ahisats3のブログ

ウオーキング中に見つけた神社、史跡、珍しいもの等を紹介します。

松原市(大阪府)

高見神社(松原市)

7月8日の松原市神社めぐりで、最後の7社目に参拝したのは高見神社です。
この神社には地名「高見ノ里」の由来が出てくる民話が伝わっています。
第8話 高見神社の神様は女性 - 松原市

高見神社: 大阪府松原市高見の里3丁目-8-29 











河合神社(松原市)

7月8日の松原市神社めぐりで7社目に参拝したのは河合神社です。

河合(かわい)神社:大阪府松原市河合3丁目2

2017,07,08  02:49 PM



                   河合神社
河合神社は河合の産土神として素戔嗚命、経津主命、天児屋根命、
比咩大神、事代主大神を祀っている。当社は明治41年(1908)4月23日
に堺市の金岡神社に合祀され、金岡神社を拝む遥拝所の石碑が建立
されたが、戦後まもなくご祭神は元の宮に遷宮された、
現在の社殿は東面し境内も狭小であるが、昔の社殿は南面し神域も
広かったと言われている、
境内には近年補修の手が加えられているが享保20年(1735)の灯籠
一対、元文5庚申年(1740)16日牛頭天王宮と刻された手洗石、天保
9年(1838)の狛犬一対はあり、本殿の覆いを兼ねた拝殿は昭和46年
(1971)10月新規に建てられた。

上記の説明文にある遥拝所


7月23日:41710歩

河内 丹南藩主陣屋跡(松原市)

丹南天満宮のそばの来仰寺の前で「丹南藩主高木主水正陣屋跡」の石碑
と説明板を見つけました。
丹南陣屋は来迎寺の東隣に築かれていました、 来迎寺は高木氏の菩提寺
で墓も残されているが、陣屋があった場所は商業施設や宅地などとなり現在
遺構はありません。


丹南陣屋の歴史

元和9年(1623年)高木正次によって築かれたと云われる。 高木氏は三河国
碧海郡高木村を本貫とする清和源氏の後裔で、水野氏などに仕えた後、徳
川家康に仕えた一族である。

初代高木正次は関ヶ原合戦の後七千石を所領とし、大坂の陣で二千石を加
増、元和9年(1623年)には大坂定番に任ぜられて一千石を加増され、都合一
万石となって諸候に列した。高木正次を祖とする丹南藩は一万石のまま十三
代続き、高木正善のとき明治に至る。


大坂定番(おおさかじょうばん):江戸幕府の職名。大坂城に在勤し、大坂城
                                  代を補
佐して京橋口・玉造口の警備を担当。

丹南陣屋跡:大阪府松原市丹南3丁目 来仰寺の前

2017,07,08  02:15 PM

              来仰寺と高木氏・丹南藩陣屋
丹南の来迎寺はもともと、奈良時代に行基が建て、毘沙門院と号した、のち
、平安時代末期の天承元年(1131)に融通念仏宗の開祖である良忍が、阿
弥陀如来を安置する堂を建て、融通念仏t十ケ郷辻本大勧進毘沙門山阿弥
陀寺と称したという。
融通念仏は一時的に衰退したが、鎌倉時代末期に大念仏寺(大阪市平野区
)7世となった法明は、宗勢の復興に努めた、法明は、良忍の聖跡と伝える阿
弥陀寺が荒れていたので、菅生神社(河内国丹南郡、現堺市美原区菅生)よ
り感得した阿弥陀如来画像を勧請して、同寺を中興した、正中元年(1324)に
は、寺号を阿弥陀寺から河内十箇郷六別諸仏山護念院来仰寺と改めた。
来仰寺は、江戸時代に入って
法明由諸寺院として融通念仏宗の中本山となり、河内国丹北・丹南・八上郡
、摂津国東成・西成・百済・住吉郡にある39か寺を末寺とした。
法明の大衣が今に伝えられると共に、境内墓地には法明の供養塔が見られ
る。
本堂裏の庭園には、樹齢600年といわれるイブキの木があり、大阪府天然記念
物となっている。
一方、江戸幕府を開いた徳川家康は、元和9年(1623)、三河(愛知県)以来
の直参であった高木正次に丹南の地を与え、高木氏は1万石の大名として丹
南藩主となった、丹南藩は、来迎寺の東側に陣屋を置き明治初年の廃藩置
県まで続いた。
丹南藩は、江戸時代を通じてほぼ河内国丹南郡・丹北軍・志紀郡の20数か村
を領地とした、高木氏は来迎寺を菩提寺としたことから、本堂には藩主代々の
位牌が並び、初代正次や11代正明の五輪塔も来迎寺墓地に祀られている。



来仰寺



7月22日:17118歩

祝日本遺産認定「竹内街道」(松原市)

松原市内を神社めぐりウォーキングをしているとき松原市岡4丁目付近で「竹内
街道」の説明板を見つけました。
この街道は平成29年4月5日に『1400年に渡る悠久の歴史を伝える日本最
古の国道「竹内街道・横大路(大道)」』が、大阪府内で初めて日本遺産に認
定されました。

竹内街道:松原市岡5丁目付近

2017,07,08  01:19 PM



             竹内街道(たけのうちかいどう)
竹内街道は、堺市から東進し二上山の竹内を越えて奈良県橿原市に至る古
代以来の街道である。 推古天皇紀21年の条に難波から大和の小墾田宮
官道が開かれたとあり、近年大和川今池遺跡で難波大道遺構の、約 8 m の
道路幅が確認された。
この道によって古代の大陸文化が導入された。中世末期に堺が自由都市とし
て栄えたため交易や鉄砲などの製造で人々が行き交い、近世以降は伊勢詣
りでにぎわった。                    松原市


小墾田宮(おはりたのみや):奈良県高市郡明日香村(あすかむら)にあったと
                  される推古天皇と皇極天皇の皇居。



日本最古の官道「竹内街道」


7月21日:43231歩

出岡弁財天(松原市岡)

7月8日の松原市神社めぐりで6社目に参拝したのは出岡弁財天です。
古墳時代・4世紀末期の応神天皇の時に百済(現朝鮮半島南部)から来て日本
に漢字を伝えた渡来人・王仁博士が、現在の出岡弁財天付近に孔子を祀る聖
堂を立てて学問を広めたという伝承があります。
22 王仁の聖堂址伝説 - 松原市

出岡弁財天:大阪府松原市岡1丁目350



2017,07,07  00:51 PM





                  王仁(わに)の聖堂址
王仁の聖堂址は、この清堂池の出島付近であると古くから伝えられている。
現在、島には弁財天が祀られている、この祠が慶長年間に焼失したが江戸
時代に再建され、その後明治3年(1870年)、昭和43年(1988年)に建てな
おされ現在に至っている。
応神天皇の頃(4世紀後半)、百済の王仁博士が、論語20巻と千字文一巻
を献上し、この地に聖堂を建てて多くの人々に学問を広めたといわれている。
この地は竹内街道に近く、付近には宮地、宮の谷、宮の内、馬渕、大門下な
どの小字名が残っている。

松原市立 松原第六中学校



中高野街道(松原市岡3丁目)

正井殿参拝後、次の神社に向かう途中で岡3丁目付近で「中高野街道」の
説明板を見つけました。

中高野街道(なかこうやかいどう) 松原市岡3丁目付近

2017,07,08  00:23 PM



                中高野街道
大阪には、古くから高野詣の三つの道すじがありました。
その中程に位置する「中高野街道」は、大阪市平野区(杭全神社)から
南へのびて、松原市を経て、大阪狭山市で下高野街道、河内長野市
で西高野街道と合流します。
昔より、それらの道は人々の往来、物資の運搬、また、参詣道としても
利用されてきました。
やがて平安時代に入ると貴族階級の高野詣が始まり、鎌倉時代には
武士階級へと、近世には庶民階級まで広がり、高野山参詣道として栄
えました。




中高野街道を歩く(鶴見区放出東)

正井殿(松原市岡)

2度目の松原市神社めぐりで5社目に参拝したのは正井殿です。
私はこれまでに1000社以上の神社を参拝してきましたが、神社名に
「殿」が付く神社は初めてです。

正井殿(まさいでん):松原市岡3丁目4番28号



2017,07,08  00:26 AM



                  正井殿
正井殿は素佐之男命を祀り、岡と立部地区に深く信仰されている。
古文書によると、慶長年間(1595~1614年)に焼失したが、寛永年
間(1624~1643年)に再建されたという。明治初年の神仏分離のと
き、竹内街道筋に移転されたが、疫病が流行したので創建の地に
移された正井殿の神木の連理の松が有名で、「河内鑑名所記」当時
の狂歌や俳句に詠われている。
         巣やかけん 比翼連理の 松の枝 (意朔)
         降り来なけ 連理の松ぞ  郭公   (如真)

連理(れんり):2本の樹木の枝、あるいは1本の樹木の一旦分かれた
         枝が癒着結合したもの
河内鑑名所記(かわちかがみめいしょき):
   江戸時代にかかれた河内地方の名所の案内書。
   貞門の俳人、河内柏原の三田浄久の編著。本書は5、6年以上の
   期間を実地踏査、実景の写生にもとづく挿画原図の作製にかけた
   精確な地誌であり、また宗因・西鶴をはじめ260名の発句・狂歌を
   収録し、俳諧・狂歌撰集としての意識も大きい。  
発句(ほっく);俳句のこと、芭蕉の時代には俳句という言葉はなかった。
         明治になって俳句と言うようになった。

7月20日:19501歩

歯神社(柴籬神社境内末社)

柴籬神社の境内で見つけた末社「歯神社」を紹介します。
この歯神社の由来は、上田村に元々あった住吉神社が歯神社と呼ばれていた
のですが、柴籬神社に合祀され境内末社となりました。
歯神社と呼ばれていた理由は悲しい伝説をご覧ください。
79 「ちちかみはし」と歯神社 - 松原市

歯神社(はがみしゃ)










7月19日:16291歩

市名発祥の地「柴籬神社」(松原市)

2度目松原市神社めぐりで3社目に参拝した柴籬神社は、松原6社参りの一つ
です、これで私は全6社参拝したことになります。

ご祭神は、在位西暦406年から410年の第18代反正天皇です。都は丹比柴籬宮
(たじひのしばかきのみや)で、ここ柴籬神社に都跡の石碑が建っています。
反正天皇の御名は、多遅比瑞歯別尊(たじひのみずはわけのみこと)といい、誕
生の時から歯並びが綺麗だったと伝えられています。
このため、神社の中に珍しい歯神社が併設されており、毎年8月8日午後8時から
、提灯を地面に並べて幽玄な歯神社祭りが催されます。

神社の門前に一部松が残っており、これが「松生いし丹比の松原」と言われた松
林の名残だそうで、これが松原市の市名の由来だそうです。



柴籬神社:大阪府松原市上田7丁目12−22



2017,07,08  11:43 AM


明治初年まであった神宮寺「広場山観念寺」の山門



            柴籬神社(しばがきじんじゃ)
開運松原六社参りのひとつ、社伝によれば、6世紀前半に仁賢天皇の勅命
で創建されたという、18代反正天皇・依羅宿禰・菅原道真を祀る。
本地は5世紀前半、反正天皇がミヤコとした丹比柴籬宮の跡と伝える。
「古事記」によると、反正天皇は生まれた時、珠のような美しい歯を持って
いたので瑞歯別命と名付けられたとある、社務所の真向かいに歯神社があ
り、毎年8月8日の夜8時8分に万燈籠のもと、歯の神様の祭礼がとり行われ
るが、これは天皇の歯が立派であったことに由来する。
社務所の場所には、明治初年までは神宮寺の広場山観念寺(真言宗)があ
った、南門は観念寺の山門である。拝殿右側には慶安5年(1652)、左側に
は寛文11年(1671)の石燈籠が建つ、江戸時代前半、井原西鶴は同社に参
詣して「柴籬宮 むくけうへてゆふ 柴垣の都哉」の句を詠み「河内名所記」(延
宝7年、1679年)に載せられている。
拝殿に嘉永7年(1854)8月、立部村氏子26名が奉納した「三十六歌仙図」が
掛る、参集殿前には「天満宮 享和元年(1801)九月」と刻した手水鉢が置か
れているが、これは全国で5番目に大きな前方後円墳の河内大塚山古墳(西
大塚)の石室材と考えられる、墳丘上に祀られた菅原神社(明治41年に柴籬
神社に合祀)の手水鉢に転用されていたものである。




厳嶋神社(松原市一津屋)

2度目(7月8日)の松原市の神社めぐりで2社目に参拝したのは厳嶋神社です。
羽曳野市との境界に近い東除川の西側に鎮座していました。

厳嶋(いつくしま)神社:大阪府松原市一津屋5-8-19



2017,07,08  10:47 AM  



                    厳嶋神社縁起
厳嶋神社は一津屋五丁目八番九号にあり、地名は「小字弁天(こあざべんてん)」
と云う、祭神は天照大神の第三の姫、宇賀神(市杵島姫命(いちきしまひめのみ
こと))の分神で海の守り神と云い、神仏混淆時代には七福神唯一の女神、弁財
天(財宝の神)として信仰の的となり一津屋の産土神として今日に至る。南北朝
時代には楠氏の一族である和田氏が砦として守り、一津屋城と名づく。河内誌に
一津屋城は戦国時代に三好駿河守の所保とある。伝説に依ると当時、村の西方
にある「小字城の本(こあざじょうのもと)」に本城があり、その出城であった。
何か事変が起きると直ちに鐘を撞き、城内に知らせた。現在「鐘撞山(かねつき
さん)」の扁額が神社内に残る。境内は一津屋古墳上にあり、後円部に本殿、拝
殿がある。又、境内地は森林型社寺林で生態学上近畿平野特有の形態をなし、
樹木の種類の多い貴重な神社林をなしている。





7月18日:25287歩
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