現JR線)
は今福を通らず、鉄道を利用するには、国鉄「京橋」「放出」「森ノ宮」駅
や京阪電鉄「蒲生」駅まで歩いて行かなければなりませんでした。
こうした状況の中で、大正3年(1914)10月、天満橋~片町~鴫野橋~朝
日橋~今福を往復する巡航船(城東巡航合資会社所有)が運行されまし
た。船は、30人乗りの石油発動機船で屋根があり、窓際に板張りの腰掛
が設置されていました、当時の運賃は、初乗りが4銭で以後一区間ごとに
1銭ずつ上がっていくものでした。学校へ通学する生徒や大阪造幣局(砲
兵工廠)などへ通勤する人達の重要な交通機関の一つとして、多くの人が
利用されたようです。
また、一時は利用者の拡大、利便性の良さから「徳庵」(現鶴見区)まで運
行されていたこともありました。
その後、昭和7年(1932年)ごろに市バスが片町から極楽橋まで乗り入れ
たことなどにより廃止されました。
今では面影すらありませんが、当時ののどかなまちの様子が思い浮かぶ
ようです。










6月5日:29802歩

新喜多の由来「新喜多新田会所跡」

新喜多新田会所跡は寝屋川の左岸、新喜多大橋の南詰付近にありました。
会所跡の説明版に新喜多の由来が載っていました。
新田を開発した人の名前の文字を一つずつ取ってつけたそうです。
  
    鴻池十郎、鴻池七、今木屋兵衛


新喜多(しぎた)新田会所跡:大阪市城東区新喜多東1丁目





                  新喜多新田会所跡

ここは鴻池新田会所を経営するための中心となる新田会所の建物があったと
ころです。 もともとこのあたりは大和川が流れていたところですが、宝永元年
(1704)につけ替え工事が行われ、柏原あたりからまっすぐ西に向かい、大阪
湾に流れ込むようになりました。

川があった跡の低い土地を開発してできたのが、新喜多新田です。 

京橋のあたりから東大阪市域にまで及ぶたいへん広い新田で、まわりの湿地
や沼地が次々に水田となり、このあたりが開けていくきっかけとなりました。

なお、新喜多の名称は、ここの新田開発を進めた、鴻池新十郎、鴻池喜七、
今木屋多兵衛の三人の人物から一字ずつとって名付けられたということです。

                         大阪市教育委員会


7月5日:23755歩

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