ahisats3のブログ

ウオーキング中に見つけた神社、史跡、珍しいもの等を紹介します。

大阪市(天王寺区)

興徳寺(天王寺区餌差町)

心願寺で真田幸村の墓を見た後、すぐ隣の寺院「興徳寺」に大きい
像があったので興味をもって見ていると、入り口に「自由にお参り下
さい」と書いてあったので、中に入ってお参りさせていただきましたの
で、紹介します。

聖徳太子存世中に今の法円坂付近に「薬師院」として創建され、天平
年間(729~749)に行基菩薩によって再建された畿内49ケ院のひとつ
と言われていますが、第二次世界大戦の大阪大空襲にて現在の山門
以外の諸堂を焼失したため詳細は不明です。元禄年間(1688~1704
)に作製された「大坂三郷町絵図」(大坂城天守閣蔵)では現在地にお寺
が存在していた事が確認できます。現在の本堂は昭和27年に再建。た
くさんの方々のご協力により、今に至っています。 興徳寺ホームページ

寺の外からでも見える大きい像


興徳寺山門         大阪市天王寺区餌差町2−17      2018,12,04  01:28 PM


「自由にお参り下さい」の木札




境内


准胝観音(じゅんでいかんのん)



               准胝観音
無数の仏を産んだことから、仏母とも言われています。我が国では
とくに子授けと安産の観音様としてお祀りされています。興徳寺の
准提観音は、高さ33尺、約10mの大きさがあります。お目は三つ、
お手は18本あり、 それぞれの手に持たれた仏具等でみなさまに功
徳をもたらします。 また観音様の周囲には西国三十三か所霊場の
お砂を埋めています。歩かれると西国観音霊場をまわったことにな
ります。                         興徳寺ホームページ


12月27日:21471歩

真田幸村の墓(心願寺)

以前(2016年11月23日)、真田丸出丸城跡を見学に行った時、朝早
く行ったので門があいていなかったので心願寺は2度目の訪問になり
ます。(開門は午前8時)真田幸村 出丸城跡(心願寺)
今回は午後に行ったので境内に入ることができました。
真田幸村の墓は門をくぐってすぐの所にありました。


真田幸村の墓 心願寺の境内(大阪市天王寺区)        2018,12,04  01:22 PM





  従五位下
真田左衛門佐豊臣信繁之墓

 慶長12年 5月7日
 於 摂津大阪打死 49歳

   墓碑銘 歴史地理史学者 中村武生
    書   松本笙絢
真田信繁は、竹田信玄配下の武将であった、父真田昌幸の次男、通称は
源次郎、号は好白。
関ケ原の戦いでは父と共に西軍側に付くも、戦いに敗れ、紀州九度山に幽
閉される。14年間、蟄居生活を送り、慶長19年(1614)豊臣方に参加した。
大阪冬の陣では、難攻不落の大坂城唯一の弱点とも豊臣秀吉が危惧した
、南惣構の外側に真田出丸を構築、そこで徳川方と壮絶な死闘を繰り広げ
た。
翌年の夏の陣で、信繁は茶臼山に本陣を置く。徳川本隊と戦い、徳川家康
に迫るも力尽き、越前兵に安居神社付近で打ち取られたと伝えられる。
真田信繁は、一般に「幸村」として知られる。しかし、現存最後とされる慶長
20年3月19日付の書簡にも「左衛門佐信繁」と署名があり、生前「幸村」と
名乗ったことはなかったと考えられる。
德川時代中期にあたる18世紀のなかばのころには、「幸村」の呼称が流布
していた。本墓碑は、生前の確実なである「信繁」を採用した。
豊臣姓は秀吉が創始したもので、弟 秀永や甥(のち養子)秀次ら親族のほ
か、毛利輝元や徳川秀忠(おそらく家康も)など有力大名も称した。
当寺は徳川時代より信繁の菩提を弔っている、信繁の四百回忌に際して、
墓碑を建立する。
        平成26年(2014)10月吉日 真田山 心願寺

惣構(そうがまえ):城や砦の外郭(がいかく)、またはその囲まれた内部のこと。
            特に、城のほか城下町一帯も含めて外周を堀や石垣、土塁
            で囲い込んだ、日本の城郭構造をいう。惣構(そうがまえ)、
            総曲輪(そうぐるわ)、総郭(そうぐるわ)ともいう。
(いみな):人の死後尊敬しておくる称号。


心願寺



12月26日:23631歩

京都見回組(桂早之助らの墓所)心願寺

心願寺に真田幸村の墓があることが分かり12月4日のウォーキングで心願寺
へ行きました。
心願寺の門の前でに「京都見回組 桂早之助 渡辺吉太郎 墓所 当山」の石
碑を見つけ、境内に京都見回組、両名の墓があることが分かったので、こち
らを先に紹介します。

慶応3年11月15日、京都河原町の近江屋で坂本龍馬や中岡慎太郎らを殺
害したのが、京都見回組の桂早之助らだったのです。

心願寺  大阪市天王寺区餌差町



2018,12,04  01:21 PM





                                  京都見回組
                 桂早之助・渡辺吉太郎・高橋安次郎
桂早之助利義は、天保12年(1841)4月、代々京都所司代組の同心
を務める家に生まれた、京都在住の幕臣である、剣術は西岡是心流
を修め、京都文武場の剣術世話心得を務めでいる。
慶応3年(1867)2月、所司代組同心から京都見回組に推挙され、7月
には肝煎(小隊長クラス)に昇進した。
見回組の主な任務は、新選組と同じく京都の治安を守ることにあるが、
見回組の方は、全て幕臣による組織である。
渡辺吉太郎は、天保14年(1843)に江戸で生まれた幕臣である、直心
影流を学び、神奈川奉行支配組同心となった、その後、元治元年(1864)
には見回り組に推挙され、京都に来た、慶応年間の見回組肝煎を列記
した名簿に名が掲載されている。
高橋実次郎も、天保13年(1843)に江戸で生まれた幕臣である、高橋の
名は、元治元年の見回組名簿に記され、伍長を務めていた。
慶応3年11月15日、京都河原町の近江屋で坂本龍馬や中岡慎太郎らが
殺害された、函館戦争終結後、新政府に捕えられた元見回組肝煎 今井
信郎の供述によると、見回り組与 佐々木只三郎を信拝者とする数名が
坂本龍馬らを襲撃しあt、その人員の中に、桂早之助と渡辺只三郎、高橋
実次郎の名がある、
慶応4年1月3日に始まった、鳥羽伏見の戦いに見回り組も参戦し最前線
で戦った、桂は下鳥羽で左 に銃剣を受け、4日に戦死している、遺体は
戸板に乗せられて同僚らの手で大阪まで運ばれ本寺に葬られた、享年28
歳、戒名は「徳元陵大誉忠受義貫居士」である。
渡辺は鳥羽から橋本にいたる戦いの中で負傷し、5日に戦死、本寺に葬ら
れた、享年26歳、墓碑には吉三郎とあるが、同時代資料から吉太郎が正
しい。
高橋も5日に鳥羽淀橋において戦死し、本寺に葬られた、享年27歳「宝明
院恩誉嶽山孝道居士」という戒名を刻んだ墓石が、桂の墓の隣に存在して
いたが、現在、墓石は残されていない、裏面には、「慶応四年戊辰 正月五
日」と刻まれていたと伝わる。
 
参考文献 
 1、「坂本龍馬を切った男 見回組・桂早之助の履歴」
 1、「戊辰之役東軍戦死者及殉難者氏名」「桂早之助と京都見回組」
 1、「京都見回組史緑」 「実録 龍馬討殺」
                           平成25年4月 真田山 心願寺



12月24日:25206歩

新撰組 大坂旅宿跡(萬福寺)

通称「はきもの神社」を参拝後、帰路の松屋町筋の寺院が多く集まってい
る下寺町を歩いている時、萬福寺の前で「新撰組 大坂旅宿跡」の石碑を
見つけました。
下記の説明文によれば、幕末期に将軍が大坂城に滞在の時、将軍を守る
為に、新選組が宿としたところが、この萬福寺でした。


新撰組 大坂旅宿跡(萬福寺):大阪市天王寺区下寺町1丁目3ー82

2018年9月26日 午後2時16分





新撰組は幕末期、近藤 勇に統括された、京都を本拠とする浪士集団です。
幕末の京都は、江戸にかわって久しぶりに日本の政治の中心地となってい
ました。 それは、京都にあった一橋慶喜(禁裏御守衛総徳県摂海坊察指揮
、のち15代将軍)松平容保(会津 、京都守護職)・松平定敬(桑名 、京都所
司代)が、孝明天皇に強く支持されて権力を握ったからです。
これを「一・会・桑 権力」と呼びます。その松平容敬に新撰組は所属し、
「一・会・桑」の政敵、長州毛利家の志士たちと戦いました。元治元年(1864)
、池田屋事件・禁門の変などで大きな軍功をたてたことはよく知られるところで
す。 新撰組は「一・会・桑」を助けた最強軍事集団といえます。
近藤勇らは、京都に本拠地をおくとはいえ、もともと畿内に滞在する将軍徳川
家茂の護衛と、大坂を含む長い海岸線(摂海)の防衛に携わるために江戸よ
り西上してきた者なので当初より将軍の大坂城滞在のときなどは、たびたび
大坂に出張していました。
その際に使用された旅宿のひとつが、ここ萬福寺です。
たとえば幹部 島田魁の手記によれば、慶応元年(1865)5月、将軍家茂の3度
目の西上にあわせて、新選組は大坂市中取締を命じられています。
その時期の大坂奉行所の発した文書によれば、「壬生組」が萬福寺を宿所にし
ていましたが、この「壬生組」こそが新撰組のことと思われます。
実際、同年7月1日、幹部 井上源三郎から兄 井上松五郎に宛てられた書簡
によれば、前月中に松五郎が萬福寺に源三郎を訪ねています。
たまたまそのとき、源三郎は京都に戻っていて会えませんでしたが、この書簡
からも大坂滞在中の新撰組の旅宿のひとつが萬福寺だったことがわかります。
萬福寺の現在の建物のうち、庫裏や山門などは幕末期には存在しており往時
をしのぶことができます。
以上のことから、当所を大阪市内における新撰組史蹟のひとつとしてここに建
碑し、顕彰したします。  
                            2010年 歴史地理学者 中村武生





10月16日:21376歩

浪速富士山跡(天王寺区)

11月23日の大阪市内ウォーキングで「浪速富士山跡」を生玉公園で
見つけました。
山と言っても明治22年に建てられた展望台で、開業当時の観客は
2万人に上ったと言われますが、維持費が予想以上にかかったこと
などの理由で1年足らずで閉鎖されました。

浪速富士山跡:大阪市天王寺区 生玉公園内

2016,11,23  08:23 AM





浪速富士山跡(天王寺区生玉町)   「大阪市顕彰史跡 第205号」
かって生国魂神社周辺には桜を植えた境内を開放した寺院や田楽店・
だんご店などがあり、一帯は庶民の行楽地であった、そこに目を付けた
大蔵信之(当時、西高津村の戸長を勤めていた)によって、明治22年
(1889)年「浪速富士」と呼ばれる展望台が神社の南横手に造られた。
富士山を模して円錐形に木材を組み、それに仮に板を貼って漆喰で固
めて仕上げ、雪を頂く富士の姿を描いていた。
また麓から高さ18m ある頂上にむかって螺旋状に階段が造られ、登頂
気分が味わえるようになっていた。
さらに、場内には花壇や人工の滝、加えてあたかも生きた人間のように
作られた「生人形」の展示があって庶民の人気を博し、開業当時は2万
余人に上ったという、しかし、維持費が予想以上にかかったことなどの
理由で1年足らずで閉鎖された。


12月2日:43349歩

彌栄神社 味原御旅所(天王寺区)

心願寺で「真田丸出城跡」を見た跡、同じ餌差町で彌栄神社を見つけ
参拝しました、後で調べたら神社のある場所は天王寺区餌差町ですが
神社の正式名称は「彌栄神社 味原御旅所」でした。
今はありませんが昔、神社のすぐそばに「味原池」があったので味原御
旅所となったようです。(彌栄神社の本宮は生野区にあります)
彌栄神社(生野区)


彌栄神社 味原御旅所:天王寺区餌差1丁目10-23



編額の文字は上段が右から「彌栄神社」 下段が「味原御旅所」と思われる

2016,11,23  07:59 AM


12月1日:22468歩

真田幸村 出丸城跡(心願寺)

2016年2月26日に「真田丸の場所」を探して見つけ、2016年3月3日の
ブログに取り上げましたが、後で調べたら、その近くの心願寺という寺院
にも「真田丸出城跡」の石碑があることが分り、2016年11月23日に大阪
市内ウォーキングの時、探して見つけました。
真田丸の場所(大阪明星学園グランド)

真田幸村 出丸城跡(心願寺):大阪市天王寺区餌差2丁目22

2016,11,23  07:40 AM




1614年、慶長19年、真田信繁(幸村)は真田山に出城「真田丸」をつくり
、ここで徳川の大軍を相手に勝利をおさめた。翌年、「大坂夏の陣」で幸村
は討ち死にして、豊臣家は滅亡しました。

 元和8年(1622)4月、白牟(はくむ)和尚が、「真田丸」があった場所に
幸村・大助父子の冥福を祈るために堂舎を創建。それが心眼寺(しんがん
じ)です、寺の定紋は真田家の六文銭と定められ、山号は真田山としまし
た。 しかし当時、大坂は江戸幕府の直轄地であったため、豊臣方の武将
であった幸村の墓をつくることは許されませんでした。
しかし、ようやく400年目の2014年10月に真田左衛門佐信繁之墓として建
立されたそうです。
私が訪問したのは午前7時40分、心願寺の門は閉まっており、中に入る事
は出来ませんでした。
開門は午前8時ということが後で分り真田幸村の墓を拝むことは出来ません
でした。
機会があれば近いうちに行きたいと思っています。


林芙美子文学記念碑

大阪市立美術館の前で「林芙美子文学記念碑」を見つけました。

林芙美子文学記念碑:大阪市天王寺区茶臼山町

2016,02,26 撮影


林芙美子(本名 林フミ子)は、明治36年(1903年)下関市田中町に生まれ、
昭和26年(1951年)6月29日死去した。
昭和22年に「うず潮」を、翌23年には「晩菊」を発表し、「晩菊」は第3回日本女流
文学賞をうけた。その後「浮雲」「茶色の眼」等の作品を発表したが、昭和26年、
「めし」を朝日新聞に連載中急逝した。
「めし」には、大阪市内の描写が随所にあり、とりわけジャンジャン横丁、新世界
の風情がうまく描かれている。「放浪記」から「めし」にいたるまで、女の哀しさ、
切なさを生涯かけて描きつづけたが、「めし」は、彼女の円熟期の頂点となるべき
作品であったといわれている。
 
アベノハルカスも見えました。

旧黒田藩蔵屋敷長屋門

「てんしば」から大阪市立美術館に向かう途中に「旧黒田藩蔵屋敷
長屋門」がありました。
もともと中之島の渡辺橋南西詰西側にありましたが、1933年(昭和8
年)の中之島三井ビル建設に際し三井が大阪市に寄贈したものを、
美術館の南通用門として移築されました。

蔵屋敷とは 諸藩が 米その他の自国の物産を売るため倉庫、事務
所、住居でした。
天下の台所といわれた大阪は 堂島川、土佐堀川、江戸堀川の岸に
諸藩の蔵屋敷が軒をつらね、その数は135もありました。

旧黒田藩(現在の福岡県)蔵屋敷長屋門:大阪市天王寺区茶臼山町

2016,02,26 撮影


3月8日:26520歩

「てんしば」(天王寺公園)

2月26日、天王寺区と阿倍野区の神社めぐりウォーキングをした時、
天王寺公園が以前は有料であったのに、無料になり、また公園
の名前も「てんしば」となり、施設も新しくなっていたので紹介しま
す。
芝生広場を中心に皆に親しまれるように天王寺の「てん」と芝生
の「しば」を組み合わせ「てんしば」と名付けられました。

新しい名称:「てんしば」(元天王寺公園) 2015,10,01 リニュ-アルオープン



2016,02,26 撮影

以前は入園料が必要でした
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