ahisats3のブログ

ウオーキング中に見つけた神社、史跡、珍しいもの等を紹介します。

大阪市(都島区)

青湾(桜ノ宮公園・都島区)

城北公園で葱生城跡を見学後、大川沿いに次の目的地、大阪城に向かう
途中の桜ノ宮公園で「青湾」の石碑を見つけました。

青湾:大阪市都島区中野町1 毛馬桜之宮公園内(通称:桜ノ宮公園)

2017,12,02  10:02 AM

石碑の裏側



                      青  湾
茶の湯を愛好した豊臣秀吉は、このあたりの淀川の水が特に清らかであること
を知り、ここに小湾を設け「青湾(せいわん)」と名づけて長く愛用したといわれて
います。
明治の初期は、この付近は水が飲料として市民に売られていたことや、明治28
年最初の大阪市水源地が桜ノ宮に設けられたことを見ても、かっての清流がし
のばれます。この青湾の碑は、文久2年(1862)に、明治の南画界の高峰 田能
村直入(たのむらちょくにゅう)らが建てたもので、裏に「コノ湾ノ水香ニシテ茶ニ適ス汲
ミテ尽キズ青霞ヲ吸ウニマサル」とあります。

銀橋から写した桜ノ宮公園


12月6日:68414歩

京橋川魚市場跡(大阪市都島区)

3月22日のウォーキングは大阪市内の史跡めぐりをしました。
大阪市内の史跡は今までに何度もしているので、まだ見ていないところ
予め調べて探索したのです。
まずJR京橋駅で降りて、最初の目的地に向かう途中で予定になかった、
「京橋川魚市場跡」の石碑を見つけました。
説明版によると、鯉、フナ、ウナギ等の川魚を扱う市場で「京橋」と「川魚」は
離して読むようです。(最初 私は京橋川  魚市場と読んでしまいました)

京橋川魚(きょうばし かわうお)市場跡:大阪市都島区片町1-5

2017,03,22  06:26 AM

                京橋川魚市場跡
大阪の魚市場といえば雑魚場市場が有名である、しかし近世の魚市場
は雑魚場ひとつではなく、木津や天満にも海魚を扱う市場が営まれて
いた。 また海魚とは別に川魚を扱う市場が京橋にあった。
京橋川魚市場の起源は、石山本願寺の時期に設けられた鮒市場とされ
る。 もともとは漁民が、京橋の北詰に川魚を持ち寄って販売する市のよ
うなものだったと考えられる。寛保元年(1741)の京橋川魚独占販売由来
記」によれば、慶長年間(1596~1615)のはじめごろに、小出播磨守秀政
の指示を受けて構成員55人、うち5人を幹事である年寄とする市場機構
のシステムが整えられた。
以降近世を通じて、幕府に大坂で川魚を独占的に扱うことを公認された
市場となった。
近代に入り、市場機構の変革がすすむ中、京橋川魚市場は明治末期に
は中之島6丁目付近へ移転し、大正4年(1915)に大阪川魚株式会社が設
立された。                          大阪市教育委員会

「京橋川魚市場跡」石碑のある場所の遠景


角度を変えて南に向かって写すと、大阪城が写っています。

毛馬城跡(大阪市都島区毛馬町)

浪速鉄道片町駅跡を見学後、大川沿いに歩いて毛馬町の善福寺にある
毛馬城跡の顕彰史跡の説明板を探して見つけました。
毛馬城は下記説明板によると、僧侶、顕如が信長に対抗して作った51箇
所の出城の一つです。

毛馬城跡:(善福寺の塀に説明板) 大阪市都島区毛馬町4丁目7-26 

2016,11,20  8:18 AM





毛馬城跡(都島区毛馬町)    「大阪市顕彰史跡第210号」
織田信長は、永禄11(1568)年に足利義昭を奉じて上洛を果たしたが、
畿内には三好三人衆らが反信長勢力が残っていた。
元亀元(1570)年、本願寺はそうした勢力とともに信長に敵対する道を
選び、10年に及ぶ石山合戦が始まった。
天正4(1576)年、信長は宿将佐久間信盛を本願寺攻めの主将として天
王寺城に置くとともに、本願寺の周囲10箇所に付城を築き本願寺包囲
網を固めていった。それに対抗して本願寺第11世・顕如は、周囲の防
衛線として高津・鴫野・野江・楼岸・木津・難波などに51箇所にも上がる
出城を設けた。その中に「飯満(けま)」があり、これが毛馬城と考えられ
ている。 西流してきた淀川が大坂本願寺のある上町台地北端部に向
けて南流する要所に築かれた城であったと思われる。

顕如(けんにょ):織田信長の宿敵であり、武力によって天下統一を狙う
           信長を仏敵とし、全国の本願寺門徒に信長打倒を呼び
                         かけ、決戦を挑む。軍事的、経済的にも圧倒的に有利な
                         織田軍相手に調略によって信長包囲網を結成し、10年
                         以上にわたって信長と激しい攻防を繰り広げた。


楼岸(ろうのきし):現在の大阪市中央区石町2丁目付近。


11月26日:18703歩

人に馴れたヌートリア(桜ノ宮公園)

11月20日、大阪市内ウォーキングで「浪速鉄道片町駅跡」を見つけた後
次の探索予定地、毛馬城跡に向かう途中の桜ノ宮公園で大川の川岸
でヌートリアが歩いているのを見つけ、そちらへ行くと、若い男性二人が
ヌートリアに餌をやっていました、その男性の話では、「このヌートリアは他
の人が餌付けをしたので餌を貰おうと寄ってきます」と言っていました。
私は過去に三度ヌートリアを見ましたが、人に馴れたヌートリアを見たのは
初めてです。


2016,11,20  07:19 AM




ヌートリアを見つけた桜ノ宮公園、中央の鉄橋はJR桜ノ宮駅と天満駅の
間の鉄橋。


大東市にもヌートリア
淀川にビーバー? と思ったがヌートリアでした

浪速鉄道片町駅跡(都島区)

11月20日は大阪市内をウォーキングしました、大阪市内は何度も歩いてい
て主な史跡は探索済ですが、何か見落としていないかを前日に調べて
JR京橋駅からスタートして「浪速鉄道片町駅跡」を見つけた後、毛馬城跡
を見学後、南堀江の「大阪電気(株)西道頓堀電燈発電所跡地」は見つ
ける事が
出来なくて、西区の「大阪瓦斯発祥の地」を見学してJR大阪駅
に戻るコースで、最初に調べた以外の史跡も発見できた収穫の多いウォーキ
ングとなりました。
最初に見つけた「浪速鉄道片町駅跡」を紹介します。
私は高校が「鴻池新田駅」だったので片町線は昭和35年から利用しまし
た。

JRになる前は浪速鉄道であったことは知りませんでした。
それ以外に調べて分ったことは下記です。
 ①片町線が正式名称で「学研都市線」が愛称であること。
 ②JR初の自動改札機が設置されたのは片町線。
 ③JR初の女性専用車が出来たのは片町線。

浪速鉄道片町駅跡(JR片町駅跡)








浪速鉄道片町駅の歴史
  • 1895年(明治28年)8月22日 - 浪速鉄道の駅として四条畷駅 - 当駅間の
       開業と同時に開業。
  • 1897年(明治30年)2月9日 - 浪速鉄道を関西鉄道に譲渡。
  • 1898年(明治31年)11月18日 - 旅客営業廃止。
  • 1905年(明治38年)1月1日 - 旅客営業再開。
  • 1907年(明治40年)10月1日 - 鉄道国有法により国有化、国有鉄道の駅に
          なる。
  • 1912年(明治45年)4月21日 - 城東線京橋駅との乗り換え駅の便を図るため
        京橋口乗降場を開設。
  • 1913年(大正2年)11月15日 - 京橋口乗降場を格上げし、城東線乗り換え駅
          となる京橋駅として分離。
  • 1987年(昭和62年)4月1日 - 国鉄分割民営化により、西日本旅客鉄道(JR西
          日本)に承継。
  • 1991年(平成3年)春頃 - JR東西線の工事開始に伴い旧駅舎と旧ホーム撤去、
          仮駅舎に移行。
  • 1997年(平成9年)3月8日 - JR東西線の開業に伴い廃止。線路切替工事の為、
         前日(3月7日)21時30分をもって営業終了。


    11月24日:26452歩


  • 蕪村公園(都島区毛馬町)

    7月20日城北川ウォーキングで見つけた蕪村公園を紹介します。
    江戸時代の俳人、与謝蕪村は摂津国毛馬(現在の都島区毛馬町)
    で生まれました。
    この公園は2009年(平成19年)4月にオープンし、広さは約1ヘクタール
    で蕪村の句碑が13基建っています。

    蕪村公園:都島区毛馬町1丁目12



    「いな妻や 浪もてゆへる秋津しま」 このような句碑が13基建っています。「

    蕪村について学べる多くの説明板があります。


    7月26日:15641歩

    淀川神社(都島区の神社めぐり完結)

    都島区の毛馬町にある淀川神社は20日、城北川ウォーキングをした
    時に見つけて参拝しました、後で都島区の神社を調べたら全部で
    3社しか無く、残りの2社は過去に参拝済でしたので、結果的に大
    阪市都島区の神社めぐりは完結していました。

    かって毛馬村では八幡神社を祀っていましたが明治40年政府の
    命により桜宮へ合祀されました、それ以来、氏神をなくした住民の
    熱意により当神社が昭和28年に創建されました。

    淀川神社:大阪市都島区毛馬町1丁目2-11

    2015,07,20 撮影




    都島区の神社めぐり完結

    桜の名所「藤田邸跡公園」

    「藤田邸跡公園」は3月27日、寝屋川に沿って歩いた時、寝屋
    川の終点を確認した帰り道に見つけた公園です。
    公園の入口にあった説明板をに下記に転記しました。

    藤田邸跡公園(桜之宮公園)
    藤田邸跡公園は、明治時代に実業家として、その名を馳せた
    男爵藤田律三朗氏の邸宅の一部にあたり。当時は公園周辺
    の市長公館や藤田美術館、太閤園などとともに広大な敷地を
    成していました、藤田律三郎氏は明治初期、藤田組を組織し多
    角経営に従事するかたわら、多くの企業の設立、経営にも関わ
    り、大阪商法会議所の創設に参画し第二代会頭を務めるなど、
    大阪経済の基礎を築いた関西実業界の中心人物でした。
    藤田邸跡は、築山や石積みなどの当時を忍ばせる庭園の一部
    が良好な状態で残っていたことから、庭園遺構部分を出来る限り
    保存または復元し、桜之宮公園の一部として整備しました。
    作庭者は梅園梅叟(という庭師で、平坦な地形に起伏に富んだ地
    形を人工的につくり出した、南北方向の築山、滝、流れ等を基本
    的な構成としています。
    特に高い滝石組からの流れや築山中央の流れとその両側の急
    峻な築山の組み合わせが庭園の中心となっています。
    この庭園は平成十五年十二月十九日に「旧藤田邸庭園」として
    大阪市の名勝の指定を受けました。

    「藤田邸跡公園」 大阪市都島区

    2015,03,27 撮影 








    4月5日:18669歩

    都島区の由来(難波の宮の向こう「宮向島」)

    造幣局に行く前、桜ノ宮公園の桜を見ながら歩いていると
    大きな石碑があり、その説明を読んでみると都島区の由来
    が書いてありました。



    石碑の場所:京橋よりの銀橋、南側


    都島区の出来たいきさつや、昭和18年に、出来たことが
    この石碑で分かりましたが、名前の由来は下記調べました
    難波宮の向こうの地であったことから、「宮向島(みやこじ
    ま)」が転化して都島となりました。

    2014,4,4 撮影




    4月6日:19165歩

    桜ノ宮に浜辺(大阪市都島区)

    桜ノ宮公園を歩いていた時、浜辺を見つけました、大阪府が
     2011年に開設した「大阪ふれあいの水辺」で、JR桜ノ宮駅
    から徒歩4分です。

    誰でも自由に入れ、直接水に触れることが出来ます






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