ahisats3のブログ

ウオーキング中に見つけた神社、史跡、珍しいもの等を紹介します。

大阪市(西淀川区)

住吉神社(西淀川区福町)

大阪市西淀川区福町の住吉神社を参拝して全9社の神社めぐり
を終わることができました。

神社創建は明暦2年(1656)で、当神社のある「福村」は正保元
年(1644)、後光明天皇の時に開発されました。村人は主として
漁業を業としていたため、航海の安全と豊漁を願って、12年後の
明暦2年(1656)に、神崎川沿いのこの地に宮地を築き、殿舎を
建て、住吉大神を勤請し、祀ったのが、当神社の始まりです。

住吉神社(通称 福住吉神社):西淀川区福町2丁目15-16






境内社:福戎神社


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大阪市西淀川区の神社めぐり完結

淀川戎神社(野里住吉神社の境内社)

今日9日は10日戎の宵戎、淀川戎神社を紹介します、西淀川区の
住吉神社(通称:野里住吉神社)の境内にあります。
昨年の12月9日に参拝しましたが、ブログには取り上げていませんで
した。理由は野里住吉神社の境内社であり、私の神社まいりには基
本的には境内社は含んでいません。
しかし今後は有名な境内社はブログに載せていこうと思っています。

淀川戎神社(野里住吉神社の境内社):住所等は下記をクリックしてください

「一夜官女祭」 住吉神社(西淀川区野里)


2015,12,09 撮影






1月9日:26817歩

住吉神社(西淀川区百島)

西淀川区百島の住吉神社は通称、大野住吉神社または大野百島
住吉神社と呼ばれています。

住吉神社:西淀川区百島1丁目3-93 通称:大野百島住吉神社

西淀川区の神社めぐり残り1社





五社神社(西淀川区)

五社神社は12月28日、西淀川区の神社めぐりで3社目に参拝した
神社です.

五社神社:西淀川区中島1丁目2-8 阪神出来島駅 徒歩8分

創建は元禄元年です。  2015,12,28 撮影

西淀川区の神社めぐり残り2社

神社名のとおり祀っている御祭紳は五つです。


1月8日:17819歩

判官松の碑(判官びいきの由来)

西淀川区の住吉神社(通称:大和田住吉神社)の境内で「判官松の跡」
の大きい記念碑を見つけました。
判官とは源義経のことで、義経が任務に就いていた検非違使(けびいし)
は都の治安維持にあたる、今の警察のような職務の三等官を判官とい
いました。
「判官びいき」という、弱いものを応援したくなる日本人の気質を表す言葉
はこの判官からきています。
兄の頼朝に憎まれた義経に人々が同情したことから「判官びいき」という
言葉がうまれました。

「判官松の跡」石碑(左) と 由来の説明板(右):大和田住吉神境内



長い文章ですが簡単に言えば、義経が海上安全祈願の松を植えたのが
この場所でした。

住吉神社(西淀川区大和田)

12月28日、西淀川区の神社めぐりで2社目に参拝したのは住吉神社
です。
ブログのカテゴリー「神社」を数をみると私の神社めぐりは、すでに500社
を超えていました、600社を目指して頑張る目標ができました。

住吉神社:西淀川区大和田5丁目20-20  阪神千船駅南徒歩7分

2015,12,28 撮影 西淀川区の神社めぐり残り3社






1月7日:19568歩

紀貫之の歌(田蓑神社境内)

土佐日記等で有名な平安時代の歌人、紀貫之(きのつらゆき)の歌碑
を田蓑神社の境内で見つけました。
この歌からすると、この佃の地は昔は田蓑島と呼んでいたことが分りま
す。

紀貫之の歌(大阪市西淀川区佃 田蓑神社境内)

2015,12,28 撮影

田蓑神社(西淀川区佃)

12月28日、西淀川区の神社めぐりで最初に参拝した田蓑神社を
紹介します。
貞観11年(西暦869年)9月15日鎮座、田蓑嶋神社と言いましたが
、寛保元年(1741年)九月に住吉神社と改名、明治元年(1868年)
に田蓑神社となりました。

田蓑(たみの)神社:西淀川区佃1丁目18-14  阪神千船駅北 700m

2015,12,28 撮影

西淀川区の神社めぐり、全8社中、残り4社




1月5日:19211歩

東京・佃島の由来(西淀川区 東佃公園)

昨年12月28日は二回目の大阪市西淀川区の神社めぐりをして、5社を
参拝し、全部で8社あった神社を全て参拝することが出来ました。



田蓑神社他5社は後日紹介しますが、田蓑神社のそばの東佃公園で見つけ
た記念碑に東京・佃島の由来が刻まれていました。

佃煮の発祥の地が江戸(東京)の佃島であることは知っていましたが、この
記念碑の説明文を読んで、地名の「佃島」が実は大阪の佃村(大阪市西区
佃)の漁民が東京に移り住んで、故郷をしのんでつけた地名
であることが分
りました。
なぜ佃村の漁民が江戸に移住したかは、明智光秀の謀反によって織田信長
が本能寺で倒れたとき、徳川家康はわずかな家来と堺にいました、何としても
岡崎城に戻らなければ、家康も信長同様、標的になりかねません、ところが
神崎川で足止めを食らい、川を渡る船が無かったのです、そこで佃村の漁民
たちが漁船と道中の食料を用意したのです。
これに感謝した家康が庄屋と漁民33名を江戸によび特別に漁業権を与えて
移住させたのです。

大阪市西淀川区佃1丁目 東佃公園内に「佃島」記念碑

2015,12,28 撮影








姫島神社(西淀川区姫島)

12月9日、西淀川区の神社めぐりで、住吉神社(野里)の次に参拝した
のが姫島神社です。

姫島神社:西淀川区姫島4丁目14-4

西淀川区の神社めぐり残り5社


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                    由緒  
阿迦留姫命(あかるひめのみこと)と住吉大神を祀る。創建年代は不明。
豊臣秀吉の時代に一時は住吉神社(すみよしじんじゃ)と称したが、明和
三年(1766)に社名を元に戻す。
 ご祭神阿迦留姫(あかるひめ)は、「古事記」によると「赤い玉より生まれ
た美人で新羅の王子、天之日矛(あめのひぼこ)と結婚、常に美食を用意
して仕えたが、高慢な夫の態度に耐えきれず、難波に逃げ帰った」とある
。また「摂津国風土記(せっつのくにふどき)」逸文には「新羅(しらぎ)の女
神が夫のもとを逃れ、筑紫の国の伊波比(いわい)の比売(ひめ)島(大分
県姫島)に暫くいたが、ここは新羅から近いので、きっと夫が追いかけて
くるに違いないと摂津の国に移り住んだ。」そして、もといた島の名をとっ
て比売島と名付けた」とある。姫島は難波八十島(なにわやそじま)の一つ
で阿迦留姫(あかるひめ)が留まった比売島が、この地にあたると伝えられ
てきた。
古老の話によるとヒメが訛ってヒエ(稗)島と呼ばれ、ヘジマと発音してい
たという。また、この地は木綿織(もめんおり)がさかんで女性は三巾前掛
(みはばまえかけ)をして、よく働いたという。この機織の技術や木綿の栽
培が始まったのは、戦国時代といわれ、史実と異なる、このような伝承が
残っているのも阿迦留姫命(あかるひめのみこと)をこの地の産土神(うぶ
すながみ)として、人々が大切に祀ってきたからであろう。
境内には、姫島に関する万葉歌碑がある。
妹が名は 千代に流れん姫島の 小松が末に 苔むすまでに(いもがなは
ちよにながれんひめじまの こまつがうれに こけむすまでに)妹はこの地
で亡くなった乙女を作者が親しみをこめて表したもので、あなたの名はい
つまでも世に語り伝えられるであろうと詠んだ。

西淀川区の神社(境内社、摂社、末社などは含まず)


12月16日:23009歩
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