ahisats3のブログ

ウオーキング中に見つけた神社、史跡、珍しいもの等を紹介します。

広島市

二葉あき子歌碑(広島駅北口)

青春18キップを使って広島駅に着いたのが、12時13分、帰りの電車は午後4時
23分発、約4時間の広島市内ウォーキングを終えました。
広島駅北口の手前で「二葉あき子」歌碑を見つけました。
この歌碑は広島生まれの二葉あき子(1915~2011)の生誕100年を記念して
2015年に建立されました。

二葉あき子歌碑:JR広島駅北口       2017,08,26   04:03  PM



                二葉あき子 歌碑
                 夜のプラットホーム 
          作詞 奥野椰子夫   作曲 服部良一
   星はまたたき 夜ふかく 鳴りわたる 鳴りわたる
   プラットホームの別れのベルよ さよなら さよなら 君いつ帰る 




                                  二葉あき子歌碑 建立の趣旨

二葉あき子(本名:加藤芳江)は、大正4(1915)年2月2日、広島市東区二葉の里で
生れました。昭和9(1934)年、東京音楽学校在学中に日本コロムビアから『四つ葉
のクローバー』と題する教育音楽を吹き込み、以降、音楽一筋の道を歩み、平成23
(2011)年に亡くなるまで、昭和・平成の二世代にわたって歌い続け、『夜のプラット
ホーム』『フランチェスカの鐘』『水色のワルツ』『さよならルンバ』など数多くのヒット曲
で、わが国の歌謡史を飾る代表的な歌手として活躍してきました。
昭和20(1945)年8月6日、原爆投下の際には、父の郷里である三次市に向かう芸備
線に乗車しており、列車が東区中山トンネルに入った途端に原爆の閃光と爆音に遭
い危うく難を逃れ、それ以降、反戦平和への気持ちは人一倍強く『夜のプラットホー
ム』『フランチェスカの鐘』は、原爆や戦争の犠牲者への鎮魂の歌として終生歌い続
けてきたのです。
この碑に刻まれている彼女の代表歌の一つである『夜のプラットホーム』は、太平洋
戦争時につくられたもので、出征兵士を見送る悲しい別れの場面が連想されること
から、戦時中は軍部から発売禁止されていたという経緯がありますが、昭和22(1947
)年以降、彼女は『二度とこんな別れの光景を見ることのないように』との願いを込め
て歌い、大ヒットしたもので、彼女の功績を讃えるモニュメントとしての意義は大きなも
のがあると言えましょう

二葉あき子の平和への思いを込めて歌い続けた意思を讃え生誕100年・被爆70年
を記念して歌碑を建立した。
     平成27(2015)年11月吉日  二葉あき子歌碑建立委員会 委員長 原田康夫


広島駅北口


夜のプラットホーム 二葉あき子 追悼 - YouTube

9月12日:18359歩

鶴羽根神社(広島市東区)

8月26日の広島市神社めぐりで最後の5社目に参拝したのが鶴羽根神社です。
800年の歴史を誇る広島東部の総氏神です。

鶴羽根神社:広島県広島市東区二葉の里2丁目5−11







                 鶴羽根神社
               800年の歴史を誇る
               広島東部の総氏神
御祭神 妹背二柱の神(縁結びの神): 伊邪那岐命 伊邪那美命
     八幡三神:帯中津日子命 品陀和気命 息長帯日賣命
鎌倉時代、源頼政の遺言により、二葉山山麓に建立された椎の木八幡宮が
前進と伝えられ、約800年の歴史を誇っています、広島東部の総氏神として
尊崇厚く、敬拝されてきました。
明治元年(1868)浅野12代藩主長勲の撰名により鶴羽根八幡宮と改称、同
5年に鶴羽根神社に改められました。
昭和20年8月の原爆により、社殿はことごとく灰燼に帰しました。
現在の社殿は再建したものですが幸いにも残った石鳥居、石畳のそり橋、石
灯籠などが往時を伝えています。


饒津神社(広島市東区)

8月26日の広島市神社めぐりで4社目に参拝したのが饒津神社です。
敷地の広い神社でした。
江戸時代後期から明治時代初期に流行した藩祖を祀った神社のひとつで、
浅野家九代目の藩主 斉粛が始祖 長政を祀る為に創建した神社です。

饒津の意味

 饒:じょう・豊・食物やものが十分である。土地が肥えている。

 津:港・船着場・川辺・海辺。

   「広島の町が物が豊かな水の都となるように」

饒津(にぎつ)神社:広島県広島市東区二葉の里2丁目6−34

2017,08,26  03:56 PM





                  饒津神社 
                  にぎっさん
天保6年(1835)、浅野九代藩主斉粛が始祖 長政を祀るため広島城鬼門
(東北)の方向に、明星院境内の西半分を割いて造営しました。
時代は天保の大飢饉、藩財政の苦しい中、敢えて壮大な神社を造営した
のは、始祖を祭神とした神社を建立することで藩士の結束を固めようとし
たためと伝えられています。
なお。幕末に創建された神社のうちでは全国最大を誇るものでした。
昭和20年8月、原爆被災により建物は全焼し、石灯籠、手水鉢などの石造
物のほか、十数本の松(最後の1本も平成15年1月に松枯れし伐採)のみ
が残る甚大な被害を受けました。
戦後、仮殿、本殿などが再建されましたが、昭和59年本殿、拝殿、端垣が
戦前の姿に復興され、遂に平成12年(2000年)を機に、悲願の向唐門が
復元されました。この向唐門は武家を祀る神社などに使われていましたが、
その大きさは全国2位の大きさを誇っています。

境内にあった被爆当時の写真が焼きつけてある石碑

           饒津神社(爆心地から約1800メートル)
原爆の炸裂による強烈な爆風のため 本殿や唐門などの建物が一瞬にして破壊
されました、その直後本殿から出火し 他の建物も次々延焼していきました。
爆風により 境内の樹木は吹き倒され 参道の石灯籠も倒されました 境内には
 燃え盛る市内から大勢の人々が避難してきて臨時の救護所が設けられました。


9月11日:21224歩

碇神社(広島市中区)

8月26日の広島市神社めぐりで3社目に参拝したのが碇神社です。
下記の由緒書きによると、広島で最古の氏神と考証されています。

碇(いかり)神社:広島県広島市中区 白島九軒町12-19

2017,08,26  03:34 PM





                   碇神社
碇神社は,16世紀末に広島城が築城される以前から、この地(箱島)に
社があったとされる。
19世紀初めに記された「知新集」によれば、築城前のまだこの地が青海
原であった頃、ここへ船が碇をおろしたことから碇神社といわれるように
なったと伝えられている。

「知新集」:文政5年(1822)に広島藩が広島府内からの厳正な報告(社寺
       からの申告も含め)に基づき編集した郷土の歴史書



                    由 緒
              祭神 大綿津見神
              古くは箱島明神とも称す
1 創建は奈良時代初期(約1250年前)此の地其の昔海辺なりし頃当碇神社
  の社辺に大岩盤在り太古よりしばしば舟が難破せし為、地と海の神を鎮祭
  し奉ることに始まる、従って当広島に於ける最古の氏神と考証される。
1 天正17年(1589年)毛利輝元公広島城築城に際し改めて社殿を造営し
  社領の寄進を為す。
  当白鳥地域の産土神として親しまれ尊崇を集めた。
1 昭和20年8月原爆により廃燼に帰す、仮社殿に於いて祭祀せしも昭和40年
  春氏子崇敬者の協賛を得て再建今日に至る。

広島陸軍幼年学校跡(広島市中区)

広島城の外濠付近で「広島陸軍幼年学校跡」を」見つけました。
陸軍の中堅将校を育成する目的で、明治30年に開校。満13歳、14歳の少年
を入校させ3年間基礎的な教育訓練をした学校で、卒業後は陸軍士官学校を
経て将校になりました。

広島陸軍幼年学校跡:広島市中区基町                            2017,08,26  03:09 PM





                                  広島陸軍幼年学校跡
昭和20年8月6日の原爆によって校舎は焼失し終戦とともに廃校となった。
ここにその門柱だけが残った。
爆心地からの距離は、約1.1キロメートルである。
なお、この学校は明治30年9月、陸軍幹部の養成機関として開校されたが、
昭和3年3月軍縮により廃校となった。
また、同11年に再開され、終戦まで教育が続けられた。
開校以来、49期、3,345名を世に送り出している。





廣島陸軍幼年学校は明治天皇の聖旨により明治30年廣島市基町に開校し
昭和3年軍縮のため一旦廃校となったが 昭和11年再興 爾来昭和20年に
至るまで累計3345名の将校生徒を育成した、 これら同窓生は楨幹として皆
克く邦家守護の重責に任じ また戦後復興の柱石として活躍した。
ここに在りし日の母校を偲び 原爆の劫火に耐えた校門を修復して永くこれを
記念する。                 昭和46年6月吉辰 同窓生一同
 


「池田勇人像」(広島市)

広島市中区の中央公園内で池田勇人の像を見つけました、自民党の総裁を
勤め所得倍増の政策を進めたひとです。
出身地の竹原市の福祉会館にも同様の像があるそうです。
(竹原市の方は和服の像)

池田勇人像:広島市中区 中央公園         2017,08,26  03:03 PM







池田勇人君ハ明治32年竹原市ニ生ル 京都帝国大学ヲ卒業シテ
大蔵省ニ勤ム  性豪穀ニシテ誠実善ク力ヲ尽シテ  其の任ヲ全ウス 主
税局長 大蔵省次官ヲ歴任 推サレテ衆議院議員に当選シ 直チニ
大蔵大臣トシテ混乱セル戦後の財政ヲ処理ス 爾来常に台閣ニ列シ
昭和35年自由民主党総裁トナル  而シテ内閣ヲ組織スルコト三度寛
容ト忍耐ヲ政治姿勢トシ  所得倍増政策ヲ推進シテ 那家ノ隆昌ヲ致
ス 在職4年有余 恰モ東京オリンピック大成功ノ時遂ニ病厚クシテ大
任ヲ辞ス 翌45年死去 正二位大勲章ヲ贈ラル 郷党茲ニ像ヲ建テ
テ其ノ偉業ヲ讃ヘ敬仰ノ念ヲ新タニス
                  昭和45年12月 前尾繁三郎 撰


歩兵第11連隊跡(広島市)

広島城内でもう一つの戦争遺跡を見つけました、やはり日清戦争時のもの
でした。

歩兵第11連隊跡(広島市)                2017,08,26  03:02 PM



                歩兵第十一聯隊略歴
 1.明治8年5月広島の地に創設 同年9月9日聯隊旗受領
2.明治9年10月萩の乱に出動
3.明治10年西南戦争に出動
4.明治27年日清戦争に出動、朝鮮、中国北部各地を転戦 同28年7月復員
5.明治33年6月北清事変に出動
6.明治37年4月日露戦争に出動、南満州(現中国東北部)の各地を転戦し、同
  38年12月復員
7.大正8年7月シベリアに出兵
8.昭和12年7月27日日中戦争に出動、中国全土を転戦
9.昭和16年12月8日太平洋戦争勃発、マレー作戦に参加し、のち南太平洋諸
   島を転戦中、同20年8月15日終戦となる。
   同年8月26日シンガポールにおいて軍旗を焼く。
   創設以来72年の歴史を閉じ解隊する。
10.この間、特に、日中戦争以降、歩兵第11連隊を母体とする藤部隊、槍部隊、
   開部隊、望部隊、西部第2部隊等を創設、各々克く健闘した。
                   ここに聯隊跡碑を建立し、往時を偲ぶ縁とする。
             昭和55年7月建立  平成6年8月改刻  歩十一会





       

                                          門柱の由来
 この石柱は歩兵第十一聯隊入口正門として建っていた門柱で長年月
にわたり入隊訓練帰還と幾多の年代的過程を静かに見守って来た歴史
の証人とも言える記念すべき門柱であります。しかも原爆被災の中で残
存し得た当時を偲ぶ唯一の遺跡でもあります。幸い篤志家の手により広
島市立福木保育園に保存されていたもので今般譲りうけゆかりの地に
移転建立し歴史の証とするものであります。
                                                   昭和五十九年九月吉日 歩十一会



9月9日:20928歩

広島大本営跡(広島城内)

広島城内でもう一つ戦争遺跡をみつけました、説明板を読むと太平洋戦争では
無く日清戦争時のものでした。
大本営というのは戦時に設置される天皇直属の陸軍・海軍に関する最高統帥機
関です。そんな大本営が東京を離れ、広島に設置された期間がありました。

広島大本営跡(広島城内)                    2017,08,26  04:52 PM





                広島大本営跡
明治27年(8194)8月に日清両国に戦端が開かれたのち、それまでに山陽
鉄道が開通していたことや宇品港を擁するといった諸条件により、同年9月
広島市に大本営が移されることとなり、広島城内にあった第五師団司令部
の建物が明治天皇の行在所とされ、ここに、大本営が設けられた。
明治天皇の広島滞在は、同年9月15日から翌年の4月27日までの7か月あ
まりに及んだ。その後、建物は広島大本営跡として保存されたが、原爆によ
り倒壊し、今は基礎石のみ残されている。

広島城(鯉城)

広島城は毛利輝元が太田川河口のデルタ地帯に築いた平城で、1945年(昭和
20年)まで天守を始めとする城郭建築が現存し点在していたが、
太平洋戦争末
アメリカ軍原子爆弾投下によって倒壊し、現在見られる城内の天守以下
城郭建築はすべて1958年以降に再建されたものです。
広島城は「鯉城りじょう」とも呼ばれ多くの説があります。
広島城があった一帯は昔「己斐浦こいのうら」と呼ばれいた。
一説には堀にたくさんの鯉がいたから、天守が黒いから等とも言われています。


広島城:広島市中区            2017,-8,26  02:55 PM











9月8日:20323歩

広島護国神社(広島市中区)

8月26日の広島市神社めぐりで2社目に参拝したのが広島護国神社です。
広島城祉公園の中で見つけました。

広島護国神社:広島県広島市中区基町21−2







                                            由 緒
1 明治元年 朝命により戊辰の役の戦死者七十八柱のみ霊を二葉の里に
  齋祀し水草霊社よ称したのに起源する。
1 明治八年社名を官祭招魂社と改称する。
1 昭和九年広島市基町に社殿を造営する。
1 明治十年以降の各戦役・事変に於ける戦病死者四千二百六二柱を合祀
  する。
1 昭和十四年四月広島護国神社と改称する。
1 昭和二十年八月六日原子爆弾により社殿悉く廃塵に帰す、為に仮に小祀
  を建立して祭祀を続ける。
1 昭和三十一年十一月社殿を此の地に累次合祀して現在九万二千余柱
  を奉斎する このうち一万柱は地域・職域・義勇隊・動員学徒・女子挺身隊
  等の公務原爆関係の御祭神である。                  以上
              平成元年十二月  別表神社 広島護国神社
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