ahisats3のブログ

ウオーキング中に見つけた神社、史跡、珍しいもの等を紹介します。

京都市(中京区)

女紅場跡(京都市中京区)

1月14日の山科区の神社・史跡めぐりウォーキングで、大石神社を参拝し
て予定していた場所の探索は終り、京阪六地蔵駅から帰路に向かい
ました、時計を見るとまだ午後1時40分、京阪三条駅付近に戻り、下
調べをしていないが、何か史跡をさがすことにしました。
見つけたのが、日本初の高等女学校の跡でした。

明治期の女子教育機関である女紅場は,明治5(1872)年,九条家河
原町別邸内に設けられた。英学と女工(手芸・手工)の二科を置き,英
国人イーバンス夫妻を教師に招き,新英学校女紅場と呼ばれた。同7
年に英女学校女紅場,のち京都府立京都第一高等女学校となる。現
府立鴨沂高校の前身である。 この石標はその跡を示すものである。
なお,女紅場と名付けられた女子教育機関が明治初期にはたくさんつ
くられたが,この石標の示す女紅場は,女子に高等教育を施す学校で
ある。                          京都市ホームページより

女紅場(にょこうば)跡:京都市中京区駒之町丸太町橋西詰       2019,01,14  02:28 PM




石碑の文字
       本邦高等女    女紅場址
        学校之濫觴
 


濫觴(らんしょう):物の始まり。


鴨川



3月5日:20743歩

下御霊神社(京都市中京区)

1月12日の京阪出町柳駅付近の史跡めぐりウォーキングで,最後に見つけた
のが下御霊神社です。
神社からは出町柳駅よりも神宮丸太町駅の方が近いので、そこから電車
に乗って還りました。
この神社は奈良・平安期に政争に巻き込まれ、冤罪によって非業の死を
遂げた貴人の怨霊を御霊としてお祀りしている神社です。

下御霊(しもごりょう)神社:京都市中京区寺町通丸太町下る下御霊町

2019,01,12  04:35 PM



                下 御 霊 神 社
平安初期の貞観5年(1863)に神泉苑で行われた御霊会で祀られた崇道
天皇(早良親王)、伊予親王、宇治藁広嗣、橘逸勢、文屋宮田麻呂の六座
に、吉備聖霊と火雷天神を加えた八座、即ち八所御霊を出雲路(上京区)
の地に奉祀したのが始まりである。
いずれも無実の罪などにより非業の死を遂げた人物で、疫病流行や天変
地異はこの怨霊によるものと考えられ、それを鎮めるために御霊が祀られ
た。
当所、御霊神社(上御霊神社)の南にあったことから下御霊神社と呼ばれ
るようになったと呼ばれるようになったといわれ、以後、社地を転々とし、当
地に移転した。
天正18年(1590)に豊臣秀吉の命により当地に移転した。
古来より、京御所の産土神として崇敬され、享保年間(1716~1736)に霊
元天皇が当社に行幸し、震筆の祈願文を納めている。
本殿は、寛政3年(1791)に仮皇居の内侍所を移建したもので、表門は、旧
建礼門を移したものといわれている。
境内の垂加社には、江戸時代の神道家、山崎闇斉を祀っている。
                                     京 都 市




2月10日:23151歩

日本映画発祥の地の一つ(京都市中京区)

高瀬川沿いで「高瀬川七之舟入址」を見つけた後、次に「日本映画発祥の
地」の駒札を旧立誠小学校の前で見つけました。
(立誠小学校は平成5年に閉校、現在は自治会の行事やイベントを行う場所
となっている。)

説明版(駒札)によると、この場所が(京都電燈株式会社の中庭、現在の立
誠小学校跡地)1895年に日本で初めて映画の試写実験に成功した場所で
あるということでした。
私は映画を作った場所と思っていましたが、試写に成功した場所でした。

なお、神戸、大阪にも「日本映画発祥の地」とされる場所があるようです。

大阪が日本映画発祥の地といわれる理由は、難波で映画を初めて有料で
興行した地
ということです。
次に神戸が日本映画発祥の地といわれる理由は1896年にエジソンが発明
したキネトスコープという覗きメガネのような映写機械が神戸に輸入され、日
本で初めて一般公開されました。そのため神戸が日本映画発祥の地だとす
る説で、大阪も神戸も「日本映画発祥の地」であることは間違いありません。

 

日本映画発祥の地

                                          日本映画発祥の地
当地は明治30年(1895)、実業家であり、後に大阪商工会議所会頭も務めた
稲畑(いなばた)勝(かつ)太郎(たろう)(1862~1949)が日本で初めて映画(シ
ネマトグラフ)の試写実験に成功した場所である。
 明治29年(1896)、万国博覧会の視察と商用でパリを訪れた稲畑は、フラン
ス留学時の級友リュミエール兄弟の発明したシネマトグラフ(映写機兼カメラ)と
、その興行権,フィルムを購入し、リュミエール社の映写技師兼カメラマンのコン
スタン・ジレルを伴って帰国した。そして翌明治30年1月下旬から2月上旬にか
けての雪の降る夜、京都電燈株式会社の中庭(現在の立誠小学校跡地)で国
内初の映画の試写実験に成功した。
 映画の上陸は、単にヨーロッパの文化や最新技術を日本に伝えただけでなく、
人・もの・事物を記録し伝える映像メディアの始まりであり、新しい娯楽・芸術産
業の始まりでもあった。この地を起点にした日本映画は20世紀を代表する国民
娯楽に成長していった。                         京 都 市







1月20日:24565歩

高瀬川七之舟入址(中京区)

岬神社を参拝後、高瀬川沿いにある「日本映画発祥の地」を探して
歩いていると「高瀬川七之舟入址」の駒札を見つけました。
高瀬川は江戸時代に物資を運ぶために造られた人工の川で、物資
を積み下ろし、したり船の向きを変えるための場所を「舟入」と言いま
した。

高瀬川七之舟入址:京都市中京区木屋町通蛸薬師橋下る西側







           高瀬川七之舟入址
この立札の北側に七之舟入があったといわれている。
船入とは、荷物の積み下ろしや船の方向転換を行う場所で、七之舟入
は、、二条から四条の間に九箇所作られたうちの一つである、
現存するのは一之舟入りのみであり、他の舟入りは、七之舟入りを含
めてすべて埋め立てられている。
古文書によれば、寛永~元禄年間のうち凡そ50年の間に使用の記録
があり、寛永年間には間口七間、奥行き32間の広さがあった。
高瀬川は角倉了以が開削した物流用の運河で、慶長16年(1611)に一
之舟入付近を起点として着工され、同19年(1614)に伏見まで開通した、
水深が浅いことから、「高瀬舟」と呼ばれる船底の平らな船が使われ、こ
こから川の名前が付けられた。
盛時には百数十艘が上下して伏見を通じて大阪などの物資を運び入れ
京都の経済に重要な役割を果たした、木屋町筋には「木屋町」という町
名の由来となった材木屋をはじめ、多くの問屋が建ち並んで賑わった
明治以降、高瀬川は次第に舟運の目的を失い、大正9年に舟運は廃止
されたが、清らかな水と桜や柳が美しい情緒溢れる景観が、多くの市民
や観光客を楽しませている。            京都市

岬神社(土佐稲荷神社)京都市

1月15日の京都市神社めぐりウォーキングで最初に参拝したのが岬神社です
江戸時代、土佐藩邸内にあったので土佐稲荷神社とも呼ばれました。

岬神社:京都府京都市中京区備前島町317−2





2017,01,15  08:15 AM

                      岬神社(土佐稲荷)
祭神は「蔵稲魂命」と「石栄神」の二柱(柱は神様を数える単位)農耕
・商売・土木・金工などの諸業の繁栄、火難除けなどの災厄除けにも
御利益がある。
社伝では、室町時代初期、鴨川の中州の岬(突端)に祠を建てたのが
由来とされている、その後、祠は鴨川の西岸など数度遍され江戸時代
初期、この付近に建てられた土佐藩の京屋敷内に遷されることとなった
、一般に「お稲荷さん」の愛称で親しまれる「倉稲稲荷」を祀るため、「
土佐稲荷」と呼ばれるようになる。
遺構、土佐藩士のみならず、先斗町・木屋町など周辺の町衆からも「産
土神(地域土着の神)」として熱心な信仰を集め、わざわざ土佐藩内に
一般人が自由にお参りするために通路を確保したほどである。
藩士たちの信仰も厚く、坂本龍馬や中岡慎太郎らも詣でていたと考え
られる。
その後、明治維新により土佐藩邸が売却されるとともに、神社も移転を
余儀なくされ、その後幾多の変遷を経て現在地に鎮座、大正2年(1913)
には近隣の氏子たちによって現在の社殿が建立された。
氏子地域は北が三条道、南は四条道、東は先斗町、西は新京極、例祭
は6月10日、近年、氏子たちの力が結集された崇敬会が発足し、明治10
年(1877)から伝わる神輿も修復され、例祭に還幸する。   京都市


1月19日:26768歩

豊臣秀次の墓所(瑞泉寺)

池田屋跡の近くで瑞泉寺という寺院があり、入り口に豊臣秀次の墓所と
書いてあったので、中に入りお参りをしました。
昨年の大河ドラマ「真田丸」は興味があり、久しぶりに昨年、一年間全部
見ました。 秀次は、秀吉に子供ができてから、邪魔になり自殺に追い込
まれた人物で、可哀想な最期を遂げました。

豊臣秀次の墓所:瑞泉寺(ずいせんじ)
    京都市中京区木屋町通り三条下ル石屋町114番地
                        京阪三条駅から徒歩約4分。

2017,01,15  08:02 AM


豊臣秀次の墓




真田丸で秀次役を見事に演じた新納慎也



                   太閤記の寺 瑞泉寺
慈舟山と号し、浄土宗西山禅林寺派に属する。
豊臣秀吉の甥、豊臣秀次一族の菩提を弔うために建立された寺である
秀次は、秀吉の養子となり、関白の位を願い出たが、秀次に嫡男秀頼 
が生まれてからは、次第に疎んぜられ、文禄4年(1595)7月、高野山に
おいて自害させられた、次いで、8月、秀次の幼児や妻妾たち39人が三
条大橋西畔の河原で死刑に処せられた。 遺骸は、その場に埋葬され、
塚が築かれ石塔が建てられていたが、その後の鴨川の氾濫などにより
次第に荒廃した、慶長16年(1611)、角倉了以が高瀬舟の開削中にこの
墓石を発掘して、墓城を再建するとともに、この地に堂宇を建立した。
これが当寺の起こりで、僧桂叔を開基とし、寺号は、秀次の法号、瑞泉寺
殿をとって瑞泉寺と名付けられた。 本堂には本尊阿弥陀如来像が安置
され、寺堂として秀次及び妻妾らの辞世の和歌を蔵している。
また、境内には秀次の墓および、幼児・妻妾や病死した家族らを弔う49
柱の五輪塔がある。               京都市

法号(ほうごう):戒名のこと。秀次の戒名は「瑞泉寺殿高巌一峰道意」 


池田屋騒動跡(中京区)

1月15日、雪の京都市内を史跡を探しながら神社巡りウォーキンクを゙しました。
結果は13社を参拝することができました。
雪を踏みしめながら歩き最初に見つけたのが「池田屋騒動址」です。

長州藩の定宿だった旅籠・池田屋は、事件後も100年近く旅館として営業を
続けていましたが、1960年ころに取り壊され、現在は同名を掲げた居酒屋
の店舗が建っています。

雪の鴨川、まるで白黒写真です。


池田屋騒動跡:京都市中京区三条通木屋町通西入ル北側中島町

2017,01,15  07:38 AM







                  池田屋騒動址
元治元年(1864)旧暦6月5日「祇園祭宵々山」、四条小橋の古高俊太郎を
捕え厳しく取り調べた結果、倒幕派がクーデターを起こす計画を知った新撰組
は三条小橋西詰北側の旅篭「池田屋」で審議中の長州、土佐、肥後各藩の
尊王攘夷派志士約20名を、近藤勇 率いる新撰組10名で襲撃し、多くの死傷
者を出しました。この事件で倒幕が一年遅れるたといわれるほど、尊攘派
大きな痛手を被りました、一方、新撰組はこの事件の手柄を機に一躍名を
あげました。
文久3年2月(1863)早朝、浪士組(後に新撰組)は東海道53次の終点である
ここ三条大橋、小橋を渡り壬生屯所に向かっていました、まさか、その1年3
ケ月後にそこで死闘が繰り広げられるなど、誰も予想していなかったことでし
ょう。                    三条小橋商店街振興組合


尊攘派(そんじょうは):尊王攘夷派の略
天皇を尊び外夷をしりぞけることをスローガンに掲げ,幕府政治を批判の対象
とした,江戸末期の政治運動。下級武士や少壮公卿らが主たる担い手であった。



1月18日:21353歩

近江屋跡(坂本竜馬・中岡慎太郎遭難の地)

四条大橋南詰で「出雲の阿国像」を見た後、四条大橋を渡り、「近江屋跡」
を見つけました、近江屋は醤油商で慶応3年(1867)、坂本竜馬と中岡慎太
郎等が暗殺された場所です。
犯人(実行犯)は新撰組、京都見回組等、諸説ありますが、今も本当のこと
はわからないそうです。
諸説の確認はこちら:近江屋事件 - Wikipedia

近江屋跡:中京区河原町通蛸薬師下ル塩屋町  阪急四条河原町駅近く

坂本龍馬の墓(京都霊山護国神社)

2016,12,24  01:28 PM



     坂本竜馬・中岡慎太郎遭難之地(近江屋跡)
この地は、慶応3年(1867)11月15日、維新の功労者である土佐藩
海援隊長の坂本竜馬(1835~1867)が盟友である陵援隊長の中岡
慎太郎(1838~1867)とともに刺客に暗殺された近江屋(醤油商)が
あったところである。
竜馬は本部があった酢屋に下宿していたが、前年の寺田屋事件に
より幕府から狙われていたため、土佐藩の出入商人であった近江屋
に移っていたのである、
11月15日の夕刻、中岡が近江屋を訪ね、大政奉還後の政局につい
て論じていたが、夜になり、十津川郷士と称する男たちによる襲撃を
受けた。
竜馬はその場で絶命し、中岡も二日後この世を去った、竜馬33歳、
中岡30歳、実に大政奉還(10月14日)が行われた一か月後、王政復
古の大号令(12月9日)が出る一か月前の出来事であった。
竜馬と中岡は、ともに遭難した山田藤吉と現在の京都護国神社に埋
葬されている。                 京 都 市


1月13日:21664歩

「京の名水」錦天満宮

錦天満宮の境内には都会の中では珍しく、検査の結果、無味、無臭、
無菌の地下水が湧き出ています。
当日、私は気が付かず写していませんが、鳥居が商店街の中にあり
鳥居の横が他のビルに突き刺さっていて話題になっているそうです。
(今度京都に行ったとき写して画像を追加します)

錦天満宮:京都市中京区新京極通り四条上る中之町537番地



錦天満宮(錦の天神さん)

当天満宮は平安時代前期の十世紀初頭、学問の神となられた菅原道真公(菅公)
の生家『菅原院』に創建されました。

菅公薨去の後、菅原院は『歓喜寺』と寺名に改称、その後、嵯峨天皇の皇子源融
公の旧邸六条河原院に移山、塩竈宮を鎮守に天満大自在天神をお祀りしました。

三百年後、この地は、後に、時宗道場、歓喜光寺と称される京都八幡の善導寺に
寄進され、同時に、歓喜寺(菅原院)は『天満宮』に改められ崇敬、奉祀されました。

当錦天満宮は歓喜寺に由来しており、又、菅公聖跡二十五拝の第二とされるのは
この伝承によるものです。

そして、「歓喜光寺」の創建から274年後、桃山時代天正年間に行われた豊臣秀吉
の都市計画によって、時宗四条道場としても有名な「金蓮寺」の敷地に移転。以後
400年余、「錦天満宮」として同地に鎮座しております。このような歴史の中、享保十
四年(1729年)には前関白輔実公の申請で唐破風獅子口を許され、明治五年
(1872年)には神仏分離令によって社が独立。「歓喜光寺」は東山五条へ(後に山
科へ)と移り、残された神社は、同年、新京極通開通の際に社地を縮小し、現在に
至っております。




2016,07,18   9:50 撮影


錦天満宮の鳥居は商店街の中にあります。

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