ahisats3のブログ

ウオーキング中に見つけた神社、史跡、珍しいもの等を紹介します。

岡山県

津山城跡に桜を植えた人「福井純一」

4月7日の日帰りバスツアーで最後の見学地、津山城の桜は岡山県で
唯一「全国桜名所百選」に選ばれているのですが、その桜の植樹に
尽力を注いだ人物が福井純一です。



             津山城跡に桜を植えた人
                  福井純一
 鶴山公園は、岡山県内で唯一「全国桜名所百選」に選ばれている桜の
名所である。この桜の植樹に尽力したのが、福井純一である。
純一は明治11年(1787年)津山市本町中2丁目に生まれる。津山成器小
学校から同志社中学に進むが、父が病で倒れたため、中退して帰郷する
。町会議員から市制とともに市議会議員、昭和7円、第三代目の市議会
議長に就任する。
明治32年(1889年)、県有地だった津山城跡は、公園にするという条件で
津山町に払い下げられた、明治33年(1900年)から津山市が公園化に手
をつけ、純一も桜植樹の中心的な役割を担うことになる。「城跡を桜で埋
めるなんて阿保の沙汰じゃ」と揶揄されながらも、私財を投じるとともに寄
付集めに奔走する。
明治40年(1915年)と昭和3年(1928年)に御大典記念植樹が行われた
。津山城跡が桜で覆われるようになったのはこのころからである。
純一は昭和32年(1957年)生涯の大半を津山城跡の桜にかけた80年の
生涯を終えた。

2019,04,07  04:45 PM





津山城跡(鶴山公園)

4月7日の日帰りバスツアーで岡山後楽園見学後、バスは最後の見学地
津山城に向かいました。
津山城跡の桜は岡山県内屈指の桜の名所で桜が満開で丁度見頃で
した。

津山城跡(鶴山公園) 岡山県津山市山下135                                 2019,04,07  04:19 PM











                 津山城跡
                      国指定史跡(昭和38年9月28日指定)
津山城は、もと山城のあったこの築山の地に森忠政が慶長9年(1604)
に起工し、元輪年(1616)の完成まで3年の歳月をかけて築いた楼郭式
平山城です。
往時には五層の天守閣がそびえていましたが、この天守閣は弓狭間・
鉄砲狭間・石落し等の備えを持ち、唐破風・千鳥破風等のない実戦的な
ものでした、また、本丸・二の丸・三の丸には、備中櫓をはじめ、粟積櫓・
月見櫓等多くの櫓が立並び、本丸には700余の部屋からなる御殿と庭
園がありました。
この城が築かれた当時は、我が国の築城技術が最盛期を迎えた時期に
あたり、津山城の縄張りの巧妙さは攻守両面において非常に優れたもの
で、近世平山城の典型とされています。
明治6年(1873)廃城令によって城郭は公売され、翌7年から8年にかけ
て天守閣をはじめとする一切の建物が取り壊されましたが、豪壮堅固な
石垣はのこりました。
その後、明治33年(1900)城跡は鶴山公園として津山町の管理となり、
昭和38年に国の史跡に指定あれました。

歴代城主
 森家
  森家は清和源氏で、初代津山藩主森忠政は、美濃金山城主森可成の六
  男に生まれました。
  慶長8年(1603)徳川家への数々の武功が認められて、信濃川中島13万
  7500石の大名から美作一国18万6500石の大名に抜擢されました。この
  忠政は、本願寺の変で主君の織田信長と共に壮絶な最期を遂げた森蘭丸
  の実弟にあたります。
  森氏は四代95年にわたって美作国を治めましたが、四代藩主長成に嫡子
  がなく津山森家は改易となりました、その後、森家は二代藩主長継の子長
  直が備中西江原藩主として森宗家を再興し、さらに宝永3年(1706)播磨赤
  穂に移りました。
松平家
  森家にかわり、10万石の大名として新たな津山藩主となった松平宣富は、
  徳川家康の第二子結城(松平)秀康の曾孫で結城家と呼ばれ、徳川一門
  中に重きをなしていました、そして明治4年(8171)に廃藩となるまで、九代
  174年にわたって続きました。



平山城(ひらやまじろ)
平山城とは平野の中にある山や丘陵に築城された城のことを指します。
 日本3大 平山城
    姫路城
    松山城
    津山城
改易(かいえき)
    江戸時代に侍に科した罰で、身分を平民に落とし、家禄(かろく)・
    屋敷を没収するもの。切腹より軽く、蟄居(ちっきょ)より重い。


4月16日:24097歩

慈眼堂(岡山後楽園内)

4月7日の日帰りバスツアーで岡山城見学後の自由時間に、市内ウォーキング
後、岡山後楽園に再入場して、集合場所に戻る途中に「由香神社」のす
ぐそばに慈眼堂がありました。

慈眼堂(岡山後楽園内)                             2019,04,07  01:58 PM





         慈眼堂(じげんどう)
池田綱政が元禄10年に池田と領民の繁栄を願って建立
し観音像を祀っていました。
境内には、花崗岩を36個に割って運び、もとの姿に組み
上げた烏帽子岩、仁王門、板張りの腰掛などが伝わっ
います。

岡山後楽園の美しい庭園

岡山神社(岡山市北区)

4月7日の日帰りバスツアーで岡山城見学後の自由時間に、市内ウォーキング
で岡山神社を見つけて参拝しました。

岡山神社:岡山市北区石関町2−33                  2019,04,07  01:34 PM







                  岡 山 神 社
  鎮座地  岡山市石関町2番33号
 創建     清和天皇貞観年中(西紀860年)
 御祭神 倭迹々日百襲姫命(やまとととびももひめのみこと)
 御神徳 当社はその社名の如く備前岡山の総鎮守で延命長寿、商売
                繁盛、職場安全、交通安全、入試合格、縁結びの神として古
                来より霊験あらたかです。
 祭事   1月1日   歳旦祭
       4月15日 春季大祭
       8月初旬 夏越祭(わくぐり祭)
       10月第二土曜日 秋季大祭
       11月中  七五三祝祭
 境内社  天満宮
        稲荷神社
        天照大神    
        十七社
 随神門(1745年) 岡山市重要文化財指定



       岡山市重要文化財指定    岡山神社 随神門
                               平成16年2月24日指定
岡山神社は、宇喜多氏以来岡山城の守護神として歴代の城主の信仰
の厚かった神社で、「酒折宮」と呼ばれていました。池田家文庫に残る
「酒折宮社記」によると、現在の岡山城本丸の地にあったものを、宇喜
多氏の岡山城築城に伴って現在の地に移されたとされます。
随神門は、池田継政によって延享2年(1745)に造立された、間一戸の
八脚門で、岡山藩直営の普請になる18世紀中頃の基準的建築物です、
岡山城下で岡山空襲でも焼け残った数少ない江戸時代の建物です。

笠井信一と「済世顧問制度」

4月7日の日帰りバスツアーで自由時間に、旭川堤防の桜を見物後、再度
岡山城内に入り、「笠井信一と済世顧問制度」の説明板と笠井信一像を
見つけました。
笠井信一は大正時代に岡山県知事の時、全国に先駆けて防貧救済活
動事業を行った人です。

笠井信一像  岡山城内                                             2019,04,07  01:19 PM

笠井信一像

岡山歴史散歩 城下町をめぐる

         笠井信一と「済世顧問制度」
元治元年(1864)6月19日、笠井勘三郎の三男として静岡県
富士郡に生まれました。大正3年(1914)から大正8年(1919)
までの6年間、岡山県知事を務めました。
大正5年(1916)5月18日、地方長官会議において、大正天皇
から岡山県内の径活困窮者の生活状況を尋ねられたことを契
機とし、翌年に全国に先駆けて「済世顧問制度」を創始し、防
貧救済活動事業を行いました。
これが戦前における社会事業制度の始まりであり、戦後の民
生委員経度に継承されました。
           (看板提案:岡山市弘西地区連合町内会)岡山市

4月13日:20159歩

旭川堤防の桜(岡山市)

4月7日の日帰りバスツアーで自由時間に「岡山県立商業学校跡」を見つけ
た後、旭川堤防の桜を見物しました。
後楽園東の旭川堤防沿いにゆるやかに延びる「さくらみち」には、約180
本のソメイヨシノが桜並木をつくり、岡山県内屈指の桜の名所です。


旭川堤防のさくら(岡山市)                                                            2019,04,07  01:03 PM







4月12日:23159歩

岡山県立商業学校跡(岡山市北区内山下)

4月7日の日帰りバスツアーで岡山城を見学後,約2時間の自由時間
があり、私一人だけで岡山市内をウォーキングしました。
岡山県庁の近くで「岡山県立商業学校跡」の記念碑と説明板を見
つけました。

岡山県立商業学校跡:岡山市北区内山下4                 2019,04,07  00:56 PM





              岡山県立商業学校跡
県立商業学校は、商工業の人材育成のため、明治31年(1898)、
城下磨屋町の岡山寺を仮校舎として開校し、翌々年4月、内山下
(現在の県庁辺り)の元製糸会社の工場跡に移転しました。
大将11年(1922)に門田に移転し、戦後の学制改革と学校再編を
経て、現在の岡山東高等学校となりました。



岡山県庁



4月11日:23126歩

岡山城(岡山市北区)

4月7日の日帰りバスツアーで岡山後楽園の次に見学したのが岡山城です。
天守閣の壁に黒漆塗りの板を取り付けるこの時代の建築の特徴から、外観
は黒く、後の時代には「烏城(うじょう)」と呼ばれるようになりました。

岡山城:岡山市北区丸の内2丁目3−1                                           2019,04,07  00:37 PM

月見橋から撮影



岡山城の最上階から撮影



                岡山城の歴史を今に
岡山の市街地の元となった岡山城は、宇喜多秀家が慶長2年(1597)に
築城した後、江戸時代には岡山藩の城府となり、明治維新により廃城と
なりました。
城跡は、大半が市街地となり、本丸も学校用地に転用されて、昭和20年
の岡山空襲で天守と石山門が焼失し、月見橋と西手櫓が現存するだけ
となりました。
この本丸跡は、昭和29年に学校が移転して、烏城公園として整備され、
昭和41年には天守閣が復元されて観光施設ともなっています。
さらに、昭和62年に史跡に指定されてからは、歴史に視点を置いた整備
が求められるようになりました、岡山市は平成4年度から本丸跡中の段
で発掘調査、コンクリート建物の撤去、石垣の解体復元修理、江戸時代末期
の建物の表示、築城期の石垣の露出展示などを行っています。
こうした事業は、中の段の次は天守のある本段、その後は下の段と進め
て行く計画です。
岡山市の歴史的シンボルであって市民共有の遺産である岡山城跡を、より
良い姿で後世に伝えていくため、事業へのご理解をお願い申し上げます。
なお、事業に関するお問い合わせは、岡山市教育委員会文化財課(電話
803-1611)にご連絡下さい。
              平成17年1月16日 岡山市・岡山市教育委員会


4月10日:19052歩

後楽園の由来「岡山後楽園」

JTB旅物語の日帰りバスツアー「津山城と日本三名園 岡山後楽園」で
最初に着いたのが日本三名園の一つ岡山後楽園です。
名前の由来は岡山城の後ろに作られた園という意味で後園や御後
園と呼ばれていましたが、「先憂後楽」の精神に基づいて造られたと
考えられることから、明治4年(1871)後楽園と改められました。

先憂後楽:先に苦労や苦難を経験したり、心配事をなくしたりしてお
       けば、が出来るという意味で用いられています。

岡山後楽園:岡山市北区後楽園1-5                    2019,04,07  00:18 PM















                 岡山後楽園のあらまし
後楽園は、岡山藩池田綱政が、家臣の津田永忠に命じ、貞享4年(1687)に
着工、元禄13年(1700)に一応の完成をみました。
江戸時代を代表する大名庭園で、座敷から眺めるように作られていますが、
歩きながら移り変わる景観を楽しむ回廊式のていえんでもあります。
藩主の静養や賓客接待の場所として使われましたが、日時を定めて藩内の
人々にも見物が許されました。
本園の大きな特徴は、広々とした芝生と池の水面が配置が園の中央に展開
し、要所に築山、植込み、建物が配置され、これを縫って曲水、園路が優美に
巡り、操山などの背景と相まって、広がりのある明るい趣向の景観となってい
るこです。
歴代藩主の子のみで景観や建物に手が加えられましtが、江戸時代の姿を
大きく変えることなく現在に伝えられてきました。
名称は、岡山城の後ろに作られたという意味で、「御後園」と呼ばれていまし
たが、明治4年(1871)、本園を作った動機が、中国の書物にある、「天下の
憂いに免じて憂い、天下の楽しみに後れて楽しむ」という「先憂後楽」の精神
に基づいていると考え「後楽園」と改められました。
明治17年(1884)に、池田家から岡山県に移譲され、一般公開されました。
昭和27年(1952)に文化財保護法による「特別名勝」に指定され、岡山県が
後世に伝える歴史的文化遺産として維持管理にあたっています。


4月9日:26881歩

「六高健児像」JR岡山駅前

JR高松駅から大阪に帰る途中で岡山駅での乗り継ぎに約40分の時間
が有ったので途中下車して駅前を散策しました。
駅前で学生がマントを着た像があり、それは第六高等学校(現在の岡山
大学)が創立100周年を記念して建てられた像でした。

「六高健児像」 台座には「青春感謝」と刻まれています。





 第六高等学校は明治33年岡山市に創設され西暦二千年に創立百年を迎えた 
 昭和25年廃校までの50年間を操山下で過ごした六校生の中から国家有為の
  人材を多く輩出した。
 三年間の六校生活は幣衣破隔 文武両道に励み時に街頭に出て放歌高吟す
 ることもあったが六校生の愛称で温かく見守られた。
 ここに感謝の誠を捧げると共に二十一世紀に向かって日本の将来を背負って
 立つ君たち若人にこの像を贈る。
          平成12年3月 第六高等学校同窓生 会長 木村睦男  撰文
                    京都教育大学            校長 谷口洋一 彫刻

幣衣破隔(へいいはぼう)
破れてぼろぼろの衣服や帽子。身なりに気を使わず、粗野でむさくるしいこと


JR岡山駅前                                                                  2017,09,01  05:49 PM









9月21日:21033歩
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