ahisats3のブログ

ウオーキング中に見つけた神社、史跡、珍しいもの等を紹介します。

寺院、寺院跡

慈眼堂(岡山後楽園内)

4月7日の日帰りバスツアーで岡山城見学後の自由時間に、市内ウォーキング
後、岡山後楽園に再入場して、集合場所に戻る途中に「由香神社」のす
ぐそばに慈眼堂がありました。

慈眼堂(岡山後楽園内)                             2019,04,07  01:58 PM





         慈眼堂(じげんどう)
池田綱政が元禄10年に池田と領民の繁栄を願って建立
し観音像を祀っていました。
境内には、花崗岩を36個に割って運び、もとの姿に組み
上げた烏帽子岩、仁王門、板張りの腰掛などが伝わっ
います。

岡山後楽園の美しい庭園

興福寺(奈良市登大路町)

3月9日の奈良市内 神社・史跡めぐりウォーキングで春日大社の次に興福寺
を参拝しました。
興福寺の歴史は、大化の改新で有名な藤原(中臣)鎌足が釈迦三尊像を
造立し、それを鎌足の妻の鏡大王が山階寺に安置したのが始まり。710
年に藤原不比等によって興福寺と名付けられ、2010年には創建1300年
を迎えました。歴史的遺産が数多く残り、100点以上の国宝・重要文化財
が保存されています。

興福寺:奈良市登大路町48番地                             2019,03,09  00:10 PM









          西国三十三所第九番札所
          興福寺南円堂(重要文化財)
  弘仁四年(813)に藤原冬嗣が父内麻呂の冥福を
  願って創建 現在の建物は寛保元年(1741)に立柱
  本尊は不空羅策観音菩薩像(鎌倉時代・国宝)


3月20日:17096歩

山科本願寺南殿跡附山科本願寺土塁跡

京阪三条駅から歩き始めた山科区の神社・史跡めぐりウォーキングで若宮八幡宮
のつぎに金網に囲まれた柵のなかに「山科本願寺南殿跡附山科本願寺土
跡」の石柱と説明板を見つけました。

山科本願寺南殿跡附山科本願寺土塁跡 :京都市 山科区音羽伊勢宿町

2019,01,13  10:51 AM



           山科本願寺南殿跡附山科本願寺土塁跡
浄土真宗中興の祖である蓮如上人は、本願寺再興の地を山科盆地に求め
、文明10年(1478)から7年近くの歳月を費やして建設されたのが山科本願
寺である。
山科本願寺は、御影堂や阿弥陀堂など、豪壮な堂舎や屋敷が建ち並び二
重・三重に巡らされた土塁や濠により囲まれていた。
その寺域は東西800メートル、南北1000メートル程度の規模があったものといわ
れ、そこでは寺内町と呼ばれる林立した空間を築き上げていた。
山科本願寺は、仏法の支配する独自の世界を演出しようとしたものであった
が、天文元年(1532)に六角氏と法華門徒の連合軍の攻撃を受け、その造
営から50年余りで焼失し、大坂の石山本願寺に移った。
現在では山科中央公園や民家所有地のなかに土塁や濠などがいくつか残
っているにすぎないが、これまでの発掘調査では、石垣遺構・鍛冶場跡・石
室跡などの遺構が検出されている。
延徳元年(1489)、75歳になった蓮如は法燈を実如に譲り、ここ音羽の地に
隠居所を設け、自らの住居とした、これが山科本願寺南殿である。
この南殿も、城郭的な施設を備え、200メートル平方程度の規模があったもの
と推定されている。邸内には園地が築かれ、築山を構え、持仏堂・山本亭・
台所等が設けられていた。
「山科本願寺南殿跡」及びその西方に所在する「山科本願寺跡」は強固な防
衛施設を備える中世城郭宗教都市としてわが国の歴史を知る上で重要な遺
跡であることから、平成14年12月19日にその一部が国の史跡に指定された。
                                        京 都 市

法燈(ほうとう)
    釈迦の教えを闇を照らす灯火にたとえていう語にたとえて、 高徳の僧。
    一宗を代表するような高僧。





2月20日:28797歩

相国寺(金閣寺、銀閣寺の本山)

京阪出町柳駅付近の史跡めぐりウォーキングで同志社女子大学の東門の
そばで「二条家邸跡」の石碑を見つけた後、相国寺という大きい寺院が
あったので参拝して、後で由緒を調べたら、京都の観光名所として名高
い金閣寺や銀閣寺は、この相国寺の塔頭寺院でした。

境内には日本と中国の同じ名称「相国寺」の友好記念碑がありました。

塔頭(たっちゅう):仏教用語
          寺院のなかにある個別の坊をいう。寺院を護持している
          僧侶や家族が住む。



相国寺(しょうこくじ):京都市上京区今出川通烏丸東入相国寺門前町701

2019,01,12  02:11 PM










    中国開封天 相国寺 友好記念碑 日本京都府 相国寺



        日中両相国寺友好記念の碑と天饗楼
日本の相国寺は、明徳3年(1392)に開山夢窓国師、開基足利義満公
により創建され、正式名称を萬年山相国寺という、寺号由来の一つに
義満公が禅の師匠である春屋妙菠禅師(相国寺第二世)に、新しい寺
の名称を相談したところ「現在あなたは左大臣の位にあり中国ではこれ
を相国といいます、相国寺と如何か」また「中国の開封に大相国寺(唐・
延和元年712)という寺があり、まさに格好の名前ではないか」と進言し
たことによる。
時は流れ平成4年(1992)11月大相国寺の本尊開眼、真禅住職普山式
に参列するため、当時の梶谷宗忍相国寺派官長を団長に訪中、併せて
日中両国相国寺友好寺院の締結調印が行われた。このことは日中の佛
教寺院交流史上初のことである。
平成6年(1994)に友好を謳った記念の石碑が日中両国相国寺境内に建
立された、石碑はインド産黒御影石で当時の梶谷官長及び趙撲初中国仏
教協会会長の書で碑文が刻まれた。
平成23年(2011)8月中国大相国寺(釈心廣住職)より、梵鐘が日本相国
寺(有馬頼底住職)へ寄進された、鐘楼は天饗楼と名付けられ日中相国寺
の未来永劫にわたる友好の証しとして現在に至っている。


2月6日:25232歩

弁財天(出町妙音堂)

京阪出町柳駅から歩き始め「鯖街道口」の石碑の次に見つけたのが「弁財天」
です、鳥居が見えたので神社と思っていましたが、寺院でした。
正式名称を「青龍妙音弁財天」といいます。


弁財天(出町妙音堂):京都市上京区青竜266-3                2019,01,12  01:45 PM





            辨財天(出町妙音堂)

本殿の本尊は青龍妙音弁財天画像で、西園寺公衡(1264~1315)
の長女西園寺寧子(大光明院殿・広儀門院)が、第93代後伏見天皇
の女后に輿入れされた折に、西園寺家第二伝の念持仏として持参さ
れて以来、伏見離宮に祀られ、光厳、光明、崇光天皇と伝承されて来
た霊像である。

その後享保年間、伏見宮家第14代貞建(さだたけ)親王に至って伏見
邸が河原町今出川下がる出町北鴨口に移転され、同時に本尊も奉遷
されたのであるが、更に明治初年東京へ遷座の後、京洛の旧信徒再三
の請願に依って、再び現在の地に堂宇を建て奉安せられた。

世に伏見御所の弁財天と称され、京都七福神の一つとして特に技芸上
達、福徳円満の勝益をもたらすものである。

弁財天
インド神話で、河川の女神。音楽・弁舌・財福・智慧の徳があり、吉祥天
とともに信仰された。仏教・ヒンズー教に取り入れられ、ふつう琵琶 (びわ
) を弾く天女の姿で表される。また、日本では財福の神として弁財天と書
かれるようになり、七福神の一として信仰される。弁天。べざいてん。

弁財天(出町妙音堂)近くの出町桝形商店街



2月4日;21234歩

興徳寺(天王寺区餌差町)

心願寺で真田幸村の墓を見た後、すぐ隣の寺院「興徳寺」に大きい
像があったので興味をもって見ていると、入り口に「自由にお参り下
さい」と書いてあったので、中に入ってお参りさせていただきましたの
で、紹介します。

聖徳太子存世中に今の法円坂付近に「薬師院」として創建され、天平
年間(729~749)に行基菩薩によって再建された畿内49ケ院のひとつ
と言われていますが、第二次世界大戦の大阪大空襲にて現在の山門
以外の諸堂を焼失したため詳細は不明です。元禄年間(1688~1704
)に作製された「大坂三郷町絵図」(大坂城天守閣蔵)では現在地にお寺
が存在していた事が確認できます。現在の本堂は昭和27年に再建。た
くさんの方々のご協力により、今に至っています。 興徳寺ホームページ

寺の外からでも見える大きい像


興徳寺山門         大阪市天王寺区餌差町2−17      2018,12,04  01:28 PM


「自由にお参り下さい」の木札




境内


准胝観音(じゅんでいかんのん)



               准胝観音
無数の仏を産んだことから、仏母とも言われています。我が国では
とくに子授けと安産の観音様としてお祀りされています。興徳寺の
准提観音は、高さ33尺、約10mの大きさがあります。お目は三つ、
お手は18本あり、 それぞれの手に持たれた仏具等でみなさまに功
徳をもたらします。 また観音様の周囲には西国三十三か所霊場の
お砂を埋めています。歩かれると西国観音霊場をまわったことにな
ります。                         興徳寺ホームページ


12月27日:21471歩

慈尊院(九度山町)

11月10日、九度山町へ行った時、下調べで丹生神社が近くにあることが
分かっていたので参拝に行きました、丹生神社は慈尊院というお寺の上
にありました。
慈尊院の方を先に紹介します。
慈尊院の由来は、高野山(金剛峰寺)の麓に政所(寺務所)として創建され
ました、弘法大師(空海)の母が四国から会いに来ましたが、女人禁制のた
め政所に滞在していました、空海の母は承和2年(835)に亡くなりました、そ
のとき空海は弥勒菩薩の霊夢を見たので、廟堂を建立し自作の弥勒菩薩
像と母の霊を祀りました。弥勒菩薩の別名を「慈尊」と呼ぶことから、この政
所が慈尊院と呼ばれるようになったのです。

空海はひと月に9度(正確に9度というわけではなく、それだけ頻繁にというこ
との例えだと言われている)は必ず20数kmに及ぶ山道(高野山町石道)を下
って政所の母を訪ねてきたので、この辺りに「九度山」という地名が付けられ
たのです。


慈尊院:和歌山県伊都郡九度山町慈尊院832

2018,11,10  03:45 PM









11月30日:21984歩

通法寺跡(羽曳野市)

源頼義の墓のある通法寺跡は山門は残っていますが、本堂等は
残っていません。

長久4年(1043年)、源頼義によって建てられた寺。頼義が猟の途
中、山中で拾った仏像を本尊として安置したのがはじまりという。
その後、河内源氏の菩提寺となったが、南北朝時代に兵火にかか
り焼失。元禄13年(1700年)、徳川幕府により再建されたが、明治
初期に廃寺になった。境内には頼義の墓や礎石、鐘楼、山門など
が残る。     (羽曳野市ホームページより)

通法寺跡:大阪府羽曳野市通法寺御廟谷38                        2018,11,03  10:23 AM









歴史街道   河内源氏のふるさと      壺井・通法寺
清和源氏の家系である源満仲の三男として生まれた頼信は平安時代
後期(11世紀)に河内国司として就任し、兄頼光にみならい、この地に
居館を構えて本拠地にしました。
河内源氏は頼信、頼義、義家と三代にわたり、この地から各地へ出陣
して大功をたて武将としての地位を不動のものにしました。
また、義家の後は地元に残った石川源氏や鎌倉幕府初代将軍頼朝に
つながる系譜がたどれます。
この周辺は源氏三代の墓をはじめ氏神である壺井八幡宮や菩提寺で
あった通法寺やなど河内源氏のふるさとにふさわしい多くの歴史遺産
が点在しています。                      羽曳野市



11月9日:21097歩

大阪四不動「させん堂不動寺」

9月25日の鶴見区と城東区の史跡めぐりウォーキンクで見つけた「左専道小学
校発祥の地」の石碑の場所にあった「させん堂不動寺」を紹介します。

させん堂 不動寺:大阪市城東区諏訪2丁目13−5

2018,09,25  02:56 PM



                   させん堂不動寺
不動明王を本尊とする真言宗の寺院です。
豊臣秀吉が大坂城を築城を築城した時、現在の生魂玉神社のあたりにあった
不動堂は取り壊され、慶長7年(1802)に東成郡木野村において再建されたと
伝えられます、その後水害に見舞われ、宝暦9年(1759)に現在の場所に移さ
れました、江戸時代の書物「摂津名所図会大成」に左専道不動」としてその名
が見え、日々の参拝が絶えなかったといわれ、広く信者を集め、とりわけ正月
二十八日の「初不動」には多くの人々が参詣し、たいへんな列が絶えないほど
の賑わいを見せていたそうです。
現在は大阪四不動尊詣の「東方不動尊」として、東方を担っています。
天明2年(1782)の銘が刻まれた梵鐘は、美術史上保存の必要性があるとして
、戦時中も供出を逃れました。
                           平成29年3月 城東区役所


                                   大阪4不動
  東 させん堂 不動寺    大阪市城東区諏訪2-13-5
  西 築港高野山 釈迦院  大阪市港区築港1-13-3 
  南 夕陽丘 大平寺     大阪市天王寺区夕陽丘町1-1 
  北 福島了徳院       大阪市福島区鷺洲2-14-1


10月10日:24326歩

大池寺(甲賀市水口町名坂)

甲賀市水口町の神社めぐりをしようと思ったきっかけはラジオ放送(KBS京都)
の番組「土曜は旅気分」で水口町の大池寺の庭園が良いと紹介があったから
です。
最初に着いた甲賀市役所で観光案内書を入手しで水口神社参拝後、大池寺
へ行きました。大池寺の読み方は「おおいけでら」と思ったいましたが、市役所
で「だいちじ」と読むことを教えて頂きました。

大池寺(だいちじ):滋賀県甲賀市水口町名坂1168



最初に通された部屋で約5分のビデオを見ます。

実際の庭園(部屋からの眺め、庭園に降りることはできません)





                 大  池  寺
大池寺は、天平年間(729~749)行基によって開かれたといわれています。
天正5年(1577)信長の兵火にあって焼失しました。
漢文7年(1667)2月陸前(宮城県)松島瑞鳳寺の丈厳和尚が再建したもの
で仏殿と万丈(書院)と茶室(松湧庵)はその時に建立されたものです。
同年十月後水尾天皇より白銀一百両を賜わり、また当時の水口城代小堀
遠州も多くの寄進をしました。大池寺庭園は寛永十年(1633)が水口城作事
奉行を命じられたとき、築城を祝って造ったものと伝えられています。


              小堀遠州(1579~1647)
江戸時代初期の大名で、茶道、建築、造園の巨匠として名を残し
ました、天正7年、近江国坂田軍小堀村(滋賀県長浜市)に生まれ
生保4年2月6日豊後橋(京都市観月橋に伏見奉行として亡くなり
ました。慶長13年に駿府城作事奉行の大役を果たして、従五位下
近江守を命ぜられ以後この地名にちなんで遠州と呼ばれるように
なりました。代表作に、内裏造営後水尾上皇と東福院の仙洞、女院
御殿などの宮中造営のほか、江戸城内や品川東海寺(徳川家の菩
提寺兼別荘)、伊庭御茶室(滋賀県能登川町)、大阪城内御茶室な
どがあります、京都の寺では、南禅寺金地院東照宮や、富貴の間、
茶室および庭園、同寺本坊の万丈庭園などがあります。
また、桂離宮の設計者ともいわれています。


7月16日:25866歩
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