ahisats3のブログ

ウオーキング中に見つけた神社、史跡、珍しいもの等を紹介します。

大阪市(西成区)

津守神社(西成区)

西成区の神社めぐりで最後に参拝したのは津守神社です。

現在の大阪市西成区津守の一帯は、江戸時代に「津守新田」として開墾
された歴史があり、津守新田の開発の際に勧請されて創建された神社が
現在の津守神社にあたります。
江戸時代には、この神社は五所神社・五社大明神・稲荷神社などと称さ
れており、1871年(明治4年)に津守神社に改称されました

津守神社:大阪市西成区3丁目-4
PIC_0312
西成区の神社めぐり5社目、残り無し完結

2016,02,29 撮影


2月26日;61026歩

敷津松之宮西成社

敷津松之宮西成社は浪速区にある敷津松之宮神社の御旅所です。
同神社の由緒略記によれば、神功皇后が武内宿彌(たけのうちのすくね)
を従え敷津浜を航行中、松の木3本を植えて航行の安全を祈願したのが
起源で、はじめは松本の宮といい、明治維新の頃は八坂神社と呼ばれて
いました。
普通御旅所といえば敷地の狭い所が多いのですが、敷地の広い普通の
神社と変わりませんでした。

敷津松之宮西成社:大阪市西成区松2丁目3  通称:敷津松の宮御旅所
                  大国町の由来「敷津松の宮」(大国主神社)

西成区の神社めぐり4社目、残り1社
PIC_0310


「こつまなんきん」の由来 生根神社

大阪市西成区の神社めぐり、3社目に参拝したのは生根神社です。
境内には、浜村淳 奉納の俳句や「こつまなんきん塚」がありました。


生根(いくね)神社:大阪市西成区玉出西2丁目1-10

西成区の神社めぐり3社目、残り2社

浜村淳 奉納の句碑 「いざ うたえだいがく音頭に 夏の月」

「こつまなんきん塚」


「こつまなんきん」は当神社のある玉出の古名を勝間(こつま)村と言い、
当地の名産でした、小ぶりで、色の濃い、味わい深いかぼちゃを記念し
た塚。
江戸時代の大坂では天王寺蕪と並んで有名な「なにわ野菜」でした。

また、こつまなんきんとは、幼い海女の様に、色が黒く、小柄で、体のよ
く締まった、女性をもてはやす言葉としても知られています。
今東光は著作『こつまなんきんでそのような女性を描きました。

別名の多い天満宮(西成区岸里東)

天下茶屋跡のすぐそばにあった、西成区岸里東の天満宮は別名の多い
神社で下記の呼び方があります。

 ①天下茶屋天満宮:天下茶屋に近いため
 ②天神ノ森天満宮  :古来この地域は天神の森と呼ばれた。
 ③子安天満宮    :秀吉も安産祈願した子安石がある。
 ④紹鴎森天満宮  :千利休の師匠 武野紹鴎が晩年、当地に茶室を建てた。

天満宮:大阪市西成区岸里東2丁目3-19

西成区の神社めぐり2社目、残り3社

2016,02,19 撮影

天下茶屋の由来(西成区)

西成区の神社めぐりで苔山龍王を参拝後、次の神社に向かう途中
「天下茶屋跡」を見つけました。
秀吉が住吉神社や堺に向かう途中に休憩した、茶屋があったので
天下茶屋と呼ばれていました。

天下茶屋跡:大阪市西成区岸里東2丁目10-9

2016,02,19 撮影
PIC_0289


天下茶屋の由来
この広場は、今から四百年余り昔、大阪城から住吉大社参拝や堺へ行
き来する途中に太閤秀吉が立ち寄って茶の湯を楽しんだ故事で有名な
天下茶屋跡の一角である。
昭和20年、戦災に遭う迄、五千平方米に及ぶ広大な屋敷に、太閤秀吉
ゆかりの「恵水」と名付けられた井戸や茶室、紀州候はじめ諸大名も泊
まったと伝えられる御殿が残っていた、この土蔵は屋敷の北西隅に位置
し、恵方に向かって建てられ、太閤秀吉を祀った祠で楠とともに往時をし
のぶものである、太閤秀吉が天下茶屋を訪れた天正年間、茅木家の租
 三代目 天下茶屋子兵衛昌立が活躍していた、当時、天神の森には茶
人千利休の師 武野紹鴎が住んで居り、今に「紹鴎の森」といわれている
、この広場の整備にあたり、茅木家から土地と土蔵の寄付を受け、また
、地元西成区土地区画整理審議会から全面的な協力を受けて出来たも
のである。

2月24日:16078歩

苔山龍王(西成区)

西成区の神社は調べたら全部で5社ありましたが、2月19日に神社
めぐりをして、一日で5社全て参拝することが出来ました。
最初に参拝したのは苔山龍王で南海電車の萩ノ茶屋と天下茶屋駅の
間の高架下にありました。

苔山龍王(こけやまりゅうおう):大阪市西成区天下茶屋1丁目32

西成区の神社めぐり1社目、残り4社



苔山龍王の由来
織田信長時代の土佐藩の家老夫婦(氏名不詳)御夫婦がこの地で返り討ち
に合い、後に豊臣・徳川の夏の陣・冬の陣の戦に天下茶屋一帯が戦場とな
り、多くの霊がさまよい、徳川家光の慶安3年正月にこの碑が建立されたも
のですがその後長い年月の間に碑が倒れてしまい、、いつの間にか溝川の
橋に使われていました。
なぜか橋を渡った者に事故が多かったと言われていました。
昭和4年南海電鉄線路改修の際、その溝川が埋められた時、この碑が出て
きましたので、事故の多いのは佛罰をこうむりしたものとして近隣有志が有寄
り現在の所に御堂を建立供養し当時の町名をとり苔山龍王と命名され地域
の守護神として祭られています。
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