ahisats3のブログ

ウオーキング中に見つけた神社、史跡、珍しいもの等を紹介します。

富田林市(大阪府)

春日神社(富田林市彼方)

3月18日、富田林市の神社めぐり最後、3社目に参拝したのが春日神社です。
地元では「彼方(おちかた)の宮さん」と呼ばれているそうです。

春日神社:大阪府富田林市彼方(おちかた)329

2018,03,18  03:09 PM








4月14日:27717歩

滝谷不動尊(富田林市彼方)

河内長野駅を見学後、帰路の途中にある滝谷不動尊を参拝しました。
富田林の寺内町を散策に行くと決めたときから、知名度の高い滝谷不動尊は
最初から参拝する予定でした。

日本三大不動と言われていますが、調べたら三大不動を名のっている寺は
下記の五つの寺がありました。
   ・木原不動       :  熊本県富合町
   ・瀧谷不動       : 大阪府富田林市 
   ・中野不動尊      :  福島県福島市) 
   ・成田不動(新勝寺 ): 千葉県成田市
   ・目黒不動       :  東京都目黒区


滝谷不動尊(正式名 滝谷不動明王寺):大阪府富田林市彼方(おちかた)176

2018,03,18  02:44 PM



                   瀧谷不動尊縁起
當山は嵯峨天皇の弘仁12年(西紀821年)弘法大師が国家安穏万民化益
ために開かれた霊場であり、本尊不動明王は侍者の「こんがら」「せいたか」
二童子と共に大師一刀三礼の霊像と伝えられて重要文化財に指定されてい
る戦乱のため兵火にあい当初の伽藍地たる嶽山より現地にうつされてから約
五百年、本尊の広大無辺な御誓願により不思議な霊験にあづかる人あとをた
たず、縁日の28日をもとより日夜参詣人の絶えることがない。

化益(けやく):人々を仏道に導くことと、利益を与えること。
侍者(じしゃ)① 貴人のそば近くにいて,雑用をする人。
        ② 寺で,住職や高僧に仕えて雑用をつとめる人。

一刀三礼(いっとうさんらい):神仏をうやまい、慎み深い態度で仏像などを彫ること。

                 仏像を彫るときに一彫りごとに三度礼拝する意からです。





4月13日:20458歩

高野街道(河内長野駅前)

富田林の寺内町を探索に行った時、少し足を延ばして河内長野駅を
見に行きました。
駅前で「高野街道」の石碑と説明板がありました。


高野街道:河内長野駅前(近鉄及び南海電鉄)

2018,03,18  01:16 PM







                   高 野 街 道
京の都と仏教の聖地 高野山を結ぶ高野街道は平安時代の天皇、公家や中世
から盛んになる武士、庶民の高野参詣に利用されました。
この街道は時代によって変化しますが主に三つのルートがありました。
一つは京都から八幡市、生駒山西麓を南下し河内長野に至る東高野街道です
。二つ目のルートは堺市の大小路を起点として河内長野に至る西高野街道です
。三つ目のルートは、大阪市の平野から真っ直ぐ南下し、河内長野に至る中高野
街道です、この中高野街道は、河内長野市の楠町で西高野街道に合流します
。そして、西高野街道は、この碑があります河内長野駅前の本町付近で東高野
街道と合流し、一つのルートとなって南下し紀見峠を経て高野山に向かいました、
街道には、高野山に至るまで多くの街道が交わりますので、旅人が道に迷わな
いように石造りの道標が多く残されています。また、旅の安全を祈って造られた
常夜灯や地蔵さんを祀る多くの祠も残されており、地域の人たちによって守られ
ています。





河内長野市役所


4月10日:32181歩

天誅組の碑(錦織神社境内)

富田林市 錦織神社境内で「天誅組の碑」を見つけました。
天誅組の名前は知っていましたが、詳しいことは知りませんでした。
德川幕府は西郷隆盛らにより倒され明治時代になりましたが。
その5年前にも幕府を倒そうとして失敗したのが天誅組でした。
同じ時代の新撰組はドラマなどによくでてきますが、天誅組はあまり知られていな
のですね。

天誅組とは、幕末に勤王の志士達で構成された尊皇攘夷派の武装集団のことで
、この地には、天誅組河内勢という集団がありました。

錦織神社は明治40年に今の社名に改められるまで『水郡神社(にごりじんじゃ)』と
言い、天誅組河内勢の頭である水郡善之祐(にごりぜんのすけ)は、水郡神社の祠
官でありました。

昭和38年、天誅組河内勢100年祭の時に天誅組河内勢顕彰碑が建立されました。



天誅組(てんちゅうぐみ)の碑:錦織神社境内

2018,03,18  11:59 AM



文久3年8月17日 天誅組河内勢六十余人は、中山忠光郷を盟王とし皇軍の先鋒
として甲田水 邸を出発し 同日長野三日市を経て観心寺の後村上天皇陵を拝し
大楠公首塚の前で結盟を誓い、千早峠を越えて大和に入り、五条大官を借りてその
所領 天朝直轄の御地御民と宣言し 討幕の第一声を挙げた 然るに翌十八日突如
として京師に政変起こり、廟議一変し、却て逆徒として追討せられることとなる然れど
も少しも之に屈せず 至誠の必ず天明に達することもあるべきを確信し、兵を十津川
郷に募り、吉野の山野を血汐にそめて孤軍奮闘し、刀折れ矢尽きて、僅か四十日に
して九月二十四日 或は鷲家口に戦死し 或は紀州竜神に捕えられて翌元治元年七
月京都に於いて斬首された 実に明治維新の魁として花と咲き花と散った人々である
 爾来百年の星霜を経た今日 我国未曾有の繁栄の礎を築いた天誅組河内勢の遺
勲は永久に忘れてはならない、頃日河内精神を提唱しその郷風を振作せんとする
我等同人先賢の重蹟を顕彰し 茲に建碑したる所以を誌す 
                       昭和38年11月3日  水郡庸酷撰
                                     伏井岩太郎書

京師(けいし):みやこのこと、 日本では天皇の都、京都のこと
廟議(びょうぎ):朝廷の評議



私は堺市でも天誅組記念碑を見たことがあります。
天誅組上陸記念碑(堺市竪川左岸)

4月9日:22344歩

錦織神社(富田林市宮甲田町)

3月18日の富田林市の神社めぐりで2社目に参拝したのが錦織神社です。
錦織は「にしこおり」又は「にしこり」と読みます。

錦織神社:大阪府富田林市宮甲田町9−46

2018,03,18  00:03 PM







            錦織(にしこおり/にしこり)神社
当社は、元錦織・川西村地域の鎮守社である。創建年代は明らかではないが、
昭和10年の本殿大修理の際、地下より藤原時代の古瓦が多数出土しており
、創建は平安中期に遡ると推定される。現本殿は、南朝後村上天皇18年
(1363年)に「神主兼惣長者讃岐守三善貞行」を造営責任者として建立された
ことが「河内国錦部郡水郡宮之次第」によって明らかである。
その後、近郷の人々により補修工事が幾度か行われたが、入母屋造に3間の
向拝をつけ、屋根に千鳥破風と唐波風をのせた本殿建築の特色をよく伝える
重要な遺構として昭和25年8月28日に重要文化財に指定されている。
また、本殿脇の摂社も二間社流造、見世欄形式の社殿で、小規模であるが時
代の特色を示すものとして、昭和44年6月20日に重要文化財に指定されてい
る。                             河内ふるさとのみち 富田林市



破風(はふ):日本の建築で、切妻屋根の端につけた山形の板


4月9日:21077歩

石上露子(旧杉山家住宅)

富田林市の寺内町散策中に見学した旧杉山家住宅の内部に明治~
昭和時代の歌人 石上露子(本名:杉山孝)を紹介するコーナーがありま
した。
 石上露子は富田林きっての旧家(杉山家)の跡取りに生まれ、家を継
ぐため愛する人との結婚をあきらめた露子は、かなわぬ恋の思いを歌
に詠み続けました。

石上露子(いそのかみ つゆこ)・本名:杉山考(すぎやまこう)

               石上露子と杉山家
石上露子は、明治30年代後半、与謝野晶子などとともに活躍した明星派
の歌人です、その歌の風情と容姿から、白菊の花にもたとえられる美人で
した。
本名を杉山孝と言い、明治15年(1882)6月11日、当杉山家に父団郎、母
奈美の長女として生まれました。
露子が生まれた当時の杉山家は、造り酒屋を営み、旧家の並ぶ富田林寺
内町の中でも最も古く、かつ大規模な商家であり大地主でした、富めるこの
家で大切に育てられた露子は、ひな唄に「富田林の酒屋の娘、大和河内に
ないきりょう」と歌われるほど美しい娘だったと言われます、若くして実母と
別れるなど、大家族の中での複雑な人間関係に悩みながれも、父親の深い
愛情のもとで、ぜいたくな子女教育を受け、旧家にふさわしい琴曲も幼時か
らの習い事となっていました。
明治34年(1901)20才のとき、小説「宵暗」で文壇に登場し、明治36年
(1903)には、与謝野晶子らの属する新詩社に入っています。
以後、雑誌「明星」に数々の作品を発表、明治40年(1907)まで当家で文筆
活動をつづけました。



代表的作品「小板橋」

    小板橋
ゆきずりのわが小板橋
しらしらと一枝のうばら         うばら:とげのある植物の総称
いづこより流れか寄りし
君まつと踏みし夕べに
いひしらず沁みて匂ひき
今はとて思ひに病みて
君が名も夢も捨てむと
なげきつつ夕わたれば
あゝ うばらあとも とどめず
小板橋ひとりゆらめ


旧杉山家住宅(富田林市)

富田林市寺内町にある旧杉山家を紹介します。
寺内町には今も往時を忍ばせる町屋が多く残っています、杉山家は寺内町創立
以来の旧家で江戸時代中期には酒蔵業を始めて大いに栄えました、明治時代の
女流歌人・石上露子(いそのかみつゆこ)の生家でもあります。
現在は富田林市が管理をして内部を公開しています、

旧杉山家住宅:大阪府富田林市富田林町14−31

2018,03,18  10:33 AM








4月6日:41143歩

寺内町(富田林市)

3月18日に散策した寺内町を紹介します。
富田林寺内町は、永禄(1558~69)初年頃、興正寺の門跡証秀上人が
富田の荒芝地を銭百貫文で所得し、近くの4ケ村の庄屋株各2人、計8人
に興正寺別院の建立と畑屋敷、町割などの建設をしたのがはじまりとさ
れています。
現在も創建当時の六筋七町の町割りや、重要文化財旧杉山家住宅、仲
村家住宅など往時の繁栄を偲ぶ重厚な町家が数多く残されています。
また、大阪府内で唯一の重要伝統的建造物群保存地区に選定されてい
ます。

寺内町(富田林市)

2018,03,18  10:12 AM




日本の道100選顕彰碑

江戸時代の商家が軒を連ねる富田林市寺内町。その中心部を南北に結ぶ延長
約400メートルの城之門筋は8月10日の「道の日」を記念した「日本の道百選」に
選ばれました。(昭和61年、1986年)

近鉄 富田林駅から徒歩8分です。



4月5日:26156歩

美具久留御魂神社(富田林市)

富田林市の寺内町は以前見学したことがありますが、もう一度、探索したくなり
3月18日に出かけました。
つでにその近辺の神社を参拝しました。
調べたら大阪府神社庁に登録の富田林市の神社は7社ありましたが、寺内町の
近辺の神社3社を参拝しました。
最初に参拝した美具久留御魂神社を紹介します。

美具久留御魂(みぐくるみみたま)神社:大阪府富田林市宮町3-2053

2018,03,18  09:43 AM





                 美具久留御魂神社略記
 祭神  美具久留御魂大神(大国主神荒御魂神)
 創建の由緒
      祟神天皇の十年この地に五彩の巨蛇が現れて農民を悩ましたので
      天皇は親しく妖蛇の巣窟を見られ「大国主神の荒御魂の荒振るなり
      宜しく祀るべし」と仰せられて、祀らしました。
      その後、同天皇の六十年丹波国氷上の人氷香戸辺の小児に「玉荽鎮
      石出雲人祭真種之甘美鏡押羽降甘美御神底寶御寶主山河之水泳御
      魂静掛甘美御神底寶御寶主」という神託があった。天皇はそれをお聞
      きになって皇太子活目人彦命を遣わして、河内国支子に祀らせ美具久
      留魂神社を称えまつられたのである。

 沿 革
      当神社は歴代朝廷のご崇敬厚く、文徳天皇の嘉祥三年に神階従五位
      上を特受せられ、光孝天皇は河内大社の勅願を奉らせられた。
      また延喜式には官幣社に列せられ当国一の宮石川郡総社とも称された。
      南北朝時代には南朝歴代のご信仰厚く楠木氏も上水分社とともに
      当神社を氏神として尊信したので、兵乱の間にも朝廷は神領をよせられ
      あるいは社殿の造営を仰せくだされたりして御代の安泰を祈られたので
      あった。創建年歴は詳らかではないが平安朝末期には既に神域に幾つ
      かの神宮寺があり、香煙社澶にたなびき誦経の声、神山にこだましてまこ
      とに神仏感応の霊地となったが、鎌倉方の千早赤坂城攻めに西條城(貴
      志)と共に焼き払われ、再建されるも天正十三年(1585)豊臣秀吉の根来
      寺攻めのとき、当社もその兵火により千古の重宝は穀舎堂塔とともに悉く
      鳥有に帰した。
      その後豊臣秀頼に寄進により社殿は再建されたが、昔日のごとくではなか
      った。以後江戸時代三百年の間は僅かに民間の信仰によって社頭を支え
      ていたのである。
      明治維新後は近郷六箇村の氏神として現在に及んでいる。      

      悉く(ことごとく)  




4月4日:21359歩
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