ahisats3のブログ

ウオーキング中に見つけた神社、史跡、珍しいもの等を紹介します。

大阪市(平野区)

西瓜破天神社(平野区瓜破)

全15社の平野区神社めぐりは西瓜破天神社を参拝して無事に完了する
事ができました、この神社も大阪府神社庁の平野区一覧表には載ってい
ませんでしたが、ネットの地図で見つけたのです。
一覧表に載っていない理由は瓜破天神社の境外摂社であるからだと思い
ます。
地図で西瓜破天神社を見つけましたが住所が分らず、ナビを使えないので
、すぐに分るか自信がありませんでしたが、分かりやすい場所にあり早く見
つける事が出来ました。

西瓜破天神社:大阪市平野区瓜破6丁目2-6

上記の神社住所はネットで調べてもわからなかったので神社拝殿に貼って
いた住所表示でわかったのです。

平野区の神社めぐり完結





4月18日:27092歩

小松神社(平野区瓜破東)

4月11日、平野区の神社めぐりで9番目(通算14社目)に参拝したのは
小松神社です。
この神社は大阪府神社庁の平野区の一覧表には載っていませんでし
たが、ネットの地図(グーグルマップ)で小松神社の存在を知って神社めぐり
に追加したのです。

この地図で小松神社と瓜破西天神社の存在を知りました。



小松神社(平野区瓜破東)

平野区の神社めぐり通算14社目


由来
瓜破の古書「船戸録」によると、この地に源氏の武士権守宗重の一子
で湯浅七郎兵衛宗光という人が住んでいた。

この宗光が安元の戦いの際、平重盛に危い命を助けられたことがあっ
た。その後、平重盛は紀州の熊野浦に入水してこの世を去った。

このことを知った宗光は報恩のため自己所有の土地を寄進し、社殿を
建て、その霊を祀り小松大明神と名付けられた。
その後、小松大明神は本郷の氏神さまとして郷民たちの信仰をあつめ
るようになった。 元来、この神社は当地の南西方向に位置していたが
鉄道敷きにかかったため、天神社に合祀されていたものを、南之町の
有志によりこの地に昭和22年建立し祀ることにされた。 
                           昭和60年8月 小松神社
(


)

()

()

()

瓜破天神社(平野区瓜破)

平野区神社めぐり13社目(4月11日は8社目)に参拝したのは瓜破天神社
です。

僧道昭がこの地で修行中天神の霊像が出現した。そこで瓜を割って供えた
が、この伝承が瓜破という地名の起源のひとつといわれている。道昭は、当
地の出身と伝えられ白雉4年(653年)遣唐使に従って入唐し、玄弉三蔵の教
えを受け、帰国後諸国を遍歴して庶民に慕われたことが、続日本紀にみられ
る。 平野区ホームページ

瓜破(うりわり)天神社:大阪市平野区瓜破5丁目4-19





                                  瓜破天神社
 瓜破の歴史を記憶し唯一現存する船戸録(元文元年、1736 記)によ
れば孝徳天皇の大化年中(645~649)当地に居住された高僧船氏道
昭が五月晦日、三密の教法観念の折、庵室に光る天神の尊像が現れ
たので、西瓜を割って霊前に供えた。道昭歯、朝廷に上申したところ方
八丁の宮地を賜ひ、この霊像を祭祀して当所に氏神と崇め奉り西の宮
又は方八丁の宮と称したのが当社の起源であると記されている。当社
の北部に牛頭天王を祀る(祭神素盞嗚尊、起源鎮座年月不詳)があっ
て北の宮と言われていた。慶長年代(1596~1618)に至り公命によって
北の宮を西の宮へ合祀した。寛永年間(1624~1643)に耕作の都合で
集団移住し西川村(旧西瓜破)を形成し、そこに氏神として祀った天満宮
(祭神、菅原道真、創立鎮座年月不詳)、さらに東北部に東の宮と称した
小松大明神(祭神、平維盛)があった。この社は、壽永年間(1182~3)
平重盛に大恩をうけた源氏の武将湯浅七朗兵衛宗光が京都守護職とし
ていく際当地にて嫡子維盛が熊野浦にて入水の由を聞き及び追悼慰霊
を営み神領五〇歩を寄進して宮居を建てたのが起源とされている。

当社の北部に牛頭天王()を祀る社(祭神 素盞嗚尊()、起源鎮座年不詳)が
あって北の宮と言われていた。

慶長年代(1596-1614)に至り公命によって北の宮を西の宮へ合祀した。

寛永年間(1624-1643)に耕作の都合で集団移住し西川村(旧西瓜破)を
形成し、そこに氏神として祀って天満宮

)
(祭神 菅原道真()、創立鎮座年月
不詳)、さらに東北部に東の宮と称した小松大明神社()(祭神 平維盛)があ
った。 

         

川辺八幡神社(平野区)

平野区神社めぐり12社目(4月11日は7社目)に参拝したのは川辺八幡神
社です。

創建の年月不詳であるが、石清水八幡宮の分霊を勧請したものと伝わる。
往時は、社殿も壮大で社領も広く、いまの境外地字垣添の全部を包容し、
社領も4町歩以上におよんだが、1704年の大和川付け替え工事よって立
ち退きを余儀なくされ、社領地の大部分がその川床となった。明治5年村
社に指定された。境内の楠の木には黒い龍が宿るという伝承があり、推
定樹齢300年以上で大阪市の保存樹に指定されている。また、毎年9月
の秋祭には大和川に御輿を担ぎ入れる「足洗い」神事に併せて仕掛け花
火と打上げ花火が行なわれ、秋の川面を彩る。 平野区ホームページ

川辺八幡神社:大阪市平野区長吉川辺1丁目4-38




真田幸村 軍旗奉納の「志紀長吉神社」

平野区内を歩いていると「真田幸村 ゆかりの平野区」の「旗」が
目につきましたが、平野区で通算11番目(4月11日は6番目)に
参拝した志紀長吉神社に真田幸村が戦勝を祈願して軍刀と軍旗
を奉納したことがわかりました、軍旗は今でも保存されているそう
です。

「志紀長吉神社」:大阪市平野区長吉長原2丁目8-23

平野区の神社めぐり11社目

2016.04,11 撮影








4月17日:13555歩

六反の由来「赤坂神社」(平野区)

4月11日、平野区神社めぐりで5社目に参拝した赤坂神社のある土地の
地名は昔は赤坂村でしたが、元弘元年(1331年)金剛山麓の「千早赤坂」
を拠点に楠木正成が鎌倉幕府に対して反旗をあげたので、同名の「赤坂
村」の名では混同されて幕府軍から攻撃される恐れがあり、赤の字から
縦の線を、坂の字から土を取り「六反」になった
と伝わっています。
赤坂神社は、創建は明らかでなく、もと素盞鳴尊を祀るのみであったが、
明治5年4月に素盞鳴尊神社・天満神社・御神社の三社を合祀して赤坂神
社と改められ、素盞鳴尊、菅原道真公を祀る村社となりました。

「赤坂神社」:平野区長吉六反1丁目14-24

平野区の神社めぐり10社目

赤坂村から六反になった由緒が刻まれた現地の記念碑

産土神社(平野区長吉出戸)

天照皇大神社と同じ平野区長吉出戸に産土神社がありました。
この神社も現地に由緒書きはありませんが、平野区のホームページに
下記のような由来が載っていました。

創建は明らかではないが、もと牛頭天皇社と称し素盞鳴尊を祀った。明治5年
に産土神社と改称し村社となった。
旧社殿の棟札(屋根裏の柱に取り付け後世に記録を残す板札)に天保七年上棟
の記述があったが、現在の社殿は昭和61年に建替えられたものである。

産土(うぶすな)神社:大阪市平野区長吉出戸6丁目10-14


平野区の神社めぐり9社目

住職は不在のため志紀長吉神社の住職が管理しています。
PIC_0046

天照皇大神社(平野区長吉出戸)

4月11日の平野区神社めぐりで3社目に参拝したのは「天照皇大神社」
です。
大阪府神社データー大阪市平野区で8番目に登録されています。
住宅街のなかにあり、現地に神社の由緒書き等はなく、調べても分りません
でした。

天照皇大(てんしょうこうだい)神社:
           大阪市平野区出戸長吉出戸4-4-318

平野区の神社めぐり8社目(4月11日は3社目)




4月16日:27364歩

八坂神社(平野区喜連東)

4月11日、平野区神社めぐりで2社目に参拝したのは八坂神社です。

東喜連村の氏神で素盞鳴尊を祀り、八坂神社と称していたが、嘉永年間
に忍坂大中姫命(允恭天皇の皇后)を祀る媛天神を合祀して東西神社とな
った。改称は、合祀により氏子が東西喜連村にまたがることになったので
、東西の二字をとった。
明治42年12月、天神・東西・春日の三社は現在の楯原神社に合祀されて
いたが、氏子の決議にもとづき再び八坂神社とした。昭和26年7月、東喜
連氏子の要望により、東西社・春日社を元の東喜連に分離移転し、同時
に地域の氏子も別れることとなった。 平野区ホームページより

八坂神社:大阪市平野区喜連東2丁目1-21

平野区の神社めぐり残り7社目


式内楯原神社(平野区喜連)

4月11日は大阪市平野区の神社めぐりをして、残り10社全てを参拝
することが出来ました。
JR新加美駅からスタートして最初に参拝したのが式内楯原神社です。

式内楯原(しきないたてはら)神社:
  大阪市平野区喜連(きれ)東大阪市平野区喜連6丁目1-38

平野区の神社めぐり残り6社目







4月15日:27648歩
記事検索
プロフィール

ahisats3

カテゴリ別アーカイブ
QRコード
QRコード
  • ライブドアブログ