ahisats3のブログ

ウオーキング中に見つけた神社、史跡、珍しいもの等を紹介します。

京都市(東山区)

清少納言が仕えた「皇后定子鳥戸野陵」

1月15日、京都市内の神社めぐりウォーキングは最後に剣神社を参拝して
予定通り、最寄駅の京阪東福寺駅に向かう途中で「鳥戸野陵」の石柱
を見つけ石段を登っていくと陵’(天皇・皇后などの墓所)がありました。
一条天皇皇后、定子様他6名の皇后様が合祀されています。
皇后 定子様は24歳で崩御されました、『枕草子』の作者清少納言は女
官として仕えました。


一條天皇皇后定子 鳥戸野陵(とりとべのみささぎ):京都市東山区今熊野泉山町

2017,01,15  04:22 PM





一條天皇皇后定子 鳥戸野陵
醍醐天皇皇后穏子火葬塚
圓融天皇女御尊称皇太后詮子火葬塚
後朱雀天皇皇后禎子内親王火葬塚
後冷泉天皇皇后歡子火葬塚
白河天皇皇后賢子火葬塚
堀河天皇女御贈皇太后苡子火葬塚


2月6日:22988歩


疳の虫とは「剣神社」(京都市東山区)

1月15日、雪が降ったり止んだりする中、京都市神社めぐりウォーキングで最
後の14社目に参拝したのが剣神社です。
子供の疳虫封じ祈願で知られる神社です。

疳(かん)の虫とは昔よく耳にした言葉ですが、意味を調べたら下記です。

赤ちゃんの夜泣きや癇癪を、日本では古来より「疳の虫が騒ぐ」という言葉
で表すことがあります。

昔、ヒトの体にも寄生していた寄生虫が原因で病気になることが多かったこ
ともあってか、夜泣き、かんしゃく、不機嫌などの症状もそういった「虫」のせ
い、という発想で生まれた言葉だと言われています。機嫌の悪いことを「虫
の居所が悪い」と言うように、感情の乱れさえも『虫』の位置が左右し、『虫』
を退治すれば赤ちゃんは落ちつく…と考えて、神社でご祈祷などをして虫封
じを行う風習もありました。


剣(つるぎ)神社:京都府京都市東山区今熊野剣宮町13





2017,01,15  04:11 PM


[耳塚(鼻塚)](京都市東山区)

この塚は豊臣秀吉が朝鮮半島に侵攻した文禄・慶長の役で戦功のしるしに
日本に持ち帰った朝鮮軍の耳や耳を供養のために、この地に埋められた塚
であることが現地説明版でわかりました。
なんと、むごいことをしたと思い、このブログもやめようと思いましたが、よく調
べたら生きている敵軍の耳や鼻をそいだのではなく、戦死した遺体からそい
だのであり、そして遺体から耳や鼻をそぐ習慣は日本にはなく、敵方、つまり
朝鮮および明国の兵たちは、彼等の流儀に従って、やってきた日本側の兵を
倒すと、その耳を削いで戦勝の証としました。
彼等は、所持した耳の数で恩賞が払われましたから、とにかく耳でありさえす
れば何でもよく、両耳を削げば数が倍になるし、ついでに鼻まで削いで倒した
敵の数にしていました。
日本側の兵はさんざんこれをやられ、また、これは遠く離れた戦場での戦勝の
証拠としては、ある意味、合理的でもあったことから、日本側の一部の将が、敵
のやり方を真似て、耳や鼻を日本に持ち帰りました。
つまり、日本には耳を削いで戦勝の証とする習慣は、なかった、ということです。
そして耳を持ち帰った武将は、これを不名誉なこととされた、ということなのです。
ただ、これに対しては当時も日本国内で非難轟々で、結局、持ち帰った耳や鼻
は、京の都まで持ち帰って方広寺に塚を築造して丁寧に埋葬し、いまに至るま
で、400年以上もずっと供養をし続けているということが分かりました。

耳塚(鼻塚):京都府京都市東山区茶屋町533−1

2017,01,15  03;46 PM



               耳塚(鼻塚)
天下を統一した豊臣秀吉がさらに大陸にも支配の手を伸ばそうとし
て朝鮮半島に侵攻したいわゆる文禄・慶長の役(朝鮮史では、任辰
・丁酉の倭乱1592~1598年)にかかる遺跡である。
秀吉傘下の武将は、古来一般の戦功のしるしである首級のかわりに、
朝鮮軍民の男女の鼻や耳をそぎ、塩漬にして日本に持ち帰った、そ
れらは秀吉の命によりこの地に埋められ、供養の儀がもたれたという、
これが伝えられる「耳塚(鼻塚)」のはじまりである。
「耳塚(鼻塚)は史跡「御土居」などとともに京都に現存する豊臣秀吉
の遺構の一つであり塚の上に建つ五輪の石塔は、その形状がすで
に寛永2年(1643)の古絵図に認められ、塚の築成から程ないころの
創建と想われる。
秀吉が起こしたこの戦争は、朝鮮半島における人々の根強い抵抗に
よって敗退に終わったが、戦役が遺したこの「耳塚(鼻塚)」は戦乱下
に被った朝鮮民族の受難を、歴史の遺訓として、いまに伝えている。
                           京都市

2月5日:17354歩





陶器塚(京都市東山区)

京都市神社めぐりウォーキングで三嶋神社を参拝後、次の目的地「耳塚」に
向かう途中の智積院東側の坂道、地蔵山墓地の入り口付近で陶器塚を
見つけました。

陶器塚

2017,01,15  03:11 PM



                 陶 器 塚
この辺りは古くは愛宕郡鳥辺郷と称したが、永歴元年(1160)
後白河院が平清盛に命じて紀州熊野権現を勧請、新熊野神
社も創建にちなみ新熊野村(現今熊野)と呼ばれた。
平安京造営時には瓦が焼かれ、東本願寺の明治大改修には
瓦ぶきの粘土を産出する等、古来より土と炎の村であった。
大正2年、京式登釜がこの地に築かれ、現在の陶業の礎とな
った、以来、数多くの陶工やこれを支えた人々の誇りと情熱、
炎によって魂を吹き込まれた生命を与えられた数限りない京
焼、清水焼、その先人の足跡とこの地の発展を願い、この碑
を建立するものである。




2月4日:62917歩

牛若丸ゆかりの「揺向石」(三嶋神社)

三嶋神社境内にあった揺向石」を紹介します。
この石は承安4年(1174)牛若丸(源義経)が三嶋神社に参拝後、夢
の中に白髪の翁が現れ、すぐに奥州に立つようにお告げを受けまし
た、目を覚ました義経公は再度三嶋神社に参拝すると、夢で見た翁
が立っていた場所に、あったのがこの石で、以来「揺向石」と呼ばれ、
妊婦さんがこの石に触れると牛若丸のような立派な男子が授かると
伝わっています。

牛若丸ゆかりの「揺向石」(三嶋神社)
                               京都府京都市東山区 東大路通東入上馬町3丁目

2017,01,15  02:43 PM

鰻が祭神の使者「三嶋神社」

1月15日、京都市神社めぐりで13社目に参拝した三嶋神社は、うなぎを
神の使いとしている珍しい神社です。

三嶋神社:京都府京都市東山区 東大路通東入上馬町3丁目


2017,01,15  02:43 PM



                三 嶋 神 社

祭神として大山祇大神・天津日高彦火瓊々杵尊・水之咲耶姫命
を祀る。後白河上皇の女神・建春門院(平滋子)が息子のない
のを
憂い、摂津三嶋神に祈願されたところ、霊夢に感じて後の
高倉天皇を
お生みになった、後白河上皇は深く三嶋神を崇敬さ
れ、永禄元年(
1160平ら重盛に命じてこの地に社殿を造営し
、三嶋神を勧請したのが当社の起こりである。

以来、皇室の尊崇厚く、安産加護を祈願された。

今も小授けと安産の神として信仰され「鰻」の絵馬が多数奉納
されている
、これは鰻が祭神の使者とされているためで、祈願
中は鰻を禁食する慣わし
が現在でも伝えられている。

毎年秋には「うなぎ祭り(鰻並びに生類放生会)」が行われ、
あらゆる
生物の出生、育成、放生を加護する神として崇敬され
ている。                                 京 都 市




2月2日:27709歩

樹下社(新日吉神宮境内社)

1月15日、京都市神社めぐりで12社目に参拝した樹下社を紹介します。
新日吉(いまひえ)神宮の境内にある小さな神社で現在は豊国神社と呼ば
れています。

江戸時代には、豊臣家や秀吉に関するものはすべて壊され、禁止されまし
た、しかし京都での太閤さん人気は高く、秀吉を隠れて崇拝する人もいたと
いいます、まるで「隠れキリシタン」のように、密かに太閤さんを信仰する人
々が集ったのが新日吉神宮でした、境内にある「樹下社(このもとのやしろ)」
は「豊国神社(ほうこくじんじゃ)」とも呼ばれ、この樹下社に、秀吉信仰をす
る人々が訪れたのです、かつて新日吉神宮が、豊国廟社の跡地に建ってい
たこと、樹下社の「樹下」と、豊臣秀吉の旧名・木下藤吉郎の「木下」が同じ
“音”を持っていることが、理由のひとつで、また新日吉神宮の神使いが「猿」
なのも、“サル”と呼ばれた秀吉との接点と思われます。

向かって左が樹下社  右は愛宕、秋葉神社
                          (どちらも新日吉神宮の境内社)

2017,01,15   02:00 PM

樹下社(現在は豊国神社):京都市東山区妙法院前側町451-1










2月1日:20750歩

大谷本廟(京都市東山区)

清水寺を出て、次に参拝したのが親鸞聖人の墓所、大谷本廟です、

大谷本廟:京都市東山区五条橋東6丁目514





             大谷本廟の歴史
浄土真宗を開かれた宗祖 親鸞聖人(1173~1263)は、御年90歳
でご往生され、烏辺山の南辺(現在の「御茶毘所」)で火葬に付され
たのち、ご遺骨は烏辺野北辺の「大谷」に納められました。
その後十年を経て、聖人の末娘の覚信尼さまが、諸国の門弟の協
力を得て、ご遺骨を吉永の北辺(現在の知恩院山門北側の「崇㤗院
」付近)にご改葬、お堂を建ててご影像を安置されました。
ここを「大谷影堂」また「大谷廟堂」と呼び、本願寺の始まりの地とな
りました。
1603年、大12代准如宗主の時代に、徳川幕府の命により、廟堂は
五条坂の現在地に移転しました。
以来、大谷本廟は、宗祖 親鸞聖人のみ教えを仰ぎ、お念仏のよろ
こびに生かされる門信徒の方がたの尊いご想念によって護持されて
います。




1月31日:24809歩


アテルイ・モレの碑(清水寺)

清水寺境内の地主神社を参拝後、出口に向かって歩いていると、何かの
碑があり、近づいてみると、アテルイ・モレの碑でした。
どうして清水寺にこの碑があるかは、下記の碑文に載っています。

阿弖流為(アテルイ)・母禮(モレ)の碑:清水寺境内







                                    顕 彰 碑
「八世紀末頃、日高見国胆沢(岩手県水沢市地方)を本拠とした蝦夷の首
領・阿弖流為(アテルイ)は中央政府の数次に亘る侵略に対し数十年に及
ぶ奮闘も空しく、遂に坂上田村麻呂の軍門に降り同胞の母礼(モレ)と共に
京都に連行された。 田村麻呂は敵将ながらアテルイ、モレの武勇、人物を
惜しみ政府に助命嘆願したが容れられず、アテルイ、モレ両雄は、八〇二
年河内国で処刑された。 この史実に鑑み、田村麻呂開基の清水寺境内に
アテルイ、モレ顕彰碑を建立す。 」  



「八世紀の末頃まで、東北・北上川流域を日高見国(ひたかみくに)と云い、
大和政府の勢力圏外にあり独自の生活と文化を形成していた。政府は服
属しない東北の民を蝦夷(えみし)と呼び蔑視し、その経略のため数次にわ
たり巨万の征討軍を動員した。胆沢(いざわ:岩手県水沢市地方)の首領、
大墓公阿弖流為(たのものきみあてるい)」は近隣の部族と連合し、この侵
略を頑強に阻止した。なかでも七八九年の巣伏(すぶせ)の戦いでは、勇猛
果敢に奮闘し征東軍に多大の損害を与えた。八〇一年、坂上田村麻呂は
四万の将兵を率いて戦地に赴き、帰順策により胆沢に進出し胆沢城を築い
た。阿弖流為は十数年に及ぶ激戦に疲弊した郷民を憂慮し、同胞五百余
名を従えて田村麻呂の軍門に下った。田村麻呂将軍は阿弖流為と副将磐
具公母礼(いわぐのきみもれ)を伴い京都に帰還し、蝦夷の両雄の武勇と器
量を惜しみ、東北経営に登用すべく政府に助命嘆願した。しかし公家達の
反対により阿弖流為、母禮は八〇二年八月一三日河内国で処刑された。
平安建都千二百年に当たり、田村麻呂の悲願空しく異郷の地で散った阿
弖流為、母礼の顕彰碑を清水寺の格別の厚意により田村麻呂開基の同寺
境内に建立す。 両雄以って冥さるべし。
1994年11月吉祥日
     関西岩手胆江同郷会 関西岩手県人会  京都岩手県人会  
     アテルイを顕彰する会 

上記碑文に河内国で処刑されたとありますが、場所は枚方市の片埜神社
の近くで
私は2013年にブログに取り上げています。アテルイ、モレの碑

1月30日:22378歩

京都最古の縁結びの神様「地主神社」

地主神社は清水寺の中にあることは知っていましたが、場所が分かりにくい
ので寺の人に聞くと清水寺の本堂を通過していくため入館料を払う必要があ
ります。

地主(じしゅ)神社:(清水寺境内)

1月15日の京都市神社めぐり11社目

                   ご利益
大国主命さまは えんむすびのご利益がある神様として有名です、因幡の白兎を
助けられた心のやさしい神さまでみんなに幸福を与えてくださいます。
           世界文化遺産 京都 地主神社


2017,01,15  01:02 PM

            京都最古の縁結びの神様
恋の神様縁結びの神様として知られる地主神社は恋の成就や良縁
達成を祈願する全国各地からの参拝者で年中にぎわっている。
その歴史は古く、創建年代は遠く神代(日本の建国以前)にさかのぼ
り、本殿前の「恋占いの石」は縄文時代から伝わるとされる。
現代の社殿は、寛永十年(1633年)三代将軍徳川家光によって再建
された。奈良時代の双堂という最古の建築様式を残す本殿は、拝殿、
総門、境内地と共に国の重要文化財に指定され、世界文化遺産にも
登録されている。


1月29日:20320歩
記事検索
プロフィール

ahisats3

カテゴリ別アーカイブ
QRコード
QRコード
  • ライブドアブログ